2022年11月30日
第18話「京都見聞」⑭(若き公家の星)
こんばんは。
幕末期、海外からの先端技術の吸収には熱心だった佐賀藩ですが、動乱の京都政局での主導権争いにはあまり関わっていません。
そのため、江藤新平の脱藩は、明治初期に佐賀藩が“薩長土肥”と呼ばれた一角に入ることに大きい影響がありました。
前回で、京都から長崎に向かっていた“祇園太郎”が佐賀の峠で語ったように、江藤は京の都で有力な公家との接点を持つことになります。
〔参照:第18話「京都見聞」⑬(ある佐賀の峠にて)〕

――1862年(文久二年)夏。京の都。
風は通らないものの、屋敷の中は程よく日陰にも入って「いけずな蒸し暑さ」と評される、京都の夏にしては、まだ過ごしやすい昼下がり。
いつになく整った衣服に身を包み、江藤新平はある貴人と向き合って、ずっと下座に控えている。
「江藤とやら、佐賀から来たというのはまことか。」
「佐賀を抜け、京に参りました。」
江藤が話をしている“貴人”とは、かなり若い公家である。名を、姉小路公知といい、年の頃は、まだ二十歳ぐらいと見えて、江藤より明らかに年下だ。
その若さだが、近年では尊王攘夷派の公家として、頭角を現している。覇気があって、志士たちの受けも良いため、長州藩とも関わりが強い。
――公家だけあって品はあるが、その舌鋒は鋭かった。
「佐賀の鍋島は、徳川におもねり、勤王の志が見えぬと聞くが、どうじゃ。」
「左様なことは、ございません。」
江藤はきっぱりと否定した。
「…ほほ、可笑しなことを言うのう。鍋島が、勤王に動く気配は見えへんぞ。」
「それも帝の御為、日本(ひのもと)のためにございます。」
「ほう、動かぬことが何故、為(ため)になるのや。」

――当時、佐賀藩の意図は理解されていなかった。
「佐賀は動かぬのではありません。動けぬのです。」
「なにゆえや?」
公家の中でも、姉小路は当時「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったとも言われ、しかも若く血気盛んである。江藤の返答に、食ってかかるようでもあった。
「姉小路卿は、夷狄(いてき)の力量をご承知か。」
相手は公家であるから、佐賀の下級武士とは著しい身分の差があるが、江藤に全くひるむ様子は無い。
――江藤は、西洋列強の力を知っているかと逆に問いただす。
「…夷狄に睨(にら)まれて動けんとは、腰抜け武士やないか。」
江藤からの質問返しに、一瞬たじろいだ姉小路だが、鋭い言葉を放った。
「黒船の船足がいかほどのものか、ご存知か。彼の者たちは“蒸気仕掛け”にて、自在に船を操ります。」
蒸気船の速度に言及する、江藤。これを佐賀藩は自力で作ろうとしている。
「大筒とて、我が国のものとは比にはなりませぬぞ。」

――佐賀は、すでに鉄製大砲を量産しているが、
それとて西洋の物には及ばぬと、佐賀の者は知っている。だからこそ、必死で研究をするのだ。江藤は続けた。
姉小路は先ほどの“腰抜け武士”との一言を発してから黙って聞いている。
「佐賀が長崎を守護するは、帝より託されたお役目。」
江藤の声は、いつもより抑えてはいても、ビリビリと通っていく。
――姉小路は、じっと言葉を発する江藤を見ていた。
「我ら佐賀の者は夷狄に睨(にら)まれておるのではなく、長崎にて睨み合っておるのです。」
日本の表玄関・長崎港を守ることが、江戸期を通じて佐賀藩の重責である。そこで気を緩めれば、国の面目は丸つぶれとなる。
長崎では、海外との貿易が開港後、さらに活発となっており、「自国の商人を守る必要がある」と、警備の弱さを口実として異国から介入されかねない。
「時には、身を挺して異国船を止めたこともございます。」
佐賀藩は十数年前にも海峡に船を並べ、諫早領や武雄領などの部隊で警備を固め、フランス船の進入を阻止したりと、最前線の苦労を重ねている。

――そのまま江藤が語る。公家らしくもなく、姉小路は目線を外さない。
江藤は、西洋の技術を導入し、列強と向き合う佐賀藩の立場を説いた。
「…では、帝がその任を解き、京にて勤王せよと命ぜられた時はいかがする。」
姉小路は、質問を変えた。長崎警備の役目を外したら、どう動くのかと。
「それが帝の御心とあれば、佐賀は命に従いまする。」
佐賀藩の代表でもないのに、江藤は言い切った。
「…ほっ。」
――扇で口元を隠しながらも、愉快そうに笑いだす、姉小路。
「ほほほ…おもろい男やの。」
もはや姉小路に、江藤を問い詰める気はないらしい。
「そなたは佐賀を抜けて、鍋島を捨てたんやないのか?」
脱藩者であるはずの江藤が、堂々と佐賀藩の立場を弁明し、藩主・鍋島家の朝廷への忠節を語ることがおかしかったようだ。
先ほどまでと違って、急に上機嫌となった、姉小路の反応に困惑する江藤。
「江藤とやら、名を覚えておこう。また、近きうちにあらためて参れ。」
こうして江藤は、京で力を持つ公家・姉小路公知との面識を得たのである。
(続く)
幕末期、海外からの先端技術の吸収には熱心だった佐賀藩ですが、動乱の京都政局での主導権争いにはあまり関わっていません。
そのため、江藤新平の脱藩は、明治初期に佐賀藩が“薩長土肥”と呼ばれた一角に入ることに大きい影響がありました。
前回で、京都から長崎に向かっていた“祇園太郎”が佐賀の峠で語ったように、江藤は京の都で有力な公家との接点を持つことになります。
〔参照:
――1862年(文久二年)夏。京の都。
風は通らないものの、屋敷の中は程よく日陰にも入って「いけずな蒸し暑さ」と評される、京都の夏にしては、まだ過ごしやすい昼下がり。
いつになく整った衣服に身を包み、江藤新平はある貴人と向き合って、ずっと下座に控えている。
「江藤とやら、佐賀から来たというのはまことか。」
「佐賀を抜け、京に参りました。」
江藤が話をしている“貴人”とは、かなり若い公家である。名を、姉小路公知といい、年の頃は、まだ二十歳ぐらいと見えて、江藤より明らかに年下だ。
その若さだが、近年では尊王攘夷派の公家として、頭角を現している。覇気があって、志士たちの受けも良いため、長州藩とも関わりが強い。
――公家だけあって品はあるが、その舌鋒は鋭かった。
「佐賀の鍋島は、徳川におもねり、勤王の志が見えぬと聞くが、どうじゃ。」
「左様なことは、ございません。」
江藤はきっぱりと否定した。
「…ほほ、可笑しなことを言うのう。鍋島が、勤王に動く気配は見えへんぞ。」
「それも帝の御為、日本(ひのもと)のためにございます。」
「ほう、動かぬことが何故、為(ため)になるのや。」
――当時、佐賀藩の意図は理解されていなかった。
「佐賀は動かぬのではありません。動けぬのです。」
「なにゆえや?」
公家の中でも、姉小路は当時「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったとも言われ、しかも若く血気盛んである。江藤の返答に、食ってかかるようでもあった。
「姉小路卿は、夷狄(いてき)の力量をご承知か。」
相手は公家であるから、佐賀の下級武士とは著しい身分の差があるが、江藤に全くひるむ様子は無い。
――江藤は、西洋列強の力を知っているかと逆に問いただす。
「…夷狄に睨(にら)まれて動けんとは、腰抜け武士やないか。」
江藤からの質問返しに、一瞬たじろいだ姉小路だが、鋭い言葉を放った。
「黒船の船足がいかほどのものか、ご存知か。彼の者たちは“蒸気仕掛け”にて、自在に船を操ります。」
蒸気船の速度に言及する、江藤。これを佐賀藩は自力で作ろうとしている。
「大筒とて、我が国のものとは比にはなりませぬぞ。」
――佐賀は、すでに鉄製大砲を量産しているが、
それとて西洋の物には及ばぬと、佐賀の者は知っている。だからこそ、必死で研究をするのだ。江藤は続けた。
姉小路は先ほどの“腰抜け武士”との一言を発してから黙って聞いている。
「佐賀が長崎を守護するは、帝より託されたお役目。」
江藤の声は、いつもより抑えてはいても、ビリビリと通っていく。
――姉小路は、じっと言葉を発する江藤を見ていた。
「我ら佐賀の者は夷狄に睨(にら)まれておるのではなく、長崎にて睨み合っておるのです。」
日本の表玄関・長崎港を守ることが、江戸期を通じて佐賀藩の重責である。そこで気を緩めれば、国の面目は丸つぶれとなる。
長崎では、海外との貿易が開港後、さらに活発となっており、「自国の商人を守る必要がある」と、警備の弱さを口実として異国から介入されかねない。
「時には、身を挺して異国船を止めたこともございます。」
佐賀藩は十数年前にも海峡に船を並べ、諫早領や武雄領などの部隊で警備を固め、フランス船の進入を阻止したりと、最前線の苦労を重ねている。
――そのまま江藤が語る。公家らしくもなく、姉小路は目線を外さない。
江藤は、西洋の技術を導入し、列強と向き合う佐賀藩の立場を説いた。
「…では、帝がその任を解き、京にて勤王せよと命ぜられた時はいかがする。」
姉小路は、質問を変えた。長崎警備の役目を外したら、どう動くのかと。
「それが帝の御心とあれば、佐賀は命に従いまする。」
佐賀藩の代表でもないのに、江藤は言い切った。
「…ほっ。」
――扇で口元を隠しながらも、愉快そうに笑いだす、姉小路。
「ほほほ…おもろい男やの。」
もはや姉小路に、江藤を問い詰める気はないらしい。
「そなたは佐賀を抜けて、鍋島を捨てたんやないのか?」
脱藩者であるはずの江藤が、堂々と佐賀藩の立場を弁明し、藩主・鍋島家の朝廷への忠節を語ることがおかしかったようだ。
先ほどまでと違って、急に上機嫌となった、姉小路の反応に困惑する江藤。
「江藤とやら、名を覚えておこう。また、近きうちにあらためて参れ。」
こうして江藤は、京で力を持つ公家・姉小路公知との面識を得たのである。
(続く)
2022年11月27日
第18話「京都見聞」⑬(ある佐賀の峠にて)
こんばんは。久しぶりに書き始めた“本編”。
舞台は、1862年(文久二年)の夏です。
前回は、佐賀を脱藩した江藤新平が、京都の長州藩邸で、桂小五郎と話している場面でした。
〔参照:第18話「京都見聞」⑫(江藤、“長州”と出会う)〕

