2021年03月10日

連続ブログ小説「旅立の剣」(19)2日目の朝

こんばんは。

しばらく気力および時間の不足を補うために、“連続ブログ小説”を再開します。平たく言えば、私の旅日記なので、あまり中身はありません。

普段より格段に調べ物が少ないので、私には“省エネ”の効果が期待できます。時おり、他の投稿も織り交ぜながら、進めていく予定です。

昨年の晩秋に掲載していた「連続ブログ小説」ですが、その第3シリーズ
題材は2019年10月に、私が佐賀での現地調査を行ったときの話です。


――1泊2日。わずか30時間程度の滞在。

昨夜、佐賀玉屋で購入したシシリアンライスは美味だった。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(18)憩いのシシリアン

この旅のうちに…もう一度、“シシリアン”が食べたい!」

早朝に目が覚めた。昨日は、佐野常民大隈重信記念館など、佐賀市営バスで一日駆け回った。

簡単に故郷に帰れない私に、県内で調べ物ができる機会は少ない。今まで佐賀歴史スポットを見聞するのは、帰省ついでの余った時間に限られていた。



――今回は調査のために、無理に作った時間だ。

幕末佐賀藩大河ドラマ」を志す者にとって、佐賀は“聖地”である。それゆえ私には、その“聖地”にいる間に為すべきことがある。

のんびり寝ている暇など無い。朝食の時間を削ってでも、外に出ねば。早々と、出立の準備を整える。名残り惜しい事だが、すでに帰り支度を兼ねている。

書物映像の情報では、感じ取れないものがある。少しでも、佐賀空気触れる時間を多く持つべきだ。


――佐賀駅前の南口。時刻は朝7:50。

その日は、佐賀城公園秋イベント。私の目的は「第2回さが維新まつり」だ。周辺では「さがさいこうフェス」と「タイフェス」も同時開催のようで賑わうだろう。

…とはいえ土曜午前で、はまだ動き出してはいない時間。人通りも少ない。朝の涼しい風に触れた。

タクシーのりばと駅のコンビニ。ありふれた風景は“非日常”への入口だった。


(続く)



  


2021年03月12日

連続ブログ小説「旅立の剣」(20)その時、これから

こんばんは。
一昨年、2019年10月。私は、“新型コロナ”という言葉も知りませんでした。

気兼ねなく“お祭り”を楽しめた日々。このシリーズでは“タイムカプセル”のように表現できたらと思います。まずは「帰らんばあの世界へ」と願いを込めて。



――当時、佐賀駅南口で工事中の現場を見かけた。

2021年現在では、すっかり馴染みお店という方もいるだろう。複合商業施設「コムボックス」の建設中の姿だ。

私は“この場所”にあった大型スーパー「西友」がお気に入りだった。佐賀駅前に、夜も遅くまで空いていた。

入院した親族の見舞いなど、佐賀市内に用事がある時の心のオアシス。郷里から遠く離れた地で「西友閉店」のを聞き、私はひどく落胆した。


――佐賀駅前に、“新たな力”が還ってくる…

「ここが、過ぎ去りし日々を…取り返してくれるかな。」
期待の目線で、建設工事中鉄骨を見つめた。

ちょうど前夜観光協会の入るビル「エスプラッツ」に立ち寄った私。そのとき、同じフロアで展示されていた“昭和の風景”の写真パネルも見ていた。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(17)誇りを取り戻せ

かつて佐賀市の中心街が、極めて華やかだった頃の姿は、私の心を捉えた。“いま一度”見てみたい世界が増えていく。



――話は、大通りを南に歩む、朝7:55に戻る。

「すべては、第一歩からだ…」

朝の風が涼しいだった。並木道を進み、“駅前まちかど広場”に至った。
幕末期、佐賀藩で活躍した賢人たちの銅像が集う。気分が高揚する場所だ。

ブログでの情報発信を始めていなかった時期。私は「どこかでプレゼンでも試みるか…」と資料づくりを進めた。“調査”の一環で、写真も撮り溜めた。

…後にブログを始めるうえで、この行動が活きるのはご覧の通りである。


(続く)

  


2021年03月14日

連続ブログ小説「旅立の剣」(21)唐津のレジェンド

こんにちは。

省エネ”を試みるつもりでしたが、当時の記憶をたどり、後に得た知識も加えて振り返ると、意外に頭を使うようです。

今日は、佐賀市内の大通りから、唐津方面に想いを馳せます。


――時刻は、朝8:00に至った。中央大通りを南進する。

ふだん私は大都市圏の喧騒に疲れ気味だ。朝の整然とした大通りが清々しい。これが佐賀心映えであるのか、道がキレイなのだ。

佐賀銀行本店の前。金融機関らしく重厚な造りの建物と見える。

「さすが銀行丈夫そうな建物だな…」
私は単純な感想を持った。

「貴君!その通りだ。建物頑丈でなくてはな!」



――独り、歩みを進めているはずの私。

真っ直ぐ気配を感じ、車道側に目を向ける。そこには立ち姿ヒゲの御仁。明治期から活躍した、大建築家・辰野金吾きんご)の銅像だ。

日本銀行本店や、東京駅設計で著名だ。明治の人たちはこう語ったと聞く。
「なんて丈夫な構造!まるで、辰野“堅固”(けんご)だ!」と。

辰野氏へのリスペクト(敬意)を感じる“ダジャレ”。私はこれを「明治ギャグ」と呼ぶ。ちなみに辰野氏は、同じ佐賀県内でも唐津藩の出身者だ。


――隣に座るのも、エリート唐津藩士の子・曽禰(そね)達蔵。

幕末の江戸生まれ。唐津藩若殿(藩主名代)・小笠原長行にも可愛がられたとか。明治からの東京で、日本初オフィス街を築いた方…と、後で知った。

辰野さん。相変わらず…貴方は熱い男ですね。」
西洋の新工法は、いち早く実験したという曽禰達蔵。クールで知性派な印象だ。

曽禰氏が設計する“ビルヂング”は、近代的な“丸の内”の街を形作っていく。ちょっと余裕のある座り姿。言われてみれば、都会的スタイリッシュに思える。


――明治期に、佐賀藩士たちは情報通信などのインフラを整えた。

そして唐津藩士たちは近代建築の方面に突き進み、レジェンド(伝説的存在)となっていく。やはり佐賀は面白い。

…私は確信した。「朝食の時間も惜しんで、調査を始めた甲斐があった!」と。


(続く)

  
タグ :佐賀唐津


2021年03月18日

連続ブログ小説「旅立の剣」(22)大きな河になれ

こんばんは。

わずか数分の出来事でも、後につながる時間があるようです。
2019年の秋、佐賀市中央大通りを南に進む私。


――朝8:03。中央大通りを“唐人町”付近に至る。

小城の書家・中林梧竹の銅像がある。
大通りに面する、佐賀の偉人たちの銅像は、大体が2人一組である。

しかし、この唐人町の広場に佇む“小城の書聖”は1人だ。
「何だか、さびしいな…」

私はブログを始めてから、この認識を改めることになる。
…この状態は“集中”と呼ぶのがふさわしい!と。

それに書家としても著名な、副島種臣ともつながりがある。私が言いたいことは「中林先生は1人じゃない…」ということだ。
〔参照(前半):「主に小城市民の皆様を対象としたつぶやき 2」


