2024年03月31日
「年度替わりの小休止と、お知らせ」
こんばんは。最近では、“本編”・第20話を淡々と続けています。
明治期に欧米に渡った岩倉使節団の副使の1人、もっと知名度のあって良い佐賀県武雄市の偉人・山口尚芳を、私なりの解釈で物語に描いています。
よく人物像をご存知の地元の方などがいらっしゃれば、「にゃ~、山口尚芳は、そがん人じゃなかとよ!」という、ご意見もあるかもしれません。
ただ、私は、スタイリッシュな“紳士”だけれども、武雄領主・鍋島茂義公ゆずりの“西洋かぶれ”で風変わりに熱い、山口尚芳(範蔵)が見てみたいのです。

――有名な使節団の集合写真以外で、
山口尚芳の写真を資料で拝見した限りでは、結構、“よか男”じゃないかなと思いました。
それと、旅先の海外から大隈重信に送る手紙の内容が、結構気取った感じに思えて、「若い時はこんな感じかな?」というキャラクター設定になりました。
この設定の山口尚芳にピッタリな俳優さんを思い付く方は、そのイメージで、“本編”の文章も、お読みいただければ幸いです。

――さて、本日はもう1つ語りたいことがあります。
その明治初期の海外使節団の中心人物として知られる公家の岩倉具視と、“佐賀の七賢人”の1人・佐野常民。
先日、NHKの歴史番組『歴史探偵』で、この2人が登場する回がありましたが、私は番組の前半を見逃していました。
再放送予定を見つけましたので、ご興味のある方は、ぜひ視聴しましょう。しかも前半には、佐賀で取材された内容もあるそうですよ。
<再放送予定>※NHKサイトで見かけました
NHK総合 4月2日(火)午後11:50~午前0:35
『歴史探偵 誕生!「古都」京都』

幕末から明治へ時代が移り変わる中で、荒廃を極めた京都。復興のの切り札は近代日本のありかたを模索する者たちが見つけた「歴史と伝統」だった。古都・京都誕生の軌跡を追う。
…という掲載内容でした。深夜なのが少々残念なのですが、もし、私に共感できそうな方ならば録画してでも視ましょう。
最近、“本編”では佐野常民の登場場面をほとんど描けておらず、反省することしきりなのですが、この番組は楽しみにしています。
明治期に欧米に渡った岩倉使節団の副使の1人、もっと知名度のあって良い佐賀県武雄市の偉人・山口尚芳を、私なりの解釈で物語に描いています。
よく人物像をご存知の地元の方などがいらっしゃれば、「にゃ~、山口尚芳は、そがん人じゃなかとよ!」という、ご意見もあるかもしれません。
ただ、私は、スタイリッシュな“紳士”だけれども、武雄領主・鍋島茂義公ゆずりの“西洋かぶれ”で風変わりに熱い、山口尚芳(範蔵)が見てみたいのです。
――有名な使節団の集合写真以外で、
山口尚芳の写真を資料で拝見した限りでは、結構、“よか男”じゃないかなと思いました。
それと、旅先の海外から大隈重信に送る手紙の内容が、結構気取った感じに思えて、「若い時はこんな感じかな?」というキャラクター設定になりました。
この設定の山口尚芳にピッタリな俳優さんを思い付く方は、そのイメージで、“本編”の文章も、お読みいただければ幸いです。
――さて、本日はもう1つ語りたいことがあります。
その明治初期の海外使節団の中心人物として知られる公家の岩倉具視と、“佐賀の七賢人”の1人・佐野常民。
先日、NHKの歴史番組『歴史探偵』で、この2人が登場する回がありましたが、私は番組の前半を見逃していました。
再放送予定を見つけましたので、ご興味のある方は、ぜひ視聴しましょう。しかも前半には、佐賀で取材された内容もあるそうですよ。
<再放送予定>※NHKサイトで見かけました
NHK総合 4月2日(火)午後11:50~午前0:35
『歴史探偵 誕生!「古都」京都』
幕末から明治へ時代が移り変わる中で、荒廃を極めた京都。復興のの切り札は近代日本のありかたを模索する者たちが見つけた「歴史と伝統」だった。古都・京都誕生の軌跡を追う。
…という掲載内容でした。深夜なのが少々残念なのですが、もし、私に共感できそうな方ならば録画してでも視ましょう。
最近、“本編”では佐野常民の登場場面をほとんど描けておらず、反省することしきりなのですが、この番組は楽しみにしています。
2024年03月24日
第20話「長崎方控」④(肥前浜の“酔客”)
こんばんは。
前回ですっかり意気投合した、大隈八太郎(重信)と山口範蔵(尚芳)。
大隈は西暦でいえば1838年生まれ、山口は1歳年下のようですから、この頃は2人とも、まだ20代前半の若者ということになります。

多良海道で村娘たちの歌声につられて、寄り道が過ぎたのか、肥前浜の宿場(現在の佐賀県鹿島市)近くで、日暮れを迎えてしまったようです。
――佐賀藩では、鹿島の支藩が治める一帯の宿場町…の近く。
「にゃ~、日の暮れおったばい。」
「いささか、話し込みが過ぎましたね。」
すっかり、秋の陽は水平線に潜っており、すでに月が姿を見せている。大隈と山口は暗くなった道中で、顔を見合わせる。

「大隈さん。私は、まだ話し足らんとです。」
「そいは、おいも同じばい。どうね、肥前浜の宿場でも少し飲まんね。」
「よかですね!大いに国事を論じましょう。」
「よか。今日は、愉快たい。」
――肥前浜の宿場。賑わう旅籠(はたご)の2階にて。
近隣の部屋から、わいわいと、酒を飲んでいる者たちの声が聞こえる。
「おお、美味か酒とよ!染みるばい。」
「この辺りのは、佐賀の酒でも上物ばい。味わって飲まんね!」
街道を行き交う人々の憩いとして、絶賛される地元の銘酒。米も水も豊かな、佐賀。皆、上機嫌で、当地の夜に酔いしれている様子だ。

