2023年09月26日
「“別藩”~BEPPAN~第3話」
こんばんは。
先日、最終回の放送がありました、TBS系ドラマ『VIVANT』が着想元だった、このシリーズ。
佐賀藩とは、同じ肥前国(佐賀・長崎)にあるけれども、“別の藩”(大村藩)の活躍を深掘りしていきます。
ここを特集する時に思い付いた言葉が“別藩”だった…という理由だけで、このタイトルで綴っています。
今回は、幕末から明治へと、時代が転換する場面に関わっては、その現場を目撃してきた人物について書きます。

――その人物は、肥前国・大村藩の上級武士の家系の出身…
前回に特集したのは、渡辺昇という剣士として知られた人物。“鞍馬天狗”のモデルという説も有力だそうです。
〔参照:「“別藩”~BEPPAN~第2話」〕
その兄・渡辺清もまた幕末の重要人物でした。大村藩を倒幕派にまとめた、リーダー的な存在とも聞きます。
弟・渡辺昇は「激しい稽古で鍛え上げた剣士」として恐れられた存在でしたが、兄・渡辺清は、「冷静でスマートな司令(指揮官)タイプ」という印象。
ちなみに、この兄弟について見た目はあまり似ていない…という話もみかけました。これは、異母兄弟であることも影響しているのかもしれません。
ただ、大村出身の「冷静と情熱の渡辺兄弟(?)」が、幕末の重大事に関わったのは、確かだと思われます。

――“別藩”事件ファイル③「少数でも精鋭揃い」
明治維新への過程で、最も重要な転換点の1つが、1868年(慶応四年)1月に戊辰戦争の発端となった戦い。
この「鳥羽・伏見の戦い」で、大村藩は影ながら活躍しているのですが、その存在は、あまり大きくは語られていません。
今回は、いま“本編”で書いている年代から5~6年後の話です。幕府は「大政奉還」で、すでに政権を返上した時期なので、「旧幕府」という表現をします。
以前は、新式装備の薩摩・長州を中心とする“官軍”が、人数が多いだけの旧幕府軍(徳川政権)を圧倒した…と私も思っていました。
ところが、そんな単純な話ではなかったようで、旧幕府側が幾つかの失策を重ねて、「勝てる戦いを落とした」という指摘もよく見かけます。
――そんな折、“舞台裏”で奮戦したのが、大村藩。
鳥羽・伏見というのは、京都の中心市街地の南方に位置する場所です。旧幕府軍の拠点は、そこから西の方角に位置する大坂城(大阪)。
そして、両軍がその京都の南で戦っているところを目指して、旧幕府側に味方する軍勢が東から進めば、挟み撃ちが可能になります。

どうやら、大村藩がどこで頑張っていたかというと、その東側の備えで、大津(滋賀県)あたりの守備だったようです。
――“倒幕”に燃える、大村藩士たちの動きは速かった。
渡辺清が率いる手勢は、わずか50人程度だったと言われます。
しかし、ここが大村藩を、精鋭ぞろいの“別藩”と呼んでしまう理由でもあるのですが、少数が大軍に見えるほど、迅速に大津を抑えたようです。
大村の精鋭部隊の“電光石火”の作戦行動に、旧幕府側に付こうとした諸藩にも「相当な数の軍勢が隠れているのでは…」という疑念が生じた様子。
結局、滋賀県以東から、旧幕府側の軍勢が攻めかかってくることは無かったといいます。
こうして薩摩・長州などの“官軍”は、別働隊の渡辺ら大村藩士の活躍により、東と西からの挟み撃ちを免れ、勝利したという考え方もできそうです。

――その「鳥羽・伏見の戦い」での勝利を受けて、東に進む“官軍”。
江戸幕府・最後の将軍だった徳川慶喜は、この戦いの最中に大坂城から脱出して以降、徹底的に戦う意思を見せず「恭順」の姿勢を貫きます。
慶応四年も数か月が進んで初夏も近づき、「江戸開城」の談判がありました。
有名な官軍の西郷隆盛と旧幕府の勝海舟との会見にも、先ほど活躍した大村藩士・渡辺清は立ち会っています。
無血で明け渡される江戸城。官軍による接収となりますが、もちろん、渡辺はここにも同行しました。

――この時期に渡辺は、ある人物の姿を見かけます。
“官軍”の大半が資金と武器にしか興味を示さぬ中、熱心に書類を集め回り、幕府の役人に、次々と質問をする人物がいました。
それが、佐賀から来た異才の人・江藤新平でした。佐賀藩の官軍への参加は遅かったものの、江藤には「関東の調査」という任務が与えられています。
江藤は、幕府(徳川政権)から明治新政府への切り替えのため、立法・行政・司法に関わる資料…そして、それを扱う旧幕府の人材も確保しました。
また、“百万都市”だったと知られる、江戸の都市運営を担ってきた、町奉行所に踏み込みます。

