2020年02月23日
第4話「諸国遊学」⑦
こんばんは。
前回の投稿で“密命”を帯びた佐野常民。本格的に各地を廻るのは、もう少し後の時期です。今回は、賢人たちの“師匠”となる枝吉神陽が、幼い大隈八太郎(後の大隈重信)と出会う場面を綴ります。
――佐賀城下。武家屋敷の街並みを1人の青年が行く。
カラン、カラン…
軽やかに下駄を鳴らし、歩みを進める。
青年の名は枝吉神陽。
佐野常民と同じ年に生まれた神陽。まだ20代初めである。
背筋正しく、力みもなく、悠然と歩く。
武家屋敷が続く街角、何やらご婦人たちが騒がしい。
「見て、見て。神陽さんよ。」
「江戸で公儀(幕府)の学問所に行くんですって。」
教育熱心な佐賀城下において、いまや神陽は時の人。
佐野常民も「蘭学の秀才」として評判ではあるが、なにぶん玄人好みである。
一方、枝吉神陽は、一般の人たちにもイメージしやすい文系の天才だった。
――枝吉神陽は、幕府の昌平坂学問所への派遣が決まっていた。
江戸の”昌平坂学問所”だが、現代の教育機関と比べるとプレッシャーが違う。
全国の各藩が、幕府や他藩に対して絶対に恥をかかぬよう、藩が誇る“必勝”の天才を送り込んでくる。
神陽は、いわば佐賀を代表して、全国の天才たちと競う場に出向くのだ。
ただ歩き方にも表れているように、神陽は泰然としており、そんな些末な事は考えてもいなかった。
その志は天に届くほど高かったのである…

――そして、こんな出会いがある。
年の頃、4~5歳の男の子。
武家の子のようだが、母親にべったりの甘えている。
「あら、神陽先生!」
子どもの母親の名は、大隈三井子。
「はっはっは…“先生”は止してくださいよ。私はまだ修業の身です。」
枝吉神陽が答える。旧知の間柄のようだ。
男の子は、母親にまとわりついている。母・三井子が少し怒った調子で言う。
「八太郎…、ちゃんと神陽先生にご挨拶なさい!」
「おおくま はちたろう…です。しんようせんせい、こんにちは。」
――この母親べったりの男の子が、大隈八太郎である。
「どうも、うちの子はしっかりしてなくて。主人も甘やかしますし…」
大隈三井子、姉2人は順調に育てるも、男の子の育て方に悩む。
「かわいい坊やではないですか。」
枝吉神陽は、意外に子ども好きである。
「おーい、八太郎よ!あまり母上を困らせるでないぞ!」
神陽は、八太郎の頭に手をやり、髪の毛をくしゃくしゃとやった。
「えへへ…っ。」
照れたような笑顔で神陽を見返す八太郎。
――後の国民的人気者・大隈重信の片鱗がここにある。
「この子…どう育てれば、神陽先生みたいになりますか?」
大隈三井子、直球の質問である。
「そうですな。まず学問なれば、書物を読まねばなりませんな。」
神陽は、基礎学力が大事と説いた。
「どのような書物がよろしいですか。」
せっかく佐賀藩の誇る“天才”と話しているのだ。この際、聞けることは聞きたい三井子である。
「“太平記”をお勧めしますよ。」
神陽は、佐賀藩の知識人たちの間で大ブームを起こしていた書物を進めた。
――“太平記”とは、
鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代(室町時代初期)を舞台とした歴史物。
足利尊氏を中心として動く北朝方、後醍醐天皇を守るために集う南朝方との戦いを記した軍記物語である。
枝吉神陽は“国学”を学ぶ家の者であり、尊王の志が厚い。
南朝の後醍醐天皇に命を掛けて尽くす“楠木正成”を高く評価していた。
「お勧めは“太平記”ですね。わかりました!」
大隈三井子、現代的な表現で言えば、エンジンがかかった瞬間である。
「ではな。八太郎よ!よく本を読むと良いぞ!」
「はい!しんようせんせい!」
そして八太郎くんは、すっかり枝吉神陽に懐いたようだ。
――幕末の佐賀藩。勉強すれば、お役目に就けて“役職給”がもらえる!…というシステムを採用していた。
逆に言えば、上級武士でも身分に胡坐をかいて、勉強を怠ると“役職給”が入らず、貧しい暮らしをすることになる。
大隈家に戻った三井子は、上の子(姉)に子守を命じた。
「ちょっとの間、留守にするから、八太郎をお願い!」
神陽との出会いに触発された、幕末“教育ママ”は「太平記」を求め、駆けて行く。
これもまた、新時代の幕開けだった。
(続く)
