2020年07月30日
第12話「海軍伝習」⑩-2(負けんばい!・後編)
こんばんは。
新型コロナの感染拡大が収まる気配がありません。私はいわゆる大都市圏に居るので、佐賀への帰藩を控えております。
ここ最近のサブタイトル「悔しかごたぁ!」とか「負けんばい!」というのは、私の気持ちでもあります。
では、第12話「海軍伝習」。ラストの投稿です。
佐賀藩はオランダから帆船“飛雲丸”を購入。佐野栄寿(常民)が船長となります。そして、ここから佐賀藩士たちは、さらに頑張ります。
――佐賀の伝習生たちは、自前でも洋式帆船を製作することにした。
幕府の生徒たちも、オランダの教官たちの力を借りて帆船を建造している。たしかに海軍伝習は幕府の主宰だが、佐賀藩士たちには“対抗心”があった。
「ご公儀(幕府)の伝習生に遅れを取ってはならんばい!」
佐野が皆の前で、帆船を造る旨の宣言をする。
「お-っ!!」
「船ば造るったい!!」
盛り上がる佐賀の伝習生たち。中牟田や石丸など…若手は特に張り切る。
――皆からあふれる“熱気”にオランダ人の教官も呆気に取られる。
「佐野はんの周りはいつも、こうなるよな…」
科学者・中村奇輔も苦笑いである。少し前、国産では初と伝わる“蒸気機関”を完成させてから、海軍伝習に参加している。
かくいう中村も、佐野の誘いでわざわざ京都から佐賀に来た。佐野の情熱に引き込まれている人の代表格である。
その結果、いまや“佐賀藩士”として海軍伝習に参加する。
「佐野はん!また、力を貸すで!」
「中村さんが居ると心強かです!」

――トントン、カンカン…工具と木材の音が響く。
鋼線(ワイヤー)を張る。石丸虎五郎(安世)。
「これは…楽しかですね。」
「石丸、危なかよ!気ば付けてかからんね!」
のちに海軍伝習の地・長崎から“東京”まで電信線を架けることになる、石丸安世。この時はまだ、20歳そこそこの若手伝習生である。
――オランダ人の技師の助力も得て、佐賀藩製の洋式帆船“晨風丸”が仕上がった。
「てえした(大した)もんですな。本島さん。」
当時の標準語というより、訛りの強い江戸ことば。
幕府の伝習生・勝麟太郎(海舟)である。
若手の活躍を見て、一休みしていた本島藤太夫。勝からの声掛けに応じる。
殿の側近なので、幕府との交流も気遣いのできる本島の役割のようだ。
「おおっ、勝どの。見てやってください。佐賀も船を造り申した。」
――勝麟太郎(海舟)は、老中・阿部正弘に見出された“開明派”。
幕府海軍の創設のため、長崎の伝習に派遣されている。
「これで佐賀の者も、一手に稽古ができるってぇもんだ。」
勝は浅黒い肌に白い歯を見せる。
持ち前の“べらんめえ“口調といい、あまり堅苦しい侍では無いようだ。
「ええ、公儀(幕府)の伝習に後れぬよう励みます。」
本島、言葉は控えめだが、幕府の生徒にアッと言う間に追いつく伝習生たちが誇らしい。
――主宰者の特権がなくても、佐賀藩士の“蘭学”の習熟度は高い。学習効果がすぐに現れるのだ。
「ご公儀の伝習生だが、各々の向きがバラバラと…纏(まと)まんねぇ。」
勝は、自ら幕府伝習生を非難するような口ぶりだ。
佐賀の伝習生たちは“団体戦”のつもりで頑張っている。
しかし、幕府の生徒たちは“個人戦”の出世競争に目が向いている様子だ。
「それも、あの男だ…佐野の振舞いが大きいな。」
勝麟太郎は、研究所の奇才や若い伝習生たちを引っ張る佐野の存在に注目していた。
――いまも積極的に伝習生に声を掛けて回る、佐野の背中が見える。
「それも貴方(あんた)らの殿様のお力なのかも知れねぇが…」
「然り。殿はいつも我らのことを気にかけてくださる。」
本島は、命懸けで鉄製大砲の製造にあたった日々を想い出す。
殿・鍋島直正は、失敗の責任を取ろうと切腹を申し出る本島を、こう諭した。
「死ぬことは許さん。生きて成し遂げよ。」と。
この命令は、本島を救い、十数回の失敗を乗り越える力となった。
――本島に、ひとしきり語ってから、勝麟太郎(海舟)が退出する。
「おいらは言葉遣いが雑でいけねぇ。江戸っ子なもんでね。ご勘弁を。」
「いや、何のお構いもできず。ご丁寧に恐れ入る。」
本島は、歩き去る勝麟太郎を見て思う。
「何やら“食えぬ男”という気配か。しかし、才気があるのは間違いあるまい…」
“賢い人物”が気になって仕方がない、本島藤太夫。
やはり殿・直正の傍に仕える人物である。

――さらに、佐賀の伝習生たちに極めつけの“贈り物”があった。乱反射する陽射しの中、ある“黒船”が姿を見せた。
佐賀藩がオランダより購入した蒸気軍艦が、長崎に入港したのである。そして、艦上に殿・鍋島直正が姿を見せる。
「おおっ、殿のお成りだ!」
「皆、控えよう。」
旧来の作法を取ろうとする伝習生を、本島藤太夫が諭す。
「礼法は、伝習で学んだ“海軍”の流儀で行うべし…との殿の仰せである。」
――西洋の海軍にならった礼法で殿を迎えるのだ。号令を掛ける佐野の声が響く。
「整列!」
港に向かって隊列を組み、居並ぶ佐賀の伝習生たち。
「敬礼!」
本島など殿の側近、中村など“精錬方”の面々、石丸など“蘭学寮”の若手…入港してきた“蒸気船”に、西洋式の儀礼を行う。
「しばらく見ぬうちに立派になりおって…」
鍋島直正。念願の蒸気軍艦“電流丸”から、海軍伝習で鍛えられた家来たちを見る。
この“電流丸”が、佐賀海軍の不動のエースとなる蒸気軍艦。
殿・直正とともに幕末の荒波を乗り越えていくのである。
(第13話「通商条約」に続く)
新型コロナの感染拡大が収まる気配がありません。私はいわゆる大都市圏に居るので、佐賀への帰藩を控えております。
ここ最近のサブタイトル「悔しかごたぁ!」とか「負けんばい!」というのは、私の気持ちでもあります。
では、第12話「海軍伝習」。ラストの投稿です。
佐賀藩はオランダから帆船“飛雲丸”を購入。佐野栄寿(常民)が船長となります。そして、ここから佐賀藩士たちは、さらに頑張ります。
――佐賀の伝習生たちは、自前でも洋式帆船を製作することにした。
幕府の生徒たちも、オランダの教官たちの力を借りて帆船を建造している。たしかに海軍伝習は幕府の主宰だが、佐賀藩士たちには“対抗心”があった。
「ご公儀(幕府)の伝習生に遅れを取ってはならんばい!」
佐野が皆の前で、帆船を造る旨の宣言をする。
「お-っ!!」
「船ば造るったい!!」
盛り上がる佐賀の伝習生たち。中牟田や石丸など…若手は特に張り切る。
――皆からあふれる“熱気”にオランダ人の教官も呆気に取られる。
「佐野はんの周りはいつも、こうなるよな…」
科学者・中村奇輔も苦笑いである。少し前、国産では初と伝わる“蒸気機関”を完成させてから、海軍伝習に参加している。
かくいう中村も、佐野の誘いでわざわざ京都から佐賀に来た。佐野の情熱に引き込まれている人の代表格である。
その結果、いまや“佐賀藩士”として海軍伝習に参加する。
「佐野はん!また、力を貸すで!」
「中村さんが居ると心強かです!」
――トントン、カンカン…工具と木材の音が響く。
鋼線(ワイヤー)を張る。石丸虎五郎(安世)。
「これは…楽しかですね。」
「石丸、危なかよ!気ば付けてかからんね!」
のちに海軍伝習の地・長崎から“東京”まで電信線を架けることになる、石丸安世。この時はまだ、20歳そこそこの若手伝習生である。
――オランダ人の技師の助力も得て、佐賀藩製の洋式帆船“晨風丸”が仕上がった。
「てえした(大した)もんですな。本島さん。」
当時の標準語というより、訛りの強い江戸ことば。
幕府の伝習生・勝麟太郎(海舟)である。
若手の活躍を見て、一休みしていた本島藤太夫。勝からの声掛けに応じる。
殿の側近なので、幕府との交流も気遣いのできる本島の役割のようだ。
「おおっ、勝どの。見てやってください。佐賀も船を造り申した。」
――勝麟太郎(海舟)は、老中・阿部正弘に見出された“開明派”。
幕府海軍の創設のため、長崎の伝習に派遣されている。
「これで佐賀の者も、一手に稽古ができるってぇもんだ。」
勝は浅黒い肌に白い歯を見せる。
持ち前の“べらんめえ“口調といい、あまり堅苦しい侍では無いようだ。
「ええ、公儀(幕府)の伝習に後れぬよう励みます。」
本島、言葉は控えめだが、幕府の生徒にアッと言う間に追いつく伝習生たちが誇らしい。
――主宰者の特権がなくても、佐賀藩士の“蘭学”の習熟度は高い。学習効果がすぐに現れるのだ。
「ご公儀の伝習生だが、各々の向きがバラバラと…纏(まと)まんねぇ。」
勝は、自ら幕府伝習生を非難するような口ぶりだ。
佐賀の伝習生たちは“団体戦”のつもりで頑張っている。
しかし、幕府の生徒たちは“個人戦”の出世競争に目が向いている様子だ。
「それも、あの男だ…佐野の振舞いが大きいな。」
勝麟太郎は、研究所の奇才や若い伝習生たちを引っ張る佐野の存在に注目していた。
――いまも積極的に伝習生に声を掛けて回る、佐野の背中が見える。
「それも貴方(あんた)らの殿様のお力なのかも知れねぇが…」
「然り。殿はいつも我らのことを気にかけてくださる。」
本島は、命懸けで鉄製大砲の製造にあたった日々を想い出す。
殿・鍋島直正は、失敗の責任を取ろうと切腹を申し出る本島を、こう諭した。
「死ぬことは許さん。生きて成し遂げよ。」と。
この命令は、本島を救い、十数回の失敗を乗り越える力となった。
――本島に、ひとしきり語ってから、勝麟太郎(海舟)が退出する。
「おいらは言葉遣いが雑でいけねぇ。江戸っ子なもんでね。ご勘弁を。」
「いや、何のお構いもできず。ご丁寧に恐れ入る。」
本島は、歩き去る勝麟太郎を見て思う。
「何やら“食えぬ男”という気配か。しかし、才気があるのは間違いあるまい…」
“賢い人物”が気になって仕方がない、本島藤太夫。
やはり殿・直正の傍に仕える人物である。