――窓辺からは、秋の月が涼やかな姿を見せている。
「では、大隈さん。さっそく我らも、肥前浜の酒を少々いただきますか。」
「よかね~、山口さん。」
「…ですが、我らの話は、勤王の志高いもの。酔いも程よかところで。」
「…よかごた。」
この山口範蔵という男。気障(きざ)かと思えば、変に真面目なところがある。

――賑わう旅籠の中、山口の妙に慎重な態度。
大隈も、ひそひそ話を余儀なくされている。
「そいぎ、江藤さんは、京で公家とも関わっとったとよ。」
「そがんですか。その江藤さんという方は、国を抜けて京に!」
ところが、山口の方から、急に大きな声を出す。
「…“秘密の話”ば、しとるんじゃなかとね!」
大隈が、呆れて制止する。さすがに「佐賀からの脱藩」の話を大声で復唱されては、まずい。

「…失礼。この山口範蔵、いたく感銘を受けました。」
勤王の話をできるのは、大隈も喜んでいる。だが、西洋にかぶれているせいなのか。山口の反応は、わりと大げさなのだ。
山口は、あたかも“佐賀の風”のように、爽やかに言い放った。
「大隈さん。続けてくれんですか。」
――山口の真剣なまなざし。“勤王”を志すというのは本気らしい。
「よか。そん江藤さんが、佐賀に帰ってきてしまったとよ。」
「なしてですか!せっかく、京の貴き方々とも、お会いできっとのに!」
「そうたい。戻ってきたのは、よかばってん。命も危うか。」
「そんお人は、一度、国を抜けてますからね。」

当時、佐賀では“脱藩”は重罪であり、江藤の志が認められても、名誉だけは保っての切腹を命ぜられる可能性も残る。
「志ば持って、京で気張っとたのに、勿体(もったい)なか。」
大隈が残念がる。
「そがんです。江藤さん、なして戻ってきたとですか!」
江藤をよく知らないはずの山口までが、酔いに任せて残念がる。
――大隈は、勢いづけに肥前の美酒をあおった。
もう、山口の反応が目立つのを気にしていては疲れる。存分に語ろう。
「あーうまか酒ばい。山口さんね、おいも、そがん思うとよ。」
「…ですよね。大隈さん。」
このように、大隈と山口の話で「なぜ、佐賀に帰ってきた」と話題に挙がった江藤新平は、佐賀城下で謹慎中だ。
江藤は、自身の連れ戻しが実父にも命ぜられ、京の都に居続けるのも難しく、大殿・鍋島直正に情勢を伝えるためにと、命懸けで帰藩していた。

だが、大隈ましてや武雄領の山口には、そこまでの仔細(しさい)は伝わっていない。ここでは、諸処の酒場に見られる“外野”の噂話のようなものだ。
「大隈さん、いや、八太郎さんと呼んだらよかですか。」
「山口さん…、あーもう“範蔵”とか言ってもよかね。」
酒が回ってきたのか、意気投合から馴れ合いの段階に移ってきている。これは、楽しい夜だ。
――恐るべき、“佐賀の酒”の力と言うべきか。
「ようし、範蔵!よう聞かんね。今から取っておきの話をするばい!」
「八太郎さん!待ってました。」
しかし、この辺りが盛り上がりの頂だった。ここで、急に大隈が“ひそひそ話”に戻ると宣言する。
「…ばってん、こん話は小声に戻るばい。実は、大殿が…」
「佐賀の大殿が…?小声でよかです。大声は慎みます。」