――朝8:07。“唐人町”を進み、道路の向かい側。

今度は“社会教育家”とジャンル付けされた2人の銅像が並ぶ。

は、鹿島の出身で“青年団”の活動を全国に広めた、田澤義鋪
その時点の私には情報の持ち合わせが無く、何も感じなかった。

田澤氏の持っていた情熱は、ある演劇で知ることになる。
〔参照(前半):佐賀城からのライブ配信の感想など④⑤



――右隣は、田澤の思想に共鳴した“小説家”。

神埼の出身。「次郎物語」を著した下村湖人
佐賀ローカルで語れば、鹿島から神埼へ響き合っている。

他地域の人にざっくり説明すると、佐賀県内西から東へのイメージだ。

時代がまだ昭和だった頃。幾度か映画化もされていた「次郎物語」。
私には、さだまさしが主題歌「男は大きな河になれ」を歌った、比較的新しい作品の記憶がある。


――この主題歌は個人的に、名曲だと思っている。

原曲はチェコの音楽家スメタナ。交響詩「わが祖国」の第2曲だったか…

この曲に長崎出身さだまさし映画の主題歌として、詩を付けたと聞く。
次郎物語」をきっかけに思い出し、聴き返してみた。

せつないことがあったなら~♪」
辛い事があった時に大きく叫んで雲を呼び、さらにその雲が覆えないほどの人物になれと説く。


――苦しい時こそ、意地を張れ。

目をそらさずに雨を見て、泣かずに雨を集めて
そして「男は大きな河になれ」と結ぶのである。

あらためて聴き返すと、私には佐賀平野風景が浮かぶ。
佐賀神埼)が舞台の物語をイメージして作られたから…なのだろうか。

青年人格を育む“教養小説”として書かれた「次郎物語」。
歳を重ねて、いま一度顧みると、大きな発見があるかもしれない。


(続く)



  


2021年03月20日

連続ブログ小説「旅立の剣」(23)“朝ドラ”も見たい

こんばんは。そろそろ年度末に近づいて来ましたね。4月から新しい環境でのスタートが決まっている人もいるでしょう。

…この季節、時間には密度の濃淡があることを強く感じるのです。

前回の続き。一昨年(2019年10月)の活動をもとに綴るシリーズ。佐賀が誇る偉人の銅像を見ながら中央大通りを南に歩き、長崎街道の近くまで寄っています。


――朝8:09。看板には、“工学・化学分野の先駆者”と表示あり。

座り姿の男性。多久が輩出した、日本の電気工学の祖・志田林三郎日本初工学博士の1人だそうだ。

幕末期。佐賀藩内でも教育熱心で知られた、多久領の学問所で学ぶ。
〔参照(中盤):「主に多久市民の皆様を対象としたつぶやき」

明治期。工部大学校や留学を経て、技術官僚として活躍。電気学会を創設し、“IT社会”の到来まで予見したという。100年以上先を見通したようだ。

逓信四天王”と呼ばれた電信石丸安世(虎五郎)、電話石井忠亮はともに佐賀藩士日本情報通信をリードした佐賀系譜が、つながっていく。



――その左隣に立つ、日本最初の女性化学者(理学博士)・黒田チカ。

日本初の女性理学博士は、別の植物学者の方。それで“化学分野女性初”と注釈が付くようだ。は少し現代に近づき、明治中期の生まれ。

「これからは女子にも学問が必要!」という進歩的に恵まれた。

佐賀から出て、当時の女性学問を続ける不利を乗り越えていく。自信有り気なタイプでは無かったようだが、地道頑張る姿は周囲のに響いていく。

には、この学問を続ける資格がある!」とか周り先生方が熱く励ました。黒田氏は日本初女子大生(帝大生)の1人となり、東北帝国大学に進む。


――「これは“大河”というより…そうだ、“もう1つの看板番組”だ!」

明治期、佐賀の“朝ドラ”を作る!」なら、有力な主役候補だろう。
紅(くれない)の博士”と呼ばれ、科学研究を志す後進の目標になった女性

黒田チカ博士は、理化学研究所でも天然色素の抽出など研究を続けた。現・お茶の水女子大学で教壇に立ち、玉ネギから“結晶”を取り出す研究を行う。

この結晶が“ケルセチン”。後に高血圧として実用化される物質だった。


…延々と「朝ドラ」(連続テレビ小説)を目指して語ってしまいそうなので、今日はこの辺りで。前回とあわせても、現場では10分程度の時間。

密度の濃い時の過ごし方でした。


(続く)

  


2021年03月22日

連続ブログ小説「旅立の剣」(24)ここが分岐点

こんばんは。
最近、かなり忙しく消耗気味です。休息期間を入れることも考えています。

そして長らく佐賀からも離れています。エネルギーが湧いて来ないわけですが、今日は淡々と語ります。

なお、今日のお題に、明確な答えをお持ちの方はご教示を願いたく思います。



――朝8:10。銅像巡りは、小休止。

中央大通りを南に進む私は、左斜め前を見た。

白山通りアーケードの手前まで来ている。
かつて大賑わいだったと聞く、この通りもすっかり落ち着いてしまった。

但し、まだ店舗などは空いていない時間帯の姿だ。



――続いて、右斜め前を見る。

中央大通りから分かれて、同じくに向かう通り。

このとき、私は何となく周囲を360度、見回していた。
これも非日常の一環だ。それに回りながら、ひとしきり写真も撮った。

自分の住まう街で、なかなかこの行動は取らない。



――ここからは現在の、私の思索だ。

私は、佐賀市中心部を走る大通りを“県庁通り”だと理解していた。しかし、この辺から右斜め前に伸びる道に“県庁前通り”との名が付与されているらしい。

そして佐賀メインストリートは“中央大通り”と呼称すべきようだ。


――現在でも、この分岐点までは“県庁通り”と呼んでも良いのか?

佐賀を外から見られる有利と、佐賀から離れている不利

私には佐賀美点を探すことは容易だが、佐賀の常識を得るのは難しい。表裏一体迷い道が続いていく。


(続く)

  
タグ :佐賀


2021年03月24日

連続ブログ小説「旅立の剣」(25)シュガーロードを行け

こんばんは。
一昨年の秋、早朝の佐賀市中心部で歩きまわる私。


――時刻は8:15頃。

白山名店街アーケードに入るや、また大通りに抜ける。
どう進むかの判断に迷っているのだ。

佐賀で活動できるのも、あと6時間ほど。12時過ぎからは「さが維新まつり」を観るために、佐賀城公園に居る必要がある。



――時間は、あるようで無い。

白山名店街アーケードの向かい側に渡ってみる。
時間惜しい。ここでどちらに進む方が良いのか…」

佐賀市民の方々、私の焦り失笑しないでほしい。
私から見れば貴重な時のうえで、皆様は生活している…とも言えるのだ。


――どっちだ、どちらに行けば正解なのだ。

先ほど“分岐点”で、360度を見回したせいで選択肢が増えてしまった。

…私が調べたい「幕末佐賀藩」。
その空気を感じられるものは、どの道にもあるはずだ。

お若いの、道に迷っている様子だな。」
いや、私はそんなに若くはない。ただ、その偉業ゆえに銅像に姿を現す、佐賀先人たちからすれば若輩者だろう。



――そこには日本に“西洋菓子”を広めた、2人の姿が。

「キミは、甘い物が好きと見える。」
まず左側に立つ、立派な体格の紳士。腕組みにキャラメルを携える。
伊万里の出身・森永太一郎

「もはや、は決まっているのではないかな。」
こちらは“グリコ”を示しつつ、健康的な“銭湯で牛乳を飲むポーズ”を決める。
佐賀市東部の生まれ・江崎利一


――「そのまま行けば良い。“シュガーロード”を。」

シュガーロード」(砂糖の道)と呼ばれる、長崎街道を行く。

まるで“森永製菓”と“江崎グリコ”によって、扉が開かれたかのようだ。
周辺をクルクル回っていた私は、導かれるように真っ直ぐ歩み始めた。

まだ街が動き始める前、土曜の朝。
白山名店街アーケードに入り直して、東へと進んでいった。

(続く)


