2023年03月27日
第19話「閑叟上洛」④(誇りある、その仕事)
こんばんは。
3月下旬、桜も見頃の季節は、退職・転勤…といった別れの時期でもあります。仕事も、また最初から“移ろうもの”と考えねばならない…のかもしれません。
大きく言えば、仕事の方法が時代の流れに合わなくなる場合もあるでしょうし、やりがいを持っていた業務から人事異動などで離れる方も多くいるはずです。
なお舞台設定は文久二年(1862年)の晩夏ですが、“本編”のつなぎも兼ねて前・後編で、ある“配置転換”の話を綴ります。
――佐賀藩の重臣、鍋島夏雲(市佑)の役宅。
黒船来航など重大事件のたびに登場する傾向のある、鍋島夏雲という人物。
〔参照(終盤):第8話「黒船来航」⑩〕
1802年に生まれており、第1話の“フェートン号事件”(1808年)の時にすでに誕生していたので、齢はすでに60歳に至る。
現在の上峰町あたりに領地を持つ、納富鍋島家の人で、“年寄”という役職名に違わず、佐賀藩の藩主側近でも長老格ということになる。

あらゆる情報が集まる重鎮だが、縁側で歩けば、年齢を重ねた相応の傷みも来ており、膝の動きもおぼつかない様子も見てとれる。
〔参照(中盤):第13話「通商条約」⑩(扇の要が外れるとき…)〕
しかし、誰かの気配を感じた時など、サッと向き直るような俊敏さを見せる瞬間があり、その中身は老いていないようだ。
「…蓮池(支藩)の古賀か。」
「ご用があると聞きましたけん、参じましたばい。」
――久々に登場、“嬉野の忍者”・古賀である。
傍らにはしっぽをゆらゆらとした猫が座る。これは、“相棒”のようだ。
鍋島夏雲が、年配者の貫禄かゆっくりと語り出す。
「お主に聞かせておきたい事があってな。」
「何(なん)が、あっとですか。」

佐賀の支藩・蓮池藩は、現在の佐賀市内に本拠があるものの、嬉野市あたりに大きい領地を持つ。それゆえ“嬉野の忍者”である。
「今から来る者の話を、よく聞いておくとよか。」
本日の用件は、鍋島夏雲のもとに来る人物の話を聞くことだと告げられた。
「おい(私)は…隠れもせんと、人の話ば聞きよれば、よかですか。」
古賀にすれば意外なこと、普通に話を聞くだけとは“忍者”らしからぬ任務だ。
どのような意図かを図りかねる、嬉野の忍者・古賀。いつものような、異国船の探索などの仕事ではないのか。

――歳は取ったが、積み重ねた異国船の調査には、一家言がある。
傍らの雉(きじ)猫のしっぽが、さらにゆらゆらとする。イヌとは違って、ネコが尻尾を揺らすのは、機嫌が良い時とは限らないという。
これは飼い主…いや“相棒”である古賀と同じく、怪訝(けげん)な気持ちの表れのようだ。
猫とて甘く見てはならない。欧米列強の水兵とて「何者っ!…なんだネコか」と油断さえ誘えば、接近する隙ぐらいは作ることができるだろう。
〔参照:第14話「遣米使節」③(嬉野から来た忍び)〕
“相棒”の異国船調査を支えるため、鍛錬を積んだ事は、誇ってよいはずだ。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」⑩(英国船の行方)〕
――ここで屋敷に入ってきた男は、旅姿だった。
藩主側近の筆頭格・鍋島夏雲だが、なぜか旅の男と面識がある様子だ。
「たしか、祇園太郎と呼べば良かったか。無事であったか。」
「京では、危ない目にも遭(お)うたけど、まぁ大丈夫やで。」

“祇園太郎”と呼ばれた男の口調は、上方(京・大坂)に寄った言葉づかいらしいが、それが正しい使い方なのかは、定かではない。
明らかな変名である、“祇園太郎”を名乗る男は、京の都で志士たちと関わる前に、近隣の播磨(兵庫)の学者の門を叩き、当地の言葉になじんだようだ。
「…祇園太郎よ、ここは佐賀だ。おかしな上方ことばは目立つぞ。」
「夏雲さま…これは失礼ば、いたしました。」
今度は、随分と自然な言葉づかいだ。この男、やはり佐賀の者なのだろう。
(続く)
3月下旬、桜も見頃の季節は、退職・転勤…といった別れの時期でもあります。仕事も、また最初から“移ろうもの”と考えねばならない…のかもしれません。
大きく言えば、仕事の方法が時代の流れに合わなくなる場合もあるでしょうし、やりがいを持っていた業務から人事異動などで離れる方も多くいるはずです。
なお舞台設定は文久二年(1862年)の晩夏ですが、“本編”のつなぎも兼ねて前・後編で、ある“配置転換”の話を綴ります。
――佐賀藩の重臣、鍋島夏雲(市佑)の役宅。
黒船来航など重大事件のたびに登場する傾向のある、鍋島夏雲という人物。
〔参照(終盤):
1802年に生まれており、第1話の“フェートン号事件”(1808年)の時にすでに誕生していたので、齢はすでに60歳に至る。
現在の上峰町あたりに領地を持つ、納富鍋島家の人で、“年寄”という役職名に違わず、佐賀藩の藩主側近でも長老格ということになる。

あらゆる情報が集まる重鎮だが、縁側で歩けば、年齢を重ねた相応の傷みも来ており、膝の動きもおぼつかない様子も見てとれる。
〔参照(中盤):
しかし、誰かの気配を感じた時など、サッと向き直るような俊敏さを見せる瞬間があり、その中身は老いていないようだ。
「…蓮池(支藩)の古賀か。」
「ご用があると聞きましたけん、参じましたばい。」
――久々に登場、“嬉野の忍者”・古賀である。
傍らにはしっぽをゆらゆらとした猫が座る。これは、“相棒”のようだ。
鍋島夏雲が、年配者の貫禄かゆっくりと語り出す。
「お主に聞かせておきたい事があってな。」
「何(なん)が、あっとですか。」
佐賀の支藩・蓮池藩は、現在の佐賀市内に本拠があるものの、嬉野市あたりに大きい領地を持つ。それゆえ“嬉野の忍者”である。
「今から来る者の話を、よく聞いておくとよか。」
本日の用件は、鍋島夏雲のもとに来る人物の話を聞くことだと告げられた。
「おい(私)は…隠れもせんと、人の話ば聞きよれば、よかですか。」
古賀にすれば意外なこと、普通に話を聞くだけとは“忍者”らしからぬ任務だ。
どのような意図かを図りかねる、嬉野の忍者・古賀。いつものような、異国船の探索などの仕事ではないのか。