志は高いものの、振る舞いは常識人の山口範蔵である。
もちろん大殿・鍋島直正の動向は、佐賀藩の機密事項。京の都に向かう予定を知っているのだが、大隈も顔を寄せての密談とするつもりのようだ。
(続く)
前回ですっかり意気投合した、大隈八太郎(重信)と山口範蔵(尚芳)。
大隈は西暦でいえば1838年生まれ、山口は1歳年下のようですから、この頃は2人とも、まだ20代前半の若者ということになります。
多良海道で村娘たちの歌声につられて、寄り道が過ぎたのか、肥前浜の宿場(現在の佐賀県鹿島市)近くで、日暮れを迎えてしまったようです。
――佐賀藩では、鹿島の支藩が治める一帯の宿場町…の近く。
「にゃ~、日の暮れおったばい。」
「いささか、話し込みが過ぎましたね。」
すっかり、秋の陽は水平線に潜っており、すでに月が姿を見せている。大隈と山口は暗くなった道中で、顔を見合わせる。
「大隈さん。私は、まだ話し足らんとです。」
「そいは、おいも同じばい。どうね、肥前浜の宿場でも少し飲まんね。」
「よかですね!大いに国事を論じましょう。」
「よか。今日は、愉快たい。」
――肥前浜の宿場。賑わう旅籠(はたご)の2階にて。
近隣の部屋から、わいわいと、酒を飲んでいる者たちの声が聞こえる。
「おお、美味か酒とよ!染みるばい。」
「この辺りのは、佐賀の酒でも上物ばい。味わって飲まんね!」
街道を行き交う人々の憩いとして、絶賛される地元の銘酒。米も水も豊かな、佐賀。皆、上機嫌で、当地の夜に酔いしれている様子だ。
――窓辺からは、秋の月が涼やかな姿を見せている。
「では、大隈さん。さっそく我らも、肥前浜の酒を少々いただきますか。」
「よかね~、山口さん。」
「…ですが、我らの話は、勤王の志高いもの。酔いも程よかところで。」
「…よかごた。」
この山口範蔵という男。気障(きざ)かと思えば、変に真面目なところがある。
――賑わう旅籠の中、山口の妙に慎重な態度。
大隈も、ひそひそ話を余儀なくされている。
「そいぎ、江藤さんは、京で公家とも関わっとったとよ。」
「そがんですか。その江藤さんという方は、国を抜けて京に!」
ところが、山口の方から、急に大きな声を出す。
「…“秘密の話”ば、しとるんじゃなかとね!」
大隈が、呆れて制止する。さすがに「佐賀からの脱藩」の話を大声で復唱されては、まずい。
「…失礼。この山口範蔵、いたく感銘を受けました。」
勤王の話をできるのは、大隈も喜んでいる。だが、西洋にかぶれているせいなのか。山口の反応は、わりと大げさなのだ。
山口は、あたかも“佐賀の風”のように、爽やかに言い放った。
「大隈さん。続けてくれんですか。」
――山口の真剣なまなざし。“勤王”を志すというのは本気らしい。
「よか。そん江藤さんが、佐賀に帰ってきてしまったとよ。」
「なしてですか!せっかく、京の貴き方々とも、お会いできっとのに!」
「そうたい。戻ってきたのは、よかばってん。命も危うか。」
「そんお人は、一度、国を抜けてますからね。」
当時、佐賀では“脱藩”は重罪であり、江藤の志が認められても、名誉だけは保っての切腹を命ぜられる可能性も残る。
「志ば持って、京で気張っとたのに、勿体(もったい)なか。」
大隈が残念がる。
「そがんです。江藤さん、なして戻ってきたとですか!」
江藤をよく知らないはずの山口までが、酔いに任せて残念がる。
――大隈は、勢いづけに肥前の美酒をあおった。
もう、山口の反応が目立つのを気にしていては疲れる。存分に語ろう。
「あーうまか酒ばい。山口さんね、おいも、そがん思うとよ。」
「…ですよね。大隈さん。」
このように、大隈と山口の話で「なぜ、佐賀に帰ってきた」と話題に挙がった江藤新平は、佐賀城下で謹慎中だ。
江藤は、自身の連れ戻しが実父にも命ぜられ、京の都に居続けるのも難しく、大殿・鍋島直正に情勢を伝えるためにと、命懸けで帰藩していた。
だが、大隈ましてや武雄領の山口には、そこまでの仔細(しさい)は伝わっていない。ここでは、諸処の酒場に見られる“外野”の噂話のようなものだ。
「大隈さん、いや、八太郎さんと呼んだらよかですか。」
「山口さん…、あーもう“範蔵”とか言ってもよかね。」
酒が回ってきたのか、意気投合から馴れ合いの段階に移ってきている。これは、楽しい夜だ。
――恐るべき、“佐賀の酒”の力と言うべきか。
「ようし、範蔵!よう聞かんね。今から取っておきの話をするばい!」
「八太郎さん!待ってました。」
しかし、この辺りが盛り上がりの頂だった。ここで、急に大隈が“ひそひそ話”に戻ると宣言する。
「…ばってん、こん話は小声に戻るばい。実は、大殿が…」
「佐賀の大殿が…?小声でよかです。大声は慎みます。」
志は高いものの、振る舞いは常識人の山口範蔵である。
もちろん大殿・鍋島直正の動向は、佐賀藩の機密事項。京の都に向かう予定を知っているのだが、大隈も顔を寄せての密談とするつもりのようだ。
(続く)
2024年03月17日
第20話「長崎方控」③(西洋風の“紳士”)
こんばんは。
2026年大河ドラマが『豊臣兄弟!』に決定…とか、『光る君へ』の感想とか…先週の『歴史探偵』とか…いろいろと語りたくはありますが、“本編”を続けます。
さて、ここ数話で登場している山口範蔵(尚芳)は、佐賀藩の武雄領出身。
のち明治期には、岩倉使節団の副使・山口尚芳(ますか)として、歴史番組にも、時々出てくる集合写真で、その姿を見かけます。
〔参考(終盤):「武雄よ、共〔とも〕に…」〕※集合写真が一部映り込んでいます。

山口尚芳は、少年期より当地・武雄の自治領主で、極端な“西洋かぶれ”だった、鍋島茂義にその才覚を見いだされたそうです。
15歳頃から蘭学の修業のため、長崎に派遣され、まずオランダ語を身につけ、次に英語の習得にもあたりました。では、ここから本編に戻ります。
――気取った“西洋かぶれ”と見えていた、山口範蔵(尚芳)だったが…
この多良海道を並んで歩くうち、だんだんと山口は、“勤王の志士”としての顔を見せ始めた。
「そがんですね…、事が動くまでは、語らん方がよか事もありますけん。」
「おお、そうたい。賢くやらんば。」
わりと無鉄砲な大隈八太郎(重信)だが、今回は、山口が「もはや、幕府(徳川政権)は長続きしない」と発言したのを、諭(さと)す感じになっている。

――大隈も、藩の上層部に“儲け話”の提案をはじめてから、
知らず“空気を読む”ことを覚えたか、“実利を取る”考え方になってしまったのかもしれない。
「…ばってん、山口さんの言いたかことは良くわかるとよ。」
大隈は、うんうんと大きくうなずきながら、こう続けた。
当時の佐賀藩は、幕府の海外使節団に藩士たちを同行させ、イギリスやアメリカで通用する、英語の重要性を意識した時期だ。
大隈もアメリカへの派遣から帰った、小出千之助から体験談を聞いて、今までのオランダ語にこだわるよりも、英語の習得が必要だと思うようになった。

ところが、一緒に勉強するはずの面々に蒸気船での出動命令が出たり、他にも貿易調査の任務が入ったり…と集中して、学習する機会を逃している。
この山口範蔵(尚芳)なら、開国により新たな貿易相手も増えた長崎にいて、西洋に詳しく、幕府の通訳たちに混ざって英語も学んでいる。
その経歴で“勤王の志”もあるという、すごく珍しくて値打ちのある存在だ。
――ここで、友達になっておけば、極めて“お得”である。
そして、大隈が学生の時からよく取る手段は、「賢い奴に勉強させれば、大体のことは聞けばわかる」だ。ぜひとも山口とは、ここで仲良くなっておこう。
とりあえず、高い志への感銘を伝えて、親しくなるのが良さそうだ。
「山口さんね、」と、大隈が話を切り出した。
「大隈さん!“勤王の同志”に、ここで出会うとは嬉しかことです。」
意外や今度も、山口の方が前のめりだ。右手を差し伸べて、こう続けた。
「もう、我らは同志ですけん。“シェイクハンド”を願うても、よかですか。」

