2021年03月10日
連続ブログ小説「旅立の剣」(19)2日目の朝
こんばんは。
しばらく気力および時間の不足を補うために、“連続ブログ小説”を再開します。平たく言えば、私の旅日記なので、あまり中身はありません。
普段より格段に調べ物が少ないので、私には“省エネ”の効果が期待できます。時おり、他の投稿も織り交ぜながら、進めていく予定です。
昨年の晩秋に掲載していた「連続ブログ小説」ですが、その第3シリーズ。
題材は2019年10月に、私が佐賀での現地調査を行ったときの話です。
――1泊2日。わずか30時間程度の滞在。
昨夜、佐賀玉屋で購入したシシリアンライスは美味だった。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(18)憩いのシシリアン〕
「この旅のうちに…もう一度、“シシリアン”が食べたい!」
早朝に目が覚めた。昨日は、佐野常民や大隈重信の記念館など、佐賀市営バスで一日駆け回った。
簡単に故郷に帰れない私に、県内で調べ物ができる機会は少ない。今まで佐賀の歴史スポットを見聞するのは、帰省ついでの余った時間に限られていた。

――今回は調査のために、無理に作った時間だ。
「幕末佐賀藩の大河ドラマ」を志す者にとって、佐賀は“聖地”である。それゆえ私には、その“聖地”にいる間に為すべきことがある。
のんびり寝ている暇など無い。朝食の時間を削ってでも、外に出ねば。早々と、出立の準備を整える。名残り惜しい事だが、すでに帰り支度を兼ねている。
…書物や映像の情報では、感じ取れないものがある。少しでも、佐賀の空気に触れる時間を多く持つべきだ。
――佐賀駅前の南口。時刻は朝7:50。
その日は、佐賀城公園の秋イベント。私の目的は「第2回さが維新まつり」だ。周辺では「さがさいこうフェス」と「タイフェス」も同時開催のようで賑わうだろう。
…とはいえ土曜の午前で、街はまだ動き出してはいない時間。人通りも少ない。朝の涼しい風に触れた。
タクシーのりばと駅のコンビニ。ありふれた風景は“非日常”への入口だった。
(続く)
しばらく気力および時間の不足を補うために、“連続ブログ小説”を再開します。平たく言えば、私の旅日記なので、あまり中身はありません。
普段より格段に調べ物が少ないので、私には“省エネ”の効果が期待できます。時おり、他の投稿も織り交ぜながら、進めていく予定です。
昨年の晩秋に掲載していた「連続ブログ小説」ですが、その第3シリーズ。
題材は2019年10月に、私が佐賀での現地調査を行ったときの話です。
――1泊2日。わずか30時間程度の滞在。
昨夜、佐賀玉屋で購入したシシリアンライスは美味だった。
〔参照:
「この旅のうちに…もう一度、“シシリアン”が食べたい!」
早朝に目が覚めた。昨日は、佐野常民や大隈重信の記念館など、佐賀市営バスで一日駆け回った。
簡単に故郷に帰れない私に、県内で調べ物ができる機会は少ない。今まで佐賀の歴史スポットを見聞するのは、帰省ついでの余った時間に限られていた。
――今回は調査のために、無理に作った時間だ。
「幕末佐賀藩の大河ドラマ」を志す者にとって、佐賀は“聖地”である。それゆえ私には、その“聖地”にいる間に為すべきことがある。
のんびり寝ている暇など無い。朝食の時間を削ってでも、外に出ねば。早々と、出立の準備を整える。名残り惜しい事だが、すでに帰り支度を兼ねている。
…書物や映像の情報では、感じ取れないものがある。少しでも、佐賀の空気に触れる時間を多く持つべきだ。
――佐賀駅前の南口。時刻は朝7:50。
その日は、佐賀城公園の秋イベント。私の目的は「第2回さが維新まつり」だ。周辺では「さがさいこうフェス」と「タイフェス」も同時開催のようで賑わうだろう。
…とはいえ土曜の午前で、街はまだ動き出してはいない時間。人通りも少ない。朝の涼しい風に触れた。
タクシーのりばと駅のコンビニ。ありふれた風景は“非日常”への入口だった。
(続く)
2021年03月12日
連続ブログ小説「旅立の剣」(20)その時、これから
こんばんは。
一昨年、2019年10月。私は、“新型コロナ”という言葉も知りませんでした。
気兼ねなく“お祭り”を楽しめた日々。このシリーズでは“タイムカプセル”のように表現できたらと思います。まずは「帰らんば、あの世界へ」と願いを込めて。

――当時、佐賀駅南口で工事中の現場を見かけた。
2021年現在では、すっかり馴染みのお店という方もいるだろう。複合商業施設「コムボックス」の建設中の姿だ。
私は“この場所”にあった大型スーパー「西友」がお気に入りだった。佐賀駅前に、夜も遅くまで空いていた。
入院した親族の見舞いなど、佐賀市内に用事がある時の心のオアシス。郷里から遠く離れた地で「西友閉店」の報を聞き、私はひどく落胆した。
――佐賀駅前に、“新たな力”が還ってくる…
「ここが、過ぎ去りし日々を…取り返してくれるかな。」
期待の目線で、建設工事中の鉄骨を見つめた。
ちょうど前夜。観光協会の入るビル「エスプラッツ」に立ち寄った私。そのとき、同じフロアで展示されていた“昭和の風景”の写真パネルも見ていた。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(17)誇りを取り戻せ〕
かつて佐賀市の中心街が、極めて華やかだった頃の姿は、私の心を捉えた。“いま一度”見てみたい世界が増えていく。

――話は、大通りを南に歩む、朝7:55に戻る。
「すべては、第一歩からだ…」
朝の風が涼しい秋だった。並木道を進み、“駅前まちかど広場”に至った。
幕末期、佐賀藩で活躍した賢人たちの銅像が集う。気分が高揚する場所だ。
ブログでの情報発信を始めていなかった時期。私は「どこかでプレゼンでも試みるか…」と資料づくりを進めた。“調査”の一環で、写真も撮り溜めた。
…後にブログを始めるうえで、この行動が活きるのはご覧の通りである。
(続く)
一昨年、2019年10月。私は、“新型コロナ”という言葉も知りませんでした。
気兼ねなく“お祭り”を楽しめた日々。このシリーズでは“タイムカプセル”のように表現できたらと思います。まずは「帰らんば、あの世界へ」と願いを込めて。
――当時、佐賀駅南口で工事中の現場を見かけた。
2021年現在では、すっかり馴染みのお店という方もいるだろう。複合商業施設「コムボックス」の建設中の姿だ。
私は“この場所”にあった大型スーパー「西友」がお気に入りだった。佐賀駅前に、夜も遅くまで空いていた。
入院した親族の見舞いなど、佐賀市内に用事がある時の心のオアシス。郷里から遠く離れた地で「西友閉店」の報を聞き、私はひどく落胆した。
――佐賀駅前に、“新たな力”が還ってくる…
「ここが、過ぎ去りし日々を…取り返してくれるかな。」
期待の目線で、建設工事中の鉄骨を見つめた。
ちょうど前夜。観光協会の入るビル「エスプラッツ」に立ち寄った私。そのとき、同じフロアで展示されていた“昭和の風景”の写真パネルも見ていた。
〔参照:
かつて佐賀市の中心街が、極めて華やかだった頃の姿は、私の心を捉えた。“いま一度”見てみたい世界が増えていく。
――話は、大通りを南に歩む、朝7:55に戻る。
「すべては、第一歩からだ…」
朝の風が涼しい秋だった。並木道を進み、“駅前まちかど広場”に至った。
幕末期、佐賀藩で活躍した賢人たちの銅像が集う。気分が高揚する場所だ。
ブログでの情報発信を始めていなかった時期。私は「どこかでプレゼンでも試みるか…」と資料づくりを進めた。“調査”の一環で、写真も撮り溜めた。
…後にブログを始めるうえで、この行動が活きるのはご覧の通りである。
(続く)
2021年03月14日
連続ブログ小説「旅立の剣」(21)唐津のレジェンド
こんにちは。
“省エネ”を試みるつもりでしたが、当時の記憶をたどり、後に得た知識も加えて振り返ると、意外に頭を使うようです。
今日は、佐賀市内の大通りから、唐津方面に想いを馳せます。
――時刻は、朝8:00に至った。中央大通りを南進する。
ふだん私は大都市圏の喧騒に疲れ気味だ。朝の整然とした大通りが清々しい。これが佐賀の心映えであるのか、道がキレイなのだ。
佐賀銀行本店の前。金融機関らしく重厚な造りの建物と見える。
「さすが銀行。丈夫そうな建物だな…」
私は単純な感想を持った。
「貴君!その通りだ。建物は頑丈でなくてはな!」

――独り、歩みを進めているはずの私。
真っ直ぐな気配を感じ、車道側に目を向ける。そこには立ち姿のヒゲの御仁。明治期から活躍した、大建築家・辰野金吾(きんご)の銅像だ。
日本銀行本店や、東京駅の設計で著名だ。明治の人たちはこう語ったと聞く。
「なんて丈夫な構造!まるで、辰野“堅固”(けんご)だ!」と。
辰野氏へのリスペクト(敬意)を感じる“ダジャレ”。私はこれを「明治ギャグ」と呼ぶ。ちなみに辰野氏は、同じ佐賀県内でも唐津藩の出身者だ。
――隣に座るのも、エリート唐津藩士の子・曽禰(そね)達蔵。
幕末の江戸生まれ。唐津藩の若殿(藩主名代)・小笠原長行にも可愛がられたとか。明治からの東京で、日本初のオフィス街を築いた方…と、後で知った。
「辰野さん。相変わらず…貴方は熱い男ですね。」
西洋の新工法は、いち早く実験したという曽禰達蔵。クールで知性派な印象だ。
曽禰氏が設計する“ビルヂング”は、近代的な“丸の内”の街を形作っていく。ちょっと余裕のある座り姿。言われてみれば、都会的でスタイリッシュに思える。
――明治期に、佐賀藩士たちは情報通信などのインフラを整えた。
そして唐津藩士たちは近代建築の方面に突き進み、レジェンド(伝説的存在)となっていく。やはり佐賀は面白い。
…私は確信した。「朝食の時間も惜しんで、調査を始めた甲斐があった!」と。
(続く)
“省エネ”を試みるつもりでしたが、当時の記憶をたどり、後に得た知識も加えて振り返ると、意外に頭を使うようです。
今日は、佐賀市内の大通りから、唐津方面に想いを馳せます。
――時刻は、朝8:00に至った。中央大通りを南進する。
ふだん私は大都市圏の喧騒に疲れ気味だ。朝の整然とした大通りが清々しい。これが佐賀の心映えであるのか、道がキレイなのだ。
佐賀銀行本店の前。金融機関らしく重厚な造りの建物と見える。
「さすが銀行。丈夫そうな建物だな…」
私は単純な感想を持った。
「貴君!その通りだ。建物は頑丈でなくてはな!」
――独り、歩みを進めているはずの私。
真っ直ぐな気配を感じ、車道側に目を向ける。そこには立ち姿のヒゲの御仁。明治期から活躍した、大建築家・辰野金吾(きんご)の銅像だ。
日本銀行本店や、東京駅の設計で著名だ。明治の人たちはこう語ったと聞く。
「なんて丈夫な構造!まるで、辰野“堅固”(けんご)だ!」と。
辰野氏へのリスペクト(敬意)を感じる“ダジャレ”。私はこれを「明治ギャグ」と呼ぶ。ちなみに辰野氏は、同じ佐賀県内でも唐津藩の出身者だ。
――隣に座るのも、エリート唐津藩士の子・曽禰(そね)達蔵。
幕末の江戸生まれ。唐津藩の若殿(藩主名代)・小笠原長行にも可愛がられたとか。明治からの東京で、日本初のオフィス街を築いた方…と、後で知った。
「辰野さん。相変わらず…貴方は熱い男ですね。」
西洋の新工法は、いち早く実験したという曽禰達蔵。クールで知性派な印象だ。
曽禰氏が設計する“ビルヂング”は、近代的な“丸の内”の街を形作っていく。ちょっと余裕のある座り姿。言われてみれば、都会的でスタイリッシュに思える。
――明治期に、佐賀藩士たちは情報通信などのインフラを整えた。
そして唐津藩士たちは近代建築の方面に突き進み、レジェンド(伝説的存在)となっていく。やはり佐賀は面白い。
…私は確信した。「朝食の時間も惜しんで、調査を始めた甲斐があった!」と。
(続く)
2021年03月18日
連続ブログ小説「旅立の剣」(22)大きな河になれ
こんばんは。
わずか数分の出来事でも、後につながる時間があるようです。
2019年の秋、佐賀市の中央大通りを南に進む私。
――朝8:03。中央大通りを“唐人町”付近に至る。
小城の書家・中林梧竹の銅像がある。
大通りに面する、佐賀の偉人たちの銅像は、大体が2人一組である。
しかし、この唐人町の広場に佇む“小城の書聖”は1人だ。
「何だか、さびしいな…」
私はブログを始めてから、この認識を改めることになる。
…この状態は“集中”と呼ぶのがふさわしい!と。
それに書家としても著名な、副島種臣ともつながりがある。私が言いたいことは「中林先生は1人じゃない…」ということだ。
〔参照(前半):「主に小城市民の皆様を対象としたつぶやき 2」〕
――朝8:07。“唐人町”を進み、道路の向かい側。
今度は“社会教育家”とジャンル付けされた2人の銅像が並ぶ。
左は、鹿島の出身で“青年団”の活動を全国に広めた、田澤義鋪。
その時点の私には情報の持ち合わせが無く、何も感じなかった。
田澤氏の持っていた情熱は、ある演劇で知ることになる。
〔参照(前半):佐賀城からのライブ配信の感想など④⑤〕

