2022年07月16日

連続ブログ小説「聖地の剣」(1)佐賀への帰還

こんばんは。
全国的にまた、新型コロナの感染が拡大傾向で、佐賀県の数値が高止まりしているのが、気にかかっているところです。

一方で、ここ数年の成果なのか、従前よりは対策も見えてきて、重症者も少ない印象を持っています。

私は2年半もの間、佐賀を語り続けながらも、郷里に戻れない状況が続きましたが、この度の“”が来る前に、何とか“帰藩”を果たしました。


――ある、佐賀出身者の“旅の記録”として、お読みいただきたい。

厳密に言えば親族にも会えていないし、帰省と言えるのかはあやしい。

いつやるか…と問われれば、しかないか。」
短時間の滞在だったが、判断は現在の状況から見れば正しかったようだ。

たしかに“コロナ禍”の問題もあるが、私の日々は次第にかつての仕事一辺倒の生活に近づきつつあるからだ。

そんな時、私は現在暮らす街で、郷里・佐賀への想いを語る者に出会った記憶が過(よぎ)る。たった数分の会話だったが、与えられた影響は大きい。
〔参照:「発心の剣」

あの時が「発心」だとすれば、まさに今は「修行」を積んでいるところである。


――おそらくは「人生のために、仕事をする」のであり…

よほどの天職に出会った方を除けば「仕事のために、人生がある」のではないのだろう。これは、自分に言い聞かせておく。

そして、なにゆえ私の能力では進める事も難しい「幕末佐賀藩大河ドラマ」を語りたいのか。



答えは“佐賀の風”に問うほかは無さそうだ。いま一度、私自身立ち位置を確かめるべく、佐賀へと発った。

その日、天気の予報はだった。急ぐ道中にも、降り注ぐ雨を目にしていた。


――「さが、さが~」と、構内にアナウンスが響く。

佐賀駅のホームに至る。駅名の看板には「かささぎ」。別名を“かちがらす”。「勝ち勝ち」と鳴くもんだから、とても縁起が良いと聞く。

最近は、個体数も減っている印象と聞くが、おそらく佐賀の人には説明も不要の“県鳥”である。


――当たり前だが、見る物すべてが“佐賀”だ。

普通の“佐賀県出身者”から見れば、当シリーズでの私の反応は、奇妙に感じられるだろう。

しかし「幕末佐賀藩大河ドラマ」を語りたい身であれば、ここは“聖地”への入口だと認識せねばならない。もはや、空気感からして違う。

なお数年前の私は、佐賀歴史にさほどの興味を持っておらず、強い郷土愛も発現していなかった。

ある意味、昔の方が“常識人”だったが、今となっては「ついに佐賀への帰藩を果たした!」とか、言い出す始末である。ここは暖かく見守ってほしい。


――「いま…間違いなく、佐賀にいる。」

この事実は、私の心を安んじた。相当、無理のあるスケジュールを組んだが、少し頑張れば帰って来られるのだ。

駅のホームには、佐賀日本一の数があるという、“えびす像”も鎮座する。しかもプラットホームにおわす“えびす様”は、「旅立ち」の名を冠するという。



以前も“コロナ禍”で移動自粛の真っ只中に、自由に佐賀で活動できた時期を想い出して「旅立の剣」という、“旅日記”を綴った事がある。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(1)佐賀への旅立ち

前回から見守られていたような気がして、えびす様一礼した。そして、写真を撮りそこなった。


――「…これだ。きっと、これが本来の私だ。」

一礼に集中し、写真は撮っていない。少々、間の抜けたところは否めないが、日々に霞みがちだった、“自分”を取り戻していく感覚がある。

こうしてえびす様の姿は本記事には載らないが、『さがファンブログ』では写真をよくお見かけする。これも佐賀城下では、お馴染みの風景なのだろう。

佐賀市内の人なら、すぐに見られる“旅立ち恵比須”だが、遠方から来ることで旅立ちという言葉にも感慨が生じる。

模様なのは仕方なしとして、数年ぶりの佐賀はわりと涼しげに帰還を果たした私を迎えてくれた。


(続く)





  
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2022年07月18日

連続ブログ小説「聖地の剣」(2)“表玄関”は工事中

こんばんは。
前回より急に始まった「聖地の剣」。“連続ブログ小説”と銘打った企画です。

第1弾のシリーズでは、2019年秋に実施した、佐賀での現地取材をベースにしていました。

その時も単なる2日間の記録を描いたものですが、「旅立の剣」というタイトルで“大風呂敷”を広げています。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(19)2日目の朝

当ブログ読者の皆様は、ほぼ佐賀県民または佐賀県に縁のある方でしょう。佐賀駅前のこんな見方もある…という感覚でご覧ください。


――ついに…“聖地”の入口である、佐賀駅に戻ってきた。

ホームからの階段を降り、改札口を出る。“新型コロナ禍”に阻まれ、この景色に出会うまで、随分と遠回りをした気がする。



右手に見える看板には「ようこそ、ブラックモンブランの故郷へ」という言葉とともに、チョコクランチアイスバーの姿。

九州のアイス業界に名を轟かせ、いまや全国各地への進出をうかがうと聞く。県内・小城市からの名品。出会えば心躍る、何とも頼もしい“同郷”の者だ。

画面右下に目を移すと「えきマチ1丁目」の表示。その下のショーケースには“佐賀みやげ”の定番商品が揃うのが見える。


――実際には、久しぶりの佐賀への帰還で、

私はかなり浮き足だっており、そこまで冷静に観察を行っていたわけではない。

行動できる時間は限られ、佐賀市内のメインストリート中央大通り沿いに範囲を定めていた。地理的に、佐賀城に向かうのは、有明海側に進むことになる。

しかし、駅前にも立ち寄りたい所はある。かつて大型スーパー「西友」があった場所に、今は「コムボックス」という複合商業施設ができているはすだ。

私は「西友」の跡地に残る、かすかな思い出を記憶の片隅にしまい込み、前に進んで行かねばならない。ここは、素通りできないようだ。


――南北に出られる、佐賀駅の入り口。

最近の佐賀駅には関連施設・周辺道路を問わず、盛んに工事があると聞く。西九州新幹線の開業だけでなく、大きいイベントが待つためという。

あとで聞いたが、2024年に佐賀で開催予定の国民スポーツ大会(国民体育大会より変更)を契機とし、駅南北入口の“愛称”が募集されているらしい。

全国から来るだろう選手・関係者にも、わかりやすい名称が望まれるようだ。


――しかし、私の感覚はこんな感じだ。

北側に出る…佐賀藩へとつながる“葉隠”武士の精神を湛(たた)える、史跡が点在する。→『葉隠はがくれ)の 山側』とか言いたい。

南側に出る…幕末初期から日本技術革新を先導し、“明治”の礎を築いた、佐賀藩の城下街。→『開明かいめい)の 海側』とか語りたい。

…とはいえ、これから佐賀来訪する方々に、わかりやすい愛称とするには、まったく「親しみやすさ」の要素が足りないことには、いくら私でも気付く。



――佐賀城下へと続く、南側の大通りに出る。

そこで2年半ばかり前には建設中だった、佐賀駅前の新たな複合商業施設「コムボックス」を初めて見た。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(20)その時、これから

こちらも、眼前の通路工事中だった。道幅は狭くなり、多少は歩きづらい。

しかし、駅前の整備も、今後に向けての動きだ。佐賀駅前エリアは、まだ本気を出してはいない。私はそう、受け取ることにした。


(続く)



  
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2022年07月20日

連続ブログ小説「聖地の剣」(3)疲れた心に花束を

こんばんは。
新型コロナの感染状況のニュースを見るにつけ、少し前に、一度“帰藩”しておいて良かった…と思うところです。

さて、前回で佐賀駅南口に出た私。

今回、無理やりに“帰藩”を果たしたため、時間は限られます。しかしながら、新しい駅前の商業施設「コムボックス」は見ておく必要があると判断しました。

「色々と気を遣うことが多い日常…、貴方癒してくれるものは何ですか?」という問いとともに、ご覧ください。


――私は佐賀が故郷だから、“観光”に来た感じではない。

これは私が書く“本編”や関連記事の舞台、いわば“聖地”である佐賀現地取材である。勢い込んで長距離を移動し、久しぶりの佐賀駅には到達した。

一方で、私には早くも“息切れ”が見られる。

日々の暮らしから来る疲労感の蓄積が、ここで、押し寄せてきたか。めげずに動いていく…そう簡単に、帰っては来られないのだ。

「…ここが、“コムボックス”の中心となるテナントか。」


――「さが風土館 季楽」、そして「A・COOP」という表示。

その名は『さがファンブログ』でも、時々目にする。JAグループ系店舗の一角のようだ。見るからに農産物に強そうなスーパーである。



佐賀が、農業に強い県なのは周知の事実だが、妙に生産量2位~4位ぐらいの品目が多い印象だ。何だか、惜しいのである。

1位を取っているかと思えば、みかん全体ではなく“ハウスみかん”の限定だったりする。贈答品にも通用する品質とは誇らしいが、一歩控えた感じがある。

私は佐賀県の“奥ゆかしさ”が素敵だと思う。但し、時折は目立ってほしい。

佐賀藩士(?)を名乗るに至って、「佐賀って、どこですか…?」という質問は、もはや、心理的に受け付けないのだ。


――そのスーパーの入り口に回ると、また意表を突かれた。

屋内通路側から見ても、そのインパクトは絶大。このマーケットは、エントランスに“花束”の出迎えがある構成を見せる。

都市圏のスーパーによく見られる、申し訳程度の生花売り場とは一線を画す、特盛りの“花畑”。

そのボリューム感に圧倒された私は、肩の力を抜いて苦笑した。

おかしな所で、佐賀に帰ってきた実感が湧く。この花束は通りすがりの私にも笑顔をもたらすようだ。



――「やはり…間違いなく、佐賀に来ているのだな。」

その花束は、最近では疲れが勝っている、私の心に一時の癒やしを与えた。

そして売り場を見て回れば、畳みかける佐賀名産の食品に「あれも買いたい、これも買いたい」となる。

ただ、取材の序盤大荷物を抱えるわけにもいかず、買い物については他日を期すこととした。


――「必ず、また“買い出し”に来る。」

売り場を一回りした私。幕末を語ろうとする割に、何ともスケールの小さい“決意”を背負って、次の区画に向かうのだった。



(続く)



  
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2022年07月23日

連続ブログ小説「聖地の剣」(4)開かれた窓から

こんばんは。
久しぶりに佐賀へと帰ったかと思えば、駅前の複合商業施設「コムボックス」の1階を見回って、時間を使っている私。

無駄な動き”と思われるでしょうか。きっと、これが後で効いてくるのです。この貴重な時間は、これから私の力になってくる…と信じています。


――JA(農協)系のスーパー「A・COOP」の向かい側。

一般テナントとも喫茶スペースとも、異なる趣きの空間が見える。先ほどから気になっている区画だ。に整然とカラフルな冊子やパンフレットが並ぶ。

では、書店なのかと言えばそれも違うが、地域性の強い“品揃え”。

しかし、屋内の通路に面した棚の小冊子は、“商品”では無い様子。一方で、物産販売も行うようだが、むしろ「展示する」方に力を注いでいる印象だ。


――ここは、観光の“窓口”たる拠点であるらしい。

その名は、『SAGA MADO』。

佐賀県内各地の、観光パンフレット冊子類が集積された場所。案内だけでなく、イベント・展示販売・手荷物預かり…など、その機能は多岐にわたるようだ。



その開かれた“”から見える景色が、佐賀県各地域へとつながっていく。そんなイメージだろうか。

“取材”が目的の私には、好都合な場所と見える。まとまった情報が得にくい、地域パンフレットから抑えていく。


――「ここは、“宝の山”だ!」

電子的に情報を集めることが容易である現代。なにゆえ、私は“アナログ”な冊子に、このように浮き立つか。

現地での「肌感覚を大事にしているのだ」と言えば聞こえは良いが、答えの1つは「私には、この方が楽だから」である。

印刷物は落ち着いて見られるためか、予期せぬ発見も多い。目標に突き進む“デジタル”な検索手法では得がたい、「情報に出会う」という感覚を持つ。


――私も、佐賀に関わる情報を記事にするので…

少し矛盾した事を言うが、現代は“情報の過多”により、心身のバランスを崩す人も多いという。

人間情報処理能力には限界があるはずで、かつての“佐賀の賢人”たちのような才能を持ち合わせない私には、取捨選択が必要になるのだろう。

いかに自身にとって有益な情報を得て、無益な情報にとらわれず、有害な情報を遮断するか…そのコントロールが難しいと感じる人も多いかもしれない。



――「おおっ!」ここで、私の目は1枚のパンフレットにとまった。

それは伊万里市周辺の情報。アニメ『ゾンビランドサガ』の舞台になった場所を1枚にまとめている。同作品のファンにとっては“聖地”を記した地図だ。

およそ1年前。私は第2期の『ゾンビランドサガ リベンジ』から視聴した。
〔参照(前半):「誰かが、誰かの“憧れの人”」

作中では、伊万里の出身で熱い気性を持つ“ヤンキー”だった、二階堂サキ(2号)というキャラクターが登場する。


――かつて、「居場所が見つからない」青春時代があったようで…

喧嘩に明け暮れる過去が描写されたのを想い出す。たしか、乱闘に飛び入る場面で舞台になっていたのは、伊万里市内に実在しそうな橋の上

地図では、その場面の舞台は「相生橋」と紹介されていた。なんとなく気になる風景も、意外と一つずつ調べるのは手間なのだ。

橋の名がわかってスッキリする。これは、私にとって有益な情報を得たようだ。


――こちらは、言うまでも無い話だが、

伊万里焼”の街だから、陶磁器のオブジェも映える。「縁起が良い」と有名なが実際に乱闘の舞台では困るから、そこは“物語”として楽しむべきである。

これは私が見た一つの例で、このように佐賀駅前に開かれた“”から各地域物語へと、つながっていく。

工芸・食品など特産品見本市としての機能もありそうな、この場所。私には、欲しい情報が集まった“宝庫”だったと語っておきたい。


(続く)