山口が提案をする。この儀礼は大隈も知っていた。西洋人は両者が手を握ることで、敵意の無いことを示すのだと。
「よかごた!」
大隈が応じ、山口とグッと手を握り合う。秋の陽が2人の長い影を作りだした。
「なんね…??」
さっきまで川向かいで歌っていた村娘の1人が不思議そうに、その一部始終を見つめていた。がっちり手を握り合う、若い男2人の様子が気になるようだ。
――山口は、その村娘の方を向いて「バァイ!」と、掌を挙げた。
軽く微笑む山口、これも英米での別れの表現か。視線が合った娘は、何だか照れているが、つられて掌を挙げて返した。気が合うのかもしれない。
「…よく、女子に色目を使う奴ばい。」
大隈八太郎、この日はなんとなく、山口範蔵に振り回されっぱなしである。

「西洋では品格があり、女性にも優しか男をジェントルマンと呼びよるです。」
「“全取る”(ぜんとる)とは…、強欲のごた響きたい。」
大隈が、ちょっと投げやりな感じで言い放った。
「いえ、ジェントルマンです。“紳士”とでも言ったらよかですかね。」
山口が、真面目な顔で言い返した。
「よか。わかったばい。」
大隈は、山口の振る舞いを見て思い立った。何だか、西洋を知るふうで格好良いではないか。今度、長崎に行ったときに、ぜんぶ真似してみようかと。

わからなかったところは、藩校に戻った時に、アメリカから帰った小出千之助に聞いておけば、抜かりは無いだろう。
――そして、山口は、武雄に帰っている目的を語り始めた。
「武雄のご隠居さまに、ご機嫌うかがいに。」
「そがん、親しか間柄になるとね。」
武雄の前領主・鍋島茂義は、佐賀藩の大殿・鍋島直正の義兄にあたり“兄貴分”と言ってよい存在。藩の上層部の中でも、特に重要な人物だ。
「ご隠居さまのおかげで、今があるとです。」
山口は語学をはじめ、西洋を学ぶことができるのは、当時の領主・鍋島茂義の恩恵だと力説する。
こうして山口は、茂義公の期待どおり、立派な“西洋かぶれ”に育ったようだ。
「このところ、武雄からの“ご注文”が滞りおるので、気になりまして。」

――大隈は最近、長崎で商人とも関わり始めている。
たしかに以前より武雄からは、西洋の品物の注文が多くあったと聞く。長崎で取り寄せる舶来の品には、高く売れる物も多い。
武雄の鍋島茂義も、齢(よわい)六十を越えるが、老いたからといって海外への興味を無くす気性でもない。
こうして、山口範蔵(尚芳)は、自分の大切な“恩人”が心配になり、一時、武雄へと様子を見に戻ることにしたようだった。
(続く)
◎参考記事(文中記載の人物名について補足)
○小出千之助
幕府の遣米使節に随行して、アメリカを見聞し、佐賀藩の「英学の祖」とも呼ばれるそうです。
本編での関連記事
・第16話「攘夷沸騰」⑪(“英学”の風が吹く)
・第16話「攘夷沸騰」⑫(“錬金術”と闘う男)
・第16話「攘夷沸騰」⑬(あの者にも英学を)
・第16話「攘夷沸騰」⑭(多良海道の往還)
その他の関連記事
・「夜明けを目指して」
2026年大河ドラマが『豊臣兄弟!』に決定…とか、『光る君へ』の感想とか…先週の『歴史探偵』とか…いろいろと語りたくはありますが、“本編”を続けます。
さて、ここ数話で登場している山口範蔵(尚芳)は、佐賀藩の武雄領出身。
のち明治期には、岩倉使節団の副使・山口尚芳(ますか)として、歴史番組にも、時々出てくる集合写真で、その姿を見かけます。
〔参考(終盤):
山口尚芳は、少年期より当地・武雄の自治領主で、極端な“西洋かぶれ”だった、鍋島茂義にその才覚を見いだされたそうです。
15歳頃から蘭学の修業のため、長崎に派遣され、まずオランダ語を身につけ、次に英語の習得にもあたりました。では、ここから本編に戻ります。
――気取った“西洋かぶれ”と見えていた、山口範蔵(尚芳)だったが…
この多良海道を並んで歩くうち、だんだんと山口は、“勤王の志士”としての顔を見せ始めた。
「そがんですね…、事が動くまでは、語らん方がよか事もありますけん。」
「おお、そうたい。賢くやらんば。」
わりと無鉄砲な大隈八太郎(重信)だが、今回は、山口が「もはや、幕府(徳川政権)は長続きしない」と発言したのを、諭(さと)す感じになっている。
――大隈も、藩の上層部に“儲け話”の提案をはじめてから、
知らず“空気を読む”ことを覚えたか、“実利を取る”考え方になってしまったのかもしれない。
「…ばってん、山口さんの言いたかことは良くわかるとよ。」
大隈は、うんうんと大きくうなずきながら、こう続けた。
当時の佐賀藩は、幕府の海外使節団に藩士たちを同行させ、イギリスやアメリカで通用する、英語の重要性を意識した時期だ。
大隈もアメリカへの派遣から帰った、小出千之助から体験談を聞いて、今までのオランダ語にこだわるよりも、英語の習得が必要だと思うようになった。
ところが、一緒に勉強するはずの面々に蒸気船での出動命令が出たり、他にも貿易調査の任務が入ったり…と集中して、学習する機会を逃している。
この山口範蔵(尚芳)なら、開国により新たな貿易相手も増えた長崎にいて、西洋に詳しく、幕府の通訳たちに混ざって英語も学んでいる。
その経歴で“勤王の志”もあるという、すごく珍しくて値打ちのある存在だ。
――ここで、友達になっておけば、極めて“お得”である。
そして、大隈が学生の時からよく取る手段は、「賢い奴に勉強させれば、大体のことは聞けばわかる」だ。ぜひとも山口とは、ここで仲良くなっておこう。
とりあえず、高い志への感銘を伝えて、親しくなるのが良さそうだ。
「山口さんね、」と、大隈が話を切り出した。
「大隈さん!“勤王の同志”に、ここで出会うとは嬉しかことです。」
意外や今度も、山口の方が前のめりだ。右手を差し伸べて、こう続けた。
「もう、我らは同志ですけん。“シェイクハンド”を願うても、よかですか。」
山口が提案をする。この儀礼は大隈も知っていた。西洋人は両者が手を握ることで、敵意の無いことを示すのだと。
「よかごた!」
大隈が応じ、山口とグッと手を握り合う。秋の陽が2人の長い影を作りだした。
「なんね…??」
さっきまで川向かいで歌っていた村娘の1人が不思議そうに、その一部始終を見つめていた。がっちり手を握り合う、若い男2人の様子が気になるようだ。
――山口は、その村娘の方を向いて「バァイ!」と、掌を挙げた。
軽く微笑む山口、これも英米での別れの表現か。視線が合った娘は、何だか照れているが、つられて掌を挙げて返した。気が合うのかもしれない。
「…よく、女子に色目を使う奴ばい。」
大隈八太郎、この日はなんとなく、山口範蔵に振り回されっぱなしである。
「西洋では品格があり、女性にも優しか男をジェントルマンと呼びよるです。」
「“全取る”(ぜんとる)とは…、強欲のごた響きたい。」
大隈が、ちょっと投げやりな感じで言い放った。
「いえ、ジェントルマンです。“紳士”とでも言ったらよかですかね。」
山口が、真面目な顔で言い返した。
「よか。わかったばい。」
大隈は、山口の振る舞いを見て思い立った。何だか、西洋を知るふうで格好良いではないか。今度、長崎に行ったときに、ぜんぶ真似してみようかと。
わからなかったところは、藩校に戻った時に、アメリカから帰った小出千之助に聞いておけば、抜かりは無いだろう。
――そして、山口は、武雄に帰っている目的を語り始めた。
「武雄のご隠居さまに、ご機嫌うかがいに。」
「そがん、親しか間柄になるとね。」
武雄の前領主・鍋島茂義は、佐賀藩の大殿・鍋島直正の義兄にあたり“兄貴分”と言ってよい存在。藩の上層部の中でも、特に重要な人物だ。
「ご隠居さまのおかげで、今があるとです。」
山口は語学をはじめ、西洋を学ぶことができるのは、当時の領主・鍋島茂義の恩恵だと力説する。
こうして山口は、茂義公の期待どおり、立派な“西洋かぶれ”に育ったようだ。
「このところ、武雄からの“ご注文”が滞りおるので、気になりまして。」