※関連記事
私が、佐賀の輩出した“製菓”の巨匠たちに救われる(?)シリーズです。

森永太一郎 編
「おかげさまで1周年。」
「あゝ西洋菓子(西)」
江崎利一 編
「あゝ西洋菓子(東)」
  
タグ :佐賀


2021年03月27日

連続ブログ小説「旅立の剣」(26)変化の兆し

こんにちは。
私事ですが、4月から大きく環境が変化することになりました。

このシリーズは現在の視点で、一昨年の秋を振り返ります。
その時、感じた気持ちに、いま説明が付く」が今日のテーマです。


――朝8:17。長崎街道(白山アーケード)を進む。

屋根が途切れて、別のアーケードが見える。
そこには“バルーン通り”との表示。

昨夜にも、ここ“エスプラッツ”には立ち寄った。
朝に見ると、何だか長崎街道に似合った、赤レンガ調の色味のビルだ。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(17)誇りを取り戻せ



――よく見ると、1階の角には…

ラジオ局“えびすFM”がある。
佐賀の地域情報を発信するコミュニティFMという情報が読める。

街の人パーソナリティを務める温もりのある番組!」をお送りしているようだ。風水害の際には避難所情報の提供など、地域密着型メディアの強みも見せる。


――いまとなっては、実に興味深い。

…しかし、当時の私は先を急いだ
長崎街道を巡ると「おっ!?」を目を引く場所に出ることがある。

佐賀の街中にはシンプルであるがゆえに、過密な大都市圏では感じられない、洗練された印象を受ける場所がある。



――壁に記された“ON THE ROOF”の文字。

「…えらく洒落(しゃれ建物だな。」
その時に、私の持った感想だ。

少し月日を経てから、この「オン・ザ・ルーフ」という名を聞く。日本テレビ系の番組『アナザースカイⅡ』(2月12日放送)で見た、講談師神田伯山の特集だ。

実は、佐賀県唐津にルーツがある方。
講談を広めるため、修業時代には佐賀市内にも、よく来られたそうだ。

この多目的施設“ON THE ROOF”でのイベントに、よく出演されたという。当時のお名前は“神田松之丞”。現在では、六代目として“神田伯山”の名を継ぐ。


――いまや“伝統芸能”の世界は…

かえって流行感度が高い人が追うもの、と言っても過言ではないだろう。

「チケットの取れない人気講談師」として知られる神田伯山呉服元町の会場を「アンテナを張っている、佐賀の人たちが来る場所」だと回想した。

同番組では“ON THE ROOF”1階喫茶店の本格的なピザ柳町の“和紅茶専門店”も紹介された。次に佐賀帰藩を果たす時には、ぜひ寄りたい場所だ。



――話を長崎街道に戻す。時刻は8:25前後。

今度は、屋根付きの広場“PLAZA 656”との表示が見える。

朝早い、この時間帯には何の行事も行われていない。
土日を中心に、ライブイベントの開催予定がある様子だ。

ちなみに“656(むつごろう)広場”が通称らしい。


――長崎街道沿いには、いまも情報発信の拠点がある。

近年、元気が無いと言われる、佐賀市内中心街

幕末佐賀藩」を追い求める私には、この場所が持つ価値が際立って見える。
きっとカギ発信する情報と、その受け手となる人たちの存在。

きっと佐賀には、私に似た“想い”を持つ人も居るに違いなく…
それが、私があきらめない理由の1つだと思っている。


(続く)

  
タグ :佐賀


2021年03月30日

連続ブログ小説「旅立の剣」(27)長崎街道の夢

こんばんは。
新しい環境への突入を控え、目まぐるしい年度末です。

いま私を支えているのは、わずか30時間の記憶。
佐賀で見た景色とともに綴ります。



――朝8:22。赤レンガの道を見ていた。

この辺りには時折、“都会的センス”を見せる建物が出現する。

…とはいえ、佐賀市中心街に往時の勢いが無いのは認める。
そのため“時折”と言わざるを得ない。

「今はまだ、元気が無い」と言っておこう。未来は変えられるのだから。


――江戸時代。大変な賑わいを見せた、長崎街道。

私はめったに、佐賀に“帰藩”することができない。
朝食抜きでも街中を見て回るのは、この空気に触れたいからだ。

この道が長崎街道であることは、要所に配置された案内板が教えてくれる。
…私のように“調べ”を急ぐ者には、心強い。



――遡って8:16。白山通りの商工ビル前。

地理に疎い私に「長崎街道案内(あない)いたす!」とばかりに看板が現る。

「これは分かりやすい…」と私は、この地図に示された道を歩み始めた。
かつて街道沿いには、裕福な商家が軒を連ねたという。

佐賀藩士領民たちはもちろん。幕府の役人も他藩の大名も通行した。
オランダ商館員が連れていたかゾウラクダなど珍獣まで…行き交ったという。



――まるで、十数分の時間旅行。

足元には、この道が長崎街道であると示す“標識”が続く。
朝の風が、時を忘れさせてくれる。

長崎から佐賀を経由し、小倉までを結ぶ“幹線道路”。九州北部を1つにつなぎ、宿場ごとの特色も魅力的。もっと語られてほしい“”がある。



――朝8:34。

「これだ…!」
私は、幕末期佐賀を感じる“空気”に出会った。

たしかに道路は舗装され、電柱はあるけども、それは些細(ささい)なことだ。インフラ整備、とくに電気関係は、明治期佐賀出身者の得意としたところ。

…私には、この道を駆け回る佐賀藩士たちの姿が見えたようだった。


(続く)

