2023年11月21日
第19話「閑叟上洛」㉓(“自由”を失った、異国の街)
こんばんは。
文久二年(1862年)の十一月。鍋島直正(閑叟)は、京の都に向かう途上で、賑わう商業の街・大坂(大阪)に立ち寄ります。
この半年ほど前に佐賀藩から海外情勢を探るべく、清国の上海に渡っていた藩士がいました。名を中牟田倉之助といいます。
有明海に面した三重津海軍所で士官や水兵を訓練し、蒸気船を修繕したり、伊万里港などを拠点に外洋に出ることもあった、佐賀海軍。

中牟田はその中でも、優秀な人物の一人です。この年、上海に渡った時には、長州藩士・高杉晋作と一緒に行動したことが伝わります。
――直正(閑叟)は朝廷と接触する前に、海外の事情を復習するようだ。
佐賀藩は、幕府の使節や調査団で、藩士を海外に派遣できる時には、どの藩よりも積極的に参加させている。
しっかり情報を集めて、はっきり参加者の任務を定め、きっちり幕府に手続きを取るのが、佐賀の特徴でもあった。
もちろん直正は、上海から戻った中牟田の報告も熱心に聞きとっている。

「看てくれる者が居って良かった。異国での病は、厄介であろうからな。」
「その高杉にも世話をかけ、全快まで六日ほどかかりました。」
中牟田を看病したのは長州藩士・高杉晋作。寝込んでいる間に随分と、話をする時間があったようだ。
「航海術の話などすると、熱心に記しておりました。」
高杉は西洋人の中では接点が持ちやすい、オランダ領事館への挨拶に参加もせず、中牟田を看ていたようだ。
「それほど、お主が語る海軍の話は、興味深かったのであろう。」
――直正の語り方には、少し含みがあった。
中牟田が長崎でオランダ人から直接学んだ知識は、実用に耐えうるものだ。
学んだのは航海術だけでなく、蒸気機関や砲術、船舶の構造や動かし方等、様々な西洋の技術と接している。

西洋の知識が日本の言葉で聞けるのだから、中牟田と話をするだけでも価値は充分にある。高杉という長州藩士、かなりの切れ者なのかもしれない。
「…そうじゃ。市中の様子は、いかがであったか。」
ここで直正は、質問を変えた。本当に気になっているのは、西洋人が支配しているであろう、街の様子らしい。
――同年の五月頃。清国・上海の街路を歩んでいた、中牟田と高杉。
通りの中心には、彫りの深い顔立ちと衣服の様子から判ずるに、欧米から来たと思われる人々が闊歩している。
街の様子も、もともとの清国とは、おそらく違っているだろう西洋風の建物などが並びだっている。高杉が周囲を見渡して、言葉を発した。
「えらく清国の者が、隅に引っ込んじまってるな。」
「それだけ街の差配が、欧米の者の手にあるということばい。」
ヨーロッパから来たと思われる2人組が通りをゆくのを見かける。何があったか機嫌が良くないらしく、道ばたにいる清国人に何事かの言葉を投げかける。

「…あの西洋人は、何と言っちょるんじゃ。」
高杉も言葉を発する状況で概ねわかるが、中牟田に翻訳を求めた。
「よか。イギリスの言葉を遣うとるごた。和解(わげ)できるとよ。」
――中牟田は、高杉に頼まれたので、淡々と英語の翻訳をした。
「察しは付いちょったが、えらい言いようじゃ。」
高杉にも想像は付いたが、西洋人から繰り出されていた言葉は、相当に侮蔑的な内容だった。
「お前らは…○○みたいなもんで××でもしておけ!…とか言いよるばい。」
中牟田は眉ひとつ動かさずに翻訳し、直接に変換できない単語は、説明的な言葉を続ける。
冷静な印象の強い中牟田。このように罵詈雑言を発するのは、真面目に翻訳しているからであり、普段、こんな言葉を吐くことは当然ない。

