2023年08月26日
「迷った時は、原点に戻る。」
こんばんは。
全国で続いた体温を超えるような暑さ。もともと夏に強い方ではないのですが、今年は異常だと聞けば、そうだろうなと思います。
前回の記事で「冬の話が書きづらい…」とつぶやいたところです。暑さで、朦朧(もうろう)とするような厳しい夏でした。
進むのに迷いがある時は“原点”に戻って、頭を冷やしてみることにします。

――かれこれ、5年ほど前までは、こうではなかった。
今でこそ、遠く望む故郷・佐賀への愛が、あふれ出んばかりの日々。
手堅く「丸ぼうろ」を調達し、佐賀の果実酢を入手、嬉野の和紅茶にも進出、伊万里の梨や、「一口サイズ」の小城羊羹の確保も常々ねらっています。
…なのですが、正直なところ、あまり佐賀県出身者であることを前面に出して、この人生を歩んできたわけではありません。
出身地を聞かれて、最初から「佐賀です」とこたえると、「さが…?」と疑問符を発する方々と出会うことも多かった。

――こうして、私は出身地への質問があれば…
まず「九州の方です」と柔らかく様子を伺う事にしました。「九州のどこ?」という相手の反応があった場合に限り、「佐賀県です」と続けます。
〔参照(中盤):「発心の剣」〕
ここに至ってきょとんとされてしまった時には「福岡の西です」「長崎の東です」「熊本の北です」と説明を畳みかける…と、次の一手にも抜かりはありません。
全力は尽くしました。これでも、わかってもらえねば…おそらく、その方の記憶にある“九州の地図”には、きっと、いまだに「佐賀県」が載っていないのです。
たしかに明治時代の数年間には、「佐賀県が地図から消えていた…」そんな時期もありました…この場合、ひとまず説明をあきらめます。
〔参照(中盤):「佐賀を取り戻す話」〕

――そう、「佐賀を語る」ことは、ある意味で“戦い”だった…
私自身も、幕末の「薩長土肥」なんて言うけれども、肥前の佐賀藩は日和見(ひよりみ)で勝った方に付いただけでは…などと浅い理解をしていたのです。
佐賀の歴史に触れ始めたのは、4年ほど前でした。少し考えれば、佐賀藩が不可欠な存在でもない限り、出遅れた分は徹底的に冷遇されるはず。
当時の私には、ほとんど“未知”の世界だった、佐賀城の本丸歴史館の展示。実は“トップランナー”だった佐賀を裏付ける情報にあふれていました。
「知らなかった事に自ら学んで気付けば、生き方を変えることもある」という、非常に良い見本でした。

ここから、私は「勝った方に付いたのではなく、もし佐賀藩が加わらなければ、そもそも新時代が立ち行かなかったのでは…?」と、考えを改めます。
――調べ始めて知る“徳川政権”による近代化と、佐賀藩の役回り。
“敗者”となった幕府による近代化の軌跡は語られて来なかったでしょうから、これが佐賀藩の立ち位置をわかりづらくする一因なのかもしれません。
佐賀は“幕末の夜明け前”からずっと走り続けて、明治期の前段にあった徳川政権による、日本の近代化の時代を先導してきたのではないか。
詰まるところ、政治の主導権争いの勝者がどちらであろうが、佐賀の役割は変わらなかったのでは…という仮説です。

韮山反射炉、品川台場の技術や装備のサポートから、東京大学の源流となる種痘所(医学)、蕃書調所(洋学)などにも、佐賀の人物が深く関わります。
幕府からの発注で、鉄製大砲のみならず、蒸気機関まで製作しており、もはや日本の中の“西洋”と言ってよいような存在でした。
まずは幕府と近代化を進めて、次の時代に明治新政府の基礎づくり…調べるほどに、佐賀藩と、その関係者たちの姿が色濃く見えてきます。