――歳は取ったが、積み重ねた異国船の調査には、一家言がある。
傍らの雉(きじ)猫のしっぽが、さらにゆらゆらとする。イヌとは違って、ネコが尻尾を揺らすのは、機嫌が良い時とは限らないという。
これは飼い主…いや“相棒”である古賀と同じく、怪訝(けげん)な気持ちの表れのようだ。
猫とて甘く見てはならない。欧米列強の水兵とて「何者っ!…なんだネコか」と油断さえ誘えば、接近する隙ぐらいは作ることができるだろう。
〔参照:
“相棒”の異国船調査を支えるため、鍛錬を積んだ事は、誇ってよいはずだ。
〔参照:
――ここで屋敷に入ってきた男は、旅姿だった。
藩主側近の筆頭格・鍋島夏雲だが、なぜか旅の男と面識がある様子だ。
「たしか、祇園太郎と呼べば良かったか。無事であったか。」
「京では、危ない目にも遭(お)うたけど、まぁ大丈夫やで。」

“祇園太郎”と呼ばれた男の口調は、上方(京・大坂)に寄った言葉づかいらしいが、それが正しい使い方なのかは、定かではない。
明らかな変名である、“祇園太郎”を名乗る男は、京の都で志士たちと関わる前に、近隣の播磨(兵庫)の学者の門を叩き、当地の言葉になじんだようだ。
「…祇園太郎よ、ここは佐賀だ。おかしな上方ことばは目立つぞ。」
「夏雲さま…これは失礼ば、いたしました。」
今度は、随分と自然な言葉づかいだ。この男、やはり佐賀の者なのだろう。
(続く)
2023年03月24日
「猫の鳴きまねと、おんな城主」
こんばんは。
今回の記事は、大河ドラマ『どうする家康』の直近(第11回・信玄との密約)の感想を書きます。
個人的には、とても面白かった放送回でした。前半は「猫の鳴きまね」、後半は「おんな城主」に注目しました。
番組内容を記載していますので、土曜の再放送で大河ドラマを見ている方は、視聴後にご覧いただければと思います。
――タイトルには、“信玄との密約”…という言葉が。
ドラマでは、桶狭間の戦いで今川義元〔演:野村萬斎〕の存在を失い、今川氏の衰勢に歯止めがかからない状況が描かれます。
駿河・遠江(静岡)を治めていた今川氏。近隣の戦国大名には、ここが攻め時ということになるのでしょう。
こうして徳川家康〔演:松本潤〕は、“甲斐(山梨)の虎”の異名を持つ武田信玄〔演:阿部寛〕との密談に臨むことに。
――しかし、談判の場に現れない武田信玄。
信玄が姿を見せないのは、家康とは「格が違う」ため…という理由を推測する、徳川家臣団の重臣たち。
では「ここは重臣たちどうしで…」とばかりに、家康は談判の場に残らず、会場の寺の近くで、側近たちと待つ様子。

森の中では、お供の榊原康政(小平太)〔演:杉野遥亮〕、本多忠勝(平八郎)〔演:山田裕貴〕と雑談しています。
栗拾いを試みたり、木工細工をしたり、家来の叔父の健康を気遣ったり…と、まさに暇つぶしな感じの時間の使い方。
――そこで、信玄の陰口をたたく、徳川の主従。
「来ると言って来ぬとは、武田信玄、ろくな奴ではない。」(本多平八郎)
「案外、肝の小さい奴で…怖じ気づいたのかもしれませんよ。」(榊原小平太)
「“甲斐の虎”などと言っているが、正体は猫のような…」(本多平八郎)
「“甲斐の猫”か、そりゃいい!」(家康)
なぜかネコ呼ばわりされる、武田信玄という奇妙な場面。活字でも楽しさが伝わるでしょうか。これはまだ序の口。ネコ好き各位、ここから、さらに猫です。
――「ネウ、ネウ。武田信玄だネ~ウ。」(家康)
猫の鳴きまねを始める大将・徳川家康。家来2人も、殿に続けとばかりにネコの真似に興じます。
「ニャー、ニャー!」(榊原小平太)
そして、リアルに「ニャ~!」(本多平八郎)。「一番うまいのう」と喜ぶ、家康。まるで、徳川主従の“ねこねこ”大合唱。
風の吹く森の中で、ニャーニャーと言っている、とても楽しそうな若者が3人。

――そこに、ある男が現れます。
これが、当の武田信玄。このドラマの信玄公、ネット上では“古代ローマ人”の風格とも評される出で立ち。
ただ、単にコミカルな登場というわけでもなく、今までの徳川主従の雑談内容を全て、信玄は知っているという状況。
「話の中身を全部、知られている…」とばかりに、引きつった表情を見せる徳川主従。忍びを使った情報戦で知られた武田の怖さも、しっかり出ています。
――極めつけは、先ほどの“甲斐の猫”呼ばわりについて
「猫は、嫌いではない」と語り、その自由さにあやかりたいと言及して、貫禄のひと笑い。そこで満を持して、正体を明かす“甲斐の虎”・武田信玄。
あとは、圧倒されっぱなしの徳川家康。当時の武田と徳川との力の差を見せつけたような、上手い描写だと感じました。
ここで、武田は北から駿河(静岡)を、徳川は西から遠江(静岡)を。それぞれ、今川領を攻めるという密約が交わされます。

――その後は、武田軍が駿河に向けて出陣する展開に。
時をほぼ同じくして徳川軍も遠江に向けて進軍しますが、戦う相手がまた辛いことに、家康の妻・瀬名〔演:有村架純〕の親友。
現在の浜松にある、引間城のおんな城主に就いた田鶴〔演:関水渚〕です。
但しここ何話かの展開で、お田鶴という女性は、主人公寄りの目線だと、あまり好印象ではない動きをしています。
――たしか、今川家への密告という形で、
徳川方の服部半蔵〔演:山田孝之〕率いる服部党による、瀬名の救出作戦を一度は阻んでいます。
また、徳川と話合おうとした夫・飯尾連龍〔演:渡部豪太〕も、妻・田鶴の密告により、今川氏真〔演:溝端淳平〕に始末されました。
今川方の密偵として影で動き、親友も夫も裏切る“悪女”のようなイメージが、強かったのです。