物語として、この前後の時期に京都に居たもう1人の脱藩者・“祇園太郎”が、江藤の協力者だったという設定で展開しています。
〔参照:第18話「京都見聞」⑩(小城の風が、都に吹いた)〕
佐賀藩で、勤王のはたらきを志す者たちが集った「義祭同盟」。“南北朝”期、朝廷に尽くした忠臣・楠木正成・正行親子を讃える集いから発した結社。
その結社と関わる、尊王の志厚い2人が佐賀にある峠の番所で出会います。2人とも、佐賀に多い名字の“古賀さん”ですが、1人は“変名”で通します。
――佐賀の藩境の1つが、三瀬街道にある。
“二重鎖国”と語られ、藩外からの出入りには厳しい佐賀藩。江藤たちが集う義祭同盟の仲間・古賀一平(定雄)は、ここの番所を担当していた。
今日も番所の門番が、棒をかざして通行人を問いただす。
「いま一度、お主の名を言わんね。」
「“祇園太郎”と申します。これより長崎に向かうところです。」
「そいは、偽りの名ではなかか。」

――門番の反応どおり、明らかに疑わしい名である。
この“祇園太郎”は、よそ者のふりをしているが、もとは佐賀藩内(小城支藩)から出た脱藩者だ。
佐賀では脱藩は重罪なので、もちろん本名は名乗れない。国元に戻ってくるのも危険なはずなのだが、この人物の動きには不可解な点が多い。
番所の門番は、少し上役と思われる仲間に声をかけた。
「古賀さん、怪しい奴がおる。」
「なんね。おいが代わろう。」
呼ばれて現れたふうなのは、古賀一平という人物。実は、江藤新平の脱藩を手助けした1人だ。
「いま、“祇園太郎”と名乗ったか?」
「お役人、古賀さまとおっしゃるか。」

――双方で探りを入れている、古賀一平と“祇園太郎”。
京で活動する江藤新平とは双方が知り合いなのだが、目の前の相手が情報を伝えるべき者なのかの確証がない。
小城支藩で尊王の志を持つ者には、佐賀本藩の「義祭同盟」と交流もあったようだ。謎の通行者と番所の役人、小声で“合い言葉”を交わす様子が見える。
「…“清水”と言えば、何ね!」
「滝ばい。」
「…そん“清水の滝”、何処に在りや!」
「小城にあるとよ。」
「やはり…小城の“祇園太郎”か。」
古賀一平は納得したらしく、身元を探る質問をやめ、何かの書状を受け取る。
――脱藩者の方も、急に“佐賀ことば”に戻っている。
「では、上方(京・大坂)の様子を教えんね。」
古賀一平が気にするのは、江藤新平の京での行動。これも“祇園太郎”ならば、知っているに違いない。
こちらの聞きたいことにも、よどみなく答えられるはずだ。
「江藤さんは…貴きお人を訪ねよるばい。」
“祇園太郎”によれば、佐賀を脱藩した江藤は、長州藩の桂小五郎の伝手(つて)で、京都の公家との接触に成功したようだ。
「そいで、よか。」
表情には、軽く笑みが見える古賀一平。これでこそ夜明け前に、江藤に峠の抜け道を手配した甲斐があったというものだ。

――京の政局に関わることに慎重な佐賀藩。
「いよいよたい…」
古賀一平は誰に聞かせるでもなく、江藤への期待をつぶやいた。
時代は江戸の幕府から、京の朝廷を軸として回り始めている。諸大名もそのように変化を感じているはずだ。
江戸で諸藩の志士と連絡をとっていた、中野方蔵を欠いた今、佐賀の志士で突破口を開けそうなのは、江藤をおいて他には見当たらない。
〔参照(後半):第17話「佐賀脱藩」③(江戸からの便り)〕
勤王の志を秘めつつも、淡々と三瀬峠の番人を務める日常を過ごす、古賀にとって、祇園太郎が持ってきた知らせは、心を躍らせるものだった。
――三瀬の番所から、佐賀藩側に進んでいく“祇園太郎”。
「古賀さん、大丈夫なのか。あん男、あやしかぞ。」
「心配のなか…あれは、佐賀のために働く者たい。」
江藤より四年ほど前。1858年(安政五年)頃から上方の様子を調べていた、もう1人の脱藩者・“祇園太郎”。
尊王攘夷の志士だったとされるが、その行動には謎が多く、佐賀藩に情報を流している形跡がある。