  
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2022年07月26日

連続ブログ小説「聖地の剣」(5)車上より、ご無礼を

こんばんは。佐賀駅に到着してから、概ね30分が経過。

地元にお住まいの皆様には、今ひとつピンとこないと思われますが、私の現地取材は大体、限られた時間との戦いになります。

観光地として佐賀を見た場合、どちらかと言えば「ゆっくりできる場所」を強調しているイメージです。

ところが、“聖地”として佐賀を訪れた場合は、これほどまでに忙しい…という、珍しい類型のレポートとしてご覧ください。


――「コムボックス」から、佐賀駅バスセンターに移動する。

また、『ゾンビランドサガ』の話題になるが、佐賀市営バスには、同アニメのイラストが全面を飾るラッピングバス・“フランシュシュ号”が存在したという。

厳密には、もっと進んで内装車内放送までコラボレーションした車両だったと聞く。事情を知らない人が乗ろうものなら、困惑すること間違いなしだろう。

同作品の熱烈なファンですら「公共交通で、この車両は大丈夫なのか…」と、ざわめくほどだった…という話もあるそうだ。



――例によって、私は“帰藩”できなかったうちに、

ゾンビランドサガ』仕様の特別車両の、現物を見る機会を逸したようだ。今年(2022年)1月までは走っていたらしい。

写真等で見る限り、そのバスの車体後面には「乗りますか?ノリノリですか?」という、とてもノリの良いセリフが記されていたようだ。

そして、このセリフは「佐賀の特産品・海苔と掛けていたのかもしれない!」という事に今頃、思い至った。


――「ああ、乗るとも。私も、バスに乗りますとも!」

話は横道に逸れつつ展開するが、佐賀駅バスセンターに着いた時点に戻る。

もちろん、その時に眼前の乗り場へと進み出でたのは、普通の佐賀市営バスの車両。しかし、時間の限られた私には、強い味方の登場と言える。


――そして、到着したバスの車両は空いていた。

ゆっくり歩いて、久しぶりの中央大通りを眺めたくもあるが、ここはスピード感を持って動くことが大事だ。

混雑時を外したとはいえ、乗客数が少ないのはゆゆしき問題だが、急がねばならぬ私にはありがたい状況だろう。

バスの乗車もスムーズ。座席も悠々で、すみやかに発進した。目指すは佐賀城方面。次の目的地は県立博物館である。


――車窓に流れる、久々の佐賀市内の風景。

本来なら、立ち寄りたかった場所があった。幕末佐賀藩の“賢人たち”の像が揃う『駅前まちかど広場』である。

バスは南に少し進み、佐賀市役所そばの通りを抜けて右折。そして中央大通りに左折合流して、そのままにある佐賀城の方面へと進む路線だ。



その中央大通りに入る直前だが、右手10名もの銅像が集う一角がある。

そこには、明治期にも活躍した“佐賀の七賢人”に、佐賀志士たちの先生枝吉神陽が集う。ここまで8名


――幕末の黎明期に活躍した2名の姿もある。

佐賀七賢人”の中心人物・鍋島直正の両側に控える。この2人が追加されているのが、渋好みである。

幕末の名君鍋島直正師匠で、佐賀藩建て直しの策を練った古賀穀堂

直正公の義兄で、日本近代化のトップランナー佐賀藩を、さらに一歩先から引っ張る役回りがあった、武雄領主・鍋島茂義

幕末期の佐賀藩大河ドラマになれば、この2人は“イケオジ”(格好の良い年配男性)枠の俳優さんで決まりだろう。


――以上、この広場には10名の賢人たちの姿があるのだが、

佐賀で、私が活動できる時間は短い。今回に至っては“先輩たち”の姿は、遠く車窓から追うのみ。

車上より、ご無礼をいたします!」
本来ならば、お近くまで“ご挨拶”にうかがうべきで、そうすれば“先輩たち”は、きっと私に何かを教えてくれるのだが…

私はそんな心持ちで、流れる景色を見つめた。

すると、バスの窓ガラスが、まるで「現代と、幕末期を隔てる“時間の壁”」に見えてくる感覚もあって、これはこれで面白い。


――『駅前まちかど広場』を、走るバスの車窓より望むわずかな時間。

私にはこんな声が、口々に聞こえてくるような気がした。

「まったく…お主は慌ただしい。もう少し、時は取れぬのか。」
おいの“出番”が、少なくなかね!?しっかり調べんばならんばい!」

それだけ、活き活きとした景色だが、あっという間にバスは左へと旋回し、その場を通過した。

今日も佐賀市営バスは、乗客を運ぶ“使命”を果たすのだろう。その足取りは頼もしい。速度を緩めず、中央大通りを南へと駆けてゆく。


(続く)


  


2022年07月29日

連続ブログ小説「聖地の剣」(6)バック・トゥ・ザ・サガ…?

こんばんは。
佐賀城方面へと加速していく、佐賀市営バス。その時は乗客も少なく、あまり停車もなかったため、よりスピーディーな印象です。

この中央大通り沿いには、県内各地の“賢人”たちの銅像が立ち並んでおり、流れる景色に思うところがありました。


――私は思った。「早い…、あまりにも余韻(よいん)が無い」と。

迅速にバスを走らせて、少し残念がられる。佐賀市交通局からすれば「そがん(そんな)事、言われても…」というところだろう。

駅前まちかど広場』にある“佐賀の七賢人”と、幕末の早くから異才を見せた3名先駆者たちの銅像は、もう少し見ていたかった。
〔参照:連続ブログ小説「聖地の剣」(5)車上より、ご無礼を



――大通りの銅像は、この場所だけではない。

雨模様だが幸いにして、涼しげな日だった。バスは追い風でも受けるかのように、順調に進む。

車窓からは沿道の両側に、佐賀県が誇る偉人たちの銅像の姿が見えては、過ぎ去っていく。


――まるで、時間を遡行しているかのような感覚を持つ。

バスは佐賀城の方角へと進んでいるのは、はっきり認識しているから、停留所を超えるたびに“幕末”へと年代が近づいているような気分だ。

冷静に考えれば、幕末期は、とても怖い時代だった。私も“本編”を書く中では、殺伐とした光景も描くところがあり、表現の仕方に迷うこともよくある。



――なぜ、そんな時代の事を考えてしまうのだろう。

私は“歴史好き”には分類されたと思うが、ここ数年まで、それほど幕末期には興味が強くなかった。

しかし、佐賀藩が、何だか地味だと思っていた私の故郷が…日本近代化を引っ張っていた事に気付いて、考えを改めた。

その“覚醒”は随分と遅くなり、時代は「令和」に至ろうとしていた頃だ。以来、私は佐賀県出身である事を、内なる誇りとして、今を生きている。

あまり語られて来なかった、幕末の黎明期から明治近代国家形成までの“もう1つ”の歴史。きっと私の答えは、佐賀で探さねば見つからない。



――流れる景色には、羊羹(ようかん)の名店も見える。

江戸時代を通じて、砂糖が運ばれた長崎街道。「シュガーロード」の異名にふさわしい景色が、菓舗の点在という形で、佐賀の伝統となっているようだ。

「時間があれば歩きたかったかな」という気持ちも浮かぶ。ただ、今回のようなスピーディーな移動も、まるで“時間旅行”のような感覚を得て、悪くはない。

そんな事を考えている間も、バスは淡々と距離を稼ぎ、かつて「四十間堀」とも呼ばれたという、佐賀城の広大な堀の端へと至る。


――この辺りで足回りの良さを見せた、佐賀市営バスと別れる。

「…やっぱり、バスに乗って良かった。」



慌ただしい“帰藩”。ここから手には、佐賀城を望むところまで来た。ここ数年のコロナ禍で、この“聖地”を訪れることもできなかった。感慨深いものがある。

佐賀城にはもちろん寄りたいが、この帰藩の目的は、ひとまず県立博物館の側にある。私は手の方に歩を進めた。


(続く)


  


2022年08月03日

連続ブログ小説「聖地の剣」(7)君よ、最短距離を行け

暑中お見舞い申し上げます。

連続ブログ小説」と銘打っているわりに、他の話題にも触れがちな私です。寄り道が多いと言っても良いのかもしれません。

ひとまず、この夏に入る前に実行した“帰藩”の話を再開します。佐賀駅に降り立ってから、1時間程度が経過した時点です。

「幕末佐賀藩大河ドラマ」をイメージすれば、“聖地”が満載の佐賀。予期せぬところで、いきなり主要登場人物の1人が、私の眼前に現れます。


――進むべきは佐賀城か、県立博物館か。それが問題だ。

私は佐賀藩士(?)として、左手にあるお城に参じたくなってしまう。しかし今回の目的は、右手県立博物館の側にある“維新博メモリアル展示”の方だ。

開催中に足を運べなかったものだから、どうしても2018年の「肥前さが幕末・維新博覧会」の空気に触れたい。


――この辺り、実際に会場に行った方々は…

少し優越感に浸る事が可能である。私は、まだ博覧会残像を追い求めているのだから。

そこそこに雨は降っていたらしい。博物館前の路面も芝生も少し濡れている。時折、小雨のパラつくものの、天気は持ちこたえている。

佐賀の誇る日本の西洋画家・岡田三郎助アトリエを横目に、入口へと向かう。



――ああ…もう少し、佐賀での時間がほしい。

館内に入ると、正面に行き当たるのが、博覧会の置き土産である、記念映像が見られるブース。

当時の博覧会場で上映されていた映像を見ることを楽しみにしていた。そう、コロナ禍佐賀と隔てられてから、ずっと願っていた。

ご覧になった方には、映像の中の「鍋島が動いた!」という旨のセリフを記憶する人もいるだろう。


――私が思うには「その時、歴史が動いた。」のである。

厳密に言えば、「勝負あった」と言うべきかもしれない。

ここで佐賀藩がやむを得ず、新政府側に付いたことで、戊辰戦争が“亡国の内戦”になる事は避けられたというのが、私の理解である。

ところで、上映時間までには結構、空き時間があった。



――それはパビリオンなのか、ブースなんだか…

私は、幕末佐賀藩を見せてくれるらしい博物館内の“白い構造物”の周囲を回ってみた。

次の瞬間。「うっ…!」と思った。ある人物が、私の方を向いていたからである。

「なにかと寄り道の多い、貴君にしては、今度はまっすぐ来られたようだな。」



――「もしや貴方は…!」私は意表を突かれた。

一段高いところから、周囲を見渡すような姿。それにしても白い…、白い大隈重信八太郎)である。こうして、期せず“ホワイト大隈”と相見える私だった。

私の見てきた限り、大隈重信の像は、佐賀市の中心部で他にも2箇所ある。

個人的には、『駅前まちかど広場』にある青年期の像を“グリーン大隈”と。『大隈重信記念館』の少しご年配の像を“ブロンズ大隈”と勝手に呼称する。


――まさに働き盛りの30代。そんな“ホワイト大隈”が見つめる先には…

大隈先生!まさか…見つめる先は、ですか?」
「そうだ、陸の道を進めずとも、あきらめてはならんのである!」



「…君よ!最短距離を行くんである。」

出た大隈。嫌な予感がする。「海の上を走るべし」とか言いますか。
鹿島の“ガタリンピック”じゃあるまいし。

お言葉を返すようですが、引き潮の時の有明海と同じに見てはいけません。相手は東京湾です!」
「そがん、恐れてはならんばい。我らには佐賀が培った“”があるんである。」


(続く)



  


2022年08月07日

連続ブログ小説「聖地の剣」(8)ある日、出会った…

こんばんは。
前回のラストから、急に「劇中劇」のような展開になりました。夏を迎える前のある日、佐賀県立博物館の中、“白い大隈”さんに出会った私。

明治初期の東京・新橋横浜間に日本初の鉄道を敷設するため奮闘した、大隈重信。諸般の事情が重なり、一部の土地には線路が引けません。

「ならば、海の上を走るまで…!」と計画を進める先頭に立っていた大隈先生は、東京湾を見据えていた事でしょう。

そこには“最短距離”を真っ直ぐに進む心と、佐賀藩出身者ならではの勝算がありました。



――「君も、佐賀の幕末を調べるなら、わかっているはずなんである。」

白い大隈”さんは新政府の中枢で、バリバリと働く年代の姿で力強い。

幕末には、蒸気機関を熱心に研究した佐賀藩。その経緯も知る、大隈重信近代国家には、鉄道敷設が必須であると確信していたようだ。

「…まさか、東京でもあれを行うのですか。」
「そうたい、あれたい。」

有明海の干潮時でも無いから、を渡るには足場がいる。しかも、大隈先生の話は、鉄道を通す計画だ。生半可な土台では足らない。頑丈な石造りの…

佐賀藩長崎砲台ですか…。」
「ご名答である。」


――よく、ご存知の方には語るまでもないが、

前回からの大隈先生との対話は日本初の鉄道遺構として、東京で発掘された「高輪築堤」の前日譚を意識したものである。



ここには、幕末期に異国船に備えて、佐賀藩が築いた長崎港台場整備の発想が活用されているという。

幕府も、交代で長崎を警備する福岡藩も動きを見せない。ならば…と、佐賀の殿様・鍋島直正が「佐賀藩だけでどうにかする!」と頑張って造った台場
〔参照(中盤):第8話「黒船来航」⑧