  
タグ :佐賀


2021年04月03日

連続ブログ小説「旅立の剣」(28)水路の迷宮

こんばんは。

青春が終わってから書くのが、青春小説
…どこかで聞いたことがあり、ふと思い出した言葉です。

このシリーズは1年半を経て、を振り返っています。そのため、現在知っている情報から逃れることはできません。

水路(クリーク)が巡る佐賀の街を顧みて、いま想うこと。ある戦国武将を介し、佐賀市内からみやき町へ。1人の武道家の面影を偲びます。


――少し時を遡る。朝8:10。

白山名店街の入口付近で、360度を見回した時。



――続いて、朝8:20。

佐賀の情報発信に想いを馳せ、長崎街道を行く時。赤レンガの道が続く。



――そして、朝8:40。

長崎街道沿い。風情ある柳町に出て、大通りに戻ろうとする時。



お気づきであろうか。
私はいつしか、水路囲まれているようだ。


――かつて、佐賀に“水の神様”と称(たた)えられた武将が居た。

戦国時代に武勇治水技術で知られた、鍋島家の重臣。佐賀水路を語ると“成富兵庫茂安”(なりとみ ひょうご しげやす)という人物に行き当たる。

みやき町白石神社ご祭神の1人となっている武将である。
〔参照(前半):「主にみやき町民の方を対象にしたつぶやき」

治水の神”が築いた堤防千栗(ちりく)土居長さ12キロに及んだという。


――その名は、当地で“北茂安町”という町名にも残った…

ここからは、私が最近知った話。本筋とは関係無いが、あえて語る。
年代としては、現在から50年ほど遡る。

北茂安町(現・みやき町)に生まれたある少年。先ほどの“水の神様”が造った堤防の近く、千栗(ちりく)八幡宮石段を昇り、足腰を鍛えたという。


――“柔道”の才能を見込まれ、少年は東京へと移る。

修業を積み、立派な柔道家となった少年は、やがて世界大舞台に立つ。

海外強豪を相手に、華麗な一本背負いを次々と決める。
強かった、そしてカッコ良かった


――その当時、私はハッキリ認識していなかった。

古賀稔彦さんは佐賀の人だったのだ。今はその事に、妙に納得している。

私は幕末明治期に限らず、佐賀の偉人には広く興味を持ちたいと思っている。しかし、この方はまだ“伝説”となるには、早すぎる人物だった。

…それが、悔やまれてならない。


(続く)

  
タグ :佐賀


2021年04月12日

連続ブログ小説「旅立の剣」(29)佐賀城公園へ

こんばんは。
一昨年の秋。わずか30時間佐賀での活動を綴る「旅立の剣」も最終章

昨年末に初日の行程を第1・2シリーズに書き終え、2日目第3シリーズまとめるつもりが「長崎街道」までが長くなり過ぎて、一旦、区切りました。
〔参照〕
「霜月・十一月」(歳末反省会⑭)
連続ブログ小説「旅立の剣」(19)2日目の朝

振り返れば、もっと書けそうなくらい充実した時間でした。これから、新型コロナを知らなかった頃の「秋の佐賀城公園イベント」の記憶です。



――朝8:58。長崎街道・柳町から大通りに戻る。

道路に向かって正面。佐賀玉屋は、開店前だった。じわじわと“朝食抜き”が、堪(こたえてきている私。

帰りの都合で14:30を目途に、佐賀駅前に戻らねばならない。そのため、私が佐賀で活動できるのは、残り6時間に満たない。


――「誰だ?こんなスケジュールを組んだのは!」

言うまでもなく、私だ。そして、この状況でも残り時間は惜しい。

やや足取りが重くなってきたが、大通り佐賀城に向かう。左手のバルーンミュージアムも、まだ開館前だ。



――佐賀城から見て北の守り。

長くて大きい橋を行く。吹き抜ける風の中、おそらくは鉄砲の戦に備えた広い堀を渡る。堀の向こう側の右手には、佐賀県庁を望む。

佐賀藩士の“聖地“である城内に入った。一時、空腹を忘れて感慨に浸る。



――公園全体が“お祭り”の前。準備の活気がある。

北堀近くは「秋の佐賀城公園イベント」の1つ“タイフェス”の会場のようだ。

タイ王国の大ヒットドラマロケ地となった、佐賀タイからの観光客に人気が出たと聞く。とくに鹿島市の祐徳稲荷神社への熱い注目は、私も知っている。

趣味か、仕事か、タイへのなのか…遠目なので、どんな様子の人たちが集うかまでは分からない。ただ、各々に“物語”がある週末なのだろう。

会場全体に、祭りの前高揚感のような雰囲気が漂い始めていた。


(続く)


  
タグ :佐賀


2021年04月13日

連続ブログ小説「旅立の剣」(30)殿、お腹空いた…

こんばんは。
勢いで“朝食抜き”で歩き続けた、一昨年の秋。

限界を感じる私を、この場所見つめる御方が居られました。
〔参照(後半)※写真:「誰の“視点”から見るか?」


――朝9:15。私の無計画は不都合を生じた。

城内にあるサガテレビの「JYOUNAI SQUARE」。
漠然と、ここのカフェを利用しようと考えていた。

様子を伺うと、「開店10:30-」と表示があった。
私は打ちのめされた。“私自身の甘さ”にである。

「しまった…街中喫茶店と同じに考えていた。」


――さて、どうする…?

この道の先に「さがレトロ館」がある。しかし、カフェ以上に営業開始時間は遅いと予想がつく。

どうにも足取りが重くなってきた。それでも惰性で進み続ける。道端ではイベントの準備が進む。佐賀城鯱の門の近くで、くるりと周った。


〔参照(拡大写真):「鍋島直正」(賢人その1)<後編>


――ふと、顔を上げる。殿がこちらをご覧になっている。

殿ご尊顔拝し奉り恐悦至極に存じます!」
(ごそんがんはいし たてまつり きょうえつ しごくに ぞんじます)

佐賀藩士(?)と疑問符が付く身だが、このような気持ちは大事にしたい。

「うむ、苦しゅうない。そう固くならずとも良いぞ。」
ありがたき幸せ。」

「…お主は、何故ふらついておる?」
「…殿お腹空きましてございます。」


――危うい幻覚ではない。当ブログではよくある展開だ。

「わが家来の末裔(まつえい)にしては、心もと無いのう。」
「もはや、色々と混ざっておりますゆえ…」

銅像の身ゆえ、細々と世話は焼いてやれぬ。」
「ははっ。」

「道なりに戻れば“せぶん いれぶん”があろう。腹が減っては事も成せぬぞ。」
御意(ぎょい)!」

私は一礼をすると、第10代佐賀藩主鍋島直正公の銅像前から退出する。


――こうして私は、ごく自然な形(?)で来た道を戻った。

「まず、何か食べねば…」
佐賀の名物を朝食に選べなかったのは、この旅で数少ない“残念”だった。

一方で、帰路に入る刻限まで、あと5時間ばかり。
9:30には佐賀城本丸歴史館が開く。相変わらず、時間節約も必要だった。


(続く)

  


2021年04月15日

連続ブログ小説「旅立の剣」(31)令和の張り込み

こんばんは。
今年も「有田陶器市」が中止だとか。佐賀と言えば“このイベント”を想い出す人もいるのに…悔しいことです。今年も「Web有田陶器市」での開催となる様子。

