2024年05月28日
「小休止その5、カンパネラの鳴る街角」
こんばんは。今年のゴールデンウィークの頃には、大河ドラマ『光る君へ』で、「肥前は遠い国…」という台詞を聞きました。
また、連続テレビ小説『虎に翼』では、佐賀出身の設定がなぜか強調される、男子学生2名のキャストが存在感を見せていました。
その他、もろもろの後押しがあって「今回は、どうにか帰藩せねば…」と考えた私は、ようやく行動を開始します。
少し前の話ですが、ご報告も兼ねて。
――5月前半のある日。佐賀駅の南口。
短く区切られた弾むようなピアノの音色が、大型ビジョンから流れていました。私にクラッシック音楽の素養はないのですが、この曲が何かはわかります。
曲名はたしか『ラ・カンパネラ』。作曲者は…遠い昔に学校の音楽室で、肖像を見たかもしれない、大音楽家・リスト。
最近、話題となっている“物語”。佐賀県の海苔漁師の徳永さんが、あるピアニストが弾くこの楽曲に魅せられ、無謀にもピアノで弾き始めます。
そして、その著名ピアニスト(先日逝去された、フジコ・ヘミングさん)の前座で、演奏できるほどの腕前に至ったそうです。

――このエピソードにより、私のイメージでは、
この曲は、有明海の夜明けの映像とともにあります。実は、多くのピアニストが敬遠するほどの難曲とも聞きました。
1人の海苔漁師が、人生を変えてくれた演奏をしたピアニストと“共演”を果たした奇跡的な実話。とくに県内では、ご存知の方も多いはず。
このエピソードは、『ら・かんぱねら』というタイトルで、佐賀の風景や海苔生産の実情も織り込みながら、映画化されるとも聞いています。
なぜか、大音楽家・リストの名曲で、佐賀の地に帰ってきた事を実感する日が来るとは…不思議な気分です。

――そして私が、佐賀に駆け込んできた理由。
このタイミングで動かねばならなかったのが、佐賀城本丸歴史館で開催されたイベントの会期の都合です。
“佐賀の七賢人”の1人で、明治期に近代国家を築くにあたり、ありとあらゆるところで力を発揮した、稀才・江藤新平。
その江藤新平の没後150年を機に開催された特別な企画展(※)でした。次回も、この話が続く…予定です。
※この企画展の会期は終了しています。
また、連続テレビ小説『虎に翼』では、佐賀出身の設定がなぜか強調される、男子学生2名のキャストが存在感を見せていました。
その他、もろもろの後押しがあって「今回は、どうにか帰藩せねば…」と考えた私は、ようやく行動を開始します。
少し前の話ですが、ご報告も兼ねて。
――5月前半のある日。佐賀駅の南口。
短く区切られた弾むようなピアノの音色が、大型ビジョンから流れていました。私にクラッシック音楽の素養はないのですが、この曲が何かはわかります。
曲名はたしか『ラ・カンパネラ』。作曲者は…遠い昔に学校の音楽室で、肖像を見たかもしれない、大音楽家・リスト。
最近、話題となっている“物語”。佐賀県の海苔漁師の徳永さんが、あるピアニストが弾くこの楽曲に魅せられ、無謀にもピアノで弾き始めます。
そして、その著名ピアニスト(先日逝去された、フジコ・ヘミングさん)の前座で、演奏できるほどの腕前に至ったそうです。
――このエピソードにより、私のイメージでは、
この曲は、有明海の夜明けの映像とともにあります。実は、多くのピアニストが敬遠するほどの難曲とも聞きました。
1人の海苔漁師が、人生を変えてくれた演奏をしたピアニストと“共演”を果たした奇跡的な実話。とくに県内では、ご存知の方も多いはず。
このエピソードは、『ら・かんぱねら』というタイトルで、佐賀の風景や海苔生産の実情も織り込みながら、映画化されるとも聞いています。
なぜか、大音楽家・リストの名曲で、佐賀の地に帰ってきた事を実感する日が来るとは…不思議な気分です。
――そして私が、佐賀に駆け込んできた理由。
このタイミングで動かねばならなかったのが、佐賀城本丸歴史館で開催されたイベントの会期の都合です。
“佐賀の七賢人”の1人で、明治期に近代国家を築くにあたり、ありとあらゆるところで力を発揮した、稀才・江藤新平。
その江藤新平の没後150年を機に開催された特別な企画展(※)でした。次回も、この話が続く…予定です。
※この企画展の会期は終了しています。
2024年05月21日
「小休止その4、肥前は遠い国…」
こんばんは。“本編”で主要な登場人物が世を去る話を書くと、しばらく脱力感に見舞われる…ということが多いです。
次の下書きも間に合ってませんので、例によって小休止します。
あまり感想を書いていない、2024年大河ドラマ『光る君へ』ですが、結構、楽しみに観ています。
やけに仲の良い紫式部(まひろ)と清少納言とか…来週にはついに、枕草子の『春はあけぼの…』が出そうだとか、見どころはたくさんあります。