――ところが、今回は違った。
序盤から幾度か差し挟まれるのは、華やかな今川氏の街・駿府の賑わいと、そこでの幸せだった日々の回想。
遡ること10年前に、お田鶴と瀬名の女子2人が、雪遊びで戯れ、団子の買い食いをする、平和な風景の描写。
これが、お田鶴という女性が本当に守りたかったもの…。
城主となった後の、田鶴の凜とした振る舞いといい、鎧を身を包んで出撃する場面といい、こういう視点で見せられると感涙ものでした。
――そして、ほぼ同時進行で、
武田軍があっという間に、今川氏の栄華が詰まった街・駿府を攻め落とす展開がとても切ない。
この放送回は、2017年(平成29年)大河ドラマ「おんな城主 直虎」と重ねてみていた人も多いかもしれません。
好きだった椿の花のように咲いて散った、おんな城主・田鶴の描き方、とても印象深かったです。
冒頭には家康が「徳川」を名乗った経過もあって、密度の濃い45分でした。
個人的には『どうする家康』が目指す物語の方向性が見えたような気がして、今後に期待が持てる、良い放送回だったと思います。
今回の記事は、大河ドラマ『どうする家康』の直近(第11回・信玄との密約)の感想を書きます。
個人的には、とても面白かった放送回でした。前半は「猫の鳴きまね」、後半は「おんな城主」に注目しました。
番組内容を記載していますので、土曜の再放送で大河ドラマを見ている方は、視聴後にご覧いただければと思います。
――タイトルには、“信玄との密約”…という言葉が。
ドラマでは、桶狭間の戦いで今川義元〔演:野村萬斎〕の存在を失い、今川氏の衰勢に歯止めがかからない状況が描かれます。
駿河・遠江(静岡)を治めていた今川氏。近隣の戦国大名には、ここが攻め時ということになるのでしょう。
こうして徳川家康〔演:松本潤〕は、“甲斐(山梨)の虎”の異名を持つ武田信玄〔演:阿部寛〕との密談に臨むことに。
――しかし、談判の場に現れない武田信玄。
信玄が姿を見せないのは、家康とは「格が違う」ため…という理由を推測する、徳川家臣団の重臣たち。
では「ここは重臣たちどうしで…」とばかりに、家康は談判の場に残らず、会場の寺の近くで、側近たちと待つ様子。
森の中では、お供の榊原康政(小平太)〔演:杉野遥亮〕、本多忠勝(平八郎)〔演:山田裕貴〕と雑談しています。
栗拾いを試みたり、木工細工をしたり、家来の叔父の健康を気遣ったり…と、まさに暇つぶしな感じの時間の使い方。
――そこで、信玄の陰口をたたく、徳川の主従。
「来ると言って来ぬとは、武田信玄、ろくな奴ではない。」(本多平八郎)
「案外、肝の小さい奴で…怖じ気づいたのかもしれませんよ。」(榊原小平太)
「“甲斐の虎”などと言っているが、正体は猫のような…」(本多平八郎)
「“甲斐の猫”か、そりゃいい!」(家康)
なぜかネコ呼ばわりされる、武田信玄という奇妙な場面。活字でも楽しさが伝わるでしょうか。これはまだ序の口。ネコ好き各位、ここから、さらに猫です。
――「ネウ、ネウ。武田信玄だネ~ウ。」(家康)
猫の鳴きまねを始める大将・徳川家康。家来2人も、殿に続けとばかりにネコの真似に興じます。
「ニャー、ニャー!」(榊原小平太)
そして、リアルに「ニャ~!」(本多平八郎)。「一番うまいのう」と喜ぶ、家康。まるで、徳川主従の“ねこねこ”大合唱。
風の吹く森の中で、ニャーニャーと言っている、とても楽しそうな若者が3人。
――そこに、ある男が現れます。
これが、当の武田信玄。このドラマの信玄公、ネット上では“古代ローマ人”の風格とも評される出で立ち。
ただ、単にコミカルな登場というわけでもなく、今までの徳川主従の雑談内容を全て、信玄は知っているという状況。
「話の中身を全部、知られている…」とばかりに、引きつった表情を見せる徳川主従。忍びを使った情報戦で知られた武田の怖さも、しっかり出ています。
――極めつけは、先ほどの“甲斐の猫”呼ばわりについて
「猫は、嫌いではない」と語り、その自由さにあやかりたいと言及して、貫禄のひと笑い。そこで満を持して、正体を明かす“甲斐の虎”・武田信玄。
あとは、圧倒されっぱなしの徳川家康。当時の武田と徳川との力の差を見せつけたような、上手い描写だと感じました。
ここで、武田は北から駿河(静岡)を、徳川は西から遠江(静岡)を。それぞれ、今川領を攻めるという密約が交わされます。
――その後は、武田軍が駿河に向けて出陣する展開に。
時をほぼ同じくして徳川軍も遠江に向けて進軍しますが、戦う相手がまた辛いことに、家康の妻・瀬名〔演:有村架純〕の親友。
現在の浜松にある、引間城のおんな城主に就いた田鶴〔演:関水渚〕です。
但しここ何話かの展開で、お田鶴という女性は、主人公寄りの目線だと、あまり好印象ではない動きをしています。
――たしか、今川家への密告という形で、
徳川方の服部半蔵〔演:山田孝之〕率いる服部党による、瀬名の救出作戦を一度は阻んでいます。
また、徳川と話合おうとした夫・飯尾連龍〔演:渡部豪太〕も、妻・田鶴の密告により、今川氏真〔演:溝端淳平〕に始末されました。
今川方の密偵として影で動き、親友も夫も裏切る“悪女”のようなイメージが、強かったのです。
――ところが、今回は違った。
序盤から幾度か差し挟まれるのは、華やかな今川氏の街・駿府の賑わいと、そこでの幸せだった日々の回想。
遡ること10年前に、お田鶴と瀬名の女子2人が、雪遊びで戯れ、団子の買い食いをする、平和な風景の描写。
これが、お田鶴という女性が本当に守りたかったもの…。
城主となった後の、田鶴の凜とした振る舞いといい、鎧を身を包んで出撃する場面といい、こういう視点で見せられると感涙ものでした。
――そして、ほぼ同時進行で、
武田軍があっという間に、今川氏の栄華が詰まった街・駿府を攻め落とす展開がとても切ない。
この放送回は、2017年(平成29年)大河ドラマ「おんな城主 直虎」と重ねてみていた人も多いかもしれません。
好きだった椿の花のように咲いて散った、おんな城主・田鶴の描き方、とても印象深かったです。
冒頭には家康が「徳川」を名乗った経過もあって、密度の濃い45分でした。
個人的には『どうする家康』が目指す物語の方向性が見えたような気がして、今後に期待が持てる、良い放送回だったと思います。
タグ :大河ドラマ
2023年03月20日
第19話「閑叟上洛」③(それは、剣の腕前なのか)
こんばんは。週末の『ブラタモリ』にも、大河ドラマについても書きたい事はあるのですが、ここは“本編”を続けます。
文久二年(1862年)の初秋、佐賀を脱藩した江藤新平も岐路にありました。
江藤は長州藩の紹介で、尊王攘夷派の公家・姉小路公知と知り合っており、わずか2~3か月間に京都で様々な人物や事件の経過などの情報を得ます。

その有能さを、姉小路卿も評価していたようで、佐賀に帰ると決断した際に、このまま京都に残らないかという話もあったと聞きます。
…とても物騒だった、幕末の京都。江藤を引き留めたかった理由は、その才覚だけではなかったのかもしれません。
――幾度か吹き抜けた風が、竹の葉を揺らし続ける。
「姉小路卿は、下がってください。」
「なんや、向こうに誰ぞ居るんか。」
事態は飲み込めないが、江藤の発する言葉に従い、姉小路も扇を握りしめて身構えた。
江藤は、スッと腰の刀を抜いた。切先が薄い月明かりで、鈍(にび)色に光る。剣を右手に下げたまま、感じ取れる幾人かの気配に対して名乗りを上げた。
「佐賀は、小城に存する永田右源次道場の門下、江藤新平と申す。」
ピキーンと、竹林が共振するような声が通った。

