2023年02月25日
「“森田さんの件”ふたたび」
こんばんは。
県内にお住まいの皆様はご存知の方も多いと思いますが、『ブラタモリ』(通常はNHK総合・土曜19:30~)で佐賀を舞台とした放送回の予定が出ています。
ぼんやりと視ているだけで地理や地学の知識も入る“教養番組”でありながら、ゆる~い雰囲気も魅力的な同番組。
私は、県内に住む叔父上からの連絡で「ブラタモリ、再び佐賀へ」という情報を知りましたが、公式サイトに表示される、番組内容に期待は高まる一方です。
参考:https://www.nhk.jp/p/buratamori/ts/D8K46WY9MZ/blog/bl/p3BZoRyyd3/bp/pKnOjPgA9X/(NHK※外部サイト)

――かつて『ブラタモリ』未踏の地とも言われた、佐賀。
同番組でも、なかなか特集されなかった佐賀県。しかし、2018(平成30)年。明治維新150周年で、各種イベントがにぎやかに開催されていた時期のこと。
47都道府県でも、かなり後ろの方だったと思いますが、ついに『ブラタモリ』が佐賀へと到達しました。その選ばれし場所は、有田。
参考:https://www.nhk.jp/p/buratamori/ts/D8K46WY9MZ/blog/bl/p3BZoRyyd3/bp/pM3Lq4qqRj/(NHK※外部サイト)
「有田焼」と「有田焼、世界へ」の2週連続放送。明治期に近代国家・日本が、その存在感を陶磁器で海外に示した、という印象が残りました。
〔参照(前半):「主に有田町民の方を対象にしたつぶやき(後編)」〕
――ところで有田町には、放送までの"裏話”の記憶も残るようで。
「タモリさんの番組」と打合せのたびに口にすれば、これだけの超有名人ですので、来佐の噂も広がり、実際のロケにも不都合が出るでしょう。
そこで、受け入れ側の有田町の関係者の方々は、一計を案じたといいます。
『ブラタモリ』の話は、タモリさんの本名(森田一義)から「森田さんの件で…」という“合言葉”のもとで秘密裡に進められたそうです。
こうした関係者の見えざる努力もあって、有田を通じて佐賀の魅力の一端が、無事に全国へと届くことになったようです。
参考:https://www.town.arita.lg.jp/main/5539.html(有田町※外部サイト)

――たぶん全国各地で、佐賀県の出身者も大喜びしたはず。
私もその1人ですが、この時期は幕末・明治期の佐賀の真価に目覚める前。当時の大河ドラマ『西郷どん』では江藤新平〔演:迫田孝也〕が登場しました。
ここで陶磁器が特集された事で、私はパリやウィーンの万博での佐賀の活躍もあわせて、何か心が動き始めていたのかもしれません。
それから半年後、佐賀へと帰った時に「幕末・明治期の佐賀を大河ドラマ」で見たい!と、はっきり意識するに至ります。
――その有田の特集から、およそ4年半の時を経て。
2023(令和5)年。佐賀に『ブラタモリ』が再び。今度はより直接的に佐賀藩の話も展開しそうです。
ここからは公式サイトで見られる番組内容からを抜粋して、一言添えてみます。
○番組情報より
『ブラタモリ』♯230「佐賀」
・放送予定:NHK総合 2023年3月18日(土)19:30~20:15
・サブタイトル:「佐賀~佐賀の発展は“水”にあり?~」
「幕末、薩長土肥に名を連ね高度な科学技術を誇った佐賀」
→書き出しから、期待値が跳ね上がります。

――以降は、特に気になるポイントです。
「水を完全にコントロール!佐賀誕生物語」
→佐賀の特性を抑えた展開、一体どの時代を中心に語るか興味大です。
〔参考:説明の予測〕
・(前半)「主にみやき町民の方を対象にしたつぶやき」
・(中盤)「主に吉野ヶ里町民の皆様を対象としたつぶやき」
「水を制した集落から“九州最強”の戦国大名が出現!」
→戦国時代から、佐賀を存分に語る構えなのが、よかですね。
〔参考:登場の予感〕
・「“ねこねこ日本史”に注目」
・「醒覚の剣」(古城)

「鍋島直正が作らせた日本初の反射炉も水のおかげ!」
→来たっ!ついに来ました。こういう事を語ってほしかった。
〔参考:内容の予想〕
・(中盤)第10話「蒸気機関」⑩(佐賀の産業革命)
・(終盤)第18話「京都見聞」⑲(“蒸気”の目覚め)
…なお、参考の関連記事には、当たり外れがあると思います。
あまりにもワクワクする情報が入ったので、多少落ち着きを欠いていますが、放送日を楽しみに待ちたいと思います。
県内にお住まいの皆様はご存知の方も多いと思いますが、『ブラタモリ』(通常はNHK総合・土曜19:30~)で佐賀を舞台とした放送回の予定が出ています。
ぼんやりと視ているだけで地理や地学の知識も入る“教養番組”でありながら、ゆる~い雰囲気も魅力的な同番組。
私は、県内に住む叔父上からの連絡で「ブラタモリ、再び佐賀へ」という情報を知りましたが、公式サイトに表示される、番組内容に期待は高まる一方です。
参考:https://www.nhk.jp/p/buratamori/ts/D8K46WY9MZ/blog/bl/p3BZoRyyd3/bp/pKnOjPgA9X/(NHK※外部サイト)
――かつて『ブラタモリ』未踏の地とも言われた、佐賀。
同番組でも、なかなか特集されなかった佐賀県。しかし、2018(平成30)年。明治維新150周年で、各種イベントがにぎやかに開催されていた時期のこと。
47都道府県でも、かなり後ろの方だったと思いますが、ついに『ブラタモリ』が佐賀へと到達しました。その選ばれし場所は、有田。
参考:https://www.nhk.jp/p/buratamori/ts/D8K46WY9MZ/blog/bl/p3BZoRyyd3/bp/pM3Lq4qqRj/(NHK※外部サイト)
「有田焼」と「有田焼、世界へ」の2週連続放送。明治期に近代国家・日本が、その存在感を陶磁器で海外に示した、という印象が残りました。
〔参照(前半):
――ところで有田町には、放送までの"裏話”の記憶も残るようで。
「タモリさんの番組」と打合せのたびに口にすれば、これだけの超有名人ですので、来佐の噂も広がり、実際のロケにも不都合が出るでしょう。
そこで、受け入れ側の有田町の関係者の方々は、一計を案じたといいます。
『ブラタモリ』の話は、タモリさんの本名(森田一義)から「森田さんの件で…」という“合言葉”のもとで秘密裡に進められたそうです。
こうした関係者の見えざる努力もあって、有田を通じて佐賀の魅力の一端が、無事に全国へと届くことになったようです。
参考:https://www.town.arita.lg.jp/main/5539.html(有田町※外部サイト)
――たぶん全国各地で、佐賀県の出身者も大喜びしたはず。
私もその1人ですが、この時期は幕末・明治期の佐賀の真価に目覚める前。当時の大河ドラマ『西郷どん』では江藤新平〔演:迫田孝也〕が登場しました。
ここで陶磁器が特集された事で、私はパリやウィーンの万博での佐賀の活躍もあわせて、何か心が動き始めていたのかもしれません。
それから半年後、佐賀へと帰った時に「幕末・明治期の佐賀を大河ドラマ」で見たい!と、はっきり意識するに至ります。
――その有田の特集から、およそ4年半の時を経て。
2023(令和5)年。佐賀に『ブラタモリ』が再び。今度はより直接的に佐賀藩の話も展開しそうです。
ここからは公式サイトで見られる番組内容からを抜粋して、一言添えてみます。
○番組情報より
『ブラタモリ』♯230「佐賀」
・放送予定:NHK総合 2023年3月18日(土)19:30~20:15
・サブタイトル:「佐賀~佐賀の発展は“水”にあり?~」
「幕末、薩長土肥に名を連ね高度な科学技術を誇った佐賀」
→書き出しから、期待値が跳ね上がります。
――以降は、特に気になるポイントです。
「水を完全にコントロール!佐賀誕生物語」
→佐賀の特性を抑えた展開、一体どの時代を中心に語るか興味大です。
〔参考:説明の予測〕
・(前半)
・(中盤)
「水を制した集落から“九州最強”の戦国大名が出現!」
→戦国時代から、佐賀を存分に語る構えなのが、よかですね。
〔参考:登場の予感〕
・
・