――ここでは、租税や裁判の書類を集めていた江藤。
その江藤の行動を見ていたのが大村藩士・渡辺清。ここでは、官軍の参謀格でもありました。
「町奉行所の役割に気付いて、調べに行ったのは江藤ぐらいだった…」と述懐したそうです。
時代劇で、江戸の町奉行所は、裁判のイメージが強いのですが、警察・消防・民政・租税…とにかく、仕事は多かったようです。
のちに渡辺は、この江藤の動きが、新政府での様々な決まり事を布告(周知)するときに重要な意味があったとしています。
――時代の転換点の“目撃者”となった、渡辺清。
明治期に渡辺清は、福岡県令などの役職を歴任します。江藤の行動を見て、その価値を理解した話から、渡辺の実務能力の高さは推測していました。
その後、「福岡県政の基礎をつくったのは、大村の渡辺清だった」という評論を見かけて、「やっぱり」と納得したところがあります。
3回シリーズの予定でしたが、エピローグとして書きたい話があるので、次回には“別藩”の最終話を書こうと思います。
注)渡辺清の名字は、「渡邉」が正式表記の可能性もあるのですが、本編で登場する時には一般的によく使われる「渡辺」で書こうかと考えています。
先日、最終回の放送がありました、TBS系ドラマ『VIVANT』が着想元だった、このシリーズ。
佐賀藩とは、同じ肥前国(佐賀・長崎)にあるけれども、“別の藩”(大村藩)の活躍を深掘りしていきます。
ここを特集する時に思い付いた言葉が“別藩”だった…という理由だけで、このタイトルで綴っています。
今回は、幕末から明治へと、時代が転換する場面に関わっては、その現場を目撃してきた人物について書きます。
――その人物は、肥前国・大村藩の上級武士の家系の出身…
前回に特集したのは、渡辺昇という剣士として知られた人物。“鞍馬天狗”のモデルという説も有力だそうです。
〔参照:
その兄・渡辺清もまた幕末の重要人物でした。大村藩を倒幕派にまとめた、リーダー的な存在とも聞きます。
弟・渡辺昇は「激しい稽古で鍛え上げた剣士」として恐れられた存在でしたが、兄・渡辺清は、「冷静でスマートな司令(指揮官)タイプ」という印象。
ちなみに、この兄弟について見た目はあまり似ていない…という話もみかけました。これは、異母兄弟であることも影響しているのかもしれません。
ただ、大村出身の「冷静と情熱の渡辺兄弟(?)」が、幕末の重大事に関わったのは、確かだと思われます。