――よし、ここは誇ってよいはず。
…とはいえ、歴史的業績と、現在の知名度は別のもの。今でも出身地を説明するときには、きっと「九州の方です」と始めてしまうのではないかと思います。
ただ、この4年近く、私も漫然と時を過ごしてきたわけではありません。続く言葉で、少し前よりは胸をはって「佐賀県です」と言えることでしょう。
目の前に伝えたい相手がいて、佐賀の魅力を語れば、それがしっかりと届く…
“大河ドラマ”は遠大な目標ではありますが、私個人でできることは、その一歩からなのかもしれません。

――秋風が吹く頃には、何とか“本編”に戻りたいところ。
ここからの話では、佐賀の名君・鍋島直正(閑叟)公が、なぜ「大陰謀家」だとか「“肥前の妖怪”」などと語られてきたかも、意識しながら綴りたい。
「実は、こうだったのではないか」という視点を大事に、あまり従来のイメージにとらわれずに書き進めたい…
それだけでなく、佐賀藩じゃない佐賀県(唐津藩、対馬藩田代領)、佐賀県じゃない佐賀藩(諫早領など)に触れたい気持ちもあります。
手間はかかっても、なるべく既存の小説などに頼らないのはそのためです。もう少し涼しくなれば、余力も出てきて“再スタート”できるはず…と思っています。
○参考記事
・「ロード・オブ・サガ ~三つの“佐賀”~(前編)」
・「ロード・オブ・サガ ~三つの“佐賀”~(後編)」
全国で続いた体温を超えるような暑さ。もともと夏に強い方ではないのですが、今年は異常だと聞けば、そうだろうなと思います。
前回の記事で「冬の話が書きづらい…」とつぶやいたところです。暑さで、朦朧(もうろう)とするような厳しい夏でした。
進むのに迷いがある時は“原点”に戻って、頭を冷やしてみることにします。
――かれこれ、5年ほど前までは、こうではなかった。
今でこそ、遠く望む故郷・佐賀への愛が、あふれ出んばかりの日々。
手堅く「丸ぼうろ」を調達し、佐賀の果実酢を入手、嬉野の和紅茶にも進出、伊万里の梨や、「一口サイズ」の小城羊羹の確保も常々ねらっています。
…なのですが、正直なところ、あまり佐賀県出身者であることを前面に出して、この人生を歩んできたわけではありません。
出身地を聞かれて、最初から「佐賀です」とこたえると、「さが…?」と疑問符を発する方々と出会うことも多かった。
――こうして、私は出身地への質問があれば…
まず「九州の方です」と柔らかく様子を伺う事にしました。「九州のどこ?」という相手の反応があった場合に限り、「佐賀県です」と続けます。
〔参照(中盤):
ここに至ってきょとんとされてしまった時には「福岡の西です」「長崎の東です」「熊本の北です」と説明を畳みかける…と、次の一手にも抜かりはありません。
全力は尽くしました。これでも、わかってもらえねば…おそらく、その方の記憶にある“九州の地図”には、きっと、いまだに「佐賀県」が載っていないのです。
たしかに明治時代の数年間には、「佐賀県が地図から消えていた…」そんな時期もありました…この場合、ひとまず説明をあきらめます。
〔参照(中盤):
――そう、「佐賀を語る」ことは、ある意味で“戦い”だった…
私自身も、幕末の「薩長土肥」なんて言うけれども、肥前の佐賀藩は日和見(ひよりみ)で勝った方に付いただけでは…などと浅い理解をしていたのです。
佐賀の歴史に触れ始めたのは、4年ほど前でした。少し考えれば、佐賀藩が不可欠な存在でもない限り、出遅れた分は徹底的に冷遇されるはず。
当時の私には、ほとんど“未知”の世界だった、佐賀城の本丸歴史館の展示。実は“トップランナー”だった佐賀を裏付ける情報にあふれていました。
「知らなかった事に自ら学んで気付けば、生き方を変えることもある」という、非常に良い見本でした。
ここから、私は「勝った方に付いたのではなく、もし佐賀藩が加わらなければ、そもそも新時代が立ち行かなかったのでは…?」と、考えを改めます。
――調べ始めて知る“徳川政権”による近代化と、佐賀藩の役回り。
“敗者”となった幕府による近代化の軌跡は語られて来なかったでしょうから、これが佐賀藩の立ち位置をわかりづらくする一因なのかもしれません。
佐賀は“幕末の夜明け前”からずっと走り続けて、明治期の前段にあった徳川政権による、日本の近代化の時代を先導してきたのではないか。
詰まるところ、政治の主導権争いの勝者がどちらであろうが、佐賀の役割は変わらなかったのでは…という仮説です。