「鍋島直正が作らせた日本初の反射炉も水のおかげ!」
→来たっ!ついに来ました。こういう事を語ってほしかった。
〔参考:内容の予想〕
・(中盤)
・(終盤)
…なお、参考の関連記事には、当たり外れがあると思います。
あまりにもワクワクする情報が入ったので、多少落ち着きを欠いていますが、放送日を楽しみに待ちたいと思います。
2023年02月19日
「点と点をつなぐと、有田に届いた話」
こんばんは。
最近の“本編”は1862年(文久二年)のエピソードをもとに展開していますが、調べる中には様々な発見があります。
昔から佐賀の歴史を学ぶ方にはよく知られた内容も、つい数年前から関心を持った私には、新たな“発見”ということに。
例えば、前回記事で触れた内容。佐賀藩関係者が清国の上海に渡った時期の話。文久二年の春~初夏ぐらいです。
“本編”の第17話「佐賀脱藩」の話中だと、江藤新平が脱藩する直前期で、親友・中野方蔵が、江戸の獄中に斃れた事を知った頃です。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑲(残された2人)〕
――貿易事情の調査などを目的とした、上海への渡航。
幕府が派遣した船に佐賀藩士・中牟田倉之助と、長州藩士・高杉晋作が乗っていたことは前回記事にしました。
補足すると、薩摩藩士・五代友厚も同じ船(千歳丸)に乗っており、この三者の間には交流があったようです。
五代友厚と言えば、連続テレビ小説『あさが来た』と大河ドラマ『青天を衝け』では、ディーン・フジオカさんが好演し、話題となりました。
明治期には東の渋沢栄一、西の五代友厚と並び称された経済界の超大物。大隈重信の気性も良く知り、耳の痛い忠告をしてくれる友人だったようです。
〔参照(中盤):「あえて“欠点”を述べる男」〕

――佐賀藩の関係者では、こんな方々も乗船していました。
中牟田倉之助は佐賀藩、そして明治新政府の海軍で活躍した人物ですが、他にも佐賀商人たちと、小城生まれの画才のある少年が乗船しています。
まず、佐賀商人のうちの1人が、深川長右衛門。
名前には聞き覚えがあったのですが、1867年(慶応三年)のパリ万博に出展した時の、佐野常民が率いる佐賀藩メンバー5人のうちの1人です。
確認した資料には、陶磁器製造・販売の専門家として選出された人物として名が挙がっていました。
――その、深川長右衛門という人物は…
ある情報から聞くところ、ぼんやりと鈍そうな印象の外見の中に、繊細で俊敏な“商才”を秘めた人物だったそうです。
イメージを持って、文字に起こしてみると、なかなか魅力的な人物に思えます。今まではあまり、佐賀商人を描けておらず、チャンスをうかがうところです。
「不利な海外での陶磁器販売に、敢然と挑む佐賀商人の魂(スピリッツ)」を、少しでも書いてみたい…という気分でしょうか。

――そして、小城生まれの「画才のある少年」とは…
納富(のうとみ)介次郎、というお名前。上海渡航の時点では19歳だった、といいますが、乗船した中では最年少だったようです。
私の知識では「工芸教育で有名な人」ぐらいのイメージしかなかったのですが、幕末には鍋島直正の指令を受けて、海外情勢の調査に出ていたのですね。
一応、写真機は存在する時代ですが、現地の風景や器物を画像で記録するには、スケッチを使うのが、まだ圧倒的に便利なこの時代。
長州の高杉晋作も、この「佐賀が送り込んだ、画工の少年」を見て、佐賀藩が組織的に貿易事情を調査していることを察したようです。
――この、納富少年は、近代工芸教育の先駆者へと成長。
欧州に渡航の際に陶磁器の製造現場も経て、明治20年(1887年)に日本で最初の工芸とデザインを専門的に教育する学校の初代校長に就任します。
日本が誇る「工芸王国」・石川県。その中心の、加賀百万石のご城下として、知られる美術の街・金沢にある学校です(石川県立工業高等学校の前身)。
納富介次郎は、日本の伝統のものづくりと、西洋のデザイン思想を融合したカリキュラムを組んだと伝わります。
――もはや、佐賀というより“加賀”(石川県)の偉人?
少し調べてみると、出身地の佐賀県以上に、石川県など北陸地方の方々が、納富介次郎の功績をより深く理解しておられる印象も受けます。
しかし、日本におけるデザイン(図案)教育を普及させた納富先生の足跡は、各地に見られます。

西洋の工業化技術に、貿易面で後れを取らないよう、日本の美術工芸品の国際競争力を高める…という熱意があったという評論も見かけます。
ここには、幕末の上海で列強の侵出を体感し、明治期のヨーロッパでの製造現場を体験した納富ならではの危機感もあったと聞きます。
納富が創り出した、実践的なデザイン教育の思想は、学生たちを通じて継承され、日本の工芸を、近代的な産業とする基礎が固まっていたようです。
石川県を去った後にも、納富介次郎は、富山県の高岡、香川県の高松にも、それぞれの地域の特色を活かした工芸学校を創立。そして…
――佐賀県で、有田工業学校(現・有田工業高校の前身)の初代校長に。
「よし、あの納富少年が、とうとう佐賀に帰ってきたぞ!」
つい先ほどまで、納富介次郎先生について、ほとんど知識が無かった私ですが、あっという間に感情移入しています。
資料を幾つか見るだけで、すっかり佐賀県が生んだ「日本の工芸教育の父」の壮大な物語が頭に浮かんできました。