――ザワザワ…と風は吹く中で、江藤は“口上”を続ける。
「そこに居られる方々、ご用の向きがあれば、私が承(うけたまわ)ろう。」
剣の流儀は、幕末期にも名を知られた“心形刀流”のようである。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」②(小城の秘剣)〕
だが、それより江藤がいきなり大音声を発したためか、近隣の屋敷は総じて、多少の騒ぎになっている様子だ。
しばし沈黙の間があった。ほどなく姉小路卿や供回りの青侍にもザザッ…と、複数の足音が遠ざかっていく気配が感じられた。
「…ほう、やはり何者かが、まろを見張っておったんやな。」
ほっと一息をついた感じで、姉小路がつぶやいた。
――江藤は、スーッと呼気を整えた。
青侍が、ハッハッ…と息を切らして、周囲を見渡しながら江藤の傍に寄る。
「賊(ぞく)か、何かはわからんが、とにかく去ったみたいやな。」

江藤は、またスッと刀を鞘に納めた。
「永田先生の“剣名”が、よもや京の都にまで届くとは思いもよらんでした。」
「…いや、ちゃう(違う)で、たぶん。」
意表を突かれたか、気抜けした返事をする青侍。先ほどの“口上”では、江藤が剣の修業をした道場の名を発した様子だが、問題はそこではない。
おそらく効いたのは、江藤の声だ。何らかの力で、風が共鳴するようだった。
――後方にいる姉小路も「ほっほっ…」と笑いたいのをこらえる様子だ。
何やら大真面目に、少年期から通った剣術道場に感謝の念を示す江藤だが、これは“剣の腕前”とは、また別の話だろう。
きっと待ち伏せした者が逃げた理由は、まるで“闇討ち”を明るく照らしてしまうような、江藤の存在を嫌がったに違いない。
いまだ響きの残る。四方に届くような音だった。江藤は剣術の稽古だけでなく、他に声を通す訓練でも積んだのか。

――いったい、どこで誰の教えを受けたものか。
「江藤よ、そなたの声は、ようよう響くのう。」
「されば、わが学問の師。枝吉神陽は、私も及ばんほど声の太かです。」
姉小路も、まずは一難去ったとみたか話に興じる。江藤に学問を講ずる師匠とは、よほどの者でないと務まらないことは、容易に想像がつく。
「あれより太い声か。ほほっ…それは賑やかなことや。」
「神陽先生の声は、“鐘の鳴る”がごた(如く)です。」
供回りの青侍は、その会話を聞いて納得をしたのか、苦笑いでつぶやく。
「たぶん…それや。学問の師匠の影響やったか。」

――幕末期。佐賀城下では、熱い議論がなされていた。
いつもそこには、結構な大声が響き渡っていた。“さがんもん”は、わりと声が大きいらしい。
江藤は、こう思い至った。
「…神陽先生には、京で見聞きした事を、直にお伝えせねば。」
この過ぎゆく夏には、佐賀の志士たちにとって一大事が起きていた。脱藩していた江藤は、仲間たちから少し遅れて、その事実を知ることとなる。
(続く)
文久二年(1862年)の初秋、佐賀を脱藩した江藤新平も岐路にありました。
江藤は長州藩の紹介で、尊王攘夷派の公家・姉小路公知と知り合っており、わずか2~3か月間に京都で様々な人物や事件の経過などの情報を得ます。

その有能さを、姉小路卿も評価していたようで、佐賀に帰ると決断した際に、このまま京都に残らないかという話もあったと聞きます。
…とても物騒だった、幕末の京都。江藤を引き留めたかった理由は、その才覚だけではなかったのかもしれません。
――幾度か吹き抜けた風が、竹の葉を揺らし続ける。
「姉小路卿は、下がってください。」
「なんや、向こうに誰ぞ居るんか。」
事態は飲み込めないが、江藤の発する言葉に従い、姉小路も扇を握りしめて身構えた。
江藤は、スッと腰の刀を抜いた。切先が薄い月明かりで、鈍(にび)色に光る。剣を右手に下げたまま、感じ取れる幾人かの気配に対して名乗りを上げた。
「佐賀は、小城に存する永田右源次道場の門下、江藤新平と申す。」
ピキーンと、竹林が共振するような声が通った。
――ザワザワ…と風は吹く中で、江藤は“口上”を続ける。
「そこに居られる方々、ご用の向きがあれば、私が承(うけたまわ)ろう。」
剣の流儀は、幕末期にも名を知られた“心形刀流”のようである。
〔参照:
だが、それより江藤がいきなり大音声を発したためか、近隣の屋敷は総じて、多少の騒ぎになっている様子だ。
しばし沈黙の間があった。ほどなく姉小路卿や供回りの青侍にもザザッ…と、複数の足音が遠ざかっていく気配が感じられた。
「…ほう、やはり何者かが、まろを見張っておったんやな。」
ほっと一息をついた感じで、姉小路がつぶやいた。
――江藤は、スーッと呼気を整えた。
青侍が、ハッハッ…と息を切らして、周囲を見渡しながら江藤の傍に寄る。
「賊(ぞく)か、何かはわからんが、とにかく去ったみたいやな。」

江藤は、またスッと刀を鞘に納めた。
「永田先生の“剣名”が、よもや京の都にまで届くとは思いもよらんでした。」
「…いや、ちゃう(違う)で、たぶん。」
意表を突かれたか、気抜けした返事をする青侍。先ほどの“口上”では、江藤が剣の修業をした道場の名を発した様子だが、問題はそこではない。
おそらく効いたのは、江藤の声だ。何らかの力で、風が共鳴するようだった。
――後方にいる姉小路も「ほっほっ…」と笑いたいのをこらえる様子だ。
何やら大真面目に、少年期から通った剣術道場に感謝の念を示す江藤だが、これは“剣の腕前”とは、また別の話だろう。
きっと待ち伏せした者が逃げた理由は、まるで“闇討ち”を明るく照らしてしまうような、江藤の存在を嫌がったに違いない。
いまだ響きの残る。四方に届くような音だった。江藤は剣術の稽古だけでなく、他に声を通す訓練でも積んだのか。
――いったい、どこで誰の教えを受けたものか。
「江藤よ、そなたの声は、ようよう響くのう。」
「されば、わが学問の師。枝吉神陽は、私も及ばんほど声の太かです。」
姉小路も、まずは一難去ったとみたか話に興じる。江藤に学問を講ずる師匠とは、よほどの者でないと務まらないことは、容易に想像がつく。
「あれより太い声か。ほほっ…それは賑やかなことや。」
「神陽先生の声は、“鐘の鳴る”がごた(如く)です。」
供回りの青侍は、その会話を聞いて納得をしたのか、苦笑いでつぶやく。
「たぶん…それや。学問の師匠の影響やったか。」
――幕末期。佐賀城下では、熱い議論がなされていた。
いつもそこには、結構な大声が響き渡っていた。“さがんもん”は、わりと声が大きいらしい。
江藤は、こう思い至った。
「…神陽先生には、京で見聞きした事を、直にお伝えせねば。」
この過ぎゆく夏には、佐賀の志士たちにとって一大事が起きていた。脱藩していた江藤は、仲間たちから少し遅れて、その事実を知ることとなる。
(続く)
2023年03月15日
第19話「閑叟上洛」②(入り組んだ、京の風向き)
こんばんは。
3月18日(土曜)に放送予定の、佐賀を舞台とする『ブラタモリ』が気になって仕方ないのですが、まずは“本編”を続けます。
〔参照:「“森田さんの件”ふたたび」〕
時期は文久二年(1862年)初秋。佐賀を脱藩していた江藤新平は、京都で中央政局の情勢を探って、公家や各地の志士と関わります。
これを幕府の役人も知るところとなり、佐賀藩に対応を求める連絡が入ったという話も聞きます。江藤にも、決断せねばならない時期が迫っていました。