――さらに、佐賀の伝習生たちに極めつけの“贈り物”があった。乱反射する陽射しの中、ある“黒船”が姿を見せた。
佐賀藩がオランダより購入した蒸気軍艦が、長崎に入港したのである。そして、艦上に殿・鍋島直正が姿を見せる。
「おおっ、殿のお成りだ!」
「皆、控えよう。」
旧来の作法を取ろうとする伝習生を、本島藤太夫が諭す。
「礼法は、伝習で学んだ“海軍”の流儀で行うべし…との殿の仰せである。」
――西洋の海軍にならった礼法で殿を迎えるのだ。号令を掛ける佐野の声が響く。
「整列!」
港に向かって隊列を組み、居並ぶ佐賀の伝習生たち。
「敬礼!」
本島など殿の側近、中村など“精錬方”の面々、石丸など“蘭学寮”の若手…入港してきた“蒸気船”に、西洋式の儀礼を行う。
「しばらく見ぬうちに立派になりおって…」
鍋島直正。念願の蒸気軍艦“電流丸”から、海軍伝習で鍛えられた家来たちを見る。
この“電流丸”が、佐賀海軍の不動のエースとなる蒸気軍艦。
殿・直正とともに幕末の荒波を乗り越えていくのである。
(第13話「通商条約」に続く)
2020年07月28日
第12話「海軍伝習」⑩-1(負けんばい!・前編)
こんばんは。
前回の続きです。
「やられたら、やり返さんね!」ではありませんが…
幕府の伝習生が航海の訓練に出る中、船が無いので座学をしていた佐賀藩士たちは、今回から逆襲に転じます。
…とはいえ、「“倍返し”ばい!」というような遺恨の残る方法ではなく、前向きでスマートに対抗心を燃やします。第12話のラストの投稿も長くなったので、前・後編の設定です。
――1857年、長崎・出島。海軍の士官2名が、オランダ商館長との面会を待っている。ここからオランダ語の会話である。
待ち時間にティータイムと洒落込む。海軍士官ファビウス。
1854年、海軍伝習所の開設前に“予備伝習”も担当している。日本人に西洋海軍の技術を最初に教授したと言われる人物だ。
「香ばしい紅茶だ…」
「こうしていると、祖国オランダと変わるところが無いようだ。」
話している相手は、同じく海軍士官のカッテンディーケ。第2期の伝習の教官に着任した。
スパルタ指導に定評のあった教官ライケンの後任である。
ファビウスが、かつて艦長を務めた“観光丸”(スンビン号)は幕府に献上した。来日のたびに別の蒸気船を連れてくるのが、オランダ海軍である。
――佐野栄寿(常民)などは「阿蘭陀(オランダ)には、一体いくつ“蒸気船”があっとね!?」と驚いている。

教官に着任したカッテンディーケ。好奇心は旺盛だ。
「良質の茶葉を使っているようだ。これは…東インド産か?」
「いや…“嬉野”だ。」
ファビウスが答える。
「ウレシノ…?聞いたことが無いブランドだ。」
「…日本の著名な製茶地だ。覚えておいて損はない。」
「ところで、カッテンディーケ君。どうだね海軍の伝習は。」
「日本の者は、向学心がある。ただ…」
――ファビウスが、尋ねる。「どうしたね?気になる点でも。」
カッテンディーケが答える。
「幕府の伝習生の一部だが、知識の“つまみ食い”をしていると感じる。」
ファビウスが、言葉の含みを考えて返す。
「所詮は“出世”の道具と考えている…そんなところか。」
「“海軍の技術”を知らぬ者には大きい顔ができて、出世には役立つ…」
「教える側としては、嘆かわしいことだな。」
「そんな意識で取り組んだ者は、海軍では用を成さないでしょう。」
「まぁ、わがオランダは、幕府との繋がりを大事にすべきだ。」
オランダには“鎖国”時代も続いた日本との信頼関係がある。
貿易で新参の他国をリードしたいとの思惑があった。
――ここでカッテンディーケが「そうだ!」という表情をする。
「この前、数学の教官を待ち伏せしていた者がいた。」
「“待ち伏せ”とは、穏やかではないな…どうした?」
「その者は明日の朝には返すから、教本を貸してほしいと。」
「ほう。」
「夜な夜な、本を書き写しておるようです。」
今までの話しぶりと違い、カッテンディーケが楽し気に語った。
話を受けて、ファビウスはニヤリと笑う。
「たぶん…肥前佐賀の者だろう。」
「ファビウスさん、なぜ判るのですか!?」
「なにせ佐賀は…ご領主が、あの方だからな…私も質問攻めにあった。」
――ファビウスは、殿・鍋島直正を「西洋技術の理解者」と評している。ここから日本語である。
「よし!写し終わったばい!」
中牟田倉之助。数学の教本を、書き写し終えた。
「中牟田…あとで貸してくれんね?」
「良かよ。」
ここで、若手揃いの伝習生の間に40代の人物が駆け込む。
「喜べ!殿が帆船を買ってくださったぞ!」

本島藤太夫も“船が無い”伝習生たちの悔しさを感じていた。吉報を得て、歳も忘れて走り込んできたのである。
「おお-っ!」
どよめく佐賀の伝習生たち。
――これが佐賀藩が、はじめて入手した西洋式帆船“飛雲丸”。
長崎に入港した小型帆船を、無理を言ってオランダから購入した。
船の購入代金には、佐賀のハゼノキから作った特産品・“白蝋(ろう)”が充てられた。
「やったな!よかったやないか!」
喜びの声には“関西弁”も混じる。研究所の翻訳担当・石黒寛次(舞鶴出身)である。
佐野を見送ったはずが、結局、伝習に来ている“精錬方”の面々。そもそも“精錬方”のメンバーは、よく長崎に出入りしている。
――ついに自由に使える西洋式の船が手に入り、本格的に訓練ができる。
「これで航海の修練が積めるばい!今宵は宴会にしましょう!」
船長を務めるのは、伝習生のまとめ役である佐野と決まった。
「これは、美味いお酒が飲めそうだ!」
「佐野!お前は飲めたらええんちゃうのか…」
「石黒さん。これは“飛雲丸”の船出のお祝いです。細かいことは抜きでよかです!」
喜ぶ若手たちの表情を見て、佐野にも笑みがこぼれた。
(続く)
前回の続きです。
「やられたら、やり返さんね!」ではありませんが…
幕府の伝習生が航海の訓練に出る中、船が無いので座学をしていた佐賀藩士たちは、今回から逆襲に転じます。
…とはいえ、「“倍返し”ばい!」というような遺恨の残る方法ではなく、前向きでスマートに対抗心を燃やします。第12話のラストの投稿も長くなったので、前・後編の設定です。
――1857年、長崎・出島。海軍の士官2名が、オランダ商館長との面会を待っている。ここからオランダ語の会話である。
待ち時間にティータイムと洒落込む。海軍士官ファビウス。
1854年、海軍伝習所の開設前に“予備伝習”も担当している。日本人に西洋海軍の技術を最初に教授したと言われる人物だ。
「香ばしい紅茶だ…」
「こうしていると、祖国オランダと変わるところが無いようだ。」
話している相手は、同じく海軍士官のカッテンディーケ。第2期の伝習の教官に着任した。
スパルタ指導に定評のあった教官ライケンの後任である。
ファビウスが、かつて艦長を務めた“観光丸”(スンビン号)は幕府に献上した。来日のたびに別の蒸気船を連れてくるのが、オランダ海軍である。
――佐野栄寿(常民)などは「阿蘭陀(オランダ)には、一体いくつ“蒸気船”があっとね!?」と驚いている。
教官に着任したカッテンディーケ。好奇心は旺盛だ。
「良質の茶葉を使っているようだ。これは…東インド産か?」
「いや…“嬉野”だ。」
ファビウスが答える。
「ウレシノ…?聞いたことが無いブランドだ。」
「…日本の著名な製茶地だ。覚えておいて損はない。」
「ところで、カッテンディーケ君。どうだね海軍の伝習は。」
「日本の者は、向学心がある。ただ…」
――ファビウスが、尋ねる。「どうしたね?気になる点でも。」
カッテンディーケが答える。
「幕府の伝習生の一部だが、知識の“つまみ食い”をしていると感じる。」
ファビウスが、言葉の含みを考えて返す。
「所詮は“出世”の道具と考えている…そんなところか。」
「“海軍の技術”を知らぬ者には大きい顔ができて、出世には役立つ…」
「教える側としては、嘆かわしいことだな。」
「そんな意識で取り組んだ者は、海軍では用を成さないでしょう。」
「まぁ、わがオランダは、幕府との繋がりを大事にすべきだ。」
オランダには“鎖国”時代も続いた日本との信頼関係がある。
貿易で新参の他国をリードしたいとの思惑があった。
――ここでカッテンディーケが「そうだ!」という表情をする。
「この前、数学の教官を待ち伏せしていた者がいた。」
「“待ち伏せ”とは、穏やかではないな…どうした?」
「その者は明日の朝には返すから、教本を貸してほしいと。」
「ほう。」
「夜な夜な、本を書き写しておるようです。」
今までの話しぶりと違い、カッテンディーケが楽し気に語った。
話を受けて、ファビウスはニヤリと笑う。
「たぶん…肥前佐賀の者だろう。」
「ファビウスさん、なぜ判るのですか!?」
「なにせ佐賀は…ご領主が、あの方だからな…私も質問攻めにあった。」
――ファビウスは、殿・鍋島直正を「西洋技術の理解者」と評している。ここから日本語である。
「よし!写し終わったばい!」
中牟田倉之助。数学の教本を、書き写し終えた。
「中牟田…あとで貸してくれんね?」
「良かよ。」
ここで、若手揃いの伝習生の間に40代の人物が駆け込む。
「喜べ!殿が帆船を買ってくださったぞ!」
本島藤太夫も“船が無い”伝習生たちの悔しさを感じていた。吉報を得て、歳も忘れて走り込んできたのである。
「おお-っ!」
どよめく佐賀の伝習生たち。
――これが佐賀藩が、はじめて入手した西洋式帆船“飛雲丸”。
長崎に入港した小型帆船を、無理を言ってオランダから購入した。
船の購入代金には、佐賀のハゼノキから作った特産品・“白蝋(ろう)”が充てられた。
「やったな!よかったやないか!」
喜びの声には“関西弁”も混じる。研究所の翻訳担当・石黒寛次(舞鶴出身)である。
佐野を見送ったはずが、結局、伝習に来ている“精錬方”の面々。そもそも“精錬方”のメンバーは、よく長崎に出入りしている。
――ついに自由に使える西洋式の船が手に入り、本格的に訓練ができる。
「これで航海の修練が積めるばい!今宵は宴会にしましょう!」
船長を務めるのは、伝習生のまとめ役である佐野と決まった。
「これは、美味いお酒が飲めそうだ!」
「佐野!お前は飲めたらええんちゃうのか…」
「石黒さん。これは“飛雲丸”の船出のお祝いです。細かいことは抜きでよかです!」
喜ぶ若手たちの表情を見て、佐野にも笑みがこぼれた。
(続く)
2020年07月26日
第12話「海軍伝習」⑨-2(悔しかごたぁ・後編)
こんばんは。
新型コロナの感染拡大で、打ち込んできた部活の大会、楽しみにしていたイベントの中止…色々と「悔しい」想いをしている若者も多いことでしょう。
もっと切実なのは、仕事の環境の変容や、見込んでいた商機の逸失に悩む大人かもしれません…近いうちに「倍返し」できる手立ては無いものか。
「大河ドラマ」ではありませんが、他局のドラマを見てそう思います。
…前回の続き、「悔しい」話の後編です。
――長崎。若手(20歳ぐらい)を、次々と海軍伝習に派遣する佐賀藩。
「本日は、“観光丸”にて操練ができっとですか?」
「いや、航海の日ゆえ、“公儀”(幕府)伝習生だけが船に乗る。」
殿・鍋島直正の側近でもある本島藤太夫。若手だけでも、航海の訓練を受けさせたいが…という、歯がゆい面持ちが見て取れる。
――佐賀藩の海軍伝習への派遣は48名と伝わる。諸藩で最多の参加人数。大勢の若者がこの伝習に情熱を燃やす。
「では、帆船であれば、使えんとですか?」
「そいも…難しか。」
参加者たちのまとめ役として面倒を見るのは、佐野栄寿(常民)である。表情からは、本島と同じく悔しさが伺える。
――言うまでもなく、長崎での海軍伝習は、幕府の主宰である。
湾外での航海など実践的な訓練は、幕府の伝習生が優先された。
「我々は海に出るゆえ、佐賀の諸君もせいぜい励みたまえ。」
余計な声掛けである。幕府伝習生にメラメラと対抗心を燃やす者もいる。
「…海に出るのは良かばってん。黙って行かんね!」
幕府伝習生には、勝鱗太郎(海舟)や榎本武揚などの俊英がいるが、出世のための“箔付け”で参加した者も居る様子だ。