まるで“密偵”だったような祇園太郎だが、佐賀の関係者では数少ない、幕末の京都で志士として行動した人物。
その活動も、これからの時代の渦の中で、ある“政変”の影響を受けることになるが、それはしばらく後の話になる。
(続く)
舞台は、1862年(文久二年)の夏です。
前回は、佐賀を脱藩した江藤新平が、京都の長州藩邸で、桂小五郎と話している場面でした。
〔参照:
物語として、この前後の時期に京都に居たもう1人の脱藩者・“祇園太郎”が、江藤の協力者だったという設定で展開しています。
〔参照:
佐賀藩で、勤王のはたらきを志す者たちが集った「義祭同盟」。“南北朝”期、朝廷に尽くした忠臣・楠木正成・正行親子を讃える集いから発した結社。
その結社と関わる、尊王の志厚い2人が佐賀にある峠の番所で出会います。2人とも、佐賀に多い名字の“古賀さん”ですが、1人は“変名”で通します。
――佐賀の藩境の1つが、三瀬街道にある。
“二重鎖国”と語られ、藩外からの出入りには厳しい佐賀藩。江藤たちが集う義祭同盟の仲間・古賀一平(定雄)は、ここの番所を担当していた。
今日も番所の門番が、棒をかざして通行人を問いただす。
「いま一度、お主の名を言わんね。」
「“祇園太郎”と申します。これより長崎に向かうところです。」
「そいは、偽りの名ではなかか。」
――門番の反応どおり、明らかに疑わしい名である。
この“祇園太郎”は、よそ者のふりをしているが、もとは佐賀藩内(小城支藩)から出た脱藩者だ。
佐賀では脱藩は重罪なので、もちろん本名は名乗れない。国元に戻ってくるのも危険なはずなのだが、この人物の動きには不可解な点が多い。
番所の門番は、少し上役と思われる仲間に声をかけた。
「古賀さん、怪しい奴がおる。」
「なんね。おいが代わろう。」
呼ばれて現れたふうなのは、古賀一平という人物。実は、江藤新平の脱藩を手助けした1人だ。
「いま、“祇園太郎”と名乗ったか?」
「お役人、古賀さまとおっしゃるか。」
――双方で探りを入れている、古賀一平と“祇園太郎”。
京で活動する江藤新平とは双方が知り合いなのだが、目の前の相手が情報を伝えるべき者なのかの確証がない。
小城支藩で尊王の志を持つ者には、佐賀本藩の「義祭同盟」と交流もあったようだ。謎の通行者と番所の役人、小声で“合い言葉”を交わす様子が見える。
「…“清水”と言えば、何ね!」
「滝ばい。」
「…そん“清水の滝”、何処に在りや!」
「小城にあるとよ。」
「やはり…小城の“祇園太郎”か。」
古賀一平は納得したらしく、身元を探る質問をやめ、何かの書状を受け取る。
――脱藩者の方も、急に“佐賀ことば”に戻っている。
「では、上方(京・大坂)の様子を教えんね。」
古賀一平が気にするのは、江藤新平の京での行動。これも“祇園太郎”ならば、知っているに違いない。
こちらの聞きたいことにも、よどみなく答えられるはずだ。
「江藤さんは…貴きお人を訪ねよるばい。」
“祇園太郎”によれば、佐賀を脱藩した江藤は、長州藩の桂小五郎の伝手(つて)で、京都の公家との接触に成功したようだ。
「そいで、よか。」
表情には、軽く笑みが見える古賀一平。これでこそ夜明け前に、江藤に峠の抜け道を手配した甲斐があったというものだ。
――京の政局に関わることに慎重な佐賀藩。
「いよいよたい…」
古賀一平は誰に聞かせるでもなく、江藤への期待をつぶやいた。
時代は江戸の幕府から、京の朝廷を軸として回り始めている。諸大名もそのように変化を感じているはずだ。
江戸で諸藩の志士と連絡をとっていた、中野方蔵を欠いた今、佐賀の志士で突破口を開けそうなのは、江藤をおいて他には見当たらない。
〔参照(後半):
勤王の志を秘めつつも、淡々と三瀬峠の番人を務める日常を過ごす、古賀にとって、祇園太郎が持ってきた知らせは、心を躍らせるものだった。
――三瀬の番所から、佐賀藩側に進んでいく“祇園太郎”。
「古賀さん、大丈夫なのか。あん男、あやしかぞ。」
「心配のなか…あれは、佐賀のために働く者たい。」
江藤より四年ほど前。1858年(安政五年)頃から上方の様子を調べていた、もう1人の脱藩者・“祇園太郎”。
尊王攘夷の志士だったとされるが、その行動には謎が多く、佐賀藩に情報を流している形跡がある。
まるで“密偵”だったような祇園太郎だが、佐賀の関係者では数少ない、幕末の京都で志士として行動した人物。
その活動も、これからの時代の渦の中で、ある“政変”の影響を受けることになるが、それはしばらく後の話になる。
(続く)
2022年11月23日
「時代のうねりの中で」
こんばんは。今年も11月下旬。開催中のワールドカップ2022では、日本代表の初戦もキックオフ直前…という状況ですが、いつもの内容を綴っていきます。
ここ2回ほど、私の見たい“幕末佐賀藩の大河ドラマ”のイメージの現在地点を語ってきました。
年内には、この“本編”の第18話「京都見聞」を完結させたい!というのは、目標としてお聞きください。今のペースだと年越しにはなってしまいそうです。
――日本史としても、大きな転換期。
「太平の世」と語られた、徳川幕藩体制の時代が、大きな動揺を迎えた時期。1860年(安政七年・万延元年)から“本編”も、第2部として展開しています。
その切り替わりの出来事を、同年三月の“桜田門外の変”に設定しました。
佐賀藩の大河ドラマのイメージなのですが、その立ち位置の変化には、当時の幕府大老・井伊直弼の非業の最期が関わっています。

――第1部の終わり、第15話「江戸動乱」(1860年頃)。
時代の趨勢を見て、日米修好通商条約の締結を容認。また、先代将軍と関係の近い、紀州(和歌山)藩主の徳川慶福(のち家茂)を将軍に擁立します。
開国の責任を背負った井伊直弼。幕府の権威を維持しつつ、世界に向けて港を開き、周囲に列強がひしめく難局を突破しようと試みました。
○日本史的な見どころ
「桜田門外の変」
実は、居合の達人だった井伊直弼。襲撃した浪士からの一発の銃弾が貫通して行動不能となり、おそらくは抜刀もできないまま討ち取られたようです。
本編では、井伊がアメリカに派遣し、西洋の近代を学ぶ機会を与えた“世界を廻った者”たちに、希望をつなぎながら落命しました。
〔参照:第15話「江戸動乱」⑮(雪の舞う三月)〕
○“佐賀県”的な見どころ
「鍋島直正と親しい」
井伊直弼は事件の1か月ほど前に、江戸の佐賀藩邸も訪れています。ちなみに大老が、外様大名の屋敷に行くのは、きわめて異例の事だと聞きます。
“武備開国”を目指し、「通商で富を得て、無法な異国だけを打ち払う…」この認識が共有できる“同志”だったようです。
〔参照(後半):第15話「江戸動乱」⑭(“赤鬼”が背負うもの)〕

――第2部の始まり、第16話「攘夷沸騰」(1861年頃)。
幕府は赤鬼と恐れられ、豪腕で知られた大老・井伊直弼を失い、混乱します。
しかし井伊は幕府旗本の中から、ある開明的な人物を見い出し、条約の批准のためにアメリカに派遣していました。
徳川の時代に西洋式造船所などを具体化し、後世には“明治近代化の父”の1人とも評される、小栗忠順(上野介)です。
○日本史的な見どころ
「ポサドニック号事件(対馬事件)」
船体修理を名目に、現・長崎県の対馬に停泊して居座ったロシア軍艦。幕府の外国奉行・小栗忠順は現地入りして、退去を求めます。
幕府はイギリスからの圧力も借りて、そのポサドニック号を撤退させますが、小栗は列強との力の差に悔しさを噛みしめます。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」⑲(強くなりたいものだ)〕
○“佐賀県”的な見どころ
「対馬藩士も頑張る」
佐賀藩士・佐野常民(栄寿)は幕府から預かった軍艦(観光丸)の船長として、対馬に同行。佐賀藩の蒸気軍艦(電流丸)も周辺海域の警戒にあたります。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」⑱(蒸気船の集まる海域)〕
危機にあった対馬藩の田代領(現・鳥栖市東部、基山町)の対馬藩士たちは一戦交える覚悟で対馬本島に来て、守りを固め、抵抗を繰り広げたようです。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」⑳(基山の誇り、田代の想い)〕

――そして直前の、第17話「佐賀脱藩」(1862年頃)。
白昼に大老が襲撃され、外国船は離島に居座る…“内憂外患”の徳川政権。朝廷に近づく、公武合体により幕府の権威の回復をはかる策を進めます。
孝明天皇の妹・和宮を、第14代将軍・徳川家茂に降嫁する計画が進みます。これは、幕府にとって起死回生の一手でした。
○日本史的な見どころ
「坂下門外の変」
皇女・和宮の“奪還”などを唱える浪士の、公武合体を進めた老中・安藤信正への襲撃事件。安藤老中は退避に成功するも、武士らしくないと批判が集中。
〔参照(前半):第17話「佐賀脱藩」⑰(救おうとする者たち)〕
江藤新平の親友・中野方蔵は、事件への関与を疑われ、獄中で帰らぬ人に。この出来事は佐賀を脱藩した、江藤の動機になったと言われます。
〔参照(前半):第17話「佐賀脱藩」⑯(つながりは諸刃の剣)〕
○“佐賀県”的な見どころ
「小笠原長行の視線」
唐津藩(現・唐津市周辺)の藩主名代(代理)だった、小笠原長行は老中格として若き将軍・家茂を支えることに。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑤(若き“将軍”への視線)〕
徳川家茂は心優しい人物だったようで、妻・和宮とも真っ直ぐな愛を育みます。
若い徳川家茂を影から見守る小笠原長行。何だか、“保護者目線”です。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑬(籠鳥は、雲を恋う)〕