――長崎の島と島の間、すなわち海の上にも…

鉄製大砲を配置するために、当時最新の工法で海中足場を築く土木工事。佐賀が“表玄関”を固めた事で、日本欧米に対して何とか面目を保つ。

長崎港に佐賀藩台場が存在した事で列強による介入の口実を与えない…という効果もあったようだ。

「…さすがは、鍋島殿。その先見性が誇らしいです。」
幕末佐賀藩が培った力は、やはり明治期の基礎となっている。私は意気揚々とした。


――ところが一瞬、大隈先生に渋い表情が見えた気がした。

「ばってん、閑叟さまは、肝心な時に力ば使こうてくれんかった。」

「えっ、急に上層部批判ですか!?」
貴君がなかなか書かぬゆえ、つい先走って語り出してしまうのである!」

幕末が大詰めとなった頃、大隈重信は、不用意に政局に関わらない佐賀藩の慎重な動きに対して、大いに不満があったようだ。

この辺り、私はまだ“本編”で描ける見通しすら無い。時間も能力も足らないが、まだあきらめてはいない…。ただ、今の状況が続くと、道のりは相当に険しい。


※博物館内の「高輪築堤」説明パネルのイメージより

――この“白い大隈”さんの言いたいことは何だろうか。

海の上鉄道を通す。一見、無謀な挑戦を成し遂げたが、それも結果論だ。「君も、失敗を恐れてはならんのである」と語る姿にも見えた。

いきなり大隈重信が登場するとは、さすが“聖地”・佐賀。ちなみに大隈先生は、意外と来訪者の細かい話をよく覚えていたらしい。

こうして、私はとても覇気のある立ち姿の“白い大隈”さんに、後年、人気者となっていく雰囲気を重ねてみていた。


(続く)


  


2022年08月09日

連続ブログ小説「聖地の剣」(9)“醒覚”の紅茶

こんばんは。
佐賀県立博物館内の「高輪築堤」の解説コーナーにある、白い大隈重信像を見つめていた私。

賢人の銅像などの前で“会話”が始まる展開が多い当ブログ。正しくメッセージを受け取れているかはさておき、佐賀にはそれだけ充実した時間があります。

「な~んも、無かとこですよ…」と語られる事も多い佐賀ですが、“聖地”として見直せば、新たな一面に気付いて、価値観が変わるかもしれません。
〔参照:「なんもなか…日々に」


――博物館への到着早々、気持ちがざわついてしまった。

そうだ、まだ“メモリアル展示”の上映まで時間もあるので、一息入れよう。

博物館には、ミュージアムカフェが併設されている。落ち着いて昼食とまでは時間の余裕がなく、満腹になって動きを鈍らせるわけにもいかない。

少し考えて、佐賀みかんジャムのかかったソフトクリームと温かい嬉野紅茶をオーダーした。



――窓辺には、緑の木々に雨の降る…

博物館の屋内に入ってからのだった。ここでずぶ濡れとなれば、後の行動にいろいろと差しさわりが生じるので、タイミングが良かったと言えるだろう。

ガラス越しに見ている分には、目にもあざやかで潤いのある景色だった。

しばし後、ソフトクリーム紅茶が目の前に運ばれてきた。動き続けてきた私には、白いソフトにのる佐賀みかんジャムの爽やかな酸味に幸福感がある。


――そして嬉野紅茶を、一口含んだ。

「…これは!」
昔、見たグルメ漫画のような反応だが、予想外に味がまろやかだったのだ。

スーパーで買ってくるホットの紅茶と言えば、ある程度の渋みがある。それが紅茶の味だと思っていた。いま飲んだ嬉野紅茶は、それらと別の感覚だった。

この時、私は「紅茶嬉野(ウレシノ)と、それ以外に分類されるのか!」という整理に至る。そのぐらい、私には嬉野紅茶の味がスッと馴染んだ。

これも「嬉野と言えば、緑茶だ。」と、何ら疑う事もなく、生きてきたからなのか。「今までに知らなかった、嬉野があったのか…」と、何かに目覚めた感じだ。



――幕末期。長崎から輸出された、嬉野茶。

当時は“紅茶”の姿で、世界を駆けていたはずだ。こうして主目的に至る前にもまた1つ、佐賀の力を知る。

お茶海外での需要は高く、輸出は相当な量に上ったようで、佐賀嬉野茶だけでは到底足らず、九州各地から茶葉が集められたと聞く。
〔参照(後半):「主に嬉野市民の方を対象にしたつぶやき(前編)」


――きっと、こうした“和紅茶”の世界も、今後、深化していくのだろう。

また1つ、新しい扉が開いてしまった気がする。この、わずかな時間で、佐賀は私にどれだけのものを見せてくれるのだろう。

「ここで与えられたものは、見落とさず持って帰らねば」と、気を引き締めた。

…と、その意気込みは良かったが、「佐賀みかんソフト」と「嬉野紅茶」の写真を撮りそこなっていることに気付いたのは、ずっと後の事である。


(続く)


  


2022年08月17日

連続ブログ小説「聖地の剣」(10)遠き日のメモリアル

こんばんは。
ここ2回ほどは有田工業高校が気になって、また寄り道をしていました。

現在は、九州北部の大雨が心配なところですが、ひとまずは佐賀市内での「活動記録」に戻ります。

夏が来る直前に帰藩した主目的は、佐賀県立博物館にありました。明治維新150年を記念して、2018年に開催された『肥前さが幕末維新博覧会』。

その志を引き継ぐべく、この場所で“メモリアル展示”が行われています。コロナ禍で随分出遅れましたが、その「体感映像」は鑑賞することができました。


――佐賀駅の到着からは、概ね1時間半。

この間、駅前の商業施設「コムボックス」を見て回り、駅前バスターミナルより佐賀市営バスで移動。

佐賀城の手前にて下車。県立博物館に着くや、“高輪築堤”の展示に見入り、嬉野紅茶に癒やされる…と大体、こんな展開だ。

佐賀は「何もなかところ…」という話だけは聞くが、実際に見て回るには時間がまったく足らないと感じる。


――「さて、そろそろ上映のようだ。」

博覧会の体感映像を見るべく、暗いブースの中へと入ると、すでに幾人かの先客がいる。

意外だった。延々と再上映を繰り返しているはずだが、結構、見に来ている人がいる時間帯に当たったようだ。

この映像は、博覧会時の「幕末維新記念館」に来場した気分を味わえるように構成されている様子だ。



――ドーンと表示される“明治維新”。

その幕開けの時期に存在したであろう展開も、ドラマチックに映し出される。

鍋島が動いた!」
諸外国の視点を強く意識しており、日本人同士で争うことには否定的だった、幕末期佐賀藩

できれば国内では戦いたくなかったはずの、佐賀の大殿(前藩主)・鍋島直正決断を迫られた。その苦悩が映し出される。


――「もはや、戦いは始まってしまった。」

戊辰戦争の緒戦だった、鳥羽伏見の戦いは薩摩長州などの倒幕勢力が、勝利を収めた。

当時の情勢で、佐賀藩幕府方に肩入れし、もしくは態度を保留し続ければ、内戦は泥沼化していく可能性が高かった…と考えている。

会場のブース内には、鍋島直正決断の声が響く。大意はこうだ。
「なるべく強力な武器を使わず、なるべく戦を早く終わらせよ。」


――声が渋い。少し、ぞくっとするような良い演出だ。

佐賀藩が、新政府側に加わった。この決断に「これで勝負あった…」と感じた諸藩も多かったはずだ。

始まった戦いを終わらせる…この局面では、それが最善手だったのだろう。

西洋に近い先進地域、幕府寄りと見られた佐賀藩の参加で、明治新政府が、薩摩長州のみが占めるものではない…という見せ方もできたようだ。

第1場は、先ほどの展開が大詰めだったと思う。薩長土肥の一角になぜ肥前(佐賀)が入ったかの説明になっていた。



――“体感映像”と言うだけあって…

2018年(平成30年)に博覧会のパビリオンを訪れた来場者視点で映像は続く。会期中に足を運ぶことができなかった私には、ありがたい構成である。

この体感映像で見る限り、展示会場内の通路は暗く、さまざまな幕末の光景や情報が、映し出されていた様子で、興味深い。

開催時に来てみたかった…」という気分も高まるが、それは致し方ない。


――第2場は、佐賀藩の技術について。

黒衣の姿をした語り手(弁士)が、流れる映像を背景として、模型などを手に軽妙な口調で進める。見た目、デジタルアナログの融合という感じだ。

日本近代化のトップランナーとして、幕末の黎明期(夜明け前)から走り続けてきた、佐賀藩

鉄製大砲を造る反射炉、異国船に備えた長崎の台場、船舶等に動力を得る蒸気機関…と次々に技術開発を進めてきた。



――この「からくり劇場」の語り手は、佐賀藩の技術者のようだ。

長く先頭を走り続けた殿様・鍋島直正の背中を慕って、家来の技術者たちも、結果を出そうと苦闘する。

その見据えていた先は、未来日本だった。このような展開を見せられると、やっぱり私は涙腺にくるのだ。



(続く)



  


2022年08月21日

連続ブログ小説「聖地の剣」(11)“先輩”がつなぐ想い

こんにちは。
2019年(平成31年・令和元年)には、幾度か佐賀に“帰藩”していた私。

同年の秋に『肥前さが幕末維新博覧会』の“メモリアル展示”が始まりましたが、「体感映像」はまだ公開されていませんでした。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(33)涙のメモリアル

2020年(令和2年)の年明けには見に行くつもりが、新型コロナ禍が始まり、佐賀に帰れなくなった経過があります。

こうして、約2年半の待ち時間を経て「体感映像」を鑑賞することになりました。



――第二場「からくり劇場」を進める、“黒衣”の人物。

本来は、歌舞伎や人形浄瑠璃など伝統芸能の舞台上、見えていない前提で、裏方を務めるのが黒衣(くろご)と聞く。

しかし、幕末佐賀の「」(技術開発)を紹介する、この黒衣裏方はラストに、己の想いを叫ぶ。

「私も、連れていってくださ~い!」と大声で。進行を務めるだけではなく、この裏方感情も出すらしい。


――明治の近代化には、幕末の佐賀の影がある。

「それで、“黒衣”なのか…!?」
近代化を進める工部省には、とくに佐賀出身者が多かったと聞くが、功績のわりに目立たず、技術者たちは自分の手柄を語ることも少ない印象がある。

幕末期には佐賀藩技術者として、佐野常民スカウトを受けた、久留米の田中久重や京都の中村奇輔、舞鶴の石黒寬次など他地域の人物もいた。
〔参照(中盤):「なぜ、“関西人”の友達が多いのか?」

機密の保持は細心の注意を払うが、高度な技術人材は外部からも登用する。時代を先取りした、オープンイノベーションだったという評論も見かける。


――舞台袖へと走り出す、黒衣が追いかけた背中は…

自ら率先して質素倹約しながらも、西洋に追いつくための技術開発には投資を惜しまなかった、名君・鍋島直正の後ろ姿だろうか。

明治初期の展開を知っているので、こう描かれると余計に胸に響くのだ。

この畳みかけてくる演出。さすがは、目標数値の来場者があったという、2018年『肥前さが幕末維新博覧会』の“メモリアル”だと思った。



――第三場「賢人ラウンドシアター」

ここでは「」に焦点があたる。“佐賀七賢人”たちが対話する企画だった。

とくに佐賀県民もしくは、佐賀出身者にとっては、大先輩たちの座談会の場に居合わせたような臨場感があるだろう。

殿鍋島直正の呼びかけで、再び集結したようにも見える佐賀七賢人藩校弘道館時代の思い出を語っている。

当時、藩校の責任者には、佐賀藩のナンバー2だった鍋島安房という人物が務めており、「学校を、とも思うように」と述べていたらしい。


――そんなに“アットホーム”だったか、佐賀藩の学校。

成績が悪かったら、役職に付けない」という厳しい一面も知っているが、賢人たちも藩校での生活に馴染んでいたようだ。

そして在校時に議論がヒートアップすると飲みかけの茶をこぼす癖のあった、江藤新平のエピソードが語られる。

この思い出には「藩校を家と思うのは良いが、くつろぐにも程がある!」とばかりに、周囲からなかなか手厳しいツッコミが入っていた。
〔参照(エピソードを転用)第18話「京都見聞」④(湯呑みより茶が走る)


――皆、声が渋い。良い声優さんが配役されているのか…

そんな藩校だったが、保守的な教育内容が肌に合わず、乱闘騒ぎを起こして退学したのが大隈重信佐賀の七賢人最年少で、最も遅くまで生きた。

幕末佐賀藩を見つめる企画には、最終走者のような立ち位置の大隈から、現代の私たちへの問いかけがなされる事が多い気がする。

別に聞いた話だが、この“佐賀の七賢人”という言葉は、昭和50年代頃から語られ始めたようだ。



――知られざる誰かが、“バトン”をつないできた。

佐賀市内の神野公園に、江藤新平が建ったのも昭和50年代だと思う。
〔参照(写真):「あゝ司法卿」(第17話プロローグ)