〔参照(前半):「主に有田町民の方を対象にしたつぶやき(前編)」

2019年10月。気兼ねなく全国への移動が可能だった頃。時間の許す限り、佐賀で走り回った現地調査の記憶を綴っています。


――朝9:30。“せぶん いれぶん”まで立ち戻る道。

幕末期佐賀は“英学”でも日本をリードしていた。

佐賀藩長崎に設立した英学校致遠館”。最盛期の生徒数は100名を超えたとも言われる。当時、英語を通じて“世界”を学べる稀有な教育機関だった。

日本西洋の近代を取り入れる原点に、佐賀役回りがあったことは、もっと知られてよい。



――殿も、英数字などは知っておられたか?と思うのである。

佐賀城内水路を、今度は右手に見ながら来た道を戻った。

コンビニなので、佐賀地域性は感じられないが、やむを得ない。この頃、気に入っていた「グラタンコロッケパン」と、お茶を購入した。

そして、道から陰に立つ。まるで「昭和刑事ドラマ」の張り込みの場面のように空腹をしのぐ。


――これが定番の「あんパンと牛乳」なら、より決まるところだ。

私が追うのは幕末明治期を通じて、日本近代化に活躍した佐賀藩の真実。
「もしや…?その業績は隠された…とは考えられないか。」

年甲斐も無く、“刑事ごっこ”である。昭和テレビ番組は、何やら楽しかった。「疑り深いのは、職業柄でしてね」というセリフも入れたい。

…私は短いコートの裾を翻す。真実への糸口を探るため、佐賀城本丸歴史館へと再び歩み始めた。


(続く)

  
タグ :佐賀


2021年04月19日

連続ブログ小説「旅立の剣」(32)よく居る先輩です

こんばんは。

一昨年の秋。旅も終盤ですが、私の調査は続きます。「張り込み」の次は、ある佐賀藩士への「聞き込み」です。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(31)令和の張り込み

――朝9:50。佐賀城本丸歴史館。

この時の企画展示は、日本の近代建築にその名を残した2人。
唐津レジェンド」とも言える、辰野金吾曽禰達蔵の業績だった。

佐賀銀行の前を通過した時に、お目にかかった方々である。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(21)唐津のレジェンド


――私は見ることができなかった「肥前さが幕末・維新博覧会」。

本丸歴史館には、当時の企画の1つ「リアル弘道館」のメモリアル展示もある。案内に立つ、佐賀藩士が1人。藩校・弘道館での世話係という役回りのようだ。

「こんにちは。」
私はこの旅で初めて、現代で仕事をする“佐賀藩士”に語りかけられた。



――挨拶を返した後、私はいつもの話をする。

佐賀は業績があるのに、大河ドラマになりませんよね…」
話を聞けば、“”の実現のために動く人たちがいる様子は伺える。

その場でも「私なりに動いてみたい」と伝える。「ぜひ」と笑顔を返してくださった。
…ある意味で、佐賀藩士(?)同士の会話である。


――そして私は、弘道館の“佐賀藩士”に質問した。

「ところで、貴方久米先生なのですか?」
展示パネルには、久米邦武のイラストでの解説があったからだ。

久米邦武は、幕末の佐賀藩で“有田皿山”代官を務めたエリート子息
大隈重信友人で、後に歴史学者として著名になる。教科書でも見た名前だ。

「いえ、私は久米先生ではありません。弘道館によく居る先輩の1人です!」


――私の問いに案内役の佐賀藩士は、元気よく答えた。

これも“藩校の先輩”の誇りか。私はを述べ、“先輩”の前から廊下に出た。

…記憶をたどると「この“藩校の先輩”は、どのような運命を歩んだ方なのか?」にまで興味が湧く。

実務能力の高い佐賀藩士だから、明治新政府の官僚になったのか。あるいは佐賀を離れず、地域の発展に貢献した人なのかもしれない。

そして“正義”を貫くため、佐賀戦争(佐賀の乱)に散った“先輩”もいるのだろう。
いまの私は「佐賀の藩校によく居る先輩」の物語を想うのである。


(続く)

  


2021年04月21日

連続ブログ小説「旅立の剣」(33)涙のメモリアル

こんばんは。
2018年(平成30年)。明治維新150年を記念した「肥前さが幕末維新博覧会」が開催。予想を遥かに超える“大盛況”だったようですね。

その終幕(フィナーレ)から、10か月ほどが過ぎた2019年(令和元年)の
時機を逸した私に、当時の“熱気”を語るものがありました。


――朝10:50。佐賀城本丸歴史館から出る。

何度か来ているのだが、概ね1時間は滞在したことになる。
私のような佐賀藩士(?)には、やはり特別な場所

そのまま「鯱の門」を潜って、イベント感が出てきた佐賀城公園内を行く。路上を少し西へと進み、県立博物館に向かう。


――その頃、「さが幕末維新博」に行けなかった私に“吉報”があった。

博覧会の“記憶”を伝える「メモリアル展示」が、佐賀市内3箇所で始まった。

先ほど本丸歴史館で、佐賀藩士の“先輩”に会うことができたのも、佐賀の藩校弘道館」のメモリアル展示だったのだ。



――朝10:55。佐賀県立博物館前。

秋の佐賀城公園イベントの1つ。「佐賀さいこうフェス」の会場内を進む。

ライブアートグルメの3本柱で成り立つお祭りのようだ。学生らしき参加者が多く、若い活気で賑わう。これもまた、佐賀未来だ。

大規模な文化祭っぽい雰囲気が漂う中、次の目的地へと歩を進める。


――ホットな表舞台の裏手から、クールな博物館内に入る。

距離にすればわずかに数メートルの差だが、随分と空気が落ち着いた。これも、ミュージアムが持つ“場の力”なのだろうか。

私のお目当ては、メモリアル展示の1つ「幕末維新記念館」だ。博覧会当時のパビリオンの様子を伺わせる、展示や映像を体感できる。


――その時は、オープンから間もない「メモリアル」展示。

幕末維新博で流れた“体感映像”は、まだ観ることができなかった。上映されたのは、「肥前さが幕末維新博覧会」の記録

来場した人たちの様子をまとめたドキュメンタリー映像だった。おそらくは、佐賀県内からの来場者を中心に構成されている。



――日本の近代化を目指して、走り続けた佐賀藩。

博覧会では、今までドラマでは語られなかった佐賀の先人たちが活躍する。

攘夷を叫ぶよりも、西洋列強に負けない技術を追い求めたトップランナー
幕府を倒すことより、近代国家を築くことに全力を注ぐ佐賀藩士たち。

そして、記録映像に見えるのは「想いがあふれて涙する来場者たちの姿。

…じっとモニターを見つめる私も涙腺が緩む。もし、出来得ることなら、私も同じ会場で感動を共有したかった。


――そこに博覧会のイメージソング。手嶌葵が歌う「一番星」が流れる。

手嶌葵さんと言えば、スタジオジブリの作品でも主題歌をつとめる実力派だ。
もはや“反則”と感じる出来栄え。初めから泣かせるつもりの演出ではないか。

…これも製作者の期待どおりなのか。ドライアイ気味の、私の目にもウルウルと潤いが戻っていた。


(続く)

  


2021年04月24日

連続ブログ小説「旅立の剣」(34)救いのシシリアン

こんばんは。
3度目の「緊急事態宣言」が報じられています。仕事に影響を受ける方はもちろん、GWの自粛が辛い…という方も多いかもしれません。皆様もお気を付けて。

冷静さを保つことが、最前線で立ち向かう人たちの一助になるのだと信じます。
…淡々と、いつもの一昨年の話を続けます。


――11:30。佐賀県立博物館の廊下にて。

肥前さが幕末維新博覧会メモリアル映像を見終わった。手嶌葵さんによるイメージソング「一番星」は、心を“浄化”するような歌声だった。

ドキュメンタリーで見た、佐賀に集う人たちは良い表情をしていた。先人たちの姿は、来場者へ“”の火を灯したのだろう。


――私も、目頭を熱くして外に出た。

「やはり、佐賀に来て良かった…」
この旅で、こう思うのは何度目だろう。

あわせて展示のあった、来場者のまっすぐなメッセージにも心を打たれたのだ。私にとって、佐賀故郷以上の存在へと成長しつつあった。


――ふと、気づいた。

そろそろ昼食をとっても良い頃だと。この感動で、またお腹が空いたのだ。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(30)殿、お腹空いた…

