2020年11月30日
連続ブログ小説「旅立の剣」(15)もう1つの物語
こんばんは。
もし、幕末の佐賀で「女性が主人公の“大河ドラマ”」を設定するなら…と考えたとき、私は“隠れた主役候補”に思い至ります。
昨秋の調査をベースとして、母・三井子と、子・大隈重信(八太郎)の物語について、もう少し綴っていきたいと思います。
――大隈重信記念館・1階の常設展示室にて。
スピーカーより流れる、大隈侯の声。
「…いま、帝国は、大(だい)なる変化のときを迎えているんである…」
明治期に“演説の名手”として知られた、大隈重信。現代の政治家からは、もう聞くことができないタイプの声かもしれない。
堂々とした、それでいて流れのある心地の良い演説と聞こえる。“変化”という言葉にも、希望が湧くのだ。
――展示室内には、多数のパネルがある。
効率よく取材をしたい来館者である、私には有難い情報量があった。大隈重信ゆかりの品々に囲まれながら、調査を続ける。
「まったく…、大したお方ですぜ。大隈先生は!」
私は“江戸っ子”ではないが、このように感銘を受けたのは事実である。
実際、大隈侯は頑張っただけの業績を残している。尊王の志士、外国との交渉役、政治家、教育者…その足跡を追うだけでも、ひと仕事なのは認めよう。

――ふと、1つのパネル展示に目が止まった。
我が子を“偉大な大隈重信侯”に育てた女性の説明が綴られる。
説明文の中心に、年配のご婦人の写真がある。
その姿は凛としている。若い頃から快活な女性であったらしい。
子の活躍を影で支えながら、明治を生きた大隈重信の母・三井子。
――その母が90年に渡る、天寿を全うするとき…
大晦日の晩。危篤となった母・三井子の枕元に居た、大隈重信。
「年が明けるまでは、母の寿命を延ばしてほしい」と祈ったという。
そして、新しい年が来る。ほどなく、母子は別れのときを迎えた。
大隈侯も、このときは幼き日の八太郎の気持ちだったかもしれない。
――そして、3年ほど後、こんな展開になった。
日本に初の政党内閣が発足する。首相となったのは、大隈重信。
「世のために働け」など、大隈侯には政治信条がある。その元になったのは、母・三井子の教えだったという。
(続く)
もし、幕末の佐賀で「女性が主人公の“大河ドラマ”」を設定するなら…と考えたとき、私は“隠れた主役候補”に思い至ります。
昨秋の調査をベースとして、母・三井子と、子・大隈重信(八太郎)の物語について、もう少し綴っていきたいと思います。
――大隈重信記念館・1階の常設展示室にて。
スピーカーより流れる、大隈侯の声。
「…いま、帝国は、大(だい)なる変化のときを迎えているんである…」
明治期に“演説の名手”として知られた、大隈重信。現代の政治家からは、もう聞くことができないタイプの声かもしれない。
堂々とした、それでいて流れのある心地の良い演説と聞こえる。“変化”という言葉にも、希望が湧くのだ。
――展示室内には、多数のパネルがある。
効率よく取材をしたい来館者である、私には有難い情報量があった。大隈重信ゆかりの品々に囲まれながら、調査を続ける。
「まったく…、大したお方ですぜ。大隈先生は!」
私は“江戸っ子”ではないが、このように感銘を受けたのは事実である。
実際、大隈侯は頑張っただけの業績を残している。尊王の志士、外国との交渉役、政治家、教育者…その足跡を追うだけでも、ひと仕事なのは認めよう。
――ふと、1つのパネル展示に目が止まった。
我が子を“偉大な大隈重信侯”に育てた女性の説明が綴られる。
説明文の中心に、年配のご婦人の写真がある。
その姿は凛としている。若い頃から快活な女性であったらしい。
子の活躍を影で支えながら、明治を生きた大隈重信の母・三井子。
――その母が90年に渡る、天寿を全うするとき…
大晦日の晩。危篤となった母・三井子の枕元に居た、大隈重信。
「年が明けるまでは、母の寿命を延ばしてほしい」と祈ったという。
そして、新しい年が来る。ほどなく、母子は別れのときを迎えた。
大隈侯も、このときは幼き日の八太郎の気持ちだったかもしれない。
――そして、3年ほど後、こんな展開になった。
日本に初の政党内閣が発足する。首相となったのは、大隈重信。
「世のために働け」など、大隈侯には政治信条がある。その元になったのは、母・三井子の教えだったという。
(続く)
2020年11月28日
連続ブログ小説「旅立の剣」(14)限りなき“母の愛”
こんばんは。
佐賀版「幕末男子の育て方」が、体感できる場所。昨秋、大隈重信記念館に行ったときの記憶をたどっています。
幼い大隈重信(八太郎)は、人より成長が遅く、超甘えん坊だったと言います。
母・三井子は、神仏に祈り、物語を読み聞かせ、子の友達を大事にします。今年、流行りの言葉なら“全集中”で子育てをした母でしょう。
――大隈重信(八太郎)は、4人きょうだいの3番目で、長男。
父・信保は、佐賀藩の“砲術長”で、物理(弾道計算)や化学(火薬調合)に長じたと聞くが、その人となりを知る資料の持ち合わせは無い。
しかし、佐賀は黒船来航前に国産初の鉄製大砲を完成するほど進んだ雄藩。大隈の父も役職に見合う、才覚が伴った人物と見るのが自然だろう。
そして、地元で“女丈夫”と言われる元気な母・三井子。八太郎には、姉が2人。後に弟が生まれ、2女2男の4人姉弟となる。
――時刻は16時頃。穏やかな雨は続く。縁側から灯りが見える。
「ほう…」
リアルな武家屋敷。しかも大隈先生の生家。私は感嘆した。
現地への取材と並行し、図書も調べた私には、予備知識があった。母・三井子と長男・八太郎の母子のエピソードは、なかなか「面白い」のだ。

――元気なだけでなく、キャラクターの強い母・三井子。
甘えん坊の我が子に困った母は、八太郎くんに勇敢な軍記物語(『太平記』など)を読み聞かせたという。
そして、今度は喧嘩ばかりするようになった八太郎くんに、“念仏“を10回唱えて、「それでも腹が立つ時にだけ」喧嘩するように諭す。
八太郎くんが成長して、学びを深め、家で友達との議論に熱中すれば、家計を切り詰めてでも、友人たちに食事や菓子を振る舞う。
――後に大隈侯は「自分は家に恵まれていた」と語ったという。