――目の前を通り過ぎて行くのは、蒸気船“観光丸”。殿・直正も欲しがっていた“黒船”である。
得意気な様子で艦上に並び、航海に出る幕府伝習生たち。
「悔しかごたぁ!!」
佐賀の伝習生たちも、実際の航海で“黒船”の操練を学びたい。
幾人かの本音は、長崎の海に響いた。
そこで石丸虎五郎が、きょろきょろと辺りを見回す。
「あれっ、中牟田(なかむた)はどこね?」
「そこに居っとよ。」
「…そがんか…“和算”とは解き方が異なっとね…」
中牟田倉之助はその場に座り込み、オランダの数学書を読み解いていた。実習が無いことを悔しがるより、西洋数学の方が魅力的なようだ。
――造船、航海、測量、天文、地理…様々な数字を用いる近代海軍。数学の知識は必須である。
佐賀藩は家柄よりも、実習に適した人材を送り込んでいた。
「中牟田に続かんね!今しか学べんことがあるばい!」
佐野が、ひと回り年下の伝習生たちを鼓舞する。
「そがんたいっ!まず、できることをせんば!」
「よかごたっ!」
せっかく海軍伝習に来たのに、自由に動かせる船が無い。そんな制約の中で佐賀藩士たちは、声を掛け合って猛勉強を始めたのである。
(続く)
新型コロナの感染拡大で、打ち込んできた部活の大会、楽しみにしていたイベントの中止…色々と「悔しい」想いをしている若者も多いことでしょう。
もっと切実なのは、仕事の環境の変容や、見込んでいた商機の逸失に悩む大人かもしれません…近いうちに「倍返し」できる手立ては無いものか。
「大河ドラマ」ではありませんが、他局のドラマを見てそう思います。
…前回の続き、「悔しい」話の後編です。
――長崎。若手(20歳ぐらい)を、次々と海軍伝習に派遣する佐賀藩。
「本日は、“観光丸”にて操練ができっとですか?」
「いや、航海の日ゆえ、“公儀”(幕府)伝習生だけが船に乗る。」
殿・鍋島直正の側近でもある本島藤太夫。若手だけでも、航海の訓練を受けさせたいが…という、歯がゆい面持ちが見て取れる。
――佐賀藩の海軍伝習への派遣は48名と伝わる。諸藩で最多の参加人数。大勢の若者がこの伝習に情熱を燃やす。
「では、帆船であれば、使えんとですか?」
「そいも…難しか。」
参加者たちのまとめ役として面倒を見るのは、佐野栄寿(常民)である。表情からは、本島と同じく悔しさが伺える。
――言うまでもなく、長崎での海軍伝習は、幕府の主宰である。
湾外での航海など実践的な訓練は、幕府の伝習生が優先された。
「我々は海に出るゆえ、佐賀の諸君もせいぜい励みたまえ。」
余計な声掛けである。幕府伝習生にメラメラと対抗心を燃やす者もいる。
「…海に出るのは良かばってん。黙って行かんね!」
幕府伝習生には、勝鱗太郎(海舟)や榎本武揚などの俊英がいるが、出世のための“箔付け”で参加した者も居る様子だ。

――目の前を通り過ぎて行くのは、蒸気船“観光丸”。殿・直正も欲しがっていた“黒船”である。
得意気な様子で艦上に並び、航海に出る幕府伝習生たち。
「悔しかごたぁ!!」
佐賀の伝習生たちも、実際の航海で“黒船”の操練を学びたい。
幾人かの本音は、長崎の海に響いた。
そこで石丸虎五郎が、きょろきょろと辺りを見回す。
「あれっ、中牟田(なかむた)はどこね?」
「そこに居っとよ。」
「…そがんか…“和算”とは解き方が異なっとね…」
中牟田倉之助はその場に座り込み、オランダの数学書を読み解いていた。実習が無いことを悔しがるより、西洋数学の方が魅力的なようだ。
――造船、航海、測量、天文、地理…様々な数字を用いる近代海軍。数学の知識は必須である。
佐賀藩は家柄よりも、実習に適した人材を送り込んでいた。
「中牟田に続かんね!今しか学べんことがあるばい!」
佐野が、ひと回り年下の伝習生たちを鼓舞する。
「そがんたいっ!まず、できることをせんば!」
「よかごたっ!」
せっかく海軍伝習に来たのに、自由に動かせる船が無い。そんな制約の中で佐賀藩士たちは、声を掛け合って猛勉強を始めたのである。
(続く)
2020年07月25日
第12話「海軍伝習」⑨-1(悔しかごたぁ・前編)
こんばんは。
投稿を作成したら、長くなり過ぎたので、前・後編に分けます。なお、サブタイトルどおり、両方とも“悔しい”話を準備しています。
さて、前回。殿・鍋島直正は黒船(西洋式の艦船)を操る人材の育成を急務と判断。その翌年、佐賀城下の“精錬方”では、蒸気機関車(模型)のテスト走行で、佐野栄寿(常民)を見送った…という展開でした。
この頃には、長崎でオランダ士官による、本格的な海軍技術の伝習が始まっています。
――その頃、佐賀城下の多布施にある“蘭学寮”。
教師・杉谷雍助が、優秀な生徒たちに声をかける。
「先日、話していた長崎での伝習の件だが…」
「いよいよですか。待ちきれんがごたです。」
中牟田倉之助。学生たちを“イナゴの群れ”に例えて、何やら計算をしていた少年。もちろん、得意科目は数学。
「いつお呼びがあっても、仕度は万端です。」
石丸虎五郎(安世)。理数系も強いが、語学力も卓越している。
石丸は、のちに東京-長崎間に電信線を敷設し、情報の伝達速度を一変させる人物。佐賀藩士だったので、絶縁体である碍子(がいし)の製造に「有田の磁器の技術が使える!」と気づいたのである。
――その場に居合わせたボサボサ髪の“蘭学寮”生、江藤新平が2人に声を掛けた。
「この国の“海防”は、貴君らの双肩に掛かるようだ!」
江藤が、中牟田・石丸の両名に、仰々しい言葉をかける。
「お主らなら、間違いは無い!」
先輩らしい見送りのセリフだ。
孤高の人っぽい江藤であるが、賢い後輩たちを認めている様子だ。
「何ゆえ、江藤さんは伝習に呼ばれんとですか?」
ここで中牟田が、素朴な疑問を発する。
どうやら“空気を読まない”のは、江藤の専売特許ではないらしい。全力で理系少年の中牟田が、この場では避けるべき質問をした。

――教師・杉谷が渋い顔をする。「わかっている…江藤は優秀なのだ!でも、貧乏なのだ…」これは当人の前では言いづらい。
すると、江藤が口を開いた。
「私とて、長崎に向かいたい気持ちは山々だ!」
「では、我らとともに参りましょう!」
石丸虎五郎(安世)は、江藤の“義祭同盟”での活躍を知っている。
賢いと評判の先輩に“伝習に行きますよね!”と尋ねる、無邪気な下級生と考えてほしい。
「私には取り組んでいる“仕事”があるのだ。」
「それは、如何なる物ですか!?」
――藩の役人でもない先輩・江藤の“仕事”とは何か、石丸の疑問は当然である。
「建白書を綴っている。“図海策”と名付くものだ。」
“図海策”とは翌1856年に完成する、江藤新平の意見書である。
その内容は、極めて先進的。
“民が苦しむ”という理由で、“攘夷”戦争への突入を否定。むしろ、海洋国・日本の立地を活かして、積極的に貿易を進めるべし…という、とても地方の書生とは思えない意見である。
教師・杉谷は、江藤自身の言葉により“言いづらいことを語る”窮地を脱した。
「そうだ!江藤も、己の信ずるところに、力を尽くしておるのだ。」
――これで“蘭学寮”の教師として、中牟田と石丸の2人を送り出せる。
教師・杉谷は、2人への期待を伝える。
「お前たちは長崎の伝習で、力の限り学んで来い。」
「はい!」
中牟田倉之助が大きく返事をする。
「肥前佐賀の名に恥じぬ、修練を積んで参ります!」
石丸虎五郎(安世)も決意を述べた。
――下級生2人の情熱に満ちた表情を見つめる、江藤。
意見書の構想があるのも事実だったが、江藤家は、何とか武士扱いされる程度の“手明鑓”の身分。
「長崎の伝習…、受けたいに決まっておる…」
旅立つ後輩2人の後ろ姿に悔しさを感じる江藤、学費が足らないのも現実だったのである。
(続く)
投稿を作成したら、長くなり過ぎたので、前・後編に分けます。なお、サブタイトルどおり、両方とも“悔しい”話を準備しています。
さて、前回。殿・鍋島直正は黒船(西洋式の艦船)を操る人材の育成を急務と判断。その翌年、佐賀城下の“精錬方”では、蒸気機関車(模型)のテスト走行で、佐野栄寿(常民)を見送った…という展開でした。
この頃には、長崎でオランダ士官による、本格的な海軍技術の伝習が始まっています。
――その頃、佐賀城下の多布施にある“蘭学寮”。
教師・杉谷雍助が、優秀な生徒たちに声をかける。
「先日、話していた長崎での伝習の件だが…」
「いよいよですか。待ちきれんがごたです。」
中牟田倉之助。学生たちを“イナゴの群れ”に例えて、何やら計算をしていた少年。もちろん、得意科目は数学。
「いつお呼びがあっても、仕度は万端です。」
石丸虎五郎(安世)。理数系も強いが、語学力も卓越している。
石丸は、のちに東京-長崎間に電信線を敷設し、情報の伝達速度を一変させる人物。佐賀藩士だったので、絶縁体である碍子(がいし)の製造に「有田の磁器の技術が使える!」と気づいたのである。
――その場に居合わせたボサボサ髪の“蘭学寮”生、江藤新平が2人に声を掛けた。
「この国の“海防”は、貴君らの双肩に掛かるようだ!」
江藤が、中牟田・石丸の両名に、仰々しい言葉をかける。
「お主らなら、間違いは無い!」
先輩らしい見送りのセリフだ。
孤高の人っぽい江藤であるが、賢い後輩たちを認めている様子だ。
「何ゆえ、江藤さんは伝習に呼ばれんとですか?」
ここで中牟田が、素朴な疑問を発する。
どうやら“空気を読まない”のは、江藤の専売特許ではないらしい。全力で理系少年の中牟田が、この場では避けるべき質問をした。
――教師・杉谷が渋い顔をする。「わかっている…江藤は優秀なのだ!でも、貧乏なのだ…」これは当人の前では言いづらい。
すると、江藤が口を開いた。
「私とて、長崎に向かいたい気持ちは山々だ!」
「では、我らとともに参りましょう!」
石丸虎五郎(安世)は、江藤の“義祭同盟”での活躍を知っている。
賢いと評判の先輩に“伝習に行きますよね!”と尋ねる、無邪気な下級生と考えてほしい。
「私には取り組んでいる“仕事”があるのだ。」
「それは、如何なる物ですか!?」
――藩の役人でもない先輩・江藤の“仕事”とは何か、石丸の疑問は当然である。
「建白書を綴っている。“図海策”と名付くものだ。」
“図海策”とは翌1856年に完成する、江藤新平の意見書である。
その内容は、極めて先進的。
“民が苦しむ”という理由で、“攘夷”戦争への突入を否定。むしろ、海洋国・日本の立地を活かして、積極的に貿易を進めるべし…という、とても地方の書生とは思えない意見である。
教師・杉谷は、江藤自身の言葉により“言いづらいことを語る”窮地を脱した。
「そうだ!江藤も、己の信ずるところに、力を尽くしておるのだ。」
――これで“蘭学寮”の教師として、中牟田と石丸の2人を送り出せる。
教師・杉谷は、2人への期待を伝える。
「お前たちは長崎の伝習で、力の限り学んで来い。」
「はい!」
中牟田倉之助が大きく返事をする。
「肥前佐賀の名に恥じぬ、修練を積んで参ります!」
石丸虎五郎(安世)も決意を述べた。
――下級生2人の情熱に満ちた表情を見つめる、江藤。
意見書の構想があるのも事実だったが、江藤家は、何とか武士扱いされる程度の“手明鑓”の身分。
「長崎の伝習…、受けたいに決まっておる…」
旅立つ後輩2人の後ろ姿に悔しさを感じる江藤、学費が足らないのも現実だったのである。
(続く)
2020年07月23日
第12話「海軍伝習」⑧(いざ、長崎へ)
こんばんは。
本編に戻ります。ここで第11話「蝦夷探検」のオープニングを振り返るところから。
殿・鍋島直正は、いきなり蒸気船“スンビン号”を買おうとしました。
〔参照:第11話「蝦夷探検」①(殿、蒸気船に乗る)〕
これは幕府が長崎海軍伝習所を開設するための“予備伝習”。いわばプレオープンとして行った蒸気船の航海でした。
――1854年、長崎。殿・鍋島直正が蒸気船“スンビン号”から下船する。
「本島よ!“スンビン号”は惜しかったのう…!」
殿・直正は“釣り逃がした魚”が、まだ惜しいようだ。
「はっ。しかし艦長どのが、良き船が得られるよう助力すると。」
「そうじゃな。押すのじゃ!確かに“黒船”が得られるまで押すのじゃ!」
その時点での“スンビン号”艦長はファビウスというオランダ軍人。
日本に西洋式海軍の創設を勧めた。そして翌年、この蒸気船は幕府に献上され、“観光丸”と名付けられる。
――当時、日米和親条約が結ばれ、諸外国との交渉も進んでいた。
諸大名が“大船”の所持を禁じられた時代は終わったのである。
「そうじゃ。わが家来が“黒船”を操れねば、意味を成さぬな…」
直正は、海軍人材の育成にいち早く着目していた。
「さすが、殿…」
本島藤太夫、側近としての“お世辞”ではなく、感嘆する。
当時の大名にも、賢公や開明的と呼ばれる人物は幾人かいるが…
実際に蒸気船に乗り込んで“この船、買う!”と言い出したり、自ら海軍の伝習生集めを画策するのは、直正ぐらいのものである。
――結局、側近の本島藤太夫(40代)まで海軍伝習に参加すると決まっている。
「わが家来はとにかく学ばねばならぬ…でございますね。」
本島は、殿の言葉をなぞって、自分を鼓舞する。
かなりハードな“四十の手習い”になるだろう。
本島は、覚悟を決めた様子だ。
「昔日ほど物覚えが良くありませぬ。されど…また一から学ぶ所存にござる!」
「そうじゃ、さすがは本島であるな!よくぞ申した!」
殿・鍋島直正、やる気を見せる家来に意気が上がる。すでに“黒船”が買えなかったショックから立ち直った様子だ。
――1855年、佐賀。多布施にある理化学研究所“精錬方”。
「そいぎ、行って来るけん。」
佐野栄寿(常民)も、海軍伝習を受けるため、長崎に旅立つ。
「待たんね!」
技術者・田中久重が、背を向けようとする佐野を呼び留めた。
「“ええもん”があるから、旅立つ前に見ていけや!」
蘭学者・石黒寛次。今日は、翻訳小屋から出てきている。

