2023年05月30日
第19話「閑叟上洛」⑬(東海道から流れる噂)
こんばんは。
前回は、佐賀に帰ろうとする脱藩者・江藤新平と、有力公家・姉小路公知の別れの場面でした。
時期は文久二年(1862年)の秋ですが、姉小路は幕府に“攘夷実行”を催促する役回りで、京都から江戸へと向かいます。
この別れと旅立ちの少し前、同年八月に東海道では、幕末期の展開に大きい影響を及ぼす事件が起きていました。

――京。伏見の川港。
江藤新平は京の街から発ち、南にある川沿いの港町・伏見に向かい、佐賀への帰路へと入っていた。
大殿(前藩主)・鍋島直正まで、どうにか自身が見聞した京の情報を正確に伝え、役立ててほしいという強い想いを持っている。
「江藤さん。あんたも頑固な男や。姉小路卿も残ってほしいと仰せやのに。」
「それは恩に感じておるし、必ず戻って来らんばと思いよる。」
京に滞在中、世話になっていた姉小路の供回り。公家に仕える武士のことを“青侍”と言ったりするが、なかなか気の良い男らしい。
〔参照:第19話「閑叟上洛」②(入り組んだ、京の風向き)〕
無責任な暴論を吐く者は、手厳しく論破することもある江藤だが、この青侍との関係は良好なようだ。

――この伏見港から大坂(大阪)には、川下りの船旅となる。
「別れの手土産に一つ、聞いたばかりの噂話をしたるわ。」
京都から少し南にある伏見まで、この青侍は、江藤を見送りに来たらしい。
人あたりが良いのもあってか、かなりの早耳だ。尊王攘夷派の若き有力公家・姉小路公知の周囲には、様々な情報が集まっていた。
江藤が個人で、朝廷・幕府・諸大名や各地の志士の動向を掴むには、かなり良い位置にいたことになる。
「それは、ありがたか。佐賀に戻れば、もはや京での噂話は聞けぬゆえ。」
「…まだ噂やけどな。薩摩が、異人を斬ったらしいで。」
――つい数か月前には、この伏見にある寺田屋で。
薩摩藩は国父・島津久光の命令で、過激な勤王派の藩士を斬り捨てた。
〔参照:第18話「京都見聞」③(寺田屋騒動の始末)〕

朝廷の威光により幕府の人事に介入し、薩摩が主導する幕政改革を実現したい時に、火種となる藩士は排除したい、という意図があったとされる。
この頃の薩摩は、一応は幕府寄りであり、海外貿易の利益も大事にするので、攘夷派のように、外国の排斥には組みしない傾向だった。
「薩摩が異人を斬ったとは、なにゆえか。どの国の者か。」
「詳しゅうわからんけど、異人が行列を横切ったらしいで。無礼や!というて、バッサリや。」
公家の供回りにしては、随分とくだけた物言いだが、この辺りの“軽さ”は身分が高くない者も多い志士や、商人ともつながるのに役立つようだ。
「それが事実であれば、国を危うくする短慮なり。」
その話を聞いて、江藤は厳しい表情をした。
――のちに“生麦事件”と呼ばれる、イギリス人に対する殺傷事件である。
文久二年八月に発生しており、事件現場は、東海道の神奈川宿に近い生麦村(現・横浜市内)。

川崎大師に向かったともいう、休日の乗馬を楽しんでいたイギリス人の一行が、薩摩藩の国父(藩主の父)・島津久光の、江戸から帰る行列とすれ違う。
薩摩の侍は「こらこら、馬を下りてたもんせ。」と身振りで伝えたが、イギリス人には理解できなかったようで、脇に逸れようとそのまま馬を進めた。
狭い道で薩摩の行列に逆流する形で進んだ馬が暴れ出し、国父・久光の駕籠の方を向いたので、薩摩の侍が抜刀した…というのが、概略のようだ。
日本国内の基準では、朝廷の使者を護衛する大藩の行列に突っ込めば成敗されて当然だが、欧米の感覚だと、自国民が斬られれば黙っていないだろう。
――開国後に続発した外国人襲撃とは状況が異なり、
脱藩の浪士が、突然襲いかかったものではない。明らかに斬ったのは、行列を警護していた薩摩藩士と思われる。
異人が行列に侵入してきたから、薩摩の手出しもやむを得なかったのかもしれないが、斬りつけた結果は外交上、重大なものだ。

「たぶん江藤さんは渋い顔をすると思うたけど、皆は大喜びや。」
どこからか聞いた話を青侍が続ける。事件の全容は見えないにせよ、旅人たちが現地での噂を拾えば、話は拡散していく。
「我らより先に異人を斬りゆうか!薩摩に遅れを取るな!…とか評判やで。」
青侍が、この話を聞いた攘夷派の志士たちの喜びようを再現してみせた。
――さらに、青侍が言葉を続ける。
「なぁ、江藤さん。時勢は動いとるで。いま、京から離れてええんか。」
「そがん(そのような)動きのあるなら、より急いて佐賀に戻らんばならん。」
青侍の呼びかけも理屈が通っていると思いつつも、江藤はそれを打ち消した。たしかに、刻一刻と移ろう政局を追うには、京の都に居る方が有利だ。
「…有り体(ありてい)に言えば、姉小路卿のところに残ってほしいんや。」
何やら、この青侍、今日は切羽詰まった印象があり、言葉を続ける。
「失礼な物言いやけど。こっちに居れば、金にも苦労はせんで。」

――伏見港の川風が、柳の枝を揺らす。
「そこまでのご厚情、恩に着る。」
もともと表情に固いところのある江藤だが、実のある提案に対して痩せ我慢をするようでもあった。
「佐賀に戻れば、切腹を命じられるかもしれんのやろ。」
ひとたび、江藤が佐賀に立ち入れば“重罪人”としての処遇が待っている可能性も高く、青侍の指摘も正しい。
江藤を引き留めたいのは、何か胸騒ぎを感じている様子もうかがえる。江藤は振り払うように、言葉を返した。
「ばってん、これも我が身一つの事ではなか。」
――幕府改革に熱心に介入し、開国も容認だったはずの薩摩藩。
国父・島津久光が兵を率いて、江戸に行った名目は公家の護衛だが、朝廷と幕府を結ぶ公武合体を、薩摩藩の圧力で進める意図だ。
ところが、事情はあったにせよ、帰り道に異人を斬る事件を起こしたことで、幕政を安定させるどころか混乱の中心に入ってしまった。
薩摩の思惑とは違う方向で、外国を排斥する“攘夷”運動の盛り上がりも加速させているのだ。

「姉小路卿にも、“中将”さまに道筋をお示ししてくる旨を、申し上げた。」
江藤が考える最適な答えは、実力があるうえ秩序を重んじる鍋島直正が佐賀という先進的な雄藩を率いて、事態の収拾をはかることで変わらない。
「わかるで。他の国より、佐賀は落ち着いとるからな。でもな…。」
この青侍にも、これから京の都で起きる事、どの程度まで見えていたかは定かではない。
――昼夜問わずに舟が行き交う、伏見の川港。
結構な頻度で船着場に発着があり、いつも賑やかだ。商人や侍も行き交う。江藤は、京から大坂に下っていく舟に乗り込んだ。
ここで青侍が、別れの一言を発した。
「江藤さん…命は大事にしろや。それと早う戻って来いよ。」
「いずれ都へと戻る事は約束する。御身も大切にせんばな。」
互いを気遣う言葉を交わして、大坂へと向かう乗り合いの舟はゆっくりと川べりから離れていき、ゆるやかな下りの流れに乗り始める。
このとき、江藤新平が京の都に滞在した期間は、わずか3か月程度という。短い夏に得た、微かな縁がつながって、のちの明治の世に活きることになる。
(続く)
前回は、佐賀に帰ろうとする脱藩者・江藤新平と、有力公家・姉小路公知の別れの場面でした。
時期は文久二年(1862年)の秋ですが、姉小路は幕府に“攘夷実行”を催促する役回りで、京都から江戸へと向かいます。
この別れと旅立ちの少し前、同年八月に東海道では、幕末期の展開に大きい影響を及ぼす事件が起きていました。