――“別藩”事件ファイル③「少数でも精鋭揃い」
明治維新への過程で、最も重要な転換点の1つが、1868年(慶応四年)1月に戊辰戦争の発端となった戦い。
この「鳥羽・伏見の戦い」で、大村藩は影ながら活躍しているのですが、その存在は、あまり大きくは語られていません。
今回は、いま“本編”で書いている年代から5~6年後の話です。幕府は「大政奉還」で、すでに政権を返上した時期なので、「旧幕府」という表現をします。
以前は、新式装備の薩摩・長州を中心とする“官軍”が、人数が多いだけの旧幕府軍(徳川政権)を圧倒した…と私も思っていました。
ところが、そんな単純な話ではなかったようで、旧幕府側が幾つかの失策を重ねて、「勝てる戦いを落とした」という指摘もよく見かけます。
――そんな折、“舞台裏”で奮戦したのが、大村藩。
鳥羽・伏見というのは、京都の中心市街地の南方に位置する場所です。旧幕府軍の拠点は、そこから西の方角に位置する大坂城(大阪)。
そして、両軍がその京都の南で戦っているところを目指して、旧幕府側に味方する軍勢が東から進めば、挟み撃ちが可能になります。
どうやら、大村藩がどこで頑張っていたかというと、その東側の備えで、大津(滋賀県)あたりの守備だったようです。
――“倒幕”に燃える、大村藩士たちの動きは速かった。
渡辺清が率いる手勢は、わずか50人程度だったと言われます。
しかし、ここが大村藩を、精鋭ぞろいの“別藩”と呼んでしまう理由でもあるのですが、少数が大軍に見えるほど、迅速に大津を抑えたようです。
大村の精鋭部隊の“電光石火”の作戦行動に、旧幕府側に付こうとした諸藩にも「相当な数の軍勢が隠れているのでは…」という疑念が生じた様子。
結局、滋賀県以東から、旧幕府側の軍勢が攻めかかってくることは無かったといいます。
こうして薩摩・長州などの“官軍”は、別働隊の渡辺ら大村藩士の活躍により、東と西からの挟み撃ちを免れ、勝利したという考え方もできそうです。
――その「鳥羽・伏見の戦い」での勝利を受けて、東に進む“官軍”。
江戸幕府・最後の将軍だった徳川慶喜は、この戦いの最中に大坂城から脱出して以降、徹底的に戦う意思を見せず「恭順」の姿勢を貫きます。
慶応四年も数か月が進んで初夏も近づき、「江戸開城」の談判がありました。
有名な官軍の西郷隆盛と旧幕府の勝海舟との会見にも、先ほど活躍した大村藩士・渡辺清は立ち会っています。
無血で明け渡される江戸城。官軍による接収となりますが、もちろん、渡辺はここにも同行しました。
――この時期に渡辺は、ある人物の姿を見かけます。
“官軍”の大半が資金と武器にしか興味を示さぬ中、熱心に書類を集め回り、幕府の役人に、次々と質問をする人物がいました。
それが、佐賀から来た異才の人・江藤新平でした。佐賀藩の官軍への参加は遅かったものの、江藤には「関東の調査」という任務が与えられています。
江藤は、幕府(徳川政権)から明治新政府への切り替えのため、立法・行政・司法に関わる資料…そして、それを扱う旧幕府の人材も確保しました。
また、“百万都市”だったと知られる、江戸の都市運営を担ってきた、町奉行所に踏み込みます。
――ここでは、租税や裁判の書類を集めていた江藤。
その江藤の行動を見ていたのが大村藩士・渡辺清。ここでは、官軍の参謀格でもありました。
「町奉行所の役割に気付いて、調べに行ったのは江藤ぐらいだった…」と述懐したそうです。
時代劇で、江戸の町奉行所は、裁判のイメージが強いのですが、警察・消防・民政・租税…とにかく、仕事は多かったようです。
のちに渡辺は、この江藤の動きが、新政府での様々な決まり事を布告(周知)するときに重要な意味があったとしています。
――時代の転換点の“目撃者”となった、渡辺清。
明治期に渡辺清は、福岡県令などの役職を歴任します。江藤の行動を見て、その価値を理解した話から、渡辺の実務能力の高さは推測していました。
その後、「福岡県政の基礎をつくったのは、大村の渡辺清だった」という評論を見かけて、「やっぱり」と納得したところがあります。
3回シリーズの予定でしたが、エピローグとして書きたい話があるので、次回には“別藩”の最終話を書こうと思います。
注)渡辺清の名字は、「渡邉」が正式表記の可能性もあるのですが、本編で登場する時には一般的によく使われる「渡辺」で書こうかと考えています。
2023年09月18日
「“別藩”~BEPPAN~第2話」
こんばんは。
NHK大河ドラマの直後の時間帯に放送されていたTBS系ドラマ『VIVANT』。途中から気になり始めて展開を追い、最終回はしっかり視聴することに。
大河ドラマを視聴する時にもよく考えるのですが、やはりプロとして、“物語”を作っていく人たちの力量は凄いな…という感想を持ちました。
――ふだん私が当ブログで語っているのは、幕末の佐賀藩。
近代化のトップランナーだった佐賀ですが、立ち位置が中立的で幕府側からも倒幕派からも、「最後までどっちに付くかわからない」と見られたそうです。
当時、佐賀藩の存在が「どう見えていたか」を描きたいこともあって“別の藩”の視点も取り入れる試みも考えています。
今シリーズの第2話は、「敵か味方か、味方か敵か…」混沌とする幕末動乱の時代。今回は、非情な任務を遂行していった、ある大村藩士の話をします。

――前回のお話(事件①)から、50年ほどが経過して、
日本は“開国”の時代へと移っています。かつて佐賀藩にはフェートン号事件で「良いところなし」の失策をした苦い経験があります。
〔参照:「“別藩”~BEPPAN~第1話」〕
佐賀藩が独力でも西洋列強に追いつこうと、技術や産業の開発に明け暮れている頃には、幕末の政局が大きく動き始めていました。
ここで、上方(京・大坂)で影のように動いた、肥前国の剣士がいました。それは、佐賀の人ではなく、現在の長崎県にある大村の藩士でした。

――“別藩”事件ファイル②「非情に任務をこなす」
時は幕末、先年の“開国”の影響が各地に出始めた頃から、主に京都周辺で、幕府(徳川政権)に関係する者が襲撃される事件が相次ぎました。
「天に代わって誅伐する」略して“天誅”と一般的に呼ばれ、幕府を倒そうとする志士たちのスローガンのような言葉ともに実行されます。
この時代に恐れられていた剣客に、大村藩の人物がいました。
渡辺昇(わたなべ のぼり)という名で、江戸の三大剣術道場の1つ・練兵館で、長州藩の桂小五郎の後に“塾頭”を引き継いだといい、剣の腕は確かです。
――その剣客は、“指令”により任務を行う。
この辺りの事情は深くは知らないのですが、なぜか大村藩士である渡辺昇は、長州藩士からの指示で剣を振るったと聞きます。
勤王をとなえる勢力が藩をまとめ上げ、明確に“倒幕派”となっていた大村藩の志士は、旗頭とも言える雄藩・長州の可能性に賭けたのかもしれません。
幕吏に捕縛されれば終わりなので、目立つ動きは命取りとなるためか、反撃しがたいタイミングを狙って、確実に“標的”を仕留める方法を選択したようです。