――ポッ…!軽い“汽笛”の音がした。
シュッシュッシュ…耳慣れない音が聞こえる。
しかし、佐野栄寿には、その音の“正体”がわかった。
「陸蒸気(おかじょうき)…?」
しばらく、伝習への準備で忙しかった佐野。
試作品(ひな型)の完成は確認していたが、ここまでのものが仕上がっていた。
――ついに佐賀藩の“精錬方”は自前で“蒸気機関”を作ることに成功したのである。
「どうどす~、佐野はんっ!泣けるやろっ!」
科学者・中村奇輔が“陸蒸気”(機関車)の向こう側から声を張る。
たぶん佐野は感動で泣くだろう…という、旅立ちの餞(はなむけ)である。
「中村さんっ!もう涙で前が見えません…長崎に行きづらいじゃなかですか~っ!」
――同じく1855年、ふたたび長崎。幕府が開設した。長崎の海軍伝習所は“海軍士官”の学校である。
“海軍士官”は、部下である水兵や水夫たちを、まさに手足のように使わねばならない。
教官となったオランダ人士官・ライケンの激が飛ぶ。
「キビキビト、動ケ!」
「はい!教官!」
「士官ガ、ボンヤリ突ッ立ッテイテハ、部下モ動ケナイゾ!」

――洋式帆船のマストに登り、帆を張る訓練。
「体デ覚エルンダ!」
既に40歳を超えている、本島藤太夫。
「これはこたえるな…」
吹き出す汗。体の予期せぬところの筋肉を使うことによる疲労感。
――少し後ろを見る。佐野栄寿もヨロヨロと登っている。
「佐野!どうしたのだ?私より遅いとは…」
本島が、後ろを見遣って声をかける。
しかし、佐野も30代であるから伝習生としては若い方ではない。
「いや、面目次第もございません。」
佐野、目がウルウルしている。何やら気分が悪そうだ。
「佐野…さては。昨夜、飲み過ぎたな!」
「本島さま!以後、気を付けまする!」
――実は“鯨飲”と言われるほど酒が好きな佐野。秀才でも油断することはあるようだ。
教官ライケンの叱責が飛ぶ。
「コラ!ソコ!私語ハ慎メ!」
そして、よく響く大声で伝習生たちに訓示をする
「“士官”デサエ有レバ、部下ハ従ウカ!?…ソンナ事ハ、無イゾ!」
「皆、励メ!競ウノダ。君タチハ、優レタ“士官”ニナレ!」
「はい!教官!」
今にも吐きそうな佐野も、大声を張った。
(続く)
本編に戻ります。ここで第11話「蝦夷探検」のオープニングを振り返るところから。
殿・鍋島直正は、いきなり蒸気船“スンビン号”を買おうとしました。
〔参照:
これは幕府が長崎海軍伝習所を開設するための“予備伝習”。いわばプレオープンとして行った蒸気船の航海でした。
――1854年、長崎。殿・鍋島直正が蒸気船“スンビン号”から下船する。
「本島よ!“スンビン号”は惜しかったのう…!」
殿・直正は“釣り逃がした魚”が、まだ惜しいようだ。
「はっ。しかし艦長どのが、良き船が得られるよう助力すると。」
「そうじゃな。押すのじゃ!確かに“黒船”が得られるまで押すのじゃ!」
その時点での“スンビン号”艦長はファビウスというオランダ軍人。
日本に西洋式海軍の創設を勧めた。そして翌年、この蒸気船は幕府に献上され、“観光丸”と名付けられる。
――当時、日米和親条約が結ばれ、諸外国との交渉も進んでいた。
諸大名が“大船”の所持を禁じられた時代は終わったのである。
「そうじゃ。わが家来が“黒船”を操れねば、意味を成さぬな…」
直正は、海軍人材の育成にいち早く着目していた。
「さすが、殿…」
本島藤太夫、側近としての“お世辞”ではなく、感嘆する。
当時の大名にも、賢公や開明的と呼ばれる人物は幾人かいるが…
実際に蒸気船に乗り込んで“この船、買う!”と言い出したり、自ら海軍の伝習生集めを画策するのは、直正ぐらいのものである。
――結局、側近の本島藤太夫(40代)まで海軍伝習に参加すると決まっている。
「わが家来はとにかく学ばねばならぬ…でございますね。」
本島は、殿の言葉をなぞって、自分を鼓舞する。
かなりハードな“四十の手習い”になるだろう。
本島は、覚悟を決めた様子だ。
「昔日ほど物覚えが良くありませぬ。されど…また一から学ぶ所存にござる!」
「そうじゃ、さすがは本島であるな!よくぞ申した!」
殿・鍋島直正、やる気を見せる家来に意気が上がる。すでに“黒船”が買えなかったショックから立ち直った様子だ。
――1855年、佐賀。多布施にある理化学研究所“精錬方”。
「そいぎ、行って来るけん。」
佐野栄寿(常民)も、海軍伝習を受けるため、長崎に旅立つ。
「待たんね!」
技術者・田中久重が、背を向けようとする佐野を呼び留めた。
「“ええもん”があるから、旅立つ前に見ていけや!」
蘭学者・石黒寛次。今日は、翻訳小屋から出てきている。