韮山反射炉、品川台場の技術や装備のサポートから、東京大学の源流となる種痘所(医学)、蕃書調所(洋学)などにも、佐賀の人物が深く関わります。
幕府からの発注で、鉄製大砲のみならず、蒸気機関まで製作しており、もはや日本の中の“西洋”と言ってよいような存在でした。
まずは幕府と近代化を進めて、次の時代に明治新政府の基礎づくり…調べるほどに、佐賀藩と、その関係者たちの姿が色濃く見えてきます。
――よし、ここは誇ってよいはず。
…とはいえ、歴史的業績と、現在の知名度は別のもの。今でも出身地を説明するときには、きっと「九州の方です」と始めてしまうのではないかと思います。
ただ、この4年近く、私も漫然と時を過ごしてきたわけではありません。続く言葉で、少し前よりは胸をはって「佐賀県です」と言えることでしょう。
目の前に伝えたい相手がいて、佐賀の魅力を語れば、それがしっかりと届く…
“大河ドラマ”は遠大な目標ではありますが、私個人でできることは、その一歩からなのかもしれません。
――秋風が吹く頃には、何とか“本編”に戻りたいところ。
ここからの話では、佐賀の名君・鍋島直正(閑叟)公が、なぜ「大陰謀家」だとか「“肥前の妖怪”」などと語られてきたかも、意識しながら綴りたい。
「実は、こうだったのではないか」という視点を大事に、あまり従来のイメージにとらわれずに書き進めたい…
それだけでなく、佐賀藩じゃない佐賀県(唐津藩、対馬藩田代領)、佐賀県じゃない佐賀藩(諫早領など)に触れたい気持ちもあります。
手間はかかっても、なるべく既存の小説などに頼らないのはそのためです。もう少し涼しくなれば、余力も出てきて“再スタート”できるはず…と思っています。
○参考記事
・
・
2023年08月09日
「“冬の話”が、書きづらい…」
こんばんは。
少し前には「10年に一度の猛暑」という声が聞こえていました。いまや「100年に一度」いやいや「150年に一度…」などという話まで出る、今夏の猛暑。
さらに、Uターンなどと異例の行動を取ってきた、台風6号が九州を通過中で、やっぱり大雨が心配。
そんな中、夏真っ盛りの高校野球・甲子園大会では初出場の鳥栖工業高校が接戦を制して勝利…これは嬉しい。いろいろと気持ちも忙しい、夏の日々です。

――ところで、私の“執筆”の近況ですが、
3月頃から年度末をものともせず、第19話を書き始めましたが、季節感が真逆の“冬の門司港”の場面で、一時休止しています。
〔参照:第19話「閑叟上洛」⑲(“門司”からの船出まで)〕
ところで、今までも“本編”を休止することはあったものの、何がしか間をつなぐ記事は入れられていました。
当ブログを開始して以来、最も、投稿間隔が空いている状態となっています。皆様に語るべき話でも無いですが、スランプの到来なのかもしれません。

――これは、要因を分析せねばなりません。
…というわけで、盆休みが目前という方も多いであろう、この時期にあえて愚痴を語ってみます。
そもそも盆の法事もある中で、台風が来ているだの、それでも身内が帰省を予定しているだの…とかく佐賀に住む皆様には忙しい時期です。
そんな皆様の息抜きになるかは、さておき…
「何だか、都会生活に疲れているわりに、なかなか帰郷できない親戚の子」の一人語りだと思って、温かい気持ちでご覧いただければ幸いです。
いま、ざっと思い付くことを、箇条書きにて記してみました。