――京。公家・姉小路公知の屋敷。表玄関。
この秋、幕府に攘夷実行を催促すべく、江戸に向かう予定のある姉小路卿。出がけに慌ただしい様子で、江藤に届くように一声をかけた。
「江藤よ、ちと出かけるゆえ、ついて参れ。」
身分の高い公家である姉小路に初めて会う時は、長州藩士・桂小五郎らの手回しもあって、さすがの江藤も、ある程度の着物を身につけた。
だが、徐々に衣服に気を遣わない性分と、佐賀藩の奨励する質素倹約が強く出てきており、何だか以前のように、粗末な服装になってきている。
――直接、姉小路に仕えている、供回りの侍も同行する。
「江藤さん、もう少し見栄えも気にしたらどうや。」
公家に仕える侍を“青侍”というらしいが、わりと気の良い男のようだ。身なりについて、半ば呆れながらも、江藤への忠告を続けている。
「“見栄え”とは、如何(いか)に。」
「あんた、頭はええんやさかい、見かけで損したら、もったいないで。」

――江藤、この辺りの感覚は、ずれている。
姉小路卿は、よほど江藤の才覚を認めるのか服装まで気にしない感じだが、青侍の言うように、普通は貴人のお供が粗衣だと、場違いである。
「衣に意を用いる、暇(いとま)がなく失敬をする。」
相変わらずの無愛想なのだが、江藤が忙しいのも事実である。
「なんや、あんたは、いつも急いてるように見えるわ。」
京周辺で起きた事件の経過、公家や各地の大名の動向など、佐賀への報告を送り続けるが、江藤の素早い仕事ぶりだと、常人に意図までは読みづらい。
――この供回りの青侍は、苦笑しながら感想を述べた。
「まぁ、それが佐賀の流儀やったら、ええんやけどな。」
この青侍は、質素そして勤勉…が“佐賀”なのかと割り切って、自分なりに納得をしたようだ。
なお、公家にも幕府寄りと、尊王攘夷の志士たちの影響が強い派閥がある。
典型的な尊王攘夷派の姉小路卿だったが、江藤を通じて、“西洋かぶれ”の佐賀藩の考え方にも触れた。
尊攘派の仲間内の公家とも会合を重ねるが、文明の進んだ、欧米列強を意識するにつれ、若き公家・姉小路の心持ちには、少しずつ揺らぎが見える。

――瞬く間に時は過ぎて、帰り道には日も暮れる。
「天誅(てんちゅう)」という言葉が流行り、次第に物騒となってきている京の都が、宵闇の刻に至る。
ほんの数年前、彦根(滋賀)の藩士が市中を見回っていた“安政の大獄”の頃は、尊王や攘夷の思想を持つ者が、取り締まりの危険を感じる場所だった。
だが、二年と少し前の“桜田門外の変”以降は、幕府の関係者にとって、安心できない状況に逆転していた。
“安政の大獄”で仲間が捕らわれた報復とばかりに、過激な浪士が、幕府の役人に斬りかかることもある。
そんな時、浪士たちは「天に代わって、誅伐する」という名目で、襲撃を行うのだ。こうして、京の不穏は増すばかりであった。

――姉小路たちは、竹林と屋敷街の狭間に差し掛かかった。
サワサワ…と風が通る。
ここで江藤が同行する供回りに目線を送った。先ほどの青侍が、言葉を返す。
「どないしたんや、江藤さん。」
江藤が、いつになく抑えた口調で語る。
「幾人かが付いてきている。歩みは止めん方がよか。」
「何やて!?」
尊王攘夷派の公家は、政治的な立場が近い、過激派浪士の襲撃目標とはなりづらいはずだ。この青侍にも意外だったのか、とまどう様子が見られる。
幕末動乱の舞台となる京の都。すでに物騒であったが、この時期の危うさは、まだ“序章”と言わざるを得なかった。
(続く)
3月18日(土曜)に放送予定の、佐賀を舞台とする『ブラタモリ』が気になって仕方ないのですが、まずは“本編”を続けます。
〔参照:
時期は文久二年(1862年)初秋。佐賀を脱藩していた江藤新平は、京都で中央政局の情勢を探って、公家や各地の志士と関わります。
これを幕府の役人も知るところとなり、佐賀藩に対応を求める連絡が入ったという話も聞きます。江藤にも、決断せねばならない時期が迫っていました。
――京。公家・姉小路公知の屋敷。表玄関。
この秋、幕府に攘夷実行を催促すべく、江戸に向かう予定のある姉小路卿。出がけに慌ただしい様子で、江藤に届くように一声をかけた。
「江藤よ、ちと出かけるゆえ、ついて参れ。」
身分の高い公家である姉小路に初めて会う時は、長州藩士・桂小五郎らの手回しもあって、さすがの江藤も、ある程度の着物を身につけた。
だが、徐々に衣服に気を遣わない性分と、佐賀藩の奨励する質素倹約が強く出てきており、何だか以前のように、粗末な服装になってきている。
――直接、姉小路に仕えている、供回りの侍も同行する。
「江藤さん、もう少し見栄えも気にしたらどうや。」
公家に仕える侍を“青侍”というらしいが、わりと気の良い男のようだ。身なりについて、半ば呆れながらも、江藤への忠告を続けている。
「“見栄え”とは、如何(いか)に。」
「あんた、頭はええんやさかい、見かけで損したら、もったいないで。」
――江藤、この辺りの感覚は、ずれている。
姉小路卿は、よほど江藤の才覚を認めるのか服装まで気にしない感じだが、青侍の言うように、普通は貴人のお供が粗衣だと、場違いである。
「衣に意を用いる、暇(いとま)がなく失敬をする。」
相変わらずの無愛想なのだが、江藤が忙しいのも事実である。
「なんや、あんたは、いつも急いてるように見えるわ。」
京周辺で起きた事件の経過、公家や各地の大名の動向など、佐賀への報告を送り続けるが、江藤の素早い仕事ぶりだと、常人に意図までは読みづらい。
――この供回りの青侍は、苦笑しながら感想を述べた。
「まぁ、それが佐賀の流儀やったら、ええんやけどな。」
この青侍は、質素そして勤勉…が“佐賀”なのかと割り切って、自分なりに納得をしたようだ。
なお、公家にも幕府寄りと、尊王攘夷の志士たちの影響が強い派閥がある。
典型的な尊王攘夷派の姉小路卿だったが、江藤を通じて、“西洋かぶれ”の佐賀藩の考え方にも触れた。
尊攘派の仲間内の公家とも会合を重ねるが、文明の進んだ、欧米列強を意識するにつれ、若き公家・姉小路の心持ちには、少しずつ揺らぎが見える。