――ポッ…!軽い“汽笛”の音がした。
シュッシュッシュ…耳慣れない音が聞こえる。
しかし、佐野栄寿には、その音の“正体”がわかった。
「陸蒸気(おかじょうき)…?」
しばらく、伝習への準備で忙しかった佐野。
試作品(ひな型)の完成は確認していたが、ここまでのものが仕上がっていた。
――ついに佐賀藩の“精錬方”は自前で“蒸気機関”を作ることに成功したのである。
「どうどす~、佐野はんっ!泣けるやろっ!」
科学者・中村奇輔が“陸蒸気”(機関車)の向こう側から声を張る。
たぶん佐野は感動で泣くだろう…という、旅立ちの餞(はなむけ)である。
「中村さんっ!もう涙で前が見えません…長崎に行きづらいじゃなかですか~っ!」
――同じく1855年、ふたたび長崎。幕府が開設した。長崎の海軍伝習所は“海軍士官”の学校である。
“海軍士官”は、部下である水兵や水夫たちを、まさに手足のように使わねばならない。
教官となったオランダ人士官・ライケンの激が飛ぶ。
「キビキビト、動ケ!」
「はい!教官!」
「士官ガ、ボンヤリ突ッ立ッテイテハ、部下モ動ケナイゾ!」
――洋式帆船のマストに登り、帆を張る訓練。
「体デ覚エルンダ!」
既に40歳を超えている、本島藤太夫。
「これはこたえるな…」
吹き出す汗。体の予期せぬところの筋肉を使うことによる疲労感。
――少し後ろを見る。佐野栄寿もヨロヨロと登っている。
「佐野!どうしたのだ?私より遅いとは…」
本島が、後ろを見遣って声をかける。
しかし、佐野も30代であるから伝習生としては若い方ではない。
「いや、面目次第もございません。」
佐野、目がウルウルしている。何やら気分が悪そうだ。
「佐野…さては。昨夜、飲み過ぎたな!」
「本島さま!以後、気を付けまする!」
――実は“鯨飲”と言われるほど酒が好きな佐野。秀才でも油断することはあるようだ。
教官ライケンの叱責が飛ぶ。
「コラ!ソコ!私語ハ慎メ!」
そして、よく響く大声で伝習生たちに訓示をする
「“士官”デサエ有レバ、部下ハ従ウカ!?…ソンナ事ハ、無イゾ!」
「皆、励メ!競ウノダ。君タチハ、優レタ“士官”ニナレ!」
「はい!教官!」
今にも吐きそうな佐野も、大声を張った。
(続く)
2020年07月22日
「井伊の“赤鬼”ふたたび」
こんばんは。
“本編”に戻る前に、また補足を入れていきます。
今日も“井伊家”について語ります。もちろん昨日「おんな城主直虎」について語った影響が残っています。
私はこの大河ドラマもかなりの名作だと思っています。
脚本の森下佳子さんは、TBS系ドラマ「JIN-仁-」で幕末も描いている方です。
――さて、幕末の話で“井伊家”と言えば、あの方。大老・井伊直弼の話をせねばなりません。
現在の“本編”は1854年~1857年あたりを色んな視点で描いています。
当時の老中・阿部正弘は、何とか“黒船来航”の危機を乗り切りました。
「諸侯の力を集め、国を守らねば…」
ペリーが来たときに、諸大名に意見を募った姿勢は変わりません。超・調整型リーダーです。
どこが“超”なのかというと、物凄く人の話を聞きます。最善手を見つけるまで、色んな人に聞きます。
――老中・阿部正弘、沿海の防備強化から欧米との外交まで、次々に人材を登用します。
まず、高島秋帆、江川英龍ら、砲術などの専門知識がある人物を重視。
そして、外交では川路聖謨や岩瀬忠震ら“切れ者”の官僚を見出します。
開国後は、オランダに意見を求めて、海軍の創設に舵を切ります。長崎海軍伝習所が出来たのも、この方針に拠ります。
この流れで、勝海舟や榎本武揚などが頭角を現します。
――“ご老中”のオープンな姿勢に、大名たちも次々に政治参加。
幕府は海岸沿いに領地を持つ雄藩と連携を深めます。とくに活発に動いたのは、福井藩の松平春嶽らのグループ。
薩摩藩・島津斉彬
土佐藩・山内容堂
宇和島藩・伊達宗城
諸侯で政治を担う時代に向けて、老中・阿部正弘は、以上の通称「幕末の四賢侯」とも話合いを重ねます。
この会合でも「外交は、佐賀の鍋島に受け持ってもらってはどうか」という議論だったようです。
薩摩の島津斉彬は鍋島直正のいとこ、宇和島の伊達宗城は直正の義兄。一応、縁戚関係もあるのですが、何より実力による評価です。
――この面々が皆で「賢いから、次の将軍に!」と考えたのが、一橋慶喜です。
ところが結集の軸であった老中・阿部正弘が1857年に、この世を去ります。
存命であれば、幕府のもとで「全国の大名の力を集めた政治が出来ただろう。」とか、「すなわち“安政維新”が可能であった!」という主張まで見かけます。
阿部正弘は開国を先導しつつも、過激な攘夷思想の水戸藩・徳川斉昭とも折り合いをつけました。恐るべき調整能力だったのでしょう。
――これだけの面々が一斉に推した、一橋慶喜ですが、次の将軍にはなっていません。
そのあとに幕府の大老になった彦根藩主・井伊直弼が、“一橋派の面々”を一気に抑え込みました。紀州藩・徳川慶福(家茂)を第14代将軍に付けたのです。
大名の結集ではなく、幕府の力で国を引っ張って行こうとした“剛腕”。
かつて、徳川家康に仕えた四天王・井伊直政は“井伊の赤鬼”とまで恐れられました。しかし、ご子孫も負けていないように思われます。
――そんな“井伊の赤鬼”の末裔・井伊直弼から例外的に信頼されていた、外様大名がいます。
またしても、肥前佐賀藩主・鍋島直正です。
当時、松平姓を名乗ったり、斉正という名であったりと、何かと徳川家に近い立場です。
開国通商で、国力の増強を図ろうとした大老・井伊直弼。
海軍の整備が必須と考えており、直正に相談を持ちかけていたようです。
敵の多い大老だったので「会津と佐賀くらいしか私の心を理解してくれない…」と言っていたとか。
佐賀の話を中心に描きたいので、次話「通商条約」までの時代背景の参考です。第12話「海軍伝習」もあと3回くらいで終わらせるのが目安です。
本日の内容は、以前の投稿と少し重複してしまいました。書きたいことは、色々とあるのですが、まとめるのが難しい…です。
“本編”に戻る前に、また補足を入れていきます。
今日も“井伊家”について語ります。もちろん昨日「おんな城主直虎」について語った影響が残っています。
私はこの大河ドラマもかなりの名作だと思っています。
脚本の森下佳子さんは、TBS系ドラマ「JIN-仁-」で幕末も描いている方です。
――さて、幕末の話で“井伊家”と言えば、あの方。大老・井伊直弼の話をせねばなりません。
現在の“本編”は1854年~1857年あたりを色んな視点で描いています。
当時の老中・阿部正弘は、何とか“黒船来航”の危機を乗り切りました。
「諸侯の力を集め、国を守らねば…」
ペリーが来たときに、諸大名に意見を募った姿勢は変わりません。超・調整型リーダーです。
どこが“超”なのかというと、物凄く人の話を聞きます。最善手を見つけるまで、色んな人に聞きます。
――老中・阿部正弘、沿海の防備強化から欧米との外交まで、次々に人材を登用します。
まず、高島秋帆、江川英龍ら、砲術などの専門知識がある人物を重視。
そして、外交では川路聖謨や岩瀬忠震ら“切れ者”の官僚を見出します。
開国後は、オランダに意見を求めて、海軍の創設に舵を切ります。長崎海軍伝習所が出来たのも、この方針に拠ります。
この流れで、勝海舟や榎本武揚などが頭角を現します。
――“ご老中”のオープンな姿勢に、大名たちも次々に政治参加。
幕府は海岸沿いに領地を持つ雄藩と連携を深めます。とくに活発に動いたのは、福井藩の松平春嶽らのグループ。
薩摩藩・島津斉彬
土佐藩・山内容堂
宇和島藩・伊達宗城
諸侯で政治を担う時代に向けて、老中・阿部正弘は、以上の通称「幕末の四賢侯」とも話合いを重ねます。
この会合でも「外交は、佐賀の鍋島に受け持ってもらってはどうか」という議論だったようです。
薩摩の島津斉彬は鍋島直正のいとこ、宇和島の伊達宗城は直正の義兄。一応、縁戚関係もあるのですが、何より実力による評価です。
――この面々が皆で「賢いから、次の将軍に!」と考えたのが、一橋慶喜です。
ところが結集の軸であった老中・阿部正弘が1857年に、この世を去ります。
存命であれば、幕府のもとで「全国の大名の力を集めた政治が出来ただろう。」とか、「すなわち“安政維新”が可能であった!」という主張まで見かけます。
阿部正弘は開国を先導しつつも、過激な攘夷思想の水戸藩・徳川斉昭とも折り合いをつけました。恐るべき調整能力だったのでしょう。
――これだけの面々が一斉に推した、一橋慶喜ですが、次の将軍にはなっていません。
そのあとに幕府の大老になった彦根藩主・井伊直弼が、“一橋派の面々”を一気に抑え込みました。紀州藩・徳川慶福(家茂)を第14代将軍に付けたのです。
大名の結集ではなく、幕府の力で国を引っ張って行こうとした“剛腕”。
かつて、徳川家康に仕えた四天王・井伊直政は“井伊の赤鬼”とまで恐れられました。しかし、ご子孫も負けていないように思われます。
――そんな“井伊の赤鬼”の末裔・井伊直弼から例外的に信頼されていた、外様大名がいます。
またしても、肥前佐賀藩主・鍋島直正です。
当時、松平姓を名乗ったり、斉正という名であったりと、何かと徳川家に近い立場です。
開国通商で、国力の増強を図ろうとした大老・井伊直弼。
海軍の整備が必須と考えており、直正に相談を持ちかけていたようです。
敵の多い大老だったので「会津と佐賀くらいしか私の心を理解してくれない…」と言っていたとか。
佐賀の話を中心に描きたいので、次話「通商条約」までの時代背景の参考です。第12話「海軍伝習」もあと3回くらいで終わらせるのが目安です。
本日の内容は、以前の投稿と少し重複してしまいました。書きたいことは、色々とあるのですが、まとめるのが難しい…です。
2020年07月21日
「心に引っかかること」
こんばんは。“本編”の中休みです。
まったく個人的な話ですが、ここ数日の間、頭痛が続いています。
「何が原因なのか」と考えてみました。
直近の仕事での気疲れ…
新型コロナの感染拡大への懸念…
大雨のあとの猛暑、そしてまた大雨の予報…
――ふと思い至ったのが、数日前の人気俳優の訃報です。
申し上げる間でもありませんが、三浦春馬さんの逝去に関連した情報が連日テレビやネットで流れています。
さほど熱心なファンだったわけでもないのに、想定以上のダメージを受けている気がします。
――当ブログのテーマで語るとすれば、やはり「大河ドラマ」になります。
2017年大河ドラマ「おんな城主直虎」。
三浦春馬さんは、井伊直親という役を演じていました。
柴咲コウさんが演じた主人公・井伊直虎(おとわ)は、浜松にある“井伊谷”領主の娘。もともと一族の井伊直親が領主を継ぎ、主人公・直虎(おとわ)を妻とするはずでした。
主人公・直虎(おとわ)と、“婚約者”直親の幼少の日々。もう1人の幼馴染み・小野政次と3人で成長していく姿が描かれます。
しかし、直親の父が大大名“今川家”への謀反を疑われ、直親自身にも危機が迫ります。
笛を愛する繊細な少年だった直親。
身を隠し、そのまま行方知れずとなりました。
――以上が、主人公たちを子役が演じていたとき。あらすじは、ほぼ記憶頼みです。正確性に自信はありません。
直虎(おとわ)は、誰とも結婚しない!と寺に入り、そこで成長していきます。皆のために働く尼さんとして地域の人たちに慕われます。
この辺から、柴咲コウさんが演じています。
そのタイミングで、幼い頃に行方知れずとなっていた直親が、突然帰ってきます。容姿端麗、文武両道…まさに貴公子。
――井伊直親は、いわばパーフェクトなイケメンに成長して帰ってきます。
ここから三浦春馬さんが演じているのですが、「うわっ、そう来たか」という輝きっぷりでした。
直親は「これでもか!」というほどの魅力的な笑顔を見せます。
直虎(おとわ)は、今川家からの監視の目もあって、尼として女を捨てて生きることを選んでいます。
そこで、超カッコ良くなって戻ってきた“元・婚約者”の出現。女性として幸せになりたいという気持ちが直虎(おとわ)にも芽生えます、尼さんとしては“煩悩”に苛まれることに…
――主人公・直虎(おとわ)は、涙ながらに“煩悩”に背を向け、直親は別の女性を正室に迎えます。
こうして誕生した赤ん坊・虎松が、井伊家の後継ぎ。
のちに徳川家康の配下“四天王”の猛将になる井伊直政です。(成長後のキャストは、菅田将暉さんでした)
しかし、小領主の悲哀を徹底的に描いたこのドラマ。領主たちを支配する、今川家の権力の強さも「これでもか…」と示されます。
こうして、井伊直親は今川家の策略に嵌り、命を落とします。
三浦春馬さんの演技が、残像が見えるかのように印象深かった…と記憶します。
主人公・直虎は、もう一人の幼馴染み・小野政次(演:高橋一生)に影から支えられ、直親の子・虎松を守っていきます。
多くの犠牲を払いながらも、あの手この手で策を練り、荒れ狂う戦国の世で“井伊家”の存続に成功するストーリーでした。
――先述の展開で、三浦春馬さんはラストまで出演はしていませんが、全編を通じて存在感があったように思います。
これからも「大河ドラマ」などで、何度でもお見かけする方だと思っていました。
幕末が題材ならば、倒幕に奔走する志士、幕府に忠義を尽くす侍…いずれでも魅力的な人物像を示せたでしょう。
もしかすると、日本の近代化に全力を傾ける佐賀藩士の役でも、三浦さんを見ることができたかもしれない…と考えると残念でなりません。
単なる大河ドラマ視聴者にも、それだけ考えさせる俳優さんでした。
乱文にて恐縮ではありますが、哀悼の意を表したいと思います。
まったく個人的な話ですが、ここ数日の間、頭痛が続いています。
「何が原因なのか」と考えてみました。
直近の仕事での気疲れ…
新型コロナの感染拡大への懸念…
大雨のあとの猛暑、そしてまた大雨の予報…
――ふと思い至ったのが、数日前の人気俳優の訃報です。
申し上げる間でもありませんが、三浦春馬さんの逝去に関連した情報が連日テレビやネットで流れています。
さほど熱心なファンだったわけでもないのに、想定以上のダメージを受けている気がします。
――当ブログのテーマで語るとすれば、やはり「大河ドラマ」になります。
2017年大河ドラマ「おんな城主直虎」。
三浦春馬さんは、井伊直親という役を演じていました。
柴咲コウさんが演じた主人公・井伊直虎(おとわ)は、浜松にある“井伊谷”領主の娘。もともと一族の井伊直親が領主を継ぎ、主人公・直虎(おとわ)を妻とするはずでした。
主人公・直虎(おとわ)と、“婚約者”直親の幼少の日々。もう1人の幼馴染み・小野政次と3人で成長していく姿が描かれます。
しかし、直親の父が大大名“今川家”への謀反を疑われ、直親自身にも危機が迫ります。
笛を愛する繊細な少年だった直親。
身を隠し、そのまま行方知れずとなりました。
――以上が、主人公たちを子役が演じていたとき。あらすじは、ほぼ記憶頼みです。正確性に自信はありません。
直虎(おとわ)は、誰とも結婚しない!と寺に入り、そこで成長していきます。皆のために働く尼さんとして地域の人たちに慕われます。
この辺から、柴咲コウさんが演じています。
そのタイミングで、幼い頃に行方知れずとなっていた直親が、突然帰ってきます。容姿端麗、文武両道…まさに貴公子。
――井伊直親は、いわばパーフェクトなイケメンに成長して帰ってきます。
ここから三浦春馬さんが演じているのですが、「うわっ、そう来たか」という輝きっぷりでした。
直親は「これでもか!」というほどの魅力的な笑顔を見せます。
直虎(おとわ)は、今川家からの監視の目もあって、尼として女を捨てて生きることを選んでいます。
そこで、超カッコ良くなって戻ってきた“元・婚約者”の出現。女性として幸せになりたいという気持ちが直虎(おとわ)にも芽生えます、尼さんとしては“煩悩”に苛まれることに…
――主人公・直虎(おとわ)は、涙ながらに“煩悩”に背を向け、直親は別の女性を正室に迎えます。
こうして誕生した赤ん坊・虎松が、井伊家の後継ぎ。
のちに徳川家康の配下“四天王”の猛将になる井伊直政です。(成長後のキャストは、菅田将暉さんでした)
しかし、小領主の悲哀を徹底的に描いたこのドラマ。領主たちを支配する、今川家の権力の強さも「これでもか…」と示されます。
こうして、井伊直親は今川家の策略に嵌り、命を落とします。
三浦春馬さんの演技が、残像が見えるかのように印象深かった…と記憶します。
主人公・直虎は、もう一人の幼馴染み・小野政次(演:高橋一生)に影から支えられ、直親の子・虎松を守っていきます。
多くの犠牲を払いながらも、あの手この手で策を練り、荒れ狂う戦国の世で“井伊家”の存続に成功するストーリーでした。
――先述の展開で、三浦春馬さんはラストまで出演はしていませんが、全編を通じて存在感があったように思います。
これからも「大河ドラマ」などで、何度でもお見かけする方だと思っていました。
幕末が題材ならば、倒幕に奔走する志士、幕府に忠義を尽くす侍…いずれでも魅力的な人物像を示せたでしょう。
もしかすると、日本の近代化に全力を傾ける佐賀藩士の役でも、三浦さんを見ることができたかもしれない…と考えると残念でなりません。
単なる大河ドラマ視聴者にも、それだけ考えさせる俳優さんでした。
乱文にて恐縮ではありますが、哀悼の意を表したいと思います。
2020年07月19日
第12話「海軍伝習」⑦(有田の“坊ちゃん”)
こんにちは。前回の続きです。
“義祭同盟”の感動を共有できる同年代を探す、大隈八太郎(重信)。
その眼前に現れた品の良さそうな少年とは…
――たしか、この子は、藩校「弘道館」に最近入学してきた。
「お主、名はたしか…」
大隈八太郎、名前が出てくる前に躊躇なく話しかける。気持ちが先行しているのである。
「久米丈一郎と申す。」
「そがんやった、久米ばい!こちらも名乗らんばな。」
…と自己紹介をしようとする八太郎。
「大隈くんですね。存じています。」
“貴方のことは、誰でも知っています”と言わんばかりに、久米丈一郎(邦武)が、先に言葉を発した。
――大隈とほぼ同年代だが、久米の方が言葉遣いは洗練されており、教養の高さを感じさせる。
「久米…と言えば、有田のお代官じゃなかね。」
「ええ、父が有田の皿山にて、代官の任に。」
久米丈一郎(邦武)の父・邦郷は、有田“皿山”の代官として名を残している。
佐賀藩が産業振興の柱の1つとする陶磁器の製造。その拠点である有田の“皿山”。久米の父は、藩の重要任務に就くエリートであった。
「随分と“弘道館”への入学が遅くなりました。」
こうした経過もあり、久米が藩校“弘道館”に来たのは、最近(16歳頃)だった。
――大隈八太郎は、藩校「弘道館」の教育内容が、伝統的な“葉隠”や漢学に偏ることに批判的である。
大隈の目には、藩校の教育は進歩を止めている…とすら映っていた。
「お主は相当に賢いと見受ける。今さら“弘道館”などで学ばずとも。」
「いや、書物の読み込みが足らず、それを補わねばなりませぬ。」
「そがん、本ば読みたかね。」

