2020年11月30日

連続ブログ小説「旅立の剣」(15)もう1つの物語

こんばんは。

もし、幕末佐賀で「女性主人公の“大河ドラマ”」を設定するなら…と考えたとき、私は“隠れた主役候補”に思い至ります。

昨秋の調査をベースとして、三井子と、大隈重信八太郎)の物語について、もう少し綴っていきたいと思います。


――大隈重信記念館・1階の常設展示室にて。

スピーカーより流れる、大隈の声。
「…いま、帝国は、(だい)なる変化のとき迎えているんである…」

明治期に“演説の名手”として知られた、大隈重信現代政治家からは、もう聞くことができないタイプの声かもしれない。

堂々とした、それでいて流れのある心地の良い演説と聞こえる。“変化”という言葉にも、希望が湧くのだ。


――展示室内には、多数のパネルがある。

効率よく取材をしたい来館者である、には有難い情報量があった。大隈重信ゆかりの品々に囲まれながら、調査を続ける。

「まったく…、大したお方ですぜ。大隈先生は!」
私は“江戸っ子”ではないが、このように感銘を受けたのは事実である。

実際、大隈頑張っただけの業績を残している。尊王の志士外国との交渉役、政治家、教育者…その足跡追うだけでも、ひと仕事なのは認めよう。



――ふと、1つのパネル展示に目が止まった。

我が子を“偉大な大隈重信”に育てた女性の説明が綴られる。

説明文の中心に、年配ご婦人の写真がある。
その姿はとしている。若い頃から快活な女性であったらしい。

活躍を影で支えながら、明治を生きた大隈重信三井子


――その母が90年に渡る、天寿を全うするとき…

大晦日の晩。危篤となった三井子の枕元に居た、大隈重信
年が明けるまでは、寿命を延ばしてほしい」と祈ったという。

そして、新しい年が来る。ほどなく、母子別れのときを迎えた。
大隈も、このときは幼き日八太郎の気持ちだったかもしれない。


――そして、3年ほど後、こんな展開になった。

日本政党内閣が発足する。首相となったのは、大隈重信

世のために働け」など、大隈には政治信条がある。そのになったのは、三井子教えだったという。


(続く)

  


2020年11月28日

連続ブログ小説「旅立の剣」(14)限りなき“母の愛”

こんばんは。

佐賀版「幕末男子の育て方」が、体感できる場所。昨秋大隈重信記念館に行ったときの記憶をたどっています。

幼い大隈重信八太郎)は、人より成長が遅く、超甘えん坊だったと言います。

三井子は、神仏に祈り、物語を読み聞かせ友達を大事にします。今年、流行りの言葉なら“全集中”で子育てをしたでしょう。


――大隈重信八太郎)は、4人きょうだいの3番目で、長男。

信保は、佐賀藩の“砲術長”で、物理(弾道計算)や化学(火薬調合)に長じたと聞くが、その人となりを知る資料の持ち合わせは無い。

しかし、佐賀黒船来航前に国産初鉄製大砲を完成するほど進んだ雄藩大隈役職に見合う、才覚が伴った人物と見るのが自然だろう。

そして、地元で“女丈夫”と言われる元気な三井子八太郎には、2人。後にが生まれ、2女2男の4人姉弟となる。


――時刻は16時頃。穏やかな雨は続く。縁側から灯りが見える。

ほう…
リアルな武家屋敷。しかも大隈先生の生家。私は感嘆した。

現地への取材と並行し、図書も調べた私には、予備知識があった。三井子と長男・八太郎母子のエピソードは、なかなか「面白い」のだ。



――元気なだけでなく、キャラクターの強い母・三井子。

甘えん坊我が子に困ったは、八太郎くんに勇敢な軍記物語(『太平記』など)を読み聞かせたという。

そして、今度は喧嘩ばかりするようになった八太郎くんに、“念仏“を10回唱えて、「それでも腹が立つ時にだけ」喧嘩するように諭す。

八太郎くんが成長して、学びを深め、友達との議論に熱中すれば、家計を切り詰めてでも、友人たち食事菓子を振る舞う。


――後に大隈侯は「自分は家に恵まれていた」と語ったという。

秋雨には少し肌寒さを感じつつも、大隈家灯りは私の心を温かくした。

名だたる佐賀の賢人たちの“溜まり場”だった大隈八太郎重信)の新時代を築く知恵が培われた…とも言えるこの場所

まるで「“明治の礎を築く”若者たち」を優しく見守る、佐賀の母大隈三井子の視点でも「幕末佐賀大河ドラマ」は描けるかも…そんな感想を持った。


(続く)