――瞬く間に時は過ぎて、帰り道には日も暮れる。
「天誅(てんちゅう)」という言葉が流行り、次第に物騒となってきている京の都が、宵闇の刻に至る。
ほんの数年前、彦根(滋賀)の藩士が市中を見回っていた“安政の大獄”の頃は、尊王や攘夷の思想を持つ者が、取り締まりの危険を感じる場所だった。
だが、二年と少し前の“桜田門外の変”以降は、幕府の関係者にとって、安心できない状況に逆転していた。
“安政の大獄”で仲間が捕らわれた報復とばかりに、過激な浪士が、幕府の役人に斬りかかることもある。
そんな時、浪士たちは「天に代わって、誅伐する」という名目で、襲撃を行うのだ。こうして、京の不穏は増すばかりであった。
――姉小路たちは、竹林と屋敷街の狭間に差し掛かかった。
サワサワ…と風が通る。
ここで江藤が同行する供回りに目線を送った。先ほどの青侍が、言葉を返す。
「どないしたんや、江藤さん。」
江藤が、いつになく抑えた口調で語る。
「幾人かが付いてきている。歩みは止めん方がよか。」
「何やて!?」
尊王攘夷派の公家は、政治的な立場が近い、過激派浪士の襲撃目標とはなりづらいはずだ。この青侍にも意外だったのか、とまどう様子が見られる。
幕末動乱の舞台となる京の都。すでに物騒であったが、この時期の危うさは、まだ“序章”と言わざるを得なかった。
(続く)
2023年03月09日
第19話「閑叟上洛」①(ある佐賀浪士への苦情)
こんばんは。今回は、本編・第19話の序章として描いた場面です。
文久二年(1862年)も季節は移ろい、秋風が吹き始めました。
佐賀を脱藩した江藤新平は、夏から京都を中心に活動していました。佐賀藩が本気で探せば、すぐに見つかる…はずでした。
当時は「二重鎖国」とも言われた、出入りに厳しい佐賀藩。なぜか佐賀の藩庁には、脱藩者・江藤を捜索する動きは見られなかったようです。
――佐賀城の本丸にて。
佐賀の前藩主・鍋島直正(当時の正式な名は、斉正)は“閑叟”と号していた。
「閑叟さま、また背が曲がっておられますぞ。」
幼なじみの側近・古川与一(松根)が、声をかける。
もはや“殿”と呼ばないのも、「気楽に過ごしてほしい」という優しさであろうか。
〔参照(中盤):第17話「佐賀脱藩」⑪(“都会”の流儀)〕

――ところで、閑叟という名は、
“暇な年寄り”というような意味合いだが、実際のところはかなり気忙しい。
「そう申すな。今はこうしておるのが、楽なのだ…」
直正は古川の忠告に、こう応えた。胃腸(消化器系)に色々と持病があるものだから、痛いところをかばうと、余計に姿勢も崩れがちとなる。
その手元には、朝廷から京の都に上るように呼びかけの書面がある。直正は、それをじっと読み込んでいたのだ。
――直正の幼少期からの側近・古川与一(松根)。
京の都より戻った古川。一通りの報告は聞いたが、直正はあらためて問う。
「松根よ。いま一度、京の話を紐解いてみよ。」
「いまや、京の都は混沌としております。」
直正は“執事”のような側近・古川を、近しい公家のもとに派遣し、京の様子を探らせていたのだ。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑳(ご隠居が遣わす者)〕
ところが、京都では、各藩の志士とつながる“尊王攘夷派”が勢いを持つ。
「…搦手(からめて)からの調べが、足りておりませぬな。」
複雑となる京の情勢。いまや表からの“正攻法”では、必要な情報が得づらい。ここは、“裏口”からの情報が欲しいところである。

――佐賀藩のご隠居となった直正(閑叟)だが、まだ50歳手前。
数十年前もの間、異国の脅威と向き合い、日本の表玄関である長崎の防備を固め、幕府の技術開発にも協力してきた。
また、佐賀の民を、貧困や疫病から守るため、心を砕くような殿様でもあった。
その結果、直正はあらゆる方面で気苦労を重ねた。その笑みも、実年齢より、かなり老けて見える。
「実はな、あえて“野放し”としておる者がおるのだ」
「…京に、“佐賀の者”が潜んでいると仰せですか。」
古川は、直正の言いようを察して、聞き返す。
「その者、潜むと申すより、勝手に動いておると言うべきであろうな。」

直正が、その男の不思議な行動を語る。まるで「佐賀のために佐賀を抜けた」そんな動機があるようだ。
城下で“義祭同盟”を率い、若い藩士の指導者として知られるのが枝吉神陽。その門下生の1人に、江藤新平という者がいる。
――藩の下級役人として江藤は、まず軍事技術を扱う“火術方”に着任。
そこから上佐賀奉行所に転じ、その後は貿易部門の“代品方”にいたが、この初夏に突如、佐賀を脱藩した。
「閑叟さまはその者を、よくご存じなのですか。」
「弘道館にて、よく声の通る男がおったので、どことなく覚えがある程度だ。」
「…されど、江藤なる者。もうしばし京に置いておくか。」
江藤は京の都から、佐賀城下にいる同志に報告を送り続けている。仲間たちも頑張っているのか、断片的にその動きを直正も知る様子だ。

