2023年07月31日
「夏休みの読書感想文、今ならこう書く」
こんばんは。今年の夏は、すさまじい熱波続きですね。これでも7月で暑さは、まだ引く気配をみせません。
…ですが、8月が目前であることも認識せねばなりません。
7月下旬の思いつきで恐縮なのですが、今回は夏休みの宿題の中でも“難敵”として知られる読書感想文について、あえて、この時期に考えてみます。
この“読書感想文”というものが遠い夏の記憶として心に残る方、お子さんやお孫さんが毎年、困った顔をしているのを見る方もいるでしょう。
いまや佐賀に関わること限定で「書きたいことがありすぎる」私からの話なので、役に立つかはあやしいのですが、何かのご参考になれば幸いです。

――もちろん、私が題材とするのは「幕末・明治期の佐賀」です。
なお、佐賀の図書館や学校に、今回のテーマに合う児童向けの“偉人伝”などがあるかは把握していません。
また、今から書く話は「偉人の伝記」を前提としているので、児童文学などで「課題図書」の指定がある場合は、書き方に別の工夫がいるかもしれません。
まずは、都合の良い形で「読書感想文」をシミュレーションしてみます。

――「佐賀の賢人」が、テーマの本であれば最良と思いますが、
一般的に出版されている偉人の伝記でも、応用はききやすいと考えます。
その場合、未来を担う子供たちが、よく知られた人物の伝記をきっかけとして、いずれ「佐賀の大先輩」の偉大さにも気付くのを待ちます。
私の考える構成は以下のようなものです。質問に答えるうちに「読書感想文」ような印象に仕上がるかもしれません。
①動機(どうき):あなたは、なぜ、この本を選びましたか。
②設定(せってい):主人公は、どんな人で、どう成長してきましたか。
③展開(てんかい):主人公は、どんなふうにがんばり、どう乗り越えましたか。
④成果(せいか):主人公は、どんなことをなしとげて、何を考えましたか。
⑤評価(ひょうか):あなたは、この本で何を感じて、何を学びましたか。

――もし、いまの私が「読書感想文」を書くならば…
本は、とにかく一度、読み始めてみます。面白いと思えなかったら、別の本に変えてもいいと思います。このため「時間のゆとりがある」ことが大事です。
まず①「なぜ、この本を読みたいと思ったか…」を考えてみましょう。次に⑤で「この本を読んで、どんな気持ちになったか…」を自分に問いかけてみます。
その時に思いついたことは紙に書くか、パソコンなどでメモをするか…後で「本体」として使うのでしっかり残しておきましょう。
ここで書いた内容は「あなただけのもの」。これが読書感想文の「本体」だと考えています。
こうして「感想文」の最初と最後(①動機と⑤評価)を、ざっと考えてから…

――もう一度、パラパラと本をめくって見ます。
本を見直すのは、だいたい前半・中盤・後半に何が書いてあったかを思い出すためです。
②「どんな人の、話だったか」
③「どんなふうに、がんばったか」
④「どんなことを、なしとげたか」
②~④で書くのは、本の内容です。ここをわかりやすく説明すれば、「あなたの感想」は「みんなにも、その本がわかる説明」になると思います。
本の中で「ここが気になった」という所には、ペタペタと付箋(ふせん)を貼ってみるといいかもしれません。
あとで本を見るときに、どこが面白かったかがすぐわかって便利です。

――では、架空の“伝記”(児童向け)で実践してみます。
ここから「読書感想文」のイメージなので、ほとんど「ひらがな」で綴ってみます。読みやすさを考えて、読点(、)は省き、ところどころ空白を入れました。
『さのつねたみ(佐野常民) ものがたり』(さくしゃ:えすあーる)
①動機:あなたは、なぜ、この本を選びましたか。
にほんせきじゅうじしゃ という さいがいのときなどに ひとをたすける そしきを つくったひとだからです。
②設定(前半):主人公は、どんな人で、どう成長してきましたか。
おいしゃさんになるために べんきょうしていました。
とても かしこかったので とうきょう(えど)や きょうと おおさか でも がいこくのことばや いがくなどを たくさん まなびました。
ながさき では せいよう の ふねを うごかす くんれんも うけました。

③展開(中盤):主人公は、どんなことで頑張って、どう乗り越えてきましたか。
ばくまつは がいこくが ぶりょくでおどかして にほんに さこくをやめて くにをひらけと せまって きていました。
さがはんでは ぼうえきをするのは いいけども きまりを まもらないような がいこくは おいはらうぞ!と つよくなろうと かんがえます。
さがの おとのさまは さのがかしこいことを しっていたので なかまをあつめて じょうきせんやたいほうの けんきゅうをするようにいいました。

④成果(後半):主人公は、どんなことをなしとげて、何を考えましたか。
じだいは めいじに なって にほんには あたらしい せいふができました。
さのは とうだいをつくって ふねがあんぜんに うみをすすめるようにしたり
ヨーロッパでありたのとうじきなど にほんのしょうひんを しょうかいしようと ばくまつのけいけんをいかして ばんこく はくらんかいでがんばりました。

それから きゅうしゅうでは せいなん せんそう がおきてしまいます。ひとがたくさん きずつくのを みて さのは こころをいためました。
そして ヨーロッパでしった てきもみかたもくべつせず ひとをたすける そしき(のちの にほんせきじゅうじしゃ)を にほんにも つくるのです。
さのがつくった せきじゅうじしゃは めいじじだいに さいがいが あったときも きゅうえんに かつやくしました。

⑤評価:あなたは、この本で何を感じて、何を学びましたか。
おいしゃさんの べんきょうも さがはんでの けんきゅうも うみにとうだいをつくるのも はくらんかいも せきじゅうじしゃも…
さのが がんばったこと は いつも みんなのために なることでした。
こんなんにぶつかっても さのはまがったりしない ひとだといわれます。かんがえつづけること あきらめないことが だいじだとまなぶことができました。