――ところで、私の心に響いたセリフがありました。
たぶん、一般的な視聴者はあまり気にしない内容で、それは、まひろ(紫式部)〔演:吉高由里子〕の友人・さわ〔演:野村麻純〕の言葉。
父が肥前守(佐賀・長崎の国司)に任じられて、九州赴任についていくことになった事を告げる場面。たしか第18回の後半。
「肥前は遠い国…」と、まひろに語り、「もう、会えないかもしれない~」と、かなり騒いでいました。

――ですが、その次の回(19)だったと思いますが…
その肥前国に行ったはずの、さわから手紙が来て、「婿を取りました!」と、いきなりのメッセージ。
「…そがんね、よか男の居ったとね!?」と言いたくなったのは、佐賀の人ぐらいでしょうか。
当時の肥前の国府は、佐賀市の大和町あたりかな…と考えます。国司の任期は4年と言いますが、その場所で人生の決断にかかったようです。
――公式HPでは、この、さわという女性について
「愛情に飢えた、一風変わった娘、まひろを慕い親しくなる」とあります。
まひろの父・藤原為時〔演:岸谷五朗〕が看病をしていた女性が、以前の結婚で産んだ娘で、残された家での立場が弱い…という描写だった思います。
さわがまひろと一緒に石山寺に旅をした時、すっかりひねくれてしまった話も、記憶に新しいです。
「そうね、佐賀に行ってから幸せになったとね~」と温かい目線で、一連のエピソードを受けとめた私。

――「そうだ、私の探している答えも、きっと佐賀にある」
さわという女性の物語への登場はこれで完了のようですが、感情の振れ幅の大きい、少し気になる脇役でした。
ひょっとすると、この「肥前は遠い国…」という物語の中での言葉。私が、次に選択する行動に影響したかもしれません。そのお話は、また次回に。
次の下書きも間に合ってませんので、例によって小休止します。
あまり感想を書いていない、2024年大河ドラマ『光る君へ』ですが、結構、楽しみに観ています。
やけに仲の良い紫式部(まひろ)と清少納言とか…来週にはついに、枕草子の『春はあけぼの…』が出そうだとか、見どころはたくさんあります。
――ところで、私の心に響いたセリフがありました。
たぶん、一般的な視聴者はあまり気にしない内容で、それは、まひろ(紫式部)〔演:吉高由里子〕の友人・さわ〔演:野村麻純〕の言葉。
父が肥前守(佐賀・長崎の国司)に任じられて、九州赴任についていくことになった事を告げる場面。たしか第18回の後半。
「肥前は遠い国…」と、まひろに語り、「もう、会えないかもしれない~」と、かなり騒いでいました。
――ですが、その次の回(19)だったと思いますが…
その肥前国に行ったはずの、さわから手紙が来て、「婿を取りました!」と、いきなりのメッセージ。
「…そがんね、よか男の居ったとね!?」と言いたくなったのは、佐賀の人ぐらいでしょうか。
当時の肥前の国府は、佐賀市の大和町あたりかな…と考えます。国司の任期は4年と言いますが、その場所で人生の決断にかかったようです。
――公式HPでは、この、さわという女性について
「愛情に飢えた、一風変わった娘、まひろを慕い親しくなる」とあります。
まひろの父・藤原為時〔演:岸谷五朗〕が看病をしていた女性が、以前の結婚で産んだ娘で、残された家での立場が弱い…という描写だった思います。
さわがまひろと一緒に石山寺に旅をした時、すっかりひねくれてしまった話も、記憶に新しいです。
「そうね、佐賀に行ってから幸せになったとね~」と温かい目線で、一連のエピソードを受けとめた私。
――「そうだ、私の探している答えも、きっと佐賀にある」
さわという女性の物語への登場はこれで完了のようですが、感情の振れ幅の大きい、少し気になる脇役でした。
ひょっとすると、この「肥前は遠い国…」という物語の中での言葉。私が、次に選択する行動に影響したかもしれません。そのお話は、また次回に。
2024年05月14日
第20話「長崎方控」⑧(長く生きた者よ)
こんばんは。
前回は大殿・鍋島直正(閑叟)の幼少期の場面を綴りました。直正の14歳年上の少年として登場した鍋島茂義は、佐賀藩の重役となる立場の武雄領主。
この武雄領も含めた自治領主は、かなりの権限があったので、茂義は幕末の佐賀で“西洋化”を先導する役回りを果たしました。
その頼れる“兄貴分”が逝去したのが、文久二年十一月(旧暦)と聞きます。これは、鍋島直正が京都に出向いていた時期と重なるようです。
この一報を、寒い冬の京都にいたはずの直正がいつ聞いたかは、今のところ不知なのですが、御所に参内した前後では無いか…と考えています。