――幕末の京都は、動乱の中心地でもありました。
現在、“本編”で書いている時期は、佐賀の前藩主・鍋島直正が体調不良に苦しみながらも、京都へ上洛した文久二年の晩秋~冬の頃。
〔参照:第19話「閑叟上洛」⑲(“門司”からの船出まで)〕
西洋の技術・経済力に追いつくのが最優先で、政治の主導権争いとは距離をおいていた佐賀藩ですが、京都の情勢は無視できない状況となっていました。
同じ頃、文久三年(1863年)の年明けには、のち「新選組」として名を轟かせ、倒幕の志士たちに恐れられる、近藤勇らを含む一団が京都に入っています。
――新選組・近藤勇と、大村藩士・渡辺昇は旧知の間柄だったようで…
江戸で近藤勇が道場を開いていた時に、渡辺昇が試合の助っ人に来た…とかいう話も聞きます。剣術仲間と言ってもよい関係だったのかもしれません。
しかし渡辺昇にとって、倒幕の志士を取り締まる新選組は敵対勢力ですから、容赦なく剣を振るったようです。

――“味方”が、敵になった時…
近藤勇が取った行動は、どうやら「旧知の友を説得しにいく…」という、鉄の掟で知られた新選組の局長らしくない選択だったそう。
このあたり、往年の名作時代劇『鞍馬天狗』を彷彿とさせる展開です。渡辺昇が“鞍馬天狗”の設定上のモデル…という説にもうなづけます。
〔参照:「鞍馬天狗は、長崎の人?」〔新大村駅〕〕
渡辺昇の居所を訪ねた近藤でしたが、一足違いで渡辺は長崎に発ったところ。もし、敵同士となった2人が会っていたら、どうなったのか…。
――「敵になった2人の男には、同じ剣士としての絆があった…」
私は、幕末~明治期の佐賀藩について話を書いているので、佐賀県を目当てに調べ物をしますが、よく福岡県や長崎県の人物にも行き当たります。
佐賀藩は鍋島直正公が名君すぎて、藩内をしっかり統制しており、勤王派の志士たちも九州の外では活動しづらかったところがありそうです。
この辺り、私が本編の第2部に入ってから書きづらい一因でもあるのですが、幕末動乱の背景は「九州北部」で表現していこうかな…と考えています。
注)渡辺昇の名字は、渡邉や渡邊と表記されることも多いようですが、本編で登場する時には一般的によく使われる「渡辺」の表記で書こうかと考えています。
NHK大河ドラマの直後の時間帯に放送されていたTBS系ドラマ『VIVANT』。途中から気になり始めて展開を追い、最終回はしっかり視聴することに。
大河ドラマを視聴する時にもよく考えるのですが、やはりプロとして、“物語”を作っていく人たちの力量は凄いな…という感想を持ちました。
――ふだん私が当ブログで語っているのは、幕末の佐賀藩。
近代化のトップランナーだった佐賀ですが、立ち位置が中立的で幕府側からも倒幕派からも、「最後までどっちに付くかわからない」と見られたそうです。
当時、佐賀藩の存在が「どう見えていたか」を描きたいこともあって“別の藩”の視点も取り入れる試みも考えています。
今シリーズの第2話は、「敵か味方か、味方か敵か…」混沌とする幕末動乱の時代。今回は、非情な任務を遂行していった、ある大村藩士の話をします。
――前回のお話(事件①)から、50年ほどが経過して、
日本は“開国”の時代へと移っています。かつて佐賀藩にはフェートン号事件で「良いところなし」の失策をした苦い経験があります。
〔参照:
佐賀藩が独力でも西洋列強に追いつこうと、技術や産業の開発に明け暮れている頃には、幕末の政局が大きく動き始めていました。
ここで、上方(京・大坂)で影のように動いた、肥前国の剣士がいました。それは、佐賀の人ではなく、現在の長崎県にある大村の藩士でした。
――“別藩”事件ファイル②「非情に任務をこなす」
時は幕末、先年の“開国”の影響が各地に出始めた頃から、主に京都周辺で、幕府(徳川政権)に関係する者が襲撃される事件が相次ぎました。
「天に代わって誅伐する」略して“天誅”と一般的に呼ばれ、幕府を倒そうとする志士たちのスローガンのような言葉ともに実行されます。
この時代に恐れられていた剣客に、大村藩の人物がいました。
渡辺昇(わたなべ のぼり)という名で、江戸の三大剣術道場の1つ・練兵館で、長州藩の桂小五郎の後に“塾頭”を引き継いだといい、剣の腕は確かです。
――その剣客は、“指令”により任務を行う。
この辺りの事情は深くは知らないのですが、なぜか大村藩士である渡辺昇は、長州藩士からの指示で剣を振るったと聞きます。