――では、第18話「京都見聞」の後半に戻ろうと思います。
「桜田門外の変」で大老・井伊直弼が亡くなったことで、佐賀藩・鍋島直正と幕府中枢とのつながりが弱まり、独自路線を取り始めました。(1860年)
「ポサドニック号事件」では、近隣の対馬藩が危機にさらされ、列強の野心をより身近に感じることになりました。(1861年)
「坂下門外の変」で幕府の混迷は深まり、伝統的な権威がある朝廷の存在感は増し、各地の雄藩はこぞって朝廷に接近を図っています。(1862年)
――各藩が京を目指す“上洛競争”の中、
慎重な姿勢を続ける佐賀藩。この時期の京の都には、すごく目立つ動きをした佐賀からの脱藩者が居ました。その名は、江藤新平。
概ね以上のような、時代背景の解釈で進めています。1862年(文久二年)夏。京都を主な舞台として、本編を再開したいと思います。
ここ2回ほど、私の見たい“幕末佐賀藩の大河ドラマ”のイメージの現在地点を語ってきました。
年内には、この“本編”の第18話「京都見聞」を完結させたい!というのは、目標としてお聞きください。今のペースだと年越しにはなってしまいそうです。
――日本史としても、大きな転換期。
「太平の世」と語られた、徳川幕藩体制の時代が、大きな動揺を迎えた時期。1860年(安政七年・万延元年)から“本編”も、第2部として展開しています。
その切り替わりの出来事を、同年三月の“桜田門外の変”に設定しました。
佐賀藩の大河ドラマのイメージなのですが、その立ち位置の変化には、当時の幕府大老・井伊直弼の非業の最期が関わっています。
――第1部の終わり、第15話「江戸動乱」(1860年頃)。
時代の趨勢を見て、日米修好通商条約の締結を容認。また、先代将軍と関係の近い、紀州(和歌山)藩主の徳川慶福(のち家茂)を将軍に擁立します。
開国の責任を背負った井伊直弼。幕府の権威を維持しつつ、世界に向けて港を開き、周囲に列強がひしめく難局を突破しようと試みました。
○日本史的な見どころ
「桜田門外の変」
実は、居合の達人だった井伊直弼。襲撃した浪士からの一発の銃弾が貫通して行動不能となり、おそらくは抜刀もできないまま討ち取られたようです。
本編では、井伊がアメリカに派遣し、西洋の近代を学ぶ機会を与えた“世界を廻った者”たちに、希望をつなぎながら落命しました。
〔参照:
○“佐賀県”的な見どころ
「鍋島直正と親しい」
井伊直弼は事件の1か月ほど前に、江戸の佐賀藩邸も訪れています。ちなみに大老が、外様大名の屋敷に行くのは、きわめて異例の事だと聞きます。
“武備開国”を目指し、「通商で富を得て、無法な異国だけを打ち払う…」この認識が共有できる“同志”だったようです。
〔参照(後半):
――第2部の始まり、第16話「攘夷沸騰」(1861年頃)。
幕府は赤鬼と恐れられ、豪腕で知られた大老・井伊直弼を失い、混乱します。
しかし井伊は幕府旗本の中から、ある開明的な人物を見い出し、条約の批准のためにアメリカに派遣していました。
徳川の時代に西洋式造船所などを具体化し、後世には“明治近代化の父”の1人とも評される、小栗忠順(上野介)です。
○日本史的な見どころ
「ポサドニック号事件(対馬事件)」
船体修理を名目に、現・長崎県の対馬に停泊して居座ったロシア軍艦。幕府の外国奉行・小栗忠順は現地入りして、退去を求めます。
幕府はイギリスからの圧力も借りて、そのポサドニック号を撤退させますが、小栗は列強との力の差に悔しさを噛みしめます。
〔参照:
○“佐賀県”的な見どころ
「対馬藩士も頑張る」
佐賀藩士・佐野常民(栄寿)は幕府から預かった軍艦(観光丸)の船長として、対馬に同行。佐賀藩の蒸気軍艦(電流丸)も周辺海域の警戒にあたります。
〔参照:
危機にあった対馬藩の田代領(現・鳥栖市東部、基山町)の対馬藩士たちは一戦交える覚悟で対馬本島に来て、守りを固め、抵抗を繰り広げたようです。
〔参照:
――そして直前の、第17話「佐賀脱藩」(1862年頃)。
白昼に大老が襲撃され、外国船は離島に居座る…“内憂外患”の徳川政権。朝廷に近づく、公武合体により幕府の権威の回復をはかる策を進めます。
孝明天皇の妹・和宮を、第14代将軍・徳川家茂に降嫁する計画が進みます。これは、幕府にとって起死回生の一手でした。
○日本史的な見どころ
「坂下門外の変」
皇女・和宮の“奪還”などを唱える浪士の、公武合体を進めた老中・安藤信正への襲撃事件。安藤老中は退避に成功するも、武士らしくないと批判が集中。
〔参照(前半):
江藤新平の親友・中野方蔵は、事件への関与を疑われ、獄中で帰らぬ人に。この出来事は佐賀を脱藩した、江藤の動機になったと言われます。
〔参照(前半):
○“佐賀県”的な見どころ
「小笠原長行の視線」
唐津藩(現・唐津市周辺)の藩主名代(代理)だった、小笠原長行は老中格として若き将軍・家茂を支えることに。
〔参照:
徳川家茂は心優しい人物だったようで、妻・和宮とも真っ直ぐな愛を育みます。
若い徳川家茂を影から見守る小笠原長行。何だか、“保護者目線”です。
〔参照:
――では、第18話「京都見聞」の後半に戻ろうと思います。
「桜田門外の変」で大老・井伊直弼が亡くなったことで、佐賀藩・鍋島直正と幕府中枢とのつながりが弱まり、独自路線を取り始めました。(1860年)
「ポサドニック号事件」では、近隣の対馬藩が危機にさらされ、列強の野心をより身近に感じることになりました。(1861年)
「坂下門外の変」で幕府の混迷は深まり、伝統的な権威がある朝廷の存在感は増し、各地の雄藩はこぞって朝廷に接近を図っています。(1862年)
――各藩が京を目指す“上洛競争”の中、
慎重な姿勢を続ける佐賀藩。この時期の京の都には、すごく目立つ動きをした佐賀からの脱藩者が居ました。その名は、江藤新平。
概ね以上のような、時代背景の解釈で進めています。1862年(文久二年)夏。京都を主な舞台として、本編を再開したいと思います。
2022年11月18日
「謎多き、小城の志士たち」
こんばんは。
“本編”の下書きをしながら、直近の展開を振り返る…私にとっては、一挙両得な企画を続けます。
さて、第2部の主人公に設定している江藤新平が、佐賀を脱藩して京の都で活動したのは、文久二年(1862年)の夏。
あえて他地域からの目線で語りますが、JR佐賀駅からは唐津線に乗り、3駅のところにある街が存在感を見せています。

――その街の名は、小城。
甘党には“シュガーロード”が通る佐賀の銘菓・小城羊羹で有名、辛党にとっては天山の名水が造り出す銘酒の里。
九州に留まらぬ勢いのアイスバー“ブラックモンブラン”の竹下製菓さん。地サイダーや“こどもびいる”の友桝飲料さん…など、特色のある企業も活躍。
すぐに思いつく“小城ブランド”を紹介してみました。ポジティブな良いイメージばかりが湧き出ることに驚きます。
――夏の祇園川にはホタルも舞い、涼しげな清水の滝も名所。
当地には江戸時代を通じて、佐賀藩の支藩の1つ・小城藩がありました。
『鎌倉殿の13人』でも登場した千葉常胤。もとは平氏である千葉一族から、小城の地に定着する肥前千葉氏が起こります。
江藤新平は、その肥前千葉氏に連なる家系の出身といわれ、小城とは深い関係にあります。

――剣を学ぶのも、小城で。
江藤は、当地にあった永田右源次の道場で、剣の腕を磨いたと言われます。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」②(小城の秘剣)〕
単に一地域の剣術道場と甘くみてはいけません。レベルの高さがうかがえる話があります。道場主のご子息には、明治期の剣道家・辻真平がいます。
明治期には、佐賀の警察や学校でも剣道を教えていたようですが、幕末期、真剣での斬り合いをくぐってきた志士たちも唸らせる腕前だったようです。
そして現代でも剣道部が「ヤー、トー」と演武を行う、“日本剣道形”。辻真平は、その基礎を作った主要な剣道家の1人として名を残すことに。
――話を幕末に戻して。頼れる先輩も、小城にあり。
江藤が通ったその道場で、兄弟子だったのが富岡敬明。明治期には熊本や山梨の地域行政で功績を残し、各地での知名度の方が高いかもしれません。
佐賀を脱藩した江藤が、京都から帰ってきた時に支援した人物で、脱藩する時にも手引きしていたという説もあります。
〔参照:第18話「京都見聞」④(湯呑みより茶が走る)〕
富岡敬明は、江藤だけでなく、佐賀城下の結社“義祭同盟”の他のメンバーとも関わりがあったようです。

――小城の視点から、新しい見え方があるかも…
本編・第18話「京都見聞」では、もう1人。小城の出身者が登場しました。
〔参照(後半):第18話「京都見聞」⑥(もう1人の脱藩者)〕
突然、京の都に現れて、江藤の手助けをした“祇園太郎”。本名は古賀利渉といったそうですが、この人物も“義祭同盟”とつながりがあったと言われます。
“義祭同盟”は、南北朝時代の朝廷の忠臣・楠木正成を祀りますから、尊王の志士にはピッタリの趣旨です。
――脱藩の志士・“祇園太郎”について。
小城支藩内で大庄屋を務めていましたが、江藤より先に佐賀を脱藩します。
上方(京・大坂)での尊王攘夷の活動を目指したか、訪ねたのは播磨(兵庫)。ここで、河野鉄兜という儒学者の門を叩きます。
日米修好通商条約が締結された安政五年(1858年)。本格的な開国の時期を迎えて、攘夷論も活発となっていた時期でした。
――訪ねた先の、播磨の河野鉄兜という人物も…
“義祭同盟”の主宰者・枝吉神陽と交流があったとする情報を見かけました。
この情報を見た時に、少しゾクゾクしました。実のところ「すべてが、枝吉神陽の掌の上で動いていたのでは…」という想像をしたからです。
なお、“本編”では江藤が語らずとも、師匠の神陽先生は脱藩の全容を見通すような描写にしています。
〔参照(中盤):第17話「佐賀脱藩」㉑(郷里を背に)〕