――大隈が尋ねる。“国事”に奔走する志士に憧れ、本を読むのに時間を費やすより、活動が大事と考えていた。
それに周りの面々が優秀過ぎるので、わりと要領の良い大隈は、自分で本を読むより「先輩たちに話を聞いた方が早い」と考えるのである。
久米は、大隈に家庭の状況を語る。
父からは「“お役目を通じ、実地で覚える”経験が大切だ。」と言い含められる。
親から「本ばかり読むな!」と言われるので、内心では反発をしている。これも反抗期と言えば、そうなのかもしれない。
――久米の父は、有田皿山の代官である。生産組織の管理や徴税…隙の無い実務能力こそが、学問よりも重要と考えていた。
「私には合点が行きません。書物を読み込むことが、大局を見る目を養うはずです。」
「久米も変わっとるごた…」
大隈も書物ばかり読んでいては駄目だと考えるのだが、久米の意見は真っ直ぐに過ぎて、逆に新鮮に映ったようだ。
そして、藩の“砲術長”であった大隈の父・信保が世を去ってから久しい。父に反発する、久米に少しの羨ましさも感じた。
――久米丈一郎(邦武)は、学問を探求することで真実に近づきたい、と熱っぽく語る。
「そうじゃ!久米も、“義祭同盟”に入らんね!」
「“楠公”を祀る、枝吉神陽先生の“結社”でございますか。」
久米が目を輝かせ、言葉を続ける。
「神陽先生と言えば、古今東西の学問に通じ、諳(そら)んじる書物、三万冊とお聞きします。」
「そうたい…!」
大隈は“尊王”の集まりを率いるカリスマ“思想家”である枝吉神陽を尊敬する。久米は“学者”としての神陽に憧れている様子。そこが大隈にはしっくり来ない。
話がかみ合っていないところはある。
しかし、八太郎くんは、望み通り“義祭同盟”を語る友を得たのである。

――その頃、“蘭学寮”では、杉谷擁助が講義を行っていた。
「では、各々よく読み込んでおくように。」
杉谷が話し終える。
かつて鉄製大砲の技術書を作り上げた、伝説の翻訳担当が先生なのだ。
「杉谷先生!ご教示いただきたい事がござる。」
江藤新平である。話終えるや否やの切り込みである。
「江藤さん!私も聞きたいことがあります。同席させてもらってよかですか。」
――ここでも、才気を感じさせる少年が言葉を発する。年の頃は江藤より4~5歳下であろうか。
「石丸くんか。貴君の質問ならば、私も聞きたい!同席を所望する。」
江藤も、石丸少年の才能を認めている様子だ。
少年の名は、石丸虎五郎(安世)という。
後にイギリスに渡り、佐賀藩随一の語学の達人となる秀才である。
「はっはっは…両者とも、熱心なことだ。」
杉谷は上機嫌で、質問に答えていく。教師冥利に尽きるといった表情である。
――幕末の“時計”とともに、佐賀藩士たちの時間も進んでいく。
今回、登場した久米邦武と、石丸安世。
後の新時代にも、佐賀の陶磁器産業と深く関わることになる。
そして、大隈重信の描いた夢は、久米を窮地から救い出す。
逆に石丸が生涯をかけた仕事は、江藤新平を追い詰める運命にあった。
いずれも、これからずっと先の話である。
(続く)
“義祭同盟”の感動を共有できる同年代を探す、大隈八太郎(重信)。
その眼前に現れた品の良さそうな少年とは…
――たしか、この子は、藩校「弘道館」に最近入学してきた。
「お主、名はたしか…」
大隈八太郎、名前が出てくる前に躊躇なく話しかける。気持ちが先行しているのである。
「久米丈一郎と申す。」
「そがんやった、久米ばい!こちらも名乗らんばな。」
…と自己紹介をしようとする八太郎。
「大隈くんですね。存じています。」
“貴方のことは、誰でも知っています”と言わんばかりに、久米丈一郎(邦武)が、先に言葉を発した。
――大隈とほぼ同年代だが、久米の方が言葉遣いは洗練されており、教養の高さを感じさせる。
「久米…と言えば、有田のお代官じゃなかね。」
「ええ、父が有田の皿山にて、代官の任に。」
久米丈一郎(邦武)の父・邦郷は、有田“皿山”の代官として名を残している。
佐賀藩が産業振興の柱の1つとする陶磁器の製造。その拠点である有田の“皿山”。久米の父は、藩の重要任務に就くエリートであった。
「随分と“弘道館”への入学が遅くなりました。」
こうした経過もあり、久米が藩校“弘道館”に来たのは、最近(16歳頃)だった。
――大隈八太郎は、藩校「弘道館」の教育内容が、伝統的な“葉隠”や漢学に偏ることに批判的である。
大隈の目には、藩校の教育は進歩を止めている…とすら映っていた。
「お主は相当に賢いと見受ける。今さら“弘道館”などで学ばずとも。」
「いや、書物の読み込みが足らず、それを補わねばなりませぬ。」
「そがん、本ば読みたかね。」
――大隈が尋ねる。“国事”に奔走する志士に憧れ、本を読むのに時間を費やすより、活動が大事と考えていた。
それに周りの面々が優秀過ぎるので、わりと要領の良い大隈は、自分で本を読むより「先輩たちに話を聞いた方が早い」と考えるのである。
久米は、大隈に家庭の状況を語る。
父からは「“お役目を通じ、実地で覚える”経験が大切だ。」と言い含められる。
親から「本ばかり読むな!」と言われるので、内心では反発をしている。これも反抗期と言えば、そうなのかもしれない。
――久米の父は、有田皿山の代官である。生産組織の管理や徴税…隙の無い実務能力こそが、学問よりも重要と考えていた。
「私には合点が行きません。書物を読み込むことが、大局を見る目を養うはずです。」
「久米も変わっとるごた…」
大隈も書物ばかり読んでいては駄目だと考えるのだが、久米の意見は真っ直ぐに過ぎて、逆に新鮮に映ったようだ。
そして、藩の“砲術長”であった大隈の父・信保が世を去ってから久しい。父に反発する、久米に少しの羨ましさも感じた。
――久米丈一郎(邦武)は、学問を探求することで真実に近づきたい、と熱っぽく語る。
「そうじゃ!久米も、“義祭同盟”に入らんね!」
「“楠公”を祀る、枝吉神陽先生の“結社”でございますか。」
久米が目を輝かせ、言葉を続ける。
「神陽先生と言えば、古今東西の学問に通じ、諳(そら)んじる書物、三万冊とお聞きします。」
「そうたい…!」
大隈は“尊王”の集まりを率いるカリスマ“思想家”である枝吉神陽を尊敬する。久米は“学者”としての神陽に憧れている様子。そこが大隈にはしっくり来ない。
話がかみ合っていないところはある。
しかし、八太郎くんは、望み通り“義祭同盟”を語る友を得たのである。
――その頃、“蘭学寮”では、杉谷擁助が講義を行っていた。
「では、各々よく読み込んでおくように。」
杉谷が話し終える。
かつて鉄製大砲の技術書を作り上げた、伝説の翻訳担当が先生なのだ。
「杉谷先生!ご教示いただきたい事がござる。」
江藤新平である。話終えるや否やの切り込みである。
「江藤さん!私も聞きたいことがあります。同席させてもらってよかですか。」
――ここでも、才気を感じさせる少年が言葉を発する。年の頃は江藤より4~5歳下であろうか。
「石丸くんか。貴君の質問ならば、私も聞きたい!同席を所望する。」
江藤も、石丸少年の才能を認めている様子だ。
少年の名は、石丸虎五郎(安世)という。
後にイギリスに渡り、佐賀藩随一の語学の達人となる秀才である。
「はっはっは…両者とも、熱心なことだ。」
杉谷は上機嫌で、質問に答えていく。教師冥利に尽きるといった表情である。
――幕末の“時計”とともに、佐賀藩士たちの時間も進んでいく。
今回、登場した久米邦武と、石丸安世。
後の新時代にも、佐賀の陶磁器産業と深く関わることになる。
そして、大隈重信の描いた夢は、久米を窮地から救い出す。
逆に石丸が生涯をかけた仕事は、江藤新平を追い詰める運命にあった。
いずれも、これからずっと先の話である。
(続く)
2020年07月17日
第12話「海軍伝習」⑥(数学の子)
こんばんは。
前回の続きです。
“義祭同盟”に参加し、志士としての自分に目覚めた大隈八太郎(重信)。優秀な先輩たちを見るにつけ、同年代の仲間とも活動したい!とか考え始めます…
構成の都合により、“本編”第11話「蝦夷探検」と第12話「海軍伝習」は同時期(1854年~)の話を描いています。
翌年(1855年)には、大隈八太郎は乱闘騒ぎを起こして、藩校を退学になっています。〔参考:第11話「蝦夷探検」⑥(南北騒動始末)〕
ここから2回ほど「なぜ八太郎くんは騒ぎを起こしたのか」という視点でもご覧ください。まだ、大隈が藩校「弘道館」に在籍していた1854年の設定です。
――藩校「弘道館」の昼飯どきである。
ドドド…ッ!
押し寄せる足音。
「お昼の時間ばい!」
「早よぅ、行かんば~!」
藩校の昼は“戦いの場”である。昼飯を求める寮生たちの雄叫びがこだまする…
「相変わらず“イナゴの群れ”がごた…」
少し冷めた目で、食堂に殺到する寮生たちを見つめる少年。
「中牟田(なかむた)ではなかね!」
「大隈か。久しいな。」