〔参照記事:第5話「藩校立志」①
佐賀藩士たちが、尊王の象徴と崇めていたのが、“楠木正成”。軍記物語『太平記』に描かれた、その活躍を三井子八太郎くんに読んで聞かせる場面です。“本編”中、さらに「歴史ドラマ」を入れるという構成で、勢いのままに書いたお話です。
  


2020年11月27日

連続ブログ小説「旅立の剣」(13)“砲術長”のご子息

こんばんは。

昨秋金曜からの1泊2日の行程で佐賀での取材を行いました。決定的に時間が不足しており、走り続けることを余儀なくされます。

…ただ、疲れてきて始めて「見える姿聞こえる声」もあるのかもしれません。


――右側からの視線を感じて、私は向き直った。

貴君。今日はあいにくの雨だが、ゆっくりしていくと良い。」
そう語らんばかりの大隈先生、老成したお姿(像)である。

屋外銅像たる宿命とは言え、今日は天気が良くない
「…大隈先生には、晴天が似合うと思うのです。」

「些細な事だ。気遣いは無用である。」
なんとも風格が出ている。これも大物だけが持つ“オーラ”だろうか。


――大隈侯は、自身に爆弾を投げつけた相手の名誉まで気遣ったと聞く。

それでも何だか寒そうではあるが、雨など物ともしない雰囲気だ。

生家も見ておくと、あとあと役立つであろう。」
「では、失礼して、拝見をいたします。」


いそいそと大隈先生像の横を通る。私の足取りがおかしいのは…たぶん偉い方侯爵)の面前なので、緊張するのだ。

大隈家は、“会所小路”と呼ばれる上級武士の住まう一角にある。砲術隊長を務める家柄で、長崎警備も担当していた。


――1808年。大隈重信の祖父・彦次郎の代。

幕末佐賀藩の悲劇であり、出発点でもあった“フェートン号事件”。オフシーズンの経費節減のため、警備隊の大半が佐賀に帰還していた。

手薄な警備の隙に生じた、イギリス“フェートン号”による長崎港への侵入。祖父彦次郎も、責任問われる立場だった。

信保の代も“砲術隊長”の仕事が引き継がれているところを見ると、大隈家にとって、最悪の展開は免れたようだ。


――大隈重信八太郎)の生家。縁側の方に回る。

その家から感じられる気配は、先ほどの立派な大隈重信のものではない。

三井子にべったりと甘え、後にやんちゃな喧嘩坊主に成長する、幼き日大隈八太郎少年が走り回る面影だった。

(続く)

〔参照記事:第3話「西洋砲術」③-3
※“本編”で大隈重信八太郎)の名が初登場する回です。祖父は描けていないのですが、大隈信保は結構、活躍しています。砲術の部隊長で、火薬調合や弾道計算にも長じていたらしいので、佐賀藩技術者チーム意気投合している場面をよく描いています。

  


2020年11月26日

連続ブログ小説「旅立の剣」(12)雨の“水ケ江”を行く

こんばんは。

再び走り始めた“連続ブログ小説”…初めてご覧の方に説明しましょう。ひとことで言えば昨秋、私が佐賀を駆け回った、旅路の記録です。

まだ、コロナ禍の無かった1年前の自由な“空気感”が見て取れると思います。


――15:30頃。佐賀市営バスで“水ケ江”の地に到着する。

バス停大隈重信記念館前次の目的地も間近である。

バスを降りると、またポツポツと雨が降り始めた。私が佐賀に帰るとき雨の降る描写が多いが、これは偶然である。とくに、雨を呼ぶ力体得した覚えはない。

「ふーっ。」
深呼吸をした。少し疲れを感じる。走り続けられるほど、若くもない。


――ここも市街地の中心部に近いが、大都市圏とは空気感が異なる。

いわゆる住宅地。一筋ばかり、道を間違えた。くるりと転換し歩みを進める。ほどなく、大隈重信記念館の立派な門構えが私を出迎えた。

「こんにちは。」
雨を避けられる屋根がありがたい。受付に挨拶をする。



――全国的には、早稲田大学の創設者として著名な大隈重信

受付の奥に見える限り、同窓会館の事務局のような機能も兼ねる様子だ。早大卒業生たちが集う行事も多いのだろう。

大隈先生は、自分の家人が集まるのが大好きだったと聞く。
お若いの。雨の中、よく来たな。」

何だか、そう言われた心地がする…私も歳を取ったが、大隈先生からすれば、おそらくは、まだまだ現世で活動できる私は“若者”であるのかもしれない。

(続く)