「…何ね、和解(わげ)ば続けんでも、よかとね。」
「いや、奴らが言うちょることが、明瞭になった。」
畳みかけるような中牟田の通訳に、高杉は「もう、翻訳は充分じゃ」とばかりに苦笑した。
品のない悪口を整然と翻訳し続ける、中牟田の態度も面白かったようだ。
欧米列強と戦をして負ければ、おそらくは自分たちの街でも、悠然と表通りを歩くことはできなくなる。高杉も、中牟田も、その重たさは感じ取っていた。
アヘン戦争から20年ほどが経過した、清国の状況を、言い換えれば外国による支配の実情を見せつけられたのだ。

――こうして現地での見聞を進める日々に、中牟田が高杉に提案をする。
「高杉さん。長崎に向かう外国船の来るばい。手紙の出せるとよ。」
「手紙か。中牟田くんは逐一、佐賀に報告をしちょるんか。」
「そうたい。おそらく大殿にも伝わるばい。」
中牟田が情報を伝える相手は、最終的には、佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)のようである。

高杉は、かなり意外に思った。
「佐賀では肥前侯(鍋島直正)まで、話が伝わるんか。」
「そがんたい。よく、お尋ねのあるとよ。」
事もなげに、中牟田が返事を返した。
昔から藩校・弘道館に姿を見せては、学生と問答をする…そんなところがある殿様だったので、中牟田にとっては、とくに不思議もない。
それに藩のお役目で清国まで来たのだから、任務を果たさなければならない。佐賀藩士が海外に出るときは、為すべき仕事も明確だった。
――ここから半年後。場面を、文久二年十一月の大坂に戻す。
鍋島直正は、中牟田からの報告にあった話を、よくよく思い返す。
「清国の街では、当地の者が粗雑に扱われおる…ということだったか。」
列強の支配を受けて、自由を失った海外の街の事例が気になるようだった。中牟田は、他にも見聞きした情報を補足する。

「時折、街外れから大砲の音も響きよりました。」
一方で、上海近辺では清国政府への反乱も続いており、西洋人の傭兵も制圧に加わって、内戦が続いているらしい。
「…うむ。」
腕を組むような格好をする、直正。最近では胃腸の痛みなどをかばってか、やや猫背なので、より丸まってみえる。
もともと、直正には強い危機感がある。20年ほど前のアヘン戦争の知らせを聞いてから、長崎港内の島々に砲台を築き、要塞化したのも備えのためだ。

――直正がふと、つぶやいた。
「はたして佐賀は、長崎だけを守っておれば、良いのか…」
江戸期を通じて長崎は、日本の表玄関として、機能してきた港である。そこを守ることが、異国と向き合う佐賀藩の役目だった。
しかし、昨今では横浜をはじめ、他に開港した土地もある。何より、京の都を守るには“摂海”(大阪湾)を守らねばならないのではないか。
「…大殿、いかがなさいましたか。」
急に黙り込んだ直正を見て、中牟田が問う。
「いや、考え事をしておるだけじゃ。特に障(さわ)りはない。」
――これから中牟田は蒸気船で、一旦、佐賀に戻る予定だ。
「大儀(たいぎ)であった。中牟田、海軍でのお主の働き、期待しておる。」
「ははっ。」