――しかし、ほどなく大坂にある佐賀藩の屋敷から報告が届く。
その内容は、幕府からの注意の伝達で、概ねこのようにあった。
「江藤という者が、京にて暴論を吐く。佐賀で責任を持って対応されたい」と。
「佐賀藩で対処を決められよ」とあるが、ここは「取り押さえて京から排除せよ」と読むべきだろう。
江藤は過激な志士とは一線を画すが「王政を復古するには、外交権の接収」などと具体的な手順を示すので、幕府からすれば危険な者には違いない。
〔参照:第18話「京都見聞」⑳(公卿の評判)〕
――ますます、不穏となる京の都。
過熱する志士への対応に窮した幕府は“京都守護職”を設置し、会津(福島)の藩主・松平容保を、その任に宛てる様子だ。
京の都にて自由に行動した江藤だったが、その存在について、佐賀藩に正式に問い合わせが来てしまっている。
幕府からの依頼は、尊重する傾向がある佐賀藩。もはや江藤に“勝手”をさせておくわけにはいかないようだ。
江藤にとっても、決断の時は近づいていた。
(続く)
文久二年(1862年)も季節は移ろい、秋風が吹き始めました。
佐賀を脱藩した江藤新平は、夏から京都を中心に活動していました。佐賀藩が本気で探せば、すぐに見つかる…はずでした。
当時は「二重鎖国」とも言われた、出入りに厳しい佐賀藩。なぜか佐賀の藩庁には、脱藩者・江藤を捜索する動きは見られなかったようです。
――佐賀城の本丸にて。
佐賀の前藩主・鍋島直正(当時の正式な名は、斉正)は“閑叟”と号していた。
「閑叟さま、また背が曲がっておられますぞ。」
幼なじみの側近・古川与一(松根)が、声をかける。
もはや“殿”と呼ばないのも、「気楽に過ごしてほしい」という優しさであろうか。
〔参照(中盤):
――ところで、閑叟という名は、
“暇な年寄り”というような意味合いだが、実際のところはかなり気忙しい。
「そう申すな。今はこうしておるのが、楽なのだ…」
直正は古川の忠告に、こう応えた。胃腸(消化器系)に色々と持病があるものだから、痛いところをかばうと、余計に姿勢も崩れがちとなる。
その手元には、朝廷から京の都に上るように呼びかけの書面がある。直正は、それをじっと読み込んでいたのだ。
――直正の幼少期からの側近・古川与一(松根)。
京の都より戻った古川。一通りの報告は聞いたが、直正はあらためて問う。
「松根よ。いま一度、京の話を紐解いてみよ。」
「いまや、京の都は混沌としております。」
直正は“執事”のような側近・古川を、近しい公家のもとに派遣し、京の様子を探らせていたのだ。
〔参照:
ところが、京都では、各藩の志士とつながる“尊王攘夷派”が勢いを持つ。
「…搦手(からめて)からの調べが、足りておりませぬな。」
複雑となる京の情勢。いまや表からの“正攻法”では、必要な情報が得づらい。ここは、“裏口”からの情報が欲しいところである。
――佐賀藩のご隠居となった直正(閑叟)だが、まだ50歳手前。
数十年前もの間、異国の脅威と向き合い、日本の表玄関である長崎の防備を固め、幕府の技術開発にも協力してきた。
また、佐賀の民を、貧困や疫病から守るため、心を砕くような殿様でもあった。
その結果、直正はあらゆる方面で気苦労を重ねた。その笑みも、実年齢より、かなり老けて見える。
「実はな、あえて“野放し”としておる者がおるのだ」
「…京に、“佐賀の者”が潜んでいると仰せですか。」
古川は、直正の言いようを察して、聞き返す。
「その者、潜むと申すより、勝手に動いておると言うべきであろうな。」
直正が、その男の不思議な行動を語る。まるで「佐賀のために佐賀を抜けた」そんな動機があるようだ。
城下で“義祭同盟”を率い、若い藩士の指導者として知られるのが枝吉神陽。その門下生の1人に、江藤新平という者がいる。
――藩の下級役人として江藤は、まず軍事技術を扱う“火術方”に着任。
そこから上佐賀奉行所に転じ、その後は貿易部門の“代品方”にいたが、この初夏に突如、佐賀を脱藩した。
「閑叟さまはその者を、よくご存じなのですか。」
「弘道館にて、よく声の通る男がおったので、どことなく覚えがある程度だ。」
「…されど、江藤なる者。もうしばし京に置いておくか。」
江藤は京の都から、佐賀城下にいる同志に報告を送り続けている。仲間たちも頑張っているのか、断片的にその動きを直正も知る様子だ。
――しかし、ほどなく大坂にある佐賀藩の屋敷から報告が届く。
その内容は、幕府からの注意の伝達で、概ねこのようにあった。
「江藤という者が、京にて暴論を吐く。佐賀で責任を持って対応されたい」と。
「佐賀藩で対処を決められよ」とあるが、ここは「取り押さえて京から排除せよ」と読むべきだろう。
江藤は過激な志士とは一線を画すが「王政を復古するには、外交権の接収」などと具体的な手順を示すので、幕府からすれば危険な者には違いない。
〔参照:
――ますます、不穏となる京の都。
過熱する志士への対応に窮した幕府は“京都守護職”を設置し、会津(福島)の藩主・松平容保を、その任に宛てる様子だ。
京の都にて自由に行動した江藤だったが、その存在について、佐賀藩に正式に問い合わせが来てしまっている。
幕府からの依頼は、尊重する傾向がある佐賀藩。もはや江藤に“勝手”をさせておくわけにはいかないようだ。
江藤にとっても、決断の時は近づいていた。
(続く)
2023年03月02日
「出られるが入れない、SAGA」
こんばんは。
最近、佐賀の話が出るたびに、よく耳にするキーワードが、幾つかあります。その1つが「佐賀は、出られるけど入れない」です。
ご存知の方も多いと思いますが、元ネタは昨年12月の漫才コンクール『M-1グランプリ』で“さや香”というコンビが披露した「免許返納」を題材にした漫才。
その終盤では「免許返納でタクシー料金を割り引く」という“佐賀県”の存在が、カギとなっていました。佐賀以外では、難しい構成ではないかとも感じます。
おそらくは会場でも、全国のお茶の間でも、「佐賀はでれるけど入られへん」というフレーズで、爆笑の渦が巻き起こったと思われます。

――ネットニュース等でも話題となった、この漫才。
佐賀県が直近の「都道府県魅力度ランキング」で、47位となってしまった事と並んで、よく使われるネタです。
このように佐賀県出身者である私にとっては“道具”が次々と手元に集まって、もはや故郷・佐賀を紹介する材料には事欠きません。
そして以前に比して、近隣の商業施設では、佐賀県産の商品が陳列棚で、次々と良いポジションを確保。
〔参照(前半):「オールド・イマリ・ロマンス」〕
民放テレビ局の全国放送でも、佐賀の番組が連発されるなど、実のところ、「佐賀の勢い」を生活の端々で感じているところです。
〔参照:「もしかしてだけど、言いたい事がある」〕
――しかし、先ほどの漫才のセリフは結構、響きました。
「佐賀は出れるけど入られへん!」
これは県外(特に九州の外まで)出てしまった人、そして、年齢が高い人ほど、染み入る言葉ではないかと思います。
「故郷は遠くにありて…」とか言いますが、他地域に「生活基盤ができており、もはや簡単には動けない」という方も多いでしょう。
今春にも「佐賀を愛するものの、あえて大都市圏に向かう」若者が、県内から数多く旅立っていくことと思います。
心のどこかで「佐賀への帰り道」は意識してほしいと考えますし、また佐賀県も「出てからも入れる場所」であってほしいと、切に思います。

――長い前置きでしたが、本題です。
「幕末!出られるが入れない、佐賀藩」
いや、基本的には出る事も難しかったのですが、本編・第18話のおさらいも兼ねて、2人の脱藩者のその後を追います。
○ケース1:佐賀藩士・江藤新平
文久二年(1862年)六月に佐賀を脱藩し、京都での情報収集にあたります。
この脱藩の目的は、佐賀の大殿(前藩主)・鍋島直正に、幕末動乱の中心地・京の都の情勢を伝えること。
本編でも、夜更けまで報告書をまとめて寝不足の江藤の姿を描いています。
〔参照(中盤):第18話「京都見聞」⑱(秋風の吹く頃に)〕
――結果から言えば、江藤が頑張って書いた報告書は、
身分の差を超えて、しっかり鍋島直正に届きました。直正公は報告書を一読して、江藤新平の才能に気付きます。
そして、江藤の父・助右衛門に長男・新平を連れ戻すよう命じたそうです。
⇒〔ケース1:結論〕飛び抜けた才能があれば、佐賀から出ても呼び戻される。