――右隣は、田澤の思想に共鳴した“小説家”。
神埼の出身。「次郎物語」を著した下村湖人。
佐賀ローカルで語れば、鹿島から神埼へ響き合っている。
…他地域の人にざっくり説明すると、佐賀県内を西から東へのイメージだ。
時代がまだ昭和だった頃。幾度か映画化もされていた「次郎物語」。
私には、さだまさしが主題歌「男は大きな河になれ」を歌った、比較的新しい作品の記憶がある。
――この主題歌は個人的に、名曲だと思っている。
原曲はチェコの音楽家スメタナ。交響詩「わが祖国」の第2曲だったか…
この曲に長崎出身のさだまさしが映画の主題歌として、詩を付けたと聞く。
「次郎物語」をきっかけに思い出し、聴き返してみた。
「せつないことがあったなら~♪」
…辛い事があった時に大きく叫んで雲を呼び、さらにその雲が覆えないほどの人物になれと説く。
――苦しい時こそ、意地を張れ。
目をそらさずに雨を見て、泣かずに雨を集めて…
そして「男は大きな河になれ」と結ぶのである。
あらためて聴き返すと、私には佐賀平野の風景が浮かぶ。
佐賀(神埼)が舞台の物語をイメージして作られたから…なのだろうか。
青年の人格を育む“教養小説”として書かれた「次郎物語」。
歳を重ねて、いま一度顧みると、大きな発見があるかもしれない。
(続く)
わずか数分の出来事でも、後につながる時間があるようです。
2019年の秋、佐賀市の中央大通りを南に進む私。
――朝8:03。中央大通りを“唐人町”付近に至る。
小城の書家・中林梧竹の銅像がある。
大通りに面する、佐賀の偉人たちの銅像は、大体が2人一組である。
しかし、この唐人町の広場に佇む“小城の書聖”は1人だ。
「何だか、さびしいな…」
私はブログを始めてから、この認識を改めることになる。
…この状態は“集中”と呼ぶのがふさわしい!と。
それに書家としても著名な、副島種臣ともつながりがある。私が言いたいことは「中林先生は1人じゃない…」ということだ。
〔参照(前半):
――朝8:07。“唐人町”を進み、道路の向かい側。
今度は“社会教育家”とジャンル付けされた2人の銅像が並ぶ。
左は、鹿島の出身で“青年団”の活動を全国に広めた、田澤義鋪。
その時点の私には情報の持ち合わせが無く、何も感じなかった。
田澤氏の持っていた情熱は、ある演劇で知ることになる。
〔参照(前半):
――右隣は、田澤の思想に共鳴した“小説家”。
神埼の出身。「次郎物語」を著した下村湖人。
佐賀ローカルで語れば、鹿島から神埼へ響き合っている。
…他地域の人にざっくり説明すると、佐賀県内を西から東へのイメージだ。
時代がまだ昭和だった頃。幾度か映画化もされていた「次郎物語」。
私には、さだまさしが主題歌「男は大きな河になれ」を歌った、比較的新しい作品の記憶がある。
――この主題歌は個人的に、名曲だと思っている。
原曲はチェコの音楽家スメタナ。交響詩「わが祖国」の第2曲だったか…
この曲に長崎出身のさだまさしが映画の主題歌として、詩を付けたと聞く。
「次郎物語」をきっかけに思い出し、聴き返してみた。
「せつないことがあったなら~♪」
…辛い事があった時に大きく叫んで雲を呼び、さらにその雲が覆えないほどの人物になれと説く。
――苦しい時こそ、意地を張れ。
目をそらさずに雨を見て、泣かずに雨を集めて…
そして「男は大きな河になれ」と結ぶのである。
あらためて聴き返すと、私には佐賀平野の風景が浮かぶ。
佐賀(神埼)が舞台の物語をイメージして作られたから…なのだろうか。
青年の人格を育む“教養小説”として書かれた「次郎物語」。
歳を重ねて、いま一度顧みると、大きな発見があるかもしれない。
(続く)
2021年03月20日
連続ブログ小説「旅立の剣」(23)“朝ドラ”も見たい
こんばんは。そろそろ年度末に近づいて来ましたね。4月から新しい環境でのスタートが決まっている人もいるでしょう。
…この季節、時間には密度の濃淡があることを強く感じるのです。
前回の続き。一昨年(2019年10月)の活動をもとに綴るシリーズ。佐賀が誇る偉人の銅像を見ながら中央大通りを南に歩き、長崎街道の近くまで寄っています。
――朝8:09。看板には、“工学・化学分野の先駆者”と表示あり。
座り姿の男性。多久が輩出した、日本の電気工学の祖・志田林三郎。日本初の工学博士の1人だそうだ。
幕末期。佐賀藩内でも教育熱心で知られた、多久領の学問所で学ぶ。
〔参照(中盤):「主に多久市民の皆様を対象としたつぶやき」〕
明治期。工部大学校や留学を経て、技術官僚として活躍。電気学会を創設し、“IT社会”の到来まで予見したという。100年以上先を見通したようだ。
“逓信四天王”と呼ばれた電信の石丸安世(虎五郎)、電話の石井忠亮はともに佐賀藩士。日本の情報通信をリードした佐賀の系譜が、つながっていく。

――その左隣に立つ、日本最初の女性化学者(理学博士)・黒田チカ。
日本初の女性理学博士は、別の植物学者の方。それで“化学分野で女性初”と注釈が付くようだ。時は少し現代に近づき、明治中期の生まれ。
「これからは女子にも学問が必要!」という進歩的な父に恵まれた。
佐賀から出て、当時の女性が学問を続ける不利を乗り越えていく。自信有り気なタイプでは無かったようだが、地道に頑張る姿は周囲の心に響いていく。
「君には、この学問を続ける資格がある!」とか周りの先生方が熱く励ました。黒田氏は日本初の女子大生(帝大生)の1人となり、東北帝国大学に進む。
――「これは“大河”というより…そうだ、“もう1つの看板番組”だ!」
「明治期、佐賀の“朝ドラ”を作る!」なら、有力な主役候補だろう。
“紅(くれない)の博士”と呼ばれ、科学研究を志す後進の目標になった女性。
黒田チカ博士は、理化学研究所でも天然色素の抽出など研究を続けた。現・お茶の水女子大学で教壇に立ち、玉ネギから“結晶”を取り出す研究を行う。
この結晶が“ケルセチン”。後に高血圧の薬として実用化される物質だった。
…延々と「朝ドラ」(連続テレビ小説)化を目指して語ってしまいそうなので、今日はこの辺りで。前回とあわせても、現場では10分程度の時間。
密度の濃い、時の過ごし方でした。
(続く)
…この季節、時間には密度の濃淡があることを強く感じるのです。
前回の続き。一昨年(2019年10月)の活動をもとに綴るシリーズ。佐賀が誇る偉人の銅像を見ながら中央大通りを南に歩き、長崎街道の近くまで寄っています。
――朝8:09。看板には、“工学・化学分野の先駆者”と表示あり。
座り姿の男性。多久が輩出した、日本の電気工学の祖・志田林三郎。日本初の工学博士の1人だそうだ。
幕末期。佐賀藩内でも教育熱心で知られた、多久領の学問所で学ぶ。
〔参照(中盤):
明治期。工部大学校や留学を経て、技術官僚として活躍。電気学会を創設し、“IT社会”の到来まで予見したという。100年以上先を見通したようだ。
“逓信四天王”と呼ばれた電信の石丸安世(虎五郎)、電話の石井忠亮はともに佐賀藩士。日本の情報通信をリードした佐賀の系譜が、つながっていく。
――その左隣に立つ、日本最初の女性化学者(理学博士)・黒田チカ。
日本初の女性理学博士は、別の植物学者の方。それで“化学分野で女性初”と注釈が付くようだ。時は少し現代に近づき、明治中期の生まれ。
「これからは女子にも学問が必要!」という進歩的な父に恵まれた。
佐賀から出て、当時の女性が学問を続ける不利を乗り越えていく。自信有り気なタイプでは無かったようだが、地道に頑張る姿は周囲の心に響いていく。
「君には、この学問を続ける資格がある!」とか周りの先生方が熱く励ました。黒田氏は日本初の女子大生(帝大生)の1人となり、東北帝国大学に進む。
――「これは“大河”というより…そうだ、“もう1つの看板番組”だ!」
「明治期、佐賀の“朝ドラ”を作る!」なら、有力な主役候補だろう。
“紅(くれない)の博士”と呼ばれ、科学研究を志す後進の目標になった女性。
黒田チカ博士は、理化学研究所でも天然色素の抽出など研究を続けた。現・お茶の水女子大学で教壇に立ち、玉ネギから“結晶”を取り出す研究を行う。
この結晶が“ケルセチン”。後に高血圧の薬として実用化される物質だった。
…延々と「朝ドラ」(連続テレビ小説)化を目指して語ってしまいそうなので、今日はこの辺りで。前回とあわせても、現場では10分程度の時間。
密度の濃い、時の過ごし方でした。
(続く)
2021年03月22日
連続ブログ小説「旅立の剣」(24)ここが分岐点
こんばんは。
最近、かなり忙しく消耗気味です。休息期間を入れることも考えています。
そして長らく佐賀からも離れています。エネルギーが湧いて来ないわけですが、今日は淡々と語ります。
なお、今日のお題に、明確な答えをお持ちの方はご教示を願いたく思います。

――朝8:10。銅像巡りは、小休止。
中央大通りを南に進む私は、左斜め前を見た。
白山通りのアーケードの手前まで来ている。
かつて大賑わいだったと聞く、この通りもすっかり落ち着いてしまった。
但し、まだ店舗などは空いていない時間帯の姿だ。

――続いて、右斜め前を見る。
中央大通りから分かれて、同じく南に向かう通り。
このとき、私は何となく周囲を360度、見回していた。
これも非日常の一環だ。それに回りながら、ひとしきり写真も撮った。
自分の住まう街で、なかなかこの行動は取らない。

――ここからは現在の、私の思索だ。
私は、佐賀市中心部を走る大通りを“県庁通り”だと理解していた。しかし、この辺から右斜め前に伸びる道に“県庁前通り”との名が付与されているらしい。
そして佐賀のメインストリートは“中央大通り”と呼称すべきようだ。
――現在でも、この分岐点までは“県庁通り”と呼んでも良いのか?
佐賀を外から見られる有利と、佐賀から離れている不利…
私には佐賀の美点を探すことは容易だが、佐賀の常識を得るのは難しい。表裏一体の迷い道が続いていく。
(続く)
最近、かなり忙しく消耗気味です。休息期間を入れることも考えています。
そして長らく佐賀からも離れています。エネルギーが湧いて来ないわけですが、今日は淡々と語ります。
なお、今日のお題に、明確な答えをお持ちの方はご教示を願いたく思います。
――朝8:10。銅像巡りは、小休止。
中央大通りを南に進む私は、左斜め前を見た。
白山通りのアーケードの手前まで来ている。
かつて大賑わいだったと聞く、この通りもすっかり落ち着いてしまった。
但し、まだ店舗などは空いていない時間帯の姿だ。
――続いて、右斜め前を見る。
中央大通りから分かれて、同じく南に向かう通り。
このとき、私は何となく周囲を360度、見回していた。
これも非日常の一環だ。それに回りながら、ひとしきり写真も撮った。
自分の住まう街で、なかなかこの行動は取らない。
――ここからは現在の、私の思索だ。
私は、佐賀市中心部を走る大通りを“県庁通り”だと理解していた。しかし、この辺から右斜め前に伸びる道に“県庁前通り”との名が付与されているらしい。
そして佐賀のメインストリートは“中央大通り”と呼称すべきようだ。
――現在でも、この分岐点までは“県庁通り”と呼んでも良いのか?
佐賀を外から見られる有利と、佐賀から離れている不利…
私には佐賀の美点を探すことは容易だが、佐賀の常識を得るのは難しい。表裏一体の迷い道が続いていく。
(続く)
タグ :佐賀
2021年03月24日
連続ブログ小説「旅立の剣」(25)シュガーロードを行け
こんばんは。
一昨年の秋、早朝の佐賀市中心部で歩きまわる私。
――時刻は8:15頃。
白山名店街のアーケードに入るや、また大通りに抜ける。
…どう進むかの判断に迷っているのだ。
佐賀で活動できるのも、あと6時間ほど。12時過ぎからは「さが維新まつり」を観るために、佐賀城公園に居る必要がある。

――時間は、あるようで無い。
白山名店街アーケードの向かい側に渡ってみる。
「時間が惜しい。ここでどちらに進む方が良いのか…」
佐賀市民の方々、私の焦りを失笑しないでほしい。
私から見れば貴重な時のうえで、皆様は生活している…とも言えるのだ。
――どっちだ、どちらに行けば正解なのだ。
先ほど“分岐点”で、360度を見回したせいで選択肢が増えてしまった。
…私が調べたい「幕末の佐賀藩」。
その空気を感じられるものは、どの道にもあるはずだ。
「お若いの、道に迷っている様子だな。」
いや、私はそんなに若くはない。ただ、その偉業ゆえに銅像に姿を現す、佐賀の先人たちからすれば若輩者だろう。

――そこには日本に“西洋菓子”を広めた、2人の姿が。
「キミは、甘い物が好きと見える。」
まず左側に立つ、立派な体格の紳士。腕組みにキャラメルを携える。
伊万里の出身・森永太一郎。
「もはや、道は決まっているのではないかな。」
こちらは“グリコ”を示しつつ、健康的な“銭湯で牛乳を飲むポーズ”を決める。
佐賀市東部の生まれ・江崎利一。
――「そのまま行けば良い。“シュガーロード”を。」
「シュガーロード」(砂糖の道)と呼ばれる、長崎街道を行く。
まるで“森永製菓”と“江崎グリコ”によって、扉が開かれたかのようだ。
周辺をクルクル回っていた私は、導かれるように真っ直ぐ歩み始めた。
まだ街が動き始める前、土曜の朝。
白山名店街のアーケードに入り直して、東へと進んでいった。
(続く)