…幕末期、小城に生まれた絵が得意な少年。佐賀藩の命で海外の貿易事情などを調査する一団に加わり、幕府の船・千歳丸で上海に渡る。
――時代は明治へと進み、1873年のウィーン万博にも参加する。
欧州の工業の強さは感じても、日本の美意識に西洋の思想を取り入れれば対抗は可能だと考えた、納富青年は立派な先生に成長していく。
日本のものづくりと西洋のデザインを融合した、近代的な工芸教育を創る。
志の高い工芸教育には思惑どおり進まない事もあったか、石川県では教壇を去る展開になるも、残された学生たちが納富先生の思想を受け継いだという。
工芸の学校を創るたび、装飾だけでなく材料や実用性も学んでいく、そのデザイン思想は、富山県・香川県など各地で、若い学生たちに影響を与え…
故郷・佐賀県の陶磁器の街・有田では、工芸の学校を創設(分校からの昇格)する。こうして、納富先生の想いは、きっと現在の有田にもつながっている。

――おそらく“本編”では納富介次郎について、あまり多くを語れません。
ところが、調べると結構な感銘を受けて「書くなら“発見”の喜びがある今だ!」と思って、さっそく記事にしてみました。
以前、甲子園の高校野球大会に有田工業高校が出場した際に、選手の出身中学を見て、気付いたことがあります。
〔参照(前半):「有工の“明るさ”が…」〕
地元・有田町、近隣の伊万里市、武雄市、長崎県の波佐見町など…有田工に学生が集まる地域。
かつて陶磁器が伊万里港から出荷された時期に、肥前の磁器が集まる範囲と、大体重なると思うのですね。個人的には、こういうところが面白いです。
――まだ、第19話も下書きを始めたところで、
その次の第20話ぐらいになるかと思いますが、日本の近代工芸教育を創めた納富介次郎の姿もどこかで描ければ…と考えています。
最近の“本編”は1862年(文久二年)のエピソードをもとに展開していますが、調べる中には様々な発見があります。
昔から佐賀の歴史を学ぶ方にはよく知られた内容も、つい数年前から関心を持った私には、新たな“発見”ということに。
例えば、前回記事で触れた内容。佐賀藩関係者が清国の上海に渡った時期の話。文久二年の春~初夏ぐらいです。
“本編”の第17話「佐賀脱藩」の話中だと、江藤新平が脱藩する直前期で、親友・中野方蔵が、江戸の獄中に斃れた事を知った頃です。
〔参照:
――貿易事情の調査などを目的とした、上海への渡航。
幕府が派遣した船に佐賀藩士・中牟田倉之助と、長州藩士・高杉晋作が乗っていたことは前回記事にしました。
補足すると、薩摩藩士・五代友厚も同じ船(千歳丸)に乗っており、この三者の間には交流があったようです。
五代友厚と言えば、連続テレビ小説『あさが来た』と大河ドラマ『青天を衝け』では、ディーン・フジオカさんが好演し、話題となりました。
明治期には東の渋沢栄一、西の五代友厚と並び称された経済界の超大物。大隈重信の気性も良く知り、耳の痛い忠告をしてくれる友人だったようです。
〔参照(中盤):
――佐賀藩の関係者では、こんな方々も乗船していました。
中牟田倉之助は佐賀藩、そして明治新政府の海軍で活躍した人物ですが、他にも佐賀商人たちと、小城生まれの画才のある少年が乗船しています。
まず、佐賀商人のうちの1人が、深川長右衛門。
名前には聞き覚えがあったのですが、1867年(慶応三年)のパリ万博に出展した時の、佐野常民が率いる佐賀藩メンバー5人のうちの1人です。
確認した資料には、陶磁器製造・販売の専門家として選出された人物として名が挙がっていました。
――その、深川長右衛門という人物は…
ある情報から聞くところ、ぼんやりと鈍そうな印象の外見の中に、繊細で俊敏な“商才”を秘めた人物だったそうです。
イメージを持って、文字に起こしてみると、なかなか魅力的な人物に思えます。今まではあまり、佐賀商人を描けておらず、チャンスをうかがうところです。
「不利な海外での陶磁器販売に、敢然と挑む佐賀商人の魂(スピリッツ)」を、少しでも書いてみたい…という気分でしょうか。
――そして、小城生まれの「画才のある少年」とは…
納富(のうとみ)介次郎、というお名前。上海渡航の時点では19歳だった、といいますが、乗船した中では最年少だったようです。
私の知識では「工芸教育で有名な人」ぐらいのイメージしかなかったのですが、幕末には鍋島直正の指令を受けて、海外情勢の調査に出ていたのですね。
一応、写真機は存在する時代ですが、現地の風景や器物を画像で記録するには、スケッチを使うのが、まだ圧倒的に便利なこの時代。
長州の高杉晋作も、この「佐賀が送り込んだ、画工の少年」を見て、佐賀藩が組織的に貿易事情を調査していることを察したようです。
――この、納富少年は、近代工芸教育の先駆者へと成長。
欧州に渡航の際に陶磁器の製造現場も経て、明治20年(1887年)に日本で最初の工芸とデザインを専門的に教育する学校の初代校長に就任します。
日本が誇る「工芸王国」・石川県。その中心の、加賀百万石のご城下として、知られる美術の街・金沢にある学校です(石川県立工業高等学校の前身)。
納富介次郎は、日本の伝統のものづくりと、西洋のデザイン思想を融合したカリキュラムを組んだと伝わります。
――もはや、佐賀というより“加賀”(石川県)の偉人?
少し調べてみると、出身地の佐賀県以上に、石川県など北陸地方の方々が、納富介次郎の功績をより深く理解しておられる印象も受けます。
しかし、日本におけるデザイン(図案)教育を普及させた納富先生の足跡は、各地に見られます。
西洋の工業化技術に、貿易面で後れを取らないよう、日本の美術工芸品の国際競争力を高める…という熱意があったという評論も見かけます。
ここには、幕末の上海で列強の侵出を体感し、明治期のヨーロッパでの製造現場を体験した納富ならではの危機感もあったと聞きます。
納富が創り出した、実践的なデザイン教育の思想は、学生たちを通じて継承され、日本の工芸を、近代的な産業とする基礎が固まっていたようです。
石川県を去った後にも、納富介次郎は、富山県の高岡、香川県の高松にも、それぞれの地域の特色を活かした工芸学校を創立。そして…
――佐賀県で、有田工業学校(現・有田工業高校の前身)の初代校長に。
「よし、あの納富少年が、とうとう佐賀に帰ってきたぞ!」
つい先ほどまで、納富介次郎先生について、ほとんど知識が無かった私ですが、あっという間に感情移入しています。
資料を幾つか見るだけで、すっかり佐賀県が生んだ「日本の工芸教育の父」の壮大な物語が頭に浮かんできました。
…幕末期、小城に生まれた絵が得意な少年。佐賀藩の命で海外の貿易事情などを調査する一団に加わり、幕府の船・千歳丸で上海に渡る。
――時代は明治へと進み、1873年のウィーン万博にも参加する。
欧州の工業の強さは感じても、日本の美意識に西洋の思想を取り入れれば対抗は可能だと考えた、納富青年は立派な先生に成長していく。
日本のものづくりと西洋のデザインを融合した、近代的な工芸教育を創る。
志の高い工芸教育には思惑どおり進まない事もあったか、石川県では教壇を去る展開になるも、残された学生たちが納富先生の思想を受け継いだという。
工芸の学校を創るたび、装飾だけでなく材料や実用性も学んでいく、そのデザイン思想は、富山県・香川県など各地で、若い学生たちに影響を与え…
故郷・佐賀県の陶磁器の街・有田では、工芸の学校を創設(分校からの昇格)する。こうして、納富先生の想いは、きっと現在の有田にもつながっている。
――おそらく“本編”では納富介次郎について、あまり多くを語れません。
ところが、調べると結構な感銘を受けて「書くなら“発見”の喜びがある今だ!」と思って、さっそく記事にしてみました。
以前、甲子園の高校野球大会に有田工業高校が出場した際に、選手の出身中学を見て、気付いたことがあります。
〔参照(前半):
地元・有田町、近隣の伊万里市、武雄市、長崎県の波佐見町など…有田工に学生が集まる地域。
かつて陶磁器が伊万里港から出荷された時期に、肥前の磁器が集まる範囲と、大体重なると思うのですね。個人的には、こういうところが面白いです。
――まだ、第19話も下書きを始めたところで、
その次の第20話ぐらいになるかと思いますが、日本の近代工芸教育を創めた納富介次郎の姿もどこかで描ければ…と考えています。
2023年02月13日
「ある東洋の“迷宮”にて」
こんばんは。
前回、なぜだか、佐賀の紅茶と対話する「幻想奇譚(?)」を書いてみました。
なお、伊万里紅茶の個人的な感想は「紅茶なのに、とてもご飯と合う」です。
当ブログは寄り道が非常に多くて、佐賀に帰藩すれば「賢人たちの銅像」の声を聞き、郷里から離れた日常でも「佐賀の特産品」との“会話”まで登場します。
〔参照(後半):「望郷の剣6」〕
このように、お読みいただいている皆様が困惑するような寄り道を重ねながらも、全てのアクセス数は、もうじき6万に届こうという状況です。