今回、直正(閑叟)が上洛するので、佐賀藩の海軍は、京の都への近道として、門司から大坂の港まで船を出した。
これからの行程には、蒸気船で移動する予定は無いので、船団はひとまず、佐賀まで引き返すことになる。
「大殿は、何ば気にされておったのか…。」
先を読む傾向のある中牟田。直正が心配性なのは昔からだが、この日は特に西洋が支配を強める、海外の街の様子をひたすらに気にしていた。
急な直正の沈黙を見て、中牟田は一抹の不安を持って、退出したのだった。
(続く)
文久二年(1862年)の十一月。鍋島直正(閑叟)は、京の都に向かう途上で、賑わう商業の街・大坂(大阪)に立ち寄ります。
この半年ほど前に佐賀藩から海外情勢を探るべく、清国の上海に渡っていた藩士がいました。名を中牟田倉之助といいます。
有明海に面した三重津海軍所で士官や水兵を訓練し、蒸気船を修繕したり、伊万里港などを拠点に外洋に出ることもあった、佐賀海軍。
中牟田はその中でも、優秀な人物の一人です。この年、上海に渡った時には、長州藩士・高杉晋作と一緒に行動したことが伝わります。
――直正(閑叟)は朝廷と接触する前に、海外の事情を復習するようだ。
佐賀藩は、幕府の使節や調査団で、藩士を海外に派遣できる時には、どの藩よりも積極的に参加させている。
しっかり情報を集めて、はっきり参加者の任務を定め、きっちり幕府に手続きを取るのが、佐賀の特徴でもあった。
もちろん直正は、上海から戻った中牟田の報告も熱心に聞きとっている。
「看てくれる者が居って良かった。異国での病は、厄介であろうからな。」
「その高杉にも世話をかけ、全快まで六日ほどかかりました。」
中牟田を看病したのは長州藩士・高杉晋作。寝込んでいる間に随分と、話をする時間があったようだ。
「航海術の話などすると、熱心に記しておりました。」
高杉は西洋人の中では接点が持ちやすい、オランダ領事館への挨拶に参加もせず、中牟田を看ていたようだ。
「それほど、お主が語る海軍の話は、興味深かったのであろう。」
――直正の語り方には、少し含みがあった。
中牟田が長崎でオランダ人から直接学んだ知識は、実用に耐えうるものだ。
学んだのは航海術だけでなく、蒸気機関や砲術、船舶の構造や動かし方等、様々な西洋の技術と接している。
西洋の知識が日本の言葉で聞けるのだから、中牟田と話をするだけでも価値は充分にある。高杉という長州藩士、かなりの切れ者なのかもしれない。
「…そうじゃ。市中の様子は、いかがであったか。」
ここで直正は、質問を変えた。本当に気になっているのは、西洋人が支配しているであろう、街の様子らしい。
――同年の五月頃。清国・上海の街路を歩んでいた、中牟田と高杉。
通りの中心には、彫りの深い顔立ちと衣服の様子から判ずるに、欧米から来たと思われる人々が闊歩している。
街の様子も、もともとの清国とは、おそらく違っているだろう西洋風の建物などが並びだっている。高杉が周囲を見渡して、言葉を発した。
「えらく清国の者が、隅に引っ込んじまってるな。」
「それだけ街の差配が、欧米の者の手にあるということばい。」
ヨーロッパから来たと思われる2人組が通りをゆくのを見かける。何があったか機嫌が良くないらしく、道ばたにいる清国人に何事かの言葉を投げかける。
「…あの西洋人は、何と言っちょるんじゃ。」
高杉も言葉を発する状況で概ねわかるが、中牟田に翻訳を求めた。
「よか。イギリスの言葉を遣うとるごた。和解(わげ)できるとよ。」
――中牟田は、高杉に頼まれたので、淡々と英語の翻訳をした。
「察しは付いちょったが、えらい言いようじゃ。」
高杉にも想像は付いたが、西洋人から繰り出されていた言葉は、相当に侮蔑的な内容だった。
「お前らは…○○みたいなもんで××でもしておけ!…とか言いよるばい。」
中牟田は眉ひとつ動かさずに翻訳し、直接に変換できない単語は、説明的な言葉を続ける。
冷静な印象の強い中牟田。このように罵詈雑言を発するのは、真面目に翻訳しているからであり、普段、こんな言葉を吐くことは当然ない。
「…何ね、和解(わげ)ば続けんでも、よかとね。」
「いや、奴らが言うちょることが、明瞭になった。」
畳みかけるような中牟田の通訳に、高杉は「もう、翻訳は充分じゃ」とばかりに苦笑した。
品のない悪口を整然と翻訳し続ける、中牟田の態度も面白かったようだ。
欧米列強と戦をして負ければ、おそらくは自分たちの街でも、悠然と表通りを歩くことはできなくなる。高杉も、中牟田も、その重たさは感じ取っていた。
アヘン戦争から20年ほどが経過した、清国の状況を、言い換えれば外国による支配の実情を見せつけられたのだ。
――こうして現地での見聞を進める日々に、中牟田が高杉に提案をする。
「高杉さん。長崎に向かう外国船の来るばい。手紙の出せるとよ。」
「手紙か。中牟田くんは逐一、佐賀に報告をしちょるんか。」
「そうたい。おそらく大殿にも伝わるばい。」
中牟田が情報を伝える相手は、最終的には、佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)のようである。
高杉は、かなり意外に思った。
「佐賀では肥前侯(鍋島直正)まで、話が伝わるんか。」
「そがんたい。よく、お尋ねのあるとよ。」
事もなげに、中牟田が返事を返した。
昔から藩校・弘道館に姿を見せては、学生と問答をする…そんなところがある殿様だったので、中牟田にとっては、とくに不思議もない。
それに藩のお役目で清国まで来たのだから、任務を果たさなければならない。佐賀藩士が海外に出るときは、為すべき仕事も明確だった。
――ここから半年後。場面を、文久二年十一月の大坂に戻す。
鍋島直正は、中牟田からの報告にあった話を、よくよく思い返す。
「清国の街では、当地の者が粗雑に扱われおる…ということだったか。」
列強の支配を受けて、自由を失った海外の街の事例が気になるようだった。中牟田は、他にも見聞きした情報を補足する。
「時折、街外れから大砲の音も響きよりました。」
一方で、上海近辺では清国政府への反乱も続いており、西洋人の傭兵も制圧に加わって、内戦が続いているらしい。
「…うむ。」
腕を組むような格好をする、直正。最近では胃腸の痛みなどをかばってか、やや猫背なので、より丸まってみえる。
もともと、直正には強い危機感がある。20年ほど前のアヘン戦争の知らせを聞いてから、長崎港内の島々に砲台を築き、要塞化したのも備えのためだ。
――直正がふと、つぶやいた。
「はたして佐賀は、長崎だけを守っておれば、良いのか…」
江戸期を通じて長崎は、日本の表玄関として、機能してきた港である。そこを守ることが、異国と向き合う佐賀藩の役目だった。
しかし、昨今では横浜をはじめ、他に開港した土地もある。何より、京の都を守るには“摂海”(大阪湾)を守らねばならないのではないか。
「…大殿、いかがなさいましたか。」
急に黙り込んだ直正を見て、中牟田が問う。
「いや、考え事をしておるだけじゃ。特に障(さわ)りはない。」
――これから中牟田は蒸気船で、一旦、佐賀に戻る予定だ。
「大儀(たいぎ)であった。中牟田、海軍でのお主の働き、期待しておる。」
「ははっ。」