※関連記事
私が、佐賀の輩出した“製菓”の巨匠たちに救われる(?)シリーズです。
森永太一郎 編
・「おかげさまで1周年。」
・「あゝ西洋菓子(西)」
江崎利一 編
・「あゝ西洋菓子(東)」
一昨年の秋、早朝の佐賀市中心部で歩きまわる私。
――時刻は8:15頃。
白山名店街のアーケードに入るや、また大通りに抜ける。
…どう進むかの判断に迷っているのだ。
佐賀で活動できるのも、あと6時間ほど。12時過ぎからは「さが維新まつり」を観るために、佐賀城公園に居る必要がある。
――時間は、あるようで無い。
白山名店街アーケードの向かい側に渡ってみる。
「時間が惜しい。ここでどちらに進む方が良いのか…」
佐賀市民の方々、私の焦りを失笑しないでほしい。
私から見れば貴重な時のうえで、皆様は生活している…とも言えるのだ。
――どっちだ、どちらに行けば正解なのだ。
先ほど“分岐点”で、360度を見回したせいで選択肢が増えてしまった。
…私が調べたい「幕末の佐賀藩」。
その空気を感じられるものは、どの道にもあるはずだ。
「お若いの、道に迷っている様子だな。」
いや、私はそんなに若くはない。ただ、その偉業ゆえに銅像に姿を現す、佐賀の先人たちからすれば若輩者だろう。

――そこには日本に“西洋菓子”を広めた、2人の姿が。
「キミは、甘い物が好きと見える。」
まず左側に立つ、立派な体格の紳士。腕組みにキャラメルを携える。
伊万里の出身・森永太一郎。
「もはや、道は決まっているのではないかな。」
こちらは“グリコ”を示しつつ、健康的な“銭湯で牛乳を飲むポーズ”を決める。
佐賀市東部の生まれ・江崎利一。
――「そのまま行けば良い。“シュガーロード”を。」
「シュガーロード」(砂糖の道)と呼ばれる、長崎街道を行く。
まるで“森永製菓”と“江崎グリコ”によって、扉が開かれたかのようだ。
周辺をクルクル回っていた私は、導かれるように真っ直ぐ歩み始めた。
まだ街が動き始める前、土曜の朝。
白山名店街のアーケードに入り直して、東へと進んでいった。
(続く)
※関連記事
私が、佐賀の輩出した“製菓”の巨匠たちに救われる(?)シリーズです。
森永太一郎 編
・
・
江崎利一 編
・
タグ :佐賀
2021年03月27日
連続ブログ小説「旅立の剣」(26)変化の兆し
こんにちは。
私事ですが、4月から大きく環境が変化することになりました。
このシリーズは現在の視点で、一昨年の秋を振り返ります。
「その時、感じた気持ちに、いま説明が付く」が今日のテーマです。
――朝8:17。長崎街道(白山アーケード)を進む。
屋根が途切れて、別のアーケードが見える。
そこには“バルーン通り”との表示。
昨夜にも、ここ“エスプラッツ”には立ち寄った。
朝に見ると、何だか長崎街道に似合った、赤レンガ調の色味のビルだ。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(17)誇りを取り戻せ〕

――よく見ると、1階の角には…
ラジオ局“えびすFM”がある。
佐賀の地域情報を発信するコミュニティFMという情報が読める。
「街の人がパーソナリティを務める温もりのある番組!」をお送りしているようだ。風水害の際には避難所情報の提供など、地域密着型メディアの強みも見せる。
――いまとなっては、実に興味深い。
…しかし、当時の私は先を急いだ。
長崎街道を巡ると「おっ!?」を目を引く場所に出ることがある。
佐賀の街中にはシンプルであるがゆえに、過密な大都市圏では感じられない、洗練された印象を受ける場所がある。

――壁に記された“ON THE ROOF”の文字。
「…えらく洒落(しゃれ)た建物だな。」
その時に、私の持った感想だ。
少し月日を経てから、この「オン・ザ・ルーフ」という名を聞く。日本テレビ系の番組『アナザースカイⅡ』(2月12日放送)で見た、講談師・神田伯山の特集だ。
実は、佐賀県の唐津にルーツがある方。
講談を広めるため、修業時代には佐賀市内にも、よく来られたそうだ。
この多目的施設“ON THE ROOF”でのイベントに、よく出演されたという。当時のお名前は“神田松之丞”。現在では、六代目として“神田伯山”の名を継ぐ。
――いまや“伝統芸能”の世界は…
かえって流行に感度が高い人が追うもの、と言っても過言ではないだろう。
「チケットの取れない人気講談師」として知られる神田伯山。呉服元町の会場を「アンテナを張っている、佐賀の人たちが来る場所」だと回想した。
同番組では“ON THE ROOF”1階喫茶店の本格的なピザ、柳町の“和紅茶専門店”も紹介された。次に佐賀に帰藩を果たす時には、ぜひ寄りたい場所だ。

――話を長崎街道に戻す。時刻は8:25前後。
今度は、屋根付きの広場。“PLAZA 656”との表示が見える。
朝早い、この時間帯には何の行事も行われていない。
土日を中心に、ライブやイベントの開催予定がある様子だ。
ちなみに“656(むつごろう)広場”が通称らしい。
――長崎街道沿いには、いまも情報発信の拠点がある。
近年、元気が無いと言われる、佐賀市内の中心街。
「幕末の佐賀藩」を追い求める私には、この場所が持つ価値が際立って見える。
きっとカギは発信する情報と、その受け手となる人たちの存在。
きっと佐賀には、私に似た“想い”を持つ人も居るに違いなく…
それが、私があきらめない理由の1つだと思っている。
(続く)
私事ですが、4月から大きく環境が変化することになりました。
このシリーズは現在の視点で、一昨年の秋を振り返ります。
「その時、感じた気持ちに、いま説明が付く」が今日のテーマです。
――朝8:17。長崎街道(白山アーケード)を進む。
屋根が途切れて、別のアーケードが見える。
そこには“バルーン通り”との表示。
昨夜にも、ここ“エスプラッツ”には立ち寄った。
朝に見ると、何だか長崎街道に似合った、赤レンガ調の色味のビルだ。
〔参照:
――よく見ると、1階の角には…
ラジオ局“えびすFM”がある。
佐賀の地域情報を発信するコミュニティFMという情報が読める。
「街の人がパーソナリティを務める温もりのある番組!」をお送りしているようだ。風水害の際には避難所情報の提供など、地域密着型メディアの強みも見せる。
――いまとなっては、実に興味深い。
…しかし、当時の私は先を急いだ。
長崎街道を巡ると「おっ!?」を目を引く場所に出ることがある。
佐賀の街中にはシンプルであるがゆえに、過密な大都市圏では感じられない、洗練された印象を受ける場所がある。
――壁に記された“ON THE ROOF”の文字。
「…えらく洒落(しゃれ)た建物だな。」
その時に、私の持った感想だ。
少し月日を経てから、この「オン・ザ・ルーフ」という名を聞く。日本テレビ系の番組『アナザースカイⅡ』(2月12日放送)で見た、講談師・神田伯山の特集だ。
実は、佐賀県の唐津にルーツがある方。
講談を広めるため、修業時代には佐賀市内にも、よく来られたそうだ。
この多目的施設“ON THE ROOF”でのイベントに、よく出演されたという。当時のお名前は“神田松之丞”。現在では、六代目として“神田伯山”の名を継ぐ。
――いまや“伝統芸能”の世界は…
かえって流行に感度が高い人が追うもの、と言っても過言ではないだろう。
「チケットの取れない人気講談師」として知られる神田伯山。呉服元町の会場を「アンテナを張っている、佐賀の人たちが来る場所」だと回想した。
同番組では“ON THE ROOF”1階喫茶店の本格的なピザ、柳町の“和紅茶専門店”も紹介された。次に佐賀に帰藩を果たす時には、ぜひ寄りたい場所だ。
――話を長崎街道に戻す。時刻は8:25前後。
今度は、屋根付きの広場。“PLAZA 656”との表示が見える。
朝早い、この時間帯には何の行事も行われていない。
土日を中心に、ライブやイベントの開催予定がある様子だ。
ちなみに“656(むつごろう)広場”が通称らしい。
――長崎街道沿いには、いまも情報発信の拠点がある。
近年、元気が無いと言われる、佐賀市内の中心街。
「幕末の佐賀藩」を追い求める私には、この場所が持つ価値が際立って見える。
きっとカギは発信する情報と、その受け手となる人たちの存在。
きっと佐賀には、私に似た“想い”を持つ人も居るに違いなく…
それが、私があきらめない理由の1つだと思っている。
(続く)
タグ :佐賀
2021年03月30日
連続ブログ小説「旅立の剣」(27)長崎街道の夢
こんばんは。
新しい環境への突入を控え、目まぐるしい年度末です。
いま私を支えているのは、わずか30時間の記憶。
佐賀で見た景色とともに綴ります。

――朝8:22。赤レンガの道を見ていた。
この辺りには時折、“都会的センス”を見せる建物が出現する。
…とはいえ、佐賀市中心街に往時の勢いが無いのは認める。
そのため“時折”と言わざるを得ない。
「今はまだ、元気が無い」と言っておこう。未来は変えられるのだから。
――江戸時代。大変な賑わいを見せた、長崎街道。
私はめったに、佐賀に“帰藩”することができない。
朝食抜きでも街中を見て回るのは、この空気に触れたいからだ。
この道が長崎街道であることは、要所に配置された案内板が教えてくれる。
…私のように“調べ”を急ぐ者には、心強い。

――遡って8:16。白山通りの商工ビル前。
地理に疎い私に「長崎街道を案内(あない)いたす!」とばかりに看板が現る。
「これは分かりやすい…」と私は、この地図に示された道を歩み始めた。
かつて街道沿いには、裕福な商家が軒を連ねたという。
佐賀藩士や領民たちはもちろん。幕府の役人も他藩の大名も通行した。
オランダ商館員が連れていたかゾウやラクダなど珍獣まで…行き交ったという。

――まるで、十数分の時間旅行。
足元には、この道が長崎街道であると示す“標識”が続く。
朝の風が、時を忘れさせてくれる。
長崎から佐賀を経由し、小倉までを結ぶ“幹線道路”。九州北部を1つにつなぎ、宿場ごとの特色も魅力的。もっと語られてほしい“道”がある。

――朝8:34。
「これだ…!」
私は、幕末期の佐賀を感じる“空気”に出会った。
たしかに道路は舗装され、電柱はあるけども、それは些細(ささい)なことだ。インフラ整備、とくに電気関係は、明治期に佐賀出身者の得意としたところ。
…私には、この道を駆け回る佐賀藩士たちの姿が見えたようだった。
(続く)
新しい環境への突入を控え、目まぐるしい年度末です。
いま私を支えているのは、わずか30時間の記憶。
佐賀で見た景色とともに綴ります。
――朝8:22。赤レンガの道を見ていた。
この辺りには時折、“都会的センス”を見せる建物が出現する。
…とはいえ、佐賀市中心街に往時の勢いが無いのは認める。
そのため“時折”と言わざるを得ない。
「今はまだ、元気が無い」と言っておこう。未来は変えられるのだから。
――江戸時代。大変な賑わいを見せた、長崎街道。
私はめったに、佐賀に“帰藩”することができない。
朝食抜きでも街中を見て回るのは、この空気に触れたいからだ。
この道が長崎街道であることは、要所に配置された案内板が教えてくれる。
…私のように“調べ”を急ぐ者には、心強い。
――遡って8:16。白山通りの商工ビル前。
地理に疎い私に「長崎街道を案内(あない)いたす!」とばかりに看板が現る。
「これは分かりやすい…」と私は、この地図に示された道を歩み始めた。
かつて街道沿いには、裕福な商家が軒を連ねたという。
佐賀藩士や領民たちはもちろん。幕府の役人も他藩の大名も通行した。
オランダ商館員が連れていたかゾウやラクダなど珍獣まで…行き交ったという。
――まるで、十数分の時間旅行。
足元には、この道が長崎街道であると示す“標識”が続く。
朝の風が、時を忘れさせてくれる。
長崎から佐賀を経由し、小倉までを結ぶ“幹線道路”。九州北部を1つにつなぎ、宿場ごとの特色も魅力的。もっと語られてほしい“道”がある。
――朝8:34。
「これだ…!」
私は、幕末期の佐賀を感じる“空気”に出会った。
たしかに道路は舗装され、電柱はあるけども、それは些細(ささい)なことだ。インフラ整備、とくに電気関係は、明治期に佐賀出身者の得意としたところ。
…私には、この道を駆け回る佐賀藩士たちの姿が見えたようだった。
(続く)
タグ :佐賀
2021年04月03日
連続ブログ小説「旅立の剣」(28)水路の迷宮
こんばんは。
「青春が終わってから書くのが、青春小説」
…どこかで聞いたことがあり、ふと思い出した言葉です。
このシリーズは1年半を経て、旅を振り返っています。そのため、現在知っている情報から逃れることはできません。
水路(クリーク)が巡る佐賀の街を顧みて、いま想うこと。ある戦国武将を介し、佐賀市内からみやき町へ。1人の武道家の面影を偲びます。
――少し時を遡る。朝8:10。
白山名店街の入口付近で、360度を見回した時。