――以上が、私が童心にかえったつもり(?)で、
現時点で佐野常民について、数年前から学んだ内容で、記憶にあるものから、感覚的に書いてみた「読書感想文」のサンプルです。
当ブログを読んでいる人が「読書感想文」を書く事はたぶん無いのでは…と思います。
でも、この課題で「書けない…」と困っているお子さんやお孫さんがいたら、いろいろと質問をして、その考えを書き留めてあげると前に進むかもしれません。
今回は私なりの“宿題”だと思って、児童向けの文章について考えてみました。
…ですが、8月が目前であることも認識せねばなりません。
7月下旬の思いつきで恐縮なのですが、今回は夏休みの宿題の中でも“難敵”として知られる読書感想文について、あえて、この時期に考えてみます。
この“読書感想文”というものが遠い夏の記憶として心に残る方、お子さんやお孫さんが毎年、困った顔をしているのを見る方もいるでしょう。
いまや佐賀に関わること限定で「書きたいことがありすぎる」私からの話なので、役に立つかはあやしいのですが、何かのご参考になれば幸いです。
――もちろん、私が題材とするのは「幕末・明治期の佐賀」です。
なお、佐賀の図書館や学校に、今回のテーマに合う児童向けの“偉人伝”などがあるかは把握していません。
また、今から書く話は「偉人の伝記」を前提としているので、児童文学などで「課題図書」の指定がある場合は、書き方に別の工夫がいるかもしれません。
まずは、都合の良い形で「読書感想文」をシミュレーションしてみます。
――「佐賀の賢人」が、テーマの本であれば最良と思いますが、
一般的に出版されている偉人の伝記でも、応用はききやすいと考えます。
その場合、未来を担う子供たちが、よく知られた人物の伝記をきっかけとして、いずれ「佐賀の大先輩」の偉大さにも気付くのを待ちます。
私の考える構成は以下のようなものです。質問に答えるうちに「読書感想文」ような印象に仕上がるかもしれません。
①動機(どうき):あなたは、なぜ、この本を選びましたか。
②設定(せってい):主人公は、どんな人で、どう成長してきましたか。
③展開(てんかい):主人公は、どんなふうにがんばり、どう乗り越えましたか。
④成果(せいか):主人公は、どんなことをなしとげて、何を考えましたか。
⑤評価(ひょうか):あなたは、この本で何を感じて、何を学びましたか。
――もし、いまの私が「読書感想文」を書くならば…
本は、とにかく一度、読み始めてみます。面白いと思えなかったら、別の本に変えてもいいと思います。このため「時間のゆとりがある」ことが大事です。
まず①「なぜ、この本を読みたいと思ったか…」を考えてみましょう。次に⑤で「この本を読んで、どんな気持ちになったか…」を自分に問いかけてみます。
その時に思いついたことは紙に書くか、パソコンなどでメモをするか…後で「本体」として使うのでしっかり残しておきましょう。
ここで書いた内容は「あなただけのもの」。これが読書感想文の「本体」だと考えています。
こうして「感想文」の最初と最後(①動機と⑤評価)を、ざっと考えてから…
――もう一度、パラパラと本をめくって見ます。
本を見直すのは、だいたい前半・中盤・後半に何が書いてあったかを思い出すためです。
②「どんな人の、話だったか」
③「どんなふうに、がんばったか」
④「どんなことを、なしとげたか」
②~④で書くのは、本の内容です。ここをわかりやすく説明すれば、「あなたの感想」は「みんなにも、その本がわかる説明」になると思います。
本の中で「ここが気になった」という所には、ペタペタと付箋(ふせん)を貼ってみるといいかもしれません。
あとで本を見るときに、どこが面白かったかがすぐわかって便利です。
――では、架空の“伝記”(児童向け)で実践してみます。
ここから「読書感想文」のイメージなので、ほとんど「ひらがな」で綴ってみます。読みやすさを考えて、読点(、)は省き、ところどころ空白を入れました。
『さのつねたみ(佐野常民) ものがたり』(さくしゃ:えすあーる)
①動機:あなたは、なぜ、この本を選びましたか。
にほんせきじゅうじしゃ という さいがいのときなどに ひとをたすける そしきを つくったひとだからです。
②設定(前半):主人公は、どんな人で、どう成長してきましたか。
おいしゃさんになるために べんきょうしていました。
とても かしこかったので とうきょう(えど)や きょうと おおさか でも がいこくのことばや いがくなどを たくさん まなびました。
ながさき では せいよう の ふねを うごかす くんれんも うけました。
③展開(中盤):主人公は、どんなことで頑張って、どう乗り越えてきましたか。
ばくまつは がいこくが ぶりょくでおどかして にほんに さこくをやめて くにをひらけと せまって きていました。
さがはんでは ぼうえきをするのは いいけども きまりを まもらないような がいこくは おいはらうぞ!と つよくなろうと かんがえます。
さがの おとのさまは さのがかしこいことを しっていたので なかまをあつめて じょうきせんやたいほうの けんきゅうをするようにいいました。
④成果(後半):主人公は、どんなことをなしとげて、何を考えましたか。
じだいは めいじに なって にほんには あたらしい せいふができました。
さのは とうだいをつくって ふねがあんぜんに うみをすすめるようにしたり
ヨーロッパでありたのとうじきなど にほんのしょうひんを しょうかいしようと ばくまつのけいけんをいかして ばんこく はくらんかいでがんばりました。
それから きゅうしゅうでは せいなん せんそう がおきてしまいます。ひとがたくさん きずつくのを みて さのは こころをいためました。
そして ヨーロッパでしった てきもみかたもくべつせず ひとをたすける そしき(のちの にほんせきじゅうじしゃ)を にほんにも つくるのです。
さのがつくった せきじゅうじしゃは めいじじだいに さいがいが あったときも きゅうえんに かつやくしました。
⑤評価:あなたは、この本で何を感じて、何を学びましたか。
おいしゃさんの べんきょうも さがはんでの けんきゅうも うみにとうだいをつくるのも はくらんかいも せきじゅうじしゃも…
さのが がんばったこと は いつも みんなのために なることでした。
こんなんにぶつかっても さのはまがったりしない ひとだといわれます。かんがえつづけること あきらめないことが だいじだとまなぶことができました。
――以上が、私が童心にかえったつもり(?)で、
現時点で佐野常民について、数年前から学んだ内容で、記憶にあるものから、感覚的に書いてみた「読書感想文」のサンプルです。
当ブログを読んでいる人が「読書感想文」を書く事はたぶん無いのでは…と思います。
でも、この課題で「書けない…」と困っているお子さんやお孫さんがいたら、いろいろと質問をして、その考えを書き留めてあげると前に進むかもしれません。
今回は私なりの“宿題”だと思って、児童向けの文章について考えてみました。
2023年07月23日
「2023 暑中お見舞い申し上げます。」
こんばんは。
ここ一週間ほどは、「10年に一度」の猛暑という情報も聞こえてきます。
最高気温は地域によって差があるかもしれませんが、なるべく涼しく過ごして「無理ば、せんごとね」という言葉を、暑中のご挨拶としたいです。
春先の3月頃からは、“本編”の第19話を淡々と続けてきました。ここで一旦、小休止を考えています。