今回、直正(閑叟)が上洛するので、佐賀藩の海軍は、京の都への近道として、門司から大坂の港まで船を出した。
これからの行程には、蒸気船で移動する予定は無いので、船団はひとまず、佐賀まで引き返すことになる。
「大殿は、何ば気にされておったのか…。」
先を読む傾向のある中牟田。直正が心配性なのは昔からだが、この日は特に西洋が支配を強める、海外の街の様子をひたすらに気にしていた。
急な直正の沈黙を見て、中牟田は一抹の不安を持って、退出したのだった。
(続く)
2023年11月12日
第19話「閑叟上洛」㉒(海を渡った、“数学の子”)
こんばんは。
幕末期の日本において、指導者層としては、最も“世界”が見えていた人物という評価がある、鍋島直正(閑叟)。
幕府や諸藩にも開明的な人材はいましたが、“殿様”が西洋の技術の導入や、開国後の通商を先読みし、ここまで手を打っている例は他に思い付きません。

文久二年(1862年)は、幕府の使節や調査団に同行して、佐賀藩士がヨーロッパや清国(上海)にも渡った時期でもあります。
直正が立ち寄った、商いの街・大坂。数か月前に上海で海外の情勢を調査していた、佐賀藩士・中牟田倉之助が再登場します。
〔参考記事1(後半):「ある東洋の“迷宮”にて」〕
〔参照(初回登場の場面):第12話「海軍伝習」⑥(数学の子)〕
――京に向かう途上、「天下の台所」と呼ばれた、大坂(大阪)にて。
時代は海外貿易へと向かっている、佐賀藩も資金の調達力を強化するため、大坂近辺の豪商との協力を進めていた。
直正(閑叟)には、この場であらためて話を聞いておきたい配下がいた。
「中牟田は、近くにおるか。」
「…はっ、何やらお呼びがありそうだと、参じております。」
直正が言うが早いか、側近・古川与一(松根)が答える。