〔参照記事:「大隈重信」(賢人その7)<前編>
※“本編”の開始前に、“佐賀七賢人”のキャラクターを把握するために書いたシリーズ(創作)です。私は、大隈先生を「日本史上で、最も国民から愛された人物の1人」と捉えていますので、どうしても遊び心が強めの描写になります。もし、関係者の方がご覧になっていましたら、色々とご容赦ください。  


2020年11月24日

連続ブログ小説「旅立の剣」(11)再びバスターミナル

こんばんは。
前回の記事で思い至った今年残り日数。本日を含め、38日

ひとまず年内完了を目指している企画を進めます。昨秋コロナ禍の影も無かった時期。当ブログの“聖地”佐賀での、主に御城下を巡る旅路の記録です。


――14:00頃に“早津江”方面から、市街地に向かうバスに乗る。

時間にして、40分ほどかかったか。
出立から4時間足らず佐賀駅前バスターミナルに戻る。

すでに1日乗車券は入手した。これで終日、佐賀市営バス味方に引き込んだも同然である。私は自在に動くことができる。


――佐賀への到着から、ひたすらに動き続ける。

佐野常民記念館は、市街地からは少し離れている。親戚と会ったり、法事に行ったりという、通常の帰省だと見学時間が取りづらい。

「先に遠方の施設から回ったのは、良い判断だった…」

私は自画自賛を行った。周到に準備した今回の帰省取材に特化した単独行動に設定した。この場面、自分で褒めねば、誰も褒めてはくれない。



――すぐに体勢を整え、次の目的地に向かう必要がある。

えきマチ1丁目”を抜ける。佐賀城下での拠点とも思う場所。飲食店のほか、土産物コーナーが充実する。飲食物産とも素材が良いのが、佐賀の地力だ。

ドラックストアも何かと便利。そして、積文館書店には、佐賀の歴史に関する書籍が揃う。ここで違和感を感じた人もいるだろう…これは1年前の世界の話だ。(※文末に注釈あり)


――15:00頃。近隣の宿への手続きを済ませる。

ひと息を付く暇(いとま)など無い。記念館などの施設は、閉館時間というリミットがある。大半の荷物を降ろし、いくぶん軽装となった。

これで、また動き出せる。いざ、佐賀が誇る明治の傑物・大隈重信の生家へ。
大隈重信記念館を通るバスを見定め、飛び乗ったのである。


(続く)

〔参照記事(冒頭):第4話「諸国遊学」⑥
※残念ながら、積文館書店・佐賀駅店は、2020年3月に閉店しています。年明けからのコロナ禍で、最後に立ち寄ることもできずショックでした。

  