――大隈は最近、長崎で商人とも関わり始めている。
たしかに以前より武雄からは、西洋の品物の注文が多くあったと聞く。長崎で取り寄せる舶来の品には、高く売れる物も多い。
武雄の鍋島茂義も、齢(よわい)六十を越えるが、老いたからといって海外への興味を無くす気性でもない。
こうして、山口範蔵(尚芳)は、自分の大切な“恩人”が心配になり、一時、武雄へと様子を見に戻ることにしたようだった。
(続く)
◎参考記事(文中記載の人物名について補足)
○小出千之助
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2024年03月11日
第20話「長崎方控」②(聞きまちがいから出た本音)
こんばんは。
場面設定は、文久二年(1862年)秋。長崎から佐賀を通って、小倉へと続く、長崎街道の中で“多良海道”とも呼ばれた、現在では佐賀県南西部の区間。
この頃から、藩校の蘭学教師としてだけでなく、“秘密の仕事”を始めており、長崎出張から帰る大隈八太郎(重信)。

所用があって出身の武雄領に戻る、山口範蔵(尚芳)と連れだって歩く、水車の回る小径で、村娘たちの歌声が気になる様子です。
――山口の“西洋風”の会釈(えしゃく)が、女子に受けている。
村娘たちは「エレガント」という言葉を知りようもないが、長崎仕込みの、山口の立ち振る舞いに“優雅さ”が見えたのか。
そして、女子のおしゃべりは労働の日々の潤いでもあるようで、川向かいから「え~、なんね―」「よかじゃない?」と盛り上がる様子だ。
その山口の傍で、負けず嫌いの大隈から、ちょっとした“嫉妬の炎”がプスプスとくすぶる。

――大隈八太郎は、幼少期こそ甘えん坊だったが、
少年期には性格も変わり、よく喧嘩もした。青年の今も負けん気は強い。
「山口範蔵…何ね。気取った男ばい…」と、少し苛(いら)立っている。
「あぁ、大隈さん。そろそろ先に進まんば、陽も傾くですよ。」
一方で何だか、余裕を感じる山口である。長崎奉行所が仕切る英語の伝習を受けるとは、最先端の「選ばれた人材」と言ってもよい。
――今回は大隈も、「この武雄の“西洋かぶれ”…手強い」と見たか。
ここでは、山口に対抗するのを断念したようで、こう、つぶやいた。
「ふん。おいには、美登(みと)さんの居(お)っけん。良かもんね。」
大隈は柄にもなく「その他大勢の“女子ウケ”が良くなくても構わないのだ…」とばかり、ぶつぶつと言っている。
その大隈の言葉が耳に入ったか。今度は、山口が気にするふうを見せる。
「いま…水戸(みと)さんと、言いよったですか?」
――なお、大隈が口にした“美登(みと)さん”という名は、
江副美登という女性で、佐賀藩士の娘。大隈八太郎の婚約者ということだ。

「…あぁ、良かごた。何でもなかばい。」
大隈は、急に身を乗り出してきた、山口の質問を受け流そうとした。
「水戸(みと)…、“水戸”の気になるごたです。」
しかし、山口はしつこく尋ねてくる。その思考の中では、水戸藩(茨城)の話になっている。
「そがん、美登(みと)の気になるとね?たしかに、器量の良か女子とよ。」
「おなご…?何の話でしょうか。」
――この山口。気取って見えたが、根は真面目な男らしい。
「“水戸烈公”の亡きいま、水戸はどう動くか、気になっとです。」
1858年頃だから、当時から4年ばかり前。井伊直弼が大老の時期の“安政の大獄”で、水戸の徳川斉昭は政治の表舞台から退いた。
そのまま失意のもと、2年後に世を去った。
「尊王攘夷」という言葉は水戸から全国に伝わったから、“烈公”こと徳川斉昭の存在感は、かなり大きいものだったのだ。