――文久二年(1862年)の晩秋。佐賀藩の武雄領。
ザッザッザッ…、武雄領の侍が“行進”をする様子で、揃った足音がする。
「ハルト!(止まれ)」
ザッ!動いていた侍たちが、一斉に停止した様子だ。
チャカ、チャカチャカ…その場で、待機した者たちが、長い銃を扱う音が鳴る。
指揮を執る者は、幾つかの号令を発した後、大きくうなずいて一声を発した。
「ヒュール!(撃て)」
――パン、パパン、パン…!乾いた音が響いた。
ザザッ…、チャッ…
ひとしきり発砲した侍たちが、退避の動きを取り、控えていた侍が立ち上がる。
控えの侍たちも、すぐさま、肩に据えた銃を、パパパン…と撃ち始めた。
その場を仕切っていた指揮官、鍋島茂昌(しげはる)は、幾つかの確認を完了すると、「よか!」を大声を上げて、その場を締めた。
ここで行っているのは、軍事訓練のようだ。服装は侍のままだが、装備する銃は最新式、号令はオランダの影響を受けたようだ。

――しばらく後、武雄領の屋敷。
武雄の隠居(前領主)・鍋島茂義は、ひどく体調を崩しているが、この日は小康を得て、のんびりと過ごす様子だ。
老臣が先ほど見た、訓練の風景を茂義に報告している。
「そうか。“銃砲”の鍛錬に励んでおるか。」
「茂昌さまも、ご立派に成られました。」
少々、感慨深そうな老臣だが、茂義は「う~む」と苦い顔をしている。
「はて…、いかがなされましたか。」
「あやつは、“銃砲”にしか興味を持ちよらん。」
――鍋島茂義が、早々に武雄領主を引退したので…
茂昌は幼少期から領主の肩書きを引き継ぐが、実権は茂義にあった。佐賀藩へ欧米列強の技術を取り込むべく、茂義は自由に動ける身分が欲しかった。
「西洋の文明は、もっと深きものよ。」
茂義の世界への興味は、軍事だけでは無かったが、子・茂昌が学ぼうとする範囲は限られている。
「もっと、学んでほしいものだがな。」
「…茂昌さまも、励んでおられますよ。」
現在の武雄領主・鍋島茂昌は、戦に使えそうな西洋の技術にしか、ほとんど関心を持たない。だが、それも努力のうちだと、老臣がかばっている。
「はっはっ…お主は昔から優しか男だったからのう。」

――かれこれ、六十余年の歳月を生きてきた。
幼き日に聞いた「英国の軍艦が長崎の港で暴れた」ことを。佐賀藩が幕府から咎められた、フェートン号事件の時、茂義はまだ子どもだった。
それから異国と戦うには、異国の力を知る必要があると思った。だが、調べれば調べるほどに“西洋”には惹かれていった。
実用的な理化学だけでなく、飲食物・嗜好品・絵画…何でも面白く感じた。
「そういえば、山口が、“小言”を申してきおった。」
「山口範蔵ですか?何ば言いよったのですか。」

武雄領から長崎に派遣し、英語も学ばせている、山口範蔵(尚芳)。先日に、何やら慌てて武雄に帰ってきた。
「異国に興味を持たなくなれば、儂(わし)は、儂でなくなるそうだ。」
「…なんと、無礼な。山口も随分なことを申しますな!」
老臣が怒ったが、茂義は「当たっておる」とばかりに、からからと笑った。
――この年、茂義は大好きな“西洋の文物”の注文を抑えていた。
茂義の“お買い物”が途切れていることが、山口を心配させたようだ。
「もはや、この世から去る者が、あまり買い物をしてもな。」
茂義が、そう語る目はどこか寂しそうだった。老臣には、かける言葉がない。
「儂は“長生き”をしたのだろうか。それだけ多くのことを為したか…」
「…しましたとも!武雄の働きあって、いまの佐賀の力はあるとです!」
老臣が若かった頃のように、声を張る。
「お主は、優しいからな…」
「いえ、たとえ、平山が見ておっても同じように申すはず。」
「おおっ、平山か。“平山山平”か。」
茂義が、少し愉快そうな顔をした。