秋雨には少し肌寒さを感じつつも、大隈家の灯りは私の心を温かくした。
名だたる佐賀の賢人たちの“溜まり場”だった大隈八太郎(重信)の家。新時代を築く知恵が培われた…とも言えるこの場所。
まるで「“明治の礎を築く”若者たち」を優しく見守る、佐賀の母。大隈三井子の視点でも「幕末佐賀の大河ドラマ」は描けるかも…そんな感想を持った。
(続く)
〔参照記事:第5話「藩校立志」①〕
※佐賀藩士たちが、尊王の象徴と崇めていたのが、“楠木正成”。軍記物語『太平記』に描かれた、その活躍を母・三井子が八太郎くんに読んで聞かせる場面です。“本編”中、さらに「歴史ドラマ」を入れるという構成で、勢いのままに書いたお話です。
佐賀版「幕末男子の育て方」が、体感できる場所。昨秋、大隈重信記念館に行ったときの記憶をたどっています。
幼い大隈重信(八太郎)は、人より成長が遅く、超甘えん坊だったと言います。
母・三井子は、神仏に祈り、物語を読み聞かせ、子の友達を大事にします。今年、流行りの言葉なら“全集中”で子育てをした母でしょう。
――大隈重信(八太郎)は、4人きょうだいの3番目で、長男。
父・信保は、佐賀藩の“砲術長”で、物理(弾道計算)や化学(火薬調合)に長じたと聞くが、その人となりを知る資料の持ち合わせは無い。
しかし、佐賀は黒船来航前に国産初の鉄製大砲を完成するほど進んだ雄藩。大隈の父も役職に見合う、才覚が伴った人物と見るのが自然だろう。
そして、地元で“女丈夫”と言われる元気な母・三井子。八太郎には、姉が2人。後に弟が生まれ、2女2男の4人姉弟となる。
――時刻は16時頃。穏やかな雨は続く。縁側から灯りが見える。
「ほう…」
リアルな武家屋敷。しかも大隈先生の生家。私は感嘆した。
現地への取材と並行し、図書も調べた私には、予備知識があった。母・三井子と長男・八太郎の母子のエピソードは、なかなか「面白い」のだ。
――元気なだけでなく、キャラクターの強い母・三井子。
甘えん坊の我が子に困った母は、八太郎くんに勇敢な軍記物語(『太平記』など)を読み聞かせたという。
そして、今度は喧嘩ばかりするようになった八太郎くんに、“念仏“を10回唱えて、「それでも腹が立つ時にだけ」喧嘩するように諭す。
八太郎くんが成長して、学びを深め、家で友達との議論に熱中すれば、家計を切り詰めてでも、友人たちに食事や菓子を振る舞う。
――後に大隈侯は「自分は家に恵まれていた」と語ったという。
秋雨には少し肌寒さを感じつつも、大隈家の灯りは私の心を温かくした。
名だたる佐賀の賢人たちの“溜まり場”だった大隈八太郎(重信)の家。新時代を築く知恵が培われた…とも言えるこの場所。
まるで「“明治の礎を築く”若者たち」を優しく見守る、佐賀の母。大隈三井子の視点でも「幕末佐賀の大河ドラマ」は描けるかも…そんな感想を持った。
(続く)
〔参照記事:
※佐賀藩士たちが、尊王の象徴と崇めていたのが、“楠木正成”。軍記物語『太平記』に描かれた、その活躍を母・三井子が八太郎くんに読んで聞かせる場面です。“本編”中、さらに「歴史ドラマ」を入れるという構成で、勢いのままに書いたお話です。
2020年11月27日
連続ブログ小説「旅立の剣」(13)“砲術長”のご子息
こんばんは。
昨秋。金曜からの1泊2日の行程で佐賀での取材を行いました。決定的に時間が不足しており、走り続けることを余儀なくされます。
…ただ、疲れてきて始めて「見える姿、聞こえる声」もあるのかもしれません。
――右側からの視線を感じて、私は向き直った。
「貴君。今日はあいにくの雨だが、ゆっくりしていくと良い。」
そう語らんばかりの大隈先生、老成したお姿(像)である。
屋外の銅像たる宿命とは言え、今日は天気が良くない。
「…大隈先生には、晴天が似合うと思うのです。」
「些細な事だ。気遣いは無用である。」
なんとも風格が出ている。これも大物だけが持つ“オーラ”だろうか。
――大隈侯は、自身に爆弾を投げつけた相手の名誉まで気遣ったと聞く。
それでも何だか寒そうではあるが、雨など物ともしない雰囲気だ。
「余の生家も見ておくと、あとあと役立つであろう。」
「では、失礼して、拝見をいたします。」

いそいそと大隈先生像の横を通る。私の足取りがおかしいのは…たぶん偉い方(侯爵)の面前なので、緊張するのだ。
大隈家は、“会所小路”と呼ばれる上級武士の住まう一角にある。砲術隊長を務める家柄で、長崎警備も担当していた。
――1808年。大隈重信の祖父・彦次郎の代。
幕末佐賀藩の悲劇であり、出発点でもあった“フェートン号事件”。オフシーズンの経費節減のため、警備隊の大半が佐賀に帰還していた。
手薄な警備の隙に生じた、イギリス船“フェートン号”による長崎港への侵入。祖父・彦次郎も、責任を問われる立場だった。
父・信保の代も“砲術隊長”の仕事が引き継がれているところを見ると、大隈家にとって、最悪の展開は免れたようだ。
――大隈重信(八太郎)の生家。縁側の方に回る。
その家から感じられる気配は、先ほどの立派な大隈重信候のものではない。
母・三井子にべったりと甘え、後にやんちゃな喧嘩坊主に成長する、幼き日の大隈侯。八太郎少年が走り回る面影だった。
(続く)
〔参照記事:第3話「西洋砲術」③-3〕
※“本編”で大隈重信(八太郎)の名が初登場する回です。祖父は描けていないのですが、大隈の父・信保は結構、活躍しています。砲術の部隊長で、火薬調合や弾道計算にも長じていたらしいので、佐賀藩の技術者チームと意気投合している場面をよく描いています。
昨秋。金曜からの1泊2日の行程で佐賀での取材を行いました。決定的に時間が不足しており、走り続けることを余儀なくされます。
…ただ、疲れてきて始めて「見える姿、聞こえる声」もあるのかもしれません。
――右側からの視線を感じて、私は向き直った。
「貴君。今日はあいにくの雨だが、ゆっくりしていくと良い。」
そう語らんばかりの大隈先生、老成したお姿(像)である。
屋外の銅像たる宿命とは言え、今日は天気が良くない。
「…大隈先生には、晴天が似合うと思うのです。」
「些細な事だ。気遣いは無用である。」