――続いて、朝8:20。
佐賀の情報発信に想いを馳せ、長崎街道を行く時。赤レンガの道が続く。

――そして、朝8:40。
長崎街道沿い。風情ある柳町に出て、大通りに戻ろうとする時。

…お気づきであろうか。
私はいつしか、水路に囲まれているようだ。
――かつて、佐賀に“水の神様”と称(たた)えられた武将が居た。
戦国時代に武勇と治水技術で知られた、鍋島家の重臣。佐賀で水路を語ると“成富兵庫茂安”(なりとみ ひょうご しげやす)という人物に行き当たる。
みやき町の白石神社のご祭神の1人となっている武将である。
〔参照(前半):「主にみやき町民の方を対象にしたつぶやき」〕
“治水の神”が築いた堤防。千栗(ちりく)土居は長さ12キロに及んだという。
――その名は、当地で“北茂安町”という町名にも残った…
ここからは、私が最近知った話。本筋とは関係無いが、あえて語る。
年代としては、現在から50年ほど遡る。
北茂安町(現・みやき町)に生まれたある少年。先ほどの“水の神様”が造った堤防の近く、千栗(ちりく)八幡宮の石段を昇り、足腰を鍛えたという。
――“柔道”の才能を見込まれ、少年は東京へと移る。
修業を積み、立派な柔道家となった少年は、やがて世界の大舞台に立つ。
海外の強豪を相手に、華麗な一本背負いを次々と決める。
…強かった、そしてカッコ良かった。
――その当時、私はハッキリ認識していなかった。
古賀稔彦さんは佐賀の人だったのだ。今はその事に、妙に納得している。
私は幕末・明治期に限らず、佐賀の偉人には広く興味を持ちたいと思っている。しかし、この方はまだ“伝説”となるには、早すぎる人物だった。
…それが、悔やまれてならない。
(続く)
「青春が終わってから書くのが、青春小説」
…どこかで聞いたことがあり、ふと思い出した言葉です。
このシリーズは1年半を経て、旅を振り返っています。そのため、現在知っている情報から逃れることはできません。
水路(クリーク)が巡る佐賀の街を顧みて、いま想うこと。ある戦国武将を介し、佐賀市内からみやき町へ。1人の武道家の面影を偲びます。
――少し時を遡る。朝8:10。
白山名店街の入口付近で、360度を見回した時。
――続いて、朝8:20。
佐賀の情報発信に想いを馳せ、長崎街道を行く時。赤レンガの道が続く。
――そして、朝8:40。
長崎街道沿い。風情ある柳町に出て、大通りに戻ろうとする時。
…お気づきであろうか。
私はいつしか、水路に囲まれているようだ。
――かつて、佐賀に“水の神様”と称(たた)えられた武将が居た。
戦国時代に武勇と治水技術で知られた、鍋島家の重臣。佐賀で水路を語ると“成富兵庫茂安”(なりとみ ひょうご しげやす)という人物に行き当たる。
みやき町の白石神社のご祭神の1人となっている武将である。
〔参照(前半):
“治水の神”が築いた堤防。千栗(ちりく)土居は長さ12キロに及んだという。
――その名は、当地で“北茂安町”という町名にも残った…
ここからは、私が最近知った話。本筋とは関係無いが、あえて語る。
年代としては、現在から50年ほど遡る。
北茂安町(現・みやき町)に生まれたある少年。先ほどの“水の神様”が造った堤防の近く、千栗(ちりく)八幡宮の石段を昇り、足腰を鍛えたという。
――“柔道”の才能を見込まれ、少年は東京へと移る。
修業を積み、立派な柔道家となった少年は、やがて世界の大舞台に立つ。
海外の強豪を相手に、華麗な一本背負いを次々と決める。
…強かった、そしてカッコ良かった。
――その当時、私はハッキリ認識していなかった。
古賀稔彦さんは佐賀の人だったのだ。今はその事に、妙に納得している。
私は幕末・明治期に限らず、佐賀の偉人には広く興味を持ちたいと思っている。しかし、この方はまだ“伝説”となるには、早すぎる人物だった。
…それが、悔やまれてならない。
(続く)
タグ :佐賀
2021年04月12日
連続ブログ小説「旅立の剣」(29)佐賀城公園へ
こんばんは。
一昨年の秋。わずか30時間の佐賀での活動を綴る「旅立の剣」も最終章。
昨年末に初日の行程を第1・2シリーズに書き終え、2日目は第3シリーズでまとめるつもりが「朝の長崎街道」までが長くなり過ぎて、一旦、区切りました。
〔参照〕
・「霜月・十一月」(歳末反省会⑭)
・連続ブログ小説「旅立の剣」(19)2日目の朝
振り返れば、もっと書けそうなくらい充実した時間でした。これから、新型コロナを知らなかった頃の「秋の佐賀城公園イベント」の記憶です。

――朝8:58。長崎街道・柳町から大通りに戻る。
道路に向かって正面。佐賀玉屋は、開店前だった。じわじわと“朝食抜き”が、堪(こた)えてきている私。
帰りの都合で14:30を目途に、佐賀駅前に戻らねばならない。そのため、私が佐賀で活動できるのは、残り6時間に満たない。
――「誰だ?こんなスケジュールを組んだのは!」
言うまでもなく、私だ。そして、この状況でも残り時間は惜しい。
やや足取りが重くなってきたが、大通りを佐賀城に向かう。左手のバルーンミュージアムも、まだ開館前だ。

――佐賀城から見て北の守り。
長くて大きい橋を行く。吹き抜ける風の中、おそらくは鉄砲の戦に備えた広い堀を渡る。堀の向こう側の右手には、佐賀県庁を望む。
佐賀藩士の“聖地“である城内に入った。一時、空腹を忘れて感慨に浸る。

――公園全体が“お祭り”の前。準備の活気がある。
北堀近くは「秋の佐賀城公園イベント」の1つ“タイフェス”の会場のようだ。
タイ王国の大ヒットドラマのロケ地となった、佐賀。タイからの観光客に人気が出たと聞く。とくに鹿島市の祐徳稲荷神社への熱い注目は、私も知っている。
趣味か、仕事か、タイへの愛なのか…遠目なので、どんな様子の人たちが集うかまでは分からない。ただ、各々に“物語”がある週末なのだろう。
会場全体に、祭りの前の高揚感のような雰囲気が漂い始めていた。
(続く)
一昨年の秋。わずか30時間の佐賀での活動を綴る「旅立の剣」も最終章。
昨年末に初日の行程を第1・2シリーズに書き終え、2日目は第3シリーズでまとめるつもりが「朝の長崎街道」までが長くなり過ぎて、一旦、区切りました。
〔参照〕
・
・
振り返れば、もっと書けそうなくらい充実した時間でした。これから、新型コロナを知らなかった頃の「秋の佐賀城公園イベント」の記憶です。
――朝8:58。長崎街道・柳町から大通りに戻る。
道路に向かって正面。佐賀玉屋は、開店前だった。じわじわと“朝食抜き”が、堪(こた)えてきている私。
帰りの都合で14:30を目途に、佐賀駅前に戻らねばならない。そのため、私が佐賀で活動できるのは、残り6時間に満たない。
――「誰だ?こんなスケジュールを組んだのは!」
言うまでもなく、私だ。そして、この状況でも残り時間は惜しい。
やや足取りが重くなってきたが、大通りを佐賀城に向かう。左手のバルーンミュージアムも、まだ開館前だ。
――佐賀城から見て北の守り。
長くて大きい橋を行く。吹き抜ける風の中、おそらくは鉄砲の戦に備えた広い堀を渡る。堀の向こう側の右手には、佐賀県庁を望む。
佐賀藩士の“聖地“である城内に入った。一時、空腹を忘れて感慨に浸る。
――公園全体が“お祭り”の前。準備の活気がある。
北堀近くは「秋の佐賀城公園イベント」の1つ“タイフェス”の会場のようだ。
タイ王国の大ヒットドラマのロケ地となった、佐賀。タイからの観光客に人気が出たと聞く。とくに鹿島市の祐徳稲荷神社への熱い注目は、私も知っている。
趣味か、仕事か、タイへの愛なのか…遠目なので、どんな様子の人たちが集うかまでは分からない。ただ、各々に“物語”がある週末なのだろう。
会場全体に、祭りの前の高揚感のような雰囲気が漂い始めていた。
(続く)
タグ :佐賀
2021年04月13日
連続ブログ小説「旅立の剣」(30)殿、お腹空いた…
こんばんは。
勢いで“朝食抜き”で歩き続けた、一昨年の秋。
限界を感じる私を、この場所で見つめる御方が居られました。
〔参照(後半)※写真:「誰の“視点”から見るか?」〕
――朝9:15。私の無計画は不都合を生じた。
城内にあるサガテレビの「JYOUNAI SQUARE」。
漠然と、ここのカフェを利用しようと考えていた。
様子を伺うと、「開店10:30-」と表示があった。
私は打ちのめされた。“私自身の甘さ”にである。
「しまった…街中の喫茶店と同じに考えていた。」
――さて、どうする…?
この道の先に「さがレトロ館」がある。しかし、カフェ以上に営業開始時間は遅いと予想がつく。
どうにも足取りが重くなってきた。それでも惰性で進み続ける。道端ではイベントの準備が進む。佐賀城・鯱の門の近くで、くるりと周った。

〔参照(拡大写真):「鍋島直正」(賢人その1)<後編>〕
――ふと、顔を上げる。殿がこちらをご覧になっている。
「殿!ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます!」
(ごそんがんを はいし たてまつり きょうえつ しごくに ぞんじます)
…佐賀藩士(?)と疑問符が付く身だが、このような気持ちは大事にしたい。
「うむ、苦しゅうない。そう固くならずとも良いぞ。」
「ありがたき幸せ。」
「…お主は、何故ふらついておる?」
「…殿、お腹が空きましてございます。」
――危うい幻覚ではない。当ブログではよくある展開だ。
「わが家来の末裔(まつえい)にしては、心もと無いのう。」
「もはや、色々と混ざっておりますゆえ…」
「余は銅像の身ゆえ、細々と世話は焼いてやれぬ。」
「ははっ。」
「道なりに戻れば“せぶん いれぶん”があろう。腹が減っては事も成せぬぞ。」
「御意(ぎょい)!」
私は一礼をすると、第10代佐賀藩主・鍋島直正公の銅像前から退出する。
――こうして私は、ごく自然な形(?)で来た道を戻った。
「まず、何か食べねば…」
佐賀の名物を朝食に選べなかったのは、この旅で数少ない“残念”だった。
一方で、帰路に入る刻限まで、あと5時間ばかり。
9:30には佐賀城本丸歴史館が開く。相変わらず、時間の節約も必要だった。
(続く)
勢いで“朝食抜き”で歩き続けた、一昨年の秋。
限界を感じる私を、この場所で見つめる御方が居られました。
〔参照(後半)※写真:
――朝9:15。私の無計画は不都合を生じた。
城内にあるサガテレビの「JYOUNAI SQUARE」。
漠然と、ここのカフェを利用しようと考えていた。
様子を伺うと、「開店10:30-」と表示があった。
私は打ちのめされた。“私自身の甘さ”にである。
「しまった…街中の喫茶店と同じに考えていた。」
――さて、どうする…?
この道の先に「さがレトロ館」がある。しかし、カフェ以上に営業開始時間は遅いと予想がつく。
どうにも足取りが重くなってきた。それでも惰性で進み続ける。道端ではイベントの準備が進む。佐賀城・鯱の門の近くで、くるりと周った。
〔参照(拡大写真):
――ふと、顔を上げる。殿がこちらをご覧になっている。
「殿!ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます!」
(ごそんがんを はいし たてまつり きょうえつ しごくに ぞんじます)
…佐賀藩士(?)と疑問符が付く身だが、このような気持ちは大事にしたい。
「うむ、苦しゅうない。そう固くならずとも良いぞ。」
「ありがたき幸せ。」
「…お主は、何故ふらついておる?」
「…殿、お腹が空きましてございます。」
――危うい幻覚ではない。当ブログではよくある展開だ。
「わが家来の末裔(まつえい)にしては、心もと無いのう。」
「もはや、色々と混ざっておりますゆえ…」
「余は銅像の身ゆえ、細々と世話は焼いてやれぬ。」
「ははっ。」
「道なりに戻れば“せぶん いれぶん”があろう。腹が減っては事も成せぬぞ。」
「御意(ぎょい)!」
私は一礼をすると、第10代佐賀藩主・鍋島直正公の銅像前から退出する。
――こうして私は、ごく自然な形(?)で来た道を戻った。
「まず、何か食べねば…」
佐賀の名物を朝食に選べなかったのは、この旅で数少ない“残念”だった。
一方で、帰路に入る刻限まで、あと5時間ばかり。
9:30には佐賀城本丸歴史館が開く。相変わらず、時間の節約も必要だった。
(続く)
2021年04月15日
連続ブログ小説「旅立の剣」(31)令和の張り込み
こんばんは。
今年も「有田陶器市」が中止だとか。佐賀と言えば“このイベント”を想い出す人もいるのに…悔しいことです。今年も「Web有田陶器市」での開催となる様子。
〔参照(前半):「主に有田町民の方を対象にしたつぶやき(前編)」〕
2019年10月。気兼ねなく全国への移動が可能だった頃。時間の許す限り、佐賀で走り回った現地調査の記憶を綴っています。
――朝9:30。“せぶん いれぶん”まで立ち戻る道。
幕末期の佐賀は“英学”でも日本をリードしていた。
佐賀藩が長崎に設立した英学校“致遠館”。最盛期の生徒数は100名を超えたとも言われる。当時、英語を通じて“世界”を学べる稀有な教育機関だった。
日本が西洋の近代を取り入れる原点に、佐賀の役回りがあったことは、もっと知られてよい。