――かつて、茂義が重用した“平山醇左衛門”という家来がいた。
長崎で西洋式の砲術を学んで、それを茂義に伝える仕事もしていた。平山の熱心な指導もあって、茂義は高島流砲術の免許皆伝を許された。
茂義も、平山が長崎から帰ってくるのを楽しみにするから、「平山、平山…」と言い過ぎて、“平山山平”と呼んでしまっていた事もある。
「いや、平山は…儂には言いたい事が山ほどあるに相違ない。」
「…そんな、平山も分かっておるはず。」
――かつて天保年間に、西洋の学問が厳しく取り締まられた時期がある。
幕府で権力を持っていた、鳥居耀蔵の執拗なまでの“蘭学”への敵意。オランダ渡りの蘭学が最も盛んだった、佐賀藩も目を付けられていた。
その時、平山醇左衛門は武雄領、そして佐賀藩が追及されないように、一人で“疑い”を背負い込み、切腹により命を落としたのだ。
ここで茂義は、後悔を口にした。
「儂は、蒸気船も作れておらん。まだまだ出来ることがあったはずじゃ。」
「…それは、佐賀の者がきっと成し遂げましょう。」
「そうやもしれぬな。」

――茂義は区切りを付けるように、ふーっと一息を付いた。
「これからも、“小言を申す者”は、大事にいたせ。」
「…はっ。」
短く応えながら、老臣は目に涙を浮かべていた。
「そろそろ儂は、平山から“小言”をもらってくるとするか。」
「…きっと、労(ねぎら)いの言葉もありましょう。」
「では、茂昌を頼んだぞ。山口範蔵にもよろしく伝えてくれ。」
幕末の黎明期より近代への扉を開いてきた、佐賀藩武雄領主・鍋島茂義は文久二年十一月二十七日に、この世を去ったと記される。
そして、茂義が購入した西洋の文物を書き留めた買い物帳『長崎方控』も、この年の記録で終わっている。
(続く)
◎参考記事〔本編〕
○鍋島茂義と家臣の場面(第2話)
・第2話「算盤大名」②-1
・第2話「算盤大名」②-2
○蘭学の弾圧(第3話)
・第3話「西洋砲術」④-1
○平山醇左衛門の最期(第3話)
・第3話「西洋砲術」④-2
・第3話「西洋砲術」⑤
○山口範蔵(尚芳)の心配(第20話)
・第20話「長崎方控」③(西洋風の“紳士”)
前回は大殿・鍋島直正(閑叟)の幼少期の場面を綴りました。直正の14歳年上の少年として登場した鍋島茂義は、佐賀藩の重役となる立場の武雄領主。
この武雄領も含めた自治領主は、かなりの権限があったので、茂義は幕末の佐賀で“西洋化”を先導する役回りを果たしました。
その頼れる“兄貴分”が逝去したのが、文久二年十一月(旧暦)と聞きます。これは、鍋島直正が京都に出向いていた時期と重なるようです。
この一報を、寒い冬の京都にいたはずの直正がいつ聞いたかは、今のところ不知なのですが、御所に参内した前後では無いか…と考えています。

――文久二年(1862年)の晩秋。佐賀藩の武雄領。
ザッザッザッ…、武雄領の侍が“行進”をする様子で、揃った足音がする。
「ハルト!(止まれ)」
ザッ!動いていた侍たちが、一斉に停止した様子だ。
チャカ、チャカチャカ…その場で、待機した者たちが、長い銃を扱う音が鳴る。
指揮を執る者は、幾つかの号令を発した後、大きくうなずいて一声を発した。
「ヒュール!(撃て)」
――パン、パパン、パン…!乾いた音が響いた。
ザザッ…、チャッ…
ひとしきり発砲した侍たちが、退避の動きを取り、控えていた侍が立ち上がる。
控えの侍たちも、すぐさま、肩に据えた銃を、パパパン…と撃ち始めた。
その場を仕切っていた指揮官、鍋島茂昌(しげはる)は、幾つかの確認を完了すると、「よか!」を大声を上げて、その場を締めた。
ここで行っているのは、軍事訓練のようだ。服装は侍のままだが、装備する銃は最新式、号令はオランダの影響を受けたようだ。