――以前からご覧いただいている方は、お気付きと思うのですが、
最近では、記事投稿の間隔が、かなり空いています。
当ブログで“本編”を始める前にも予測はしましたが、本格的に第2部に入ると、順を追って話を進めるのも、かなり難しくなりました。
内容的にも「この発言は、どのような背景から来たのか…」と想像しながら書くので、どんな構成を取るかも、悩ましいところです。
詳しくは第19話を書き終えてから、あらためてお話しようと思うのですが、残り数回分は、もう少し、話をまとめてから再開しようと思います。
――その一方で、佐賀について、語りたいことは山ほど。
いろいろな想いが溢れても、それを形にするのは容易ではなく、乾いた都会の片隅では、私の背中を押してくれるはずの、蛙の歌すら聞こえてきません。
こんな日々の中で「佐賀の遠かごた~」と、私の心の叫びは続きます。
たとえばSAGAアリーナで、もはや“生ける伝説”のような存在のロックバンド、B’zが記念ライブの初日を迎えようと。
吉野ヶ里遺跡では、世紀の大発見があるのでは…との期待が高まろうと。

――私の目に映っているのは、“画面の向こう側”の佐賀。
簡単に“帰藩”できない私には、郷里の土の香りも、遙かに遠く感じられることが多いです。先ほどの話を例に最近テレビで見かけた話題では…
新しくできた佐賀のイベント会場周辺で、B’zのファンが熱く想いを語る場面を見かけたり…
「邪馬台国はどこにあったと思うか」と尋ねられた、地元の人たちの答え方に感銘を受けたり…
例によって全国区の放送では、佐賀の話題はさほど多くありません。意識してアンテナ(?)を張り、チェックを怠らないようにしています。
――吉野ヶ里遺跡では、目立った“物証”は出てきませんでしたが、
これからも、『さがヲほる』というキャッチフレーズのもと、次々にすごいものが掘り出されると期待しています。
参考:「さがヲほる」(佐賀県庁※外部サイト)
ちなみに『さがヲほる』は「佐賀県発掘成果速報展」の“愛称”のようです。今年の発見もすごいのですが、もっと決定的なものがいつかは…。
なお、リンク先のイラストでは、「さが」と白字で表示されたヘルメットをかぶり、仕事をする猫が二匹。発掘の作業にあたっています。
今後は、幕末・明治期の佐賀の先進性を示すものも、さらにどんどんどん…と見つけていってほしいと願わずにはいられません。
地元ではないものの、大隈重信が主導した“高輪築堤”が出土したのは、記憶に新しいところですね。
〔参照:連続ブログ小説「聖地の剣」(13)鉄路、海をゆく〕

――私は、歴史を本格的に学んだ者ではありませんが、
これまで佐賀を調べた先達の方々の蓄積は、たしかに私にも届いています。
その熱が、伝わってくるのか「佐賀ん事ば、書いてみらんね」と語りかけられる感覚を持つことも。
歴史上の人物というのは、語られれば語られるほど、様々な観点からの研究が進み、その想いや功績が明らかになるという、循環があるように感じます。
そして佐賀の賢人たちは、頑張ったわりに語られる機会を逸したので、全国的な知名度が今ひとつなのだ…というのが私の仮説です。
――私が書くブログは、「語られる回数」を増やす試みでもあります。
そのためには、きっと何か“ストーリー”がいる。それは、拙くても数があった方が良いはず。
こうして、私は手元にある情報は断片的でも、「実はこうだったのではないか」という推測を繰り返して、“本編”を書いています。
前提となる情報量は不足していますが、書きたい“物語”はあるので、「史実に着想を得たフィクション」として綴っているものです。

――以前、幕末・明治期のドラマなどを見て、
「“薩長土肥”と言うけれども、肥前の佐賀が語られていない…」と感じました。
私も、つい近年まで佐賀藩が何を成したのか理解していなかった方でしたが、4年ぐらい前から、自分でも書いてみたくなったのです。
願わくば「大河ドラマで、佐賀藩の活躍を見たい」というところは変わりません。
ただ、私は歴史家でも脚本家でもないので、「この部分を掘り下げていくことが、何か未来につながれば」というのが、たぶん書き続ける理由です。
――そんな想いで、これからも点と点をつないでいきます。
それが、いつかは「佐賀への道」につながると信じて。
…以上が、まったく涼しげではない、私の暑中のご挨拶でした。
とくに炎天下で畑仕事や現場作業される皆様、本当に気を付けてください。
ご年配の方は、電気代を恐れずエアコンを使うか、涼しい施設などに退避しましょう。ご自愛くださいませ。
ここ一週間ほどは、「10年に一度」の猛暑という情報も聞こえてきます。
最高気温は地域によって差があるかもしれませんが、なるべく涼しく過ごして「無理ば、せんごとね」という言葉を、暑中のご挨拶としたいです。
春先の3月頃からは、“本編”の第19話を淡々と続けてきました。ここで一旦、小休止を考えています。
――以前からご覧いただいている方は、お気付きと思うのですが、
最近では、記事投稿の間隔が、かなり空いています。
当ブログで“本編”を始める前にも予測はしましたが、本格的に第2部に入ると、順を追って話を進めるのも、かなり難しくなりました。
内容的にも「この発言は、どのような背景から来たのか…」と想像しながら書くので、どんな構成を取るかも、悩ましいところです。
詳しくは第19話を書き終えてから、あらためてお話しようと思うのですが、残り数回分は、もう少し、話をまとめてから再開しようと思います。
――その一方で、佐賀について、語りたいことは山ほど。
いろいろな想いが溢れても、それを形にするのは容易ではなく、乾いた都会の片隅では、私の背中を押してくれるはずの、蛙の歌すら聞こえてきません。
こんな日々の中で「佐賀の遠かごた~」と、私の心の叫びは続きます。
たとえばSAGAアリーナで、もはや“生ける伝説”のような存在のロックバンド、B’zが記念ライブの初日を迎えようと。
吉野ヶ里遺跡では、世紀の大発見があるのでは…との期待が高まろうと。
――私の目に映っているのは、“画面の向こう側”の佐賀。
簡単に“帰藩”できない私には、郷里の土の香りも、遙かに遠く感じられることが多いです。先ほどの話を例に最近テレビで見かけた話題では…
新しくできた佐賀のイベント会場周辺で、B’zのファンが熱く想いを語る場面を見かけたり…
「邪馬台国はどこにあったと思うか」と尋ねられた、地元の人たちの答え方に感銘を受けたり…
例によって全国区の放送では、佐賀の話題はさほど多くありません。意識してアンテナ(?)を張り、チェックを怠らないようにしています。
――吉野ヶ里遺跡では、目立った“物証”は出てきませんでしたが、
これからも、『さがヲほる』というキャッチフレーズのもと、次々にすごいものが掘り出されると期待しています。
参考:「さがヲほる」(佐賀県庁※外部サイト)
ちなみに『さがヲほる』は「佐賀県発掘成果速報展」の“愛称”のようです。今年の発見もすごいのですが、もっと決定的なものがいつかは…。
なお、リンク先のイラストでは、「さが」と白字で表示されたヘルメットをかぶり、仕事をする猫が二匹。発掘の作業にあたっています。
今後は、幕末・明治期の佐賀の先進性を示すものも、さらにどんどんどん…と見つけていってほしいと願わずにはいられません。
地元ではないものの、大隈重信が主導した“高輪築堤”が出土したのは、記憶に新しいところですね。
〔参照:
――私は、歴史を本格的に学んだ者ではありませんが、
これまで佐賀を調べた先達の方々の蓄積は、たしかに私にも届いています。
その熱が、伝わってくるのか「佐賀ん事ば、書いてみらんね」と語りかけられる感覚を持つことも。
歴史上の人物というのは、語られれば語られるほど、様々な観点からの研究が進み、その想いや功績が明らかになるという、循環があるように感じます。
そして佐賀の賢人たちは、頑張ったわりに語られる機会を逸したので、全国的な知名度が今ひとつなのだ…というのが私の仮説です。
――私が書くブログは、「語られる回数」を増やす試みでもあります。
そのためには、きっと何か“ストーリー”がいる。それは、拙くても数があった方が良いはず。
こうして、私は手元にある情報は断片的でも、「実はこうだったのではないか」という推測を繰り返して、“本編”を書いています。
前提となる情報量は不足していますが、書きたい“物語”はあるので、「史実に着想を得たフィクション」として綴っているものです。
――以前、幕末・明治期のドラマなどを見て、
「“薩長土肥”と言うけれども、肥前の佐賀が語られていない…」と感じました。
私も、つい近年まで佐賀藩が何を成したのか理解していなかった方でしたが、4年ぐらい前から、自分でも書いてみたくなったのです。
願わくば「大河ドラマで、佐賀藩の活躍を見たい」というところは変わりません。
ただ、私は歴史家でも脚本家でもないので、「この部分を掘り下げていくことが、何か未来につながれば」というのが、たぶん書き続ける理由です。
――そんな想いで、これからも点と点をつないでいきます。
それが、いつかは「佐賀への道」につながると信じて。
…以上が、まったく涼しげではない、私の暑中のご挨拶でした。
とくに炎天下で畑仕事や現場作業される皆様、本当に気を付けてください。
ご年配の方は、電気代を恐れずエアコンを使うか、涼しい施設などに退避しましょう。ご自愛くださいませ。
2023年07月13日
第19話「閑叟上洛」⑲(“門司”からの船出まで)
こんばんは。
九州北部に豪雨が続き、他地域にいる私も落ち着かない数日間がありました。
当ブログでの“本編”を綴るごとに、幕末期の佐賀からの視点で、九州北部の各地がどう動いたかも考える機会が増えています。
そのため、佐賀県域に留まらず、福岡県内の久留米や秋月なども、以前より身近に感じるので、心配は尽きなかったところです。
…とはいえ、私に何ができるでもなく、佐賀を中心として、九州を舞台とした話を淡々と書いています。