勤王をとなえる勢力が藩をまとめ上げ、明確に“倒幕派”となっていた大村藩の志士は、旗頭とも言える雄藩・長州の可能性に賭けたのかもしれません。
幕吏に捕縛されれば終わりなので、目立つ動きは命取りとなるためか、反撃しがたいタイミングを狙って、確実に“標的”を仕留める方法を選択したようです。
――幕末の京都は、動乱の中心地でもありました。
現在、“本編”で書いている時期は、佐賀の前藩主・鍋島直正が体調不良に苦しみながらも、京都へ上洛した文久二年の晩秋~冬の頃。
〔参照:
西洋の技術・経済力に追いつくのが最優先で、政治の主導権争いとは距離をおいていた佐賀藩ですが、京都の情勢は無視できない状況となっていました。
同じ頃、文久三年(1863年)の年明けには、のち「新選組」として名を轟かせ、倒幕の志士たちに恐れられる、近藤勇らを含む一団が京都に入っています。
――新選組・近藤勇と、大村藩士・渡辺昇は旧知の間柄だったようで…
江戸で近藤勇が道場を開いていた時に、渡辺昇が試合の助っ人に来た…とかいう話も聞きます。剣術仲間と言ってもよい関係だったのかもしれません。
しかし渡辺昇にとって、倒幕の志士を取り締まる新選組は敵対勢力ですから、容赦なく剣を振るったようです。
――“味方”が、敵になった時…
近藤勇が取った行動は、どうやら「旧知の友を説得しにいく…」という、鉄の掟で知られた新選組の局長らしくない選択だったそう。
このあたり、往年の名作時代劇『鞍馬天狗』を彷彿とさせる展開です。渡辺昇が“鞍馬天狗”の設定上のモデル…という説にもうなづけます。
〔参照:
渡辺昇の居所を訪ねた近藤でしたが、一足違いで渡辺は長崎に発ったところ。もし、敵同士となった2人が会っていたら、どうなったのか…。
――「敵になった2人の男には、同じ剣士としての絆があった…」
私は、幕末~明治期の佐賀藩について話を書いているので、佐賀県を目当てに調べ物をしますが、よく福岡県や長崎県の人物にも行き当たります。
佐賀藩は鍋島直正公が名君すぎて、藩内をしっかり統制しており、勤王派の志士たちも九州の外では活動しづらかったところがありそうです。
この辺り、私が本編の第2部に入ってから書きづらい一因でもあるのですが、幕末動乱の背景は「九州北部」で表現していこうかな…と考えています。
注)渡辺昇の名字は、渡邉や渡邊と表記されることも多いようですが、本編で登場する時には一般的によく使われる「渡辺」の表記で書こうかと考えています。
2023年09月14日
「“別藩”~BEPPAN~第1話」
こんばんは。
まるで砂漠でも歩む気分だった…猛暑も落ち着いたかなという初秋。そして、妙なタイトルで始まった、今回からの記事は、全3回シリーズの予定です。
大河ドラマに続く時間帯の他局の番組、TBS系ドラマ『VIVANT』が着想元ですが、このドラマを語れるほどには、しっかり視聴できていません。
このシリーズでは、“別班”(ヴィヴァン)と呼ばれる秘密の組織を描いた、上記ドラマの展開とは関わりなく、単に文字通り、佐賀藩とは「別の藩」を語ります。
幕末期に、①緊急事態への対応が速く、②時に非情な任務を遂行し、③少数精鋭での行動が印象的…という藩がありました。

――今シリーズで語りたいのは、「大村藩」について。
佐賀藩と同じく肥前国に存在した藩ですが、その所領は、現在では長崎県の大村市周辺にあたります。本拠は玖島城で、石高は2万7千石ほど。
時代は進んで、豊かな藩は特産品や貿易などで、裏ではそれ以上の実力を持っていることも多いのですが、それでも表の石高は1つの目安にはなります。
表の石高でも、佐賀藩は35万7千石、薩摩藩は70万石以上、長州藩も30万石を超えます。西国の雄藩と比べると、大村藩は小規模ではあるようです。

――しかし大村藩では、1864年(元治元年)頃には…
勤王を志す勢力が藩政を掌握したそうで、長州など徳川政権を倒そうとする雄藩にとっては、“別働隊”のような役回りも感じられます。
この辺りから今シリーズでは、倒幕を目指す勢力の中で「もうひとつの肥前」として、存在感を示した大村藩を見ていきます。
実は「幕末佐賀藩の大河ドラマ」のイメージのはずである、“本編”の第1話から、佐賀と同じく肥前国にあった、大村藩が登場していました。
――“別藩”事件ファイル①「緊急事態への対応」
1808年に発生した、長崎港へのイギリス船「フェートン号」侵入事件。幕末期の佐賀藩にとって、“物語の始まり”とも言える重たい出来事でした。
私が見たい「幕末佐賀藩の大河ドラマ」では、迷わず第1話で書きたい内容。