「先だってより、こちらに控えおります。」
呼ばれた傍(そば)から現れたのは、中牟田倉之助。普段から佐賀海軍で、蒸気船を操る側にいることが多く、いつも忙しい。
キリッとした、それでいて融通の利かなさそうな顔立ち。呼び出しを先読みしたように、襖一枚を隔てて、大殿の声かけを待っていたようだ。
「…ほう、余が呼び出すと察しておったか。」
直正は、中牟田の登場の仕方が、少し面白かったらしく、目を細めた。
――文久二年の春~夏にかけて、
幕府が清国の上海に船を出すのを聞きつけて、直正は、主に海外での貿易事情の調査のために佐賀藩士を同行させていた。

上海への調査団には、佐賀藩から4名が参加したが、そのうちの1人が、佐賀海軍の“エース”のような存在に成長しつつある、中牟田倉之助だ。
藩校に通う頃から理数の素養に長じ、長崎で海軍伝習所に通っていた頃は、オランダ人の教官を待ち構えては、数学の教本を借り受けて、書き写す…
教官もその熱心さに呆れるほどに、船の運用に関わる学問を求めた。そして、中牟田の近くで勉強する者も、引っ張られて賢くなった。
〔参照(後半):第12話「海軍伝習」⑨-2(悔しかごたぁ・後編)〕
〔参照(中盤):第12話「海軍伝習」⑩-1(負けんばい!・前編)〕
――佐賀藩には中牟田のように、周囲に好影響を及ぼす者がいる。
直正(閑叟)は、海外での中牟田の体験談を聞いておきたいようだ。
「お主が行っておった、清国でのことだ。尋ねておきたいことがある。」
「恥じ入るばかりですが、上海では惜しかことをしました。」
「はて、お主は充分に見聞を為したと思っておったが。」
「…数日の間は、発熱にて寝込みよりました。」

「貴重な異国での時に、動き損じたのが悔しかです。」
気合いの入った表情で残念がる、中牟田倉之助。2か月ほど清国の上海に滞在したが、いまだに、寝込んでいた数日が惜しいらしい。
――直正(閑叟)自身も病がちなので、気になったのか、こう尋ねた。
「だが、異国での病は難儀だったであろう。いかがしておったか。」
本筋から外れた質問だが、もともと直正は好奇心が旺盛な気性だ。
病気がちで見た目、少し老け込んだが、興味のあることを聞くときは、相変わらず活き活きとしている。
「佐賀の者には、各々に使命がありますけん。頼るわけにはいかんでした。」
「然(しか)り、それぞれに余が直々に命じておる任があったのう。」
――直正は、上海に渡った他の3人にも、
中牟田とは、また違った任務を与えていた。
陶磁器などの価格相場や、取引の実情など商売に関わるところに2名、現地情報を写し取る画工の少年が1名で、中牟田とは別行動をしていた。

「それゆえ、同じく上海に渡りよる、長州の者に世話をかけました。」
「ほう、長州か。その者の名は、何と言ったか。」
直正は最近、薩摩の動向には不信感を強めており、同じく西国の雄藩である、長州には関心がある様子だ。
「高杉という男です。当地では、ほぼ一緒に動いておりました。」
直正からの問いかけに答えて、中牟田は今までの報告で表せなかった、海の向こうでの、日々の出来事を語りだした。
(続く)
〔参考記事2:「点と点をつなぐと、有田に届いた話」〕
幕末期の日本において、指導者層としては、最も“世界”が見えていた人物という評価がある、鍋島直正(閑叟)。
幕府や諸藩にも開明的な人材はいましたが、“殿様”が西洋の技術の導入や、開国後の通商を先読みし、ここまで手を打っている例は他に思い付きません。

文久二年(1862年)は、幕府の使節や調査団に同行して、佐賀藩士がヨーロッパや清国(上海)にも渡った時期でもあります。
直正が立ち寄った、商いの街・大坂。数か月前に上海で海外の情勢を調査していた、佐賀藩士・中牟田倉之助が再登場します。
〔参考記事1(後半):
〔参照(初回登場の場面):
――京に向かう途上、「天下の台所」と呼ばれた、大坂(大阪)にて。
時代は海外貿易へと向かっている、佐賀藩も資金の調達力を強化するため、大坂近辺の豪商との協力を進めていた。
直正(閑叟)には、この場であらためて話を聞いておきたい配下がいた。
「中牟田は、近くにおるか。」
「…はっ、何やらお呼びがありそうだと、参じております。」
直正が言うが早いか、側近・古川与一(松根)が答える。

