2020年06月03日
「なぜ、“関西人”の友達が多いのか?」
こんばんは。
「東京アラート」に触れたかと思えば、次は「大阪モデル」か…と予測された方。半ば正解なのですが、少し意表をついて、「京都」へとお話を展開します。
本編の第10話「蒸気機関」では、佐野栄寿(常民)が、存在感を発揮しました。
ここで、京都。少し昔の写真ですが“平安神宮”です。

明治時代(1895年)に内国勧業博覧会のパビリオンとして、平安京の大極殿や応天門を再現したのが、建物の由来と聞きます。
――桓武天皇と孝明天皇をご祭神とする立派な神社なのですが、考えの浅い若者だった私はこう感じました。
「何だ!?博覧会のパビリオンだったのか…ありがたみの薄いことだ。」
しかし“平安神宮”がこの地に建つまでには、佐野常民の情熱があったようなのです。
少しだけ“明治”の話をします。本編では、まだまだ先の話です…
佐野は、当時、活気を失っていた京都に心を痛め、その再興に尽力します。
――実は「東京も都にしましょう!」と東西の両都案を唱え、京都から東京への遷都を進めたのは、佐賀の大木喬任だと言われています。
“首都”としての力を失った京都は、一時衰退します。
後に大木と同郷の佐野が動いたのは、ナイスフォローと言うべきかもしれません。佐賀藩は、アフターサービスの提供も万全のようです。
まず、佐野は内国勧業博の大枠を変更し、京都での開催を可能にしました。
そして、運営面でも副会長として、“平安神宮”(パビリオン)や“時代祭”(パレード)の企画を進めたと言われています。
そんな歴史を知ることで、私にとって“平安神宮”のありがたみが倍増したことは言うまでもありません。
――さて、今の本編(幕末)の話に戻ります。佐野が登場すると、周囲で“関西弁”が飛び交うので、気になっている方もいるかもしれません。
幕末佐賀藩における“万能の研究主任”と言っても良い、佐野常民(栄寿)。
秀才・佐野の諸国修業の始まりは早く、10代の少年時代からです。まず1838年頃には、養父のいた江戸に留学しています。
本編で描いたのは、佐野の“関西”への留学時代である1846年頃から。
京都で、広瀬元恭の“時習堂”
大坂で、緒方洪庵の“適塾”
紀州(和歌山)で、華岡青洲の開いた“春林軒塾”
…と立て続けに入門・研修を行います。
――当時、20代半ば。現代のイメージでは、大学院の博士課程ぐらいの年齢だった、佐野常民(栄寿)。
京都では、良い仲間に恵まれたようです。
なるべく現代の京都の学生に近いイメージで描きたかったところです。

※現代も学生たちが憩う、京都の鴨川べり。
科学者・中村奇輔は、地元・京都の人のようです。
本編での言葉づかいも、多少“京ことば”寄りにしたい…と試みています。
翻訳家・石黒寛次は、現在では京都府内ですが、日本海に面した丹後田辺藩の出身です。今の舞鶴あたりのようです。
実は、舞鶴の方言をまったく知らなかったのですが、通称“ちゃった弁”と言われているようです。
石黒が不思議な話し方をしているときは、その影響だとお考えください。方言の正確性には自信がありません…
――そして、佐野は再び江戸に行き、医術の師匠・伊東玄朴の“象先堂”で修業します。
ここで、佐野は「なぜか金銭を浪費し、塾の辞書を質入れしてしまった」事件を起こします。
当然、塾は破門されますが、同郷(佐賀の神埼出身)の師匠の恩情もあってか、佐野の蘭学人生は何とか続きます。
そして、佐賀に戻る前に、京都に寄った佐野常民。
突如、友達2人(中村・石黒)と“からくり儀右衛門”田中久重の父子をスカウトして佐賀に連れて来る…
この経過には、いろいろと謎が多いようです。
私は、殿・鍋島直正が発した人材スカウトの密命と、佐賀藩の蘭学のネットワークによる根回しがあった…みたいな表現をしています。
――さて、結論です。なぜ、私が佐野常民の友達をなるべく“関西”色にこだわって描くのか。
それは2025年に開催予定「大阪・関西万国博覧会」を意識しているからです。
また、第20話くらいで描きたいのですが、幕末のパリ万博には、佐野を団長として、佐賀藩が出展しています。
ちなみに幕府と薩摩藩は、現地でも政治闘争を繰り広げていましたが、佐賀藩は万博での展示と販路開拓に熱を入れています。
相変わらずマジメな佐賀藩…
そして、明治に入ってからのウィーン万博。
副総裁として現場の指揮を執ったのは佐野常民。
極めつけは、現地に行ってないけど、総裁は大隈重信。
…以上です。一気に畳みかけてみましたが、いかがでしょうか。
「これは…もはや“佐賀万博”なのでは!?」…と、“ボケ”てみますので、「ちゃうやろ!」とか「なんでやねん!」とか温かい“ツッコミ”をお待ちしております…と、やや関西風味(薄味)にまとめてみました。難しいな。