――ひたすらに、佐賀藩が近代化を目指す第1部は…
「大河ドラマ」っぽく書きやすかったのですが、各地の雄藩や志士たちの思惑が交錯する第2部は、調べ物の範囲も拡大して、なかなか書きづらいです。
この辺りが実際に「幕末佐賀藩の大河ドラマ」で描かれる場合、あまり京都の政局に関わっていないので、難所の1つになるのでは…と実感しています。
話としてのまとまりには欠けても、幕末期の佐賀藩(とその周辺の九州北部)をどう語るかを試行錯誤していきたい…という想いを持っています。
――そして、1862年(文久二年)頃の佐賀藩では、
開国による状況変化を受けて、貿易部門・代品方の活動を強化し、陶磁器の販売戦略を練ったようです。
輸出品として、海外に日本文化を強く印象づけてきた“古伊万里”。
幕末期にも、佐賀藩はあらためて磁器の販路開拓に努めており、大坂(大阪)での金融(両替)の拠点も整備した…という話もあるようです。

そんな業務多忙の折、代品方から“脱藩”した下級役人がいたはずで、その名が江藤新平…ということになります。
〔参照(中盤):第17話「佐賀脱藩」⑭(拓〔ひら〕け、代品方)〕
また、佐賀藩は日本国内での展開に留まらず、清国の上海(シャンハイ)でも市場調査をする動きを見せていました。
――文久二年。幕府の船に同乗し、佐賀藩の関係者も上海に渡る。
その1人が、中牟田倉之助。長崎で海軍伝習を受けており、航海に関わる測量、設計などに、とても熱心な理系人材という武士。
〔参照(後半):第12話「海軍伝習」⑨-2(悔しかごたぁ・後編)〕
あとは小城生まれで、優れた画才を持つ少年1人と、勘定に長じた佐賀商人が2人…ここも語りたいのですが、今回は中牟田の話に集中します。
当時の武士には、人気がなかった印象の算術(数学)が得意だったようです。
〔参照(中盤):第12話「海軍伝習」⑥(数学の子)〕

ロシア船が対馬に現れた時には、中牟田も佐賀藩の蒸気船・電流丸の乗員として、伊万里を拠点に警戒にあたったようです。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」⑱(蒸気船の集まる海域)〕
そして、上海での現地調査は、ある長州藩士と行動したそうです。その人物が、同じ幕府の船に乗っていた、高杉晋作。
のちに奇兵隊を率いて、倒幕派が長州藩の主導権を取ることに貢献したことで良く知られる有名な志士。
――その高杉は、いつも中牟田と一緒にいたらしく
イギリスをはじめ欧州の国々が幅を利かせていた、当時の上海での情報収集にあたったといいます。
のちに明治新政府の海軍で活躍する中牟田倉之助。佐賀藩士らしく技術の習得には熱心だが、分析的で冷静な人物というイメージがあります。
高杉も「中牟田英語を解す。」と語ったようで、中牟田は欧米人への調査には学んでいた外国語を用いたそうです。
西洋の学問と、近代の技術を追求する…佐賀藩らしい人物だと感じます。