ところで今回の舞台は、豊前国・大里(だいり)という港町から始まります。
本筋とは関わりませんが、天皇の住まいである“内裏(だいり)”と同じ読みなのは、源平合戦の時代に由来があると聞きます。
大里とは、現在で言えば、門司(福岡県北九州市)にあたる場所。当時、その周辺は長崎街道の終点で、小倉藩の領地ということになるようです。

――文久二年(1862年)も十一月。冬の息吹を強く感じる。
「う~、ひやかごた…。」
供回りの佐賀藩士の1人からも、思わずそんな声が出る。海峡を眼前にして、冷たい風がヒュウと吹いたのだ。
ここに長崎街道を東へと進んできた鍋島直正(閑叟)の一行が到着していた。
京の都に向けては、ここからは海路をとる予定だ。蒸気船での航海での目的地は、大坂(大阪)になる。
「閑叟さま、“電流”が迎えに来ております。」
「まったく働き者であるな。天晴(あっぱ)れな船だ。」
…ボッ、と響く音があった。

例によって、蒸気船・電流丸から直正(閑叟)に応えるような汽笛を聞きながら、横で対話しているのは“執事”とも言える側近・古川与一(松根)。
〔参照:第15話「江戸動乱」⑫(その船、電流丸)〕
「ほほ…“電流”も、大殿を都にお連れするのを楽しみにしとるようですなぁ。」
「ふふ、松根よ。お主にもそう見えるか。」
そして、沖合に船があるといっても目前は関門海峡だから、向かいにも長州(山口)の陸が見える。
――鍋島直正(閑叟)が、ついに京の都に向かう。
朝廷からの呼びかけに「上洛する」と返答をしたのが、まだ江藤新平が、京に居た夏のうちだから、数か月を経て動き出している。
この間も、鍋島直正は、病による不調に見舞われ、胸痛がひどかった。伸び伸びとなった佐賀からの出立。暑い夏から寒い冬へと季節はすっかり逆転した。
「此度は佐賀を発ってからも、幾分は調子が良いようだ。」
「お身体が大事にて、何よりにございます。」

「もう一隻の蒸気船は、観光丸であるな。」
「仰せのとおり、“観光”もお供に参っています。」
この頃、佐賀の大殿・直正は、蒸気船で移動することが増えていた。
いつものように、直正が乗る御座船(ござぶね)は佐賀藩の蒸気船・電流丸。幕府から佐賀藩が運用を任された観光丸の二隻で瀬戸内海を行く航程だ。
――「では、参るとするか。」
岸壁には、小舟が待たせてある。いまは快方に向かっているとはいえ、最近では病がちな直正の足取りは、やや重たい。
「いざ、参りましょう。」
古川与一(松根)は、心持ち明るい声で応じた。

九州を離れる前に気がかりがあるのか、何か考え事をしていた、直正がふと思い返すように、古川に話しかけた。
「…原田は、得心できておらぬ様子であったな。」
「はっ、しかしながら忠義の者ゆえ、大殿のお帰りを待つでしょう。」
――直正(閑叟)が気にしたのは、保守派・原田小四郎との問答。
佐賀から出る直前のこと。重臣・原田小四郎は、佐賀から脱藩した江藤新平の処遇について、厳しい立場を取っていた。
「国を抜けるのは、重罪にて。京にお発ちになる前にご処断をなさいませ。」
「待て。その江藤は、京の都にて様々な調べを成しておる。」
当時の佐賀藩は、京での政局については、かなり情報が不足していた。

京で活動した江藤のもたらした情報は貴重であり、佐賀藩としては、さらに京の情勢を聞き出すべく、書面での質問を繰り返している。
〔参照:第19話「閑叟上洛」⑰(問いかけの向こう側)〕
「江藤という者、才があるのは存じております。」
「…なれば、そう急かずとも良かろう。謹慎もさせておる。」
直正は、江藤の処遇について判断を急かそうとする、重臣・原田小四郎を諭すように言葉を返す。
しかし、保守派の筆頭格・原田も、大殿である直正を前にして、一歩も引く構えを見せない。
「先例に反する、と申しておるのです。」
佐賀では脱藩は重罪であり、切腹が相当ということになるだろう。
「江藤は余のため、ひいては佐賀のために動いておったと思わぬか。」