――京。伏見の川港。
江藤新平は京の街から発ち、南にある川沿いの港町・伏見に向かい、佐賀への帰路へと入っていた。
大殿(前藩主)・鍋島直正まで、どうにか自身が見聞した京の情報を正確に伝え、役立ててほしいという強い想いを持っている。
「江藤さん。あんたも頑固な男や。姉小路卿も残ってほしいと仰せやのに。」
「それは恩に感じておるし、必ず戻って来らんばと思いよる。」
京に滞在中、世話になっていた姉小路の供回り。公家に仕える武士のことを“青侍”と言ったりするが、なかなか気の良い男らしい。
〔参照:
無責任な暴論を吐く者は、手厳しく論破することもある江藤だが、この青侍との関係は良好なようだ。

――この伏見港から大坂(大阪)には、川下りの船旅となる。
「別れの手土産に一つ、聞いたばかりの噂話をしたるわ。」
京都から少し南にある伏見まで、この青侍は、江藤を見送りに来たらしい。
人あたりが良いのもあってか、かなりの早耳だ。尊王攘夷派の若き有力公家・姉小路公知の周囲には、様々な情報が集まっていた。
江藤が個人で、朝廷・幕府・諸大名や各地の志士の動向を掴むには、かなり良い位置にいたことになる。
「それは、ありがたか。佐賀に戻れば、もはや京での噂話は聞けぬゆえ。」
「…まだ噂やけどな。薩摩が、異人を斬ったらしいで。」
――つい数か月前には、この伏見にある寺田屋で。
薩摩藩は国父・島津久光の命令で、過激な勤王派の藩士を斬り捨てた。
〔参照:

朝廷の威光により幕府の人事に介入し、薩摩が主導する幕政改革を実現したい時に、火種となる藩士は排除したい、という意図があったとされる。
この頃の薩摩は、一応は幕府寄りであり、海外貿易の利益も大事にするので、攘夷派のように、外国の排斥には組みしない傾向だった。
「薩摩が異人を斬ったとは、なにゆえか。どの国の者か。」
「詳しゅうわからんけど、異人が行列を横切ったらしいで。無礼や!というて、バッサリや。」
公家の供回りにしては、随分とくだけた物言いだが、この辺りの“軽さ”は身分が高くない者も多い志士や、商人ともつながるのに役立つようだ。
「それが事実であれば、国を危うくする短慮なり。」
その話を聞いて、江藤は厳しい表情をした。
――のちに“生麦事件”と呼ばれる、イギリス人に対する殺傷事件である。
文久二年八月に発生しており、事件現場は、東海道の神奈川宿に近い生麦村(現・横浜市内)。
川崎大師に向かったともいう、休日の乗馬を楽しんでいたイギリス人の一行が、薩摩藩の国父(藩主の父)・島津久光の、江戸から帰る行列とすれ違う。
薩摩の侍は「こらこら、馬を下りてたもんせ。」と身振りで伝えたが、イギリス人には理解できなかったようで、脇に逸れようとそのまま馬を進めた。
狭い道で薩摩の行列に逆流する形で進んだ馬が暴れ出し、国父・久光の駕籠の方を向いたので、薩摩の侍が抜刀した…というのが、概略のようだ。
日本国内の基準では、朝廷の使者を護衛する大藩の行列に突っ込めば成敗されて当然だが、欧米の感覚だと、自国民が斬られれば黙っていないだろう。
――開国後に続発した外国人襲撃とは状況が異なり、
脱藩の浪士が、突然襲いかかったものではない。明らかに斬ったのは、行列を警護していた薩摩藩士と思われる。
異人が行列に侵入してきたから、薩摩の手出しもやむを得なかったのかもしれないが、斬りつけた結果は外交上、重大なものだ。
「たぶん江藤さんは渋い顔をすると思うたけど、皆は大喜びや。」
どこからか聞いた話を青侍が続ける。事件の全容は見えないにせよ、旅人たちが現地での噂を拾えば、話は拡散していく。
「我らより先に異人を斬りゆうか!薩摩に遅れを取るな!…とか評判やで。」
青侍が、この話を聞いた攘夷派の志士たちの喜びようを再現してみせた。
――さらに、青侍が言葉を続ける。
「なぁ、江藤さん。時勢は動いとるで。いま、京から離れてええんか。」
「そがん(そのような)動きのあるなら、より急いて佐賀に戻らんばならん。」
青侍の呼びかけも理屈が通っていると思いつつも、江藤はそれを打ち消した。たしかに、刻一刻と移ろう政局を追うには、京の都に居る方が有利だ。
「…有り体(ありてい)に言えば、姉小路卿のところに残ってほしいんや。」
何やら、この青侍、今日は切羽詰まった印象があり、言葉を続ける。
「失礼な物言いやけど。こっちに居れば、金にも苦労はせんで。」

――伏見港の川風が、柳の枝を揺らす。
「そこまでのご厚情、恩に着る。」
もともと表情に固いところのある江藤だが、実のある提案に対して痩せ我慢をするようでもあった。
「佐賀に戻れば、切腹を命じられるかもしれんのやろ。」
ひとたび、江藤が佐賀に立ち入れば“重罪人”としての処遇が待っている可能性も高く、青侍の指摘も正しい。
江藤を引き留めたいのは、何か胸騒ぎを感じている様子もうかがえる。江藤は振り払うように、言葉を返した。
「ばってん、これも我が身一つの事ではなか。」
――幕府改革に熱心に介入し、開国も容認だったはずの薩摩藩。
国父・島津久光が兵を率いて、江戸に行った名目は公家の護衛だが、朝廷と幕府を結ぶ公武合体を、薩摩藩の圧力で進める意図だ。
ところが、事情はあったにせよ、帰り道に異人を斬る事件を起こしたことで、幕政を安定させるどころか混乱の中心に入ってしまった。
薩摩の思惑とは違う方向で、外国を排斥する“攘夷”運動の盛り上がりも加速させているのだ。

「姉小路卿にも、“中将”さまに道筋をお示ししてくる旨を、申し上げた。」
江藤が考える最適な答えは、実力があるうえ秩序を重んじる鍋島直正が佐賀という先進的な雄藩を率いて、事態の収拾をはかることで変わらない。
「わかるで。他の国より、佐賀は落ち着いとるからな。でもな…。」
この青侍にも、これから京の都で起きる事、どの程度まで見えていたかは定かではない。
――昼夜問わずに舟が行き交う、伏見の川港。
結構な頻度で船着場に発着があり、いつも賑やかだ。商人や侍も行き交う。江藤は、京から大坂に下っていく舟に乗り込んだ。
ここで青侍が、別れの一言を発した。
「江藤さん…命は大事にしろや。それと早う戻って来いよ。」
「いずれ都へと戻る事は約束する。御身も大切にせんばな。」
互いを気遣う言葉を交わして、大坂へと向かう乗り合いの舟はゆっくりと川べりから離れていき、ゆるやかな下りの流れに乗り始める。
このとき、江藤新平が京の都に滞在した期間は、わずか3か月程度という。短い夏に得た、微かな縁がつながって、のちの明治の世に活きることになる。
(続く)
2023年05月23日
第19話「閑叟上洛」⑫(新しき御代〔みよ〕に)
こんばんは。
“本編”では文久二年(1862年)秋の話を綴っていますが、ここからわずか5年ほどで、“明治維新”と呼ばれる時期が到来します。
江藤新平と言えば、近代司法制度を作った事が有名ですが、幕府から朝廷への政権の移行期を支え、“国家”の機能を保つ事にも深く関わったようです。
いわゆる“無血開城”で江戸に入った時も、調査にあたっていた江藤新平は、幕府の行政(税制)や裁判(刑法)の書類を集め回ったといいます。