「先だってより、こちらに控えおります。」
呼ばれた傍(そば)から現れたのは、中牟田倉之助。普段から佐賀海軍で、蒸気船を操る側にいることが多く、いつも忙しい。
キリッとした、それでいて融通の利かなさそうな顔立ち。呼び出しを先読みしたように、襖一枚を隔てて、大殿の声かけを待っていたようだ。
「…ほう、余が呼び出すと察しておったか。」
直正は、中牟田の登場の仕方が、少し面白かったらしく、目を細めた。
――文久二年の春~夏にかけて、
幕府が清国の上海に船を出すのを聞きつけて、直正は、主に海外での貿易事情の調査のために佐賀藩士を同行させていた。
上海への調査団には、佐賀藩から4名が参加したが、そのうちの1人が、佐賀海軍の“エース”のような存在に成長しつつある、中牟田倉之助だ。
藩校に通う頃から理数の素養に長じ、長崎で海軍伝習所に通っていた頃は、オランダ人の教官を待ち構えては、数学の教本を借り受けて、書き写す…
教官もその熱心さに呆れるほどに、船の運用に関わる学問を求めた。そして、中牟田の近くで勉強する者も、引っ張られて賢くなった。
〔参照(後半):
〔参照(中盤):
――佐賀藩には中牟田のように、周囲に好影響を及ぼす者がいる。
直正(閑叟)は、海外での中牟田の体験談を聞いておきたいようだ。
「お主が行っておった、清国でのことだ。尋ねておきたいことがある。」
「恥じ入るばかりですが、上海では惜しかことをしました。」
「はて、お主は充分に見聞を為したと思っておったが。」
「…数日の間は、発熱にて寝込みよりました。」
「貴重な異国での時に、動き損じたのが悔しかです。」
気合いの入った表情で残念がる、中牟田倉之助。2か月ほど清国の上海に滞在したが、いまだに、寝込んでいた数日が惜しいらしい。
――直正(閑叟)自身も病がちなので、気になったのか、こう尋ねた。
「だが、異国での病は難儀だったであろう。いかがしておったか。」
本筋から外れた質問だが、もともと直正は好奇心が旺盛な気性だ。
病気がちで見た目、少し老け込んだが、興味のあることを聞くときは、相変わらず活き活きとしている。
「佐賀の者には、各々に使命がありますけん。頼るわけにはいかんでした。」
「然(しか)り、それぞれに余が直々に命じておる任があったのう。」
――直正は、上海に渡った他の3人にも、
中牟田とは、また違った任務を与えていた。
陶磁器などの価格相場や、取引の実情など商売に関わるところに2名、現地情報を写し取る画工の少年が1名で、中牟田とは別行動をしていた。
「それゆえ、同じく上海に渡りよる、長州の者に世話をかけました。」
「ほう、長州か。その者の名は、何と言ったか。」
直正は最近、薩摩の動向には不信感を強めており、同じく西国の雄藩である、長州には関心がある様子だ。
「高杉という男です。当地では、ほぼ一緒に動いておりました。」
直正からの問いかけに答えて、中牟田は今までの報告で表せなかった、海の向こうでの、日々の出来事を語りだした。
(続く)
〔参考記事2:
2023年11月05日
第19話「閑叟上洛」㉑(“摂海”の賑わう街にて)
こんばんは。
少しずつ“本編”を進めます。文久二年(1862年)の十一月。鍋島直正(閑叟)が、京の都へと向かう話を続けています。
旧暦の話ですので、冬の寒さを感じながらお読みいただければ幸いです。
直正が乗船する佐賀藩の蒸気船・電流丸と、お供の観光丸の二隻は瀬戸内を抜けて、摂津国・大坂(大阪)の港に至ります。
この“摂海”(大阪湾)は、京の都を防衛するためには抑えねばならない場所。摂津国(大阪・兵庫)に面した海。幕末が舞台のドラマではよく聞く地名です。