前回の投稿で“密命”を帯びた佐野常民。本格的に各地を廻るのは、もう少し後の時期です。今回は、賢人たちの“師匠”となる枝吉神陽が、幼い大隈八太郎(後の大隈重信)と出会う場面を綴ります。
――佐賀城下。武家屋敷の街並みを1人の青年が行く。
カラン、カラン…
軽やかに下駄を鳴らし、歩みを進める。
青年の名は枝吉神陽。
佐野常民と同じ年に生まれた神陽。まだ20代初めである。
背筋正しく、力みもなく、悠然と歩く。
武家屋敷が続く街角、何やらご婦人たちが騒がしい。
「見て、見て。神陽さんよ。」
「江戸で公儀(幕府)の学問所に行くんですって。」
教育熱心な佐賀城下において、いまや神陽は時の人。
佐野常民も「蘭学の秀才」として評判ではあるが、なにぶん玄人好みである。
一方、枝吉神陽は、一般の人たちにもイメージしやすい文系の天才だった。
――枝吉神陽は、幕府の昌平坂学問所への派遣が決まっていた。
江戸の”昌平坂学問所”だが、現代の教育機関と比べるとプレッシャーが違う。
全国の各藩が、幕府や他藩に対して絶対に恥をかかぬよう、藩が誇る“必勝”の天才を送り込んでくる。
神陽は、いわば佐賀を代表して、全国の天才たちと競う場に出向くのだ。
ただ歩き方にも表れているように、神陽は泰然としており、そんな些末な事は考えてもいなかった。
その志は天に届くほど高かったのである…

――そして、こんな出会いがある。
年の頃、4~5歳の男の子。
武家の子のようだが、母親にべったりの甘えている。
「あら、神陽先生!」
子どもの母親の名は、大隈三井子。
「はっはっは…“先生”は止してくださいよ。私はまだ修業の身です。」
枝吉神陽が答える。旧知の間柄のようだ。
男の子は、母親にまとわりついている。母・三井子が少し怒った調子で言う。
「八太郎…、ちゃんと神陽先生にご挨拶なさい!」
「おおくま はちたろう…です。しんようせんせい、こんにちは。」
――この母親べったりの男の子が、大隈八太郎である。
「どうも、うちの子はしっかりしてなくて。主人も甘やかしますし…」
大隈三井子、姉2人は順調に育てるも、男の子の育て方に悩む。
「かわいい坊やではないですか。」
枝吉神陽は、意外に子ども好きである。
「おーい、八太郎よ!あまり母上を困らせるでないぞ!」
神陽は、八太郎の頭に手をやり、髪の毛をくしゃくしゃとやった。
「えへへ…っ。」
照れたような笑顔で神陽を見返す八太郎。
――後の国民的人気者・大隈重信の片鱗がここにある。
「この子…どう育てれば、神陽先生みたいになりますか?」
大隈三井子、直球の質問である。
「そうですな。まず学問なれば、書物を読まねばなりませんな。」
神陽は、基礎学力が大事と説いた。
「どのような書物がよろしいですか。」
せっかく佐賀藩の誇る“天才”と話しているのだ。この際、聞けることは聞きたい三井子である。
「“太平記”をお勧めしますよ。」
神陽は、佐賀藩の知識人たちの間で大ブームを起こしていた書物を進めた。
――“太平記”とは、
鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代(室町時代初期)を舞台とした歴史物。
足利尊氏を中心として動く北朝方、後醍醐天皇を守るために集う南朝方との戦いを記した軍記物語である。
枝吉神陽は“国学”を学ぶ家の者であり、尊王の志が厚い。
南朝の後醍醐天皇に命を掛けて尽くす“楠木正成”を高く評価していた。
「お勧めは“太平記”ですね。わかりました!」
大隈三井子、現代的な表現で言えば、エンジンがかかった瞬間である。
「ではな。八太郎よ!よく本を読むと良いぞ!」
「はい!しんようせんせい!」
そして八太郎くんは、すっかり枝吉神陽に懐いたようだ。
――幕末の佐賀藩。勉強すれば、お役目に就けて“役職給”がもらえる!…というシステムを採用していた。
逆に言えば、上級武士でも身分に胡坐をかいて、勉強を怠ると“役職給”が入らず、貧しい暮らしをすることになる。
大隈家に戻った三井子は、上の子(姉)に子守を命じた。
「ちょっとの間、留守にするから、八太郎をお願い!」
神陽との出会いに触発された、幕末“教育ママ”は「太平記」を求め、駆けて行く。
これもまた、新時代の幕開けだった。
(続く)
Posted by SR at 17:03 | Comments(0) | 第4話「諸国遊学」
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