「事情を汲むことが、国のためにならんこともあります。」
原田は、本人の動機に、たとえ主君・鍋島直正のため、という目的があっても、先例どおり脱藩の罪を罰するべきだと主張する。
「命を賭して国を抜けたのだ。志ある者ではないか。」
「では、志ある者が次々と続けば、いかがなさいます。収拾がつきませぬぞ。」
強い口調で原田は続ける。他藩では下級武士を中心に、京都に集まり過激派浪士と化する者が多くいるという。
この保守派の重臣は、佐賀藩内の秩序を気にしていた。
以前には、藩校での振る舞いから優等生だと信じた、中野方蔵が江戸で過激な浪士との関わりを疑われ、牢獄で命を落とした…という苦い記憶もある。
〔参照(後半):第17話「佐賀脱藩」⑰(救おうとする者たち)〕

その親友だという、江藤新平は「中野の代わりに立つ」として、京都に向けて脱藩を決行している。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑲(残された2人)〕
――原田の心配は藩内の若者に、影響が及ぶことにもある。
“秩序”を重んじる原田。他藩のように一部の若い武士が徒党を組んで、内紛を起こせば、多くの者が命を落としかねない。
「儂は、京に上らねばならぬ。江藤には謹慎を申しつけておる。」
「…大殿、ご上洛の前に、ご処断を。」
直正にも、原田の心配は理解できるが、こう言い放った。
「余が、直々に沙汰(さた)を申しつけるまでは、謹慎させておけ。」
ところが原田は、江藤の処罰を求めて食い下がる。
「…なれど!」
「江藤の処遇は、余が決める。急(せ)くことは、認めぬぞ。」
最近は病がちで神経質となっている直正だが、この時はいっそう厳しい声で話を終えた。
――ふたたび、大里(だいり)の港町。
久しぶりに電流丸で、瀬戸内への航海へと出る、鍋島直正(閑叟)。
武力を誇示して、幕政の主導権を取ろうとする、薩摩藩。
公家を巻き込み、攘夷へと突き進もうとする、長州藩。
過激な行動も辞さない勤王党が京都で台頭する、土佐藩。

各地の雄藩が競って京を目指す中で、日本国内の秩序を守って、異国に隙を見せないことが直正の理想だった。
「儂も、原田と同じ想い…なのかもしれぬな。」
佐賀を発つ前に、原田と言い争っていた時とは違う、幾分、気の抜けた表情で直正は語った。
「そのお言葉。原田さまがお聞きになれば、さぞ喜びましょう。」
「…だが、江藤は有用の者だ。そこは、譲るつもりは無いぞ。」
寒い海を望んだ、直正には、以前のような覇気が少しもどっていた。
(続く)
九州北部に豪雨が続き、他地域にいる私も落ち着かない数日間がありました。
当ブログでの“本編”を綴るごとに、幕末期の佐賀からの視点で、九州北部の各地がどう動いたかも考える機会が増えています。
そのため、佐賀県域に留まらず、福岡県内の久留米や秋月なども、以前より身近に感じるので、心配は尽きなかったところです。
…とはいえ、私に何ができるでもなく、佐賀を中心として、九州を舞台とした話を淡々と書いています。
ところで今回の舞台は、豊前国・大里(だいり)という港町から始まります。
本筋とは関わりませんが、天皇の住まいである“内裏(だいり)”と同じ読みなのは、源平合戦の時代に由来があると聞きます。
大里とは、現在で言えば、門司(福岡県北九州市)にあたる場所。当時、その周辺は長崎街道の終点で、小倉藩の領地ということになるようです。
――文久二年(1862年)も十一月。冬の息吹を強く感じる。
「う~、ひやかごた…。」
供回りの佐賀藩士の1人からも、思わずそんな声が出る。海峡を眼前にして、冷たい風がヒュウと吹いたのだ。
ここに長崎街道を東へと進んできた鍋島直正(閑叟)の一行が到着していた。
京の都に向けては、ここからは海路をとる予定だ。蒸気船での航海での目的地は、大坂(大阪)になる。
「閑叟さま、“電流”が迎えに来ております。」
「まったく働き者であるな。天晴(あっぱ)れな船だ。」
…ボッ、と響く音があった。
例によって、蒸気船・電流丸から直正(閑叟)に応えるような汽笛を聞きながら、横で対話しているのは“執事”とも言える側近・古川与一(松根)。
〔参照:
「ほほ…“電流”も、大殿を都にお連れするのを楽しみにしとるようですなぁ。」
「ふふ、松根よ。お主にもそう見えるか。」
そして、沖合に船があるといっても目前は関門海峡だから、向かいにも長州(山口)の陸が見える。
――鍋島直正(閑叟)が、ついに京の都に向かう。
朝廷からの呼びかけに「上洛する」と返答をしたのが、まだ江藤新平が、京に居た夏のうちだから、数か月を経て動き出している。
この間も、鍋島直正は、病による不調に見舞われ、胸痛がひどかった。伸び伸びとなった佐賀からの出立。暑い夏から寒い冬へと季節はすっかり逆転した。
「此度は佐賀を発ってからも、幾分は調子が良いようだ。」
「お身体が大事にて、何よりにございます。」
「もう一隻の蒸気船は、観光丸であるな。」
「仰せのとおり、“観光”もお供に参っています。」
この頃、佐賀の大殿・直正は、蒸気船で移動することが増えていた。
いつものように、直正が乗る御座船(ござぶね)は佐賀藩の蒸気船・電流丸。幕府から佐賀藩が運用を任された観光丸の二隻で瀬戸内海を行く航程だ。
――「では、参るとするか。」
岸壁には、小舟が待たせてある。いまは快方に向かっているとはいえ、最近では病がちな直正の足取りは、やや重たい。
「いざ、参りましょう。」
古川与一(松根)は、心持ち明るい声で応じた。
九州を離れる前に気がかりがあるのか、何か考え事をしていた、直正がふと思い返すように、古川に話しかけた。
「…原田は、得心できておらぬ様子であったな。」
「はっ、しかしながら忠義の者ゆえ、大殿のお帰りを待つでしょう。」
――直正(閑叟)が気にしたのは、保守派・原田小四郎との問答。
佐賀から出る直前のこと。重臣・原田小四郎は、佐賀から脱藩した江藤新平の処遇について、厳しい立場を取っていた。
「国を抜けるのは、重罪にて。京にお発ちになる前にご処断をなさいませ。」
「待て。その江藤は、京の都にて様々な調べを成しておる。」
当時の佐賀藩は、京での政局については、かなり情報が不足していた。
京で活動した江藤のもたらした情報は貴重であり、佐賀藩としては、さらに京の情勢を聞き出すべく、書面での質問を繰り返している。
〔参照:
「江藤という者、才があるのは存じております。」
「…なれば、そう急かずとも良かろう。謹慎もさせておる。」
直正は、江藤の処遇について判断を急かそうとする、重臣・原田小四郎を諭すように言葉を返す。
しかし、保守派の筆頭格・原田も、大殿である直正を前にして、一歩も引く構えを見せない。
「先例に反する、と申しておるのです。」
佐賀では脱藩は重罪であり、切腹が相当ということになるだろう。
「江藤は余のため、ひいては佐賀のために動いておったと思わぬか。」
「事情を汲むことが、国のためにならんこともあります。」
原田は、本人の動機に、たとえ主君・鍋島直正のため、という目的があっても、先例どおり脱藩の罪を罰するべきだと主張する。
「命を賭して国を抜けたのだ。志ある者ではないか。」
「では、志ある者が次々と続けば、いかがなさいます。収拾がつきませぬぞ。」
強い口調で原田は続ける。他藩では下級武士を中心に、京都に集まり過激派浪士と化する者が多くいるという。
この保守派の重臣は、佐賀藩内の秩序を気にしていた。
以前には、藩校での振る舞いから優等生だと信じた、中野方蔵が江戸で過激な浪士との関わりを疑われ、牢獄で命を落とした…という苦い記憶もある。
〔参照(後半):
その親友だという、江藤新平は「中野の代わりに立つ」として、京都に向けて脱藩を決行している。
〔参照:
――原田の心配は藩内の若者に、影響が及ぶことにもある。
“秩序”を重んじる原田。他藩のように一部の若い武士が徒党を組んで、内紛を起こせば、多くの者が命を落としかねない。
「儂は、京に上らねばならぬ。江藤には謹慎を申しつけておる。」
「…大殿、ご上洛の前に、ご処断を。」
直正にも、原田の心配は理解できるが、こう言い放った。
「余が、直々に沙汰(さた)を申しつけるまでは、謹慎させておけ。」
ところが原田は、江藤の処罰を求めて食い下がる。
「…なれど!」
「江藤の処遇は、余が決める。急(せ)くことは、認めぬぞ。」
最近は病がちで神経質となっている直正だが、この時はいっそう厳しい声で話を終えた。
――ふたたび、大里(だいり)の港町。
久しぶりに電流丸で、瀬戸内への航海へと出る、鍋島直正(閑叟)。
武力を誇示して、幕政の主導権を取ろうとする、薩摩藩。
公家を巻き込み、攘夷へと突き進もうとする、長州藩。
過激な行動も辞さない勤王党が京都で台頭する、土佐藩。
各地の雄藩が競って京を目指す中で、日本国内の秩序を守って、異国に隙を見せないことが直正の理想だった。
「儂も、原田と同じ想い…なのかもしれぬな。」
佐賀を発つ前に、原田と言い争っていた時とは違う、幾分、気の抜けた表情で直正は語った。
「そのお言葉。原田さまがお聞きになれば、さぞ喜びましょう。」
「…だが、江藤は有用の者だ。そこは、譲るつもりは無いぞ。」
寒い海を望んだ、直正には、以前のような覇気が少しもどっていた。
(続く)
2023年07月05日
第19話「閑叟上洛」⑱(そがん訳の無かろうもん)
こんばんは。
前回は、佐賀城下に帰ってきた江藤新平を描きましたが、今回の場面は江戸(東京)に移ります。
急に江戸に響く“佐賀”なまりの言葉。現在では佐賀県の、唐津生まれの人物の気持ちを語ったものです。