――殿も、英数字などは知っておられたか?と思うのである。
佐賀城内の水路を、今度は右手に見ながら来た道を戻った。
コンビニなので、佐賀の地域性は感じられないが、やむを得ない。この頃、気に入っていた「グラタンコロッケパン」と、お茶を購入した。
そして、道から陰に立つ。まるで「昭和の刑事ドラマ」の張り込みの場面のように空腹をしのぐ。
――これが定番の「あんパンと牛乳」なら、より決まるところだ。
私が追うのは幕末・明治期を通じて、日本の近代化に活躍した佐賀藩の真実。
「もしや…?その業績は隠された…とは考えられないか。」
年甲斐も無く、“刑事ごっこ”である。昭和のテレビ番組は、何やら楽しかった。「疑り深いのは、職業柄でしてね」というセリフも入れたい。
…私は短いコートの裾を翻す。真実への糸口を探るため、佐賀城本丸歴史館へと再び歩み始めた。
(続く)
今年も「有田陶器市」が中止だとか。佐賀と言えば“このイベント”を想い出す人もいるのに…悔しいことです。今年も「Web有田陶器市」での開催となる様子。
〔参照(前半):
2019年10月。気兼ねなく全国への移動が可能だった頃。時間の許す限り、佐賀で走り回った現地調査の記憶を綴っています。
――朝9:30。“せぶん いれぶん”まで立ち戻る道。
幕末期の佐賀は“英学”でも日本をリードしていた。
佐賀藩が長崎に設立した英学校“致遠館”。最盛期の生徒数は100名を超えたとも言われる。当時、英語を通じて“世界”を学べる稀有な教育機関だった。
日本が西洋の近代を取り入れる原点に、佐賀の役回りがあったことは、もっと知られてよい。
――殿も、英数字などは知っておられたか?と思うのである。
佐賀城内の水路を、今度は右手に見ながら来た道を戻った。
コンビニなので、佐賀の地域性は感じられないが、やむを得ない。この頃、気に入っていた「グラタンコロッケパン」と、お茶を購入した。
そして、道から陰に立つ。まるで「昭和の刑事ドラマ」の張り込みの場面のように空腹をしのぐ。
――これが定番の「あんパンと牛乳」なら、より決まるところだ。
私が追うのは幕末・明治期を通じて、日本の近代化に活躍した佐賀藩の真実。
「もしや…?その業績は隠された…とは考えられないか。」
年甲斐も無く、“刑事ごっこ”である。昭和のテレビ番組は、何やら楽しかった。「疑り深いのは、職業柄でしてね」というセリフも入れたい。
…私は短いコートの裾を翻す。真実への糸口を探るため、佐賀城本丸歴史館へと再び歩み始めた。
(続く)
タグ :佐賀
2021年04月19日
連続ブログ小説「旅立の剣」(32)よく居る先輩です
こんばんは。
一昨年の秋。旅も終盤ですが、私の調査は続きます。「張り込み」の次は、ある佐賀藩士への「聞き込み」です。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(31)令和の張り込み〕
――朝9:50。佐賀城本丸歴史館。
この時の企画展示は、日本の近代建築にその名を残した2人。
「唐津のレジェンド」とも言える、辰野金吾・曽禰達蔵の業績だった。
佐賀銀行の前を通過した時に、お目にかかった方々である。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(21)唐津のレジェンド〕
――私は見ることができなかった「肥前さが幕末・維新博覧会」。
本丸歴史館には、当時の企画の1つ「リアル弘道館」のメモリアル展示もある。案内に立つ、佐賀藩士が1人。藩校・弘道館での世話係という役回りのようだ。
「こんにちは。」
私はこの旅で初めて、現代で仕事をする“佐賀藩士”に語りかけられた。

――挨拶を返した後、私はいつもの話をする。
「佐賀は業績があるのに、大河ドラマになりませんよね…」
話を聞けば、“夢”の実現のために動く人たちがいる様子は伺える。
その場でも「私なりに動いてみたい」と伝える。「ぜひ」と笑顔を返してくださった。
…ある意味で、佐賀藩士(?)同士の会話である。
――そして私は、弘道館の“佐賀藩士”に質問した。
「ところで、貴方は久米先生なのですか?」
展示パネルには、久米邦武のイラストでの解説があったからだ。
久米邦武は、幕末の佐賀藩で“有田皿山”代官を務めたエリートの子息。
大隈重信の友人で、後に歴史学者として著名になる。教科書でも見た名前だ。
「いえ、私は久米先生ではありません。弘道館によく居る先輩の1人です!」
――私の問いに案内役の佐賀藩士は、元気よく答えた。
これも“藩校の先輩”の誇りか。私は礼を述べ、“先輩”の前から廊下に出た。
…記憶をたどると「この“藩校の先輩”は、どのような運命を歩んだ方なのか?」にまで興味が湧く。
実務能力の高い佐賀藩士だから、明治新政府の官僚になったのか。あるいは佐賀を離れず、地域の発展に貢献した人なのかもしれない。
そして“正義”を貫くため、佐賀戦争(佐賀の乱)に散った“先輩”もいるのだろう。
いまの私は「佐賀の藩校によく居る先輩」の物語を想うのである。
(続く)
一昨年の秋。旅も終盤ですが、私の調査は続きます。「張り込み」の次は、ある佐賀藩士への「聞き込み」です。
〔参照:
――朝9:50。佐賀城本丸歴史館。
この時の企画展示は、日本の近代建築にその名を残した2人。
「唐津のレジェンド」とも言える、辰野金吾・曽禰達蔵の業績だった。
佐賀銀行の前を通過した時に、お目にかかった方々である。
〔参照:
――私は見ることができなかった「肥前さが幕末・維新博覧会」。
本丸歴史館には、当時の企画の1つ「リアル弘道館」のメモリアル展示もある。案内に立つ、佐賀藩士が1人。藩校・弘道館での世話係という役回りのようだ。
「こんにちは。」
私はこの旅で初めて、現代で仕事をする“佐賀藩士”に語りかけられた。
――挨拶を返した後、私はいつもの話をする。
「佐賀は業績があるのに、大河ドラマになりませんよね…」
話を聞けば、“夢”の実現のために動く人たちがいる様子は伺える。
その場でも「私なりに動いてみたい」と伝える。「ぜひ」と笑顔を返してくださった。
…ある意味で、佐賀藩士(?)同士の会話である。
――そして私は、弘道館の“佐賀藩士”に質問した。
「ところで、貴方は久米先生なのですか?」
展示パネルには、久米邦武のイラストでの解説があったからだ。
久米邦武は、幕末の佐賀藩で“有田皿山”代官を務めたエリートの子息。
大隈重信の友人で、後に歴史学者として著名になる。教科書でも見た名前だ。
「いえ、私は久米先生ではありません。弘道館によく居る先輩の1人です!」
――私の問いに案内役の佐賀藩士は、元気よく答えた。
これも“藩校の先輩”の誇りか。私は礼を述べ、“先輩”の前から廊下に出た。
…記憶をたどると「この“藩校の先輩”は、どのような運命を歩んだ方なのか?」にまで興味が湧く。
実務能力の高い佐賀藩士だから、明治新政府の官僚になったのか。あるいは佐賀を離れず、地域の発展に貢献した人なのかもしれない。
そして“正義”を貫くため、佐賀戦争(佐賀の乱)に散った“先輩”もいるのだろう。
いまの私は「佐賀の藩校によく居る先輩」の物語を想うのである。
(続く)
2021年04月21日
連続ブログ小説「旅立の剣」(33)涙のメモリアル
こんばんは。
2018年(平成30年)。明治維新150年を記念した「肥前さが幕末維新博覧会」が開催。予想を遥かに超える“大盛況”だったようですね。
その終幕(フィナーレ)から、10か月ほどが過ぎた2019年(令和元年)の秋。
…時機を逸した私に、当時の“熱気”を語るものがありました。
――朝10:50。佐賀城本丸歴史館から出る。
何度か来ているのだが、概ね1時間は滞在したことになる。
私のような佐賀藩士(?)には、やはり特別な場所。
そのまま「鯱の門」を潜って、イベント感が出てきた佐賀城公園内を行く。路上を少し西へと進み、県立博物館に向かう。
――その頃、「さが幕末維新博」に行けなかった私に“吉報”があった。
博覧会の“記憶”を伝える「メモリアル展示」が、佐賀市内の3箇所で始まった。
先ほど本丸歴史館で、佐賀藩士の“先輩”に会うことができたのも、佐賀の藩校「弘道館」のメモリアル展示だったのだ。

――朝10:55。佐賀県立博物館前。
秋の佐賀城公園イベントの1つ。「佐賀さいこうフェス」の会場内を進む。
ライブやアート、グルメの3本柱で成り立つお祭りのようだ。学生らしき参加者が多く、若い活気で賑わう。これもまた、佐賀の未来だ。
大規模な文化祭っぽい雰囲気が漂う中、次の目的地へと歩を進める。
――ホットな表舞台の裏手から、クールな博物館内に入る。
距離にすればわずかに数メートルの差だが、随分と空気が落ち着いた。これも、ミュージアムが持つ“場の力”なのだろうか。
私のお目当ては、メモリアル展示の1つ「幕末維新記念館」だ。博覧会当時のパビリオンの様子を伺わせる、展示や映像を体感できる。
――その時は、オープンから間もない「メモリアル」展示。
幕末維新博で流れた“体感映像”は、まだ観ることができなかった。上映されたのは、「肥前さが幕末維新博覧会」の記録。
来場した人たちの様子をまとめたドキュメンタリー映像だった。おそらくは、佐賀県内からの来場者を中心に構成されている。

――日本の近代化を目指して、走り続けた佐賀藩。
博覧会では、今までドラマでは語られなかった佐賀の先人たちが活躍する。
攘夷を叫ぶよりも、西洋列強に負けない技術を追い求めたトップランナー。
幕府を倒すことより、近代国家の礎を築くことに全力を注ぐ佐賀藩士たち。
そして、記録映像に見えるのは「想いがあふれて涙する」来場者たちの姿。
…じっとモニターを見つめる私も涙腺が緩む。もし、出来得ることなら、私も同じ会場で感動を共有したかった。
――そこに博覧会のイメージソング。手嶌葵が歌う「一番星」が流れる。
手嶌葵さんと言えば、スタジオジブリの作品でも主題歌をつとめる実力派だ。
もはや“反則”と感じる出来栄え。初めから泣かせるつもりの演出ではないか。
…これも製作者の期待どおりなのか。ドライアイ気味の、私の目にもウルウルと潤いが戻っていた。
(続く)
2018年(平成30年)。明治維新150年を記念した「肥前さが幕末維新博覧会」が開催。予想を遥かに超える“大盛況”だったようですね。
その終幕(フィナーレ)から、10か月ほどが過ぎた2019年(令和元年)の秋。
…時機を逸した私に、当時の“熱気”を語るものがありました。
――朝10:50。佐賀城本丸歴史館から出る。
何度か来ているのだが、概ね1時間は滞在したことになる。
私のような佐賀藩士(?)には、やはり特別な場所。
そのまま「鯱の門」を潜って、イベント感が出てきた佐賀城公園内を行く。路上を少し西へと進み、県立博物館に向かう。
――その頃、「さが幕末維新博」に行けなかった私に“吉報”があった。
博覧会の“記憶”を伝える「メモリアル展示」が、佐賀市内の3箇所で始まった。
先ほど本丸歴史館で、佐賀藩士の“先輩”に会うことができたのも、佐賀の藩校「弘道館」のメモリアル展示だったのだ。
――朝10:55。佐賀県立博物館前。
秋の佐賀城公園イベントの1つ。「佐賀さいこうフェス」の会場内を進む。
ライブやアート、グルメの3本柱で成り立つお祭りのようだ。学生らしき参加者が多く、若い活気で賑わう。これもまた、佐賀の未来だ。
大規模な文化祭っぽい雰囲気が漂う中、次の目的地へと歩を進める。
――ホットな表舞台の裏手から、クールな博物館内に入る。
距離にすればわずかに数メートルの差だが、随分と空気が落ち着いた。これも、ミュージアムが持つ“場の力”なのだろうか。
私のお目当ては、メモリアル展示の1つ「幕末維新記念館」だ。博覧会当時のパビリオンの様子を伺わせる、展示や映像を体感できる。
――その時は、オープンから間もない「メモリアル」展示。
幕末維新博で流れた“体感映像”は、まだ観ることができなかった。上映されたのは、「肥前さが幕末維新博覧会」の記録。
来場した人たちの様子をまとめたドキュメンタリー映像だった。おそらくは、佐賀県内からの来場者を中心に構成されている。
――日本の近代化を目指して、走り続けた佐賀藩。
博覧会では、今までドラマでは語られなかった佐賀の先人たちが活躍する。
攘夷を叫ぶよりも、西洋列強に負けない技術を追い求めたトップランナー。
幕府を倒すことより、近代国家の礎を築くことに全力を注ぐ佐賀藩士たち。
そして、記録映像に見えるのは「想いがあふれて涙する」来場者たちの姿。
…じっとモニターを見つめる私も涙腺が緩む。もし、出来得ることなら、私も同じ会場で感動を共有したかった。
――そこに博覧会のイメージソング。手嶌葵が歌う「一番星」が流れる。
手嶌葵さんと言えば、スタジオジブリの作品でも主題歌をつとめる実力派だ。
もはや“反則”と感じる出来栄え。初めから泣かせるつもりの演出ではないか。
…これも製作者の期待どおりなのか。ドライアイ気味の、私の目にもウルウルと潤いが戻っていた。
(続く)
タグ :佐賀肥前さが幕末維新博覧会
2021年04月24日
連続ブログ小説「旅立の剣」(34)救いのシシリアン
こんばんは。
3度目の「緊急事態宣言」が報じられています。仕事に影響を受ける方はもちろん、GWの自粛が辛い…という方も多いかもしれません。皆様もお気を付けて。
冷静さを保つことが、最前線で立ち向かう人たちの一助になるのだと信じます。
…淡々と、いつもの一昨年の話を続けます。
――11:30。佐賀県立博物館の廊下にて。
「肥前さが幕末維新博覧会」メモリアル映像を見終わった。手嶌葵さんによるイメージソング「一番星」は、心を“浄化”するような歌声だった。
ドキュメンタリーで見た、佐賀に集う人たちは良い表情をしていた。先人たちの姿は、来場者へ“志”の火を灯したのだろう。
――私も、目頭を熱くして外に出た。
「やはり、佐賀に来て良かった…」
この旅で、こう思うのは何度目だろう。
あわせて展示のあった、来場者のまっすぐなメッセージにも心を打たれたのだ。私にとって、佐賀は故郷以上の存在へと成長しつつあった。
――ふと、気づいた。
そろそろ昼食をとっても良い頃だと。この感動で、またお腹が空いたのだ。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(30)殿、お腹空いた…〕
「昼食は、“佐賀の名物”にしておきたい…」
15時前には佐賀駅を発つ。“聖地”で活動できるのは、実質3時間に満たない。
――その場で、県立博物館のミュージアムカフェに入る。
移動に使える時間は、もう無いようだ。イベントの案内が出る前に佐賀城公園の奥深くに入り込んだので、逆に“さが維新まつり”の現況がわからない。
「この祭りは、どう楽しむのが正しいのか…?」
さすがに疲れてきている。ここは腰を据えてラストの動きを判断せねば。
「“シシリアンライス”をお願いします。」
あまり考えずに注文できるのが、B級グルメ。私は、他地域の方に向けて「佐賀の甘辛焼肉サラダ丼」と説明する。