※九州と山口をつなぐ関門橋
――その一方で、長州藩士・高杉は、
藩のお金で豪遊しながら、実は情報を集めていたりと規格外の行動をする人物。漢学が得意で、上海では筆談でコミュニケーションを取ったそうです。
まるで東洋の魔都と化した、上海の混沌とした路地。「あれもこれも知りたい」と、勉強熱心な中牟田と、破天荒な高杉の2人が何かを求めて彷徨う…
史実と思われる話にも、興味深いエピソードが多いのですが、どうやって話をつなげていこうかと思案中です。次の次(第20話)あたりで書きたい話です。
前回、なぜだか、佐賀の紅茶と対話する「幻想奇譚(?)」を書いてみました。
なお、伊万里紅茶の個人的な感想は「紅茶なのに、とてもご飯と合う」です。
当ブログは寄り道が非常に多くて、佐賀に帰藩すれば「賢人たちの銅像」の声を聞き、郷里から離れた日常でも「佐賀の特産品」との“会話”まで登場します。
〔参照(後半):
このように、お読みいただいている皆様が困惑するような寄り道を重ねながらも、全てのアクセス数は、もうじき6万に届こうという状況です。

――ひたすらに、佐賀藩が近代化を目指す第1部は…
「大河ドラマ」っぽく書きやすかったのですが、各地の雄藩や志士たちの思惑が交錯する第2部は、調べ物の範囲も拡大して、なかなか書きづらいです。
この辺りが実際に「幕末佐賀藩の大河ドラマ」で描かれる場合、あまり京都の政局に関わっていないので、難所の1つになるのでは…と実感しています。
話としてのまとまりには欠けても、幕末期の佐賀藩(とその周辺の九州北部)をどう語るかを試行錯誤していきたい…という想いを持っています。
――そして、1862年(文久二年)頃の佐賀藩では、
開国による状況変化を受けて、貿易部門・代品方の活動を強化し、陶磁器の販売戦略を練ったようです。
輸出品として、海外に日本文化を強く印象づけてきた“古伊万里”。
幕末期にも、佐賀藩はあらためて磁器の販路開拓に努めており、大坂(大阪)での金融(両替)の拠点も整備した…という話もあるようです。
そんな業務多忙の折、代品方から“脱藩”した下級役人がいたはずで、その名が江藤新平…ということになります。
〔参照(中盤):
また、佐賀藩は日本国内での展開に留まらず、清国の上海(シャンハイ)でも市場調査をする動きを見せていました。
――文久二年。幕府の船に同乗し、佐賀藩の関係者も上海に渡る。
その1人が、中牟田倉之助。長崎で海軍伝習を受けており、航海に関わる測量、設計などに、とても熱心な理系人材という武士。
〔参照(後半):
あとは小城生まれで、優れた画才を持つ少年1人と、勘定に長じた佐賀商人が2人…ここも語りたいのですが、今回は中牟田の話に集中します。
当時の武士には、人気がなかった印象の算術(数学)が得意だったようです。
〔参照(中盤):
ロシア船が対馬に現れた時には、中牟田も佐賀藩の蒸気船・電流丸の乗員として、伊万里を拠点に警戒にあたったようです。
〔参照:
そして、上海での現地調査は、ある長州藩士と行動したそうです。その人物が、同じ幕府の船に乗っていた、高杉晋作。
のちに奇兵隊を率いて、倒幕派が長州藩の主導権を取ることに貢献したことで良く知られる有名な志士。
――その高杉は、いつも中牟田と一緒にいたらしく
イギリスをはじめ欧州の国々が幅を利かせていた、当時の上海での情報収集にあたったといいます。
のちに明治新政府の海軍で活躍する中牟田倉之助。佐賀藩士らしく技術の習得には熱心だが、分析的で冷静な人物というイメージがあります。
高杉も「中牟田英語を解す。」と語ったようで、中牟田は欧米人への調査には学んでいた外国語を用いたそうです。
西洋の学問と、近代の技術を追求する…佐賀藩らしい人物だと感じます。
※九州と山口をつなぐ関門橋
――その一方で、長州藩士・高杉は、
藩のお金で豪遊しながら、実は情報を集めていたりと規格外の行動をする人物。漢学が得意で、上海では筆談でコミュニケーションを取ったそうです。
まるで東洋の魔都と化した、上海の混沌とした路地。「あれもこれも知りたい」と、勉強熱心な中牟田と、破天荒な高杉の2人が何かを求めて彷徨う…
史実と思われる話にも、興味深いエピソードが多いのですが、どうやって話をつなげていこうかと思案中です。次の次(第20話)あたりで書きたい話です。
2023年02月10日
「オールド・イマリ・ロマンス」
こんばんは。
“本編”の合間にお送りする、私の日記的な投稿です。最近なんとなく気になるのが、NHK土曜ドラマ『探偵ロマンス』。
若き日、まだ才能を開花させていない推理作家・江戸川乱歩が主人公。ある老齢の名探偵の助手となって、「わからない、だから知りたい」と奮闘する話。
タイトルにある「ロマンス」という言葉は、語源では、恋愛だけを対象としたものではなく、空想(伝奇)小説の意にも取れるようです。
…というわけで、今日は“紅茶”と対話する不思議話です。
――慌ただしく流れる日々に、出会ったものがある。
ある日の昼下がりに「珍しい客を見かけた」と、私はそんな一報を受けていた。
夜になって仕事を終え、人混みの中で長い帰路を戻った私。椅子に腰掛けて、そいつが現れるのを待った。
「よう、兄さん。久しぶりだな。」
「貴方は“ウレシノ”じゃないか。なぜ、こんなところに。」

――事前に聞いてはいたが、私は、やはり目を見張った。
このような都会の片隅に、佐賀に居るはずの“嬉野紅茶”が来ているなんて。
「なんだい、疲れが顔に出てるぞ。」
「そこそこ、頑張っているからな。最近じゃ、朝が辛くて仕方ない。」
ほのかな茶葉の香り。一見渋い感じだが、眠たい朝でも飲みやすい爽やかな紅茶だ。ウレシノからの語りかけに、私はこのように返した。
――私が、その“嬉野紅茶”と出会ったのは、
昨年の初夏。およそ2年半ぶりに、佐賀への帰還を果たした時だった。
一口、その紅茶を飲んだ時、私はこう思った。「紅茶は嬉野(ウレシノ)と、それ以外に分類されるのか!」と。そのぐらいの衝撃だったのだ。
〔参照:連続ブログ小説「聖地の剣」(9)“醒覚”の紅茶〕
ウレシノと名乗る紅茶は、軽い笑みを浮かべ…いや、茶葉を浮かべたかのように続ける。
「兄さん、そう言ってくれるのは“嬉しいの”だがな。」
「…どういうことだ。」
どうやら私が怪訝(けげん)に思っているのは、表情に出ているようだ。
「まぁ、佐賀の紅茶は、俺(ウレシノ)だけじゃない…ってことだ。」