半世紀ほど前に、佐賀の先人を忘れず語り継ごうとした、当時の“先輩”たちの努力があったのだろう。

こうした先輩から後輩への蓄積があって現代に至り、平成の終盤には博覧会としても結実し、令和から動き出した私にも影響を与えている。


――博覧会全体での来場者数は、224万人と記録がある。

第四場「ことのは結び」では、来場者たちが己のことばで振り返りを行い、自らの「」を各々で確認する仕組みになっていた。

何もなか…と思っていた佐賀が、かつて、ここまで活躍していたとは。」
映像を見る限りでは、感激の涙を流した人も多かった様子だ。

来場者の心のどこかに、この日の感動は残ったはず。ここから、佐賀先輩として、の世代にバトンをつなごうと決意した人もいたのでは…と考えている。


(続く)


  


2022年08月25日

連続ブログ小説「聖地の剣」(12)泣くことが上手くない

こんばんは。
県民性”の話で、佐賀県の人は「何を考えているか、内心がわかりづらい…」と聞いたことがあります。

感情を抑えて生きる…それも、佐賀らしく、“葉隠”的に美しい感じもするので、この気質は嫌いではありません。

しかし、時には想いを表出することがあっても良いのでしょう。それが、未来につながる事もあるのですから。



――ようやく、博覧会の「体感映像」を鑑賞できた。

肥前さが幕末維新博覧会』が閉幕してから、約3年半メモリアル展示が始まってからは、概ね2年半

第一場「幕末維新」体感シアターに始まり、第四場「ことのは結び」までを来場者の視点で追った映像。

私には、たしかに2018年(平成30年)の佐賀熱気が伝わってきた。


――「見に来てよかった…。」

佐賀県立博物館1階のメモリアル展示“幕末維新記念館”。

これは個人の感想であり、一般的な効果を保証するものではない。特に遠路はるばると来る価値については、人に依ると言えよう。

時に涙腺が緩むような感覚もあったが、映像だけでここまで感情移入できるの人はそう多くないかもしれない。



――実は、二本立てだったメモリアル展示。

この日の空は、模様だ。さほど、屋外で動き回れそうにはない。

体感映像」に続き、“ドキュメンタリー映像“もあらためて鑑賞することにした。「受け継がれた想い」というタイトルで、こちらは以前にも見たことがある。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(33)涙のメモリアル

映像は、2019年(平成31年)の1月に閉幕した、『肥前さが幕末維新博』の最終日を中心に綴られる。

私は行けなかった。この時期には、仕事以外のことは、ほとんど覚えがない。かろうじて、大河ドラマを視聴した記憶は残る。


――2018年(平成30年)大河ドラマ『西郷どん』では、

佐賀藩
出身の江藤新平〔演:迫田孝也〕がすごく印象深かったが、その出番はわずか1か月ほど。

たしか10月頃だったかと思う。『西郷どん』には、大木喬任〔演:濱田嘉幸〕と大隈重信〔演:尾上寛之〕も登場していた。

こう書くだけで、「やはり見たいぞ!幕末佐賀藩が主役の大河ドラマを!」と、高くを突き上げてしまう…そんな感じの私である。

その時期には博覧会も、まだまだ絶賛開催中で、佐賀では、さぞ盛り上がっていたことだろう。


――そんな、私の“残念”はさておき。

佐賀市内の中心街に久しぶりに戻ったかもしれない、往時の大にぎわい

のべ224万人来場者数といえば、佐賀県人口3倍に届いてはいないが、その水準にも近づこうかという大盛況ぶりだ。

きっと、この博覧会の存在を、大切に感じていた方々も多かったのだと思う。



――映像に登場する来場者の目にも、光る涙が。

こちらまで、もらい泣きしそうだ。博覧会の最終日も「いま一度、佐賀幕末明治期の偉業を記憶に留めたい」と、多数の人々が考えたのだろう。

当時はまだ“”を気にすることもなく、人々集うことができた。

暮色が深まる中、フィナーレの場に駆けつけた来場者たちからは、博覧会日々との“別れ”を惜しむ様子がビリビリと伝わってくる。


――ここで、手嶌葵さんが歌唱する『一番星』が流れる。

「頑張りたいのに~♪こたえたいのに…どうして、出来ないんだろう~♪」

私はドキュメンタリー映像自体は見たことがあるが、今回の違いは、博覧会のイメージソング歌詞を、ハッキリ意識してしまっていることだ。

幕末期の技術開発には失敗も多かった。あきらめずに見守る殿様鍋島直正期待応えようともがく、佐賀藩技術者に捧げるに聞こえてくる。

私の解釈も、たぶん博覧会の趣旨とは合っているので、そのような効果も意図しているのかもしれない。



――涙腺は緩む。ただ、私は素直に泣くことができない。

少々、人生に無駄な辛抱が多かったのか。外にいると、涙をこらえる癖がついてしまっている。

だが、こういう時は感動のままに、映像の向こうの来場者を分かち合った方が良いようにも思う。

こうして、私がメモリアル映像を鑑賞していたのは1時間ほど。その間にも降り続いていたは、いつしか上がっていたようだ


(続く)




  


2022年09月08日

連続ブログ小説「聖地の剣」(13)鉄路、海をゆく

こんばんは。
さがファンブログ』でも、秋の便りを見かけますが、今年も残暑は厳しいものがあります。

まだ、夏前佐賀に“帰藩”した旅日記は続きますが、この道のりは「忘れ物を取りに行く話」でもありました。
〔参照:「序章・“忘れ物”を取りに行く話」

2年半の待ち時間を経て、主要な目的だった『肥前さが幕末維新博覧会』のメモリアル映像を鑑賞し、1つめの忘れ物は回収できました。
〔参照:連続ブログ小説「聖地の剣」(12)泣くことが上手くない

ここからも、佐賀城周辺のごく狭いエリアでの展開が続きます。


――都合よく、雨は上がっている。

…とはいえ、足元には水たまりが見える。先ほどまで結構、降っていたらしい。

佐賀駅に到着してから、3時間ほどが過ぎた。滞在できる時間は極端に短いので、この晴れ間は貴重である。

まずは、先ほど博物館から窓越しに見えていた“高輪築堤”を移設した現物を見ておきたい。



――わかりやすい、案内表示があった。

周囲は工事中ぬかるんだ道を歩む。なかなか進みづらい。私とて、ある意味では佐賀に背を向けてきた“脱藩者”。

険しい道のりを、覚悟せねばならないのかもしれない。

佐賀への道が、そがん簡単に開かれると思うてはならんばい。」と諭されている、そんな気もする。


――やはり、その道は平坦ではない。

だが、目的地はすぐそこだったので、それ以上の関門はなく、あっさりとたどり着いた。「鉄の道を開いた者」大隈重信の故郷、佐賀に凱旋した鉄道遺構だ。

石垣の上には鉄のレール明治初期に海を走った鉄路の浪漫が感じられる。明治5年(1872年)9月に開業式典が行われたという、日本初鉄道



新橋横浜間を走り、そのうち、汐留から品川に向かう区間が陸軍の土地で通してもらえず、2.7㎞海上を走ったという。定めし絶景だったと思う。

「これが、佐賀が頑張ってきた“近代化”の成果。その一つなのだ!」
そう、私は何もしていないが、異様に誇らしさをおぼえる。

雨上がりの“高輪築堤”。「ああ、佐賀県出身で良かった…」と感慨にひたる。


――ごく、まれにしか帰っては来られないが、

幕末の佐賀藩を調べることをきっかけに、どんどんと佐賀県に関する知識が強まっていく私。

「あの書籍に載っていた史跡」「ブログで見かけた風景」「この前、テレビで放送された場所…」など、私にとっては見るべきものが幾らでもある。

この辺りは、たぶん普通の佐賀県出身者とは異なった感覚だと思う。



――私にとっては、もはや“聖地”と呼ぶにふさわしい。

若い時に気付けば良いのだが、歳を取らない目が覚めないこともある。

佐賀県を舞台としたアニメ作品の主題歌に「枯れても走ることを、命と呼べ」という一節がある。

この際、いつだって遅すぎることはない…と考えることにしている。
〔参照(終盤):「熱すぎる SAGA」


(続く)

  


2022年09月13日

連続ブログ小説「聖地の剣」(14)泥をすすって花の咲く

こんばんは。
佐賀城公園の一角での話が続きます。博物館を出て、すぐに“高輪築堤”の再現展示に到達した、私。

当時は“築堤”の周囲が、整備中で工事の真っ只中。雨上がりで、水たまりも多くありましたが、心は晴れ晴れとしています。

南の堀端へと抜けると、水辺には一面の蓮(ハス)が生い茂っていました。



――“四十間堀”とも呼ばれる、北堀には及ばないが…

それでも結構な幅があるはずの、南堀。ほとんど水面が見えていない。

見渡す限り、(ハス)のの緑が覆っている。植物の生命力を感じる“青さ”。なかなか壮観である。

多久市の二千年ハスの例も聞くところで、の種子には時を超えていくようなエネルギーを感じる。


――佐賀平野には、もとは有明海だった湿地帯…も多い。

神埼市クリーク(海の名残りの水路)でも、かつてはが隆盛したが、以前ほどの勢いが無いという話も聞く。

これは、外来生物(カメ)の影響であるらしい…と同市の広報誌で見かけた。色々と考えさせられる。
https://static.saga-ebooks.jp/actibook_data/c_kanzaki_2022_09_202209050000/HTML5/pc.html#/page/24(「市報かんざき」9月号)※外部リンク

一方で、食用になる蓮の地下茎であるレンコンでは、佐賀県は代表的な産地としてプレゼンス(存在感)を示している。


――近年、佐賀県としては、茨城県に次ぐ2位をキープ。

こちらも伝統的な産地、3位の徳島県と競っている年が多いようだ。県内では、白石町が市町村別ランキングでも10位以内に入る健闘を見せる様子。

そして、佐賀県レンコンは味の良さで知られる。しかし、飛び抜けて高級品を誇るでもなく、親しみやすさと質の高さを両立している印象だ。



さて、いろいろと後日に得た情報を語ってしまったが、当日の佐賀城では私はただ南堀を渡る、雨上がりのに吹かれていた。


――「なんと、贅沢な時間か。」

降り続いていた雨が打ち水となり、夏の近づく時期の暑さも無い。堀を渡る涼風、柔らかな光の前に開けたハスの水辺を見ていた。

天国」のような穏やかさと形容しようか。蓮の花は、仏教思想と強く結びついているから「極楽」と著した方が良いのかもしれない。

まだ、この時期は、蓮の花の見頃ではなかったようだが、これで充分だ。そこまでは欲張らない。


――風のわたる、南堀の向こう側には

佐賀七賢人”の中でも、博識人格の高潔さで知られる、副島種臣生家があったという。

副島種臣実兄には、佐賀の賢人たちの師匠枝吉神陽がいる。そのため近辺には、この兄弟実家があったということになる。

両者の実父は、枝吉南壕という名で知られる。眼前の景色を見ると「“南壕”とは、南の堀…そのままの名だったのか。」と実感する。



――“聖地”である佐賀城内で思索する時間は貴重だ。

幕末佐賀藩大河ドラマ」のイメージを、私なりに綴っていく“本編”。

断片的に浮かんでくる映像では、もっと魅力のある物語が描けるはずなのだが、その筆致には、いつも何かが足りていない感覚がある。

例えば、先ほどの副島種臣を、私が書くと「ただ、悩み深い人」として登場してしまう…印象がある。
〔参照(終盤):第5話「藩校立志」⑥


――だが、深い苦悩が伴う人生だったのは、事実かもしれない。

枝吉神陽は、強烈なカリスマ性を発揮して、江戸に留学すれば、各藩の誇る秀才たちの中でも、指導的な立場として存在感を示した。
〔参照:第4話「諸国遊学」⑦

また尊王攘夷思想の本家・水戸藩(茨城)の藤田東湖とは、“東西の二傑”である学者として並び称されたとか…

長州藩(山口)の吉田松陰からは「九州に行ったら、是非会うべき人物」と評されたとか、様々なエピソードが続く。
〔参照:第7話「尊王義祭」⑧


――“倒幕”に、功があったというよりは、

近代国家の基礎を築いていった佐賀の志士たち。

本編”に登場していない人物も含めて、また文系・理系問わず、枝吉神陽門下生の名が連なっているのだ。

自身は、西洋の学問に直接触れずに国学を極めながらも、“日本の近代”を、まとめて育ててしまったような枝吉神陽



――実兄が、これだけの傑物であれば、

副島種臣がいかに秀才として頑張っても、見劣りは否めなかっただろう。

幕末期。京の公家から期待された役割を果たせず、江戸では自分を頼っていた後輩を救えず。そして…、副島苦悩は続く。
〔参照:第15話「江戸動乱」⑪(親心に似たるもの)

賢人の中の賢人」と言っても過言でない枝吉神陽だが、“佐賀の七賢人”には入っておらず、“八人目”として語られることが多い。

…これは、世を去った時期に起因すると考えている。書くのは辛くなりそうだ。


――「泥水をすすりながら、大輪の花を咲かせる。」

蓮(ハス)という植物は、そういう性質のものであるらしい。これは現代を生きる人間にも、少なからず必要な要素なのだろう。

なお、明治維新は英語で書くと「the Meiji Restoration」となるらしい。直訳すると、「明治“復古”」となる。

どうやら西洋諸国に対して、“革命”寄りのイメージで「明治維新」を語るわけにはいかず、「正当政治体制に戻った」と強調する必要があったようだ。


――新時代・明治への転換期に、

混乱の極まる新政府に加わり、近代国家の基礎づくりに真価を見せ始めた、肥前佐賀藩

国学を修めて朝廷の官制に詳しく、長崎では西洋の政治体制を学び、双方の仕組みを知る人物がいた。に通じる博識時代は必要としていた。

副島種臣について、どのように描くか…それは、私も日々の悩みを味わいながら、考えていくほかないのかもしれない。


(続く)