――そんなに“シシリアン”が食したいか…
自分の気持ちに素直であるとは、たぶん、こういうことなのか。昨夜の「佐賀玉屋のシシリアンライス」も絶品ではあったが、暖かいものも食べたい。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(18)憩いのシシリアン〕
「…これは!?」
一口を食して、私は意表を突かれた。少し予想と違う味わいだったのだ。“豚の生姜焼き”系の…それでいて、少し自然派っぽい印象を持った。
――オーガニックな感じの“都会的”な味付けと言おうか。
後から少しハーブ・香辛料系の残り香が感じられるようだ。冷えて消耗した体が、温められるような気がした。
…ちなみに、私の味覚をベースとした“食レポ”は当てにはならない。
しかし、この“シシリアン”が私のラストスパートに活力を与えたことは確かだ。
――昼12:10。いざ、最終局面へ。
食後にひと息をついて、スマートフォンによる情報収集を完了した。
「今から、西の堀端に行こう。そこに、きっと見たかったものがある!」
こうして“燃料”を補給した私。まるで、幕末の佐賀藩が製作した“蒸気機関”のように熱気を帯び、再び立ち上がる。
(続く)
3度目の「緊急事態宣言」が報じられています。仕事に影響を受ける方はもちろん、GWの自粛が辛い…という方も多いかもしれません。皆様もお気を付けて。
冷静さを保つことが、最前線で立ち向かう人たちの一助になるのだと信じます。
…淡々と、いつもの一昨年の話を続けます。
――11:30。佐賀県立博物館の廊下にて。
「肥前さが幕末維新博覧会」メモリアル映像を見終わった。手嶌葵さんによるイメージソング「一番星」は、心を“浄化”するような歌声だった。
ドキュメンタリーで見た、佐賀に集う人たちは良い表情をしていた。先人たちの姿は、来場者へ“志”の火を灯したのだろう。
――私も、目頭を熱くして外に出た。
「やはり、佐賀に来て良かった…」
この旅で、こう思うのは何度目だろう。
あわせて展示のあった、来場者のまっすぐなメッセージにも心を打たれたのだ。私にとって、佐賀は故郷以上の存在へと成長しつつあった。
――ふと、気づいた。
そろそろ昼食をとっても良い頃だと。この感動で、またお腹が空いたのだ。
〔参照:
「昼食は、“佐賀の名物”にしておきたい…」
15時前には佐賀駅を発つ。“聖地”で活動できるのは、実質3時間に満たない。
――その場で、県立博物館のミュージアムカフェに入る。
移動に使える時間は、もう無いようだ。イベントの案内が出る前に佐賀城公園の奥深くに入り込んだので、逆に“さが維新まつり”の現況がわからない。
「この祭りは、どう楽しむのが正しいのか…?」
さすがに疲れてきている。ここは腰を据えてラストの動きを判断せねば。
「“シシリアンライス”をお願いします。」
あまり考えずに注文できるのが、B級グルメ。私は、他地域の方に向けて「佐賀の甘辛焼肉サラダ丼」と説明する。
――そんなに“シシリアン”が食したいか…
自分の気持ちに素直であるとは、たぶん、こういうことなのか。昨夜の「佐賀玉屋のシシリアンライス」も絶品ではあったが、暖かいものも食べたい。
〔参照:
「…これは!?」
一口を食して、私は意表を突かれた。少し予想と違う味わいだったのだ。“豚の生姜焼き”系の…それでいて、少し自然派っぽい印象を持った。
――オーガニックな感じの“都会的”な味付けと言おうか。
後から少しハーブ・香辛料系の残り香が感じられるようだ。冷えて消耗した体が、温められるような気がした。
…ちなみに、私の味覚をベースとした“食レポ”は当てにはならない。
しかし、この“シシリアン”が私のラストスパートに活力を与えたことは確かだ。
――昼12:10。いざ、最終局面へ。
食後にひと息をついて、スマートフォンによる情報収集を完了した。
「今から、西の堀端に行こう。そこに、きっと見たかったものがある!」
こうして“燃料”を補給した私。まるで、幕末の佐賀藩が製作した“蒸気機関”のように熱気を帯び、再び立ち上がる。
(続く)
タグ :佐賀
2021年04月27日
連続ブログ小説「旅立の剣」(35)幕末の風が吹く
こんばんは。
2019年10月。佐賀での“旅日記”を延々とお送りしています。
コロナ禍で郷里と隔てられようが、まるで昨日の事のように感じる、熱き想い。吹いていたのは、幕末を思わせる強い風でした。

――12:10。ミュージアムカフェから移動。
秋の佐賀城公園イベントは盛り上がりを見せ始めていた。
「佐賀さいこうフェス」の各種グルメの出店か、“食欲の秋”らしい良い香り。
老いも若きも集まり賑やかだった。楽し気な学生たちの姿も見える。
「歳を取ってから書くのが青春小説である…」という、言葉を聞いたことがあるが、私とて彼らに負けぬくらいワクワクしている。

――風が吹く道を進む。そこで“BGM”が鳴っていることに気付く。
~♪~ さが維新まつり(https://saga-ishinmatsuri.jp/)※外部サイト。
(このページの「ダイジェスト版映像」のBGMと同じ曲だと思います。)
「何だ…!この際立った“幕末感”は!」
私の胸を高鳴らせているのは、この音楽の効果でもあったのか。
西に向かう道では「さが維新まつり」のテーマらしき曲が流れていたのだ。
――短いコートの裾が、ヒラヒラと風に靡(なび)く。
何やら“志”を得た気分。背筋も伸びる心持ちで歩む。佐賀城の西の堀端が近づいてきた。楠の木々を揺らし、堀を渡る風は、私に何を語りかける。
…思えば、私はここに至るまで随分と回り道をした。
「遅いぞ!ようやく“帰藩”してきおったか!」…と、出迎えてくれたように感じる。

――時刻は12:20頃。前方に目を向けると、力強い姿の銅像。
“団にょん”さんこと、島義勇が蝦夷地(北海道)を探検する姿だ。
気合いの入った姿のお像。セリフを付けるなら「俺たちは、やってやるんだ!」との言葉を贈りたい。
…眼前にどこまでも続く、北海道の大空と大地が浮かんで来ないだろうか。
――その一方、スタッフさんたちはイベント準備に奔走している。
道路は封鎖され、通行止めとなる段取りのようだ。変わらず強く吹く風は、堀の水面を波立たせる。
「ようやく…ここまで来たか。」
到達感を醸(かも)し出しているが、早々と行動し過ぎて、案内のパンフレット類すら入手できていない。
どんな展開が待っているのか。知らないのも、また一興だった。
その時の私は「何が始まろうとしているか」が、楽しみで仕方が無かった。
(続く)
2019年10月。佐賀での“旅日記”を延々とお送りしています。
コロナ禍で郷里と隔てられようが、まるで昨日の事のように感じる、熱き想い。吹いていたのは、幕末を思わせる強い風でした。
――12:10。ミュージアムカフェから移動。
秋の佐賀城公園イベントは盛り上がりを見せ始めていた。
「佐賀さいこうフェス」の各種グルメの出店か、“食欲の秋”らしい良い香り。
老いも若きも集まり賑やかだった。楽し気な学生たちの姿も見える。
「歳を取ってから書くのが青春小説である…」という、言葉を聞いたことがあるが、私とて彼らに負けぬくらいワクワクしている。
――風が吹く道を進む。そこで“BGM”が鳴っていることに気付く。
~♪~ さが維新まつり(https://saga-ishinmatsuri.jp/)※外部サイト。
(このページの「ダイジェスト版映像」のBGMと同じ曲だと思います。)
「何だ…!この際立った“幕末感”は!」
私の胸を高鳴らせているのは、この音楽の効果でもあったのか。
西に向かう道では「さが維新まつり」のテーマらしき曲が流れていたのだ。
――短いコートの裾が、ヒラヒラと風に靡(なび)く。
何やら“志”を得た気分。背筋も伸びる心持ちで歩む。佐賀城の西の堀端が近づいてきた。楠の木々を揺らし、堀を渡る風は、私に何を語りかける。
…思えば、私はここに至るまで随分と回り道をした。
「遅いぞ!ようやく“帰藩”してきおったか!」…と、出迎えてくれたように感じる。
――時刻は12:20頃。前方に目を向けると、力強い姿の銅像。
“団にょん”さんこと、島義勇が蝦夷地(北海道)を探検する姿だ。
気合いの入った姿のお像。セリフを付けるなら「俺たちは、やってやるんだ!」との言葉を贈りたい。
…眼前にどこまでも続く、北海道の大空と大地が浮かんで来ないだろうか。
――その一方、スタッフさんたちはイベント準備に奔走している。
道路は封鎖され、通行止めとなる段取りのようだ。変わらず強く吹く風は、堀の水面を波立たせる。
「ようやく…ここまで来たか。」
到達感を醸(かも)し出しているが、早々と行動し過ぎて、案内のパンフレット類すら入手できていない。
どんな展開が待っているのか。知らないのも、また一興だった。
その時の私は「何が始まろうとしているか」が、楽しみで仕方が無かった。
(続く)
タグ :佐賀
2021年04月29日
連続ブログ小説「旅立の剣」(36)始まりの予感
こんばんは。
本日から、連休に突入という方もいるかもしれません。但し、新型コロナの感染防止のため、行動の自制が必要という状況でしょう。
…現在は動けずとも、人には「過去の記憶」と「未来への想像力」があります。
“心だけは自由に”綴っていきます。2019年10月、佐賀での“旅”を振り返るシリーズも残り数回です。
――まもなく時刻は、12:30。
佐賀城公園・西の堀端に到着した私。ここが、旅の“最終地点”となるようだ。
タイムリミットまで、あと2時間。私は“秋祭り”に賑わう佐賀城下を発ち、日常へと戻って行かねばならない。

――漂うのは、一抹の寂しさ…
駆け足の無理な行程を組み、昨日の朝から動き回ってきた。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(4)早津江の嵐〕
降りしきる雨の中、三重津海軍所跡に向かったのが、随分と昔の出来事に思える。それから城下を周りに回った。そして、私は多くの気付きを得た。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(5)雨に打たれても〕
――では、この旅で「幕末の佐賀藩」が見えたのだろうか。
答えは“否”(いな)だろう。決定的に時間が足らない。佐賀市内のごく狭い範囲を息を切らして、歩き回ったのみである。
変わらず堀端には強い風が吹き、その水面は波立っている。もどかしい想いを抱え、私は“空き時間”で帰り支度を始めていた。

――そして、12:45。周囲に動きがあった。
私が限られた時間で、この場所での“待機”を続けたことには理由がある。
先ほど県立博物館のカフェで、“検索”を行って決めた段取り。ふだんは日曜に佐賀城で行われる歴史寸劇が、屋外で上演されるとの情報を得ていた。
――それまでの「島義勇像前」は…
わずかなスタッフさんと、幾人か会場の様子を伺う人たちが見えるのみだった。しかし、眼前の道路が通行止めとなるや、にわかに活気が出る。
佐賀城公園の秋イベントは、非日常の空間も提供するらしい。先ほどまでは、車が往来していた道に降り立つ。

※この画像は、加工の度合いを強めにしています。
――「ここで一体、どんな祭りが始まるのか…」
遠方から来た私と違い、おそらくは“この場で起きる展開”を知る人々も集う。
熱心な来場者の方々の様子からは「その一瞬を見逃すまい」という気構えまで感じられたのである。
(続く)
本日から、連休に突入という方もいるかもしれません。但し、新型コロナの感染防止のため、行動の自制が必要という状況でしょう。
…現在は動けずとも、人には「過去の記憶」と「未来への想像力」があります。
“心だけは自由に”綴っていきます。2019年10月、佐賀での“旅”を振り返るシリーズも残り数回です。
――まもなく時刻は、12:30。
佐賀城公園・西の堀端に到着した私。ここが、旅の“最終地点”となるようだ。
タイムリミットまで、あと2時間。私は“秋祭り”に賑わう佐賀城下を発ち、日常へと戻って行かねばならない。
――漂うのは、一抹の寂しさ…
駆け足の無理な行程を組み、昨日の朝から動き回ってきた。
〔参照:
降りしきる雨の中、三重津海軍所跡に向かったのが、随分と昔の出来事に思える。それから城下を周りに回った。そして、私は多くの気付きを得た。
〔参照:
――では、この旅で「幕末の佐賀藩」が見えたのだろうか。
答えは“否”(いな)だろう。決定的に時間が足らない。佐賀市内のごく狭い範囲を息を切らして、歩き回ったのみである。
変わらず堀端には強い風が吹き、その水面は波立っている。もどかしい想いを抱え、私は“空き時間”で帰り支度を始めていた。
――そして、12:45。周囲に動きがあった。
私が限られた時間で、この場所での“待機”を続けたことには理由がある。
先ほど県立博物館のカフェで、“検索”を行って決めた段取り。ふだんは日曜に佐賀城で行われる歴史寸劇が、屋外で上演されるとの情報を得ていた。
――それまでの「島義勇像前」は…
わずかなスタッフさんと、幾人か会場の様子を伺う人たちが見えるのみだった。しかし、眼前の道路が通行止めとなるや、にわかに活気が出る。
佐賀城公園の秋イベントは、非日常の空間も提供するらしい。先ほどまでは、車が往来していた道に降り立つ。
※この画像は、加工の度合いを強めにしています。
――「ここで一体、どんな祭りが始まるのか…」
遠方から来た私と違い、おそらくは“この場で起きる展開”を知る人々も集う。
熱心な来場者の方々の様子からは「その一瞬を見逃すまい」という気構えまで感じられたのである。
(続く)
タグ :佐賀
2021年05月03日
連続ブログ小説「旅立の剣」(37)佐賀の者の誇り
こんばんは。
2019年10月19日。私は「第2回さが維新まつり」の真っ只中にいました。
イベントも演劇も、おそらくは一期一会のもの。私は「この時、この場所」でしか見られないものを見たのだと思います。
いまや、人が密集した行事には注意を払わねばなりません。しかし「新しい佐賀のお祭り」は、時代にあわせて進化してくれると信じています。
――13:05。通行止めとなった路上で、次の展開を待つ私。
テーマソングらしき音楽。幕末の風を感じるBGMが、再び力強く響き始めた。
~♪~ さが維新まつり(https://saga-ishinmatsuri.jp/)※外部サイト
(同ページの「ダイジェスト版映像」のBGMと思われます。)
そして道路の向こう側から、さざ波のように歓声が伝わり始める。
「誰かが、こちらに進んで来ている…」