「山口範蔵…そがん、水戸が気になるとね?」
「水戸には、勤王の志ばあると思いますけん。」
大隈にとっては、意外だった。英語の伝習とはいえ、幕府の長崎奉行所に関わる、山口から朝廷を意識した“勤王”という言葉が出るとは。
蘭学・英学など西洋の学問を知る2人なので、“攘夷”については異国の排斥を行いたいなら、まず列強に実力で追いつかねば…と冷めて見ている。
しかし“勤王(尊王)”の方は本来、日本を率いるのは幕府ではなく朝廷であるべきで、佐賀藩こそが先導を務めねばならぬ…という熱い気持ちがある。

――大隈八太郎は、急に、山口に親しみを覚えた。
「そうたい。佐賀は、もっと“勤王の志”を持たんばならん。」
最近では、大隈が藩内で胸を張って、こう語れる機会は少なくなっていた。
かつては、佐賀城下では“義祭同盟”がその場所だったが、主宰の枝吉神陽が数か月前に流行病で世を去ったので、今後どうなるかはわからない。
――それに肩書は、藩校の蘭学教師となっている大隈。
最近では、大隈が貿易や利殖で、“佐賀藩が儲ける話”を提案した場合は、案外と重役たちも、興味を持って聞いてくれる。
ところが、「藩を挙げて、勤王のはたらきを為すべし」とか言うと、幕府を重視する佐賀藩では、ほぼ無視されるか、露骨に止められるかだとわかってきた。
「ばってん、“徳川の世”も、そう長くは続くまいと思うております。」
山口は涼しい顔で語り出す。幕府の奉行所に出入りするはずなのだが…

「そいは、言わん方がよかじゃなかとね!?」
大隈が驚くほど過激な発言をした、武雄領の山口。
その言葉には、佐賀本藩で賢く立ち回ろうと考え、まずは財力を確保する作戦に出た、大隈が語らなくなった“本音”があった。
(続く)
◎参考記事
○水戸藩(茨城県)関連
・(冒頭部分)「魅力度と“第三の男”(前編)」
・(本編)第11話「蝦夷探検」③(“懐刀”の想い)
○安政の大獄
・「“安政の大獄”をどう描くか?」
・(本編)第15話「江戸動乱」⑭(“赤鬼”が背負うもの)
○枝吉神陽
・(本編)第19話「閑叟上洛」⑦(愛する者へ、最後の講義)
場面設定は、文久二年(1862年)秋。長崎から佐賀を通って、小倉へと続く、長崎街道の中で“多良海道”とも呼ばれた、現在では佐賀県南西部の区間。
この頃から、藩校の蘭学教師としてだけでなく、“秘密の仕事”を始めており、長崎出張から帰る大隈八太郎(重信)。
所用があって出身の武雄領に戻る、山口範蔵(尚芳)と連れだって歩く、水車の回る小径で、村娘たちの歌声が気になる様子です。
――山口の“西洋風”の会釈(えしゃく)が、女子に受けている。
村娘たちは「エレガント」という言葉を知りようもないが、長崎仕込みの、山口の立ち振る舞いに“優雅さ”が見えたのか。
そして、女子のおしゃべりは労働の日々の潤いでもあるようで、川向かいから「え~、なんね―」「よかじゃない?」と盛り上がる様子だ。
その山口の傍で、負けず嫌いの大隈から、ちょっとした“嫉妬の炎”がプスプスとくすぶる。
――大隈八太郎は、幼少期こそ甘えん坊だったが、
少年期には性格も変わり、よく喧嘩もした。青年の今も負けん気は強い。
「山口範蔵…何ね。気取った男ばい…」と、少し苛(いら)立っている。
「あぁ、大隈さん。そろそろ先に進まんば、陽も傾くですよ。」
一方で何だか、余裕を感じる山口である。長崎奉行所が仕切る英語の伝習を受けるとは、最先端の「選ばれた人材」と言ってもよい。
――今回は大隈も、「この武雄の“西洋かぶれ”…手強い」と見たか。
ここでは、山口に対抗するのを断念したようで、こう、つぶやいた。
「ふん。おいには、美登(みと)さんの居(お)っけん。良かもんね。」
大隈は柄にもなく「その他大勢の“女子ウケ”が良くなくても構わないのだ…」とばかり、ぶつぶつと言っている。
その大隈の言葉が耳に入ったか。今度は、山口が気にするふうを見せる。
「いま…水戸(みと)さんと、言いよったですか?」
――なお、大隈が口にした“美登(みと)さん”という名は、
江副美登という女性で、佐賀藩士の娘。大隈八太郎の婚約者ということだ。

「…あぁ、良かごた。何でもなかばい。」
大隈は、急に身を乗り出してきた、山口の質問を受け流そうとした。
「水戸(みと)…、“水戸”の気になるごたです。」
しかし、山口はしつこく尋ねてくる。その思考の中では、水戸藩(茨城)の話になっている。
「そがん、美登(みと)の気になるとね?たしかに、器量の良か女子とよ。」
「おなご…?何の話でしょうか。」
――この山口。気取って見えたが、根は真面目な男らしい。
「“水戸烈公”の亡きいま、水戸はどう動くか、気になっとです。」
1858年頃だから、当時から4年ばかり前。井伊直弼が大老の時期の“安政の大獄”で、水戸の徳川斉昭は政治の表舞台から退いた。
そのまま失意のもと、2年後に世を去った。
「尊王攘夷」という言葉は水戸から全国に伝わったから、“烈公”こと徳川斉昭の存在感は、かなり大きいものだったのだ。