  


2022年09月17日

連続ブログ小説「聖地の剣」(15)天に願いながら書く

こんばんは。
9月17日現在、九州に直撃する方向で台風14号の進路が示され、日本列島を縦断するイメージで報じられています。

今度のは大丈夫なのか?」と報道で伝わる内容に不安も強まりますが、備えを行ったうえで、台風逸れるか、弱るか、通過するか、を待つほかなく…。

いつもの話を書くにも落ち着きませんが、願いを込めて、を開かずに済んだ雨の日の話を続けます。

なお、このシリーズは佐賀での活動を現時点から振り返るため、純粋な旅日記ではありません。過去現在記憶想いが入り混じるままに綴ります。


――今夏の少し前。時折、強い雨の降った日。

およそ2年半を隔てた佐賀への“帰藩”はタイミングよく進行する。屋外に出る頃には雨がやむ…という動きを繰り返していた。

とくに、私が「晴れ」を呼ぶ気質を持つわけではない。今までに帰省した際にも、どしゃ降りの日はあった。

ただ、夏前に実行した“帰藩”時は違った。ほぼ、まともな雨を避けられている。



――そもそも、私は一度も傘を開いていない。

ひょっとすると表裏一体で、雨でずぶ濡れだった方も居るかもしれない。

私にとっては、久しぶりの佐賀への帰還だったので、ご容赦いただきたい。

コロナ禍で帰れずも、佐賀を語り続けた私への“ご褒美”なのか…!?」
そんな気分になるほどの、不思議な空模様と感じた。


――この時も、偶然だったとは思うが…

まるで、何かの意思がはたらいているような天気だった。

天に願いが通ずるならば、此度の台風の被害も最小限に抑え込んでほしい、そう思うのである。



――ひとまず、話は戻る。橋の上から南堀を眺めていた時に、

ふと想い出した事があった。民放のテレビ番組で「佐賀城の堀から排水して、を探る企画があったな」と。

あるテレビ局の企画である。その時の出演者の1人、俳優の中川大志さんが佐賀城鬼瓦の一部を発見したことも話題になった。
〔参照:「佐賀でも、光る君へ…?」


――壮絶な展開の続く、2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』

同作にも出演中中川大志さんが、この辺りで堀の底を調べていたはずだ。その時には佐賀城堀端にも、多数の見物人が居た様子が映っていた。

ここで、東京から来ていた中川大志さんを見ていた方々は…おそらく「大都会に出なくても、地元でも好機をつかめる」タイプの人たちだと推察する。

幸運の持ち主であるか、情報収集に優れるかのどちらかだと考えるからだ。


――現在(9月)、大きな嵐の迫る週末を迎えたが、

もし無事に大河ドラマを視聴できる状態であれば、『鎌倉殿の13人』第36回「武士の鑑(かがみ)」に注目したい。

序盤から見栄えが良く、模範的な鎌倉武士だった畠山重忠〔演:中川大志〕。物語の展開上、畠山重忠としては最後の“晴れ舞台”が待っているのだろう。



――そこでは、佐賀城の堀底で頑張っていた、

中川大志さんの俳優としての勇姿もあわせて見られるのだと思う。

個人的には、次に大河ドラマで見られる機会…だけでなく、佐賀大河ドラマが実現した時にも、晴れ舞台が続く主役級での登場を期待してしまう。

他に、「佐賀城の瓦を拾ってしまった俳優さん」を思いつかないからだ。

…というわけで、少なくとも日常を守れるぐらい、ゆっくりテレビを見られる程度に、大過なく台風過ぎ去ることを、あらためて願うものである。



九州では「特別警報」発表の可能性を聞きます。皆様くれぐれもお気をつけて。



  


2022年09月26日

連続ブログ小説「聖地の剣」(16)還る場所へ 

こんばんは。
週末には、「日本一短い新幹線」と連呼されていた“西九州新幹線”が開業。

随分と変わったところで“日本一”の称号を得てしまいました。ある意味で良いキャッチフレーズだと思います。

まだ、長崎本線に“特急かもめ“が当然のように走っていた、夏前の活動記録を再開します。


――佐賀城の南堀から、本丸御殿へと移動する。

この日の朝に佐賀駅に到着してから、3時間半近くの時間が経過した。ふだんの生活では、これだけ充実した感覚の約200分間は、そうは無い。

ぽつぽつと小雨の降り始めるところで、“佐賀城本丸歴史館”へと入った。


――涼しげな、畳の香りがする。

久しぶりの“登城”と言うべきか。やや薄暗く、ひんやりとした空気感だった。

佐賀城の本丸御殿の一部再現となるこの建物。延々と畳敷きである。

この華美さが無い造りが良くて、真面目に仕事で行き交う佐賀藩士たちの姿が思われる。



――ゴンゴン! ガタガタ…

江戸期に、日本の表玄関・長崎警備担当だった佐賀藩

城下には異国船入港を知らせるが設置されていて、その“白帆”が長崎に来れば、佐賀がざわめく…という光景があったらしい。

あえて、何も無か(なんもなか)空間としたためか、私にはドタドタと慌ただしく行き交う佐賀藩士たちの姿が思われてならない。


――歴史に名は刻まずとも、

幕末期の台風の記録などを参照すると、佐賀藩資料は精緻(せいち)に記されていると聞く。藩士の能力も、相当高かったのではないかと考える。

質素倹約が気風となり、その節約ぶりから、「“さがんもん”の通った後は草一本残っとらん」と揶揄(やゆ)されたりもしたという。

遠大な目標のために、地道に頑張り続けた佐賀藩士、そして、高い生産力を示した佐賀の領民たち。



――この地を、“還る場所”と定めるならば…

「私には、挫(くじ)けている暇など無いのではないか。」

やはり、ここは私にとって、佐賀の中の佐賀。“聖地”の中の“聖地”なのか。

以前は何となく訪れていたが、幕末その後に続いた明治近代化を先導した場所と意識すると、全く見え方が違ってくる。


――コロナ禍に隔てられた2年半。

佐賀遠か…」と、望郷の想いを叫び続けてきたが、この間、私の生き方は“佐賀の者”として恥じなかっただろうか。

幕末佐賀藩を語り始めてから、初めて佐賀城を訪れた。その期間は、ほぼ同じ2年半で重なる。

おそらく変化したのは私の方だと思うのだが、実は佐賀も、少しずつ動き始めているのかもしれない。


(続く)

  
タグ :佐賀


2022年10月01日

連続ブログ小説「聖地の剣」(17)ご尊顔を拝し奉り…

こんばんは。
ほんの数年前、うかつにも今までの人生で気付かなかった、幕末佐賀藩の存在感を知って、佐賀藩士(?)を自称し、それを心の支えとして生きる私。

暑かった今夏に入る前のある日、「聖地の中の聖地」である場所に至ります。そこは、佐賀城本丸歴史館(本丸御殿)。

コロナ禍の間隙を縫って、概ね2年半ぶりに佐賀へと還り、“帰藩”を果たした記憶を軸に綴るシリーズです。


――佐賀への到着から動き回って、4時間近く。

ご挨拶”に出向かねばならない場所が、佐賀城の奥にある。ある程度、心も落ち着いたところで、お伺いしたかった。

お会いするのか?」といえば、佐賀お殿様である。第10代佐賀藩主・鍋島直正公。

そして、私が歴代佐賀藩主の中で、最も「大河ドラマで見たい」お殿様だと補足しよう。


――これはまず、幕末期に対象の年代を定めたためであり、

佐賀藩祖鍋島直茂公や、ご初代鍋島勝茂公の大河ドラマでの、ご活躍を拝見したい気持ちはもちろんある。

その場合、時代は戦国時代や江戸初期の設定となるはずだ。今のところは、『ねこねこ日本史』でのご登場を見たが、それ以外は記憶に無いのが寂しい。
〔参照①(視聴前):「“ねこねこ日本史”に注目」
〔参照②(視聴後):「“くまくま日本史”の感想」


この辺り…まだ語りたいことはあるが、ここでは余談になるため、佐賀城内の描写に戻る。



――“本丸御殿”を、奥に進むと次第に…

建材年季を帯びたものとなっていく。雨模様の一日だったため、灯りはあるものの、外からのが強くない。

薄暗く障子からの光が差す、畳敷きの廊下をゆく。もあるのか、ギシギシとどこからともなく音がする。

幕末と呼ばれた江戸末期の激動期に向けて、ゆっくりと時間を遡行していく…そんな感覚もあった。


――しばし時を経て、「御座間(ござのま)」へと至る。

おおっ…」と一瞬、入室を躊躇(ちゅうちょ)する。の差し具合と、浮かび上がる建具の陰影に、その時代を感じさせる風格があったためだ。

それもそのはず、殿様の居室である「御座間」は、当時の建物を別の場所に移築していたものを、元の場所に戻したと聞くのだ。

お主、“SR”と名乗る者だな。そこに居るのはわかっておる。これへ参れ。」


――そんな声も、聞こえてくる気がする。

殿御前に進み出でて、深々と座礼をする。
ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます!」

ひとまず、それらしきご挨拶を試みる。私の言葉を、ひらがなで表記すれば、「ごそんがん を はいし たてまつり きょうえつしごくに ぞんじます」となる。

たぶん時代劇の見過ぎである。文法として、正しい言葉遣いかはわからないが、私としては最上級敬意は込めているつもりだ。



――私が日々にジタバタと綴る内容も、お見通し…と感じる。

「そう固くなるでない。(おもて)を上げよ。」
「はっ!」
この間、数秒と言う感覚である。

「なにゆえに、お主は“半笑い”なのだ。」
「ようやく佐賀に戻れましたので、いまだ気持ちの整理が付きません!」

「久方ぶりに戻ったのだ。心持ちだけでも、ゆるりとすれば良い。」
「ありがたき幸せに存じます!」


――実際に声を出して、話をしたわけではない。

そのような対話があったような感覚があるだけだ。以前から一礼はしていたと思うが、佐賀を強く想うようになった今、その重みは全く異なる。

現実にかえってスッと立ち上がると、ガタガタ…と外に面した戸が、強い風に揺れ出した。次第に雲行きあやしくなるのが室内からも窺えた。

良い感じで、殿労(ねぎら)っていただいたように思ったのだが…」

殿の(肖像写真のパネル)の御前から退出したは、急に荒れ出した天候に、少し困惑を感じていた。


(続く)


  


2022年10月04日

連続ブログ小説「聖地の剣」(18)“ご不興”を買う者

こんばんは。
佐賀城本丸歴史館(御殿)の奥へと進み、殿の居室・御座間(ござのま)で、“ご挨拶”を行った私。

この日は断続的に雨が降っていましたが、座礼から立ち上がるや否や、急に強まるがガタガタと、御殿の建具を揺らし始めます。

こうまで天気急変すると、何だか胸がザワザワとしてきます。やや薄暗くなる部屋から、鍋島直正公の肖像パネルにさらに一礼をして退出しました。


――突如、嵐の予感がする。これは、危うい空模様だ。

偶然にしては、間が悪い。またたく間に荒天となったので、まさか殿の御前で、“ご無礼”があったのでは…とまで感じる。

幸い、しばらくは佐賀城の“本丸御殿”の展示をを見て回るところだ。

出先でのずぶ濡れ帰路を考えると避けたい。ひとまず雨粒を受けない屋内での行程を続ける。



――「もしや、殿の“ご不興”を買ってしまったか…?」

この荒れた天気が、殿ご機嫌によるものと仮定すれば、思い当たる節は、色々とある。

延々と語り続けてはいるが、私のような者が、佐賀歴史を声高に語って良いものか…と考える事もよくある。

しかし、私は幕末期に日本近代へと導いた佐賀藩の真価を知ってしまった。語らずにはいられないのも、人の性(さが)と言うべきなのか。


――なるべく“本編”を書く時には、

佐賀殿様鍋島直正の、名君ぶりが伝わるようには意識する。明治維新雄藩では、これだけトップ藩全体を掌握し続けられた例を知らないのだ。

一方で、愛娘を心配し過ぎて落ち込む、胃腸が悪いのに早食いをやめない、苦手のヘビが出れば挙動不審…と格好良くばかりは書いていない。

それが、鍋島直正という人物の実像に近いのでは?と考えるからだ。本来は明るい気性のお殿様だったという話も聞く。


――しかし、“肖像パネル”の直正公は、渋い表情をなさっていた。

藩主の就任直後から借金の返済に追われ、浪費をやめない先代や旧臣との調整に苦慮。そして、日本の表玄関・長崎港警備への重圧を抱えていた。

技術力に差がある欧米列強に立ち向かい、佐賀藩長崎に台場を築くなど独力で対策も進める。

幕府はなかなか動いてくれず、他の雄藩も勝手な行動をするので、話し合うにも、気苦労が絶えなかったらしい。

領民たちの貧困・災害・疫病に対策を取るのはもちろん、不祥事を起こす家来にまで責任を感じるものだから、大変な胃痛持ちだったと聞いている。



――「殿のお気持ちを、なるべくお察しして書くつもりだが…」

強い風に続いて、外にはも降る様子だが、今のところは、館内を見学中なので影響はない。

佐賀の藩校・弘道館の展示に至る。ここで、久米邦武(丈一郎)の説明パネルがあった。“本編”にもよく登場する、大隈重信の1歳年下の友人だ。

父親有田皿山の代官を務めた人物なので“有田の坊ちゃん”と表現した。なお、大隈とは老人になっても友達同士だった。
〔参照(前半):第12話「海軍伝習」⑦(有田の“坊ちゃん”)

構成上、久米大隈の神経を逆なでする発言をして、大隈がその度、何だか演説調反論するという展開で話を進めることもある。
〔参照①:第16話「攘夷沸騰」①(砂塵を呼ぶ男)
〔参照②(後半):第15話「江戸動乱」⑯(殿を守れ!)