1862年(文久二年)秋。少し前に、薩摩藩が東海道で起こした「生麦事件」は大きな波風を立てていました。
〔参照(中盤):第19話「閑叟上洛」⑬(東海道から流れる噂)〕
――江戸城中。幕府を支える官僚が集まる詰所。
その日も、唐津藩から江戸幕府の中枢に入った藩主名代(代理)・小笠原長行が数名の若い官僚と集まっていた。
「小笠原さま。お聞きになられましたか。薩摩の申し開きを!」
如何にも頭の良さそうな官僚の1人が声を張る。明らかに怒っている表情だ。
「…うむ。おかしな事を言うものだ。」
江戸に来るなり、要職の奏者番から若年寄、老中格へと、どんどんどん…と出世をする小笠原長行。
西洋の事情にも通じ、将軍・徳川家茂への忠誠心も高いので、幕閣の中でも見込まれている。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑤(若き“将軍”への視線)〕

――もはや責任のある立場なので、軽率なことは言えないが、
行列を横切ったイギリス人を薩摩藩が殺傷した「生麦事件」。江戸期、日本の常識では“無礼討ち”で当然の場面とも言えるが、既に外交問題化していた。
当然に幕府も、そのまま振り向かずに京へと進む薩摩藩の一団に、現場の状況を確認する使者を派遣する。
「なにゆえ、英国人に斬りつけたのか。」
「わかりもはん。」
「わからぬとは、如何なることか!」
「たしかに、薩摩の者には違いもはん。じゃっどん、藩を抜けて行方知れずの足軽が勝手に英国人に斬りつけ、逃げ去ったのでごわす。」
おおむね薩摩の返答はこのようだったという。国父・島津久光が率いる一団で、幕政改革に踏み込んだ帰路に、異国と衝突する原因を作ってしまった。
国内外に都合の悪い状況があるため、薩摩としては絶対に非を認めるわけにはいかない。
――小笠原自身も、この薩摩の申し開きを知った時には,
さすがに頭に血がのぼって、いきなり故郷の言葉でまくしたてた。
「意味のわからんばい!そがん訳のなかろうもん!」

大名の嫡子は江戸で生まれ育つことも多いが、小笠原長行は唐津生まれだ。当時は年少で藩主になる時機を逸したが、優秀さはいまの立場に表れる。
近くにいた幕府の官僚が、異変に気付き声をかける。
「…小笠原さま。いかがなさいましたか。」
「うむ、何でもない。唐津生まれの気性とでも思うとよい。」
「玄界灘に面した、少々荒い土地柄でな。ははは…済まぬの」
小笠原には、若き将軍・家茂を守りたいという熱い気持ちは見えるが、師匠・古賀侗庵ゆずりの開明的な思考の持ち主だ。
「…左様に、ございましたか。」
官僚たちには、小笠原長行は冷静で理知的な印象だったのか、意外に豪胆な一面が見えて、やや驚かれている。