「山口範蔵…そがん、水戸が気になるとね?」
「水戸には、勤王の志ばあると思いますけん。」
大隈にとっては、意外だった。英語の伝習とはいえ、幕府の長崎奉行所に関わる、山口から朝廷を意識した“勤王”という言葉が出るとは。
蘭学・英学など西洋の学問を知る2人なので、“攘夷”については異国の排斥を行いたいなら、まず列強に実力で追いつかねば…と冷めて見ている。
しかし“勤王(尊王)”の方は本来、日本を率いるのは幕府ではなく朝廷であるべきで、佐賀藩こそが先導を務めねばならぬ…という熱い気持ちがある。
――大隈八太郎は、急に、山口に親しみを覚えた。
「そうたい。佐賀は、もっと“勤王の志”を持たんばならん。」
最近では、大隈が藩内で胸を張って、こう語れる機会は少なくなっていた。
かつては、佐賀城下では“義祭同盟”がその場所だったが、主宰の枝吉神陽が数か月前に流行病で世を去ったので、今後どうなるかはわからない。
――それに肩書は、藩校の蘭学教師となっている大隈。
最近では、大隈が貿易や利殖で、“佐賀藩が儲ける話”を提案した場合は、案外と重役たちも、興味を持って聞いてくれる。
ところが、「藩を挙げて、勤王のはたらきを為すべし」とか言うと、幕府を重視する佐賀藩では、ほぼ無視されるか、露骨に止められるかだとわかってきた。
「ばってん、“徳川の世”も、そう長くは続くまいと思うております。」
山口は涼しい顔で語り出す。幕府の奉行所に出入りするはずなのだが…

「そいは、言わん方がよかじゃなかとね!?」
大隈が驚くほど過激な発言をした、武雄領の山口。
その言葉には、佐賀本藩で賢く立ち回ろうと考え、まずは財力を確保する作戦に出た、大隈が語らなくなった“本音”があった。
(続く)
◎参考記事
○水戸藩(茨城県)関連
・(冒頭部分)
・(本編)
○安政の大獄
・
・(本編)
○枝吉神陽
・(本編)
2024年03月05日
第20話「長崎方控」①(“よか男”の通らす道)
こんばんは。
本編・第20話を始めます。第一幕は佐賀県の民謡『岳の新太郎さん』から、着想したエピソードです。しばし“物語”に、お付き合いください。
舞台は現在の長崎県諫早市から佐賀県太良町へと続く“多良海道”で、長崎からの帰路の設定。時期のイメージは、文久二年(1862年)の秋。

佐賀藩から出ずに長崎と往復可能な「便利なルート」を行く若い男性が2人。ともに佐賀の侍ですが、ひときわ背丈もあるのが、大隈八太郎(重信)。
もう1人も、普通の武士とは一風変わった印象があります。山口範蔵(尚芳)という人物なのですが…
――多良岳から経ヶ岳への稜線が青く光って見える。
「あ~よか天気ばい。」
「そうですね。ナイス サニー ディ」
「何ね…?差(さ)に出(い)で…?」
大隈八太郎は、その言い回しに困惑した。この山口範蔵という男、時折、聞き取れない異国の言葉を発する。
「こいは、失礼。」
山口は「つい、英語が出てきた…」という顔をした。大隈は「実はわかっとるよ」という表情を返した。負けず嫌いである。
ガラン…、ガラン…と傍の小川では、水車が音をたてていた。この村は、収穫後の作業で忙しい時期かもしれない。

――どこからともなく、女性たちの歌声がする…
声の主は、若い村娘たちのようだ。
「たけの~しんたろさんの~♪」
大隈が、先に気付いた。
「…ほう、女子たちの元気のよかごたね。」
「はい、女性が元気なのは、良かことです。」
山口がフッと笑った。“西洋かぶれ”というか、何だか気取って見える。
村娘たちは、川向かいの小屋の横で作業をしているらしく、歩く2人の視界にもその姿が見えてきた。
――よく働くようだが、同時に歌も盛り上がってきている。
歌う娘によって、曲の調子も音程もまちまち。荷を運ぶ勢いでも付けるふうだ。芸事と見れば、お世辞にも上手とは言えないが、活発な可愛らしさはある。
「いろしゃのすいしゃで~♪きは、ざんざ~♪」
山口は、耳ざわりが良いな…ばかりにと娘たちの歌を聞き流すが、大隈は、そもそも何を歌っているのかが、気になる様子だ。
「娘たちは、何ば言いよっとね?」
「あぁ“色者の粋者で、気はザンザ”と歌いよるそうです。」

「道ば通りよる…“たけの しんたろう”って誰ね?」
「昔、ここを“よか男”が通って、娘たちの気持ちがざわつきよったですよ。」
この辺りの土地の事情にも、やけに詳しい山口。長崎との往来には、とくに慣れている様子だ。
――歌われている“岳の新太郎”は、文化・文政年間の美少年と伝わる。
佐賀藩で言えば鍋島直正が、数え17歳で藩主に就任した天保年間より、さらに前の年代が文化・文政の年間。
1830年(天保元年)より古いから、この時点からは「30年以上前の“よか男”への恋心の歌」ということになる。
次々と質問をぶつける大隈に対して、山口は淡々と説明を返す。
「そいぎ、随分と昔の話ということです。」
「その“新太郎”さんも生きておれば、今頃、相当なじいさんとよ。」
「寺侍だったと聞きますが、勤めは、金泉寺かと思いよるです。」
「本当に、ただの寺侍とね?」

修験道の聖地としても知られる、多良岳にあるという金泉寺。そこからは、有明海をゆく船の出入りも見通せるらしい。
そして、戦国期よりも古い時代から、修験道を行ずる山伏たちは、諸国の情報収集に長けていたという。
――山口も「おいにも、わからんとです」とさらりと返した。
当時の武雄領主・鍋島茂義に才能を見いだされた、山口範蔵。以前から長崎に学問の修行に出ており、はじめオランダ語を習得した。
今は長崎奉行所に設けられた伝習の教場で、イギリスの言葉という英語を学んでいる。
大隈とて、大殿・鍋島直正(閑叟)にオランダの法律などを講義することもあるが、英語には、ほとんど手を出せてはいない。
――歩くうちに村娘たちの声が、より近づいてきた。
「岳の~新太郎さんの~登らす道にゃ~♪」
興が乗ってきたのか、2番の歌唱に入る。ここで、川向かいの2人と村娘たちで目線が合った。
すかさず、山口は「ごきげんよう」と言うふうに会釈をした。動きが西洋かぶれで、幾分キザに見える。