なんとも風格が出ている。これも大物だけが持つ“オーラ”だろうか。
――大隈侯は、自身に爆弾を投げつけた相手の名誉まで気遣ったと聞く。
それでも何だか寒そうではあるが、雨など物ともしない雰囲気だ。
「余の生家も見ておくと、あとあと役立つであろう。」
「では、失礼して、拝見をいたします。」
いそいそと大隈先生像の横を通る。私の足取りがおかしいのは…たぶん偉い方(侯爵)の面前なので、緊張するのだ。
大隈家は、“会所小路”と呼ばれる上級武士の住まう一角にある。砲術隊長を務める家柄で、長崎警備も担当していた。
――1808年。大隈重信の祖父・彦次郎の代。
幕末佐賀藩の悲劇であり、出発点でもあった“フェートン号事件”。オフシーズンの経費節減のため、警備隊の大半が佐賀に帰還していた。
手薄な警備の隙に生じた、イギリス船“フェートン号”による長崎港への侵入。祖父・彦次郎も、責任を問われる立場だった。
父・信保の代も“砲術隊長”の仕事が引き継がれているところを見ると、大隈家にとって、最悪の展開は免れたようだ。
――大隈重信(八太郎)の生家。縁側の方に回る。
その家から感じられる気配は、先ほどの立派な大隈重信候のものではない。
母・三井子にべったりと甘え、後にやんちゃな喧嘩坊主に成長する、幼き日の大隈侯。八太郎少年が走り回る面影だった。
(続く)
〔参照記事:
※“本編”で大隈重信(八太郎)の名が初登場する回です。祖父は描けていないのですが、大隈の父・信保は結構、活躍しています。砲術の部隊長で、火薬調合や弾道計算にも長じていたらしいので、佐賀藩の技術者チームと意気投合している場面をよく描いています。
2020年11月26日
連続ブログ小説「旅立の剣」(12)雨の“水ケ江”を行く
こんばんは。
再び走り始めた“連続ブログ小説”…初めてご覧の方に説明しましょう。ひとことで言えば昨秋、私が佐賀を駆け回った、旅路の記録です。
まだ、コロナ禍の無かった1年前の自由な“空気感”が見て取れると思います。
――15:30頃。佐賀市営バスで“水ケ江”の地に到着する。
バス停は大隈重信記念館前。次の目的地も間近である。
バスを降りると、またポツポツと雨が降り始めた。私が佐賀に帰るとき雨の降る描写が多いが、これは偶然である。とくに、雨を呼ぶ力を体得した覚えはない。
「ふーっ。」
深呼吸をした。少し疲れを感じる。走り続けられるほど、若くもない。
――ここも市街地の中心部に近いが、大都市圏とは空気感が異なる。
いわゆる住宅地。一筋ばかり、道を間違えた。くるりと転換し歩みを進める。ほどなく、大隈重信記念館の立派な門構えが私を出迎えた。
「こんにちは。」
雨を避けられる屋根がありがたい。受付に挨拶をする。

――全国的には、早稲田大学の創設者として著名な大隈重信。
受付の奥に見える限り、同窓会館の事務局のような機能も兼ねる様子だ。早大の卒業生たちが集う行事も多いのだろう。
大隈先生は、自分の家に人が集まるのが大好きだったと聞く。
「お若いの。雨の中、よく来たな。」
何だか、そう言われた心地がする…私も歳を取ったが、大隈先生からすれば、おそらくは、まだまだ現世で活動できる私は“若者”であるのかもしれない。
(続く)
〔参照記事:「大隈重信」(賢人その7)<前編>〕
※“本編”の開始前に、“佐賀七賢人”のキャラクターを把握するために書いたシリーズ(創作)です。私は、大隈先生を「日本史上で、最も国民から愛された人物の1人」と捉えていますので、どうしても遊び心が強めの描写になります。もし、関係者の方がご覧になっていましたら、色々とご容赦ください。
再び走り始めた“連続ブログ小説”…初めてご覧の方に説明しましょう。ひとことで言えば昨秋、私が佐賀を駆け回った、旅路の記録です。
まだ、コロナ禍の無かった1年前の自由な“空気感”が見て取れると思います。
――15:30頃。佐賀市営バスで“水ケ江”の地に到着する。
バス停は大隈重信記念館前。次の目的地も間近である。
バスを降りると、またポツポツと雨が降り始めた。私が佐賀に帰るとき雨の降る描写が多いが、これは偶然である。とくに、雨を呼ぶ力を体得した覚えはない。
「ふーっ。」
深呼吸をした。少し疲れを感じる。走り続けられるほど、若くもない。
――ここも市街地の中心部に近いが、大都市圏とは空気感が異なる。
いわゆる住宅地。一筋ばかり、道を間違えた。くるりと転換し歩みを進める。ほどなく、大隈重信記念館の立派な門構えが私を出迎えた。
「こんにちは。」
雨を避けられる屋根がありがたい。受付に挨拶をする。
――全国的には、早稲田大学の創設者として著名な大隈重信。
受付の奥に見える限り、同窓会館の事務局のような機能も兼ねる様子だ。早大の卒業生たちが集う行事も多いのだろう。
大隈先生は、自分の家に人が集まるのが大好きだったと聞く。
「お若いの。雨の中、よく来たな。」
何だか、そう言われた心地がする…私も歳を取ったが、大隈先生からすれば、おそらくは、まだまだ現世で活動できる私は“若者”であるのかもしれない。
(続く)
〔参照記事:
※“本編”の開始前に、“佐賀七賢人”のキャラクターを把握するために書いたシリーズ(創作)です。私は、大隈先生を「日本史上で、最も国民から愛された人物の1人」と捉えていますので、どうしても遊び心が強めの描写になります。もし、関係者の方がご覧になっていましたら、色々とご容赦ください。
2020年11月24日
連続ブログ小説「旅立の剣」(11)再びバスターミナル
こんばんは。
前回の記事で思い至った今年の残り日数。本日を含め、38日。
ひとまず年内完了を目指している企画を進めます。昨秋、コロナ禍の影も無かった時期。当ブログの“聖地”佐賀での、主に御城下を巡る旅路の記録です。
――14:00頃に“早津江”方面から、市街地に向かうバスに乗る。
時間にして、40分ほどかかったか。
出立から4時間足らず、佐賀駅前バスターミナルに戻る。
すでに1日乗車券は入手した。これで終日、佐賀市営バスを味方に引き込んだも同然である。私は自在に動くことができる。
――佐賀への到着から、ひたすらに動き続ける。