なお、幕府の学問所で彼らのような西洋の学問に関心を持つ、新世代の官僚の先生となったのが、佐賀生まれの古賀侗庵という人物。
鍋島直正の師匠だった古賀穀堂の弟にあたる侗庵も、優れた教育者だった。江戸で、幕末期の有能な人材を多数育てており、小笠原もその1人である。
――はたと正気に返った、若い官僚が急ぎ告げる。
「福井の松平春嶽(慶永)さまがお見えです。」
「おお、お待たせしてはならぬな。すぐ、参る。」
前の福井藩主にして、この時、政事総裁職に就いている、松平春嶽。
「小笠原どの。此度の薩摩の申しよう、いかが思う。」
「いかに聞いても、疑わしゅうございますな。」
「儂もそのように思う。このまま島津公を京に行かせて良いものか。」

つい最近、松平春嶽は薩摩の後押しもあって、幕府の重職に就いたのだが、それとこれとは話が別ということだろう。
「それがしも、手を打って見まする。」
「儂も、意見を申し述べるとしよう。」
ちなみに、鍋島直正の妻(継室)・筆姫は、松平春嶽の妹であったが、政治的には佐賀藩と福井藩はとくに連携が取れてはいない。
のちに松平春嶽も、なぜ佐賀藩が動けなかったかを知るが、この時は直正の真意を知るところではない。
――幕閣の意見はまとまらず、薩摩の行列は西へと進む。
幕政の中心で奮闘する、唐津藩・小笠原長行の、江戸での日々。廊下にて、ある人物と出会う。
「小笠原さま。勝にございます。」
声をかけてきたのは、この夏に“軍艦奉行並”に就任した、勝麟太郎(海舟)。
「勝か…、お主の話は聞いておきたいのだがな。」
小笠原は、イギリスを初めとする西洋列強が「生麦事件」の報復に動くことも警戒せねばならず、とにかく忙しい。
海軍の事情に詳しい、勝の話を聞く値打ちはあるのだが、幾分、時間がない。

「刻(とき)は、取らせやせん。」
勝は、手短かに話すと告げた。この男、まるで江戸の市井にいる、町衆のような言葉遣いをすることもある。
――大抜擢されて今の地位にいる、異色の幕府役人。
勝麟太郎(海舟)は、長崎での海軍伝習にも参加し、咸臨丸に乗って太平洋横断も経験している。
「次の用向きも控えておるが、少しならば聞こう。」
「京から来られる、姉小路卿のことを、お耳に入れておきてえもので。」
「姉小路さまは御自ら、台場を見聞してえと仰せです。」
「ほう、京から来られる御方にしては、珍しかな。」
江戸沿海(東京湾)の警備の要、品川台場。姉小路という公家は、海防の拠点である砲台を見たいのだという。

――第一線の現場を見たいとは、普通の公家の考え方ではない。
京の公家といえば古式ゆかしい思想や儀礼を重んじて、攘夷(異国打払)を叫んでも、現実離れした精神論に流れる傾向がある。
「せっかくなんで“海防”の足らねえところも、余すところなくお見せしようかと。」
「お主らしく、抜かりの無い。姉小路卿の威光を上手く使うつもりだな。」
「へえ。またとねえ好機ですんで。」
勝の表情には、不敵な笑みが隠れている。この男の真意もわかりづらいが、有力公家は巻き込む価値がある…と考える理屈はわかる。
だが、小笠原から見ても、学識以上に要領の良さが見えるこの人物が、いまの幕府には、役立ちそうだと見てとれた。
そして、この勝麟太郎もまた、小笠原にとって大切な上様である将軍・家茂を盛り立てるためには、“同志”と見て良さそうだ。

――ここで勝は、少し怪訝な顔をした。
「一つ、腑(ふ)に落ちねえところがあるんです。」
「何だ、申してみよ。」
勝には人を惹きつける話術があるようだ。多忙な小笠原も興味は尽きない。
「お公家さまが攘夷と仰せはともかく、なんで実際に見てえと思ったかです。」
「何故だろうな。京の取り巻きにも、海の向こうを解する者がおったか。」
「薩摩とは関わりねぇでしょうし、長州、あるいは土佐…」
「諸国から京に集うのは、考え無しに異国打払いを叫ぶ者が多いと聞くぞ。」
「…まさか、佐賀ってことは無えでしょうな。」
勝麟太郎は、長崎で海軍伝習に参加していた時期がある。執念を感じるほどに学ぶ佐賀藩士の一団を見ていた。
〔参照(中盤):第12話「海軍伝習」⑩-2(負けんばい!・後編)〕
――小笠原は、次第に遠く感じ始めた、西の方を見遣る。
「佐賀か。わが唐津の隣国ではあるが、あの国は良くわからぬ。」
「肥前老侯(鍋島直正)、どう動くか。油断ならねえです。」
「佐賀は力のある国だ…ただ、思惑がわからんのだ。」