――実はこの久米邦武も、あまり“空気を読まない”タイプと感じている。

藩校で首席になるほどの秀才だが、鍋島直正閑叟)が同座する勉強会でも、臆せずに持論を語ったそうだ。

直正公の“ご不興”を買うような事も言うので、周囲が久米に忠告したという。

久米っ…、そいは言い過ぎとよ。大殿さまの御前ばい。控えんね!」とかいう感じだろうか。

たまに不機嫌になるような意見を言う近習だが、鍋島直正は、久米賢さを認めていたようで、そのあたりも“名君”らしいな…と感じる。



――久米邦武の名は、昔、日本史の教科書でも見た記憶があった。

1891年(明治24年)にある事件が起きている。なお、私が学生だったのは、随分と古い話なので、現在の教科書に載っているかはわからない。

欄外の注釈に載っていたが、その記憶はあった。但し、久米邦武佐賀の人であることは知らなかった。

そこでは、科学的研究伝統的な思想との衝突の事例として紹介があった。

久米は「神道祭天古俗」と論文に著して、明治維新で力を得た神道家などの関係者から猛反発を受けたようだ。

帝国大学(東京大学)の職を追われ、のちに大隈の創設した東京専門学校(早稲田大学)で研究を続けたという。


――実務能力は高いが、生き方が不器用な“佐賀の者”。

欧米への視察では、西洋の“百科事典”とも評される『米欧回覧実記』を書き上げる。「空気は読まない」が対象の事物を正確に捉える人物という印象だ。

久米邦武は縁のある有田への思い入れが強かったようで、ヨーロッパを視察する時にも当地の陶磁器産業をつぶさに観察したという。

その経験が有田焼経営組織や販売戦略の近代化に活かされ、世界への雄飛を支えたとも聞く。

ここ数年、佐賀で少し動けば、いちいち感銘を受ける私。外は大雨となっているので、急がずとも良いのだが、やっぱり時間が足らないのだ。


(続く)



  


2022年10月07日

連続ブログ小説「聖地の剣」(19)雨音を聞きながら

こんばんは。
屋外に強い雨の降る中、佐賀城本丸歴史館の見学を続けます。

佐賀駅に降り立ってから、まだ4時間しか経っていませんが、無理やり作った日程なので、そろそろ帰り道を意識する状況となっていました。


――激しい雨、そして強い風。

「外に居なくて良かった…」
そんな事を考えながら、館内の展示をつぶさに見ておく。

何の因果か、私が佐賀に滞在できる時間は短い。これが人一倍の気合いで、見学をする理由でもある。

私にとっては、いつでも見られる…わけではないのだ。貴重な時間である。


――たとえ、わずかな時間でも…

佐賀の空気を吸って、その雨音に耳を澄まし、もっと佐賀を感じねばならない。

そして、同じ展示でも以前の感想と、いまの見方はまったく異なる。

例えば幕末期の、現在の佐賀県域の状況を示した地図。いまは長崎県域で、かつて佐賀藩だった地域も表示されている。



――私は、幕末期の「3つの佐賀」と呼ぶ。

現在の佐賀県域には佐賀藩だけでなく、唐津藩対馬藩田代領があった。
〔参照:「ロード・オブ・サガ ~三つの“佐賀”~(後編)」

特に佐賀藩には、県内各地に支藩自治領がある。そして、唐津藩の方では周辺に幕府領があったりと複雑だ。

以前の私は、同じ地図を見て「色々あり過ぎて、わかりづらい」と思っていた。


――ところが、今の私はこう考える。

「ひたすら近代化を進めて政局には中立的だった、佐賀藩。」
「幕末に老中格を出し、揺らぐ江戸幕府を支えた、唐津藩。」
「外国の脅威に直面し、攘夷派が勢力を伸ばした、対馬藩(田代領)。」

…おおっ、当時の佐賀は、まるで幕末の縮図!もはや、佐賀だけで一通りの物語になる!という感覚だ。



――やはり、佐賀藩を軸に語るのだが、

現在の佐賀県域に生きた人々、それぞれの視点は大事に描きたい。

立場は違えど、佐賀県各地域から出た“”ある人物たちが、激動の幕末明治期を苦悩しながらも駆けていく。

時折、綴っている“本編”も足らないところばかりだが、いつか、そんな話を私は書きたい。


――雨足は、さらに強まっている…

畳敷きの廊下が眼前にひろがる空間。私は椅子に座って一息をついた。厚い雨雲に覆われた、外が暗いことは館内からもうかがえる。

佐賀城本丸の敷地内に、バシャバシャと雨音が響く。目を閉じれば感じられる景色は、幕末期と、そう変わらないのかもしれない。

ふと、昨日までの仕事の疲れを感じた。
「小さい…、私はあまりにも小さい事で悩んでいるぞ。」

郷里と離れた地で、非力な自分を感じながら、もがき続ける日常。私とて、ある意味では戦っていないわけではない。


――「佐賀の殿様、私は…頑張れているのでしょうか?」

ぼんやりと天井を見ながら、そう問いかけてみる。遠くで、が鳴った様子だ。重い雨音が続く。

「…さように生き急ぐでない。しばし、ゆるりとせよ。」
都合の良い解釈かもしれないが、そう言われた気がした。



――仕事には厳しいお殿様だった、鍋島直正公。

ただ、部下の適性は見ていたようだ。佐賀藩では、“蘭学”で西洋を学ぶよう勧められても拒否する者もいたが、殿は彼らの自主性を重んじたようだ。

また期待をする者には、とにかく仕事を与える傾向はあった。但し、その配置を誤ったと悟った時は、自責の念に駆られていたように見受けられる。

私は先を急がず、この雨が止むまでは館内に留まろうと決めた。


(続く)


  


2022年10月16日

連続ブログ小説「聖地の剣」(20)雨あがる帰路に

こんばんは。
その時はたたきつける雨音が聞こえ、陽の光もしばし途切れたような荒天に。

佐賀城内の本丸歴史館で一休みし、詰めた行程で動き続けた疲れを取りながら、雨の様子を伺っていました。


――夏に入る前。わずかな時間の“帰藩”だが、

ここまで、佐賀天気には味方されてきた。この日は、一言でいえば「雨の日」だったが、私は一度もを開いていない。

屋内に入ればが降り出し、外に出る時には晴れる。不思議と感じるほどに、この展開を繰り返している。

ふだんの私に、晴れを呼ぶ気質は、特に無いと思うので珍しい経験だ。


――佐賀駅への到着から、5時間が経過。

「そのうちに晴れてくる。今日はには打たれないだろう。」

このような確信があった。佐賀の空にかかった“意思”を感じるような天候。

本丸歴史館への“御礼”を支払うと、入口の扉にあたる障子をスッと開けてみた。雨の降り方はいたって弱く、しとしとと雨粒が落ちる程度となっていた。



――すでに夕刻も近い、昼下がり。

「この程度のならば、もう屋外で活動できそうだ。」

本丸御殿”の表へと出ると、その玄関へと振り向いて一礼する。

周囲に水溜まりは随分とあったが、雨は意識せずとも良いぐらいだ。曇り空が陽射しをさえぎり、外気には潤いがあって、過ごしやすい気温となっていた。


――ひとまずの目的は果たした。ここからは、帰路なのだろう。

佐賀城で、当時のまま形を留める建物といえば「鯱の門」。立派な門構えは、幕末から現存する。

歴史番組の映像では、かつて教科書で学んだ「佐賀の乱」という言葉とともに、この門が紹介されるイメージだ。実は複雑な心境になる場所でもある。

先入観なく見れば、とても風格のあるで見応えがある、そこから外界を望む。どことなく、現実に戻っていく帰り道という感覚になる。



――「士族反乱」の1つとして語られてきた、

明治七年(1874年)の出来事は、「佐賀の乱」と表現するのが一般的だ。

一方で、明治新政府の出兵という事実だけを語り、「佐賀の役」(佐賀戦役)と表す例も見かける。佐賀城内の碑文は、たしか、この表現だったと記憶する。

最近では「佐賀戦争」という呼称もある。この表現は「佐賀士族に反乱の意図はなく、新政府からの攻撃に対する応戦だった」という見解と結びつくようだ。

開明的な佐賀藩より出て、明治初期には旧来の幕府の仕組みを理解しながら、近代的法制度を築くなど、すさまじい実務能力で活躍した江藤新平


――近代国家の基礎を築いた、佐賀藩士。

江藤は、新時代の制度を組み立てるため、江戸開城に立ち会った時点から、猛然と城内書類を集めたそうだ。

新国家の運営を考え、まず、立法行政司法の連続性を確保したのだろう。

他にそんな行動を取った人物は聞かない。城内の資金武器食料ぐらいに目がいくのが普通の状況で、次の時代組み立てまで見据えたがいた。


――こうした江藤の活躍は“裏方“として行われた。

その存在は、明治新政府にとっては幸いだったが、混乱に収拾が付いてくると、真っ直ぐな気性で、有能に過ぎる人物を疎む者たちが多く現れたようだ。

先ほどの出来事により、その活躍は“反逆者”の色に塗り替えられてしまった。この事が、後世佐賀県に与えた影響はかなり大きいと考えている。

例えば、若き日の私も、故郷の英雄に誇りを持つことができず、ただ教科書に載っていた通りの“不平士族リーダー”として、その名を暗記していた。



――少し背筋を伸ばして、その門をくぐる。

明治期の佐賀藩士たちはそれほど目立っていないが、基礎から作り上げる必要があった、新政府には不可欠だった実務能力を持ち合わせていた。

また、有能な幕臣たちが新政府に合流する道筋も、政治的に中立寄り幕府とも敵対して来なかった、佐賀藩の出身者が作っていることが多いと考える。

何だか奥ゆかしい気質らしく、自分の功績を大きく語らない。こうして佐賀の人たちの業績は、実現した結果だけ教科書に載っている。


――でも、なるべく上を向いて…

私は頑張った“先輩”たちが、いまいち知られていない状況をもどかしく感じることがある。それを偉そうに語るが、私も数年前まで「知らない側」だったのだ。

鯱の門を内側から見上げる。「今は勝たずともよい、負けないように」頑張っていこう…と思い定めた。

私には無くとも、同じところを叩き続ければ、そのうちに効くこともあり得る。その積み重ねが「佐賀への道」を開くのかもしれない。

聖地の門”をくぐり、佐賀城公園内に出てきた私は、何やら現代に還ってきたような気分を感じていた。


(続く)



  


2022年10月18日

連続ブログ小説「聖地の剣」(21)下も向いて歩こう、SAGA

こんばんは。
前回、なるべく上を向いて頑張ろうと、私にとっての“聖地”・佐賀城の本丸にある「鯱の門」から出てきた私。

佐賀を歩く時には上を向くばかりではなく、足元にも注意力が必要なのです。この日が、雨上がりで滑りやすいからでしょうか。

それもあるかもしれませんが、今回は「そこが佐賀だから!」が正解のようです。もう1つの「“聖地”のテーマ」も、あわせて語ります。


――雨上がりの、佐賀の空。

厚い曇り空が望むが、空気は快適そのもの。

鯱の門」をくぐる時には色々と考えたが、とても上向きな気分になっている。

そして、周囲をぐるりと見渡して、石垣の木々のコントラスト(対比)が目に優しい、佐賀城公園の景色を眺めておく。



――そして、佐賀の殿様・鍋島直正公の銅像を望む。

本丸歴史館でも“ご挨拶”をしているが、帰路への出立前にも、再び「ご尊顔を拝し奉れる」とは、ありがたいことだ。

幕末政局に出遅れても、なお“薩長土肥”の一角に入れるだけの力を持った肥前佐賀藩を作り上げた、第10代佐賀藩主の勇姿がそこにある。

ばかりに視線を送るでないぞ。足許(あしもと)にも意を用いよ。」


――「…私は、何かを見落としているのか!?」

ここで、はたと気付いた。私は右足を少し上げて、銅像の方向に歩を進めようとしていた。踏み下ろす前に、私の右足は浮いたままだ。

その足の延長線上を見ると、カラフルな“マンホール”が見えた。
「これが、噂の…!」

話に聞くことも写真で見たこともあるが、正確な位置がピンと来ていなかった。



――噂の『ゾンビランドサガ』マンホールである。

アニメ作品のファンにとっても“聖地”である佐賀県

私も当初は「さすがに、この歳アイドルアニメには、ついて行けんとよ。しかも、“ゾンビ”って何ね…?」ぐらいの反応をしていた。

そんな私だったが、第2期から視聴を始めたら、そこには、哀しくも前向きな“不死のアイドル”の健気な物語があった。

そして佐賀地域ネタもよく拾っており、これが楽しい。ただし「他県出身者にはわかるんだろうか…?」と思うことは、よくある。


――意外と、私には“感動もの”でもあった。

こうして、「存在自体が風前の灯火(ともしび)とまで言われる佐賀県を救う」というテーマで展開する、同作品への共鳴は続いている。

足元に見えるマンホールに描かれるのは、殿銅像前に控える、“ゾンビィ2号”(二階堂サキ)の姿だ。

生前は、佐賀県の西部・伊万里出身のいわゆる“ヤンキー”で、ケンカっ早い女子…という設定。

地域の選択に、日本三大喧嘩祭りの1つとも言われる『伊万里トンテントン』の存在が、影響しているかは定かではない。



――なお、この旅の始めの方で、

佐賀駅前の観光案内窓口『SAGA MADO』で、同アニメの“聖地巡礼用”の伊万里市内のマップも入手している。
〔参照(後半):連続ブログ小説「聖地の剣」(4)開かれた窓から