そして、事件が起きたのは、長崎での貿易相手のオランダ船が来ないはずの“シーズンオフ”の時期。
このイギリス船はオランダ船に偽装して、長崎港に侵入、要求を通すために、オランダ商館員に銃を突きつけて、人質に取ります。
〔参照:第1話「長崎警護」④〕
経費節減のため、警備を大幅に縮小して、ほとんど地元に帰っていた佐賀藩。まったく対応が追いつかず、「主役のわりに、全然良いところなし」の展開に。
〔参照:第1話「長崎警護」⑤〕

――そんな折、幕府の長崎奉行所からの「緊急事態」の一報に…
真っ先に駆けつけたのが、肥前大村藩でした。
「西九州新幹線では長崎の隣の駅とよ。佐賀より、早く着けるのは当然ばい」
…というご意見もあるかもしれませんが、勇敢な大村藩。すぐにも、イギリス船と戦うつもりがあったようです。
――そんなわけで、当地のお殿様・大村純昌公の描き方も…
精悍な顔つきと表現していますが、「浅黒い地肌に白い歯」みたいな「ワイルドな海の男っぽい」イメージで書いていました。
〔参照:第1話「長崎警護」⑥-2〕

大村藩の本拠地・玖島城も海に面しており、お城にも船着場があったことが見てとれます。海での作戦行動には、自信もあったのでしょう。
もちろんイギリス船と正面から戦っては、大砲の武装に劣るので「無法な異国船に乗り込んで、焼き討ちを仕掛ける」と、具体的な戦術もあったそうです。
結果、フェートン号が退去したため、戦闘には至りませんでしたが、長崎の海で異国船1隻を仕留めるだけならば、勝算はあったのかもしれません。
――とても、精強なイメージの肥前大村藩。
このような描き方で、長崎県大村市の皆様には、どのように受けとめられるかはわかりません。
ただ「活躍のわりには語られない」点では、佐賀藩と通ずるものも感じるので、少し意表を突いた形にはなりますが、ここで語ってみたいと考えました。
これからの“本編”でも、第2部・第3部での登場予定を考えている、大村藩の人物について、あと2回ほどお話を続けたいと思います。
まるで砂漠でも歩む気分だった…猛暑も落ち着いたかなという初秋。そして、妙なタイトルで始まった、今回からの記事は、全3回シリーズの予定です。
大河ドラマに続く時間帯の他局の番組、TBS系ドラマ『VIVANT』が着想元ですが、このドラマを語れるほどには、しっかり視聴できていません。
このシリーズでは、“別班”(ヴィヴァン)と呼ばれる秘密の組織を描いた、上記ドラマの展開とは関わりなく、単に文字通り、佐賀藩とは「別の藩」を語ります。
幕末期に、①緊急事態への対応が速く、②時に非情な任務を遂行し、③少数精鋭での行動が印象的…という藩がありました。
――今シリーズで語りたいのは、「大村藩」について。
佐賀藩と同じく肥前国に存在した藩ですが、その所領は、現在では長崎県の大村市周辺にあたります。本拠は玖島城で、石高は2万7千石ほど。
時代は進んで、豊かな藩は特産品や貿易などで、裏ではそれ以上の実力を持っていることも多いのですが、それでも表の石高は1つの目安にはなります。
表の石高でも、佐賀藩は35万7千石、薩摩藩は70万石以上、長州藩も30万石を超えます。西国の雄藩と比べると、大村藩は小規模ではあるようです。
――しかし大村藩では、1864年(元治元年)頃には…
勤王を志す勢力が藩政を掌握したそうで、長州など徳川政権を倒そうとする雄藩にとっては、“別働隊”のような役回りも感じられます。
この辺りから今シリーズでは、倒幕を目指す勢力の中で「もうひとつの肥前」として、存在感を示した大村藩を見ていきます。
実は「幕末佐賀藩の大河ドラマ」のイメージのはずである、“本編”の第1話から、佐賀と同じく肥前国にあった、大村藩が登場していました。
――“別藩”事件ファイル①「緊急事態への対応」
1808年に発生した、長崎港へのイギリス船「フェートン号」侵入事件。幕末期の佐賀藩にとって、“物語の始まり”とも言える重たい出来事でした。
私が見たい「幕末佐賀藩の大河ドラマ」では、迷わず第1話で書きたい内容。