「昼食は、“佐賀の名物”にしておきたい…」
15時前には佐賀駅を発つ。“聖地”で活動できるのは、実質3時間に満たない。


――その場で、県立博物館のミュージアムカフェに入る。

移動に使える時間は、もう無いようだ。イベントの案内が出る前に佐賀城公園奥深くに入り込んだので、逆に“さが維新まつり”の現況がわからない。

「この祭りは、どう楽しむのが正しいのか…?」

さすがに疲れてきている。ここは腰を据えてラストの動きを判断せねば。
「“シシリアンライス”をお願いします。」

あまり考えずに注文できるのが、B級グルメ。私は、他地域の方に向けて「佐賀の甘辛焼肉サラダ丼」と説明する。



――そんなに“シシリアン”が食したいか…

自分の気持ちに素直であるとは、たぶん、こういうことなのか。昨夜の「佐賀玉屋シシリアンライス」も絶品ではあったが、暖かいものも食べたい。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(18)憩いのシシリアン

「…これは!?」
一口を食して、私は意表を突かれた。少し予想と違う味わいだったのだ。“豚の生姜焼き”系の…それでいて、少し自然派っぽい印象を持った。


――オーガニックな感じの“都会的”な味付けと言おうか。

後から少しハーブ香辛料系の残り香が感じられるようだ。冷えて消耗した体が、温められるような気がした。

…ちなみに、私の味覚をベースとした“食レポ”は当てにはならない。
しかし、この“シシリアン”が私のラストスパート活力を与えたことは確かだ。


――昼12:10。いざ、最終局面へ。

食後にひと息をついて、スマートフォンによる情報収集を完了した。
「今から、西の堀端に行こう。そこに、きっと見たかったものがある!」

こうして“燃料”を補給した私。まるで、幕末の佐賀藩が製作した“蒸気機関”のように熱気を帯び、再び立ち上がる。


(続く)

  
タグ :佐賀


2021年04月27日

連続ブログ小説「旅立の剣」(35)幕末の風が吹く

こんばんは。
2019年10月。佐賀での“旅日記”を延々とお送りしています。

コロナ禍郷里と隔てられようが、まるで昨日の事のように感じる、熱き想い。吹いていたのは、幕末を思わせる強い風でした。



――12:10。ミュージアムカフェから移動。

秋の佐賀城公園イベントは盛り上がりを見せ始めていた。
佐賀さいこうフェス」の各種グルメの出店か、“食欲の秋”らしい良い香り。

老いも若きも集まり賑やかだった。楽し気学生たちの姿も見える。

「歳を取ってから書くのが青春小説である…」という、言葉を聞いたことがあるが、私とて彼らに負けぬくらいワクワクしている。



――風が吹く道を進む。そこで“BGM”が鳴っていることに気付く。

~♪~ さが維新まつりhttps://saga-ishinmatsuri.jp/)※外部サイト。
(このページの「ダイジェスト版映像」のBGMと同じ曲だと思います。)

何だ…!この際立った“幕末感”は!」
私の胸を高鳴らせているのは、この音楽の効果でもあったのか。

西に向かう道では「さが維新まつり」のテーマらしき曲が流れていたのだ。


――短いコートの裾が、ヒラヒラと風に靡(なび)く。

何やら“”を得た気分。背筋も伸びる心持ちで歩む。佐賀城の西の堀端が近づいてきた。楠の木々を揺らし、を渡るは、私に何を語りかける。

…思えば、私はここに至るまで随分と回り道をした。
遅いぞ!ようやく“帰藩”してきおったか!」…と、出迎えてくれたように感じる。



――時刻は12:20頃。前方に目を向けると、力強い姿の銅像。

団にょん”さんこと、島義勇が蝦夷地(北海道)を探検する姿だ。

気合いの入った姿のお像セリフを付けるなら「俺たちは、やってやるんだ!」との言葉を贈りたい。

眼前にどこまでも続く、北海道大空大地が浮かんで来ないだろうか。


――その一方、スタッフさんたちはイベント準備に奔走している。

道路は封鎖され、通行止めとなる段取りのようだ。変わらず強く吹くは、堀の水面を波立たせる。

「ようやく…ここまで来たか。」
到達感を醸(かも)し出しているが、早々と行動し過ぎて、案内のパンフレット類すら入手できていない。

どんな展開が待っているのか。知らないのも、また一興だった。
その時の私は「何が始まろうとしているか」が、楽しみで仕方が無かった。


(続く)

  
タグ :佐賀


2021年04月29日

連続ブログ小説「旅立の剣」(36)始まりの予感

こんばんは。

本日から、連休に突入という方もいるかもしれません。但し、新型コロナの感染防止のため、行動の自制が必要という状況でしょう。

現在は動けずとも、人には「過去の記憶」と「未来への想像力」があります。

心だけは自由に”綴っていきます。2019年10月佐賀での“”を振り返るシリーズも残り数回です。


――まもなく時刻は、12:30。

佐賀城公園西の堀端に到着した私。ここが、旅の“最終地点”となるようだ。

タイムリミットまで、あと2時間。私は“秋祭り”に賑わう佐賀城下を発ち、日常へと戻って行かねばならない。



――漂うのは、一抹の寂しさ…

駆け足の無理な行程を組み、昨日の朝から動き回ってきた。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(4)早津江の嵐

降りしきる雨の中、三重津海軍所跡に向かったのが、随分と昔の出来事に思える。それから城下を周りに回った。そして、私は多くの気付きを得た。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(5)雨に打たれても


――では、この旅で「幕末の佐賀藩」が見えたのだろうか。

答えは“”(いな)だろう。決定的に時間が足らない佐賀市内のごく狭い範囲を息を切らして、歩き回ったのみである。

変わらず堀端には強い風が吹き、その水面は波立っている。もどかしい想いを抱え、私は“空き時間”で帰り支度を始めていた。



――そして、12:45。周囲に動きがあった。

私が限られた時間で、この場所での“待機”を続けたことには理由がある。

先ほど県立博物館カフェで、“検索”を行って決めた段取り。ふだんは日曜佐賀城で行われる歴史寸劇が、屋外で上演されるとの情報を得ていた。


――それまでの「島義勇像前」は…

わずかなスタッフさんと、幾人か会場の様子を伺う人たちが見えるのみだった。しかし、眼前の道路通行止めとなるや、にわかに活気が出る。

佐賀城公園秋イベントは、非日常の空間も提供するらしい。先ほどまでは、車が往来していたに降り立つ。


※この画像は、加工の度合いを強めにしています。

――「ここで一体、どんな祭りが始まるのか…」

遠方から来た私と違い、おそらくは“この場で起きる展開”を知る人々も集う。

熱心な来場者の方々の様子からは「その一瞬を見逃すまい」という気構えまで感じられたのである。


(続く)