佐野常民記念館は、市街地からは少し離れている。親戚と会ったり、法事に行ったりという、通常の帰省だと見学時間が取りづらい。
「先に遠方の施設から回ったのは、良い判断だった…」
私は自画自賛を行った。周到に準備した今回の帰省。取材に特化した単独行動に設定した。この場面、自分で褒めねば、誰も褒めてはくれない。

――すぐに体勢を整え、次の目的地に向かう必要がある。
“えきマチ1丁目”を抜ける。佐賀城下での拠点とも思う場所。飲食店のほか、土産物コーナーが充実する。飲食・物産とも素材が良いのが、佐賀の地力だ。
ドラックストアも何かと便利。そして、積文館書店には、佐賀の歴史に関する書籍が揃う。ここで違和感を感じた人もいるだろう…これは1年前の世界の話だ。(※文末に注釈あり)
――15:00頃。近隣の宿への手続きを済ませる。
ひと息を付く暇(いとま)など無い。記念館などの施設は、閉館時間というリミットがある。大半の荷物を降ろし、いくぶん軽装となった。
これで、また動き出せる。いざ、佐賀が誇る明治の傑物・大隈重信の生家へ。
大隈重信記念館を通るバスを見定め、飛び乗ったのである。
(続く)
〔参照記事(冒頭):第4話「諸国遊学」⑥〕
※残念ながら、積文館書店・佐賀駅店は、2020年3月に閉店しています。年明けからのコロナ禍で、最後に立ち寄ることもできずショックでした。
前回の記事で思い至った今年の残り日数。本日を含め、38日。
ひとまず年内完了を目指している企画を進めます。昨秋、コロナ禍の影も無かった時期。当ブログの“聖地”佐賀での、主に御城下を巡る旅路の記録です。
――14:00頃に“早津江”方面から、市街地に向かうバスに乗る。
時間にして、40分ほどかかったか。
出立から4時間足らず、佐賀駅前バスターミナルに戻る。
すでに1日乗車券は入手した。これで終日、佐賀市営バスを味方に引き込んだも同然である。私は自在に動くことができる。
――佐賀への到着から、ひたすらに動き続ける。
佐野常民記念館は、市街地からは少し離れている。親戚と会ったり、法事に行ったりという、通常の帰省だと見学時間が取りづらい。
「先に遠方の施設から回ったのは、良い判断だった…」
私は自画自賛を行った。周到に準備した今回の帰省。取材に特化した単独行動に設定した。この場面、自分で褒めねば、誰も褒めてはくれない。
――すぐに体勢を整え、次の目的地に向かう必要がある。
“えきマチ1丁目”を抜ける。佐賀城下での拠点とも思う場所。飲食店のほか、土産物コーナーが充実する。飲食・物産とも素材が良いのが、佐賀の地力だ。
ドラックストアも何かと便利。そして、積文館書店には、佐賀の歴史に関する書籍が揃う。ここで違和感を感じた人もいるだろう…これは1年前の世界の話だ。(※文末に注釈あり)
――15:00頃。近隣の宿への手続きを済ませる。
ひと息を付く暇(いとま)など無い。記念館などの施設は、閉館時間というリミットがある。大半の荷物を降ろし、いくぶん軽装となった。
これで、また動き出せる。いざ、佐賀が誇る明治の傑物・大隈重信の生家へ。
大隈重信記念館を通るバスを見定め、飛び乗ったのである。
(続く)
〔参照記事(冒頭):
※残念ながら、積文館書店・佐賀駅店は、2020年3月に閉店しています。年明けからのコロナ禍で、最後に立ち寄ることもできずショックでした。
2020年11月22日
「あと40日…」
こんばんは。
新型コロナ感染症に、1年中振り回されている、2020年(令和2年)。
今秋は“我慢の三連休”というパワーワードが飛び交います。私は、かなり感染が拡大している地域におりますので、なるべく自重をしているところです。
どうせ“我慢”するならと、第15話以降も書き始めてはいます。この辺り、創作と史実のバランスが難しく、しばらくは書き溜めていこうかな…という作戦です。
――その間も、様々な角度から考えてみます。
佐賀の隠された実力と、これからの展望を。
私は「幕末佐賀藩の大河ドラマ」が、近い将来に見られると確信します。佐賀藩には、現代の日本が学ぶべき物語が作れる素材が揃っているからです。
県内では志有る方々の、幕末・明治期における佐賀の価値を伝える活動があります。“大河ドラマ”をアピールせずとも、地道な努力が大事らしいのです。

――その一方、私は個人的に活動しています…
佐賀から遠く離れている分、現地での調査や、有志との交流には不利を伴います。最大のメリットは「外からの視点」を持ち続けられることでしょう。
よく話題になる「全国都道府県魅力度ランキング」という調査がありますが、このところ47位が続いていた茨城県が、今回、その最下位を脱出しました。
――茨城県は「ランキング最下位」と“自らを笑う”ような姿勢を改め…
県内の魅力の丁寧な発信に努めたそうです。その成果か、順位は42位まで上昇したと言います。ちなみに佐賀県は、45位(前回46位)です。
来年の大河ドラマ「青天を衝け」の主役は渋沢栄一。その主君である一橋慶喜は“水戸藩”(茨城)の出身です。
きっと茨城県はカッコ良く描かれることでしょう。本来、同作に登場すべき佐賀藩士たちが、しっかりと描かれるかが気になって仕方ありません…
――“大河ドラマ”のテーマ選びには、決定的な方法は無いとも聞きます。
逆に言えば「何が功を奏するか」もわかりません。資源も、才能も、人脈も…不足だらけの私が動く理由はそこにあります。
故郷の魅力の発信には資格も肩書も要りませんが、人により発信の“威力”は異なります。県内の方に任せず、佐賀出身の皆様には頑張ってほしいです。
私が実際に行動を開始したのは、1年半ばかり前。最初に着手したのは、本棚の奥から日本史の教科書を引っ張り出すこと。そんなスタートでした。

――では、今年。残り40日をどう使うか。
昨年は、ほぼ4か月の資料作成、その後、現地(佐賀)での調査…そして、1年ほど前のブログ開始。
この間、“新型コロナ”の影響で、社会の情勢は激変しました。当初の思惑どおりには行かず、計画は大幅な見直しを迫られています。
こんなとき、幕末の佐賀藩士たちならばどう動くか…師走を目前にして、彼らの感じていた“焦り”に想いをはせています。
新型コロナ感染症に、1年中振り回されている、2020年(令和2年)。