――①「コロナ禍」による自粛の終了。
私は、新型コロナに対する警戒感が比較的強かった方だと思います。もちろん、仕事に穴を開けられない…という意識はありました。
また「都市圏から、佐賀に感染を持ち込むなど言語道断!」みたいな勢いで、帰省も自粛しました。
今年5月から、名実ともに“自粛”生活が不要となり、気抜けしたところがあるかもしれません。人づきあいも控えていたので、多少の反動も来ています。
この“自粛”が意外と『幕末佐賀藩の大河ドラマ』のイメージに集中するには、良い期間だったとは皮肉なことです。

――②“本編”自体の難易度のアップ。
幾度か書いているのですが、第1部の構成はかなりシンプルでした。
「近代化に突き進む佐賀藩」と「異国への対応に苦慮する幕府」を軸に書き進めればよく、佐賀県で入手した資料も活用しやすかったのです。
ずっとお読みいただいている方には伝わると思いますが、第2部はかなり構成が複雑になっています。
朝廷や公家の動向や、台頭する各地の雄藩や志士たち…「佐賀藩士と幕府関係者と、西洋列強だけを、書いていればよい」わけではなさそうです。
それだけ情報量が増えてしまうので、各話あたりの投稿回数も、記事あたりの文字数も当初より、かなり多くなりました。
もっと“文才”があれば、押し切れるかもしれませんが、私の力量だと書いていて、話をまとめるのが格段に難しくなった…と実感します。

――③とにかく、佐賀の遠かごた…
当ブログを始めてから、私が実際に佐賀に滞在できた期間ときたら、たしか6時間程度に限られます。
「コロナ禍」が一番大きかったのですが、仕事以外にも次々に舞い込む諸問題があり、まとまった時間を取ることができず、気力・体力の低下も著しい…。
一時、「佐賀は出られるけど、入られへん」という漫才が話題になりましたが、妙な説得力を感じました。
〔参照:「出られるが入れない、SAGA」〕
「佐賀を愛してやまない人は、地元から遠く離れるべきではない」という言葉を残しておきたいと思います。

――④そして、「大河ドラマ」も遠い…
私が『幕末佐賀藩の大河ドラマ』の当初目標に掲げていた、2024年大河ドラマは、源氏物語の作者が主人公、平安絵巻の『光る君へ』に。
〔参照(序盤):「どうする、“配役”」〕
2025年大河ドラマは、激動の幕末の少し前。まだまだ天下泰平だった頃の、江戸後期が舞台の『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』に決まりました。
〔参照(中盤):「GW特別企画・めざせ2026年」〕
幕末期の大河ドラマに、他の題材が決まるよりはダメージは少ないのですが、発表のたびに「また、佐賀じゃなかとね…」と一応は堪(こた)えるのです。