私は宙に止まった右足を後方におろす。マンホールは地面にあるものだが、“佐賀県宝物”と見れば、足で踏めるはずがない。

デザインごとに世界で1枚の貴重なマンホール。佐賀県の東部・みやき町で作られているらしい。

次に、同アニメのアイドルグループ・『フランシュシュ』のメンバーの中で、このキャラクターがここに配置された理由を考えた。


――“2号”というナンバーが付いているが、

二階堂サキは、グループではリーダーという位置づけだと聞く。

発する言葉のガラは悪いが、すごくピュア(純粋)でに熱い。「根は真っ直ぐだし、すごくいい子なんだけど…」という印象だ。

この辺りにリアリティー(現実味)を感じるのだ。近隣のドライブイン鳥めしが大好物らしい。

このように、伊万里地域色の強いキャラクターであるはずの彼女だが、なぜ佐賀城内のマンホールのデザインに選択されたのか。この場で、考えた。



――「殿の傍に控える、ケンカっ早い…人物。」

私が連想したのは、佐賀七賢人の1人・島義勇だ。幕末期に佐賀藩の任務で、蝦夷地(北海道)を体当たりで探索した。

都道府県魅力度ランキングで、“不動”の1位の座にある北海道は、その中心都市・札幌を創った人物としても知られる。

当地の都市計画は、の考えたところが基礎になっているため、札幌市役所と、北海道神宮2か所銅像があると聞く。

私の知る情報では「佐賀の街の記憶を、京の都の考え方で整理し、世界一を目指す勢いで、巨大化させたイメージ」が、大都市札幌の根底にあるようだ。


――ところで島義勇は、よく“強い立場の者”と衝突をする。

但し、幕末期には佐賀殿様・鍋島直正公に対して、「お役に立ちたい!」と忠義一徹な印象だ。

明治期に入ると、まさに現場のリーダーとして、北海道秋田開拓の指揮を執り、部下地元の人たちからは愛される。

ところが、現場の苦労を理解しない上役や、お金を握っている新政府財務部門に対しては、よくぶつかっている。

なお、秋田県では八郎潟干拓を目指した。実現は、昭和30年代頃だが、が居た75年前から計画を進めた方が値打ちがあったという見解もある。



――「情熱があって、少しケンカっ早い、人間味のある、現場のリーダー」

もしや、島義勇を意識した配置かもしれない。『ゾンビランドサガ』のアイドルグループ7人編成で、時に8人になったこともある。

明らかに「佐賀七賢人(八賢人)」を意識している様子だ。作品の“聖地”である佐賀県とのつながりは侮れない。

なお、同アニメのマンホール佐賀県の20市町の全域への展開が進むので、皆様の街に配置されるデザインにも何かの理由づけがあるのだと思う。

佐賀にはゲームなど別テーマのマンホールもあるようだ。上を向いて頑張ろうと思った私だが、どうやらこの街には、下を向いて歩く価値もあるらしい。


(続く)



  


2022年10月22日

連続ブログ小説「聖地の剣」(22)ドント・セイ・グッバイ

こんばんは。
も深まり、佐賀城公園イベントシーズンとなりましたが、私は今年も行けないようです。

そして、「私が見たい大河ドラマのイメージ」である“本編”も、第18話途中で、一旦、休止しています。
〔参照(本編の参考記事)第18話「京都見聞」⑪(佐賀より来たる者なり)

このところ諸事情により、夏前に実施した佐賀への“帰藩”の話を綴りますが、時折は本編に戻る“助走”も入れていきたいと考えています。



今回も、第10代佐賀藩主鍋島直正公の銅像前です。現代でも佐賀藩士(?)を見守っている殿様…のイメージでご覧ください。

幕末期に、列強の動きを注視していたので険しい表情の印象が強いですが、本来は明るいご気性殿だったようですよ。


――先ほどまでの大雨は、すっかり上がっていた。

先ほど、ふと下を向いて、はじめて気付いたものがある。
〔参照:連続ブログ小説「聖地の剣」(21)下も向いて歩こう、SAGA

「“ゾンビランドサガ”のマンホールは、初見でございました。」

お主も、佐賀を語らんとするならば、様々なところに目を配れ。」
「ははっ!」

私の旅日記には、よく登場する展開賢人銅像と出会うと対話が始まることが多い。但し、佐賀賢人たちとでは、感覚にも能力にも著しい差がある。

なお、私にあるのは、「今こそ、偉大な“佐賀先輩”たちの声が聞きたい…」という気持ちだけで、その想いを正しく受けとめられているかは、定かではない。


――背後には、「NHK」と文字の入った鉄塔が見える。

佐賀城本丸歴史館内の御座間(ござのま)でも、鍋島直正公にお会いしたので、この旅路では2回目対面といえる。
〔参照:連続ブログ小説「聖地の剣」(17)ご尊顔を拝し奉り…



NHK佐賀放送局は、もはや移転したと聞き及んでおります。」

まだ、建物に撤去の気配はない。いま殿様の銅像の後ろに見えるのは移転前の放送局のものなのだろう。

「さよう、新しきもの藩校の跡地の一角にあったか。後ほど見て参れ。」

「…殿鉄塔を背にしたお姿を拝する機会は、最後となるやも!?」
「そこが気になるか…なれば、存分に撮っておくがよい。」


――「NHK」の鉄塔と、殿様の銅像。

この絵面に、私は「幕末佐賀藩大河ドラマ」へのを重ねて見ていた。
〔参照:「誰の“視点”から見るか?」

新型コロナ禍”はまだ収束したとは言えないが、この時点で再びこの景色に会えたことは幸いだった。

この目にも、しかと留めておきます。」
「しかし、お主も妙なところに、こだわる者よの。」

「私は“大河ドラマ”でも、殿お姿を見たいゆえ、この構図は特別なのです。」
「そう語るならば、より気を入れて励むがよい。」



…そうだ。佐賀殿は、藩士のことは大切に思うのだが、仕事には厳しい。「たとえ微力でも、めげずに頑張れ…」と言われれば、仰せの通りである。

お主も落ち着かぬな。此度も、すぐに佐賀を発つか。」
「はっ。名残り惜しくはございますが、致し方ございませぬ。」


――厚い雲からこぼれる光が、柔らかい。

心なしか、佐賀大殿鍋島直正公の表情にも、ご機嫌の良さがうかがえるようだ。ここでまた、佐賀名君の勇姿を写真に収め、一礼をして下がる。

「折を見て、戻るがよい。余所からの目で、佐賀を見るのを怠るでないぞ。」
「はっ、ありがたき幸せ。」

「うむ。」

「ところで、もう一枚、お写真を撮りまする。」
「…うむ。やはり、落ち着かぬ者だな。」

「次は、いつ戻って来られるか、わかりませぬゆえ。」


――このように、私はたびたび振り向く。

幾度か振り返っても、佐賀が誇る幕末名君は、堂々とした姿を見せていた。

再び一礼をして、殿の御前から退出する。
「私は佐賀から発ちますが…“別れの言葉“は、言いませんよ。」

館内に居た時には雷雨もあったが、この日の佐賀天気は、どこまでもに優しかった。“さよなら”は言わない。想いは、ずっとこの場所にあるのだから。


(続く)



  


2022年10月26日

連続ブログ小説「聖地の剣」(23)見映え以上のSAGA

こんばんは。
殿様の銅像に見守られながら、佐賀城内だった公園を行きます。佐賀駅の到着からは5時間半が経過。

忙しい日は幾らでもありますが、これだけ密度の濃い一日、そうは無いです。
飲食もそこそこに動き回っていましたが、さすがに空腹感が出てきました。


――佐賀には、美味しいものがたくさんあるのに。

一度、博物館のミュージアムカフェに入ったきりで、動き続けてきた。

温かい嬉野紅茶も、佐賀みかんジャムの効いたアイスクリームも絶品だった。
〔参照:連続ブログ小説「聖地の剣」(9)“醒覚”の紅茶

「…そうだ、せっかくだから佐賀名物を食べておかねば。」



――いつだって、息切れ気味の“都市生活者”。

残念ながら、これがの日常である。「都会に出れば良い」と安易に考えるのは待ってほしい。得られるものもあれば、失うものもある。

その才覚気質大都会にこそ、ふさわしい人は良いが、私のように“残念な者”を数多く作り出してはならない。


――「故郷に錦を飾れる者」は一握り。

でも、錦は飾らずとも、旅立った者が還って来られる佐賀であってほしい。私は、まだ「佐賀への道」をあきらめない。

(うな)れ徒花(あだばな)、朽ち果てても進め」という心持ち。出典はアニメ『ゾンビランドサガ』の主題歌である。



――その新たな「佐賀の名作」を、放送してきた拠点。

佐賀の民間放送局であるサガテレビ1階の『JONAI SQUARE』。このカフェスペースには、ぜひ立ち寄っておきたかった。

意外と佐賀には都会的な印象と、落ちついた雰囲気を併せ持つお店が多いと思う。最先端ではないが、佐賀美的センスは結構、高い水準にあると思う。

わかる人には深く染み入る、その魅力度。たぶん「佐賀への愛」はランキングで語るものではない。


――ここは、佐賀名物を選ぶことにする。

シシリアンライスをお願いします。」

私は、ここぞとばかりに佐賀の誇る“B級グルメ”を発注した。しかし、この日はすでに売り切れていた。

夕方まで残っていると思うな…」ということか。「さすがは、人気メニュー」と得心したが、とりあえず他の商品を頼まねばなるまい。



――結局いたって、普通のメニューを注文した。

「では、カレーでお願いします。」

私は佐賀の物販や飲食店の接客が好きである。機械的でなくて、人が人を相手に話している感覚だ。オーバーに言えば、私も人間に戻れた気がする。

商品はすぐに来た。カレーなのだが、感じられるのはヘルシ-さである。シャキシャキした野菜。農産物が“精鋭”揃いの佐賀では、偽物は通用しないだろう。

ナッツ類のトッピングも良い食感。スパイスも出しゃばり過ぎず、ちょうど良い。



――みかんジュースの爽やかな酸味が、口の中で転がる。

「やはり…佐賀は、落ち着くな。」
もう帰路に入っているというのに、妙に心は清々しかった。

店内での飲食の間、外はが涼やかに降っていた。きっと、外に出ればまた、晴れてくれるのだろう。何とも都合の良い天気が続いている。


(続く)


  
タグ :佐賀


2022年10月29日

連続ブログ小説「聖地の剣」(24)シン・放送会館

こんばんは。
2022年(令和4年)5月よりオープンしたと聞く、NHK佐賀新・放送会館

佐賀城鯱の門近く、鍋島直正公の銅像の後ろに鉄塔が見えていたのが、放送会館。老朽化などの理由から建て替えが検討されてきたそうです。
〔参照:連続ブログ小説「聖地の剣」(22)ドント・セイ・グッバイ

しかし、旧放送会館の場所が、「佐賀城下再生百年構想」の対象エリア内で建て直しにくいためか、北堀の外に出た現在地に移転を決めたんだとか。

幕末佐賀藩大河ドラマを見たい!」と語り続ける私には、“聖地”・佐賀に建つ、NHK新放送会館は気になる場所でした。



――佐賀城の広大な北堀を渡る。

すでに帰路へと入っている私。再び雨上がりの道を、へ歩み出す。佐賀城公園内からメインストリートである中央大通りに戻ってきた。

ここは、かつて幕末期に広大な敷地に拡張された、佐賀藩の学校・弘道館があった場所。

近代化の礎となる人材を多数輩出し、明治新時代に直接つながったところが佐賀の藩校“弘道館”の特色だと考えている。


――なお、NHK佐賀の新放送会館は初見だった。

市民の交流拠点」・「災害に強い放送局」・「環境と調和した会館」の3つが、基本のコンセプト(考え方)だそうである。

城内から街なかへの移転で、賑わいを作り出すねらいもあるようだが、私が立ち寄ったのは、営業日ではなかったので、外から眺めるのみだった。

「…ここが、新しい佐賀のNHKか。」
ディスプレイに流れる映像を見て、ひとまず感慨にひたっておく。

ちなみに私のブログでは、テレビ局について語る時は大体、よく見ているNHKが基本の設定になっている。



――「私の望みに、強く応えてくれる」ことがあるのかは…わからない。

今のところ、地域色の強いローカル番組が、NHK佐賀放送局のラインナップとして紹介されている。

ところで、新・放送会館が、この場所にたどり着くまでにも、色々と曲折があったようだ。移転計画そのものは、10年以上前から始まっていたらしい。

ただ、現地に行った時点の私は、そこまでの情報は調べていない。
佐賀大河ドラマに決まりでもしたら、ここは“大盛り上がり”になるな…」


――真新しい放送会館を前にして、何だか期待感が高まった。

無邪気に語ってしまったが、仮に実現すれば、仕事にあたる関係者には、相当な労力がかかるのだろう。これは私でも、その大変さを少しは想像できる。

時代は違えど、かつて幕末明治に新時代の基礎を築いてきた佐賀藩士たちのように、影で努力をする者が居るはずだ。

これは、きっと現代でもそうだ。たとえ、スポットライトを浴びることはなくても、いつも誰かがどこかで頑張っている。

そして、歴史上の人物としては知名度は低くても、その仕事の結果教科書に載せている“佐賀の先輩”たちを、いまの私は知っているのだ。



――今から4年前。2018年(平成30年)には、

薩長土肥」の“肥前”だった佐賀では、明治維新150周年の記念行事が多く行われていた。

佐賀城下も『肥前さが幕末・維新博覧会』を軸として、各種イベントで賑わったという。中央大通りでもパレードがあって沿道は盛り上がっていたらしい。

その時期、まったく余裕のなかった私には、その“面影”が伝わるのみ。
見たかったよ、私もその場に居たかった…」と繰り返している。

都会”と呼ばれる場所で、それなりに気忙しく生きてきた。佐賀藩の価値に、気付くのは遅くなってしまった。そして、今だって自由には動けない。

でも、(シン)の“佐賀の物語”はこれから始まるのだ。私はきっと、その物語を見ることができるのだ。そう、強く思うことにしている。


(続く)