他の志士たちとは一線を画す、独特の行動。江藤は、旧幕府の実務を回してきた役人と多数知り合い、人材不足の新政府に引き込んだようです。
のちに日本が近代国家となるために、どうしても必要だった人物がいた。今回は、その視点でご覧ください。
――尊王攘夷派の有力公家・姉小路公知の屋敷。
「江藤、どうしても佐賀に帰るんか。」
「先日、お伝えしたとおりにて。」
〔参照:第19話「閑叟上洛」⑧(“逃げるが勝ち”とも申すのに)〕
幕府に攘夷決行を促すため、江戸下向の準備に忙しい姉小路。江藤の返事が変わらぬと見るや、話を変えた。
「まろも、江戸に下れば、忙しゅうなるんや。」
「“攘夷”の催促にございますか。」
「それもあるんやが、鉄(くろがね)の大筒も見ておかんとな。」
「良きことかと存じます。」

江藤も“火術方”の役人として出入りした反射炉で、佐賀藩が鋳造した鉄製の大砲も、江戸の台場に配備されている。
「徳川が夷狄(いてき)に備えとるか、この姉小路が見聞してつかわそう。」
――有力公家としては年若い、姉小路。やや茶目っ気を見せている。
京都での活動で才覚を示した江藤。姉小路からも「側近に入らないか」という誘いがあったが、先日、それを断っていた。
「江藤よ。京で待っておっても、“中将”(鍋島直正)は参じるのやないか。」
姉小路が、話を本筋に戻した。
たしかに鍋島直正は、朝廷からの上洛の要請に承諾を返している。ここだけ見れば、江藤が無理をして、佐賀に戻る必要はなさそうだ。

「ただ、“中将”様が、京に上れば良いという事ではありませぬ。」
ここは、江藤が否定した。
――佐賀の前藩主・鍋島直正(閑叟)。
武家なら「肥前守」なのだろうが、公家との対話なので“中将”となっている。
「中将様にあるべき道筋を示すため、佐賀に帰るのでございます。」
江藤が続けた。尊王攘夷派が意気盛んな京都の情勢について、佐賀藩には情報が乏しいのだ。
佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)に伝えたいことがある。実際のところ、江藤は、姉小路の周囲に集まる尊王攘夷派の“志士”を評価していない。
〔参照(中盤):第18話「京都見聞」⑱(秋風の吹く頃に)〕

考えなく異国とぶつかろうとする攘夷派と、扇動された公家の動きが京の都には渦巻く。それに鍋島直正が巻き込まれるのを心配している。
影響力の大きい佐賀藩が、攘夷決行などという“妄言”に乗って動けば、それこそ国が危うくなりかねない。
――わりと饒舌な姉小路に対し、江藤はいつもより言葉少なく応じる。
「…長州の桂(小五郎)からも聞いておるぞ。江藤は、危うい事をする男やと。」
「危うきは、佐賀を抜けた時より覚悟のうえ。」
江藤も、“切腹”を命ぜられる恐れのある脱藩の帰路だとの認識はあるのだ。
「徳川が政を仕切る世は、もう長(なご)うは無い。」
姉小路が突如として、また別の話を切り出した。

「新しき御代(みよ)は、もうすぐ来るのや。」
これからは天皇を中心とした朝廷が政治を進めるのだと想いを語っている。
姉小路も最初に出会った時は、若さというより熱っぽさを感じさせたが、この夏の数か月で、その横顔には凜々しさも見えた。
〔参照:第18話「京都見聞」⑭(若き公家の星)〕
「江藤。新しき御代(みよ)に、そなたは居るんやろうな。」
「それは申す間でもないこと。必ず参じます。」
「よし。その言葉、この姉小路が聞きおいたで。」
――姉小路卿は袖をひるがえし、京の夕日に向かう。
「そなたとは、もう少しゆるりと話をしたかったのう。」
背を向けたまま、姉小路が語る。
「まろは、近いうちに“蒸気仕掛け”の船にも乗ってみよう。」
「よか事にございます。異国の業(わざ)を超えんと欲すれば、学ばねばならんです。」
この姿勢は、江藤のみならず、佐賀藩の志士たちの心構えでもあった。
〔参照:第18話「京都見聞」⑲(“蒸気”の目覚め)〕

「必ず生き延びて、然るべき時に都に参じよ。」
「はっ。」
江藤は、はっきりと通る声で、姉小路に返答した。
ここから数年後。“新しき御代(みよ)”を迎えた時、京都にて混乱する新政府に、江藤はその姿を見せることになる。
しかし、その江藤を迎え入れたのは、姉小路ではなく、その盟友だった公家・三条実美だったという。これは、まだ先の話である。
〔参照:第18話「京都見聞」⑳(公卿の評判)〕
(続く)
“本編”では文久二年(1862年)秋の話を綴っていますが、ここからわずか5年ほどで、“明治維新”と呼ばれる時期が到来します。
江藤新平と言えば、近代司法制度を作った事が有名ですが、幕府から朝廷への政権の移行期を支え、“国家”の機能を保つ事にも深く関わったようです。
いわゆる“無血開城”で江戸に入った時も、調査にあたっていた江藤新平は、幕府の行政(税制)や裁判(刑法)の書類を集め回ったといいます。
他の志士たちとは一線を画す、独特の行動。江藤は、旧幕府の実務を回してきた役人と多数知り合い、人材不足の新政府に引き込んだようです。
のちに日本が近代国家となるために、どうしても必要だった人物がいた。今回は、その視点でご覧ください。
――尊王攘夷派の有力公家・姉小路公知の屋敷。
「江藤、どうしても佐賀に帰るんか。」
「先日、お伝えしたとおりにて。」
〔参照:
幕府に攘夷決行を促すため、江戸下向の準備に忙しい姉小路。江藤の返事が変わらぬと見るや、話を変えた。
「まろも、江戸に下れば、忙しゅうなるんや。」
「“攘夷”の催促にございますか。」
「それもあるんやが、鉄(くろがね)の大筒も見ておかんとな。」
「良きことかと存じます。」