今秋は“我慢の三連休”というパワーワードが飛び交います。私は、かなり感染が拡大している地域におりますので、なるべく自重をしているところです。
どうせ“我慢”するならと、第15話以降も書き始めてはいます。この辺り、創作と史実のバランスが難しく、しばらくは書き溜めていこうかな…という作戦です。
――その間も、様々な角度から考えてみます。
佐賀の隠された実力と、これからの展望を。
私は「幕末佐賀藩の大河ドラマ」が、近い将来に見られると確信します。佐賀藩には、現代の日本が学ぶべき物語が作れる素材が揃っているからです。
県内では志有る方々の、幕末・明治期における佐賀の価値を伝える活動があります。“大河ドラマ”をアピールせずとも、地道な努力が大事らしいのです。
――その一方、私は個人的に活動しています…
佐賀から遠く離れている分、現地での調査や、有志との交流には不利を伴います。最大のメリットは「外からの視点」を持ち続けられることでしょう。
よく話題になる「全国都道府県魅力度ランキング」という調査がありますが、このところ47位が続いていた茨城県が、今回、その最下位を脱出しました。
――茨城県は「ランキング最下位」と“自らを笑う”ような姿勢を改め…
県内の魅力の丁寧な発信に努めたそうです。その成果か、順位は42位まで上昇したと言います。ちなみに佐賀県は、45位(前回46位)です。
来年の大河ドラマ「青天を衝け」の主役は渋沢栄一。その主君である一橋慶喜は“水戸藩”(茨城)の出身です。
きっと茨城県はカッコ良く描かれることでしょう。本来、同作に登場すべき佐賀藩士たちが、しっかりと描かれるかが気になって仕方ありません…
――“大河ドラマ”のテーマ選びには、決定的な方法は無いとも聞きます。
逆に言えば「何が功を奏するか」もわかりません。資源も、才能も、人脈も…不足だらけの私が動く理由はそこにあります。
故郷の魅力の発信には資格も肩書も要りませんが、人により発信の“威力”は異なります。県内の方に任せず、佐賀出身の皆様には頑張ってほしいです。
私が実際に行動を開始したのは、1年半ばかり前。最初に着手したのは、本棚の奥から日本史の教科書を引っ張り出すこと。そんなスタートでした。
――では、今年。残り40日をどう使うか。
昨年は、ほぼ4か月の資料作成、その後、現地(佐賀)での調査…そして、1年ほど前のブログ開始。
この間、“新型コロナ”の影響で、社会の情勢は激変しました。当初の思惑どおりには行かず、計画は大幅な見直しを迫られています。
こんなとき、幕末の佐賀藩士たちならばどう動くか…師走を目前にして、彼らの感じていた“焦り”に想いをはせています。
2020年11月20日
「醒覚の剣」(都風)
こんばんは。
概ね1年前。私は限られた時間で駆け回り、郷里・佐賀の取材に猛進しました。ある意味、奇跡的な時間でしたが、そう長くは続きませんでした。
いまや、簡単に佐賀に帰藩できる状況ではありません。
「しまった。あの場所には立ち寄るべきだった!」…と、後悔は、頭を巡ります。
――しかし、私には“切り札”があった。
私より“佐賀藩士”としての純度が高く、地元・佐賀に住む協力者
…平たく言えば、叔父上である。
「私には、小城に関する知識が、ほとんどありません。」
遠き故郷とつながる、電話口。
叔父上は、私のこの“つぶやき”を拾った。
「あ、小城ね。行っても良かよ。」
――そして、あっさりと依頼を聞き入れる。
小城の別名は「佐賀の小京都」とも聞く。
どの辺りが“京都”なのか、それにも興味があった。
「あぁ小城ね。行ってきたとよ。」
しばらく後、電話口の叔父上が語る。
こちらが知らぬ間に、すでに叔父上は小城まで足を運んでいた。

――「法事とかで、わりと忙しかったのでは?」という疑問はさておき…
この場合、ご厚意には甘えておくのが、私の流儀である。
「…して、叔父上。小城はいかがでしたか。」
「屋敷跡の庭園が良かよ。」
手入れが行き届いた庭とは…たしかに“小京都”の趣きだ。
「他には…やはり、小城羊羹(ようかん)ですか。」
「羊羹も買ったばってん、面白かものを見つけたよ。」
――私からの頼みではなく、叔父上の感覚で掴んだ物。
「何か、小城に“新名物”でもあったのですか?」
「珍しかお菓子があったよ。“シベリア”とか言いよっと。」
…“シベリア”。それは、聞き覚えのある名だった。
「そのお菓子。以前、大河ドラマに出てきました!」
大河ドラマ「いだてん」。陸上競技を描いた回に“シベリア”が登場する。女子体育教育の先駆者・二階堂トクヨ(演:寺島しのぶ)が教え子に勧めていた。

――この“シベリア”というお菓子。大正時代には各地に存在したという。
叔父上は無自覚のうちに、私のテーマに合った物を選んでいたのだ。
ふんわりとしたカステラで、ヒンヤリとした食感の羊羹を挟み込む。一説には、この羊羹がシベリアの永久凍土をイメージさせるらしい。
「上品な甘さやけん。食べやすかよ。」
こうして、叔父上も絶賛する“シベリア”が、私の手元にも届いた。
――そして昭和初期。子供が食べたいお菓子№1の座だったとも聞く。
私も丁寧に“シベリア”を開封し、一切れを口元に運ぶ。
「…これは、何と優雅な味わいか!」
軽やかに溶けゆくカステラの風味と、溶け残る小城羊羹の余韻。
この儚(はかな)さと、それでいて強い本物の存在感。
私に小城の実力の一端が示される。佐賀の“小京都”と呼ばれるには、それだけ秘めた力があるのだろう。

――幕末期。小城にも京都と同じ“風”が吹いた。
日本中で湧き立つ“尊王攘夷”の思想。今は羊羹の聖地・小城にも広がった。
その地には佐賀藩の支藩の1つ、小城藩があった。幕末期、小城支藩の動きは、いろいろと不可解なのだ。
ある夜、忽然と姿を消して京都に現れた、小城の庄屋の話。
そして佐賀七賢人の1人・江藤新平も、この地と深く関わる。
「何とか小城を、本編に織り込まねば…」
名残り惜しく“シベリア”と別れのひとかけらを口にした私。決意を新たにした。
概ね1年前。私は限られた時間で駆け回り、郷里・佐賀の取材に猛進しました。ある意味、奇跡的な時間でしたが、そう長くは続きませんでした。