――安政年間から、上方で活動した“祇園太郎”は…
江藤の脱藩前後にも、長州藩の人物や公家たちとも人脈があった様子です。
なお京の都で、江藤の手助けをする筋書きは、資料で得られた情報ではないので、“創作”ということになります。
一方で、江藤に、いかに才覚があっても、京の都を知る誰かの協力はあったのでは…という推測をするところがあります。
謎多き小城の志士・“祇園太郎”の登場を、ここに設定した理由です。
〔参照:第18話「京都見聞」⑩(小城の風が、都に吹いた)〕
――当てもなく、見知らぬ大都会に出た時に、
目的を理解してくれる同郷の人が、案内に出てくれると心強いのでは…という気持ちで演出しました。
江藤新平を“超人”として描けていない傾向はありますが、それが書いていて面白いところでもあります。
佐賀脱藩の“伝説”をサポートした、小城の志士たち。私の描く物語では、これからも活躍する場面がありそうです。
“本編”の下書きをしながら、直近の展開を振り返る…私にとっては、一挙両得な企画を続けます。
さて、第2部の主人公に設定している江藤新平が、佐賀を脱藩して京の都で活動したのは、文久二年(1862年)の夏。
あえて他地域からの目線で語りますが、JR佐賀駅からは唐津線に乗り、3駅のところにある街が存在感を見せています。
――その街の名は、小城。
甘党には“シュガーロード”が通る佐賀の銘菓・小城羊羹で有名、辛党にとっては天山の名水が造り出す銘酒の里。
九州に留まらぬ勢いのアイスバー“ブラックモンブラン”の竹下製菓さん。地サイダーや“こどもびいる”の友桝飲料さん…など、特色のある企業も活躍。
すぐに思いつく“小城ブランド”を紹介してみました。ポジティブな良いイメージばかりが湧き出ることに驚きます。
――夏の祇園川にはホタルも舞い、涼しげな清水の滝も名所。
当地には江戸時代を通じて、佐賀藩の支藩の1つ・小城藩がありました。
『鎌倉殿の13人』でも登場した千葉常胤。もとは平氏である千葉一族から、小城の地に定着する肥前千葉氏が起こります。
江藤新平は、その肥前千葉氏に連なる家系の出身といわれ、小城とは深い関係にあります。
――剣を学ぶのも、小城で。
江藤は、当地にあった永田右源次の道場で、剣の腕を磨いたと言われます。
〔参照:
単に一地域の剣術道場と甘くみてはいけません。レベルの高さがうかがえる話があります。道場主のご子息には、明治期の剣道家・辻真平がいます。
明治期には、佐賀の警察や学校でも剣道を教えていたようですが、幕末期、真剣での斬り合いをくぐってきた志士たちも唸らせる腕前だったようです。
そして現代でも剣道部が「ヤー、トー」と演武を行う、“日本剣道形”。辻真平は、その基礎を作った主要な剣道家の1人として名を残すことに。
――話を幕末に戻して。頼れる先輩も、小城にあり。
江藤が通ったその道場で、兄弟子だったのが富岡敬明。明治期には熊本や山梨の地域行政で功績を残し、各地での知名度の方が高いかもしれません。
佐賀を脱藩した江藤が、京都から帰ってきた時に支援した人物で、脱藩する時にも手引きしていたという説もあります。
〔参照:
富岡敬明は、江藤だけでなく、佐賀城下の結社“義祭同盟”の他のメンバーとも関わりがあったようです。
――小城の視点から、新しい見え方があるかも…
本編・第18話「京都見聞」では、もう1人。小城の出身者が登場しました。
〔参照(後半):
突然、京の都に現れて、江藤の手助けをした“祇園太郎”。本名は古賀利渉といったそうですが、この人物も“義祭同盟”とつながりがあったと言われます。
“義祭同盟”は、南北朝時代の朝廷の忠臣・楠木正成を祀りますから、尊王の志士にはピッタリの趣旨です。
――脱藩の志士・“祇園太郎”について。
小城支藩内で大庄屋を務めていましたが、江藤より先に佐賀を脱藩します。
上方(京・大坂)での尊王攘夷の活動を目指したか、訪ねたのは播磨(兵庫)。ここで、河野鉄兜という儒学者の門を叩きます。
日米修好通商条約が締結された安政五年(1858年)。本格的な開国の時期を迎えて、攘夷論も活発となっていた時期でした。
――訪ねた先の、播磨の河野鉄兜という人物も…
“義祭同盟”の主宰者・枝吉神陽と交流があったとする情報を見かけました。
この情報を見た時に、少しゾクゾクしました。実のところ「すべてが、枝吉神陽の掌の上で動いていたのでは…」という想像をしたからです。
なお、“本編”では江藤が語らずとも、師匠の神陽先生は脱藩の全容を見通すような描写にしています。
〔参照(中盤):
――安政年間から、上方で活動した“祇園太郎”は…
江藤の脱藩前後にも、長州藩の人物や公家たちとも人脈があった様子です。
なお京の都で、江藤の手助けをする筋書きは、資料で得られた情報ではないので、“創作”ということになります。
一方で、江藤に、いかに才覚があっても、京の都を知る誰かの協力はあったのでは…という推測をするところがあります。
謎多き小城の志士・“祇園太郎”の登場を、ここに設定した理由です。
〔参照:
――当てもなく、見知らぬ大都会に出た時に、
目的を理解してくれる同郷の人が、案内に出てくれると心強いのでは…という気持ちで演出しました。
江藤新平を“超人”として描けていない傾向はありますが、それが書いていて面白いところでもあります。
佐賀脱藩の“伝説”をサポートした、小城の志士たち。私の描く物語では、これからも活躍する場面がありそうです。
2022年11月14日
「160年前の“伝説”」
こんばんは。
“連続ブログ小説”というタイトルで綴りました、第2作目『聖地の剣』。
一言にすると、現代の佐賀城下の一角を中心として、ある佐賀県の出身者が狭い範囲を回るだけ…という展開でした。
それでも私にとっては、短い時間でも当ブログにとっての“聖地”を巡ることができて、すごく得るものが多かったと思います。
――実際のところを言えば…
以前の私は佐賀城を見て、そこまでの感銘を受けることはありませんでした。
本丸御殿を再現した歴史館ができた効果もあると思いますが、「人も変われば変わるもの…」というところでしょうか。

そのシリーズで時間を稼ぐ間に“本編”も書いてみたのですが、わずか3回分の下書きのストックが出来たのみという状況です。
なお本編の”現在地”は、文久二年(1862年)の京の都・長州藩邸です。
〔参照:第18話「京都見聞」⑫(江藤、“長州”と出会う)〕
――今(2022年)から、160年前の佐賀。
ある佐賀の下級武士が、藩境を越えて、福岡へと抜けていきました。その名は言うまでもなく、江藤新平。
〔参照:第18話「京都見聞」①(新平、東へ)〕
佐賀の七賢人の1人として知られ、熱烈なファンも結構多いと聞くので、実は当初から描写に気を遣うところも。
私としても、なるべく歴史上の大筋を外さずに、己が信じた正義を貫こうと苦闘する“ヒーロー”として書きたい感覚があります。
“超”が付くほど理屈っぽいけども、誰もがお手上げの問題を解決し、本当に困っている人々には優しい…そんな印象です。

――これから、京の都での活躍も描きたい。
江藤という人物を語るとき、最期が悲劇に終わり、衝撃的に過ぎることが無視できず、暗い影を落としています。
しかし、幕末期での秘められた熱い志と、明治新時代での隠された活躍が、私はまとめて見たいのです。やはり願わくば「大河ドラマ」で、と考えます。
その格好良さが、なかなか映像化されないので、勝手に江藤が主役の作品をイメージして、”本編”第2部の第18話「京都見聞」を書いています。
〔参照:第18話「京都見聞」⑪(佐賀より来たる者なり)〕
昔の私も持っていた教科書通りの「”士族反乱”の首謀者」という、古い語り方を覆してみたい。
――こう考えると、ちょっとワクワクしてきます。
但し、私の能力はといえば、『聖地の剣』で繰り返したように「日常の難事でも四苦八苦するレベル」です。
国家的難題を次々と解決する、日本史上でも稀有な才覚を持った江藤新平を描くのには躊躇があります。
けれども、私程度の人間でも描けるならば、才能のある方は、もっと格好良い江藤の姿を書けるはずなので、それにも期待します。