  


2022年11月02日

連続ブログ小説「聖地の剣」(25)舞いあがれ、バルーン

こんばんは。
およそ2年半の時を隔てた、佐賀への“帰藩”の話も終わりに近づいています。この旅のラストの立ち寄り先は『佐賀バルーンミュージアム』。

ちょうど、11月はバルーンフェスタの季節ですね。足元と周囲に気をつけて、秋の空を見上げてください。佐賀にしかない景色が、そこにあるのですから。



――佐賀駅到着から、6時間が経過。

帰藩は、を迎える前の季節だった。わずかな時間だったが、ひとまずの目的地は回り終えた。

ミュージアムは閉館時間も近く、見学はあきらめたが、ロビーで一息を入れる。トリックアートなのか、不思議な景色のもとで写真が撮れるスぺースがある。

小さな女の子が、空に続く階段バルーンが描かれたアートの前で、元気に飛び跳ねて、母親カメラのスイッチをパシャパシャと押している。


――きっと、この子には、“大きい夢”が見えている。

それは「自由に空を飛べる夢」なのだろうか。まるで、連続テレビ小説のような景色だ。

この時期の朝ドラは、まだ「空に舞い上がる」作品ではなかったが、そのような印象を受けた。

なかなか微笑ましく、「この街で健やかに、を育んでいってほしい」と思った。佐賀県子育てのしやすさでは高評価だと聞くことも多い。



――もうじき日常に戻っていくので、この旅路を顧みる。

ほぼ、佐賀駅前佐賀城下しか回れてはいない。本当は市内だけではなく、県内全域に立ち寄りたい場所が山ほどにある。

私も、をとった。いつも時間に追われる感覚が消えない。そして、頑張らねばならない状況でも、もう以前のようには、身体も動いてくれない。

一方で、幕末明治期の佐賀を思えば「…私も、負けられない」という気持ちが湧くことが、よくあるのだ。こうして、どうにか日々を切り抜けている。


――先ほどの女の子と、その母親はご機嫌で帰っていった。

「まだを追っている…という意味では、も“あの子”も、大差ないか。」

天高く上がっていく熱気球(バルーン)。これほど、上向きな気分になれる物体も、そうは無いのではないか。

以前、“本編”でアメリカ気球を見たという佐賀藩士の話を書いた。出典は不確かだが、象徴的なエピソードだと思って、そのまま使っている。
〔参照(後半):第15話「江戸動乱」③(異郷で見た気球〔バルーン〕)



――「志は、天に通ず」という言葉もある。

ミュージアムのロビーの高い天井に、バルーンのオブジェを見上げる。私には、佐賀には似つかわしい景色と見えている。

傍目(はため)には、疲れた人がボーッと上を向いている感じもあるだろうが、晴れ晴れとした心持ちだ。

そして、バルーンミュージアムの外には、佐賀長崎とつなぐ物語に関わる「もう1つ忘れ物」があった。


(続く)


  
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2022年11月06日

連続ブログ小説「聖地の剣」(26)もう1つの“忘れ物”

こんばんは。
ほぼひと夏を越えて書き続けた、わずか1日(約6時間)の佐賀での活動をもとにした話。

私は、この旅路で「“忘れ物”を取り返せたのか」と自問しますが、きっと、その答えは、これから書いていくほかはないのでしょう。

そして、この旅の終わりに出会った“ご夫婦”は、優しい表情をしていました。


――佐賀市内のメインストリート、中央大通り

佐賀県が誇る“賢人たち”の銅像が多くある。

その姿は、いつもに何かを考えるきっかけをくれる。写真に収めていれば、やがて見つめ直す機会が来るのだ。

やはり迷える“後輩”であるには、故郷・佐賀の偉大な“先輩”の助言が一番効くのかもしれない。



――2019年(令和元年)秋。このブログを始める直前の時期。

幕末明治期の歴史で“薩長土肥”の肥前とは、佐賀のことだと聞くけれども、どんな役回りをしたのだか、それまでの人生で意識してこなかった私。

しかし、この年。「日本近代化の影に、だいたい佐賀の存在あり」と大雑把ではありつつも、ハッキリと気付いた。

ボーッとした長い眠りから目覚めたかの如く、周辺情報を調べまくると、佐賀の先人たちの色々な活躍ぶりが見えて、面白い事このうえなかった。


――こうして近年、佐賀に“帰藩”しようものなら、大忙しとなっている。

早朝から食事もそこそこに大通りへと出て、メインストリートの銅像と黙しながらも対話し、長崎街道の空気に親しむ。

「その間、時の流れが変わる」という印象もあって、わずか数分でも、それなりに感得するところがある。

を投げ棄てるように、慌ただしく過ごしている日常。これほど充実した時間はなかなか持つことができない。



だが、この時も先行きを急ぐ中で、私は1つの忘れ物をしていた。

佐賀バルーンミュージアム』の存在感に気を取られ、その傍らに見えていた、ご夫婦の銅像に注目していなかったのだ。
〔参照(終盤):「私の失策とイルミネーションのご夫婦(前編)」


――記事を書く段階になり、「しまった!」と気付きがち。

たぶん、こういう細かい後悔を繰り返しながら生きていく。但し、それを取り返すことができるのも、また人生なのだろう。
〔参照:「私の失策とイルミネーションのご夫婦(後編)」

2年半の時を隔てて、佐賀に帰還した。件の“ご夫婦”像の手前に至る。
「先頃は、失礼をしました。このたびは、しっかりご挨拶に伺いました。」

石井亮一筆子夫妻の銅像。日本における「知的障がい児教育の先駆者」という肩書きが、一般的な説明になるだろうか。



――佐賀藩の重臣の家に生まれた、石井亮一。

時代はすでに明治へと移っていたが、とても成績優秀だった亮一は、鍋島家の奨学生に選ばれ、東京へと出た。

しかし、病弱だったため、佐賀出身者の多くがをつらねるエリート技術官僚になるための検査には、身体の壮健さが足らず、不合格だった。

曲折はあったが、亮一はそれでもアメリカ留学を目指した。

英語を習得するため、立教学校(現・立教大学)に入り、創設者のウィリアムズ主教を通じてキリスト教と出会い、女子教育者としての道を歩むことになる。


――“無償の愛”を学ぶだけでなく実践する、亮一

濃尾震災で親を失った孤児(孤女)が、人身売買の手にかからぬよう、救済に奔走したという。亮一が保護した中には、知的障がいを持つ子どももいた。

この出会いが、彼の進む道を決めたようだ。

当時の日本で知的障がいは全く理解されなかったが、亮一は「その子に応じた教育を施せば、その子なりの発達がある」と気付いた。



――隣に座る、石井筆子は長崎の大村藩出身。

大村藩を“勤王”の方針にまとめ、倒幕にも積極的に貢献し、明治新政府でも高官となった渡邉清の長女。

ヨーロッパ留学など華やかな経歴を持つ筆子だが、前夫とは死別してしまう。

筆子には知的障がいを持つがおり、教育の活動を進めていた石井亮一に娘たちの相談をした。

そしてバザーを開くなど一緒に活動するうちに同志となり、やがて“ご夫婦”となったようだ。


――この2人の物語、日本初の知的障がい児施設の創設へつながる。

残念ながら、昨年(2021年)に放送された大河ドラマ青天を衝け』の作中では、石井夫妻と、「滝乃川学園」が描かれる場面を見つけられなかった。

同作で主役だった、渋沢栄一も他界するまで理事長に就き、経営面を支えるほど、熱心な支援者だったので、登場を期待していたのだ。

その一途な心で、財界超大物も動かした、2人の限りなく優しい眼差しは、学園子供たちに向けられたものという。

石井亮一は、障がい児教育福祉については多くの教えを残すも、自分自身については、「を伝えて、を伝えず」の精神で語らなかったそうだ。


――見返りを求めない、真っ直ぐな“小さき者”への愛。

佐賀賢人には、強さだけでなく優しさを感じさせる方が多い。そして、やはり自分の功績をアピールしない人が多いのだ。

「…旅の終わりに、貴方のような“優しい先輩”に出会えて良かったです。」

奥ゆかしさと、一途な志の強さ佐賀県出身というだけのつながりで、とても真似はできないが、郷里の先輩には違いなく、私には誇らしい。

長く続けた、このシリーズも次回までの予定になる。そこでは、佐賀を発つ際の景色をお見せしたいと考えている。


(続く)
  


2022年11月10日

連続ブログ小説「聖地の剣」(27)同じ空を見ていた

こんばんは。
長々とお送りしました夏前の旅日記のシリーズも最終回。『さがファンブログ』を始めて、約2年半の時点でようやく実行できた佐賀への“帰藩”。

ブログ開始前の時期を書いた前作「旅立の剣」に比べ、様々な事を考えながら回りました。記事にする段階でも色々考えるので、どんどん構成は複雑に。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(40)いつの日か佐賀で

掲載している間も何かと忙しく、“本編”の下書きを溜めるための時間稼ぎにはなりませんでしたが、何とか完結にはたどり着くことができたようです。


――夕刻。去りがたき、佐賀の街。

そもそも、私の日常には何故ここまで余力が無いのかと、また自問自答する。特殊な才覚でもなければ、まともに生活するには働かねばならない。

私の能力では、手を抜いても仕事が回るなどと都合の良いことは無い。でも、真面目にコツコツと頑張るのが、“佐賀の者”らしくはないかと考え直してみる。



――それに、私が仰ぎ見る“佐賀の先輩”たちは、

皆、すごく“働き者”ばかりではないか。

そして、無理をし過ぎる“先輩”の姿も、歴史上に見る。真っ直ぐな生き方は、人としては魅力的なのだが、もう少し自分を大事にしてほしかった。

対して、それなりにしか頑張っていないだが、それでも疲労は身体に蓄積し、年を経るごとに下を向くことも増えてきた。


――この帰り道でも、まだ佐賀の空は見られる。

一日よくは降っていたが、不自然なぐらいタイミングの良い天気で、傘を開く必要も無い行程だった。

ずっと地元に住む人に共感が得られるかはわからないが、私は佐賀の空を「手が届くほどに近く」感じている。

この日の夕刻は、は随分と赤くまばゆい、それでいて心が穏やかになる、幻想的な景色だった。



――再び、“空の遠い街”へと帰っていく。

ところで、『さがファンブログ』を始めてから、地元の皆様のブログの影響か、私はいま住む街でも、空を見上げることが増えた。

やはり佐賀に住む人は、バルーンの時に限らず、を、を、を…身近に感じているのではないか。

一方で、いつもは遠く離れた地から、西方の空を望む私だが、おそらく余所に住む者にしか見えてこない、故郷真価もある。


――「望郷の想い」というのは、歳月が重なるごとに高まるとも聞く。

ふるさと遠きにありて思ふもの」という言葉に納得する部分もあるし、いま居る場所で幸せを追求する方が、きっと効率は良い。

ただ、自分の人生が始まった場所に誇りを持って生きられるのは、素敵な事ではないか。それは、日々の生き方そのものを強く変えてくれる気がしている。

先ほどの言葉には続きがあり、ふるさとは「遠きにありて」思い、そして「悲しくうたふ」ものだそうだ。

少なくとも、今のには故郷・佐賀は「悲しくうたふ」ような場所ではないようだ。折れかかった心も、立ち直らせるほどに「気持ち熱く」してくれる場所らしい。



――この夕方。私は、同じ空を見ていた。

幕末明治期に活躍した“先輩たち”も見ていたであろう、同じ佐賀の空を。

そして、この日は、今の佐賀を生きる皆様とも同じ空の下に居られた。細々とだが“地域ブログ“の書き手の1人となっている、私はそんな感覚を持った。

私の想いは、もはや人生の残り火なのか、これから光る灯火となり得るのかはわからない。その時は、ただ赤く美しい、夕刻佐賀の空を見上げていた。


〔連続ブログ小説「聖地の剣」 完〕



  
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