いまや、簡単に佐賀に帰藩できる状況ではありません。
「しまった。あの場所には立ち寄るべきだった!」…と、後悔は、頭を巡ります。
――しかし、私には“切り札”があった。
私より“佐賀藩士”としての純度が高く、地元・佐賀に住む協力者
…平たく言えば、叔父上である。
「私には、小城に関する知識が、ほとんどありません。」
遠き故郷とつながる、電話口。
叔父上は、私のこの“つぶやき”を拾った。
「あ、小城ね。行っても良かよ。」
――そして、あっさりと依頼を聞き入れる。
小城の別名は「佐賀の小京都」とも聞く。
どの辺りが“京都”なのか、それにも興味があった。
「あぁ小城ね。行ってきたとよ。」
しばらく後、電話口の叔父上が語る。
こちらが知らぬ間に、すでに叔父上は小城まで足を運んでいた。
――「法事とかで、わりと忙しかったのでは?」という疑問はさておき…
この場合、ご厚意には甘えておくのが、私の流儀である。
「…して、叔父上。小城はいかがでしたか。」
「屋敷跡の庭園が良かよ。」
手入れが行き届いた庭とは…たしかに“小京都”の趣きだ。
「他には…やはり、小城羊羹(ようかん)ですか。」
「羊羹も買ったばってん、面白かものを見つけたよ。」
――私からの頼みではなく、叔父上の感覚で掴んだ物。
「何か、小城に“新名物”でもあったのですか?」
「珍しかお菓子があったよ。“シベリア”とか言いよっと。」
…“シベリア”。それは、聞き覚えのある名だった。
「そのお菓子。以前、大河ドラマに出てきました!」
大河ドラマ「いだてん」。陸上競技を描いた回に“シベリア”が登場する。女子体育教育の先駆者・二階堂トクヨ(演:寺島しのぶ)が教え子に勧めていた。
――この“シベリア”というお菓子。大正時代には各地に存在したという。
叔父上は無自覚のうちに、私のテーマに合った物を選んでいたのだ。
ふんわりとしたカステラで、ヒンヤリとした食感の羊羹を挟み込む。一説には、この羊羹がシベリアの永久凍土をイメージさせるらしい。
「上品な甘さやけん。食べやすかよ。」
こうして、叔父上も絶賛する“シベリア”が、私の手元にも届いた。
――そして昭和初期。子供が食べたいお菓子№1の座だったとも聞く。
私も丁寧に“シベリア”を開封し、一切れを口元に運ぶ。
「…これは、何と優雅な味わいか!」
軽やかに溶けゆくカステラの風味と、溶け残る小城羊羹の余韻。
この儚(はかな)さと、それでいて強い本物の存在感。
私に小城の実力の一端が示される。佐賀の“小京都”と呼ばれるには、それだけ秘めた力があるのだろう。
――幕末期。小城にも京都と同じ“風”が吹いた。
日本中で湧き立つ“尊王攘夷”の思想。今は羊羹の聖地・小城にも広がった。
その地には佐賀藩の支藩の1つ、小城藩があった。幕末期、小城支藩の動きは、いろいろと不可解なのだ。
ある夜、忽然と姿を消して京都に現れた、小城の庄屋の話。
そして佐賀七賢人の1人・江藤新平も、この地と深く関わる。
「何とか小城を、本編に織り込まねば…」
名残り惜しく“シベリア”と別れのひとかけらを口にした私。決意を新たにした。
2020年11月18日
「開港の夜」
こんばんは。
まだ新型コロナという言葉も聞かなかった昨秋。
旅の記録を“連続ブログ小説”として綴りました。
第1シリーズ「佐賀への旅立ち~佐野常民記念館」編が完了したところです。
第2シリーズは「大隈重信記念館~長崎街道の夜」編
第3シリーズは「朝の長崎街道~さが維新まつり」編
…と、続編の予定があります。
――さて、肝心の「大河ドラマのイメージ」の現在地は…
“本編”の年代ですが、1858年の“日米修好通商条約”締結の前後のお話を進めています。第14話「遣米使節」は1855年~1860年のお話でした。
同じ時期を「行ったり来たり」しますが、“激動の時代”を様々な角度から描く試みです。佐賀藩が“三重津海軍所”を本格的に整備し始めたのもこの時期です。
通商条約は、大老・井伊直弼が「調印を強行した」と語られます。“開国”止む無しの状況で、井伊も朝廷との調整に苦心していた…との見解もあります。
――こうして、一気に西洋文明の波が日本に押し寄せますが…
アメリカを含む5か国との通商条約の締結。神奈川・長崎・箱(函)館・新潟・兵庫の5箇所の開港予定での交渉が行われます。
それまで、日本の世界への“窓口”は、長崎の独占状態でした。もちろん国際都市・長崎も開港しますが、強力なライバルが出現したとも言えます。
――当初の開港は、長崎・横浜・箱館の3箇所。
宿場町・神奈川を避け、開港地に選ばれた横浜。江戸にも近く、スタートダッシュです。条約締結の翌年1859年の開港で、早々に英語が飛び交います。
〔参考記事:「横浜村-1854年-(第11話プロローグ)」〕
第14話「遣米使節」に登場した佐賀藩士にも、小出千之助らオランダ語の達人が多数いましたが、アメリカに渡航したことで、英語の活用に舵を切ります。

――横浜に比べて、スロースターターだった港も…
幕末からおよそ700年もの昔。平清盛の時代からの港町・兵庫。京の都に近く、朝廷の意向が強く作用します。簡単には開港できません。
兵庫開港は1868年。10年ほどが経過し、すでに明治維新の直前期。旧来の兵庫港の隣地に港が開け、外国人居留地が広がり、名も神戸港と改めます。
いまや横浜・神戸の双方とも、国際貿易港として知られます。
――こんな背景を考えながら「第1部・幕末黎明編」をどこまで続けるか…
今のところ、第15話は「江戸動乱」、第16話を「攘夷沸騰」というタイトルで考えています。続く第17話で、“第1部”はひとまず完結させたい…と計画中です。
“本編”の再開まで、色々と投稿をしながら練っていきたいと思います。現時点の仮スケジュールでは、第1部を書き終えるのは、3月近くになりそうです。
あちこちに話が飛びますが、引き続きご覧いただければ幸いです。
まだ新型コロナという言葉も聞かなかった昨秋。
旅の記録を“連続ブログ小説”として綴りました。
第1シリーズ「佐賀への旅立ち~佐野常民記念館」編が完了したところです。
第2シリーズは「大隈重信記念館~長崎街道の夜」編