――私は困惑した。佐賀で“和紅茶”と言えば、嬉野だろう。
疑いなく、そう思っていたのだが、他にもあるのか。佐賀の和紅茶が。
「あいつだ。“イマリ”だよ。まだ、会ったことは無いかもしれんな。」
「ちょっと待て。“伊万里紅茶”だって…!?聞いたことがないぞ。」
「そこが、兄さんの調べの浅いところさ。まぁ幕末の佐賀を語るんなら、もう少し頑張るんだな。」
私には、どうも詰めが甘いところがある。ウレシノは、その甘さを指摘した。
ところで、嬉野紅茶は和菓子の甘さを引き立てるらしい。この辺りに“お茶”として揺るがない信念のようなものを感じるのだ。
――日本茶のブランドとして知られる、嬉野茶だが、
幕末期には紅茶の姿で、世界で活躍した。当時、開国したばかりの日本にとっては、主要な輸出品の1つでもあった。
〔参照(後半):第14話「遣米使節」②(オランダ商館の午後)〕
「イマリと言えば、陶磁器ではないのか…?」
「お察しのとおりですが、伊万里には幾つもの顔があるとご理解ください。」

「…いつの間に!」
いきなり隣に現れた、その紅茶は“イマリ”と名乗った。私にとっては、未知なる存在の伊万里紅茶だ。
そのブランド名から、どことなく紳士然とした印象を受けるが、自然栽培の力強さを持つという。
伊万里の紅茶には毎日でも飲める、普段使いの良さがあるようだ。高級感があるのか、親しみやすいのか…ますます、わからない。
――陶磁器について、私は充分な知識が得られていない。
しかし、いずれはパリ万博(1867年)やウィーン万博(1873年)の話を書くつもりがある。そこまでに、ある程度は知りたい。
江戸期を通じて、陶磁器の積出港だった伊万里から長崎を経て、海外に出たのは“古伊万里”だったと理解する。
主に欧州では「オールド・イマリ」と呼ばれたのだろう。何だか浪漫(ロマン)を感じる響きなのである。
“伊万里”は有田焼をはじめ、周辺地域から集まる“肥前磁器”の総称らしい。長崎県の波佐見焼などは「普段使い」を追求しているとも聞く。

むしろ伊万里で生産したのは、将軍や大名への献上(贈答)品に使う国内向け高級磁器で、“鍋島”の名を冠する伊万里焼。
「たしかに、伊万里の顔は1つではない…か。」
秘窯の里かと思えば、伝統の港湾都市でもある。プロフィールにも、二面性があって、どことなくミステリアスに感じる街なのだ。
「…さて、飲んでみれば、あなたにもわかるかもしれませんよ。」
“本編”の合間にお送りする、私の日記的な投稿です。最近なんとなく気になるのが、NHK土曜ドラマ『探偵ロマンス』。
若き日、まだ才能を開花させていない推理作家・江戸川乱歩が主人公。ある老齢の名探偵の助手となって、「わからない、だから知りたい」と奮闘する話。
タイトルにある「ロマンス」という言葉は、語源では、恋愛だけを対象としたものではなく、空想(伝奇)小説の意にも取れるようです。
…というわけで、今日は“紅茶”と対話する不思議話です。
――慌ただしく流れる日々に、出会ったものがある。
ある日の昼下がりに「珍しい客を見かけた」と、私はそんな一報を受けていた。
夜になって仕事を終え、人混みの中で長い帰路を戻った私。椅子に腰掛けて、そいつが現れるのを待った。
「よう、兄さん。久しぶりだな。」
「貴方は“ウレシノ”じゃないか。なぜ、こんなところに。」
――事前に聞いてはいたが、私は、やはり目を見張った。
このような都会の片隅に、佐賀に居るはずの“嬉野紅茶”が来ているなんて。
「なんだい、疲れが顔に出てるぞ。」
「そこそこ、頑張っているからな。最近じゃ、朝が辛くて仕方ない。」
ほのかな茶葉の香り。一見渋い感じだが、眠たい朝でも飲みやすい爽やかな紅茶だ。ウレシノからの語りかけに、私はこのように返した。
――私が、その“嬉野紅茶”と出会ったのは、
昨年の初夏。およそ2年半ぶりに、佐賀への帰還を果たした時だった。
一口、その紅茶を飲んだ時、私はこう思った。「紅茶は嬉野(ウレシノ)と、それ以外に分類されるのか!」と。そのぐらいの衝撃だったのだ。
〔参照:
ウレシノと名乗る紅茶は、軽い笑みを浮かべ…いや、茶葉を浮かべたかのように続ける。
「兄さん、そう言ってくれるのは“嬉しいの”だがな。」
「…どういうことだ。」
どうやら私が怪訝(けげん)に思っているのは、表情に出ているようだ。
「まぁ、佐賀の紅茶は、俺(ウレシノ)だけじゃない…ってことだ。」
――私は困惑した。佐賀で“和紅茶”と言えば、嬉野だろう。
疑いなく、そう思っていたのだが、他にもあるのか。佐賀の和紅茶が。
「あいつだ。“イマリ”だよ。まだ、会ったことは無いかもしれんな。」
「ちょっと待て。“伊万里紅茶”だって…!?聞いたことがないぞ。」
「そこが、兄さんの調べの浅いところさ。まぁ幕末の佐賀を語るんなら、もう少し頑張るんだな。」
私には、どうも詰めが甘いところがある。ウレシノは、その甘さを指摘した。
ところで、嬉野紅茶は和菓子の甘さを引き立てるらしい。この辺りに“お茶”として揺るがない信念のようなものを感じるのだ。
――日本茶のブランドとして知られる、嬉野茶だが、
幕末期には紅茶の姿で、世界で活躍した。当時、開国したばかりの日本にとっては、主要な輸出品の1つでもあった。
〔参照(後半):
「イマリと言えば、陶磁器ではないのか…?」
「お察しのとおりですが、伊万里には幾つもの顔があるとご理解ください。」
「…いつの間に!」
いきなり隣に現れた、その紅茶は“イマリ”と名乗った。私にとっては、未知なる存在の伊万里紅茶だ。
そのブランド名から、どことなく紳士然とした印象を受けるが、自然栽培の力強さを持つという。
伊万里の紅茶には毎日でも飲める、普段使いの良さがあるようだ。高級感があるのか、親しみやすいのか…ますます、わからない。
――陶磁器について、私は充分な知識が得られていない。
しかし、いずれはパリ万博(1867年)やウィーン万博(1873年)の話を書くつもりがある。そこまでに、ある程度は知りたい。
江戸期を通じて、陶磁器の積出港だった伊万里から長崎を経て、海外に出たのは“古伊万里”だったと理解する。
主に欧州では「オールド・イマリ」と呼ばれたのだろう。何だか浪漫(ロマン)を感じる響きなのである。
“伊万里”は有田焼をはじめ、周辺地域から集まる“肥前磁器”の総称らしい。長崎県の波佐見焼などは「普段使い」を追求しているとも聞く。
むしろ伊万里で生産したのは、将軍や大名への献上(贈答)品に使う国内向け高級磁器で、“鍋島”の名を冠する伊万里焼。
「たしかに、伊万里の顔は1つではない…か。」
秘窯の里かと思えば、伝統の港湾都市でもある。プロフィールにも、二面性があって、どことなくミステリアスに感じる街なのだ。
「…さて、飲んでみれば、あなたにもわかるかもしれませんよ。」
2023年02月05日
「“大河ドラマ” 誕生秘話を見て」
こんにちは。
昨夜、たぶん私は見ておかねばならない…ドラマがNHKで放送されました。そのタイトルは『大河ドラマが生まれた日 笑いと涙の大河ドラマ誕生秘話』。
昭和の真っ只中、戦後の復興も進み、右肩上がりの経済成長の明るい空気があった時代。