――大隈八太郎(重信)が通りがかる。同年代の理系少年・中牟田倉之助(なかむた くらのすけ)を見かけた。
中牟田は、藩校“弘道館”から“蘭学寮”へと進んでいる優等生。
大隈は、“志士”に目覚めた一日の感動を中牟田にも伝えようと試みる。
「“義祭同盟”は、よかごたぁ!あの議論こそ生きた学びばい!」
そして、中牟田からの共感を期待する…
昼は“尊王”の忠臣・楠木正成父子を讃える、厳粛な式典。
夜は“国事”を憂い、古今東西の学問の広い視野で、議論を交わす会合。
「あの日以来、志が高ぶって止まらないんである!」
「そがんね。よか学びを得られて、何よりばい。」
――“尊王”の志は通じるはず…なのだが、あっさりした反応の中牟田。考え事をしている様子だ。
「何があっとね!?」
大隈、妙に中牟田の反応が冷ややかなので、怪訝(けげん)な表情をする。
「いま“イナゴの群れ”を数えとるばい…」
中牟田は、食堂に向かう寮生の動きを見ていた。
「…参(さん)、弐(に)、壱(いち)…今ばい!」
突如、“カウントダウン”を行った中牟田。
――その瞬間、食堂から寮生の絶叫が響いた。
「にゃーっ!飯櫃(めしびつ)にコメがなかごたぁーーっ!!」
中牟田が、得心がいったという表情をする。概ね予測どおりの時間に、食堂の飯櫃が空になった様子だ。
「“算術”はやはり面白かね。」
食堂に向かう寮生の数と“飯びつ”が空になることには因果関係がある。しかし、寮生たちが米を食べ尽くす時間を算出するのは容易ではない。
大隈も数字には強い方だが、中牟田の好奇心には呆然とした。
「やはり“蘭学寮”の者は変わっとるばい…」

――その頃、佐賀藩“火術方”の所管する学びの場、蘭学寮では…
蘭学寮の教師・杉谷雍助が人を探している。
「あれっ、中牟田の姿が見えんな…!?」
…この教師・杉谷にお気づきの方は佐賀の歴史にお詳しいか、記憶の良い方とお見受けする。
――杉谷は佐賀藩の大砲製造チーム「鋳立方の七人」の翻訳担当だった人物である。
「おおっ、江藤よ。中牟田を知らんか?」
教師・杉谷が、“蘭学寮”の学生、江藤新平を見かけて尋ねた。
「中牟田なら“弘道館”に、イナゴを数えに行くと申しておりました。」
「あの者も、よくわからぬ事を申すな…」
――個人的な調べ物で、藩校“弘道館”に足を運んでいるらしい、中牟田倉之助。
「あの子は賢いが、変わり者でございますからな。」
江藤がさらっと述べる。
“蘭学”にはお金がかかる。そのためか、江藤の服装への無頓着には磨きがかかっている。
「“変わり者”か…江藤よ…、中牟田もお主には言われたくあるまい…」
「杉谷先生。何か?」
「いや、何でもない。中牟田を見かけたら、私まで声をかけるよう伝えてくれ。」
「承知しました。」
杉谷に軽く礼をする江藤。
20歳を過ぎたが、相変わらず見かけに気を遣わない。やはり髪はバサバサしているのであった。
――昼飯時の寮生の動きを“イナゴの群れ”に例えた中牟田。得意な科目は“数学”である。
食堂に向かう寮生の動きと、飯櫃(めしびつ)が空になる時間。
数学的にシミュレーションしていたのか…は、定かではない。
杉谷の用件は、長崎で開始される海軍伝習の候補者を探すこと。
「中牟田は“算術”が得手。伝習に適す。」
殿・鍋島直正の意向により、佐賀藩内では幕府の海軍伝習に派遣する人材選びが進んでいたのである。
――その一方、大隈八太郎は「もっと“義祭同盟”について、語りたい!」と同年代の“志士”候補を探していた。
そして、見慣れない顔に出くわした。
「この子は、たぶん賢かね!」
大隈八太郎が見かけたのは、品の良さそうな少年だった。
(続く)
前回の続きです。
“義祭同盟”に参加し、志士としての自分に目覚めた大隈八太郎(重信)。優秀な先輩たちを見るにつけ、同年代の仲間とも活動したい!とか考え始めます…
構成の都合により、“本編”第11話「蝦夷探検」と第12話「海軍伝習」は同時期(1854年~)の話を描いています。
翌年(1855年)には、大隈八太郎は乱闘騒ぎを起こして、藩校を退学になっています。〔参考:
ここから2回ほど「なぜ八太郎くんは騒ぎを起こしたのか」という視点でもご覧ください。まだ、大隈が藩校「弘道館」に在籍していた1854年の設定です。
――藩校「弘道館」の昼飯どきである。
ドドド…ッ!
押し寄せる足音。
「お昼の時間ばい!」
「早よぅ、行かんば~!」
藩校の昼は“戦いの場”である。昼飯を求める寮生たちの雄叫びがこだまする…
「相変わらず“イナゴの群れ”がごた…」
少し冷めた目で、食堂に殺到する寮生たちを見つめる少年。
「中牟田(なかむた)ではなかね!」
「大隈か。久しいな。」

――大隈八太郎(重信)が通りがかる。同年代の理系少年・中牟田倉之助(なかむた くらのすけ)を見かけた。
中牟田は、藩校“弘道館”から“蘭学寮”へと進んでいる優等生。
大隈は、“志士”に目覚めた一日の感動を中牟田にも伝えようと試みる。
「“義祭同盟”は、よかごたぁ!あの議論こそ生きた学びばい!」
そして、中牟田からの共感を期待する…
昼は“尊王”の忠臣・楠木正成父子を讃える、厳粛な式典。
夜は“国事”を憂い、古今東西の学問の広い視野で、議論を交わす会合。
「あの日以来、志が高ぶって止まらないんである!」
「そがんね。よか学びを得られて、何よりばい。」
――“尊王”の志は通じるはず…なのだが、あっさりした反応の中牟田。考え事をしている様子だ。
「何があっとね!?」
大隈、妙に中牟田の反応が冷ややかなので、怪訝(けげん)な表情をする。
「いま“イナゴの群れ”を数えとるばい…」
中牟田は、食堂に向かう寮生の動きを見ていた。
「…参(さん)、弐(に)、壱(いち)…今ばい!」
突如、“カウントダウン”を行った中牟田。
――その瞬間、食堂から寮生の絶叫が響いた。
「にゃーっ!飯櫃(めしびつ)にコメがなかごたぁーーっ!!」
中牟田が、得心がいったという表情をする。概ね予測どおりの時間に、食堂の飯櫃が空になった様子だ。
「“算術”はやはり面白かね。」
食堂に向かう寮生の数と“飯びつ”が空になることには因果関係がある。しかし、寮生たちが米を食べ尽くす時間を算出するのは容易ではない。
大隈も数字には強い方だが、中牟田の好奇心には呆然とした。
「やはり“蘭学寮”の者は変わっとるばい…」