2020年11月22日

「あと40日…」

こんばんは。
新型コロナ感染症に、1年中振り回されている、2020年(令和2年)。

今秋は“我慢の三連休”というパワーワードが飛び交います。私は、かなり感染が拡大している地域におりますので、なるべく自重をしているところです。

どうせ“我慢”するならと、第15話以降も書き始めてはいます。この辺り、創作史実バランスが難しく、しばらくは書き溜めていこうかな…という作戦です。


――その間も、様々な角度から考えてみます。

佐賀の隠された実力と、これからの展望を。

私は「幕末佐賀藩大河ドラマ」が、近い将来に見られると確信します。佐賀藩には、現代日本が学ぶべき物語が作れる素材が揃っているからです。

県内では志有る方々の、幕末・明治期における佐賀の価値を伝える活動があります。“大河ドラマ”をアピールせずとも、地道な努力が大事らしいのです。



――その一方、私は個人的に活動しています…

佐賀から遠く離れている分、現地での調査や、有志との交流には不利を伴います。最大のメリットは「外からの視点」を持ち続けられることでしょう。

よく話題になる「全国都道府県魅力度ランキング」という調査がありますが、このところ47位が続いていた茨城県が、今回、その最下位を脱出しました。


――茨城県は「ランキング最下位」と“自らを笑う”ような姿勢を改め…

県内の魅力の丁寧な発信に努めたそうです。その成果か、順位は42位まで上昇したと言います。ちなみに佐賀県は、45位(前回46位)です。

来年の大河ドラマ青天を衝け」の主役は渋沢栄一。その主君である一橋慶喜は“水戸藩”(茨城)の出身です。

きっと茨城県はカッコ良く描かれることでしょう。本来、同作に登場すべき佐賀藩士たちが、しっかりと描かれるかが気になって仕方ありません…


――“大河ドラマ”のテーマ選びには、決定的な方法は無いとも聞きます。

逆に言えば「何が功を奏するか」もわかりません。資源も、才能も、人脈も…不足だらけの私が動く理由はそこにあります。

故郷の魅力発信には資格肩書も要りませんが、人により発信の“威力”は異なります。県内の方に任せず、佐賀出身の皆様には頑張ってほしいです。

私が実際に行動を開始したのは、1年半ばかり前。最初に着手したのは、本棚の奥から日本史教科書を引っ張り出すこと。そんなスタートでした。



――では、今年。残り40日をどう使うか。

昨年は、ほぼ4か月の資料作成、その後、現地(佐賀)での調査…そして、1年ほど前ブログ開始

この間、“新型コロナ”の影響で、社会の情勢は激変しました。当初の思惑どおりには行かず、計画は大幅な見直しを迫られています。

こんなとき、幕末佐賀藩士たちならばどう動くか…師走を目前にして、彼らの感じていた“焦り”に想いをはせています。


  


Posted by SR at 19:36 | Comments(0) | 企画案・雑記帳

2020年11月20日

「醒覚の剣」(都風)

こんばんは。

概ね1年前。私は限られた時間で駆け回り、郷里・佐賀の取材に猛進しました。ある意味、奇跡的な時間でしたが、そう長くは続きませんでした。

いまや、簡単に佐賀帰藩できる状況ではありません。
「しまった。あの場所には立ち寄るべきだった!」…と、後悔は、頭を巡ります。


――しかし、私には“切り札”があった。

私より“佐賀藩士”としての純度が高く、地元・佐賀に住む協力者
…平たく言えば、叔父上である。

「私には、小城に関する知識が、ほとんどありません。」
遠き故郷とつながる、電話口

叔父上は、私のこの“つぶやき”を拾った。
「あ、小城ね。行っても良かよ。」


――そして、あっさりと依頼を聞き入れる。

小城別名は「佐賀の小京都」とも聞く。
どの辺りが“京都”なのか、それにも興味があった。

「あぁ小城ね。行ってきたとよ。」
しばらく後、電話口の叔父上が語る。

こちらが知らぬ間に、すでに叔父上小城まで足を運んでいた。



――「法事とかで、わりと忙しかったのでは?」という疑問はさておき…

この場合、ご厚意には甘えておくのが、私の流儀である。

「…して、叔父上小城はいかがでしたか。」
屋敷跡庭園が良かよ。」

手入れが行き届いたとは…たしかに“小京都”の趣きだ。

「他には…やはり、小城羊羹(ようかん)ですか。」
羊羹も買ったばってん、面白かものを見つけたよ。」


――私からの頼みではなく、叔父上の感覚で掴んだ物。

「何か、小城に“新名物”でもあったのですか?」
珍しかお菓子があったよ。“シベリア”とか言いよっと。」

…“シベリア”。それは、聞き覚えのある名だった。
「そのお菓子。以前、大河ドラマに出てきました!」

大河ドラマいだてん」。陸上競技を描いた回に“シベリア”が登場する。女子体育教育の先駆者・二階堂トクヨ(演:寺島しのぶ)が教え子に勧めていた。



――この“シベリア”というお菓子。大正時代には各地に存在したという。

叔父上は無自覚のうちに、私のテーマに合った物を選んでいたのだ。

ふんわりとしたカステラで、ヒンヤリとした食感の羊羹を挟み込む。一説には、この羊羹シベリア永久凍土をイメージさせるらしい。

上品な甘さやけん。食べやすかよ。」
こうして、叔父上も絶賛する“シベリア”が、私の手元にも届いた。


――そして昭和初期。子供が食べたいお菓子№1の座だったとも聞く。

私も丁寧に“シベリア”を開封し、一切れを口元に運ぶ。
「…これは、何と優雅な味わいか!」

軽やかに溶けゆくカステラの風味と、溶け残る小城羊羹の余韻。
この儚(はかな)さと、それでいて強い本物の存在感。

私に小城の実力の一端が示される。佐賀の“小京都”と呼ばれるには、それだけ秘めた力があるのだろう。



――幕末期。小城にも京都と同じ“風”が吹いた。

日本中で湧き立つ“尊王攘夷”の思想。今は羊羹の聖地・小城にも広がった。

その地には佐賀藩の支藩の1つ、小城藩があった。幕末期小城支藩の動きは、いろいろと不可解なのだ。

ある夜、忽然と姿を消し京都に現れた、小城の庄屋の話。
そして佐賀七賢人の1人・江藤新平も、この地と深く関わる。

「何とか小城を、本編に織り込まねば…」
名残り惜しく“シベリア”と別れひとかけらを口にした私。決意を新たにした。



  