――しばらく後、武雄領の屋敷。
武雄の隠居(前領主)・鍋島茂義は、ひどく体調を崩しているが、この日は小康を得て、のんびりと過ごす様子だ。
老臣が先ほど見た、訓練の風景を茂義に報告している。
「そうか。“銃砲”の鍛錬に励んでおるか。」
「茂昌さまも、ご立派に成られました。」
少々、感慨深そうな老臣だが、茂義は「う~む」と苦い顔をしている。
「はて…、いかがなされましたか。」
「あやつは、“銃砲”にしか興味を持ちよらん。」
――鍋島茂義が、早々に武雄領主を引退したので…
茂昌は幼少期から領主の肩書きを引き継ぐが、実権は茂義にあった。佐賀藩へ欧米列強の技術を取り込むべく、茂義は自由に動ける身分が欲しかった。
「西洋の文明は、もっと深きものよ。」
茂義の世界への興味は、軍事だけでは無かったが、子・茂昌が学ぼうとする範囲は限られている。
「もっと、学んでほしいものだがな。」
「…茂昌さまも、励んでおられますよ。」
現在の武雄領主・鍋島茂昌は、戦に使えそうな西洋の技術にしか、ほとんど関心を持たない。だが、それも努力のうちだと、老臣がかばっている。
「はっはっ…お主は昔から優しか男だったからのう。」

――かれこれ、六十余年の歳月を生きてきた。
幼き日に聞いた「英国の軍艦が長崎の港で暴れた」ことを。佐賀藩が幕府から咎められた、フェートン号事件の時、茂義はまだ子どもだった。
それから異国と戦うには、異国の力を知る必要があると思った。だが、調べれば調べるほどに“西洋”には惹かれていった。
実用的な理化学だけでなく、飲食物・嗜好品・絵画…何でも面白く感じた。
「そういえば、山口が、“小言”を申してきおった。」
「山口範蔵ですか?何ば言いよったのですか。」

武雄領から長崎に派遣し、英語も学ばせている、山口範蔵(尚芳)。先日に、何やら慌てて武雄に帰ってきた。
「異国に興味を持たなくなれば、儂(わし)は、儂でなくなるそうだ。」
「…なんと、無礼な。山口も随分なことを申しますな!」
老臣が怒ったが、茂義は「当たっておる」とばかりに、からからと笑った。
――この年、茂義は大好きな“西洋の文物”の注文を抑えていた。
茂義の“お買い物”が途切れていることが、山口を心配させたようだ。
「もはや、この世から去る者が、あまり買い物をしてもな。」
茂義が、そう語る目はどこか寂しそうだった。老臣には、かける言葉がない。
「儂は“長生き”をしたのだろうか。それだけ多くのことを為したか…」
「…しましたとも!武雄の働きあって、いまの佐賀の力はあるとです!」
老臣が若かった頃のように、声を張る。
「お主は、優しいからな…」
「いえ、たとえ、平山が見ておっても同じように申すはず。」
「おおっ、平山か。“平山山平”か。」
茂義が、少し愉快そうな顔をした。

――かつて、茂義が重用した“平山醇左衛門”という家来がいた。
長崎で西洋式の砲術を学んで、それを茂義に伝える仕事もしていた。平山の熱心な指導もあって、茂義は高島流砲術の免許皆伝を許された。
茂義も、平山が長崎から帰ってくるのを楽しみにするから、「平山、平山…」と言い過ぎて、“平山山平”と呼んでしまっていた事もある。
「いや、平山は…儂には言いたい事が山ほどあるに相違ない。」
「…そんな、平山も分かっておるはず。」
――かつて天保年間に、西洋の学問が厳しく取り締まられた時期がある。
幕府で権力を持っていた、鳥居耀蔵の執拗なまでの“蘭学”への敵意。オランダ渡りの蘭学が最も盛んだった、佐賀藩も目を付けられていた。
その時、平山醇左衛門は武雄領、そして佐賀藩が追及されないように、一人で“疑い”を背負い込み、切腹により命を落としたのだ。
ここで茂義は、後悔を口にした。
「儂は、蒸気船も作れておらん。まだまだ出来ることがあったはずじゃ。」
「…それは、佐賀の者がきっと成し遂げましょう。」
「そうやもしれぬな。」

――茂義は区切りを付けるように、ふーっと一息を付いた。
「これからも、“小言を申す者”は、大事にいたせ。」
「…はっ。」
短く応えながら、老臣は目に涙を浮かべていた。
「そろそろ儂は、平山から“小言”をもらってくるとするか。」
「…きっと、労(ねぎら)いの言葉もありましょう。」
「では、茂昌を頼んだぞ。山口範蔵にもよろしく伝えてくれ。」
幕末の黎明期より近代への扉を開いてきた、佐賀藩武雄領主・鍋島茂義は文久二年十一月二十七日に、この世を去ったと記される。
そして、茂義が購入した西洋の文物を書き留めた買い物帳『長崎方控』も、この年の記録で終わっている。
(続く)
◎参考記事〔本編〕
○鍋島茂義と家臣の場面(第2話)
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○蘭学の弾圧(第3話)
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○平山醇左衛門の最期(第3話)
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○山口範蔵(尚芳)の心配(第20話)
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2024年05月06日
第20話「長崎方控」⑦(海を渡る、鷹の夢)
こんばんは。“本編”を続けます。文久二年(1862年)からの鍋島直正(閑叟)の東上。当時の体調不良はかなりのもので、無理をおして旅をしたようです。
朝廷、幕府、諸大名…そして、地元の若者たちだけでなく、各地の志士からも注目をされる佐賀の前藩主・直正ですが、思うように動けてはいません。
旧暦の十二月には、どうにか参内して、時の天皇に挨拶を行ったものの、疲れが見える様子です。