第3シリーズは「朝の長崎街道~さが維新まつり」編
…と、続編の予定があります。
――さて、肝心の「大河ドラマのイメージ」の現在地は…
“本編”の年代ですが、1858年の“日米修好通商条約”締結の前後のお話を進めています。第14話「遣米使節」は1855年~1860年のお話でした。
同じ時期を「行ったり来たり」しますが、“激動の時代”を様々な角度から描く試みです。佐賀藩が“三重津海軍所”を本格的に整備し始めたのもこの時期です。
通商条約は、大老・井伊直弼が「調印を強行した」と語られます。“開国”止む無しの状況で、井伊も朝廷との調整に苦心していた…との見解もあります。
――こうして、一気に西洋文明の波が日本に押し寄せますが…
アメリカを含む5か国との通商条約の締結。神奈川・長崎・箱(函)館・新潟・兵庫の5箇所の開港予定での交渉が行われます。
それまで、日本の世界への“窓口”は、長崎の独占状態でした。もちろん国際都市・長崎も開港しますが、強力なライバルが出現したとも言えます。
――当初の開港は、長崎・横浜・箱館の3箇所。
宿場町・神奈川を避け、開港地に選ばれた横浜。江戸にも近く、スタートダッシュです。条約締結の翌年1859年の開港で、早々に英語が飛び交います。
〔参考記事:
第14話「遣米使節」に登場した佐賀藩士にも、小出千之助らオランダ語の達人が多数いましたが、アメリカに渡航したことで、英語の活用に舵を切ります。
――横浜に比べて、スロースターターだった港も…
幕末からおよそ700年もの昔。平清盛の時代からの港町・兵庫。京の都に近く、朝廷の意向が強く作用します。簡単には開港できません。
兵庫開港は1868年。10年ほどが経過し、すでに明治維新の直前期。旧来の兵庫港の隣地に港が開け、外国人居留地が広がり、名も神戸港と改めます。
いまや横浜・神戸の双方とも、国際貿易港として知られます。
――こんな背景を考えながら「第1部・幕末黎明編」をどこまで続けるか…
今のところ、第15話は「江戸動乱」、第16話を「攘夷沸騰」というタイトルで考えています。続く第17話で、“第1部”はひとまず完結させたい…と計画中です。
“本編”の再開まで、色々と投稿をしながら練っていきたいと思います。現時点の仮スケジュールでは、第1部を書き終えるのは、3月近くになりそうです。
あちこちに話が飛びますが、引き続きご覧いただければ幸いです。
2020年11月16日
連続ブログ小説「旅立の剣」(10)雲を掴むことさえも
こんばんは。
連続ブログ小説の第1シリーズ「佐野常民記念館 編」のラストです。
…気楽な昨秋の旅日記のはずが、思いのほか長編になっています。ひとまず、区切りを入れようかと思案しています。
――「何故、幕末佐賀藩が“大河ドラマ”にならないか?」
これは聞かれて困る質問かもしれない。施設スタッフの皆様は、NHKの関係者ではないだろう。
しかし、この話はわりと盛り上がるのである。
「いろいろ試みはありますが、なかなか難しいようですよ。」
最近の大きい“試み”は、2018年の“さが幕末維新博”だろう。一方、草の根での地道な活動もある様子。以前から“志”ある方々は走り続けているのだ。
――「雲を掴む」ような話。私に“何ができるか”はわからない。
ここで、やや使い古された感のある言い回しが頭をよぎる。
「大事なのは、できるかどうかではない。やるかやらないか」なのだ。
まず全国的な知名度の問題がある。実際の活躍に比べ、佐賀藩士たちの足跡が、テレビの歴史番組で語られることはほとんど無い。
その問題を乗り越えるカギは、やはりあの方だろう。次に“どこを目指すか”は、明確になった。
通貨単位“円”を定め、早稲田大学を創設、2度の総理大臣…大隈重信侯だ。

――バスの到着まで、あと20分ばかり。まだ館内での時間はある。
スタッフの方々に御礼を述べる。そして、私の決意も語った。
「期待をするだけでは駄目ですね。私自身でも動いてみます。」
2時間ばかり佐野常民記念館(三重津海軍所跡)に滞在していたが、まだ見学していないフロアがある。
「まだ…バスまでの時間があるので、3階を見学してきます!」
私は可笑しな訪問者だったと思うが、話の始終、スタッフの方々は笑顔だった。
――慌ただしい滞在…、だが机上の資料とは違う充実感がある。
残り時間は貴重だ。3階への階段を駆け上がる。全力をもって展示物の見聞を行った。たとえ“速習”でも、佐賀藩の躍動を体感しておく必要がある。
タイムリミットが来た。佐野常民記念館の1階に降りる。
そこでスタッフの方の1人と、玄関でお会いした。
先ほどの私との会話をふまえて、最後に一声をかけてくれた。
「“大河ドラマ”の実現には10年かかる…と聞くこともありますね。」
――私は、その言葉を「道のりは険しいが、実現はできる」と受け取った。
「ありがとうございます。私なりに進んでみますよ。」
日々思うに任せぬ事が多い。しかし私は“自由”な立場で行動することもできる。
晴れやかな気持ちで、市街地に戻るバス停に向かう。いわば“聖地”である佐賀で、取材を行うことの意味を噛みしめる。だが、この旅は、まだこれからだった。
(“第2シリーズ”に続く)
連続ブログ小説の第1シリーズ「佐野常民記念館 編」のラストです。
…気楽な昨秋の旅日記のはずが、思いのほか長編になっています。ひとまず、区切りを入れようかと思案しています。
――「何故、幕末佐賀藩が“大河ドラマ”にならないか?」
これは聞かれて困る質問かもしれない。施設スタッフの皆様は、NHKの関係者ではないだろう。
しかし、この話はわりと盛り上がるのである。
「いろいろ試みはありますが、なかなか難しいようですよ。」
最近の大きい“試み”は、2018年の“さが幕末維新博”だろう。一方、草の根での地道な活動もある様子。以前から“志”ある方々は走り続けているのだ。
――「雲を掴む」ような話。私に“何ができるか”はわからない。
ここで、やや使い古された感のある言い回しが頭をよぎる。
「大事なのは、できるかどうかではない。やるかやらないか」なのだ。
まず全国的な知名度の問題がある。実際の活躍に比べ、佐賀藩士たちの足跡が、テレビの歴史番組で語られることはほとんど無い。