そして、事件が起きたのは、長崎での貿易相手のオランダ船が来ないはずの“シーズンオフ”の時期。
このイギリス船はオランダ船に偽装して、長崎港に侵入、要求を通すために、オランダ商館員に銃を突きつけて、人質に取ります。
〔参照:
経費節減のため、警備を大幅に縮小して、ほとんど地元に帰っていた佐賀藩。まったく対応が追いつかず、「主役のわりに、全然良いところなし」の展開に。
〔参照:

――そんな折、幕府の長崎奉行所からの「緊急事態」の一報に…
真っ先に駆けつけたのが、肥前大村藩でした。
「西九州新幹線では長崎の隣の駅とよ。佐賀より、早く着けるのは当然ばい」
…というご意見もあるかもしれませんが、勇敢な大村藩。すぐにも、イギリス船と戦うつもりがあったようです。
――そんなわけで、当地のお殿様・大村純昌公の描き方も…
精悍な顔つきと表現していますが、「浅黒い地肌に白い歯」みたいな「ワイルドな海の男っぽい」イメージで書いていました。
〔参照:
大村藩の本拠地・玖島城も海に面しており、お城にも船着場があったことが見てとれます。海での作戦行動には、自信もあったのでしょう。
もちろんイギリス船と正面から戦っては、大砲の武装に劣るので「無法な異国船に乗り込んで、焼き討ちを仕掛ける」と、具体的な戦術もあったそうです。
結果、フェートン号が退去したため、戦闘には至りませんでしたが、長崎の海で異国船1隻を仕留めるだけならば、勝算はあったのかもしれません。
――とても、精強なイメージの肥前大村藩。
このような描き方で、長崎県大村市の皆様には、どのように受けとめられるかはわかりません。
ただ「活躍のわりには語られない」点では、佐賀藩と通ずるものも感じるので、少し意表を突いた形にはなりますが、ここで語ってみたいと考えました。
これからの“本編”でも、第2部・第3部での登場予定を考えている、大村藩の人物について、あと2回ほどお話を続けたいと思います。
2023年09月06日
「夏の終わりに…」
こんばんは。まだ秋風までは感じられないものの、さすがの猛暑もようやく陰りを見せ始めたと思います。
灼熱の日々が続くと、“夏の終わり”などと情緒的な言葉も出て来ないのですが、ふと、それらしき寂しさを感じる知らせを聞きました。
今夏は、まったく筆が進みませんでした。気持ちが乗ってくるまで、しばらくは、思い付くことを綴ってみます。
――夏が去りゆく時に、思い出す言葉がある。
数十年前のドラマだったと思う。ある女性が、海辺で昔なじみの男性に向かってこんな事を言う。
「私、1年の中で、夏の終わりが一番嫌い。」
聞けば、最もさびしさを感じる季節だからだという。
もう8月は過ぎた設定だろうか。白波がよせる砂浜には、賑わった夏の気配も残ってはいない。戯れに波打ち際で、水面を蹴るような振りをする女性。
もう若いとは言い切れなくなった、微妙な年頃の2人だけが、夏の終わりの海を望んでたたずむ、しずかな風景だ。

――なお、セリフは曖昧な記憶で、綴っている。
ドラマについては多くは語らない。たぶんコメディ調の作品だったと思うが、この場面が、やけに強く印象に残っている。
ここで私が語りたいのは、暑かった夏の終わりに、秋風の吹き始める時期は、「ふと、寂しさを感じる」季節だったはずということだ。
いまや、暑過ぎて感傷に浸れない…ということは横に置いておく。
――では、私は何が寂しいのかを語る。
ある日、ネットで『佐賀新聞』の記事を見た時に、今夏の8月下旬で1つの時代の終わりを感じさせる記事があった。
その記事の見出しはこうだった。
「佐賀玉屋レストラン街、43年の歴史に幕…」とあった。タイトルは「たくさんの思い出、ごちそうさまでした」と続く。

寂しい…なんて適切な見出しを付けるのだ、さすがは『佐賀新聞』。やはり新聞の顔である題字が、副島種臣先生の書なのは、ダテではない。
そして、この出来事の原因は“コロナ禍”が経営を圧迫したのか、レストランの運営会社が、飲食事業部を廃止するためであるという。
――「何だ!この異様な寂寥感は…」
私は愕然とした。以前、佐賀駅構内の積文館書店が閉店する一報を聞いたときにも、似た感覚を味わった記憶がある。
近年、随分と佐賀県に帰還しづらくなっていたから、結局、知らぬ間になくなっていた感覚に近い。
おそらく数えるほどしか行ったことのない「佐賀玉屋レストラン街」の閉鎖がここまで堪(こた)えるとは…

※2019年撮影
――昭和の百貨店にあったレストラン街の…
“王道”のような雰囲気を持つ印象だった。それだけに近年は苦戦する様子は察していたのだ。
だが、「しぶとく残ってくれるのではないか」と期待していたところもあった。
佐賀の中心街を眼下に眺めながら、スパゲッティを食んでいた感覚も、もはや遠くにある。
ただ、なにげに心地が良かったと記憶している。きっと、そこが“特別な場所”だったからだ。
これから、佐賀に帰還して玉屋を訪れても、もう南館7階にあの場所はない…この感情の根元はそこにあるらしい。