その直正の心の支えであっただろう“兄貴分”・鍋島茂義は14歳ばかり年上、前の武雄領主でした。
幕末期、佐賀藩が「近代化のトップランナー」となれたのは、この鍋島茂義が先行して、西洋の文物を取り入れた影響が大きかったとも言われます。
――粉雪の舞う十二月、京の都・黒谷。
御所に参じて、孝明天皇に拝謁し、天杯を授けられる待遇を受けた、佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)。
〔参照:第19話「閑叟上洛」㉔(御所へと参じる日)〕
「閑叟さま、お疲れでしょう。少しお休みください。」
朝廷に招かれるなど稀(まれ)なことだ。側近・古川与一(松根)が労りの言葉をかける。
「おお、松根。すまんな。そのように、いたそう。」
体調も良くない直正だが、御所に出向くのはひと苦労の様子だ。
「座敷は、暖かくしておきましたゆえ。」
「それは、ありがたいのう…」
ほどなく、直正はうとうととして、いささか眠くなってきたようだ。

――歳月を経て、衰えた身体。もはや、自在とは言えぬ…
幼い頃は、その身から溢れんばかりの“元気”があり、その目から見えるものにも“力”があった。
ところで、鍋島直正の幼名は貞丸といった。有力大名・鍋島家の嫡男なので、江戸からは出られず、江戸育ちの“都会っ子”だった。
そして、“家庭教師”を務めていたのは、佐賀藩の儒学者・古賀穀堂。
「若君は利発じゃ。これは…学べば学ぶほど伸びられるぞっ!」と、古賀先生が喜んだ顔を見せるので、幼少の直正(貞丸)も、いっそう頑張った。
〔参照(後半):第1話「長崎警護」⑦〕

「…穀堂の期待にこたえるのも、楽ではないのう…」
現代で言えば、まだ小学校低学年か、幼い貞丸は、ぽつりとつぶやいた。
「若君、まだまだ“お若い”のにお疲れか。」
ちょっと、くだけた感じの物言いで、声をかけてきた少年がいた。
こちらも佐賀藩の重臣となるべく、見聞を広めることを期待されてか、江戸にもよく来ている、武雄領主の息子・十左衞門だった。
――幼い若君・貞丸の表情が、パッと明るくなった。
「十左(じゅうざ)ではないか!江戸に来ておったのか。」
「あぁ、おいは江戸より、長崎の方が良かけどもな。」
「なにゆえ、長崎が良いのか。」
「若はまだ幼いゆえ、わかるかのう。長崎には、海の向こうの物が来る。」
「阿蘭陀(オランダ)渡りの品かの。」
「…!若君、よぅ知っとるな。よか事ぞ。」
今度は、十左衞門少年が嬉しそうな表情を見せた。

この十左衞門が、のちに“蘭癖”と呼ばれ、佐賀藩が西洋の技術を取り入れることを先導する、武雄領主・鍋島茂義となる。
〔参照:第2話「算盤大名」②-2〕
――「あっ、」という感じで、貞丸が何かに気付いた。
「そうじゃ、十左。余(よ)に、鷹の絵を描いてほしい。」
「たか…?空を飛ぶ、鷹か。ご所望ならば、そのうち描くとしよう。」
十左衞門は西洋好きなだけではなく、絵画も学ぶなど、なかなか多才なのだ。
そんな、お願いをしながら、貞丸は、十左衞門をじっと見つめた。
「…いま描いてほしい、と言いよるか?」
貞丸は、「うん」と大きくうなずいた。
「んにゃ…、これから学問の時間なのだが。」
豪放でさばさばとした十左衞門だが、予定もあるので、少し面食らっている。だが、純真な子ども、しかも若君のお願いである。むげにはできない。

「よか。しばし待たれよ!」
十左衞門、鷹の絵を描くつもりのようだ。
――筆と硯(すずり)を手元にそろえて、
「よいか、刻が無いゆえ、此度は、即興になるぞ。」
ぐっと、紙を見つめる十左衞門。後年の茂義が、西洋の文物を見る時と同じ、前のめりな集中力がある。
「いざ、」
ザッと紙に筆を押さえつけた、十左衞門。さらさらと、鳥の輪郭を描き出す。
「おおっ…」
貞丸も食い入るように、墨を走らせる十左衞門の筆先を見つめる。