Posted by SR at 22:23 | Comments(0) | 「望郷の剣」シリーズ

2020年11月18日

「開港の夜」

こんばんは。

まだ新型コロナという言葉も聞かなかった昨秋
旅の記録を“連続ブログ小説”として綴りました。

第1シリーズ佐賀への旅立ち佐野常民記念館」編が完了したところです。

第2シリーズは「大隈重信記念館長崎街道」編
第3シリーズは「長崎街道さが維新まつり」編
…と、続編の予定があります。


――さて、肝心の「大河ドラマのイメージ」の現在地は…

本編”の年代ですが、1858年の“日米修好通商条約”締結の前後のお話を進めています。第14話遣米使節」は1855年~1860年のお話でした。

同じ時期を「行ったり来たり」しますが、“激動の時代”を様々な角度から描く試みです。佐賀藩が“三重津海軍所”を本格的に整備し始めたのもこの時期です。

通商条約は、大老・井伊直弼が「調印を強行した」と語られます。“開国”止む無しの状況で、井伊朝廷との調整に苦心していた…との見解もあります。


――こうして、一気に西洋文明の波が日本に押し寄せますが…

アメリカを含む5か国との通商条約の締結。神奈川・長崎・箱(函)館・新潟・兵庫5箇所開港予定での交渉が行われます。

それまで、日本世界への“窓口”は、長崎の独占状態でした。もちろん国際都市・長崎も開港しますが、強力なライバルが出現したとも言えます。


――当初の開港は、長崎・横浜・箱館の3箇所。

宿場町・神奈川を避け、開港地に選ばれた横浜江戸にも近く、スタートダッシュです。条約締結の翌年1859年の開港で、早々に英語が飛び交います。
〔参考記事:「横浜村-1854年-(第11話プロローグ)」

第14話遣米使節」に登場した佐賀藩士にも、小出千之助オランダ語の達人が多数いましたが、アメリカに渡航したことで、英語の活用に舵を切ります。



――横浜に比べて、スロースターターだった港も…

幕末からおよそ700年もの昔。平清盛の時代からの港町・兵庫京の都に近く、朝廷の意向が強く作用します。簡単には開港できません

兵庫開港1868年10年ほどが経過し、すでに明治維新の直前期。旧来の兵庫港の隣地に港が開け、外国人居留地が広がり、名も神戸港と改めます。

いまや横浜神戸の双方とも、国際貿易港として知られます。


――こんな背景を考えながら「第1部・幕末黎明編」をどこまで続けるか…

今のところ、第15話は「江戸動乱」、第16話を「攘夷沸騰」というタイトルで考えています。続く第17話で、“第1部”はひとまず完結させたい…と計画中です。

本編”の再開まで、色々と投稿をしながら練っていきたいと思います。現時点の仮スケジュールでは、第1部を書き終えるのは、3月近くになりそうです。

あちこちに話が飛びますが、引き続きご覧いただければ幸いです。



  


Posted by SR at 21:53 | Comments(0) | 出来事編(E)