○ケース2:小城の大庄屋・古賀利渉
安政五年(1858年)に佐賀、詳しく言えば小城支藩から抜け出した人物。
本編でも登場していますが、「祇園太郎」と名乗って幕末の京都などで活動した、尊王攘夷の志士です。
脱藩の動機や活動にも不明な点が多く、小城では立派な大庄屋だったものの、尊攘思想に感化されて脱藩したと言われます。
江藤新平が脱藩した時点では、長崎に居た可能性もありますが、本編では京都の“案内役”として登場しました。
〔参照:第18話「京都見聞」⑦(ちょっと、待たんね!)〕
幕末の京都では“佐賀の志士”がほぼ活動しておらず、江藤の脱藩にも何か「祇園太郎」が関わったのでは…という推測からの筋書きです。
――なお、祇園太郎(古賀利渉)の行き着いた先ですが、
幕末のうちに、地元・小城に戻ってきています。
佐賀藩の重臣で様々な記録を残している、鍋島夏雲によると、この祇園太郎は「三百諸侯の情報を送ってくる」と評されたそうです。
各地の志士たちと関わって、持ち帰った全国の情報は、佐賀藩にとって価値のある内容でした。
⇒〔ケース2:結論〕地元のために役立つと、佐賀から出ても帰って来られる。

――この「幕末、佐賀藩から出ても入れた」条件を見ると…
意外や、幕末でも現代でも、基本はあまり変わらないようにも思います。
先ほどの漫才では「人間が普通に生きてたら、佐賀に行くタイミングはない!」という旨の強烈なセリフもありました。
私の曲解では「漫然と日々を生きるようでは、“佐賀への道”は開かないぞ!」という警句に聞こえてきます。
「佐賀は出られるばってん、入れんとよ…」
忙しく歳月が過ぎれば、遙かに遠くに感じる佐賀。普通以上の生き方をすれば、たどり着くことが出来るのか。とりあえず私も、頑張ってみます。
最近、佐賀の話が出るたびに、よく耳にするキーワードが、幾つかあります。その1つが「佐賀は、出られるけど入れない」です。
ご存知の方も多いと思いますが、元ネタは昨年12月の漫才コンクール『M-1グランプリ』で“さや香”というコンビが披露した「免許返納」を題材にした漫才。
その終盤では「免許返納でタクシー料金を割り引く」という“佐賀県”の存在が、カギとなっていました。佐賀以外では、難しい構成ではないかとも感じます。
おそらくは会場でも、全国のお茶の間でも、「佐賀はでれるけど入られへん」というフレーズで、爆笑の渦が巻き起こったと思われます。
――ネットニュース等でも話題となった、この漫才。
佐賀県が直近の「都道府県魅力度ランキング」で、47位となってしまった事と並んで、よく使われるネタです。
このように佐賀県出身者である私にとっては“道具”が次々と手元に集まって、もはや故郷・佐賀を紹介する材料には事欠きません。
そして以前に比して、近隣の商業施設では、佐賀県産の商品が陳列棚で、次々と良いポジションを確保。
〔参照(前半):
民放テレビ局の全国放送でも、佐賀の番組が連発されるなど、実のところ、「佐賀の勢い」を生活の端々で感じているところです。
〔参照:
――しかし、先ほどの漫才のセリフは結構、響きました。
「佐賀は出れるけど入られへん!」
これは県外(特に九州の外まで)出てしまった人、そして、年齢が高い人ほど、染み入る言葉ではないかと思います。
「故郷は遠くにありて…」とか言いますが、他地域に「生活基盤ができており、もはや簡単には動けない」という方も多いでしょう。
今春にも「佐賀を愛するものの、あえて大都市圏に向かう」若者が、県内から数多く旅立っていくことと思います。
心のどこかで「佐賀への帰り道」は意識してほしいと考えますし、また佐賀県も「出てからも入れる場所」であってほしいと、切に思います。
――長い前置きでしたが、本題です。
「幕末!出られるが入れない、佐賀藩」
いや、基本的には出る事も難しかったのですが、本編・第18話のおさらいも兼ねて、2人の脱藩者のその後を追います。
○ケース1:佐賀藩士・江藤新平
文久二年(1862年)六月に佐賀を脱藩し、京都での情報収集にあたります。
この脱藩の目的は、佐賀の大殿(前藩主)・鍋島直正に、幕末動乱の中心地・京の都の情勢を伝えること。
本編でも、夜更けまで報告書をまとめて寝不足の江藤の姿を描いています。
〔参照(中盤):
――結果から言えば、江藤が頑張って書いた報告書は、
身分の差を超えて、しっかり鍋島直正に届きました。直正公は報告書を一読して、江藤新平の才能に気付きます。
そして、江藤の父・助右衛門に長男・新平を連れ戻すよう命じたそうです。
⇒〔ケース1:結論〕飛び抜けた才能があれば、佐賀から出ても呼び戻される。
○ケース2:小城の大庄屋・古賀利渉
安政五年(1858年)に佐賀、詳しく言えば小城支藩から抜け出した人物。
本編でも登場していますが、「祇園太郎」と名乗って幕末の京都などで活動した、尊王攘夷の志士です。
脱藩の動機や活動にも不明な点が多く、小城では立派な大庄屋だったものの、尊攘思想に感化されて脱藩したと言われます。
江藤新平が脱藩した時点では、長崎に居た可能性もありますが、本編では京都の“案内役”として登場しました。
〔参照:
幕末の京都では“佐賀の志士”がほぼ活動しておらず、江藤の脱藩にも何か「祇園太郎」が関わったのでは…という推測からの筋書きです。
――なお、祇園太郎(古賀利渉)の行き着いた先ですが、
幕末のうちに、地元・小城に戻ってきています。
佐賀藩の重臣で様々な記録を残している、鍋島夏雲によると、この祇園太郎は「三百諸侯の情報を送ってくる」と評されたそうです。
各地の志士たちと関わって、持ち帰った全国の情報は、佐賀藩にとって価値のある内容でした。
⇒〔ケース2:結論〕地元のために役立つと、佐賀から出ても帰って来られる。
――この「幕末、佐賀藩から出ても入れた」条件を見ると…
意外や、幕末でも現代でも、基本はあまり変わらないようにも思います。
先ほどの漫才では「人間が普通に生きてたら、佐賀に行くタイミングはない!」という旨の強烈なセリフもありました。
私の曲解では「漫然と日々を生きるようでは、“佐賀への道”は開かないぞ!」という警句に聞こえてきます。
「佐賀は出られるばってん、入れんとよ…」
忙しく歳月が過ぎれば、遙かに遠くに感じる佐賀。普通以上の生き方をすれば、たどり着くことが出来るのか。とりあえず私も、頑張ってみます。