江藤も“火術方”の役人として出入りした反射炉で、佐賀藩が鋳造した鉄製の大砲も、江戸の台場に配備されている。
「徳川が夷狄(いてき)に備えとるか、この姉小路が見聞してつかわそう。」
――有力公家としては年若い、姉小路。やや茶目っ気を見せている。
京都での活動で才覚を示した江藤。姉小路からも「側近に入らないか」という誘いがあったが、先日、それを断っていた。
「江藤よ。京で待っておっても、“中将”(鍋島直正)は参じるのやないか。」
姉小路が、話を本筋に戻した。
たしかに鍋島直正は、朝廷からの上洛の要請に承諾を返している。ここだけ見れば、江藤が無理をして、佐賀に戻る必要はなさそうだ。
「ただ、“中将”様が、京に上れば良いという事ではありませぬ。」
ここは、江藤が否定した。
――佐賀の前藩主・鍋島直正(閑叟)。
武家なら「肥前守」なのだろうが、公家との対話なので“中将”となっている。
「中将様にあるべき道筋を示すため、佐賀に帰るのでございます。」
江藤が続けた。尊王攘夷派が意気盛んな京都の情勢について、佐賀藩には情報が乏しいのだ。
佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)に伝えたいことがある。実際のところ、江藤は、姉小路の周囲に集まる尊王攘夷派の“志士”を評価していない。
〔参照(中盤):
考えなく異国とぶつかろうとする攘夷派と、扇動された公家の動きが京の都には渦巻く。それに鍋島直正が巻き込まれるのを心配している。
影響力の大きい佐賀藩が、攘夷決行などという“妄言”に乗って動けば、それこそ国が危うくなりかねない。
――わりと饒舌な姉小路に対し、江藤はいつもより言葉少なく応じる。
「…長州の桂(小五郎)からも聞いておるぞ。江藤は、危うい事をする男やと。」
「危うきは、佐賀を抜けた時より覚悟のうえ。」
江藤も、“切腹”を命ぜられる恐れのある脱藩の帰路だとの認識はあるのだ。
「徳川が政を仕切る世は、もう長(なご)うは無い。」
姉小路が突如として、また別の話を切り出した。
「新しき御代(みよ)は、もうすぐ来るのや。」
これからは天皇を中心とした朝廷が政治を進めるのだと想いを語っている。
姉小路も最初に出会った時は、若さというより熱っぽさを感じさせたが、この夏の数か月で、その横顔には凜々しさも見えた。
〔参照:
「江藤。新しき御代(みよ)に、そなたは居るんやろうな。」
「それは申す間でもないこと。必ず参じます。」
「よし。その言葉、この姉小路が聞きおいたで。」
――姉小路卿は袖をひるがえし、京の夕日に向かう。
「そなたとは、もう少しゆるりと話をしたかったのう。」
背を向けたまま、姉小路が語る。
「まろは、近いうちに“蒸気仕掛け”の船にも乗ってみよう。」
「よか事にございます。異国の業(わざ)を超えんと欲すれば、学ばねばならんです。」
この姿勢は、江藤のみならず、佐賀藩の志士たちの心構えでもあった。
〔参照:
「必ず生き延びて、然るべき時に都に参じよ。」
「はっ。」
江藤は、はっきりと通る声で、姉小路に返答した。
ここから数年後。“新しき御代(みよ)”を迎えた時、京都にて混乱する新政府に、江藤はその姿を見せることになる。
しかし、その江藤を迎え入れたのは、姉小路ではなく、その盟友だった公家・三条実美だったという。これは、まだ先の話である。
〔参照:
(続く)
2023年05月15日
第19話「閑叟上洛」⑪(続・陽だまりの下で)
こんばんは。今年の大河ドラマ『どうする家康』も盛り上がってきており、感想を書きたくもあるのですが、今は“本編”を淡々と進めます。
時は、文久二年(1862年)の秋。佐賀を脱藩した江藤新平を京都まで出向き、連れ戻すように命じられたのは、江藤の父・助右衛門でした。
藩庁からの指令は、佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)の意向だったと言います。
江藤が送る報告書の宛先だった、大木喬任(民平)や坂井辰之允など、同志たちも、江藤の帰藩後に向け、動き始めます。

とくに慌ただしいのは、佐賀から出立する予定の江藤助右衛門と家族でした。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑫(陽だまりの下で)〕
――藩の役人から伝わった指示。
江藤助右衛門も藩の役人なので、子・新平の脱藩後は謹慎中の状況だったが、ここで助右衛門は謹慎を解かれ、新平を連れ戻す任務を与えられた。
助右衛門は、詩の一節を吟(ぎん)じているようだ。その声は朗々と響く。
「鞭声(べんせい)粛々~、夜河を過(わた)る~」
「あなた。相変わらず、お声のよかですけど、なにゆえ“川中島”なのですか。」
こう問いかけたのは、助右衛門の妻・浅子である。
江藤新平に、まず“漢学”の基礎を教えたのは、母・浅子だったという。同時代の女性としては、かなり学問に通じている。
――貧しい時期は長くとも、誇りと教養は失わない家族。
助右衛門が発した詩吟の一節は“川中島の合戦”を題材にしたものらしい。
戦国時代に武田と上杉の両軍がぶつかる戦いで、上杉側がひそかに馬に鞭(むち)をあて、川を渡る情景を描いた一節だ。何か秘めた決意が感じられる。
「老骨に鞭(むち)打ってでも、お役目を果たさんば、と思うてな。」
「…でしたら、始めから、そう、おっしゃってくださればよいのに。」
教養のある浅子らしく、ここは冷静な物言いだった。残念ながら、助右衛門の感じる“男の浪漫”は伝わりづらかったようだ。

助右衛門のお役目は、藩命により佐賀から出て、子・新平を連れて帰ること。京の都に上って我が子とはいえ尋ね人を探すのは老体には堪えるだろう。
――先ほどは朗々と詩を吟じていた、助右衛門が急に小声となった。
浅子の耳に、口を近づけて、ひそひそ話をする。
「実はな。このお達しは、閑叟さまの思し召し…だと聞きよるぞ。」
「まぁ。大殿様が!?新平を迎えに行け、と仰せなのですか。」
「そがん(その通り)たい。」
「もしや、佐賀を抜けた事も、お目こぼしいただけるのでは。」

子・新平が決行した、佐賀からの脱藩は重罪のはずである。本来なら、藩吏がすぐさま捕縛に向かったとしても、何も文句は言えない。
――ここでは浅子にも、助右衛門が高揚する理由が伝わった。
大殿・鍋島直正の思惑があって、助右衛門が迎えに出る経緯があるようだ。
「望みが出てきましたわね。急ぎ、支度(したく)を整えんばならんですね。」
浅子の表情に明るさが見える。大殿が関わる気配なら、そこに希望はある。
「お義母さま、幾つか着物を持って参りました。」
「千代子さんの使う物まで…すまないねぇ。」
熱心に話し込む老夫婦に声をかけてきたのは、新平の妻・千代子である。手にする、何点かの品は普段づかいではなく、生地などが良い品だ。
城下で売れば、ある程度の値段になりそうな着物を選んでいた。何かと物入りになる、助右衛門の旅費の足しにする意図がある。

――江藤の家族たちも着々と、準備を進める。
大人たちが難しい話をしているから新平の子で、もうすぐ満2歳となる熊太郎は、少々退屈そうだ。
「おう、熊太郎。いい子にしとったかね。」
「あれっ、おじうえ~!」
門前から来たのは、江藤の弟・源作。熊太郎には叔父にあたるが、他家に出ているため、様子を見に来たようだ。
「おおっ、源作か。良いところに来た。熊太郎の面倒ば見といてくれんね。」
「まぁ、よかですけど。」
父・助右衛門のお願いに、快く答える源作。兄の新平と見た感じは似ているものの、わりと“空気を読む”のが、弟・源作のようだ。
――藩の役人が来た、実家が心配で寄ったのだが、
江藤の弟・源作は、もうじき“2歳児”の面倒を見るだけの役回りになっている。それはそれで、大事な役割である。
「そうら、佐賀の“化け猫”が、来よるとよ~」
「えすか(怖い)~!」
当初の目的は置いておき、門前で熊太郎と遊び、きゃっきゃっと盛り上がる。源作は、なかなか良い“叔父上”であるようだ。
「にゃあ~っ!!」
…と、両手をあげて“化け猫”の振りを決めたところで、江藤家の様子伺いに訪れた、兄・新平の同志・坂井辰之允と目が合った。