鳥の輪郭は、やがて鷹の姿を現した。風を切り、雲を背に舞っていく。
「…!」
その鷹を描き出しているはずの十左衞門。先ほどまで筆先を見ていたはずの、貞丸の視線の変化に気付く。
「上を見とらす…」
――若君・貞丸は大空を見上げていた。
「十左、見事じゃ。天晴(あっぱ)れな鷹の姿よ。」
紙と空に交互に視線を送りながら、十左衞門は唖然としていた。
「…これは、まるで絵から抜け出たごた…」
「鷹は、海も越えて飛ぶと聞くぞ。」
貞丸が満面の笑みを見せた。

「いずれは余も、行ってみたい。海の向こうへ。」
「若君、それはわしもだ。海ば渡ってみたい。」
十左衞門、若き茂義は思った。
「この若君なら大丈夫だ。行けるぞ、佐賀が日本を引っ張る日も必ず来る」と。
――そして、この若君、貞丸が殿様になる時まで、
まずは自分が頑張らねば…と強く感じた。
「十左、いかがしたのだ…?」
「若、また、鷹の絵は描きますぞ。」
「そうじゃな。楽しみにしておる。」
貞丸は、嬉しそうに答えを返した。
「そして、わしは今から勉学に、励んで参りますぞ。」
えらく気合いが入っている、十左衞門。
「若君も、励みなされ。」
「…励むぞ。がんばる。」
未来への希望を得たか、異様な迫力をまとった十左衞門(茂義)。貞丸(直正)には、その時の茂義の決意までは感じとれていなかった。
――だが、とても大きく見えた、茂義の背中を見送った。
「…おお、いかんいかん。すっかり寝入ってしまった。」
ここで、直正は夢から覚めた。かつて貞丸と呼ばれていた頃から、既に40年ばかりの歳月が流れている。
残念ながら、いまの直正(閑叟)に、往時の元気な若君の面影は乏しい。

…と、その時。粉雪に冷え込む廊下に、けたたましい足音がした。
「お休み中、失礼を。申し上げたき事が。」
「構わぬ。申せ。」
「…武雄のご隠居さまが、身罷(みまか)られました。」
その一報に接して、直正の心の中にあった“兄貴分”・茂義の背中が、ふっと見えなくなる。
大きな存在で隠れていた断崖が、急に眼前に現われたような感覚が生じた。
(続く)
朝廷、幕府、諸大名…そして、地元の若者たちだけでなく、各地の志士からも注目をされる佐賀の前藩主・直正ですが、思うように動けてはいません。
旧暦の十二月には、どうにか参内して、時の天皇に挨拶を行ったものの、疲れが見える様子です。
その直正の心の支えであっただろう“兄貴分”・鍋島茂義は14歳ばかり年上、前の武雄領主でした。
幕末期、佐賀藩が「近代化のトップランナー」となれたのは、この鍋島茂義が先行して、西洋の文物を取り入れた影響が大きかったとも言われます。
――粉雪の舞う十二月、京の都・黒谷。
御所に参じて、孝明天皇に拝謁し、天杯を授けられる待遇を受けた、佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)。
〔参照:
「閑叟さま、お疲れでしょう。少しお休みください。」
朝廷に招かれるなど稀(まれ)なことだ。側近・古川与一(松根)が労りの言葉をかける。
「おお、松根。すまんな。そのように、いたそう。」
体調も良くない直正だが、御所に出向くのはひと苦労の様子だ。
「座敷は、暖かくしておきましたゆえ。」
「それは、ありがたいのう…」
ほどなく、直正はうとうととして、いささか眠くなってきたようだ。

――歳月を経て、衰えた身体。もはや、自在とは言えぬ…
幼い頃は、その身から溢れんばかりの“元気”があり、その目から見えるものにも“力”があった。
ところで、鍋島直正の幼名は貞丸といった。有力大名・鍋島家の嫡男なので、江戸からは出られず、江戸育ちの“都会っ子”だった。
そして、“家庭教師”を務めていたのは、佐賀藩の儒学者・古賀穀堂。
「若君は利発じゃ。これは…学べば学ぶほど伸びられるぞっ!」と、古賀先生が喜んだ顔を見せるので、幼少の直正(貞丸)も、いっそう頑張った。
〔参照(後半):