まさに、“よか男”の歌に興じた女子たちは、山口の不思議な挨拶に面食らうも、ちょっと盛り上がっているようだ。
「にゃ~、山口。気取った男ばい。」
大隈は、後れを取った…と感じるのか、少し気にさわったふうですねている。
――のちに、山口尚芳(ますか)として知られる、山口範蔵。
明治期には、もともと大隈重信(八太郎)が発案していた西洋への使節に、行きがかり上、“大隈の代わり”として参加する立場となる。
10年ほど前のこの時点では、佐賀藩でさえ、オランダの蘭学からイギリスの英学へと関心が移りはじめたところだった。
英語の習得でも、時代の一歩先を進んでいたのが、武雄領出身の山口範蔵(尚芳)だった。
(続く)
◎参考記事
○佐賀県民謡「岳の新太郎さん」
・「幕末娘の“推し活”」
・「主に太良町民の皆様を対象にしたつぶやき」
○山口尚芳(やまぐちますか、山口範蔵)
・「魅力度と“第三の男”(前編)」
・「魅力度と“第三の男”(後編)」
本編・第20話を始めます。第一幕は佐賀県の民謡『岳の新太郎さん』から、着想したエピソードです。しばし“物語”に、お付き合いください。
舞台は現在の長崎県諫早市から佐賀県太良町へと続く“多良海道”で、長崎からの帰路の設定。時期のイメージは、文久二年(1862年)の秋。
佐賀藩から出ずに長崎と往復可能な「便利なルート」を行く若い男性が2人。ともに佐賀の侍ですが、ひときわ背丈もあるのが、大隈八太郎(重信)。
もう1人も、普通の武士とは一風変わった印象があります。山口範蔵(尚芳)という人物なのですが…
――多良岳から経ヶ岳への稜線が青く光って見える。
「あ~よか天気ばい。」
「そうですね。ナイス サニー ディ」
「何ね…?差(さ)に出(い)で…?」
大隈八太郎は、その言い回しに困惑した。この山口範蔵という男、時折、聞き取れない異国の言葉を発する。
「こいは、失礼。」
山口は「つい、英語が出てきた…」という顔をした。大隈は「実はわかっとるよ」という表情を返した。負けず嫌いである。
ガラン…、ガラン…と傍の小川では、水車が音をたてていた。この村は、収穫後の作業で忙しい時期かもしれない。
――どこからともなく、女性たちの歌声がする…
声の主は、若い村娘たちのようだ。
「たけの~しんたろさんの~♪」
大隈が、先に気付いた。
「…ほう、女子たちの元気のよかごたね。」
「はい、女性が元気なのは、良かことです。」
山口がフッと笑った。“西洋かぶれ”というか、何だか気取って見える。
村娘たちは、川向かいの小屋の横で作業をしているらしく、歩く2人の視界にもその姿が見えてきた。
――よく働くようだが、同時に歌も盛り上がってきている。
歌う娘によって、曲の調子も音程もまちまち。荷を運ぶ勢いでも付けるふうだ。芸事と見れば、お世辞にも上手とは言えないが、活発な可愛らしさはある。
「いろしゃのすいしゃで~♪きは、ざんざ~♪」
山口は、耳ざわりが良いな…ばかりにと娘たちの歌を聞き流すが、大隈は、そもそも何を歌っているのかが、気になる様子だ。
「娘たちは、何ば言いよっとね?」
「あぁ“色者の粋者で、気はザンザ”と歌いよるそうです。」
「道ば通りよる…“たけの しんたろう”って誰ね?」
「昔、ここを“よか男”が通って、娘たちの気持ちがざわつきよったですよ。」
この辺りの土地の事情にも、やけに詳しい山口。長崎との往来には、とくに慣れている様子だ。
――歌われている“岳の新太郎”は、文化・文政年間の美少年と伝わる。
佐賀藩で言えば鍋島直正が、数え17歳で藩主に就任した天保年間より、さらに前の年代が文化・文政の年間。
1830年(天保元年)より古いから、この時点からは「30年以上前の“よか男”への恋心の歌」ということになる。
次々と質問をぶつける大隈に対して、山口は淡々と説明を返す。
「そいぎ、随分と昔の話ということです。」
「その“新太郎”さんも生きておれば、今頃、相当なじいさんとよ。」
「寺侍だったと聞きますが、勤めは、金泉寺かと思いよるです。」
「本当に、ただの寺侍とね?」
修験道の聖地としても知られる、多良岳にあるという金泉寺。そこからは、有明海をゆく船の出入りも見通せるらしい。
そして、戦国期よりも古い時代から、修験道を行ずる山伏たちは、諸国の情報収集に長けていたという。
――山口も「おいにも、わからんとです」とさらりと返した。
当時の武雄領主・鍋島茂義に才能を見いだされた、山口範蔵。以前から長崎に学問の修行に出ており、はじめオランダ語を習得した。
今は長崎奉行所に設けられた伝習の教場で、イギリスの言葉という英語を学んでいる。
大隈とて、大殿・鍋島直正(閑叟)にオランダの法律などを講義することもあるが、英語には、ほとんど手を出せてはいない。
――歩くうちに村娘たちの声が、より近づいてきた。
「岳の~新太郎さんの~登らす道にゃ~♪」
興が乗ってきたのか、2番の歌唱に入る。ここで、川向かいの2人と村娘たちで目線が合った。
すかさず、山口は「ごきげんよう」と言うふうに会釈をした。動きが西洋かぶれで、幾分キザに見える。
まさに、“よか男”の歌に興じた女子たちは、山口の不思議な挨拶に面食らうも、ちょっと盛り上がっているようだ。
「にゃ~、山口。気取った男ばい。」
大隈は、後れを取った…と感じるのか、少し気にさわったふうですねている。
――のちに、山口尚芳(ますか)として知られる、山口範蔵。
明治期には、もともと大隈重信(八太郎)が発案していた西洋への使節に、行きがかり上、“大隈の代わり”として参加する立場となる。
10年ほど前のこの時点では、佐賀藩でさえ、オランダの蘭学からイギリスの英学へと関心が移りはじめたところだった。
英語の習得でも、時代の一歩先を進んでいたのが、武雄領出身の山口範蔵(尚芳)だった。
(続く)
◎参考記事
○佐賀県民謡「岳の新太郎さん」
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○山口尚芳(やまぐちますか、山口範蔵)
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