※一般の方も写っているため、画像を強めに加工しています。
――いや、厳密に言えば、「何かが向かってきている。」
路上を水平移動する台車。パレード等で使われる“フロート”というものらしい。“舞台”がそのまま、こちらに移動して来るのだ。
私がこの場にいる理由は、歴史寸劇の鑑賞だ。そのため、どなたが乗っているのかは予想できている。
――「いま、会いに行ける殿。」
まるでアイドルグループの歌い文句のようだが、私はそんな感覚で捉えている。
郷土が誇る佐賀の賢人たちも書物や銅像で仰ぎ見るだけでは、きっと存在感は現代に発揮されない。身近に感じることが次につながると思うのだ。
目標になる“先輩”の存在は、たぶん現代を生きる“後輩たち”の行動も変えていく。きっと、この方々の活動には、そのような力もある。

――そして、目の前を滑るように、通過する“先輩”方。
青い旗を振る来場者。私も振りたかったが、その小道具の入手先を知らない。
公家のような装束を纏う、明治期の新政府でも要人となった、殿・鍋島直正。
黒の紋付に白袴の姿が、北海道の開拓を進め、札幌を創った男・島義勇。
…と、ざっくり説明を試みる。

※2019年10月時点のキャストの方々です。
――13:15。「佐賀の“八賢人”」のうち、五名が揃う。
先輩たちの集結。現在の私なら、大ヒットアニメ「鬼滅の刃」の“柱”が集合したのに、近いイメージと考える。
ちなみに真ん中が、日本の近代司法を築いた、江藤新平。その右隣が、義務教育制度を形作っていった、大木喬任。
右端は、この2人をはじめ、新時代を拓いた多くの人材たちの師匠・枝吉神陽。
「佐賀の七賢人」に、この先生を加えると“八賢人”になる。
――13:30頃。私を含め、来場者はじっと前を向いていた。
“幕末・維新 佐賀の八賢人おもてなし隊”による、歴史劇「さがんもん」が上演されている。
教科書では、初期の“士族反乱”として「佐賀の乱」と習った。私が佐賀出身者として、聞くだけで残念な気持ちになるNGワード。
近年では、当時の政府が攻撃に積極的で、佐賀方はやむを得ず応戦したとの解釈もある。反乱とは言い難いので「佐賀戦争」と呼称すべきという主張だ。

――舞台設定は、1874年(明治七年)。
敗色が濃厚となった佐賀城内。江藤新平と、島義勇との最後の対話が演目となっているようだ。
史実では、この2人は政治的には立場が異なるものの「郷土を防衛するため」と共闘していたと聞く。
ここで島義勇が語るのは、北海道開拓の思い出話。
屋外の会場。私を含む聴衆たちは皆、青い空のもとにいる。嬉々として札幌の事を語る、島が見遣る先には、北の大地が広がるようだった。
――頭上の空の青さが、何だか切ないほどだ。
諦めの言葉を口にする江藤。島は先輩らしく、その弱気を叱咤(しった)する。
自身が信じてきた正義を想い、熱い気持ちを取り戻す江藤。
江藤、そして島が“生きるために”敵陣に向かう姿で、劇は終幕となった。

――そこに、殿・鍋島直正の“天の声”。
「…思えば、この2人は、生粋のさがんもん(佐賀の者)じゃった…」
抑えたナレーションが、心に響く。これも涙腺に来る展開だ。先ほどから、普段のドライアイを忘れるほど、私の瞳は潤っている。
そしてこの瞬間が、この旅の目的地だったのかもしれない。
(続く)
〔参考記事(題材が同一):「“さが維新まつり”について」〕
2019年10月19日。私は「第2回さが維新まつり」の真っ只中にいました。
イベントも演劇も、おそらくは一期一会のもの。私は「この時、この場所」でしか見られないものを見たのだと思います。
いまや、人が密集した行事には注意を払わねばなりません。しかし「新しい佐賀のお祭り」は、時代にあわせて進化してくれると信じています。
――13:05。通行止めとなった路上で、次の展開を待つ私。
テーマソングらしき音楽。幕末の風を感じるBGMが、再び力強く響き始めた。
~♪~ さが維新まつり(https://saga-ishinmatsuri.jp/)※外部サイト
(同ページの「ダイジェスト版映像」のBGMと思われます。)
そして道路の向こう側から、さざ波のように歓声が伝わり始める。
「誰かが、こちらに進んで来ている…」
※一般の方も写っているため、画像を強めに加工しています。
――いや、厳密に言えば、「何かが向かってきている。」
路上を水平移動する台車。パレード等で使われる“フロート”というものらしい。“舞台”がそのまま、こちらに移動して来るのだ。
私がこの場にいる理由は、歴史寸劇の鑑賞だ。そのため、どなたが乗っているのかは予想できている。
――「いま、会いに行ける殿。」
まるでアイドルグループの歌い文句のようだが、私はそんな感覚で捉えている。
郷土が誇る佐賀の賢人たちも書物や銅像で仰ぎ見るだけでは、きっと存在感は現代に発揮されない。身近に感じることが次につながると思うのだ。
目標になる“先輩”の存在は、たぶん現代を生きる“後輩たち”の行動も変えていく。きっと、この方々の活動には、そのような力もある。
――そして、目の前を滑るように、通過する“先輩”方。
青い旗を振る来場者。私も振りたかったが、その小道具の入手先を知らない。
公家のような装束を纏う、明治期の新政府でも要人となった、殿・鍋島直正。
黒の紋付に白袴の姿が、北海道の開拓を進め、札幌を創った男・島義勇。
…と、ざっくり説明を試みる。
※2019年10月時点のキャストの方々です。
――13:15。「佐賀の“八賢人”」のうち、五名が揃う。
先輩たちの集結。現在の私なら、大ヒットアニメ「鬼滅の刃」の“柱”が集合したのに、近いイメージと考える。
ちなみに真ん中が、日本の近代司法を築いた、江藤新平。その右隣が、義務教育制度を形作っていった、大木喬任。
右端は、この2人をはじめ、新時代を拓いた多くの人材たちの師匠・枝吉神陽。
「佐賀の七賢人」に、この先生を加えると“八賢人”になる。
――13:30頃。私を含め、来場者はじっと前を向いていた。
“幕末・維新 佐賀の八賢人おもてなし隊”による、歴史劇「さがんもん」が上演されている。
教科書では、初期の“士族反乱”として「佐賀の乱」と習った。私が佐賀出身者として、聞くだけで残念な気持ちになるNGワード。
近年では、当時の政府が攻撃に積極的で、佐賀方はやむを得ず応戦したとの解釈もある。反乱とは言い難いので「佐賀戦争」と呼称すべきという主張だ。
――舞台設定は、1874年(明治七年)。
敗色が濃厚となった佐賀城内。江藤新平と、島義勇との最後の対話が演目となっているようだ。
史実では、この2人は政治的には立場が異なるものの「郷土を防衛するため」と共闘していたと聞く。
ここで島義勇が語るのは、北海道開拓の思い出話。
屋外の会場。私を含む聴衆たちは皆、青い空のもとにいる。嬉々として札幌の事を語る、島が見遣る先には、北の大地が広がるようだった。
――頭上の空の青さが、何だか切ないほどだ。
諦めの言葉を口にする江藤。島は先輩らしく、その弱気を叱咤(しった)する。
自身が信じてきた正義を想い、熱い気持ちを取り戻す江藤。
江藤、そして島が“生きるために”敵陣に向かう姿で、劇は終幕となった。

――そこに、殿・鍋島直正の“天の声”。
「…思えば、この2人は、生粋のさがんもん(佐賀の者)じゃった…」
抑えたナレーションが、心に響く。これも涙腺に来る展開だ。先ほどから、普段のドライアイを忘れるほど、私の瞳は潤っている。
そしてこの瞬間が、この旅の目的地だったのかもしれない。
(続く)
〔参考記事(題材が同一):
2021年05月05日
連続ブログ小説「旅立の剣」(38)肥前の品格
こんにちは。
佐賀城の西の堀端。前回は歴史寸劇「さがんもん」に衝撃を受けた私。青空のもと、道路を封鎖してのイベントは続きます。
ちなみに2019年10月の話です。現状では、同じ形でのイベント開催は難しいでしょう。この時、私の心を打ったのは、佐賀の人混みに感じる“品性”でした。
――13:50。私が、この場に居られる残り時間は30分。
再び、幕末の風が漂うBGM。気になる方は、前回記事から参照してほしい。
「さが維新まつり」と白地に墨書した大旗がはためき、進んで来る。その隊列を出迎える、来場者たちが青い小旗を振る。
私は“お祭り男”の類では無いが、この盛り上がりには心が躍るものがある。
「こういう祭りには、もう少し早く出会いたかった…」

※公道でのイベントで当時の映像も公開されていますが、掲載写真はなるべく加工しています。
――この祭りのパレードを一言でいえば、幕末・明治期の仮装行列である。
演劇を中心に活動する「幕末・維新 佐賀の八賢人おもてなし隊」の方々だけでなく、一般で公募された方も佐賀の偉人に扮している。
その数分前には「おもてなし隊」のキャストの方は、全員集結していた。舞台上には前回のメンバー5人。加えて“別動隊”だった3人も到着したようだ。

注)2019年10月時点のキャストの皆様。私は「おもてなし隊」の関係者ではないため、一ファンとして紹介しています。説明の文章などは、歴史上の人物に対しての私個人の見解です。
――合流した3人は、舞台の下側。
右から順に、マイクの前に居る洋装の方、日本赤十字社創設・佐野常民。
横顔のお侍が、人道的な外交で近代国家としての日本を示した副島種臣。
左端。早稲田大学を創った人。初の政党内閣での総理大臣・大隈重信。
発した言葉は「令和に生きる“後輩”を見ている」旨のメッセージだ。
「大隈先生、確かに受け取りましたよ。」と言葉を返す気分。但し、受け取った私には、それなりに険しい道が待っているような気もする。
――そんな折、突然に明治政府の“外交官”が近くを通りがかる。
殿・鍋島直正のご子息、鍋島直大さまだ。
佐賀県内では、幼少期に“種痘”を施される絵図で有名。
のちにイタリア公使としても活躍。海外駐在の長い国際派だ。
…というプロフィールだが、直大さまに扮した方を見た。
「この人、佐賀県の知事だ!」

――県民各位には、“賛否両論”あろうが…
私は県知事の姿に気付く。密かに舞台へ進む様子。一方で沿道は、その外交官・鍋島直大の夫人、鍋島榮子(ながこ)さまの登場に大盛り上がりを見せる。
扮するのは、女優の中越典子さん。当時のドレスを纏い、貴婦人の出で立ち。佐賀の出身とは聞いていたが、さすが芸能人。オーラが違うし、とても小顔だ。
…昔は、佐賀駅のミスタードーナツにも来ていたとか聞くが、信じ難い。
――14:00。山口知事と、中越さんが登壇している。
あまりの展開に入ってくる情報量が多過ぎて、少々混乱気味の私。舞台上ではMCの女性が華のある高い声で、テキパキと話を整理している。
ふと、冷静になる。もう、私は帰路に付かねば。会場では“餅まき”のような行事が始まっていた。
おそらく飛び交うのは袋入りの“佐賀銘菓”。キャッキャと楽しそうな子供たち。