――今回は、暑い夏にまったく涼しげでない記事になりました。
本来なら、盆も何かと忙しい皆様に、伊万里の風鈴が涼を運ぶがごとく、清冽な文章をお届けしたいのですが、まだ、私はその器ではないようです。
また、本編を再開したら“冬の話”を書かねばならないので、少し早めに“秋の気配”を感じたい…そんな気持ちの真夏のつぶやきでした。
少し前には「10年に一度の猛暑」という声が聞こえていました。いまや「100年に一度」いやいや「150年に一度…」などという話まで出る、今夏の猛暑。
さらに、Uターンなどと異例の行動を取ってきた、台風6号が九州を通過中で、やっぱり大雨が心配。
そんな中、夏真っ盛りの高校野球・甲子園大会では初出場の鳥栖工業高校が接戦を制して勝利…これは嬉しい。いろいろと気持ちも忙しい、夏の日々です。
――ところで、私の“執筆”の近況ですが、
3月頃から年度末をものともせず、第19話を書き始めましたが、季節感が真逆の“冬の門司港”の場面で、一時休止しています。
〔参照:
ところで、今までも“本編”を休止することはあったものの、何がしか間をつなぐ記事は入れられていました。
当ブログを開始して以来、最も、投稿間隔が空いている状態となっています。皆様に語るべき話でも無いですが、スランプの到来なのかもしれません。
――これは、要因を分析せねばなりません。
…というわけで、盆休みが目前という方も多いであろう、この時期にあえて愚痴を語ってみます。
そもそも盆の法事もある中で、台風が来ているだの、それでも身内が帰省を予定しているだの…とかく佐賀に住む皆様には忙しい時期です。
そんな皆様の息抜きになるかは、さておき…
「何だか、都会生活に疲れているわりに、なかなか帰郷できない親戚の子」の一人語りだと思って、温かい気持ちでご覧いただければ幸いです。
いま、ざっと思い付くことを、箇条書きにて記してみました。
――①「コロナ禍」による自粛の終了。
私は、新型コロナに対する警戒感が比較的強かった方だと思います。もちろん、仕事に穴を開けられない…という意識はありました。
また「都市圏から、佐賀に感染を持ち込むなど言語道断!」みたいな勢いで、帰省も自粛しました。
今年5月から、名実ともに“自粛”生活が不要となり、気抜けしたところがあるかもしれません。人づきあいも控えていたので、多少の反動も来ています。
この“自粛”が意外と『幕末佐賀藩の大河ドラマ』のイメージに集中するには、良い期間だったとは皮肉なことです。
――②“本編”自体の難易度のアップ。
幾度か書いているのですが、第1部の構成はかなりシンプルでした。
「近代化に突き進む佐賀藩」と「異国への対応に苦慮する幕府」を軸に書き進めればよく、佐賀県で入手した資料も活用しやすかったのです。
ずっとお読みいただいている方には伝わると思いますが、第2部はかなり構成が複雑になっています。
朝廷や公家の動向や、台頭する各地の雄藩や志士たち…「佐賀藩士と幕府関係者と、西洋列強だけを、書いていればよい」わけではなさそうです。
それだけ情報量が増えてしまうので、各話あたりの投稿回数も、記事あたりの文字数も当初より、かなり多くなりました。
もっと“文才”があれば、押し切れるかもしれませんが、私の力量だと書いていて、話をまとめるのが格段に難しくなった…と実感します。
――③とにかく、佐賀の遠かごた…
当ブログを始めてから、私が実際に佐賀に滞在できた期間ときたら、たしか6時間程度に限られます。
「コロナ禍」が一番大きかったのですが、仕事以外にも次々に舞い込む諸問題があり、まとまった時間を取ることができず、気力・体力の低下も著しい…。
一時、「佐賀は出られるけど、入られへん」という漫才が話題になりましたが、妙な説得力を感じました。
〔参照:
「佐賀を愛してやまない人は、地元から遠く離れるべきではない」という言葉を残しておきたいと思います。
――④そして、「大河ドラマ」も遠い…
私が『幕末佐賀藩の大河ドラマ』の当初目標に掲げていた、2024年大河ドラマは、源氏物語の作者が主人公、平安絵巻の『光る君へ』に。
〔参照(序盤):
2025年大河ドラマは、激動の幕末の少し前。まだまだ天下泰平だった頃の、江戸後期が舞台の『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』に決まりました。
〔参照(中盤):
幕末期の大河ドラマに、他の題材が決まるよりはダメージは少ないのですが、発表のたびに「また、佐賀じゃなかとね…」と一応は堪(こた)えるのです。
――今回は、暑い夏にまったく涼しげでない記事になりました。
本来なら、盆も何かと忙しい皆様に、伊万里の風鈴が涼を運ぶがごとく、清冽な文章をお届けしたいのですが、まだ、私はその器ではないようです。
また、本編を再開したら“冬の話”を書かねばならないので、少し早めに“秋の気配”を感じたい…そんな気持ちの真夏のつぶやきでした。