――佐賀藩の“船団”が、大坂の港へと近づく。
江戸期を通じて、大坂は“天下の台所”とも呼ばれており、商人の活動が盛んな経済のまちである。
物見高い町衆の噂話が絶えることはない。蒸気船団の入港を、わざわざ見に来る者たちもいる様子だ。
「おい。向こうに“黒船”が見えとるんは、どこの国のもんや。」
「あれか、佐賀の船らしいで。」
「佐賀やて?肥前国のか…。」
「“殿様”が乗っとるらしいし、危ない黒船とは、ちゃう(違う)で。」
「じゃ、もっと近くで見とこか。」
商業の集積地である大坂の街は、何かと賑やかな土地柄のようだ。

――“殿様”とは言われたが、この“黒船”・電流丸に乗船しているのは、
肥前国・佐賀の前藩主である鍋島直正(閑叟)。前年の文久元年(1861年)に、子の鍋島直大(茂実)に藩主の座を譲って、隠居となっている。
着岸を前にして、直正も、“執事役”の古川与一(松根)を伴い、船の甲板へと上がった。
ここは電流丸も、観光丸も湾内での細かな操船のためか、モクモクと煙突から黒煙を吐き出している。
「…大殿、このような煙たい折に、船上に出られてよろしいのですか。」
「胃の具合は良からずだが、少々の煙を吸っても障(さわ)りはあるまい。」
「それに、あの者たちが船を操る姿を見ておきたくてな。」
「閑叟さまのご高覧であれば、船員たちも喜びましょう。」
「それと…やけに、岸壁が騒々しいようだが。」
「大坂の町衆のようですな。ちと、派手に寄せ過ぎたやもしれません。」

――こうして佐賀の大殿・鍋島直正は、“蒸気船”で大坂に入った。
少々、入港が目立ってしまった。西洋式の艦船を操れる藩士が多数いる佐賀にとっては、蒸気船を遣うのは自然な発想だが、たしかに国内では異例だ。
ここから京の都に入るまでの間、直正(閑叟)は大坂に滞在する。川沿いには諸国から廻ってきた、積み荷を下ろす活気がみなぎっている。
「商いで成り立つ街だと、ようわかるな。」
巨大都市・江戸(東京)に生まれ、青年期までを過ごした直正だが、また違った空気がある商人の街・大坂が珍しいようだ。
「大殿がお立ち寄りですので、例のお話をお耳に入れておきたく。」
「…大坂と言えば、商いの話か。」

「お察しのとおりです。此度は、北風家の者を呼んでおるとのこと。」
この文久二年頃に、佐賀藩は海外への展開を見据え、豪商を介して、大坂に両替(資金調達)の拠点を作ろうとしていた。
――ここ数年間の“開国”で、経済を取り巻く環境は激変している。
佐賀藩は、直正の藩主就任から、大地主より耕作者を大事にする農政改革をしたこともあり、数十年かけて、次第に豊かになってきた。
しかし安政年間に欧米各国と締結した通商条約によって、長年、徳川政権が貿易を管理してきた“鎖国”体制から“開国”へと時代は転換しつつある。
通商条約以前からも拡大傾向にあった、海外との貿易。開国により、その流れは加速し、時に制御できないほどの、商品と資金の動きも生じる。
以前にもイギリスが茶葉を買い付ければ、佐賀の嬉野では到底足らず、九州全土からかき集めねばならない…という異例の事態もあった。