「…思いのほか。ご家族も落ち着いておられ、よかでした。」
「にゃ…いや、これは坂井さま。恐れ入ります。」
「江藤くんの、ご長男も健やかにご成長で、何よりです。」
これはこれで気まずいが、江藤も信頼をおく坂井は、あいさつでまとめている。
帰藩は現実味を帯びてきたが、江藤が佐賀に戻った後の処遇は、まだわからない。賑やかな家族も、心配事は尽きない状況なのだった。
(続く)
時は、文久二年(1862年)の秋。佐賀を脱藩した江藤新平を京都まで出向き、連れ戻すように命じられたのは、江藤の父・助右衛門でした。
藩庁からの指令は、佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)の意向だったと言います。
江藤が送る報告書の宛先だった、大木喬任(民平)や坂井辰之允など、同志たちも、江藤の帰藩後に向け、動き始めます。
とくに慌ただしいのは、佐賀から出立する予定の江藤助右衛門と家族でした。
〔参照:
――藩の役人から伝わった指示。
江藤助右衛門も藩の役人なので、子・新平の脱藩後は謹慎中の状況だったが、ここで助右衛門は謹慎を解かれ、新平を連れ戻す任務を与えられた。
助右衛門は、詩の一節を吟(ぎん)じているようだ。その声は朗々と響く。
「鞭声(べんせい)粛々~、夜河を過(わた)る~」
「あなた。相変わらず、お声のよかですけど、なにゆえ“川中島”なのですか。」
こう問いかけたのは、助右衛門の妻・浅子である。
江藤新平に、まず“漢学”の基礎を教えたのは、母・浅子だったという。同時代の女性としては、かなり学問に通じている。
――貧しい時期は長くとも、誇りと教養は失わない家族。
助右衛門が発した詩吟の一節は“川中島の合戦”を題材にしたものらしい。
戦国時代に武田と上杉の両軍がぶつかる戦いで、上杉側がひそかに馬に鞭(むち)をあて、川を渡る情景を描いた一節だ。何か秘めた決意が感じられる。
「老骨に鞭(むち)打ってでも、お役目を果たさんば、と思うてな。」
「…でしたら、始めから、そう、おっしゃってくださればよいのに。」
教養のある浅子らしく、ここは冷静な物言いだった。残念ながら、助右衛門の感じる“男の浪漫”は伝わりづらかったようだ。

助右衛門のお役目は、藩命により佐賀から出て、子・新平を連れて帰ること。京の都に上って我が子とはいえ尋ね人を探すのは老体には堪えるだろう。
――先ほどは朗々と詩を吟じていた、助右衛門が急に小声となった。
浅子の耳に、口を近づけて、ひそひそ話をする。
「実はな。このお達しは、閑叟さまの思し召し…だと聞きよるぞ。」
「まぁ。大殿様が!?新平を迎えに行け、と仰せなのですか。」
「そがん(その通り)たい。」
「もしや、佐賀を抜けた事も、お目こぼしいただけるのでは。」
子・新平が決行した、佐賀からの脱藩は重罪のはずである。本来なら、藩吏がすぐさま捕縛に向かったとしても、何も文句は言えない。
――ここでは浅子にも、助右衛門が高揚する理由が伝わった。
大殿・鍋島直正の思惑があって、助右衛門が迎えに出る経緯があるようだ。
「望みが出てきましたわね。急ぎ、支度(したく)を整えんばならんですね。」
浅子の表情に明るさが見える。大殿が関わる気配なら、そこに希望はある。
「お義母さま、幾つか着物を持って参りました。」
「千代子さんの使う物まで…すまないねぇ。」
熱心に話し込む老夫婦に声をかけてきたのは、新平の妻・千代子である。手にする、何点かの品は普段づかいではなく、生地などが良い品だ。
城下で売れば、ある程度の値段になりそうな着物を選んでいた。何かと物入りになる、助右衛門の旅費の足しにする意図がある。
――江藤の家族たちも着々と、準備を進める。
大人たちが難しい話をしているから新平の子で、もうすぐ満2歳となる熊太郎は、少々退屈そうだ。
「おう、熊太郎。いい子にしとったかね。」
「あれっ、おじうえ~!」
門前から来たのは、江藤の弟・源作。熊太郎には叔父にあたるが、他家に出ているため、様子を見に来たようだ。
「おおっ、源作か。良いところに来た。熊太郎の面倒ば見といてくれんね。」
「まぁ、よかですけど。」
父・助右衛門のお願いに、快く答える源作。兄の新平と見た感じは似ているものの、わりと“空気を読む”のが、弟・源作のようだ。
――藩の役人が来た、実家が心配で寄ったのだが、
江藤の弟・源作は、もうじき“2歳児”の面倒を見るだけの役回りになっている。それはそれで、大事な役割である。
「そうら、佐賀の“化け猫”が、来よるとよ~」
「えすか(怖い)~!」
当初の目的は置いておき、門前で熊太郎と遊び、きゃっきゃっと盛り上がる。源作は、なかなか良い“叔父上”であるようだ。
「にゃあ~っ!!」
…と、両手をあげて“化け猫”の振りを決めたところで、江藤家の様子伺いに訪れた、兄・新平の同志・坂井辰之允と目が合った。
「…思いのほか。ご家族も落ち着いておられ、よかでした。」
「にゃ…いや、これは坂井さま。恐れ入ります。」
「江藤くんの、ご長男も健やかにご成長で、何よりです。」
これはこれで気まずいが、江藤も信頼をおく坂井は、あいさつでまとめている。
帰藩は現実味を帯びてきたが、江藤が佐賀に戻った後の処遇は、まだわからない。賑やかな家族も、心配事は尽きない状況なのだった。
(続く)
2023年05月09日
第19話「閑叟上洛」⑩(友の待つ、佐賀への道)
こんばんは。
江戸期を通じて、機密の保持には相当厳しく、とくに脱藩の罪は重い…という印象が強い、佐賀藩。
文久二年(1862年)夏に佐賀から脱藩し、京都で活動した江藤新平ですが、意外や、大殿(前藩主)・鍋島直正の指示は“捕縛”ではありませんでした。
ここで、直正(閑叟)は、脱藩者・江藤を京の都まで家族に迎えに行かせ、連れ戻すよう命じたといいます。
〔参照(終盤):第19話「閑叟上洛」⑨(想いが届けば、若返る…)〕
かなり年配となっていた、江藤の父・助右衛門にその役目が伝えられ、江藤の同志たちの動きも慌ただしくなってきます。

――秋。夕暮れの時を迎えている、佐賀城下。
城下に張り巡らされている水路に映えた夕日も、すっかり姿を消していた。秋の陽射しが存外に強かったのか、まだ温い感じの宵闇である。
「大木さん、江藤の家に、御城からの遣いが来とった!」
大木民平(喬任)の家に駆け込んできた藩士は、坂井辰之允という名だ。
「そがんか、ついに動いたか。」
どっかりと座っていた、大木が立ち上がる。傍らには、書物と酒がある、いつもの風景である。
「助右衛門さんが、呼び出されたらしかです。」
坂井が状況を説明する。

江藤が京から送った報告書、「京都見聞」という表題だが、都での政局や人物に関する詳細な情報を記していた。
〔参照(中盤):第18話「京都見聞」⑱(秋風の吹く頃に)〕
――その報告書「京都見聞」の送り先が、この2名だった。
あわせて江藤からの便りには、佐賀に残した家族への心配も綴られていた。
熱い使命感で、佐賀から飛びだしていった江藤。もちろん、脱藩者となったことで、老親や妻子の扱いに不安がある。
そこで、江藤は脱藩の計画をともに練った大木と、信頼できそうな坂井あてに書状で家族への支援も頼んでいたのだ。
〔参照:第18話「京都見聞」⑯(“故郷”を守る者たち)〕