――大作家・司馬遼太郎先生の『歳月』は読みたいのですが…
江藤新平が主役の作品としては、おそらく最も有名だと思います。但し、先に読むと自分では描けなくなりそうで、まだ同作を読むのは控えています。
とりあえず「目指せ、映像化」と思いながら書き進めますが、当分、下書き期間が続きそうなので、暖かく見守っていただければ幸いです。
“連続ブログ小説”というタイトルで綴りました、第2作目『聖地の剣』。
一言にすると、現代の佐賀城下の一角を中心として、ある佐賀県の出身者が狭い範囲を回るだけ…という展開でした。
それでも私にとっては、短い時間でも当ブログにとっての“聖地”を巡ることができて、すごく得るものが多かったと思います。
――実際のところを言えば…
以前の私は佐賀城を見て、そこまでの感銘を受けることはありませんでした。
本丸御殿を再現した歴史館ができた効果もあると思いますが、「人も変われば変わるもの…」というところでしょうか。
そのシリーズで時間を稼ぐ間に“本編”も書いてみたのですが、わずか3回分の下書きのストックが出来たのみという状況です。
なお本編の”現在地”は、文久二年(1862年)の京の都・長州藩邸です。
〔参照:
――今(2022年)から、160年前の佐賀。
ある佐賀の下級武士が、藩境を越えて、福岡へと抜けていきました。その名は言うまでもなく、江藤新平。
〔参照:
佐賀の七賢人の1人として知られ、熱烈なファンも結構多いと聞くので、実は当初から描写に気を遣うところも。
私としても、なるべく歴史上の大筋を外さずに、己が信じた正義を貫こうと苦闘する“ヒーロー”として書きたい感覚があります。
“超”が付くほど理屈っぽいけども、誰もがお手上げの問題を解決し、本当に困っている人々には優しい…そんな印象です。
――これから、京の都での活躍も描きたい。
江藤という人物を語るとき、最期が悲劇に終わり、衝撃的に過ぎることが無視できず、暗い影を落としています。
しかし、幕末期での秘められた熱い志と、明治新時代での隠された活躍が、私はまとめて見たいのです。やはり願わくば「大河ドラマ」で、と考えます。
その格好良さが、なかなか映像化されないので、勝手に江藤が主役の作品をイメージして、”本編”第2部の第18話「京都見聞」を書いています。
〔参照:
昔の私も持っていた教科書通りの「”士族反乱”の首謀者」という、古い語り方を覆してみたい。
――こう考えると、ちょっとワクワクしてきます。
但し、私の能力はといえば、『聖地の剣』で繰り返したように「日常の難事でも四苦八苦するレベル」です。
国家的難題を次々と解決する、日本史上でも稀有な才覚を持った江藤新平を描くのには躊躇があります。
けれども、私程度の人間でも描けるならば、才能のある方は、もっと格好良い江藤の姿を書けるはずなので、それにも期待します。

――大作家・司馬遼太郎先生の『歳月』は読みたいのですが…
江藤新平が主役の作品としては、おそらく最も有名だと思います。但し、先に読むと自分では描けなくなりそうで、まだ同作を読むのは控えています。
とりあえず「目指せ、映像化」と思いながら書き進めますが、当分、下書き期間が続きそうなので、暖かく見守っていただければ幸いです。
2022年11月10日
連続ブログ小説「聖地の剣」(27)同じ空を見ていた
こんばんは。
長々とお送りしました夏前の旅日記のシリーズも最終回。『さがファンブログ』を始めて、約2年半の時点でようやく実行できた佐賀への“帰藩”。
ブログ開始前の時期を書いた前作「旅立の剣」に比べ、様々な事を考えながら回りました。記事にする段階でも色々考えるので、どんどん構成は複雑に。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(40)いつの日か佐賀で〕
掲載している間も何かと忙しく、“本編”の下書きを溜めるための時間稼ぎにはなりませんでしたが、何とか完結にはたどり着くことができたようです。
――夕刻。去りがたき、佐賀の街。
そもそも、私の日常には何故ここまで余力が無いのかと、また自問自答する。特殊な才覚でもなければ、まともに生活するには働かねばならない。
私の能力では、手を抜いても仕事が回るなどと都合の良いことは無い。でも、真面目にコツコツと頑張るのが、“佐賀の者”らしくはないかと考え直してみる。

――それに、私が仰ぎ見る“佐賀の先輩”たちは、
皆、すごく“働き者”ばかりではないか。
そして、無理をし過ぎる“先輩”の姿も、歴史上に見る。真っ直ぐな生き方は、人としては魅力的なのだが、もう少し自分を大事にしてほしかった。
対して、それなりにしか頑張っていない私だが、それでも疲労は身体に蓄積し、年を経るごとに下を向くことも増えてきた。
――この帰り道でも、まだ佐賀の空は見られる。
一日よく雨は降っていたが、不自然なぐらいタイミングの良い天気で、傘を開く必要も無い行程だった。
ずっと地元に住む人に共感が得られるかはわからないが、私は佐賀の空を「手が届くほどに近く」感じている。
この日の夕刻は、空は随分と赤くまばゆい、それでいて心が穏やかになる、幻想的な景色だった。

――再び、“空の遠い街”へと帰っていく。
ところで、『さがファンブログ』を始めてから、地元の皆様のブログの影響か、私はいま住む街でも、空を見上げることが増えた。
やはり佐賀に住む人は、バルーンの時に限らず、空を、風を、雲を…身近に感じているのではないか。
一方で、いつもは遠く離れた地から、西方の空を望む私だが、おそらく余所に住む者にしか見えてこない、故郷の真価もある。
――「望郷の想い」というのは、歳月が重なるごとに高まるとも聞く。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という言葉に納得する部分もあるし、いま居る場所で幸せを追求する方が、きっと効率は良い。
ただ、自分の人生が始まった場所に誇りを持って生きられるのは、素敵な事ではないか。それは、日々の生き方そのものを強く変えてくれる気がしている。
先ほどの言葉には続きがあり、ふるさとは「遠きにありて」思い、そして「悲しくうたふ」ものだそうだ。
少なくとも、今の私には故郷・佐賀は「悲しくうたふ」ような場所ではないようだ。折れかかった心も、立ち直らせるほどに「気持ちを熱く」してくれる場所らしい。

――この夕方。私は、同じ空を見ていた。
幕末・明治期に活躍した“先輩たち”も見ていたであろう、同じ佐賀の空を。
そして、この日は、今の佐賀を生きる皆様とも同じ空の下に居られた。細々とだが“地域ブログ“の書き手の1人となっている、私はそんな感覚を持った。
私の想いは、もはや人生の残り火なのか、これから光る灯火となり得るのかはわからない。その時は、ただ赤く美しい、夕刻の佐賀の空を見上げていた。
〔連続ブログ小説「聖地の剣」 完〕
長々とお送りしました夏前の旅日記のシリーズも最終回。『さがファンブログ』を始めて、約2年半の時点でようやく実行できた佐賀への“帰藩”。
ブログ開始前の時期を書いた前作「旅立の剣」に比べ、様々な事を考えながら回りました。記事にする段階でも色々考えるので、どんどん構成は複雑に。
〔参照:
掲載している間も何かと忙しく、“本編”の下書きを溜めるための時間稼ぎにはなりませんでしたが、何とか完結にはたどり着くことができたようです。
――夕刻。去りがたき、佐賀の街。
そもそも、私の日常には何故ここまで余力が無いのかと、また自問自答する。特殊な才覚でもなければ、まともに生活するには働かねばならない。
私の能力では、手を抜いても仕事が回るなどと都合の良いことは無い。でも、真面目にコツコツと頑張るのが、“佐賀の者”らしくはないかと考え直してみる。
――それに、私が仰ぎ見る“佐賀の先輩”たちは、
皆、すごく“働き者”ばかりではないか。
そして、無理をし過ぎる“先輩”の姿も、歴史上に見る。真っ直ぐな生き方は、人としては魅力的なのだが、もう少し自分を大事にしてほしかった。
対して、それなりにしか頑張っていない私だが、それでも疲労は身体に蓄積し、年を経るごとに下を向くことも増えてきた。
――この帰り道でも、まだ佐賀の空は見られる。
一日よく雨は降っていたが、不自然なぐらいタイミングの良い天気で、傘を開く必要も無い行程だった。
ずっと地元に住む人に共感が得られるかはわからないが、私は佐賀の空を「手が届くほどに近く」感じている。
この日の夕刻は、空は随分と赤くまばゆい、それでいて心が穏やかになる、幻想的な景色だった。
――再び、“空の遠い街”へと帰っていく。
ところで、『さがファンブログ』を始めてから、地元の皆様のブログの影響か、私はいま住む街でも、空を見上げることが増えた。
やはり佐賀に住む人は、バルーンの時に限らず、空を、風を、雲を…身近に感じているのではないか。
一方で、いつもは遠く離れた地から、西方の空を望む私だが、おそらく余所に住む者にしか見えてこない、故郷の真価もある。
――「望郷の想い」というのは、歳月が重なるごとに高まるとも聞く。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という言葉に納得する部分もあるし、いま居る場所で幸せを追求する方が、きっと効率は良い。
ただ、自分の人生が始まった場所に誇りを持って生きられるのは、素敵な事ではないか。それは、日々の生き方そのものを強く変えてくれる気がしている。
先ほどの言葉には続きがあり、ふるさとは「遠きにありて」思い、そして「悲しくうたふ」ものだそうだ。
少なくとも、今の私には故郷・佐賀は「悲しくうたふ」ような場所ではないようだ。折れかかった心も、立ち直らせるほどに「気持ちを熱く」してくれる場所らしい。
――この夕方。私は、同じ空を見ていた。
幕末・明治期に活躍した“先輩たち”も見ていたであろう、同じ佐賀の空を。
そして、この日は、今の佐賀を生きる皆様とも同じ空の下に居られた。細々とだが“地域ブログ“の書き手の1人となっている、私はそんな感覚を持った。
私の想いは、もはや人生の残り火なのか、これから光る灯火となり得るのかはわからない。その時は、ただ赤く美しい、夕刻の佐賀の空を見上げていた。
〔連続ブログ小説「聖地の剣」 完〕
タグ :佐賀
2022年11月06日
連続ブログ小説「聖地の剣」(26)もう1つの“忘れ物”
こんばんは。
ほぼひと夏を越えて書き続けた、わずか1日(約6時間)の佐賀での活動をもとにした話。
私は、この旅路で「“忘れ物”を取り返せたのか」と自問しますが、きっと、その答えは、これから書いていくほかはないのでしょう。
そして、この旅の終わりに出会った“ご夫婦”は、優しい表情をしていました。
――佐賀市内のメインストリート、中央大通り。
佐賀県が誇る“賢人たち”の銅像が多くある。
その姿は、いつも私に何かを考えるきっかけをくれる。写真に収めていれば、やがて見つめ直す機会が来るのだ。
やはり迷える“後輩”である私には、故郷・佐賀の偉大な“先輩”の助言が一番効くのかもしれない。