――その頃、佐賀藩“火術方”の所管する学びの場、蘭学寮では…
蘭学寮の教師・杉谷雍助が人を探している。
「あれっ、中牟田の姿が見えんな…!?」
…この教師・杉谷にお気づきの方は佐賀の歴史にお詳しいか、記憶の良い方とお見受けする。
――杉谷は佐賀藩の大砲製造チーム「鋳立方の七人」の翻訳担当だった人物である。
「おおっ、江藤よ。中牟田を知らんか?」
教師・杉谷が、“蘭学寮”の学生、江藤新平を見かけて尋ねた。
「中牟田なら“弘道館”に、イナゴを数えに行くと申しておりました。」
「あの者も、よくわからぬ事を申すな…」
――個人的な調べ物で、藩校“弘道館”に足を運んでいるらしい、中牟田倉之助。
「あの子は賢いが、変わり者でございますからな。」
江藤がさらっと述べる。
“蘭学”にはお金がかかる。そのためか、江藤の服装への無頓着には磨きがかかっている。
「“変わり者”か…江藤よ…、中牟田もお主には言われたくあるまい…」
「杉谷先生。何か?」
「いや、何でもない。中牟田を見かけたら、私まで声をかけるよう伝えてくれ。」
「承知しました。」
杉谷に軽く礼をする江藤。
20歳を過ぎたが、相変わらず見かけに気を遣わない。やはり髪はバサバサしているのであった。
――昼飯時の寮生の動きを“イナゴの群れ”に例えた中牟田。得意な科目は“数学”である。
食堂に向かう寮生の動きと、飯櫃(めしびつ)が空になる時間。
数学的にシミュレーションしていたのか…は、定かではない。
杉谷の用件は、長崎で開始される海軍伝習の候補者を探すこと。
「中牟田は“算術”が得手。伝習に適す。」
殿・鍋島直正の意向により、佐賀藩内では幕府の海軍伝習に派遣する人材選びが進んでいたのである。
――その一方、大隈八太郎は「もっと“義祭同盟”について、語りたい!」と同年代の“志士”候補を探していた。
そして、見慣れない顔に出くわした。
「この子は、たぶん賢かね!」
大隈八太郎が見かけたのは、品の良さそうな少年だった。
(続く)
2020年07月15日
第12話「海軍伝習」⑤(秘密結社の夜)
こんばんは。
大都市圏での新型コロナの感染者数の増加が報じられています。
今のところ、佐賀での新規感染は聞いていないのですが、皆様もお気をつけて。
本日は佐賀の若き志士たちの夜の会合を描きます。
なんとなく密集しているのが気になってしまうのは、現代の目線です…
――では、前回の続きです。
初夏の陽射しはやがて、佐賀の西の空を照らし、長崎の方に沈んでいった。明日はしっかりと晴れが期待できそうな、そんな夕暮れである。
五月雨の心配がある時節だったが、日中の“義祭同盟”の式典は無事、執り行われた。
――その夜。佐賀城下の一角に、こそこそと若者たちが集まってくる。
青年は屋内に入って、はじめて“同志”の名前を呼ぶ。
「大木兄さん、江藤くん!」
「おおっ、中野。早かったな。」
「中野、“大返し”にて戻れり…」
江藤新平が、中野の疾走を揶揄(やゆ)する。
「これしきで“大返し”とは…だいたい江藤くんは、大袈裟なのですよ…」
――中野方蔵は、義祭同盟の式典の後、すぐに藩校に走っていた。
そして、有力教師の草場先生に詩文を添削してもらい、全速力で戻ってきた。
さすがに、息がハッハッ…としている。
“兄さん”と呼ばれた大木喬任。江藤と顔を見合わせて苦笑する。
「やはり中野の“大返し”だな。」
…歴史上の“大返し”と言えば、戦国時代、“本能寺の変”直後に行われた、豊臣(羽柴)秀吉の“中国大返し”であろう。
――枝吉神陽をはじめ“尊王”の思想家は、朝廷の威光で政治を行った、豊臣政権を高めに評価する傾向にある。

通常は武家の政権といえば、江戸幕府のように“征夷大将軍”がその頂点だが、豊臣政権は“関白”だったのである。
さらに遡って南北朝時代、“義祭同盟”が崇拝する楠木正成・正行父子は、室町幕府の“征夷大将軍”・足利尊氏と死闘を繰り広げた。
――“尊王”を掲げる志士たちにとって、朝廷の力を抑えようとする、“幕府”への視線は厳しいのである。
「この“日本”において、主君と仰ぐべきは、京都におわす帝である!」
「そうじゃ!徳川が“大君”を名乗るなどおこがましい!」
「では、鍋島の殿はどうじゃ!帝のもとに等しく“臣下”であるならば、我々と何が違うか!」
昼の厳かな式典と違い、酒も入っている。意気盛んな若者たちの夜の集会である。
――お気づきであろうか。会合で語られている内容、かなりの“暴論”が飛び交っている。
昼の式典と違う“義祭同盟”のもう1つの顔。
それは天下国家を論じる「秘密結社」。
…とはいえ、他藩の結社と違い、少なくとも“表の顔”は認知されている。
殿・鍋島直正は、この場で“暴論”が繰り広げられることも知っている様子だ。
そして、「これも学問の場じゃ、言葉じりを捕らえて、罪に問うたりはするな…」と見ないふりを決め込んだ。
“義祭同盟”には、藩校「弘道館」でも際立って賢い者が多数加わっている。
直正は、あえて縛りをかけず、自由に議論をさせていたのである。
――幕末の佐賀藩には「言論の自由」に近い要素があったようだ。
そんな“秘密”の議論の場に、ある少年が現れる。

「次郎先生!いえ、もう副島先生とお呼びするのがよかですか!?」
大隈八太郎(重信)である。母・三井子から、枝吉次郎が副島家に養子に入る予定を聞いた。
「まだ、副島の家には入っておらぬ。それに兄上の前で“先生”などと呼んでくれるな…儂ごときは、まだ修業の身だ。」
副島種臣(枝吉次郎)は、偉大な兄・枝吉神陽の前で“先生”と呼ばれるのに気まずさを感じるようだ。
そんな副島種臣に案内してもらい、少年・大隈八太郎が、この場に足を踏み入れる。
――日中の“楠公”(楠木正成)を讃える式典には、居並ぶ佐賀藩の重役たち。
そして、夜は自由に議論をぶつけ合い、“国のあり方”を語る先輩たち。
わずか1日で、“国の大事”に関わる志士の列に加わった気分である。
大隈八太郎は、興奮を隠せない。
「ここでは存分に、“国事”を語っても構わんごたですね!?」
引率役の副島種臣は、8歳ばかり年上。主宰者・枝吉神陽の実弟として初期から参加している。
「その通りだ。八太郎。ここでは皆、“我が国”が、如何にあるべきかを論じておる。」
――そして、この会合の中心にいるのは、枝吉神陽だ。
弁舌を響かせた日中とは違い、会合に参加する皆の話をじっと聞いている様子だ。もはや佇まいからして、風格が感じられる。
「此度より加わる大隈八太郎くんです。」
「あの八太郎か!かわいらしい坊やであったな。」
枝吉神陽は、昔から近所の子供に優しかった。
母・三井子にべったり甘えていた、幼い八太郎も可愛がっていたのである。
「神陽先生!もはや、子供ではなかです!」
「これは、失敬であったか。」
――軽く笑みを浮かべる、神陽。今の八太郎も気に入った様子だ。
「蒸気仕掛けの“黒船”は船足が早く、小回りが自在だ。我らの台場でも、捉えられるかどうか!」
「なれば!佐賀にも“黒船”があれば良い!」
会合の一角では、中野や江藤たちも加わって、“国防”の議論を始めている。
“攘夷”と言っても、佐賀藩の場合は“精神論”ではない。西洋との技術的な差は見えている。
…大砲の弾ならば届くか、届かないか。
沖合で戦うならば、船が必要だからどのように調達するか。具体策を論じるのである。
大隈八太郎は、目を輝かせて、先輩たちの議論に、耳を傾けるのであった。
(続く)
大都市圏での新型コロナの感染者数の増加が報じられています。
今のところ、佐賀での新規感染は聞いていないのですが、皆様もお気をつけて。
本日は佐賀の若き志士たちの夜の会合を描きます。
なんとなく密集しているのが気になってしまうのは、現代の目線です…
――では、前回の続きです。
初夏の陽射しはやがて、佐賀の西の空を照らし、長崎の方に沈んでいった。明日はしっかりと晴れが期待できそうな、そんな夕暮れである。
五月雨の心配がある時節だったが、日中の“義祭同盟”の式典は無事、執り行われた。
――その夜。佐賀城下の一角に、こそこそと若者たちが集まってくる。
青年は屋内に入って、はじめて“同志”の名前を呼ぶ。
「大木兄さん、江藤くん!」
「おおっ、中野。早かったな。」
「中野、“大返し”にて戻れり…」
江藤新平が、中野の疾走を揶揄(やゆ)する。
「これしきで“大返し”とは…だいたい江藤くんは、大袈裟なのですよ…」
――中野方蔵は、義祭同盟の式典の後、すぐに藩校に走っていた。
そして、有力教師の草場先生に詩文を添削してもらい、全速力で戻ってきた。
さすがに、息がハッハッ…としている。
“兄さん”と呼ばれた大木喬任。江藤と顔を見合わせて苦笑する。
「やはり中野の“大返し”だな。」
…歴史上の“大返し”と言えば、戦国時代、“本能寺の変”直後に行われた、豊臣(羽柴)秀吉の“中国大返し”であろう。
――枝吉神陽をはじめ“尊王”の思想家は、朝廷の威光で政治を行った、豊臣政権を高めに評価する傾向にある。

通常は武家の政権といえば、江戸幕府のように“征夷大将軍”がその頂点だが、豊臣政権は“関白”だったのである。
さらに遡って南北朝時代、“義祭同盟”が崇拝する楠木正成・正行父子は、室町幕府の“征夷大将軍”・足利尊氏と死闘を繰り広げた。
――“尊王”を掲げる志士たちにとって、朝廷の力を抑えようとする、“幕府”への視線は厳しいのである。
「この“日本”において、主君と仰ぐべきは、京都におわす帝である!」
「そうじゃ!徳川が“大君”を名乗るなどおこがましい!」
「では、鍋島の殿はどうじゃ!帝のもとに等しく“臣下”であるならば、我々と何が違うか!」
昼の厳かな式典と違い、酒も入っている。意気盛んな若者たちの夜の集会である。
――お気づきであろうか。会合で語られている内容、かなりの“暴論”が飛び交っている。
昼の式典と違う“義祭同盟”のもう1つの顔。
それは天下国家を論じる「秘密結社」。
…とはいえ、他藩の結社と違い、少なくとも“表の顔”は認知されている。
殿・鍋島直正は、この場で“暴論”が繰り広げられることも知っている様子だ。
そして、「これも学問の場じゃ、言葉じりを捕らえて、罪に問うたりはするな…」と見ないふりを決め込んだ。
“義祭同盟”には、藩校「弘道館」でも際立って賢い者が多数加わっている。
直正は、あえて縛りをかけず、自由に議論をさせていたのである。
――幕末の佐賀藩には「言論の自由」に近い要素があったようだ。
そんな“秘密”の議論の場に、ある少年が現れる。
「次郎先生!いえ、もう副島先生とお呼びするのがよかですか!?」
大隈八太郎(重信)である。母・三井子から、枝吉次郎が副島家に養子に入る予定を聞いた。
「まだ、副島の家には入っておらぬ。それに兄上の前で“先生”などと呼んでくれるな…儂ごときは、まだ修業の身だ。」
副島種臣(枝吉次郎)は、偉大な兄・枝吉神陽の前で“先生”と呼ばれるのに気まずさを感じるようだ。
そんな副島種臣に案内してもらい、少年・大隈八太郎が、この場に足を踏み入れる。
――日中の“楠公”(楠木正成)を讃える式典には、居並ぶ佐賀藩の重役たち。
そして、夜は自由に議論をぶつけ合い、“国のあり方”を語る先輩たち。
わずか1日で、“国の大事”に関わる志士の列に加わった気分である。
大隈八太郎は、興奮を隠せない。
「ここでは存分に、“国事”を語っても構わんごたですね!?」
引率役の副島種臣は、8歳ばかり年上。主宰者・枝吉神陽の実弟として初期から参加している。
「その通りだ。八太郎。ここでは皆、“我が国”が、如何にあるべきかを論じておる。」
――そして、この会合の中心にいるのは、枝吉神陽だ。
弁舌を響かせた日中とは違い、会合に参加する皆の話をじっと聞いている様子だ。もはや佇まいからして、風格が感じられる。
「此度より加わる大隈八太郎くんです。」
「あの八太郎か!かわいらしい坊やであったな。」
枝吉神陽は、昔から近所の子供に優しかった。
母・三井子にべったり甘えていた、幼い八太郎も可愛がっていたのである。
「神陽先生!もはや、子供ではなかです!」
「これは、失敬であったか。」
――軽く笑みを浮かべる、神陽。今の八太郎も気に入った様子だ。
「蒸気仕掛けの“黒船”は船足が早く、小回りが自在だ。我らの台場でも、捉えられるかどうか!」
「なれば!佐賀にも“黒船”があれば良い!」
会合の一角では、中野や江藤たちも加わって、“国防”の議論を始めている。
“攘夷”と言っても、佐賀藩の場合は“精神論”ではない。西洋との技術的な差は見えている。
…大砲の弾ならば届くか、届かないか。
沖合で戦うならば、船が必要だからどのように調達するか。具体策を論じるのである。
大隈八太郎は、目を輝かせて、先輩たちの議論に、耳を傾けるのであった。
(続く)