――“この会場”との、別れの寂しさが過(よ)ぎる。
子のためか自分のためか、頭上の青空に向けて高く手を伸ばす大人たち。皆が「この青天に向かって、“掌”を突き上げている!」のだ。
「“いつも”とは何かが、違う…」
私は考えた。もし、大都市圏で同じように人が集まれば、ゴチャゴチャと無秩序になるのが常だ。この会場に集う佐賀の人たちからは、そんな気配を感じない。
「これも肥前の…、佐賀の品格か。」
旅の終わりにも、私は奇妙な気付きを得ていた。
(続く)
佐賀城の西の堀端。前回は歴史寸劇「さがんもん」に衝撃を受けた私。青空のもと、道路を封鎖してのイベントは続きます。
ちなみに2019年10月の話です。現状では、同じ形でのイベント開催は難しいでしょう。この時、私の心を打ったのは、佐賀の人混みに感じる“品性”でした。
――13:50。私が、この場に居られる残り時間は30分。
再び、幕末の風が漂うBGM。気になる方は、前回記事から参照してほしい。
「さが維新まつり」と白地に墨書した大旗がはためき、進んで来る。その隊列を出迎える、来場者たちが青い小旗を振る。
私は“お祭り男”の類では無いが、この盛り上がりには心が躍るものがある。
「こういう祭りには、もう少し早く出会いたかった…」
※公道でのイベントで当時の映像も公開されていますが、掲載写真はなるべく加工しています。
――この祭りのパレードを一言でいえば、幕末・明治期の仮装行列である。
演劇を中心に活動する「幕末・維新 佐賀の八賢人おもてなし隊」の方々だけでなく、一般で公募された方も佐賀の偉人に扮している。
その数分前には「おもてなし隊」のキャストの方は、全員集結していた。舞台上には前回のメンバー5人。加えて“別動隊”だった3人も到着したようだ。
注)2019年10月時点のキャストの皆様。私は「おもてなし隊」の関係者ではないため、一ファンとして紹介しています。説明の文章などは、歴史上の人物に対しての私個人の見解です。
――合流した3人は、舞台の下側。
右から順に、マイクの前に居る洋装の方、日本赤十字社創設・佐野常民。
横顔のお侍が、人道的な外交で近代国家としての日本を示した副島種臣。
左端。早稲田大学を創った人。初の政党内閣での総理大臣・大隈重信。
発した言葉は「令和に生きる“後輩”を見ている」旨のメッセージだ。
「大隈先生、確かに受け取りましたよ。」と言葉を返す気分。但し、受け取った私には、それなりに険しい道が待っているような気もする。
――そんな折、突然に明治政府の“外交官”が近くを通りがかる。
殿・鍋島直正のご子息、鍋島直大さまだ。
佐賀県内では、幼少期に“種痘”を施される絵図で有名。
のちにイタリア公使としても活躍。海外駐在の長い国際派だ。
…というプロフィールだが、直大さまに扮した方を見た。
「この人、佐賀県の知事だ!」
――県民各位には、“賛否両論”あろうが…
私は県知事の姿に気付く。密かに舞台へ進む様子。一方で沿道は、その外交官・鍋島直大の夫人、鍋島榮子(ながこ)さまの登場に大盛り上がりを見せる。
扮するのは、女優の中越典子さん。当時のドレスを纏い、貴婦人の出で立ち。佐賀の出身とは聞いていたが、さすが芸能人。オーラが違うし、とても小顔だ。
…昔は、佐賀駅のミスタードーナツにも来ていたとか聞くが、信じ難い。
――14:00。山口知事と、中越さんが登壇している。
あまりの展開に入ってくる情報量が多過ぎて、少々混乱気味の私。舞台上ではMCの女性が華のある高い声で、テキパキと話を整理している。
ふと、冷静になる。もう、私は帰路に付かねば。会場では“餅まき”のような行事が始まっていた。
おそらく飛び交うのは袋入りの“佐賀銘菓”。キャッキャと楽しそうな子供たち。
――“この会場”との、別れの寂しさが過(よ)ぎる。
子のためか自分のためか、頭上の青空に向けて高く手を伸ばす大人たち。皆が「この青天に向かって、“掌”を突き上げている!」のだ。
「“いつも”とは何かが、違う…」
私は考えた。もし、大都市圏で同じように人が集まれば、ゴチャゴチャと無秩序になるのが常だ。この会場に集う佐賀の人たちからは、そんな気配を感じない。
「これも肥前の…、佐賀の品格か。」
旅の終わりにも、私は奇妙な気付きを得ていた。
(続く)
2021年05月07日
連続ブログ小説「旅立の剣」(39)走らんね!
こんばんは。
突如、始まった壇上からの“餅まき”。私は佐賀の青天を見上げます。
2019年(令和元年)10月の昼下がり。
とても佐賀らしい、ある“号令”が響いて、私は走り始めました。
――14:10。壇上、そして会場を包む拍手。
たぶん中身は“佐賀銘菓”だと思うが、“餅”投げは完了した様子。
西の堀端に漂うのは、まるで“大団円”の雰囲気。
私は“餅”キャッチには手出ししなかったが、幸福感は受け取った。
――ここでМCの女性の声。
橋の上から右手後方に見える、堀の際(きわ)をご覧いただきたいらしい。
「葉隠…砲術隊だと!?」
私は驚愕した。見た感じ“アームストロング砲”が用意されている。
このお祭りは、どこまで幕末の佐賀藩を詰め込んでくるのだ。

――「祝砲で~す!」何ともトーンが明るい。楽しくなる声だ。
パァン…!
堀端に響き渡る大音声。たなびく白煙…
「幕末、佐賀ほどモダンな藩は無かった」と聞く。
ある歴史小説の大作家の先生が、そう語ったようだ。定番の小説も読みたい。でも、なるべく私自身の想いで佐賀藩を語ってみたい。しばらくは、我慢しよう。
――14:12。別れの時が迫る。
まさに「後ろ髪をひかれる」とはこの事。しかし、もう時間の猶予は無い。
「急ぎ、佐賀駅まで戻れ!」
運動会みたいに言うが、先ほどの“祝砲”はスタートの合図だったのか。
――まず、荷物が揺れぬよう、しっかり背に付ける。
おそらくはイベントの余韻(よいん)に浸る、近隣からの来場者の皆様。
「私も本当は、もう少しここに居たい…」
そして2度、3度と名残惜しく振り返ったうえで、帰路へと走り始めた。

――移動を開始してから、3~4分ばかり経過。
「おおっ!意外にまだ動けるじゃないか。」
…とは言え、スタート直後。しかも、周囲に人が居るので小走り程度だ。
先ほどの砲術隊の方が見える。こんなところにも佐賀藩士。
「写真を撮らせていただいても良いですか?」
急いでいても、これは撮影したい。周囲の子どもたちも楽し気である。
――何だか、すでに「大河ドラマ」の気配がする。
佐賀藩の誇る、精鋭っぽい“砲術隊”のお兄さん。スッ…と、刀を構える手元にも“砲術侍”の心意気を感じる。
「ありがとうございます!」
嬉しかった。旅の終わりまで、同僚(?)の佐賀藩士が見送ってくれたのだから。

――ほどなく祭りの中心から離れ、周囲の人通りは少なくなった。
移動時間の不足を見越して、撤収に選んだ西の堀端ルート。
私も佐賀藩士(?)を名乗るなら、周到に計画を進めたい。
…このくだり。たぶん、この旅を最初からご覧の方は苦笑するだろう。
勢いはあったが、行き当たりばったりと言うべき旅だったのだから。
――どうやら私は、まだ走れる。
佐賀駅に定刻にたどり着くため…?バスに乗り遅れるから…?
それもある。でも走りたいから走るのだ。
「走らんね!」心がそう叫ぶのだ。
そして、気持ちだけは若かったが、日頃の運動不足もある。
5分と持たずに息切れをしたが、距離だけは稼いで、北の堀端に出た。
(続く)
突如、始まった壇上からの“餅まき”。私は佐賀の青天を見上げます。
2019年(令和元年)10月の昼下がり。
とても佐賀らしい、ある“号令”が響いて、私は走り始めました。
――14:10。壇上、そして会場を包む拍手。
たぶん中身は“佐賀銘菓”だと思うが、“餅”投げは完了した様子。
西の堀端に漂うのは、まるで“大団円”の雰囲気。
私は“餅”キャッチには手出ししなかったが、幸福感は受け取った。
――ここでМCの女性の声。
橋の上から右手後方に見える、堀の際(きわ)をご覧いただきたいらしい。
「葉隠…砲術隊だと!?」
私は驚愕した。見た感じ“アームストロング砲”が用意されている。
このお祭りは、どこまで幕末の佐賀藩を詰め込んでくるのだ。
――「祝砲で~す!」何ともトーンが明るい。楽しくなる声だ。
パァン…!
堀端に響き渡る大音声。たなびく白煙…
「幕末、佐賀ほどモダンな藩は無かった」と聞く。
ある歴史小説の大作家の先生が、そう語ったようだ。定番の小説も読みたい。でも、なるべく私自身の想いで佐賀藩を語ってみたい。しばらくは、我慢しよう。
――14:12。別れの時が迫る。
まさに「後ろ髪をひかれる」とはこの事。しかし、もう時間の猶予は無い。
「急ぎ、佐賀駅まで戻れ!」
運動会みたいに言うが、先ほどの“祝砲”はスタートの合図だったのか。
――まず、荷物が揺れぬよう、しっかり背に付ける。
おそらくはイベントの余韻(よいん)に浸る、近隣からの来場者の皆様。
「私も本当は、もう少しここに居たい…」
そして2度、3度と名残惜しく振り返ったうえで、帰路へと走り始めた。
――移動を開始してから、3~4分ばかり経過。
「おおっ!意外にまだ動けるじゃないか。」
…とは言え、スタート直後。しかも、周囲に人が居るので小走り程度だ。
先ほどの砲術隊の方が見える。こんなところにも佐賀藩士。
「写真を撮らせていただいても良いですか?」
急いでいても、これは撮影したい。周囲の子どもたちも楽し気である。
――何だか、すでに「大河ドラマ」の気配がする。
佐賀藩の誇る、精鋭っぽい“砲術隊”のお兄さん。スッ…と、刀を構える手元にも“砲術侍”の心意気を感じる。
「ありがとうございます!」
嬉しかった。旅の終わりまで、同僚(?)の佐賀藩士が見送ってくれたのだから。
――ほどなく祭りの中心から離れ、周囲の人通りは少なくなった。
移動時間の不足を見越して、撤収に選んだ西の堀端ルート。
私も佐賀藩士(?)を名乗るなら、周到に計画を進めたい。
…このくだり。たぶん、この旅を最初からご覧の方は苦笑するだろう。
勢いはあったが、行き当たりばったりと言うべき旅だったのだから。
――どうやら私は、まだ走れる。
佐賀駅に定刻にたどり着くため…?バスに乗り遅れるから…?
それもある。でも走りたいから走るのだ。
「走らんね!」心がそう叫ぶのだ。
そして、気持ちだけは若かったが、日頃の運動不足もある。
5分と持たずに息切れをしたが、距離だけは稼いで、北の堀端に出た。
(続く)
タグ :佐賀
2021年05月09日
連続ブログ小説「旅立の剣」(40)いつの日か佐賀で
こんにちは。
長々とお送りしました一昨年の秋の“旅日記”。第3シリーズで完結です。
当初は“息抜き”のつもりで始めましたが、わりと頑張ってしまい、全40話になりました。多少の感慨もあり、連続ブログ小説の最終回として区切りを入れます。
念のためですが、ブログは続きます。そして、このシリーズに関連した記事は、たぶん今後も登場します。企画案は色々とあって、時間と体力との勝負です。
――14:23。佐賀城内を北の堀端に出た。
混雑を避けて、西側の堀沿いを走ってきた私。人通りの少ない小径(こみち)。
このルート選択は正解だったようだ。手元で時刻を見る。
「よし、佐賀駅には充分…間に合いそうだ。」

――息切れはするが、到達感がある。
私は旅の終わりに感じる、一抹の寂しさを打ち消す。
「また、近いうちに来ればいい…」
堀沿いを抜ける風。ここには、お祭りの賑わいは無い。呼吸を整えて、大通りへ戻る道をゆっくり歩き出す。
――14:24。佐賀の県庁や議会が立ち並ぶ一角。
この2日間、あわせて30時間にも満たない滞在だった。
佐賀の街中で、繰り返した動き。パシャリと写真を撮る。
少し胸を張って、やや上向きの角度に撮った、この一枚だ。

――これが、この旅の最後の写真である。
広大な北堀を渡る、大きい橋を行く。中央大通りに面した佐賀の郵便局。その向かいの停留所で、バスを待つことにする。
幕末期。城の北堀の手前には、佐賀の藩校“弘道館”が立地したようだ。
若い佐賀藩士たちが学問に励み、武術で鍛え、飯を食い、議論をぶつけ合い、時には乱闘する…きっと当時の私にはそこまでのイメージは見えていなかった。
――この旅で見た景色は、時間をかけて、私の想像力とつながっていく。
本日は、初の市営バスに乗り込んだ。1日目に一日乗車券を使い、縦横無尽に佐賀の街を走り回ったことが既に懐かしい。
「今回は、これで良かったとするか。」
やっぱり名残惜しいが満足したことにする。佐賀駅に向けて、走り始めるバス。
――ここまでの密度の濃い時間に比べて、
不思議なぐらいに、帰路の記憶は残っていない。そこから50日ほどが過ぎた。私は、このブログを通じて皆様の前で語り始めることにした。
私自身も最近、知ったばかりの故郷・佐賀の偉大さを。そして、幕末の佐賀藩が、現代でこそ広く知られるべき存在であることを。
そして本作は、この一部始終を、ある佐賀藩士(?)の旅立として記すものだ。
〔連続ブログ小説「旅立の剣」 完〕
長々とお送りしました一昨年の秋の“旅日記”。第3シリーズで完結です。
当初は“息抜き”のつもりで始めましたが、わりと頑張ってしまい、全40話になりました。多少の感慨もあり、連続ブログ小説の最終回として区切りを入れます。
念のためですが、ブログは続きます。そして、このシリーズに関連した記事は、たぶん今後も登場します。企画案は色々とあって、時間と体力との勝負です。
――14:23。佐賀城内を北の堀端に出た。
混雑を避けて、西側の堀沿いを走ってきた私。人通りの少ない小径(こみち)。
このルート選択は正解だったようだ。手元で時刻を見る。
「よし、佐賀駅には充分…間に合いそうだ。」
――息切れはするが、到達感がある。
私は旅の終わりに感じる、一抹の寂しさを打ち消す。
「また、近いうちに来ればいい…」
堀沿いを抜ける風。ここには、お祭りの賑わいは無い。呼吸を整えて、大通りへ戻る道をゆっくり歩き出す。
――14:24。佐賀の県庁や議会が立ち並ぶ一角。
この2日間、あわせて30時間にも満たない滞在だった。
佐賀の街中で、繰り返した動き。パシャリと写真を撮る。
少し胸を張って、やや上向きの角度に撮った、この一枚だ。
――これが、この旅の最後の写真である。
広大な北堀を渡る、大きい橋を行く。中央大通りに面した佐賀の郵便局。その向かいの停留所で、バスを待つことにする。
幕末期。城の北堀の手前には、佐賀の藩校“弘道館”が立地したようだ。
若い佐賀藩士たちが学問に励み、武術で鍛え、飯を食い、議論をぶつけ合い、時には乱闘する…きっと当時の私にはそこまでのイメージは見えていなかった。
――この旅で見た景色は、時間をかけて、私の想像力とつながっていく。
本日は、初の市営バスに乗り込んだ。1日目に一日乗車券を使い、縦横無尽に佐賀の街を走り回ったことが既に懐かしい。
「今回は、これで良かったとするか。」
やっぱり名残惜しいが満足したことにする。佐賀駅に向けて、走り始めるバス。
――ここまでの密度の濃い時間に比べて、
不思議なぐらいに、帰路の記憶は残っていない。そこから50日ほどが過ぎた。私は、このブログを通じて皆様の前で語り始めることにした。
私自身も最近、知ったばかりの故郷・佐賀の偉大さを。そして、幕末の佐賀藩が、現代でこそ広く知られるべき存在であることを。
そして本作は、この一部始終を、ある佐賀藩士(?)の旅立として記すものだ。
〔連続ブログ小説「旅立の剣」 完〕
タグ :佐賀