「これからは長崎のみでの商いとは、比にはならぬからな…」
佐賀藩は、長くオランダとの交易で利益を得ていたが、このところ質量ともに、貿易の変化は著しい。一度に融通できる資金力の強化が課題だった。
「昨今は商いも、押し寄せる波濤のようにございます。」
「…違いない。その嵐から逃げることは、許されぬようだがな。」
幕末期にも一気にではなく、地道に近代化への足場を固めてきた佐賀藩。
急激な変化に対応するため、この年も、直正(閑叟)は、なるべく海外の実情を知ろうと、幾つかの手を打っていた。
(続く)
少しずつ“本編”を進めます。文久二年(1862年)の十一月。鍋島直正(閑叟)が、京の都へと向かう話を続けています。
旧暦の話ですので、冬の寒さを感じながらお読みいただければ幸いです。
直正が乗船する佐賀藩の蒸気船・電流丸と、お供の観光丸の二隻は瀬戸内を抜けて、摂津国・大坂(大阪)の港に至ります。
この“摂海”(大阪湾)は、京の都を防衛するためには抑えねばならない場所。摂津国(大阪・兵庫)に面した海。幕末が舞台のドラマではよく聞く地名です。
――佐賀藩の“船団”が、大坂の港へと近づく。
江戸期を通じて、大坂は“天下の台所”とも呼ばれており、商人の活動が盛んな経済のまちである。
物見高い町衆の噂話が絶えることはない。蒸気船団の入港を、わざわざ見に来る者たちもいる様子だ。
「おい。向こうに“黒船”が見えとるんは、どこの国のもんや。」
「あれか、佐賀の船らしいで。」
「佐賀やて?肥前国のか…。」
「“殿様”が乗っとるらしいし、危ない黒船とは、ちゃう(違う)で。」
「じゃ、もっと近くで見とこか。」
商業の集積地である大坂の街は、何かと賑やかな土地柄のようだ。
――“殿様”とは言われたが、この“黒船”・電流丸に乗船しているのは、
肥前国・佐賀の前藩主である鍋島直正(閑叟)。前年の文久元年(1861年)に、子の鍋島直大(茂実)に藩主の座を譲って、隠居となっている。
着岸を前にして、直正も、“執事役”の古川与一(松根)を伴い、船の甲板へと上がった。
ここは電流丸も、観光丸も湾内での細かな操船のためか、モクモクと煙突から黒煙を吐き出している。
「…大殿、このような煙たい折に、船上に出られてよろしいのですか。」
「胃の具合は良からずだが、少々の煙を吸っても障(さわ)りはあるまい。」
「それに、あの者たちが船を操る姿を見ておきたくてな。」
「閑叟さまのご高覧であれば、船員たちも喜びましょう。」
「それと…やけに、岸壁が騒々しいようだが。」
「大坂の町衆のようですな。ちと、派手に寄せ過ぎたやもしれません。」

――こうして佐賀の大殿・鍋島直正は、“蒸気船”で大坂に入った。
少々、入港が目立ってしまった。西洋式の艦船を操れる藩士が多数いる佐賀にとっては、蒸気船を遣うのは自然な発想だが、たしかに国内では異例だ。
ここから京の都に入るまでの間、直正(閑叟)は大坂に滞在する。川沿いには諸国から廻ってきた、積み荷を下ろす活気がみなぎっている。
「商いで成り立つ街だと、ようわかるな。」
巨大都市・江戸(東京)に生まれ、青年期までを過ごした直正だが、また違った空気がある商人の街・大坂が珍しいようだ。
「大殿がお立ち寄りですので、例のお話をお耳に入れておきたく。」
「…大坂と言えば、商いの話か。」
「お察しのとおりです。此度は、北風家の者を呼んでおるとのこと。」
この文久二年頃に、佐賀藩は海外への展開を見据え、豪商を介して、大坂に両替(資金調達)の拠点を作ろうとしていた。
――ここ数年間の“開国”で、経済を取り巻く環境は激変している。
佐賀藩は、直正の藩主就任から、大地主より耕作者を大事にする農政改革をしたこともあり、数十年かけて、次第に豊かになってきた。
しかし安政年間に欧米各国と締結した通商条約によって、長年、徳川政権が貿易を管理してきた“鎖国”体制から“開国”へと時代は転換しつつある。
通商条約以前からも拡大傾向にあった、海外との貿易。開国により、その流れは加速し、時に制御できないほどの、商品と資金の動きも生じる。
以前にもイギリスが茶葉を買い付ければ、佐賀の嬉野では到底足らず、九州全土からかき集めねばならない…という異例の事態もあった。
「これからは長崎のみでの商いとは、比にはならぬからな…」
佐賀藩は、長くオランダとの交易で利益を得ていたが、このところ質量ともに、貿易の変化は著しい。一度に融通できる資金力の強化が課題だった。
「昨今は商いも、押し寄せる波濤のようにございます。」
「…違いない。その嵐から逃げることは、許されぬようだがな。」
幕末期にも一気にではなく、地道に近代化への足場を固めてきた佐賀藩。
急激な変化に対応するため、この年も、直正(閑叟)は、なるべく海外の実情を知ろうと、幾つかの手を打っていた。
(続く)