2020年11月16日

連続ブログ小説「旅立の剣」(10)雲を掴むことさえも

こんばんは。
連続ブログ小説第1シリーズ佐野常民記念館 編」のラストです。

…気楽な昨秋旅日記のはずが、思いのほか長編になっています。ひとまず、区切りを入れようかと思案しています。


――「何故、幕末佐賀藩が“大河ドラマ”にならないか?」

これは聞かれて困る質問かもしれない。施設スタッフの皆様は、NHKの関係者ではないだろう。

しかし、この話はわりと盛り上がるのである。
「いろいろ試みはありますが、なかなか難しいようですよ。」

最近の大きい“試み”は、2018年の“さが幕末維新博”だろう。一方、草の根での地道な活動もある様子。以前から“”ある方々は走り続けているのだ。


――「雲を掴む」ような話。私に“何ができるか”はわからない。

ここで、やや使い古された感のある言い回しが頭をよぎる。
「大事なのは、できるかどうかではない。やるかやらないか」なのだ。

まず全国的知名度の問題がある。実際の活躍に比べ、佐賀藩士たちの足跡が、テレビの歴史番組で語られることはほとんど無い。

その問題を乗り越えるカギは、やはりあの方だろう。次に“どこを目指すか”は、明確になった。

通貨単位“”を定め、早稲田大学を創設、2度総理大臣大隈重信侯だ。



――バスの到着まで、あと20分ばかり。まだ館内での時間はある。

スタッフの方々に御礼を述べる。そして、私の決意も語った。
期待をするだけでは駄目ですね。私自身でも動いてみます。」

2時間ばかり佐野常民記念館三重津海軍所跡)に滞在していたが、まだ見学していないフロアがある。
「まだ…バスまでの時間があるので、3階を見学してきます!」

私は可笑しな訪問者だったと思うが、話の始終、スタッフの方々は笑顔だった。


――慌ただしい滞在…、だが机上の資料とは違う充実感がある。

残り時間は貴重だ。3階への階段を駆け上がる。全力をもって展示物の見聞を行った。たとえ“速習”でも、佐賀藩躍動を体感しておく必要がある。

タイムリミットが来た。佐野常民記念館1階に降りる。
そこでスタッフの方の1人と、玄関でお会いした。

先ほどの私との会話をふまえて、最後に一声をかけてくれた。
「“大河ドラマ”の実現には10年かかる…と聞くこともありますね。」


――私は、その言葉を「道のりは険しいが、実現はできる」と受け取った。

「ありがとうございます。私なりに進んでみますよ。」
日々思うに任せぬ事が多い。しかし私は“自由”な立場で行動することもできる。

晴れやかな気持ちで、市街地に戻るバス停に向かう。いわば“聖地”である佐賀で、取材を行うことの意味を噛みしめる。だが、この旅は、まだこれからだった。


(“第2シリーズ”に続く)
  


2020年11月15日

連続ブログ小説「旅立の剣」(9)想いを語るとき

おはようございます。
当ブログの主題佐賀、物語を動かす舞台長崎には、なかなか足を運ぶことが叶わず、それでも、今できる方法で“取材活動”を続けています。

…なお、昨日は“取材”に出ていたため、今日はに更新しております。


――昨秋。佐野常民記念館。時刻は13:00。

幸運にも雨が上がって、屋外での“三重津海軍所跡”の見学を終えた私。続いて、館内2F佐野常民記念館・展示室に立ち寄る。

最初、雨に濡れて入館した私を、施設スタッフの方が気遣ったのか、見学ルート通常の順路と異なっていたようだ。

ナマコのような男…」
明治期、ある人物が佐野常民評した言葉だ。


――この言葉、最初は佐野先生への悪口かと思った。

しかし、真意はこうだった。
「叩いても、捻っても、ナマコ変じることは無い。」

「…佐野常民頑固者だ。その信念を曲げることはできない。」
概ね、このような解釈らしい。

佐賀では、七賢人(八賢人)の1人として知られる佐野常民
調べるほど応援したくなる人物。」と評する研究者の方もいる。



――日本赤十字社の創設をはじめ、様々な仕事を成し遂げた佐野常民

一風変わった佐野の行動。最初のうちは苦笑することがあっても、だんだんと「負けるな!常民!」という気分になるらしい。

…まったく同感なので、私も“本編”で表現していきたい。

佐野常民栄寿)の業績は、赤十字社だけではない。

蒸気機関の開発、近代海軍の創設、万国博への出展、洋式燈台の設置、内国博京都の復興、日本美術の保護…

佐野先生は、とにかく頑張った人なのだ。


――2Fの佐野常民記念館・展示室、出入り口に戻る。

偶然、スタッフの方々が集まっていたので、私は挨拶をする。
「ありがとうございました。大変、勉強になりました。」

スタッフの皆様も「それは、良かった!」という反応。

ここで、私は心に留めていた言葉を続けた。
「これだけ業績があるのに、なぜ佐賀は“大河ドラマ”にならないんでしょうか。」


(続く)

〔関連記事:「佐賀の功績を語れ!」(独自色②)
※投稿の時期は昨年の年末(大晦日)。幕末の雄藩「薩長土肥」のそれぞれの業績をなるべくシンプルに表して、その比較で“肥前佐賀藩の功績をどう描くか…を考えたときの投稿です。