テレビのある家には、ご近所さんが集結。良くも悪くも、熱気のあった仕事場。これぞ“昭和”というポイントの描写が続きます。
なお、ドラマの感想に、私が空想する「幕末佐賀藩の大河ドラマ」のイメージが混ざりますが、いつもの事ですのでご容赦ください。
東京オリンピックを2年後に控えた、1962年(昭和37年)からその誕生秘話はスタートするようです。
――そんな時代背景で描かれるのは、あるテレビマンたちの奮闘。
大河ドラマの第1作『花の生涯』は、日本のテレビ放送開始から10年ほどが経過した時期、1963年(昭和38年)に放送されています。
当時のNHK局内の雰囲気の再現を試みるか、いきなり“親分”・芸能局長〔演:中井貴一〕の無茶振り。
空前絶後を超える連続大型時代劇の制作を命じられた、上司・楠田〔演:阿部サダヲ〕と部下・山岡〔演:生田斗真〕。

――“大河ドラマ”で「東京オリンピック」と言えば…
2019年大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』を思い出します。そういえば、阿部サダヲさんも、生田斗真さんも、同作の出演者でした。
今回のドラマの話に戻すと、もともとは映画会社志望で、不本意にもテレビの仕事をしているのが、生田さん演じる山岡青年。
テレビ業界に不満を持ちながらも、若手アシスタントディレクター(AD)として、悶々とした日々を送っています。
――当時のテレビドラマは、生放送で…
行き当たりばったりの展開となることも多く、映画と比して随分と見劣りがすることを嘆く、若手ADの山岡。
先ほどの“親分”からの無理難題には、上司・楠田とともに巻き込まれますが、映画会社の協定により出演者の確保は困難を極めます。
やがて山岡青年は『花の生涯』に映画スター・佐田啓二〔演:中村七之助〕の出演を目指して、足しげく説明に通います。
――そして、風向きが変わる。
アメリカのテレビ事情まで情報収集し、熟慮した映画スター・佐田啓二は、その大型時代劇への出演を承諾し、本格的に撮影が始まった『花の生涯』。
当時は“大河ドラマ”という呼称はなかったようで、後に、この大型時代劇枠に「大河ドラマ」という名称が定着したので、遡って第1作の扱いのようです。
この辺り、とくに私には、いろいろと勉強になります。

――なお『花の生涯』で佐田啓二は、彦根藩士・長野主膳役。
長野主膳は、やがて幕府の大老となっていく、彦根藩主・井伊直弼を語るうえで、すごく重要な人物です。
若い頃の井伊直弼は、藩主を継承する見込みはかなり低い位置におり、ひっそりと学問と芸事を深める文化人の路線でした。
〔参照:第13話「通商条約」②(埋木に陽が当たるとき)〕
もともと長野はその時、井伊の和歌や国学の師匠だった学者だったようです。
――『花の生涯』での、淡島千景〔演:ともさかりえ〕の配役が
村山たかという女性の役です。井伊直弼と長野主膳と、村山たか。この3人の関係性はとても濃いようなので、『花の生涯』では深く描かれた事でしょう。
当時、京都で勤王や攘夷の活動をした各藩の志士たちを「安政の大獄」で取り締まる際に、長野主膳と村山たかの2人は深く関与しています。
ちなみに、私が書く「幕末佐賀藩の大河ドラマ」イメージでは、彦根藩の動向を詳しくは描いていません。
但し、「副島種臣に、佐賀藩の京都出兵を打診した公家が、彦根藩士に連行される」という場面は、当時の状況として入れています。
〔参照(終盤):第15話「江戸動乱」⑪(親心に似たるもの)〕

――ちなみに、大老となった井伊直弼が信頼したのは、
徳川政権に近い親藩・譜代の中では会津藩(松平容保)、外様大名の中では佐賀藩(鍋島直正)だったそうです。
江戸末期から幕府に気を遣いながら、韮山反射炉の建設や、品川台場への鉄製大砲の設置などに協力し、日本の近代化を進めてきた佐賀藩。
幕府が選択した「武備開国」の方針には、鍋島直正は良き理解者だったようで、井伊直弼が、江戸の佐賀藩邸を訪ねた場面も書きました。
〔参照(後半):第15話「江戸動乱」⑭(“赤鬼”が背負うもの)〕
ところが、1860年(安政七年)“桜田門外の変”での井伊大老の急死により、幕府と佐賀藩のつながりは一気に薄れてしまった…という展開になります。
〔参照:第15話「江戸動乱」⑮(雪の舞う三月)〕
――京都警備における彦根藩の存在感も…
井伊直弼亡き後には、こちらも一気に薄れてしまったため、志士側からの報復により、今度は幕府側の関係者が危うい状態に。
京の都には、「天誅」という言葉と、襲撃が横行することになります。
江藤新平が佐賀を脱藩した1862年(文久二年)頃には、各地から過激化した志士も、続々と京都に集まってきていました。
〔参照(中盤):第18話「京都見聞」⑱(秋風の吹く頃に)〕
この年、幕府に近い立場の会津藩主・松平容保が、まるで“火中の栗”を拾うかのように、新設された京都守護職を引き受けます。