  
タグ :佐賀


2021年05月03日

連続ブログ小説「旅立の剣」(37)佐賀の者の誇り

こんばんは。
2019年10月19日。私は「第2回さが維新まつり」の真っ只中にいました。

イベント演劇も、おそらくは一期一会のもの。私は「この時この場所」でしか見られないものを見たのだと思います。

いまや、人が密集した行事には注意を払わねばなりません。しかし「新しい佐賀のお祭り」は、時代にあわせて進化してくれると信じています。


――13:05。通行止めとなった路上で、次の展開を待つ私。

テーマソングらしき音楽。幕末の風を感じるBGMが、再び力強く響き始めた。

~♪~ さが維新まつりhttps://saga-ishinmatsuri.jp/※外部サイト
(同ページの「ダイジェスト版映像」のBGMと思われます。)

そして道路の向こう側から、さざ波のように歓声が伝わり始める。
誰かが、こちらに進んで来ている…」


※一般の方も写っているため、画像を強めに加工しています。

――いや、厳密に言えば、「何かが向かってきている。」

路上を水平移動する台車。パレード等で使われる“フロート”というものらしい。“舞台”がそのまま、こちらに移動して来るのだ。

私がこの場にいる理由は、歴史寸劇の鑑賞だ。そのため、どなたが乗っているのかは予想できている。


――「いま、会いに行ける殿。」

まるでアイドルグループの歌い文句のようだが、私はそんな感覚で捉えている。

郷土が誇る佐賀の賢人たちも書物銅像で仰ぎ見るだけでは、きっと存在感現代に発揮されない。身近に感じることが次につながると思うのだ。

目標になる“先輩”の存在は、たぶん現代を生きる“後輩たち”の行動も変えていく。きっと、この方々の活動には、そのようなもある。



――そして、目の前を滑るように、通過する“先輩”方。

青い旗を振る来場者。私も振りたかったが、その小道具入手先を知らない。

公家のような装束を纏う、明治期新政府でも要人となった、殿鍋島直正
黒の紋付に白袴の姿が、北海道の開拓を進め、札幌を創った男・島義勇

…と、ざっくり説明を試みる。


※2019年10月時点のキャストの方々です。

――13:15。「佐賀の“八賢人”」のうち、五名が揃う。

先輩たちの集結。現在の私なら、大ヒットアニメ「鬼滅の刃」の“”が集合したのに、近いイメージと考える。

ちなみに真ん中が、日本の近代司法を築いた、江藤新平。その右隣が、義務教育制度を形作っていった、大木喬任

右端は、この2人をはじめ、新時代を拓いた多くの人材たちの師匠枝吉神陽
佐賀の七賢人」に、この先生を加えると“八賢人”になる。


――13:30頃。私を含め、来場者はじっと前を向いていた。

幕末・維新 佐賀の八賢人おもてなし隊”による、歴史劇「さがんもん」が上演されている。

教科書では、初期の“士族反乱”として「佐賀の乱」と習った。私が佐賀出身者として、聞くだけで残念な気持ちになるNGワード

近年では、当時の政府攻撃に積極的で、佐賀方はやむを得ず応戦したとの解釈もある。反乱とは言い難いので「佐賀戦争」と呼称すべきという主張だ。



――舞台設定は、1874年(明治七年)。

敗色が濃厚となった佐賀城内江藤新平と、島義勇との最後の対話が演目となっているようだ。

史実では、この2人は政治的には立場が異なるものの「郷土を防衛するため」と共闘していたと聞く。

ここで島義勇が語るのは、北海道開拓の思い出話。

屋外の会場。私を含む聴衆たちは皆、青い空のもとにいる。嬉々として札幌の事を語る、が見遣る先には、北の大地が広がるようだった。


――頭上の空の青さが、何だか切ないほどだ。

諦めの言葉を口にする江藤先輩らしく、その弱気を叱咤(しった)する。

自身が信じてきた正義を想い、熱い気持ちを取り戻す江藤
江藤、そしてが“生きるために”敵陣に向かう姿で、劇は終幕となった。



――そこに、殿・鍋島直正の“天の声”。

「…思えば、この2人は、生粋のさがんもん(佐賀の者)じゃった…」

抑えたナレーションが、心に響く。これも涙腺に来る展開だ。先ほどから、普段のドライアイを忘れるほど、私の瞳は潤っている。

そしてこの瞬間が、この旅の目的地だったのかもしれない。


(続く)

〔参考記事(題材が同一):「“さが維新まつり”について」

  


2021年05月05日

連続ブログ小説「旅立の剣」(38)肥前の品格

こんにちは。
佐賀城の西の堀端。前回は歴史寸劇「さがんもん」に衝撃を受けた私。青空のもと、道路を封鎖してのイベントは続きます。

ちなみに2019年10月の話です。現状では、同じ形でのイベント開催は難しいでしょう。この時、私の心を打ったのは、佐賀人混みに感じる“品性”でした。


――13:50。私が、この場に居られる残り時間は30分。

再び、幕末の風が漂うBGM。気になる方は、前回記事から参照してほしい。

さが維新まつり」と白地に墨書した大旗がはためき、進んで来る。その隊列を出迎える、来場者たちが青い小旗を振る。

私は“お祭り男”の類では無いが、この盛り上がりには心が躍るものがある。
「こういう祭りには、もう少し早く出会いたかった…」


※公道でのイベントで当時の映像も公開されていますが、掲載写真はなるべく加工しています。

――この祭りのパレードを一言でいえば、幕末・明治期の仮装行列である。

演劇を中心に活動する「幕末・維新 佐賀の八賢人おもてなし隊」の方々だけでなく、一般で公募された方も佐賀の偉人に扮している。

その数分前には「おもてなし隊」のキャストの方は、全員集結していた。舞台上には前回のメンバー5人。加えて“別動隊”だった3人も到着したようだ。


注)2019年10月時点のキャストの皆様。私は「おもてなし隊」の関係者ではないため、一ファンとして紹介しています。説明の文章などは、歴史上の人物に対しての私個人の見解です。

――合流した3人は、舞台の下側。

右から順に、マイクの前に居る洋装の方、日本赤十字社創設・佐野常民
横顔のお侍が、人道的な外交で近代国家としての日本を示した副島種臣

左端早稲田大学を創った人。初の政党内閣での総理大臣大隈重信
発した言葉は「令和に生きる“後輩”を見ている」旨のメッセージだ。

大隈先生、確かに受け取りましたよ。」と言葉を返す気分。但し、受け取った私には、それなりに険しい道が待っているような気もする。


――そんな折、突然に明治政府の“外交官”が近くを通りがかる。

殿鍋島直正のご子息鍋島直大さまだ。

佐賀県内では、幼少期に“種痘”を施される絵図で有名。
のちにイタリア公使としても活躍。海外駐在の長い国際派だ。

…というプロフィールだが、直大さまに扮した方を見た。
「この人、佐賀県知事だ!」



――県民各位には、“賛否両論”あろうが…

私は県知事の姿に気付く。密かに舞台へ進む様子。一方で沿道は、その外交官鍋島直大の夫人、鍋島榮子(ながこ)さまの登場に大盛り上がりを見せる。

扮するのは、女優中越典子さん。当時のドレスを纏い、貴婦人の出で立ち。佐賀出身とは聞いていたが、さすが芸能人オーラが違うし、とても小顔だ。

…昔は、佐賀駅ミスタードーナツにも来ていたとか聞くが、信じ難い。


――14:00。山口知事と、中越さんが登壇している。

あまりの展開に入ってくる情報量が多過ぎて、少々混乱気味の私。舞台上ではMCの女性が華のある高い声で、テキパキと話を整理している。

ふと、冷静になる。もう、私は帰路に付かねば。会場では“餅まき”のような行事が始まっていた。

おそらく飛び交うのは袋入りの“佐賀銘菓”。キャッキャと楽しそうな子供たち



――“この会場”との、別れの寂しさが過(よ)ぎる。

のためか自分のためか、頭上の青空に向けて高く手を伸ばす大人たち。皆が「この青天に向かって、“”を突き上げている!」のだ。

「“いつも”とは何かが、違う…」
私は考えた。もし、大都市圏で同じように人が集まれば、ゴチャゴチャと無秩序になるのが常だ。この会場に集う佐賀の人たちからは、そんな気配を感じない。