――私という人間も、ずいぶんと“欲張り”なのか。
最近では、大物ミュージシャンの記念コンサートもこなせる『SAGAアリーナ』の開業に大喜び。駅内商業施設『サガハツ』が出来たことも快く思っていた。
その一方で、佐賀に帰ったら、あって当然と思っていた施設がなくなると、強い落ち込みを感じるのだ。
「古き良きものが残って、新しい風も吹き込む」
佐賀には、そうあってほしいと思うが、おそらく、わがままな願望なのだろう。
私に何ができるわけでもない。佐賀県から遠くにいる分、情報だけが届いて、余計に、もどかしいところがある。
異常に暑かった、この夏も過ぎ去っていく。今回はいまの、この気持ちだけを記しておきたい。
灼熱の日々が続くと、“夏の終わり”などと情緒的な言葉も出て来ないのですが、ふと、それらしき寂しさを感じる知らせを聞きました。
今夏は、まったく筆が進みませんでした。気持ちが乗ってくるまで、しばらくは、思い付くことを綴ってみます。
――夏が去りゆく時に、思い出す言葉がある。
数十年前のドラマだったと思う。ある女性が、海辺で昔なじみの男性に向かってこんな事を言う。
「私、1年の中で、夏の終わりが一番嫌い。」
聞けば、最もさびしさを感じる季節だからだという。
もう8月は過ぎた設定だろうか。白波がよせる砂浜には、賑わった夏の気配も残ってはいない。戯れに波打ち際で、水面を蹴るような振りをする女性。
もう若いとは言い切れなくなった、微妙な年頃の2人だけが、夏の終わりの海を望んでたたずむ、しずかな風景だ。
――なお、セリフは曖昧な記憶で、綴っている。
ドラマについては多くは語らない。たぶんコメディ調の作品だったと思うが、この場面が、やけに強く印象に残っている。
ここで私が語りたいのは、暑かった夏の終わりに、秋風の吹き始める時期は、「ふと、寂しさを感じる」季節だったはずということだ。
いまや、暑過ぎて感傷に浸れない…ということは横に置いておく。
――では、私は何が寂しいのかを語る。
ある日、ネットで『佐賀新聞』の記事を見た時に、今夏の8月下旬で1つの時代の終わりを感じさせる記事があった。
その記事の見出しはこうだった。
「佐賀玉屋レストラン街、43年の歴史に幕…」とあった。タイトルは「たくさんの思い出、ごちそうさまでした」と続く。
寂しい…なんて適切な見出しを付けるのだ、さすがは『佐賀新聞』。やはり新聞の顔である題字が、副島種臣先生の書なのは、ダテではない。
そして、この出来事の原因は“コロナ禍”が経営を圧迫したのか、レストランの運営会社が、飲食事業部を廃止するためであるという。
――「何だ!この異様な寂寥感は…」
私は愕然とした。以前、佐賀駅構内の積文館書店が閉店する一報を聞いたときにも、似た感覚を味わった記憶がある。
近年、随分と佐賀県に帰還しづらくなっていたから、結局、知らぬ間になくなっていた感覚に近い。
おそらく数えるほどしか行ったことのない「佐賀玉屋レストラン街」の閉鎖がここまで堪(こた)えるとは…
※2019年撮影
――昭和の百貨店にあったレストラン街の…
“王道”のような雰囲気を持つ印象だった。それだけに近年は苦戦する様子は察していたのだ。
だが、「しぶとく残ってくれるのではないか」と期待していたところもあった。
佐賀の中心街を眼下に眺めながら、スパゲッティを食んでいた感覚も、もはや遠くにある。
ただ、なにげに心地が良かったと記憶している。きっと、そこが“特別な場所”だったからだ。
これから、佐賀に帰還して玉屋を訪れても、もう南館7階にあの場所はない…この感情の根元はそこにあるらしい。
――私という人間も、ずいぶんと“欲張り”なのか。
最近では、大物ミュージシャンの記念コンサートもこなせる『SAGAアリーナ』の開業に大喜び。駅内商業施設『サガハツ』が出来たことも快く思っていた。
その一方で、佐賀に帰ったら、あって当然と思っていた施設がなくなると、強い落ち込みを感じるのだ。
「古き良きものが残って、新しい風も吹き込む」
佐賀には、そうあってほしいと思うが、おそらく、わがままな願望なのだろう。
私に何ができるわけでもない。佐賀県から遠くにいる分、情報だけが届いて、余計に、もどかしいところがある。
異常に暑かった、この夏も過ぎ去っていく。今回はいまの、この気持ちだけを記しておきたい。
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