――そして、“大河ドラマ”誕生を描く物語で、私に一番響いたこと。
作中で阿部サダヲさんの演じる上司・楠田が、彦根藩のお殿様・井伊直弼を題材にしたきっかけは、おそらくは妻の故郷だったから。
夜明けまでの撮影の後に行く、行きつけの屋台のおでんが美味いのは、店主が孫に味見させて「おいしい」と言ったものを出しているから。
最初は無茶振りから始まった“大河ドラマ”。やがて、その企画に関わる人々の想いは「身近な人への愛」というところに集約されて…
山岡青年と、ヒロインである下宿の娘・明恵〔演:松本穂香〕とのエピソードを軸に、1つの話にまとまっていく。
――この物語、好きな感じの描き方でした。
本日、2月5日(日)午後4:30~には、最新のAI技術を駆使して、当時は、白黒だった映像をカラーで再現した『花の生涯』が見られるようです。
「新しいテレビが家に来た日」の描写など、何だか「昔にあって、今には無い」そんな、ときめきを想い出すような要素も多かった“大河ドラマ”誕生秘話。
このところ、少し疲れていましたが、また、頑張ろうと思える物語でした。
○関連記事
・「花の生涯…」
・「茶歌(ちゃか)ポン。」
昨夜、たぶん私は見ておかねばならない…ドラマがNHKで放送されました。そのタイトルは『大河ドラマが生まれた日 笑いと涙の大河ドラマ誕生秘話』。
昭和の真っ只中、戦後の復興も進み、右肩上がりの経済成長の明るい空気があった時代。
テレビのある家には、ご近所さんが集結。良くも悪くも、熱気のあった仕事場。これぞ“昭和”というポイントの描写が続きます。
なお、ドラマの感想に、私が空想する「幕末佐賀藩の大河ドラマ」のイメージが混ざりますが、いつもの事ですのでご容赦ください。
東京オリンピックを2年後に控えた、1962年(昭和37年)からその誕生秘話はスタートするようです。
――そんな時代背景で描かれるのは、あるテレビマンたちの奮闘。
大河ドラマの第1作『花の生涯』は、日本のテレビ放送開始から10年ほどが経過した時期、1963年(昭和38年)に放送されています。
当時のNHK局内の雰囲気の再現を試みるか、いきなり“親分”・芸能局長〔演:中井貴一〕の無茶振り。
空前絶後を超える連続大型時代劇の制作を命じられた、上司・楠田〔演:阿部サダヲ〕と部下・山岡〔演:生田斗真〕。
――“大河ドラマ”で「東京オリンピック」と言えば…
2019年大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』を思い出します。そういえば、阿部サダヲさんも、生田斗真さんも、同作の出演者でした。
今回のドラマの話に戻すと、もともとは映画会社志望で、不本意にもテレビの仕事をしているのが、生田さん演じる山岡青年。
テレビ業界に不満を持ちながらも、若手アシスタントディレクター(AD)として、悶々とした日々を送っています。
――当時のテレビドラマは、生放送で…
行き当たりばったりの展開となることも多く、映画と比して随分と見劣りがすることを嘆く、若手ADの山岡。
先ほどの“親分”からの無理難題には、上司・楠田とともに巻き込まれますが、映画会社の協定により出演者の確保は困難を極めます。
やがて山岡青年は『花の生涯』に映画スター・佐田啓二〔演:中村七之助〕の出演を目指して、足しげく説明に通います。
――そして、風向きが変わる。
アメリカのテレビ事情まで情報収集し、熟慮した映画スター・佐田啓二は、その大型時代劇への出演を承諾し、本格的に撮影が始まった『花の生涯』。
当時は“大河ドラマ”という呼称はなかったようで、後に、この大型時代劇枠に「大河ドラマ」という名称が定着したので、遡って第1作の扱いのようです。
この辺り、とくに私には、いろいろと勉強になります。
――なお『花の生涯』で佐田啓二は、彦根藩士・長野主膳役。
長野主膳は、やがて幕府の大老となっていく、彦根藩主・井伊直弼を語るうえで、すごく重要な人物です。
若い頃の井伊直弼は、藩主を継承する見込みはかなり低い位置におり、ひっそりと学問と芸事を深める文化人の路線でした。
〔参照:
もともと長野はその時、井伊の和歌や国学の師匠だった学者だったようです。
――『花の生涯』での、淡島千景〔演:ともさかりえ〕の配役が
村山たかという女性の役です。井伊直弼と長野主膳と、村山たか。この3人の関係性はとても濃いようなので、『花の生涯』では深く描かれた事でしょう。
当時、京都で勤王や攘夷の活動をした各藩の志士たちを「安政の大獄」で取り締まる際に、長野主膳と村山たかの2人は深く関与しています。
ちなみに、私が書く「幕末佐賀藩の大河ドラマ」イメージでは、彦根藩の動向を詳しくは描いていません。
但し、「副島種臣に、佐賀藩の京都出兵を打診した公家が、彦根藩士に連行される」という場面は、当時の状況として入れています。
〔参照(終盤):
――ちなみに、大老となった井伊直弼が信頼したのは、
徳川政権に近い親藩・譜代の中では会津藩(松平容保)、外様大名の中では佐賀藩(鍋島直正)だったそうです。
江戸末期から幕府に気を遣いながら、韮山反射炉の建設や、品川台場への鉄製大砲の設置などに協力し、日本の近代化を進めてきた佐賀藩。
幕府が選択した「武備開国」の方針には、鍋島直正は良き理解者だったようで、井伊直弼が、江戸の佐賀藩邸を訪ねた場面も書きました。
〔参照(後半):
ところが、1860年(安政七年)“桜田門外の変”での井伊大老の急死により、幕府と佐賀藩のつながりは一気に薄れてしまった…という展開になります。
〔参照:
――京都警備における彦根藩の存在感も…
井伊直弼亡き後には、こちらも一気に薄れてしまったため、志士側からの報復により、今度は幕府側の関係者が危うい状態に。
京の都には、「天誅」という言葉と、襲撃が横行することになります。
江藤新平が佐賀を脱藩した1862年(文久二年)頃には、各地から過激化した志士も、続々と京都に集まってきていました。
〔参照(中盤):
この年、幕府に近い立場の会津藩主・松平容保が、まるで“火中の栗”を拾うかのように、新設された京都守護職を引き受けます。
――そして、“大河ドラマ”誕生を描く物語で、私に一番響いたこと。
作中で阿部サダヲさんの演じる上司・楠田が、彦根藩のお殿様・井伊直弼を題材にしたきっかけは、おそらくは妻の故郷だったから。
夜明けまでの撮影の後に行く、行きつけの屋台のおでんが美味いのは、店主が孫に味見させて「おいしい」と言ったものを出しているから。
最初は無茶振りから始まった“大河ドラマ”。やがて、その企画に関わる人々の想いは「身近な人への愛」というところに集約されて…
山岡青年と、ヒロインである下宿の娘・明恵〔演:松本穂香〕とのエピソードを軸に、1つの話にまとまっていく。
――この物語、好きな感じの描き方でした。
本日、2月5日(日)午後4:30~には、最新のAI技術を駆使して、当時は、白黒だった映像をカラーで再現した『花の生涯』が見られるようです。
「新しいテレビが家に来た日」の描写など、何だか「昔にあって、今には無い」そんな、ときめきを想い出すような要素も多かった“大河ドラマ”誕生秘話。
このところ、少し疲れていましたが、また、頑張ろうと思える物語でした。
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