「…穀堂の期待にこたえるのも、楽ではないのう…」
現代で言えば、まだ小学校低学年か、幼い貞丸は、ぽつりとつぶやいた。
「若君、まだまだ“お若い”のにお疲れか。」
ちょっと、くだけた感じの物言いで、声をかけてきた少年がいた。
こちらも佐賀藩の重臣となるべく、見聞を広めることを期待されてか、江戸にもよく来ている、武雄領主の息子・十左衞門だった。
――幼い若君・貞丸の表情が、パッと明るくなった。
「十左(じゅうざ)ではないか!江戸に来ておったのか。」
「あぁ、おいは江戸より、長崎の方が良かけどもな。」
「なにゆえ、長崎が良いのか。」
「若はまだ幼いゆえ、わかるかのう。長崎には、海の向こうの物が来る。」
「阿蘭陀(オランダ)渡りの品かの。」
「…!若君、よぅ知っとるな。よか事ぞ。」
今度は、十左衞門少年が嬉しそうな表情を見せた。
この十左衞門が、のちに“蘭癖”と呼ばれ、佐賀藩が西洋の技術を取り入れることを先導する、武雄領主・鍋島茂義となる。
〔参照:
――「あっ、」という感じで、貞丸が何かに気付いた。
「そうじゃ、十左。余(よ)に、鷹の絵を描いてほしい。」
「たか…?空を飛ぶ、鷹か。ご所望ならば、そのうち描くとしよう。」
十左衞門は西洋好きなだけではなく、絵画も学ぶなど、なかなか多才なのだ。
そんな、お願いをしながら、貞丸は、十左衞門をじっと見つめた。
「…いま描いてほしい、と言いよるか?」
貞丸は、「うん」と大きくうなずいた。
「んにゃ…、これから学問の時間なのだが。」
豪放でさばさばとした十左衞門だが、予定もあるので、少し面食らっている。だが、純真な子ども、しかも若君のお願いである。むげにはできない。

「よか。しばし待たれよ!」
十左衞門、鷹の絵を描くつもりのようだ。
――筆と硯(すずり)を手元にそろえて、
「よいか、刻が無いゆえ、此度は、即興になるぞ。」
ぐっと、紙を見つめる十左衞門。後年の茂義が、西洋の文物を見る時と同じ、前のめりな集中力がある。
「いざ、」
ザッと紙に筆を押さえつけた、十左衞門。さらさらと、鳥の輪郭を描き出す。
「おおっ…」
貞丸も食い入るように、墨を走らせる十左衞門の筆先を見つめる。
鳥の輪郭は、やがて鷹の姿を現した。風を切り、雲を背に舞っていく。
「…!」
その鷹を描き出しているはずの十左衞門。先ほどまで筆先を見ていたはずの、貞丸の視線の変化に気付く。
「上を見とらす…」
――若君・貞丸は大空を見上げていた。
「十左、見事じゃ。天晴(あっぱ)れな鷹の姿よ。」
紙と空に交互に視線を送りながら、十左衞門は唖然としていた。
「…これは、まるで絵から抜け出たごた…」
「鷹は、海も越えて飛ぶと聞くぞ。」
貞丸が満面の笑みを見せた。
「いずれは余も、行ってみたい。海の向こうへ。」
「若君、それはわしもだ。海ば渡ってみたい。」
十左衞門、若き茂義は思った。
「この若君なら大丈夫だ。行けるぞ、佐賀が日本を引っ張る日も必ず来る」と。
――そして、この若君、貞丸が殿様になる時まで、
まずは自分が頑張らねば…と強く感じた。
「十左、いかがしたのだ…?」
「若、また、鷹の絵は描きますぞ。」
「そうじゃな。楽しみにしておる。」
貞丸は、嬉しそうに答えを返した。
「そして、わしは今から勉学に、励んで参りますぞ。」
えらく気合いが入っている、十左衞門。
「若君も、励みなされ。」
「…励むぞ。がんばる。」
未来への希望を得たか、異様な迫力をまとった十左衞門(茂義)。貞丸(直正)には、その時の茂義の決意までは感じとれていなかった。
――だが、とても大きく見えた、茂義の背中を見送った。
「…おお、いかんいかん。すっかり寝入ってしまった。」
ここで、直正は夢から覚めた。かつて貞丸と呼ばれていた頃から、既に40年ばかりの歳月が流れている。
残念ながら、いまの直正(閑叟)に、往時の元気な若君の面影は乏しい。

…と、その時。粉雪に冷え込む廊下に、けたたましい足音がした。
「お休み中、失礼を。申し上げたき事が。」
「構わぬ。申せ。」
「…武雄のご隠居さまが、身罷(みまか)られました。」
その一報に接して、直正の心の中にあった“兄貴分”・茂義の背中が、ふっと見えなくなる。
大きな存在で隠れていた断崖が、急に眼前に現われたような感覚が生じた。
(続く)