もちろん、幕府の政治の中枢にいた小笠原長行も、海軍の発展に賭けていた勝海舟(麟太郎)も、ある佐賀藩士が脱藩して京にいた事など知る由もない。
ましてや、有力公家・姉小路公知のもとで、活動した者がいる事など伝わるはずもないのだ。
〔参照:第18話「京都見聞」⑲(“蒸気”の目覚め)〕
文久二年秋。のち明治の世に勝海舟が“驚いた傑物”と評したという江藤新平は、京より戻って、佐賀城下の片隅に籠もっていたのである。
(続く)
前回は、佐賀城下に帰ってきた江藤新平を描きましたが、今回の場面は江戸(東京)に移ります。
急に江戸に響く“佐賀”なまりの言葉。現在では佐賀県の、唐津生まれの人物の気持ちを語ったものです。
1862年(文久二年)秋。少し前に、薩摩藩が東海道で起こした「生麦事件」は大きな波風を立てていました。
〔参照(中盤):
――江戸城中。幕府を支える官僚が集まる詰所。
その日も、唐津藩から江戸幕府の中枢に入った藩主名代(代理)・小笠原長行が数名の若い官僚と集まっていた。
「小笠原さま。お聞きになられましたか。薩摩の申し開きを!」
如何にも頭の良さそうな官僚の1人が声を張る。明らかに怒っている表情だ。
「…うむ。おかしな事を言うものだ。」
江戸に来るなり、要職の奏者番から若年寄、老中格へと、どんどんどん…と出世をする小笠原長行。
西洋の事情にも通じ、将軍・徳川家茂への忠誠心も高いので、幕閣の中でも見込まれている。
〔参照:
――もはや責任のある立場なので、軽率なことは言えないが、
行列を横切ったイギリス人を薩摩藩が殺傷した「生麦事件」。江戸期、日本の常識では“無礼討ち”で当然の場面とも言えるが、既に外交問題化していた。
当然に幕府も、そのまま振り向かずに京へと進む薩摩藩の一団に、現場の状況を確認する使者を派遣する。
「なにゆえ、英国人に斬りつけたのか。」
「わかりもはん。」
「わからぬとは、如何なることか!」
「たしかに、薩摩の者には違いもはん。じゃっどん、藩を抜けて行方知れずの足軽が勝手に英国人に斬りつけ、逃げ去ったのでごわす。」
おおむね薩摩の返答はこのようだったという。国父・島津久光が率いる一団で、幕政改革に踏み込んだ帰路に、異国と衝突する原因を作ってしまった。
国内外に都合の悪い状況があるため、薩摩としては絶対に非を認めるわけにはいかない。
――小笠原自身も、この薩摩の申し開きを知った時には,
さすがに頭に血がのぼって、いきなり故郷の言葉でまくしたてた。
「意味のわからんばい!そがん訳のなかろうもん!」
大名の嫡子は江戸で生まれ育つことも多いが、小笠原長行は唐津生まれだ。当時は年少で藩主になる時機を逸したが、優秀さはいまの立場に表れる。
近くにいた幕府の官僚が、異変に気付き声をかける。
「…小笠原さま。いかがなさいましたか。」
「うむ、何でもない。唐津生まれの気性とでも思うとよい。」
「玄界灘に面した、少々荒い土地柄でな。ははは…済まぬの」
小笠原には、若き将軍・家茂を守りたいという熱い気持ちは見えるが、師匠・古賀侗庵ゆずりの開明的な思考の持ち主だ。
「…左様に、ございましたか。」
官僚たちには、小笠原長行は冷静で理知的な印象だったのか、意外に豪胆な一面が見えて、やや驚かれている。
なお、幕府の学問所で彼らのような西洋の学問に関心を持つ、新世代の官僚の先生となったのが、佐賀生まれの古賀侗庵という人物。
鍋島直正の師匠だった古賀穀堂の弟にあたる侗庵も、優れた教育者だった。江戸で、幕末期の有能な人材を多数育てており、小笠原もその1人である。
――はたと正気に返った、若い官僚が急ぎ告げる。
「福井の松平春嶽(慶永)さまがお見えです。」
「おお、お待たせしてはならぬな。すぐ、参る。」
前の福井藩主にして、この時、政事総裁職に就いている、松平春嶽。
「小笠原どの。此度の薩摩の申しよう、いかが思う。」
「いかに聞いても、疑わしゅうございますな。」
「儂もそのように思う。このまま島津公を京に行かせて良いものか。」
つい最近、松平春嶽は薩摩の後押しもあって、幕府の重職に就いたのだが、それとこれとは話が別ということだろう。
「それがしも、手を打って見まする。」
「儂も、意見を申し述べるとしよう。」
ちなみに、鍋島直正の妻(継室)・筆姫は、松平春嶽の妹であったが、政治的には佐賀藩と福井藩はとくに連携が取れてはいない。
のちに松平春嶽も、なぜ佐賀藩が動けなかったかを知るが、この時は直正の真意を知るところではない。
――幕閣の意見はまとまらず、薩摩の行列は西へと進む。
幕政の中心で奮闘する、唐津藩・小笠原長行の、江戸での日々。廊下にて、ある人物と出会う。
「小笠原さま。勝にございます。」
声をかけてきたのは、この夏に“軍艦奉行並”に就任した、勝麟太郎(海舟)。
「勝か…、お主の話は聞いておきたいのだがな。」
小笠原は、イギリスを初めとする西洋列強が「生麦事件」の報復に動くことも警戒せねばならず、とにかく忙しい。
海軍の事情に詳しい、勝の話を聞く値打ちはあるのだが、幾分、時間がない。
「刻(とき)は、取らせやせん。」
勝は、手短かに話すと告げた。この男、まるで江戸の市井にいる、町衆のような言葉遣いをすることもある。
――大抜擢されて今の地位にいる、異色の幕府役人。
勝麟太郎(海舟)は、長崎での海軍伝習にも参加し、咸臨丸に乗って太平洋横断も経験している。
「次の用向きも控えておるが、少しならば聞こう。」
「京から来られる、姉小路卿のことを、お耳に入れておきてえもので。」
「姉小路さまは御自ら、台場を見聞してえと仰せです。」
「ほう、京から来られる御方にしては、珍しかな。」
江戸沿海(東京湾)の警備の要、品川台場。姉小路という公家は、海防の拠点である砲台を見たいのだという。

――第一線の現場を見たいとは、普通の公家の考え方ではない。
京の公家といえば古式ゆかしい思想や儀礼を重んじて、攘夷(異国打払)を叫んでも、現実離れした精神論に流れる傾向がある。
「せっかくなんで“海防”の足らねえところも、余すところなくお見せしようかと。」
「お主らしく、抜かりの無い。姉小路卿の威光を上手く使うつもりだな。」
「へえ。またとねえ好機ですんで。」
勝の表情には、不敵な笑みが隠れている。この男の真意もわかりづらいが、有力公家は巻き込む価値がある…と考える理屈はわかる。
だが、小笠原から見ても、学識以上に要領の良さが見えるこの人物が、いまの幕府には、役立ちそうだと見てとれた。
そして、この勝麟太郎もまた、小笠原にとって大切な上様である将軍・家茂を盛り立てるためには、“同志”と見て良さそうだ。
――ここで勝は、少し怪訝な顔をした。
「一つ、腑(ふ)に落ちねえところがあるんです。」
「何だ、申してみよ。」
勝には人を惹きつける話術があるようだ。多忙な小笠原も興味は尽きない。
「お公家さまが攘夷と仰せはともかく、なんで実際に見てえと思ったかです。」
「何故だろうな。京の取り巻きにも、海の向こうを解する者がおったか。」
「薩摩とは関わりねぇでしょうし、長州、あるいは土佐…」
「諸国から京に集うのは、考え無しに異国打払いを叫ぶ者が多いと聞くぞ。」
「…まさか、佐賀ってことは無えでしょうな。」
勝麟太郎は、長崎で海軍伝習に参加していた時期がある。執念を感じるほどに学ぶ佐賀藩士の一団を見ていた。
〔参照(中盤):
――小笠原は、次第に遠く感じ始めた、西の方を見遣る。
「佐賀か。わが唐津の隣国ではあるが、あの国は良くわからぬ。」
「肥前老侯(鍋島直正)、どう動くか。油断ならねえです。」
「佐賀は力のある国だ…ただ、思惑がわからんのだ。」
もちろん、幕府の政治の中枢にいた小笠原長行も、海軍の発展に賭けていた勝海舟(麟太郎)も、ある佐賀藩士が脱藩して京にいた事など知る由もない。
ましてや、有力公家・姉小路公知のもとで、活動した者がいる事など伝わるはずもないのだ。
〔参照:
文久二年秋。のち明治の世に勝海舟が“驚いた傑物”と評したという江藤新平は、京より戻って、佐賀城下の片隅に籠もっていたのである。
(続く)