――2019年(令和元年)秋。このブログを始める直前の時期。
幕末・明治期の歴史で“薩長土肥”の肥前とは、佐賀のことだと聞くけれども、どんな役回りをしたのだか、それまでの人生で意識してこなかった私。
しかし、この年。「日本の近代化の影に、だいたい佐賀の存在あり」と大雑把ではありつつも、ハッキリと気付いた。
ボーッとした長い眠りから目覚めたかの如く、周辺情報を調べまくると、佐賀の先人たちの色々な活躍ぶりが見えて、面白い事このうえなかった。
――こうして近年、佐賀に“帰藩”しようものなら、大忙しとなっている。
早朝から食事もそこそこに大通りへと出て、メインストリートの銅像と黙しながらも対話し、長崎街道の空気に親しむ。
「その間、時の流れが変わる」という印象もあって、わずか数分でも、それなりに感得するところがある。
時を投げ棄てるように、慌ただしく過ごしている日常。これほど充実した時間はなかなか持つことができない。

だが、この時も先行きを急ぐ中で、私は1つの忘れ物をしていた。
『佐賀バルーンミュージアム』の存在感に気を取られ、その傍らに見えていた、ご夫婦の銅像に注目していなかったのだ。
〔参照(終盤):「私の失策とイルミネーションのご夫婦(前編)」〕
――記事を書く段階になり、「しまった!」と気付きがち。
たぶん、こういう細かい後悔を繰り返しながら生きていく。但し、それを取り返すことができるのも、また人生なのだろう。
〔参照:「私の失策とイルミネーションのご夫婦(後編)」〕
2年半の時を隔てて、佐賀に帰還した私。件の“ご夫婦”像の手前に至る。
「先頃は、失礼をしました。このたびは、しっかりご挨拶に伺いました。」
石井亮一・筆子夫妻の銅像。日本における「知的障がい児教育の先駆者」という肩書きが、一般的な説明になるだろうか。

――佐賀藩の重臣の家に生まれた、石井亮一。
時代はすでに明治へと移っていたが、とても成績優秀だった亮一は、鍋島家の奨学生に選ばれ、東京へと出た。
しかし、病弱だったため、佐賀出身者の多くが名をつらねるエリート技術官僚になるための検査には、身体の壮健さが足らず、不合格だった。
曲折はあったが、亮一はそれでもアメリカ留学を目指した。
英語を習得するため、立教学校(現・立教大学)に入り、創設者のウィリアムズ主教を通じてキリスト教と出会い、女子教育者としての道を歩むことになる。
――“無償の愛”を学ぶだけでなく実践する、亮一。
濃尾震災で親を失った孤児(孤女)が、人身売買の手にかからぬよう、救済に奔走したという。亮一が保護した中には、知的障がいを持つ子どももいた。
この出会いが、彼の進む道を決めたようだ。
当時の日本で知的障がいは全く理解されなかったが、亮一は「その子に応じた教育を施せば、その子なりの発達がある」と気付いた。

――隣に座る、石井筆子は長崎の大村藩出身。
大村藩を“勤王”の方針にまとめ、倒幕にも積極的に貢献し、明治新政府でも高官となった渡邉清の長女。
ヨーロッパ留学など華やかな経歴を持つ筆子だが、前夫とは死別してしまう。
筆子には知的障がいを持つ娘がおり、教育の活動を進めていた石井亮一に娘たちの相談をした。
そしてバザーを開くなど一緒に活動するうちに同志となり、やがて“ご夫婦”となったようだ。
――この2人の物語、日本初の知的障がい児施設の創設へつながる。
残念ながら、昨年(2021年)に放送された大河ドラマ『青天を衝け』の作中では、石井夫妻と、「滝乃川学園」が描かれる場面を見つけられなかった。
同作で主役だった、渋沢栄一も他界するまで理事長に就き、経営面を支えるほど、熱心な支援者だったので、登場を期待していたのだ。
その一途な心で、財界の超大物も動かした、2人の限りなく優しい眼差しは、学園の子供たちに向けられたものという。
石井亮一は、障がい児教育・福祉については多くの教えを残すも、自分自身については、「道を伝えて、己を伝えず」の精神で語らなかったそうだ。
――見返りを求めない、真っ直ぐな“小さき者”への愛。
佐賀の賢人には、強さだけでなく優しさを感じさせる方が多い。そして、やはり自分の功績をアピールしない人が多いのだ。
「…旅の終わりに、貴方のような“優しい先輩”に出会えて良かったです。」
奥ゆかしさと、一途な志の強さ。佐賀県出身というだけのつながりで、とても真似はできないが、郷里の先輩には違いなく、私には誇らしい。
長く続けた、このシリーズも次回までの予定になる。そこでは、佐賀を発つ際の景色をお見せしたいと考えている。
(続く)
ほぼひと夏を越えて書き続けた、わずか1日(約6時間)の佐賀での活動をもとにした話。
私は、この旅路で「“忘れ物”を取り返せたのか」と自問しますが、きっと、その答えは、これから書いていくほかはないのでしょう。
そして、この旅の終わりに出会った“ご夫婦”は、優しい表情をしていました。
――佐賀市内のメインストリート、中央大通り。
佐賀県が誇る“賢人たち”の銅像が多くある。
その姿は、いつも私に何かを考えるきっかけをくれる。写真に収めていれば、やがて見つめ直す機会が来るのだ。
やはり迷える“後輩”である私には、故郷・佐賀の偉大な“先輩”の助言が一番効くのかもしれない。
――2019年(令和元年)秋。このブログを始める直前の時期。
幕末・明治期の歴史で“薩長土肥”の肥前とは、佐賀のことだと聞くけれども、どんな役回りをしたのだか、それまでの人生で意識してこなかった私。
しかし、この年。「日本の近代化の影に、だいたい佐賀の存在あり」と大雑把ではありつつも、ハッキリと気付いた。
ボーッとした長い眠りから目覚めたかの如く、周辺情報を調べまくると、佐賀の先人たちの色々な活躍ぶりが見えて、面白い事このうえなかった。
――こうして近年、佐賀に“帰藩”しようものなら、大忙しとなっている。
早朝から食事もそこそこに大通りへと出て、メインストリートの銅像と黙しながらも対話し、長崎街道の空気に親しむ。
「その間、時の流れが変わる」という印象もあって、わずか数分でも、それなりに感得するところがある。
時を投げ棄てるように、慌ただしく過ごしている日常。これほど充実した時間はなかなか持つことができない。
だが、この時も先行きを急ぐ中で、私は1つの忘れ物をしていた。
『佐賀バルーンミュージアム』の存在感に気を取られ、その傍らに見えていた、ご夫婦の銅像に注目していなかったのだ。
〔参照(終盤):
――記事を書く段階になり、「しまった!」と気付きがち。
たぶん、こういう細かい後悔を繰り返しながら生きていく。但し、それを取り返すことができるのも、また人生なのだろう。
〔参照:
2年半の時を隔てて、佐賀に帰還した私。件の“ご夫婦”像の手前に至る。
「先頃は、失礼をしました。このたびは、しっかりご挨拶に伺いました。」
石井亮一・筆子夫妻の銅像。日本における「知的障がい児教育の先駆者」という肩書きが、一般的な説明になるだろうか。
――佐賀藩の重臣の家に生まれた、石井亮一。
時代はすでに明治へと移っていたが、とても成績優秀だった亮一は、鍋島家の奨学生に選ばれ、東京へと出た。
しかし、病弱だったため、佐賀出身者の多くが名をつらねるエリート技術官僚になるための検査には、身体の壮健さが足らず、不合格だった。
曲折はあったが、亮一はそれでもアメリカ留学を目指した。
英語を習得するため、立教学校(現・立教大学)に入り、創設者のウィリアムズ主教を通じてキリスト教と出会い、女子教育者としての道を歩むことになる。
――“無償の愛”を学ぶだけでなく実践する、亮一。
濃尾震災で親を失った孤児(孤女)が、人身売買の手にかからぬよう、救済に奔走したという。亮一が保護した中には、知的障がいを持つ子どももいた。
この出会いが、彼の進む道を決めたようだ。
当時の日本で知的障がいは全く理解されなかったが、亮一は「その子に応じた教育を施せば、その子なりの発達がある」と気付いた。
――隣に座る、石井筆子は長崎の大村藩出身。
大村藩を“勤王”の方針にまとめ、倒幕にも積極的に貢献し、明治新政府でも高官となった渡邉清の長女。
ヨーロッパ留学など華やかな経歴を持つ筆子だが、前夫とは死別してしまう。
筆子には知的障がいを持つ娘がおり、教育の活動を進めていた石井亮一に娘たちの相談をした。
そしてバザーを開くなど一緒に活動するうちに同志となり、やがて“ご夫婦”となったようだ。
――この2人の物語、日本初の知的障がい児施設の創設へつながる。
残念ながら、昨年(2021年)に放送された大河ドラマ『青天を衝け』の作中では、石井夫妻と、「滝乃川学園」が描かれる場面を見つけられなかった。
同作で主役だった、渋沢栄一も他界するまで理事長に就き、経営面を支えるほど、熱心な支援者だったので、登場を期待していたのだ。
その一途な心で、財界の超大物も動かした、2人の限りなく優しい眼差しは、学園の子供たちに向けられたものという。
石井亮一は、障がい児教育・福祉については多くの教えを残すも、自分自身については、「道を伝えて、己を伝えず」の精神で語らなかったそうだ。
――見返りを求めない、真っ直ぐな“小さき者”への愛。
佐賀の賢人には、強さだけでなく優しさを感じさせる方が多い。そして、やはり自分の功績をアピールしない人が多いのだ。
「…旅の終わりに、貴方のような“優しい先輩”に出会えて良かったです。」
奥ゆかしさと、一途な志の強さ。佐賀県出身というだけのつながりで、とても真似はできないが、郷里の先輩には違いなく、私には誇らしい。
長く続けた、このシリーズも次回までの予定になる。そこでは、佐賀を発つ際の景色をお見せしたいと考えている。
(続く)
2022年11月02日
連続ブログ小説「聖地の剣」(25)舞いあがれ、バルーン
こんばんは。
およそ2年半の時を隔てた、佐賀への“帰藩”の話も終わりに近づいています。この旅のラストの立ち寄り先は『佐賀バルーンミュージアム』。
ちょうど、11月はバルーンフェスタの季節ですね。足元と周囲に気をつけて、秋の空を見上げてください。佐賀にしかない景色が、そこにあるのですから。