「助右衛門さんも、さすがにご老体だ。任務を負った旅路に耐えられるか…」
坂井がいたって具体的に、江藤の父親の体調を心配する。
「いや、よかごたぞ。役人が捕らえに向かうよりは、よほどよかばい。」
大木は勢いよく、そう述べた。
――たしかに武装した藩吏が、捕縛に向かうならば、
江藤は“罪人”扱いということになる。脱藩は重罪であるため、その後の展開にも期待はできない。
家族に迎えに行かせるとは“重罪人”に対する処遇ではないから、まだ、一縷(いちる)の望みを持つことができそうだ。
それに江藤も、一応は、まだ藩の役人扱いされている事もうかがえる。
――ここで、大木がニッと笑った。
「さすがは閑叟さまだな。江藤の報告を、お読みになったか。」
ここで、“してやったり”という達成感のある表情を見せた、大木。やはり開明的な名君で知られる、佐賀の鍋島直正(閑叟)だ。
江藤は単身乗り込んだ京の都で、余人では考えられない速度で、情報収集を行い、短期間で緻密な報告を作りあげている。
大木たちには、激動の京都での政局が資金や人員の動きも含めてわかる、江藤の報告書さえ、直正(閑叟)の手元まで届けば、望みはつながる…という確信があった。

“名君”として語られるだけの実力者で、幕府や全国の大名からも、常々、その動向を気にされるほどの閑叟(直正)。
あの江藤の才能で、全力をもって調べ上げた報告書「京都見聞」を見て、何も読み取れないはずがない。
――大木には“忠義の侍”から、少し遠いところがある。
「それでこそ、佐賀の大殿としての値打ちがあると言うものだ。」
何だか“値踏み”するような、家臣としては、ある意味、無礼な物言いである。
「…また、始まったとですか。“大木節”が。」
坂井は少し呆れ気味だが、わりと大木は目先ではなく、遠いところを見る。
大木の考え方では、幕府の将軍も佐賀の藩主も、結局のところ、天皇(朝廷)の臣下に過ぎない。
歴史の行きがかり上で、大木の一族も、鍋島家の配下にいるという理屈だ。
――そして、大木は、自身も“朝廷の臣”と思っているので、
佐賀の“殿様”に、自分が付いていく価値があるかを論評するのだ。
その考え方は、先日、世を去った師匠・枝吉神陽の“日本一君論”の教えにも沿っている。

この辺り、勤王の志は高いが、かなり“鍋島武士”としての気質も強いような、江藤とも少し違ったところがある。
大木は「いま、この時」に起きることも、まるで歴史書の一部であるかのように、高い視点から眺めているような時がある。
「…わかった、わかりましたばい。」
ここで、坂井が水を差す。
――寡黙な大木にしては語ったが、
「今はそがん事、言うとる場合では、なかです。」
一方の坂井は、ひとまず現実的な心配をしている。これは、江藤の期待どおりの役回りなのだろうか。
「坂井、すまん。おい(俺)も、少々は嬉しかったのだ。」
口では、佐賀の大殿を“試した”ような言い方をする大木だが、実際のところ、思惑どおりに同志・江藤の報告が届いたのは痛快らしい。
大木とて、江藤の報告書は何としても届けたかったので、ひとまず努力が報われた事になる。
――坂井が、次の思案をする。
「江藤家の様子はうかがってきますが、どう進めたらよかでしょうな。」
幾分は冷静な対話になってきた。

「おう。こっちは三瀬に居る、古賀につなぎを取る。」
大木は仲間うちの連絡を画策した。江藤が佐賀に帰ってくる時は、きっと義祭同盟の仲間・古賀一平が番人を務める、三瀬峠を通るだろう。
ひとたび佐賀に入ってからは、藩庁がどのように指示を出すか、これは予測の付かないところがある。
――ここで不敵に微笑む、大木。
「面白うなってきたとよ。」
「そのように楽観してよかですか。江藤さんの扱いがどうなるか。」
例によって酒が入っている大木と、そうでない坂井の違いもあるのか。先例に照らせば、脱藩者である江藤は、切腹を命じられる可能性も充分にあり得る。
「今度こそは…、おい(俺)がそうはさせん。」
急に真剣な顔つきを見せた、大木。

江藤よりも年下の親友・中野方蔵を救えなかった、大木の表情には、そんな無念も背負っている風が見えた。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑱(青葉茂れる頃に)〕
もう1人の親友・江藤までも失ってなるものかという気迫がある。
簡単に酒が回ってしまうような大木ではない。酔いはあまり関係は無さそうで、強い決意が浮かんでいた。
(続く)
江戸期を通じて、機密の保持には相当厳しく、とくに脱藩の罪は重い…という印象が強い、佐賀藩。
文久二年(1862年)夏に佐賀から脱藩し、京都で活動した江藤新平ですが、意外や、大殿(前藩主)・鍋島直正の指示は“捕縛”ではありませんでした。
ここで、直正(閑叟)は、脱藩者・江藤を京の都まで家族に迎えに行かせ、連れ戻すよう命じたといいます。
〔参照(終盤):
かなり年配となっていた、江藤の父・助右衛門にその役目が伝えられ、江藤の同志たちの動きも慌ただしくなってきます。
――秋。夕暮れの時を迎えている、佐賀城下。
城下に張り巡らされている水路に映えた夕日も、すっかり姿を消していた。秋の陽射しが存外に強かったのか、まだ温い感じの宵闇である。
「大木さん、江藤の家に、御城からの遣いが来とった!」
大木民平(喬任)の家に駆け込んできた藩士は、坂井辰之允という名だ。
「そがんか、ついに動いたか。」
どっかりと座っていた、大木が立ち上がる。傍らには、書物と酒がある、いつもの風景である。
「助右衛門さんが、呼び出されたらしかです。」
坂井が状況を説明する。
江藤が京から送った報告書、「京都見聞」という表題だが、都での政局や人物に関する詳細な情報を記していた。
〔参照(中盤):
――その報告書「京都見聞」の送り先が、この2名だった。
あわせて江藤からの便りには、佐賀に残した家族への心配も綴られていた。
熱い使命感で、佐賀から飛びだしていった江藤。もちろん、脱藩者となったことで、老親や妻子の扱いに不安がある。
そこで、江藤は脱藩の計画をともに練った大木と、信頼できそうな坂井あてに書状で家族への支援も頼んでいたのだ。
〔参照:
「助右衛門さんも、さすがにご老体だ。任務を負った旅路に耐えられるか…」
坂井がいたって具体的に、江藤の父親の体調を心配する。
「いや、よかごたぞ。役人が捕らえに向かうよりは、よほどよかばい。」
大木は勢いよく、そう述べた。
――たしかに武装した藩吏が、捕縛に向かうならば、
江藤は“罪人”扱いということになる。脱藩は重罪であるため、その後の展開にも期待はできない。
家族に迎えに行かせるとは“重罪人”に対する処遇ではないから、まだ、一縷(いちる)の望みを持つことができそうだ。
それに江藤も、一応は、まだ藩の役人扱いされている事もうかがえる。
――ここで、大木がニッと笑った。
「さすがは閑叟さまだな。江藤の報告を、お読みになったか。」
ここで、“してやったり”という達成感のある表情を見せた、大木。やはり開明的な名君で知られる、佐賀の鍋島直正(閑叟)だ。
江藤は単身乗り込んだ京の都で、余人では考えられない速度で、情報収集を行い、短期間で緻密な報告を作りあげている。
大木たちには、激動の京都での政局が資金や人員の動きも含めてわかる、江藤の報告書さえ、直正(閑叟)の手元まで届けば、望みはつながる…という確信があった。
“名君”として語られるだけの実力者で、幕府や全国の大名からも、常々、その動向を気にされるほどの閑叟(直正)。
あの江藤の才能で、全力をもって調べ上げた報告書「京都見聞」を見て、何も読み取れないはずがない。
――大木には“忠義の侍”から、少し遠いところがある。
「それでこそ、佐賀の大殿としての値打ちがあると言うものだ。」
何だか“値踏み”するような、家臣としては、ある意味、無礼な物言いである。
「…また、始まったとですか。“大木節”が。」
坂井は少し呆れ気味だが、わりと大木は目先ではなく、遠いところを見る。
大木の考え方では、幕府の将軍も佐賀の藩主も、結局のところ、天皇(朝廷)の臣下に過ぎない。
歴史の行きがかり上で、大木の一族も、鍋島家の配下にいるという理屈だ。
――そして、大木は、自身も“朝廷の臣”と思っているので、
佐賀の“殿様”に、自分が付いていく価値があるかを論評するのだ。
その考え方は、先日、世を去った師匠・枝吉神陽の“日本一君論”の教えにも沿っている。
この辺り、勤王の志は高いが、かなり“鍋島武士”としての気質も強いような、江藤とも少し違ったところがある。
大木は「いま、この時」に起きることも、まるで歴史書の一部であるかのように、高い視点から眺めているような時がある。
「…わかった、わかりましたばい。」
ここで、坂井が水を差す。
――寡黙な大木にしては語ったが、
「今はそがん事、言うとる場合では、なかです。」
一方の坂井は、ひとまず現実的な心配をしている。これは、江藤の期待どおりの役回りなのだろうか。
「坂井、すまん。おい(俺)も、少々は嬉しかったのだ。」
口では、佐賀の大殿を“試した”ような言い方をする大木だが、実際のところ、思惑どおりに同志・江藤の報告が届いたのは痛快らしい。
大木とて、江藤の報告書は何としても届けたかったので、ひとまず努力が報われた事になる。
――坂井が、次の思案をする。
「江藤家の様子はうかがってきますが、どう進めたらよかでしょうな。」
幾分は冷静な対話になってきた。
「おう。こっちは三瀬に居る、古賀につなぎを取る。」
大木は仲間うちの連絡を画策した。江藤が佐賀に帰ってくる時は、きっと義祭同盟の仲間・古賀一平が番人を務める、三瀬峠を通るだろう。
ひとたび佐賀に入ってからは、藩庁がどのように指示を出すか、これは予測の付かないところがある。
――ここで不敵に微笑む、大木。
「面白うなってきたとよ。」
「そのように楽観してよかですか。江藤さんの扱いがどうなるか。」
例によって酒が入っている大木と、そうでない坂井の違いもあるのか。先例に照らせば、脱藩者である江藤は、切腹を命じられる可能性も充分にあり得る。
「今度こそは…、おい(俺)がそうはさせん。」
急に真剣な顔つきを見せた、大木。
江藤よりも年下の親友・中野方蔵を救えなかった、大木の表情には、そんな無念も背負っている風が見えた。
〔参照:
もう1人の親友・江藤までも失ってなるものかという気迫がある。
簡単に酒が回ってしまうような大木ではない。酔いはあまり関係は無さそうで、強い決意が浮かんでいた。
(続く)
2023年05月03日
「GW特別企画・めざせ2026年」
こんばんは。
タイトルでお察しいただけるかもしれませんが、私には、多少の残念な想いがあります。先週半ばに、2025年NHK大河ドラマの発表がありました。
その日、インターネット上のニュース記事で、大河ドラマの主役を演じるのが、若手俳優の横浜流星さんに決まったとのタイトルを見かけたのです。
本日の記事は、その大河ドラマ決定を知った時点の、私の心理状態から語ります。いつも綴っている“本編”とは、まったく別の話としてご覧ください。