その問題を乗り越えるカギは、やはりあの方だろう。次に“どこを目指すか”は、明確になった。
通貨単位“円”を定め、早稲田大学を創設、2度の総理大臣…大隈重信侯だ。
――バスの到着まで、あと20分ばかり。まだ館内での時間はある。
スタッフの方々に御礼を述べる。そして、私の決意も語った。
「期待をするだけでは駄目ですね。私自身でも動いてみます。」
2時間ばかり佐野常民記念館(三重津海軍所跡)に滞在していたが、まだ見学していないフロアがある。
「まだ…バスまでの時間があるので、3階を見学してきます!」
私は可笑しな訪問者だったと思うが、話の始終、スタッフの方々は笑顔だった。
――慌ただしい滞在…、だが机上の資料とは違う充実感がある。
残り時間は貴重だ。3階への階段を駆け上がる。全力をもって展示物の見聞を行った。たとえ“速習”でも、佐賀藩の躍動を体感しておく必要がある。
タイムリミットが来た。佐野常民記念館の1階に降りる。
そこでスタッフの方の1人と、玄関でお会いした。
先ほどの私との会話をふまえて、最後に一声をかけてくれた。
「“大河ドラマ”の実現には10年かかる…と聞くこともありますね。」
――私は、その言葉を「道のりは険しいが、実現はできる」と受け取った。
「ありがとうございます。私なりに進んでみますよ。」
日々思うに任せぬ事が多い。しかし私は“自由”な立場で行動することもできる。
晴れやかな気持ちで、市街地に戻るバス停に向かう。いわば“聖地”である佐賀で、取材を行うことの意味を噛みしめる。だが、この旅は、まだこれからだった。
(“第2シリーズ”に続く)
2020年11月15日
連続ブログ小説「旅立の剣」(9)想いを語るとき
おはようございます。
当ブログの主題・佐賀、物語を動かす舞台・長崎には、なかなか足を運ぶことが叶わず、それでも、今できる方法で“取材活動”を続けています。
…なお、昨日は“取材”に出ていたため、今日は朝に更新しております。
――昨秋。佐野常民記念館。時刻は13:00。
幸運にも雨が上がって、屋外での“三重津海軍所跡”の見学を終えた私。続いて、館内2Fの佐野常民記念館・展示室に立ち寄る。
最初、雨に濡れて入館した私を、施設スタッフの方が気遣ったのか、見学ルートは通常の順路と異なっていたようだ。
「ナマコのような男…」
明治期、ある人物が佐野常民を評した言葉だ。
――この言葉、最初は佐野先生への悪口かと思った。
しかし、真意はこうだった。
「叩いても、捻っても、ナマコは変じることは無い。」
「…佐野常民は頑固者だ。その信念を曲げることはできない。」
概ね、このような解釈らしい。
佐賀では、七賢人(八賢人)の1人として知られる佐野常民。
「調べるほどに応援したくなる人物。」と評する研究者の方もいる。

――日本赤十字社の創設をはじめ、様々な仕事を成し遂げた佐野常民。
一風変わった佐野の行動。最初のうちは苦笑することがあっても、だんだんと「負けるな!常民!」という気分になるらしい。
…まったく同感なので、私も“本編”で表現していきたい。
佐野常民(栄寿)の業績は、赤十字社だけではない。
蒸気機関の開発、近代海軍の創設、万国博への出展、洋式燈台の設置、内国博で京都の復興、日本美術の保護…
佐野先生は、とにかく頑張った人なのだ。
――2Fの佐野常民記念館・展示室、出入り口に戻る。
偶然、スタッフの方々が集まっていたので、私は挨拶をする。
「ありがとうございました。大変、勉強になりました。」
スタッフの皆様も「それは、良かった!」という反応。
ここで、私は心に留めていた言葉を続けた。
「これだけ業績があるのに、なぜ佐賀は“大河ドラマ”にならないんでしょうか。」
(続く)
〔関連記事:「佐賀の功績を語れ!」(独自色②)〕
※投稿の時期は昨年の年末(大晦日)。幕末の雄藩「薩長土肥」のそれぞれの業績をなるべくシンプルに表して、その比較で“肥前”佐賀藩の功績をどう描くか…を考えたときの投稿です。
当ブログの主題・佐賀、物語を動かす舞台・長崎には、なかなか足を運ぶことが叶わず、それでも、今できる方法で“取材活動”を続けています。
…なお、昨日は“取材”に出ていたため、今日は朝に更新しております。
――昨秋。佐野常民記念館。時刻は13:00。
幸運にも雨が上がって、屋外での“三重津海軍所跡”の見学を終えた私。続いて、館内2Fの佐野常民記念館・展示室に立ち寄る。
最初、雨に濡れて入館した私を、施設スタッフの方が気遣ったのか、見学ルートは通常の順路と異なっていたようだ。
「ナマコのような男…」
明治期、ある人物が佐野常民を評した言葉だ。
――この言葉、最初は佐野先生への悪口かと思った。
しかし、真意はこうだった。
「叩いても、捻っても、ナマコは変じることは無い。」
「…佐野常民は頑固者だ。その信念を曲げることはできない。」
概ね、このような解釈らしい。
佐賀では、七賢人(八賢人)の1人として知られる佐野常民。
「調べるほどに応援したくなる人物。」と評する研究者の方もいる。
――日本赤十字社の創設をはじめ、様々な仕事を成し遂げた佐野常民。
一風変わった佐野の行動。最初のうちは苦笑することがあっても、だんだんと「負けるな!常民!」という気分になるらしい。
…まったく同感なので、私も“本編”で表現していきたい。
佐野常民(栄寿)の業績は、赤十字社だけではない。
蒸気機関の開発、近代海軍の創設、万国博への出展、洋式燈台の設置、内国博で京都の復興、日本美術の保護…
佐野先生は、とにかく頑張った人なのだ。
――2Fの佐野常民記念館・展示室、出入り口に戻る。
偶然、スタッフの方々が集まっていたので、私は挨拶をする。
「ありがとうございました。大変、勉強になりました。」
スタッフの皆様も「それは、良かった!」という反応。
ここで、私は心に留めていた言葉を続けた。
「これだけ業績があるのに、なぜ佐賀は“大河ドラマ”にならないんでしょうか。」
(続く)
〔関連記事:
※投稿の時期は昨年の年末(大晦日)。幕末の雄藩「薩長土肥」のそれぞれの業績をなるべくシンプルに表して、その比較で“肥前”佐賀藩の功績をどう描くか…を考えたときの投稿です。