「東京アラート」に触れたかと思えば、次は「大阪モデル」か…と予測された方。半ば正解なのですが、少し意表をついて、「京都」へとお話を展開します。
本編の第10話「蒸気機関」では、佐野栄寿(常民)が、存在感を発揮しました。
ここで、京都。少し昔の写真ですが“平安神宮”です。
明治時代(1895年)に内国勧業博覧会のパビリオンとして、平安京の大極殿や応天門を再現したのが、建物の由来と聞きます。
――桓武天皇と孝明天皇をご祭神とする立派な神社なのですが、考えの浅い若者だった私はこう感じました。
「何だ!?博覧会のパビリオンだったのか…ありがたみの薄いことだ。」
しかし“平安神宮”がこの地に建つまでには、佐野常民の情熱があったようなのです。
少しだけ“明治”の話をします。本編では、まだまだ先の話です…
佐野は、当時、活気を失っていた京都に心を痛め、その再興に尽力します。
――実は「東京も都にしましょう!」と東西の両都案を唱え、京都から東京への遷都を進めたのは、佐賀の大木喬任だと言われています。
“首都”としての力を失った京都は、一時衰退します。
後に大木と同郷の佐野が動いたのは、ナイスフォローと言うべきかもしれません。佐賀藩は、アフターサービスの提供も万全のようです。
まず、佐野は内国勧業博の大枠を変更し、京都での開催を可能にしました。
そして、運営面でも副会長として、“平安神宮”(パビリオン)や“時代祭”(パレード)の企画を進めたと言われています。
そんな歴史を知ることで、私にとって“平安神宮”のありがたみが倍増したことは言うまでもありません。
――さて、今の本編(幕末)の話に戻ります。佐野が登場すると、周囲で“関西弁”が飛び交うので、気になっている方もいるかもしれません。
幕末佐賀藩における“万能の研究主任”と言っても良い、佐野常民(栄寿)。
秀才・佐野の諸国修業の始まりは早く、10代の少年時代からです。まず1838年頃には、養父のいた江戸に留学しています。
本編で描いたのは、佐野の“関西”への留学時代である1846年頃から。
京都で、広瀬元恭の“時習堂”
大坂で、緒方洪庵の“適塾”
紀州(和歌山)で、華岡青洲の開いた“春林軒塾”
…と立て続けに入門・研修を行います。
――当時、20代半ば。現代のイメージでは、大学院の博士課程ぐらいの年齢だった、佐野常民(栄寿)。
京都では、良い仲間に恵まれたようです。
なるべく現代の京都の学生に近いイメージで描きたかったところです。
※現代も学生たちが憩う、京都の鴨川べり。
科学者・中村奇輔は、地元・京都の人のようです。
本編での言葉づかいも、多少“京ことば”寄りにしたい…と試みています。
翻訳家・石黒寛次は、現在では京都府内ですが、日本海に面した丹後田辺藩の出身です。今の舞鶴あたりのようです。
実は、舞鶴の方言をまったく知らなかったのですが、通称“ちゃった弁”と言われているようです。
石黒が不思議な話し方をしているときは、その影響だとお考えください。方言の正確性には自信がありません…
――そして、佐野は再び江戸に行き、医術の師匠・伊東玄朴の“象先堂”で修業します。
ここで、佐野は「なぜか金銭を浪費し、塾の辞書を質入れしてしまった」事件を起こします。
当然、塾は破門されますが、同郷(佐賀の神埼出身)の師匠の恩情もあってか、佐野の蘭学人生は何とか続きます。
そして、佐賀に戻る前に、京都に寄った佐野常民。
突如、友達2人(中村・石黒)と“からくり儀右衛門”田中久重の父子をスカウトして佐賀に連れて来る…
この経過には、いろいろと謎が多いようです。
私は、殿・鍋島直正が発した人材スカウトの密命と、佐賀藩の蘭学のネットワークによる根回しがあった…みたいな表現をしています。
――さて、結論です。なぜ、私が佐野常民の友達をなるべく“関西”色にこだわって描くのか。
それは2025年に開催予定「大阪・関西万国博覧会」を意識しているからです。
また、第20話くらいで描きたいのですが、幕末のパリ万博には、佐野を団長として、佐賀藩が出展しています。
ちなみに幕府と薩摩藩は、現地でも政治闘争を繰り広げていましたが、佐賀藩は万博での展示と販路開拓に熱を入れています。
相変わらずマジメな佐賀藩…
そして、明治に入ってからのウィーン万博。
副総裁として現場の指揮を執ったのは佐野常民。
極めつけは、現地に行ってないけど、総裁は大隈重信。
…以上です。一気に畳みかけてみましたが、いかがでしょうか。
「これは…もはや“佐賀万博”なのでは!?」…と、“ボケ”てみますので、「ちゃうやろ!」とか「なんでやねん!」とか温かい“ツッコミ”をお待ちしております…と、やや関西風味(薄味)にまとめてみました。難しいな。
Posted by SR at 22:06 | Comments(0) | 戦略編(S)
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