※横浜
――その日の仕事が終わり、帰路の電車内で決定の報を知った私。
「…その大河ドラマの題材は何だ!?」
ネットニュースを開けば、その冒頭に現れた不意を突く記事。それは通例より遅い時期と思われる、再来年の大河ドラマの発表でした。
2025年と言えば、大阪での万国博覧会が開催される年でもあります。そして、佐賀藩出身者には、明治期に「博覧会男」の異名を取った人物もいます。
私には、幕末のパリ万博でも奮闘し、明治のウィーン万博では現地責任者(副総裁)を務めた佐野常民が主人公となることへの微かな期待もありました。
――息をのむように、その記事を参照する。
高鳴る胸、熱き鼓動…帰りの電車に揺られるだけの勤め人ですが、今でも、白球を追う高校球児のように"青春”を感じる瞬間があるのです。
この段階で、私が得ている情報は、主演する俳優さんの名前だけです。
「時代設定は、いつだ?主人公は誰なんだ!」
私は記事を目で追います。軽くのけぞるような衝撃が走ります。
そこに示された結果は「幕末佐賀藩の大河ドラマ」ではありませんでした。
「…くっ、2025年は外したか。」

――「わかっている、厳しい道のりだ。」
実際のところ、細々と続ける私の活動が、大河ドラマの決定に何らかの影響を及ぼすとは考えにくいです。
「それでも、佐賀藩士(?)を名乗るなら、あきらめない事が肝要だ…」
なお、一連のセリフは、私の心の声。誰に語ったものでもありません。
もちろん混雑する電車の中では、マナーを守って整然と振るまわねばなりません。発表に悔しがるのも、想いを叫ぶのも、心の中に留めます。
幕末・明治期に活躍した佐賀出身者にも、比較的に常識人が多い印象です。
県民性の話でも、佐賀の人は感情を、あまり表に出さないと聞きます。内心がわかりづらいとも言われ、ドラマになるには不利という…気はします。
――私の“残念”の描写は、さておき。
2025大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の決定を受けた感想です。
第一印象で、2019年の『いだてん~東京オリムピック噺~』と似たタイトルと感じました。1つのテーマから、時代そのものを描く…のかもしれません。
いろいろ気になることもあって、古い日本史の教科書を引っ張り出しました。
なお、私はどんな角度からでも佐賀藩の話に持っていくよう努めていますので、以下には、2025年大河ドラマに関わらない事項が、かなり含まれます。

――注目ポイント①「このテーマで来たか!」
「日本のメディア産業、ポップカルチャーの礎を築いた男。」
“江戸のメディア王”の異名があるという主人公・蔦屋重三郎〔演:横浜流星〕。私が持っている日本史の教科書には、載っていなかった人物です。
NHKの公式サイトによると、喜多川歌麿、葛飾北斎、山東京伝、滝沢馬琴を見出し、“東洲斎写楽”を世に送り出したとあります。
私の教科書では「江戸後期の文化」で見た名前が続きます。蔦屋重三郎は、文化史的に相当な“大物”であると、うかがえました。
庶民の心を動かす、滑稽な風刺だったり、華麗な浮世絵であったり、幻想的な物語であったり…たしかに教科書の一角を占める“仕事”を扱ったようです。

――注目ポイント②「その時代で設定したか…」
蔦屋重三郎という人物は1750年に誕生し、1797年に世を去ったそうです。
幕末期の視点から見ると、ペリーの黒船が来航した100年ぐらい前に生まれ、長崎港にフェートン号が侵入した事件の10年くらい前に没しています。
欧米列強の脅威が顕在化する前の時代で、まだ天下泰平とも言える時期、江戸の庶民文化に大輪の花を咲かせた立役者。そんな時代を駆け抜けた人物。
どうやら田沼意次の時代の自由な空気を謳歌し、松平定信の寛政の改革で抑圧される…という展開が物語の軸にあるようです。
――注目ポイント③「どんな描き方をするか?」
相当古い教科書ですが、蔦屋重三郎の“仕事”は、江戸後期の文化史の項目で扱われていました。
教科書の構成上の都合だったのか、なぜか幕末期に迫り来る異国の脅威と海防策、鍋島直正の佐賀藩を含む雄藩の改革の記述のすぐ後にあり…
江藤新平・大木喬任・副島種臣・大隈重信など、佐賀藩士の残した“仕事”が多数ある、明治期の近代国家の成立の直前に掲載されていました。
若い頃、日本史を勉強した時には、あまり興味を持てなかった文化史の数頁ですが、年齢を重ねてみると、昔より面白そうに見えてきます。
――その物語を描く脚本家は、森下佳子さん。
2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも史実の情報が少ないらしい主人公を、とても記憶に残ってしまうストーリーで描き切った方です。
その影響は、現在(2023年)の『どうする家康』にも強く感じられ、当時の演者と重ねて見てしまう大河ドラマファンも多いはず。
『おんな城主~』で登場した、豆ダヌキっぽい家康、勝ち気な妻・瀬名、イケメンの石川数正や非情な酒井忠次も、若くて激情型の井伊直政も魅力的でした。

