2022年11月10日
連続ブログ小説「聖地の剣」(27)同じ空を見ていた
こんばんは。
長々とお送りしました夏前の旅日記のシリーズも最終回。『さがファンブログ』を始めて、約2年半の時点でようやく実行できた佐賀への“帰藩”。
ブログ開始前の時期を書いた前作「旅立の剣」に比べ、様々な事を考えながら回りました。記事にする段階でも色々考えるので、どんどん構成は複雑に。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(40)いつの日か佐賀で〕
掲載している間も何かと忙しく、“本編”の下書きを溜めるための時間稼ぎにはなりませんでしたが、何とか完結にはたどり着くことができたようです。
――夕刻。去りがたき、佐賀の街。
そもそも、私の日常には何故ここまで余力が無いのかと、また自問自答する。特殊な才覚でもなければ、まともに生活するには働かねばならない。
私の能力では、手を抜いても仕事が回るなどと都合の良いことは無い。でも、真面目にコツコツと頑張るのが、“佐賀の者”らしくはないかと考え直してみる。

――それに、私が仰ぎ見る“佐賀の先輩”たちは、
皆、すごく“働き者”ばかりではないか。
そして、無理をし過ぎる“先輩”の姿も、歴史上に見る。真っ直ぐな生き方は、人としては魅力的なのだが、もう少し自分を大事にしてほしかった。
対して、それなりにしか頑張っていない私だが、それでも疲労は身体に蓄積し、年を経るごとに下を向くことも増えてきた。
――この帰り道でも、まだ佐賀の空は見られる。
一日よく雨は降っていたが、不自然なぐらいタイミングの良い天気で、傘を開く必要も無い行程だった。
ずっと地元に住む人に共感が得られるかはわからないが、私は佐賀の空を「手が届くほどに近く」感じている。
この日の夕刻は、空は随分と赤くまばゆい、それでいて心が穏やかになる、幻想的な景色だった。

――再び、“空の遠い街”へと帰っていく。
ところで、『さがファンブログ』を始めてから、地元の皆様のブログの影響か、私はいま住む街でも、空を見上げることが増えた。
やはり佐賀に住む人は、バルーンの時に限らず、空を、風を、雲を…身近に感じているのではないか。
一方で、いつもは遠く離れた地から、西方の空を望む私だが、おそらく余所に住む者にしか見えてこない、故郷の真価もある。
――「望郷の想い」というのは、歳月が重なるごとに高まるとも聞く。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という言葉に納得する部分もあるし、いま居る場所で幸せを追求する方が、きっと効率は良い。
ただ、自分の人生が始まった場所に誇りを持って生きられるのは、素敵な事ではないか。それは、日々の生き方そのものを強く変えてくれる気がしている。
先ほどの言葉には続きがあり、ふるさとは「遠きにありて」思い、そして「悲しくうたふ」ものだそうだ。
少なくとも、今の私には故郷・佐賀は「悲しくうたふ」ような場所ではないようだ。折れかかった心も、立ち直らせるほどに「気持ちを熱く」してくれる場所らしい。

――この夕方。私は、同じ空を見ていた。
幕末・明治期に活躍した“先輩たち”も見ていたであろう、同じ佐賀の空を。
そして、この日は、今の佐賀を生きる皆様とも同じ空の下に居られた。細々とだが“地域ブログ“の書き手の1人となっている、私はそんな感覚を持った。
私の想いは、もはや人生の残り火なのか、これから光る灯火となり得るのかはわからない。その時は、ただ赤く美しい、夕刻の佐賀の空を見上げていた。
〔連続ブログ小説「聖地の剣」 完〕
長々とお送りしました夏前の旅日記のシリーズも最終回。『さがファンブログ』を始めて、約2年半の時点でようやく実行できた佐賀への“帰藩”。
ブログ開始前の時期を書いた前作「旅立の剣」に比べ、様々な事を考えながら回りました。記事にする段階でも色々考えるので、どんどん構成は複雑に。
〔参照:
掲載している間も何かと忙しく、“本編”の下書きを溜めるための時間稼ぎにはなりませんでしたが、何とか完結にはたどり着くことができたようです。
――夕刻。去りがたき、佐賀の街。
そもそも、私の日常には何故ここまで余力が無いのかと、また自問自答する。特殊な才覚でもなければ、まともに生活するには働かねばならない。
私の能力では、手を抜いても仕事が回るなどと都合の良いことは無い。でも、真面目にコツコツと頑張るのが、“佐賀の者”らしくはないかと考え直してみる。
――それに、私が仰ぎ見る“佐賀の先輩”たちは、
皆、すごく“働き者”ばかりではないか。
そして、無理をし過ぎる“先輩”の姿も、歴史上に見る。真っ直ぐな生き方は、人としては魅力的なのだが、もう少し自分を大事にしてほしかった。
対して、それなりにしか頑張っていない私だが、それでも疲労は身体に蓄積し、年を経るごとに下を向くことも増えてきた。
――この帰り道でも、まだ佐賀の空は見られる。
一日よく雨は降っていたが、不自然なぐらいタイミングの良い天気で、傘を開く必要も無い行程だった。
ずっと地元に住む人に共感が得られるかはわからないが、私は佐賀の空を「手が届くほどに近く」感じている。
この日の夕刻は、空は随分と赤くまばゆい、それでいて心が穏やかになる、幻想的な景色だった。
――再び、“空の遠い街”へと帰っていく。
ところで、『さがファンブログ』を始めてから、地元の皆様のブログの影響か、私はいま住む街でも、空を見上げることが増えた。
やはり佐賀に住む人は、バルーンの時に限らず、空を、風を、雲を…身近に感じているのではないか。
一方で、いつもは遠く離れた地から、西方の空を望む私だが、おそらく余所に住む者にしか見えてこない、故郷の真価もある。
――「望郷の想い」というのは、歳月が重なるごとに高まるとも聞く。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という言葉に納得する部分もあるし、いま居る場所で幸せを追求する方が、きっと効率は良い。
ただ、自分の人生が始まった場所に誇りを持って生きられるのは、素敵な事ではないか。それは、日々の生き方そのものを強く変えてくれる気がしている。
先ほどの言葉には続きがあり、ふるさとは「遠きにありて」思い、そして「悲しくうたふ」ものだそうだ。
少なくとも、今の私には故郷・佐賀は「悲しくうたふ」ような場所ではないようだ。折れかかった心も、立ち直らせるほどに「気持ちを熱く」してくれる場所らしい。
――この夕方。私は、同じ空を見ていた。
幕末・明治期に活躍した“先輩たち”も見ていたであろう、同じ佐賀の空を。
そして、この日は、今の佐賀を生きる皆様とも同じ空の下に居られた。細々とだが“地域ブログ“の書き手の1人となっている、私はそんな感覚を持った。
私の想いは、もはや人生の残り火なのか、これから光る灯火となり得るのかはわからない。その時は、ただ赤く美しい、夕刻の佐賀の空を見上げていた。
〔連続ブログ小説「聖地の剣」 完〕
Posted by SR at 22:13 | Comments(0) | 連続ブログ小説「聖地の剣」
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