――佐賀駅到着から、6時間が経過。
私の帰藩は、夏を迎える前の季節だった。わずかな時間だったが、ひとまずの目的地は回り終えた。
ミュージアムは閉館時間も近く、見学はあきらめたが、ロビーで一息を入れる。トリックアートなのか、不思議な景色のもとで写真が撮れるスぺースがある。
小さな女の子が、空に続く階段とバルーンが描かれたアートの前で、元気に飛び跳ねて、母親がカメラのスイッチをパシャパシャと押している。
――きっと、この子には、“大きい夢”が見えている。
それは「自由に空を飛べる夢」なのだろうか。まるで、朝の連続テレビ小説のような景色だ。
この時期の朝ドラは、まだ「空に舞い上がる」作品ではなかったが、そのような印象を受けた。
なかなか微笑ましく、「この街で健やかに、夢を育んでいってほしい」と思った。佐賀県は子育てのしやすさでは高評価だと聞くことも多い。

――もうじき日常に戻っていくので、この旅路を顧みる。
ほぼ、佐賀駅前と佐賀城下しか回れてはいない。本当は市内だけではなく、県内全域に立ち寄りたい場所が山ほどにある。
私も、歳をとった。いつも時間に追われる感覚が消えない。そして、頑張らねばならない状況でも、もう以前のようには、身体も動いてくれない。
一方で、幕末・明治期の佐賀を思えば「…私も、負けられない」という気持ちが湧くことが、よくあるのだ。こうして、どうにか日々を切り抜けている。
――先ほどの女の子と、その母親はご機嫌で帰っていった。
「まだ夢を追っている…という意味では、私も“あの子”も、大差ないか。」
天高く上がっていく熱気球(バルーン)。これほど、上向きな気分になれる物体も、そうは無いのではないか。
以前、“本編”でアメリカで気球を見たという佐賀藩士の話を書いた。出典は不確かだが、象徴的なエピソードだと思って、そのまま使っている。
〔参照(後半):第15話「江戸動乱」③(異郷で見た気球〔バルーン〕)〕

――「志は、天に通ず」という言葉もある。
ミュージアムのロビーの高い天井に、バルーンのオブジェを見上げる。私には、佐賀には似つかわしい景色と見えている。
傍目(はため)には、疲れた人がボーッと上を向いている感じもあるだろうが、晴れ晴れとした心持ちだ。
そして、バルーンミュージアムの外には、佐賀と長崎とつなぐ物語に関わる「もう1つの忘れ物」があった。
(続く)
およそ2年半の時を隔てた、佐賀への“帰藩”の話も終わりに近づいています。この旅のラストの立ち寄り先は『佐賀バルーンミュージアム』。
ちょうど、11月はバルーンフェスタの季節ですね。足元と周囲に気をつけて、秋の空を見上げてください。佐賀にしかない景色が、そこにあるのですから。
――佐賀駅到着から、6時間が経過。
私の帰藩は、夏を迎える前の季節だった。わずかな時間だったが、ひとまずの目的地は回り終えた。
ミュージアムは閉館時間も近く、見学はあきらめたが、ロビーで一息を入れる。トリックアートなのか、不思議な景色のもとで写真が撮れるスぺースがある。
小さな女の子が、空に続く階段とバルーンが描かれたアートの前で、元気に飛び跳ねて、母親がカメラのスイッチをパシャパシャと押している。
――きっと、この子には、“大きい夢”が見えている。
それは「自由に空を飛べる夢」なのだろうか。まるで、朝の連続テレビ小説のような景色だ。
この時期の朝ドラは、まだ「空に舞い上がる」作品ではなかったが、そのような印象を受けた。
なかなか微笑ましく、「この街で健やかに、夢を育んでいってほしい」と思った。佐賀県は子育てのしやすさでは高評価だと聞くことも多い。
――もうじき日常に戻っていくので、この旅路を顧みる。
ほぼ、佐賀駅前と佐賀城下しか回れてはいない。本当は市内だけではなく、県内全域に立ち寄りたい場所が山ほどにある。
私も、歳をとった。いつも時間に追われる感覚が消えない。そして、頑張らねばならない状況でも、もう以前のようには、身体も動いてくれない。
一方で、幕末・明治期の佐賀を思えば「…私も、負けられない」という気持ちが湧くことが、よくあるのだ。こうして、どうにか日々を切り抜けている。
――先ほどの女の子と、その母親はご機嫌で帰っていった。
「まだ夢を追っている…という意味では、私も“あの子”も、大差ないか。」
天高く上がっていく熱気球(バルーン)。これほど、上向きな気分になれる物体も、そうは無いのではないか。
以前、“本編”でアメリカで気球を見たという佐賀藩士の話を書いた。出典は不確かだが、象徴的なエピソードだと思って、そのまま使っている。
〔参照(後半):
――「志は、天に通ず」という言葉もある。
ミュージアムのロビーの高い天井に、バルーンのオブジェを見上げる。私には、佐賀には似つかわしい景色と見えている。
傍目(はため)には、疲れた人がボーッと上を向いている感じもあるだろうが、晴れ晴れとした心持ちだ。
そして、バルーンミュージアムの外には、佐賀と長崎とつなぐ物語に関わる「もう1つの忘れ物」があった。
(続く)
タグ :佐賀