「これも肥前の…、佐賀品格か。」
旅の終わりにも、私は奇妙な気付きを得ていた。


(続く)


  


2021年05月07日

連続ブログ小説「旅立の剣」(39)走らんね!

こんばんは。
突如、始まった壇上からの“餅まき”。私は佐賀青天を見上げます。

2019年(令和元年)10月の昼下がり。
とても佐賀らしい、ある“号令”が響いて、私は走り始めました


――14:10。壇上、そして会場を包む拍手。

たぶん中身は“佐賀銘菓”だと思うが、“餅”投げは完了した様子。
西の堀端に漂うのは、まるで“大団円”の雰囲気。

私は“餅”キャッチには手出ししなかったが、幸福感は受け取った。


――ここでМCの女性の声。

橋の上から右手後方に見える、堀の際(きわ)をご覧いただきたいらしい。

葉隠砲術隊だと!?」

私は驚愕した。見た感じ“アームストロング砲”が用意されている。
このお祭りは、どこまで幕末佐賀藩を詰め込んでくるのだ。



――「祝砲で~す!」何ともトーンが明るい。楽しくなる声だ。

パァン…!
堀端に響き渡る大音声。たなびく白煙

幕末佐賀ほどモダンな藩は無かった」と聞く。

ある歴史小説大作家の先生が、そう語ったようだ。定番の小説も読みたい。でも、なるべく私自身の想いで佐賀藩を語ってみたい。しばらくは、我慢しよう。


――14:12。別れの時が迫る。

まさに「後ろ髪をひかれる」とはこの事。しかし、もう時間の猶予は無い。

「急ぎ、佐賀駅まで戻れ!」
運動会みたいに言うが、先ほどの“祝砲”はスタートの合図だったのか。


――まず、荷物が揺れぬよう、しっかり背に付ける。

おそらくはイベントの余韻(よいん)に浸る、近隣からの来場者の皆様。

「私も本当は、もう少しここに居たい…」
そして2度、3度と名残惜しく振り返ったうえで、帰路へと走り始めた



――移動を開始してから、3~4分ばかり経過。

「おおっ!意外にまだ動けるじゃないか。」
…とは言え、スタート直後。しかも、周囲に人が居るので小走り程度だ。

先ほどの砲術隊の方が見える。こんなところにも佐賀藩士

写真を撮らせていただいても良いですか?」
急いでいても、これは撮影したい。周囲の子どもたちも楽し気である。


――何だか、すでに「大河ドラマ」の気配がする。

佐賀藩の誇る、精鋭っぽい“砲術隊”のお兄さん。スッ…と、構える手元にも“砲術侍”の心意気を感じる。

「ありがとうございます!」
嬉しかった。旅の終わりまで、同僚(?)の佐賀藩士が見送ってくれたのだから。



――ほどなく祭りの中心から離れ、周囲の人通りは少なくなった。

移動時間不足を見越して、撤収に選んだ西の堀端ルート
私も佐賀藩士(?)を名乗るなら、周到に計画を進めたい。

…このくだり。たぶん、この旅を最初からご覧の方は苦笑するだろう。
勢いはあったが、行き当たりばったりと言うべき旅だったのだから。


――どうやら私は、まだ走れる。

佐賀駅に定刻にたどり着くため…?バスに乗り遅れるから…?
それもある。でも走りたいから走るのだ。

走らんね!」心がそう叫ぶのだ。

そして、気持ちだけは若かったが、日頃の運動不足もある。
5分と持たずに息切れをしたが、距離だけは稼いで、北の堀端に出た。


(続く)

  
タグ :佐賀


2021年05月09日

連続ブログ小説「旅立の剣」(40)いつの日か佐賀で

こんにちは。
長々とお送りしました一昨年の秋の“旅日記”。第3シリーズで完結です。

当初は“息抜き”のつもりで始めましたが、わりと頑張ってしまい、全40話になりました。多少の感慨もあり、連続ブログ小説の最終回として区切りを入れます。

念のためですが、ブログは続きます。そして、このシリーズに関連した記事は、たぶん今後も登場します。企画案は色々とあって、時間体力との勝負です。


――14:23。佐賀城内を北の堀端に出た。

混雑を避けて、西側堀沿いを走ってきた私。人通りの少ない小径(こみち)

このルート選択は正解だったようだ。手元で時刻を見る。
「よし、佐賀駅には充分…間に合いそうだ。」



――息切れはするが、到達感がある。

私は旅の終わりに感じる、一抹の寂しさを打ち消す。
「また、近いうちに来ればいい…」

堀沿いを抜ける風。ここには、お祭りの賑わいは無い。呼吸を整えて、大通りへ戻る道をゆっくり歩き出す。


――14:24。佐賀の県庁や議会が立ち並ぶ一角。

この2日間、あわせて30時間にも満たない滞在だった。

佐賀の街中で、繰り返した動き。パシャリと写真を撮る。
少し胸を張って、やや上向きの角度に撮った、この一枚だ。



――これが、この旅の最後の写真である。

広大な北堀を渡る、大きい橋を行く。中央大通りに面した佐賀郵便局。その向かいの停留所で、バスを待つことにする。

幕末期。城の北堀の手前には、佐賀の藩校“弘道館”が立地したようだ。

若い佐賀藩士たちが学問に励み、武術で鍛え、を食い、議論をぶつけ合い、時には乱闘する…きっと当時の私にはそこまでのイメージは見えていなかった。


――この旅で見た景色は、時間をかけて、私の想像力とつながっていく。

本日は、初の市営バスに乗り込んだ。1日目一日乗車券を使い、縦横無尽に佐賀の街走り回ったことが既に懐かしい。

今回は、これで良かったとするか。」
やっぱり名残惜しいが満足したことにする。佐賀駅に向けて、走り始めるバス


――ここまでの密度の濃い時間に比べて、

不思議なぐらいに、帰路の記憶は残っていない。そこから50日ほどが過ぎた。私は、このブログを通じて皆様の前で語り始めることにした。

私自身も最近、知ったばかりの故郷・佐賀の偉大さを。そして、幕末佐賀藩が、現代でこそ広く知られるべき存在であることを。

そして本作は、この一部始終を、ある佐賀藩士(?)の旅立として記すものだ。


〔連続ブログ小説「旅立の剣」 完

  
タグ :佐賀