…そして、この時も武田軍は怖かった。
佐賀の物語でないのは残念ですが、大河ドラマファンの1人としてエネルギーに満ちた江戸の文化がどんなシナリオで表現されるのか、楽しみです。
――次は、2026年の大河ドラマの発表がいつになるか。
今回の発表を見て「近代国家の制度、教育、技術の礎を築いた」というテーマ設定ならば、佐賀藩の大河ドラマも描けるはず…という想いは生じました。
こうして、大河ドラマの制作発表のたびに、私の気持ちはざわざわとします。
今回は気分転換も兼ねた記事を書きましたが、一喜一憂せずに、私が見たい「佐賀の物語」と向き合う方が良いのかな…と、最近は考えています。
タイトルでお察しいただけるかもしれませんが、私には、多少の残念な想いがあります。先週半ばに、2025年NHK大河ドラマの発表がありました。
その日、インターネット上のニュース記事で、大河ドラマの主役を演じるのが、若手俳優の横浜流星さんに決まったとのタイトルを見かけたのです。
本日の記事は、その大河ドラマ決定を知った時点の、私の心理状態から語ります。いつも綴っている“本編”とは、まったく別の話としてご覧ください。
※横浜
――その日の仕事が終わり、帰路の電車内で決定の報を知った私。
「…その大河ドラマの題材は何だ!?」
ネットニュースを開けば、その冒頭に現れた不意を突く記事。それは通例より遅い時期と思われる、再来年の大河ドラマの発表でした。
2025年と言えば、大阪での万国博覧会が開催される年でもあります。そして、佐賀藩出身者には、明治期に「博覧会男」の異名を取った人物もいます。
私には、幕末のパリ万博でも奮闘し、明治のウィーン万博では現地責任者(副総裁)を務めた佐野常民が主人公となることへの微かな期待もありました。
――息をのむように、その記事を参照する。
高鳴る胸、熱き鼓動…帰りの電車に揺られるだけの勤め人ですが、今でも、白球を追う高校球児のように"青春”を感じる瞬間があるのです。
この段階で、私が得ている情報は、主演する俳優さんの名前だけです。
「時代設定は、いつだ?主人公は誰なんだ!」
私は記事を目で追います。軽くのけぞるような衝撃が走ります。
そこに示された結果は「幕末佐賀藩の大河ドラマ」ではありませんでした。
「…くっ、2025年は外したか。」
――「わかっている、厳しい道のりだ。」
実際のところ、細々と続ける私の活動が、大河ドラマの決定に何らかの影響を及ぼすとは考えにくいです。
「それでも、佐賀藩士(?)を名乗るなら、あきらめない事が肝要だ…」
なお、一連のセリフは、私の心の声。誰に語ったものでもありません。
もちろん混雑する電車の中では、マナーを守って整然と振るまわねばなりません。発表に悔しがるのも、想いを叫ぶのも、心の中に留めます。
幕末・明治期に活躍した佐賀出身者にも、比較的に常識人が多い印象です。
県民性の話でも、佐賀の人は感情を、あまり表に出さないと聞きます。内心がわかりづらいとも言われ、ドラマになるには不利という…気はします。
――私の“残念”の描写は、さておき。
2025大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の決定を受けた感想です。
第一印象で、2019年の『いだてん~東京オリムピック噺~』と似たタイトルと感じました。1つのテーマから、時代そのものを描く…のかもしれません。
いろいろ気になることもあって、古い日本史の教科書を引っ張り出しました。
なお、私はどんな角度からでも佐賀藩の話に持っていくよう努めていますので、以下には、2025年大河ドラマに関わらない事項が、かなり含まれます。
――注目ポイント①「このテーマで来たか!」
「日本のメディア産業、ポップカルチャーの礎を築いた男。」
“江戸のメディア王”の異名があるという主人公・蔦屋重三郎〔演:横浜流星〕。私が持っている日本史の教科書には、載っていなかった人物です。
NHKの公式サイトによると、喜多川歌麿、葛飾北斎、山東京伝、滝沢馬琴を見出し、“東洲斎写楽”を世に送り出したとあります。
私の教科書では「江戸後期の文化」で見た名前が続きます。蔦屋重三郎は、文化史的に相当な“大物”であると、うかがえました。
庶民の心を動かす、滑稽な風刺だったり、華麗な浮世絵であったり、幻想的な物語であったり…たしかに教科書の一角を占める“仕事”を扱ったようです。
――注目ポイント②「その時代で設定したか…」
蔦屋重三郎という人物は1750年に誕生し、1797年に世を去ったそうです。
幕末期の視点から見ると、ペリーの黒船が来航した100年ぐらい前に生まれ、長崎港にフェートン号が侵入した事件の10年くらい前に没しています。
欧米列強の脅威が顕在化する前の時代で、まだ天下泰平とも言える時期、江戸の庶民文化に大輪の花を咲かせた立役者。そんな時代を駆け抜けた人物。
どうやら田沼意次の時代の自由な空気を謳歌し、松平定信の寛政の改革で抑圧される…という展開が物語の軸にあるようです。
――注目ポイント③「どんな描き方をするか?」
相当古い教科書ですが、蔦屋重三郎の“仕事”は、江戸後期の文化史の項目で扱われていました。
教科書の構成上の都合だったのか、なぜか幕末期に迫り来る異国の脅威と海防策、鍋島直正の佐賀藩を含む雄藩の改革の記述のすぐ後にあり…
江藤新平・大木喬任・副島種臣・大隈重信など、佐賀藩士の残した“仕事”が多数ある、明治期の近代国家の成立の直前に掲載されていました。
若い頃、日本史を勉強した時には、あまり興味を持てなかった文化史の数頁ですが、年齢を重ねてみると、昔より面白そうに見えてきます。
――その物語を描く脚本家は、森下佳子さん。
2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも史実の情報が少ないらしい主人公を、とても記憶に残ってしまうストーリーで描き切った方です。
その影響は、現在(2023年)の『どうする家康』にも強く感じられ、当時の演者と重ねて見てしまう大河ドラマファンも多いはず。
『おんな城主~』で登場した、豆ダヌキっぽい家康、勝ち気な妻・瀬名、イケメンの石川数正や非情な酒井忠次も、若くて激情型の井伊直政も魅力的でした。
…そして、この時も武田軍は怖かった。
佐賀の物語でないのは残念ですが、大河ドラマファンの1人としてエネルギーに満ちた江戸の文化がどんなシナリオで表現されるのか、楽しみです。
――次は、2026年の大河ドラマの発表がいつになるか。
今回の発表を見て「近代国家の制度、教育、技術の礎を築いた」というテーマ設定ならば、佐賀藩の大河ドラマも描けるはず…という想いは生じました。
こうして、大河ドラマの制作発表のたびに、私の気持ちはざわざわとします。
今回は気分転換も兼ねた記事を書きましたが、一喜一憂せずに、私が見たい「佐賀の物語」と向き合う方が良いのかな…と、最近は考えています。