2020年11月03日

「“連続ブログ小説”を試みる」

こんばんは。
当ブログを開始してから11か月ほど期間が経過しました。

ほぼ毎日、連続して投稿できていたのは、当初の半年足らず。
最近では“2日に1度”の投稿ペースを意識しています。


――ご覧いただいている皆様のおかげで

当初の計画で目標とした、第1段階達成できました。

かなり流動的ですが「佐賀 大河ドラマ」と検索した際、当ブログが1ページ目ヒットすることも増えてきています。

本編第1部幕末黎明編」も、いよいよ大詰めです。第17話~第18話ぐらいで、1つの区切りにしたいと考えています。




――しかし、ここで幾つかの問題が

ごく当然の話ですが、私の能力は“佐賀の賢人たち”に遥かに及びません。
そのため“賢人たち”の活躍をリアルに再現するのは難しいです。

それを補うため、「大河ドラマ」の映像をイメージしてから、文章化しています。
投稿するエピソードによっては、かなり創作の要素が強い場合もあります。

佐賀には、こんな凄い人もいた!」と感動しながら、その勢いで書く…というのが、よくあるパターンです。


――こうして、開始から1年近くが、経過した今…

流行のアニメから言葉を拝借すると“全集中”を繰り返し、少々息切れしています。私のブログのテーマだと、情報収集文案作成負荷がかかります。

但し“佐賀の賢人たち”の業績は豊富ですから、“ネタ切れ”の心配は無いようです。そのため、時間体力の制約のみが厳しいところです。


――しばらく、更新を見合わせることも検討しました。

ここは“継続は力なり”と考え、“省エネ”で投稿できる方法を選択します。

私には“さがファンブログ”の先達各位のような、楽しい日記は書けません。
日常で面白いネタを確保することも困難です。

当ブログには唯一、私とその周辺を題材とした「望郷の剣シリーズがあります。
これを応用して、何とか切り抜けます。


――「大河ドラマ」と並ぶ、NHKの看板番組のイメージで…

次回から連続ブログ小説旅立の剣」を投稿します。
休養代わりの記事ですが、“本編”の補足も兼ねています。

昨秋たった2日間佐賀滞在の話。
一応、サブテーマは“挫折からの再生”としています。

  


2020年11月04日

連続ブログ小説「旅立の剣」(1)佐賀への旅立ち

こんばんは。
文章の瞬発力”を鍛えたい意図もある、このシリーズ
いつもより短い文章を投稿していきます。

初見の皆様にもご説明します。「幕末佐賀藩大河ドラマを見たい!」と決意し、密かに活動を始めたころの話です。

このシリーズは、表向きはサラリーマンの…佐賀藩士(?)が、情報収集のため奔走した2日間の記録です。


――2019年(令和元年)初夏。

私は周到に準備を始めた。
手元には、10月のカレンダー

ここだ。ここしかない。」

この週末だけは、必ず休みを取る…
きっと様々な障壁があるだろう。

しかし、外してはならない。
この機会を逃せば、計画(夜明け)は1年後れるのだ。


――乾いた街で続いた消耗戦…

気付けば、私も歳をとった。
ここ数年、身を削って仕事に打ち込んできた。

ある意味で‟戦って”はいたのかもしれない。
いったい何が残ったというのか。



――空っぽになった気持ち。

心を満たすものは、遠く離れた故郷・佐賀にある。

遡ること5か月ほど前。時代が平成から令和に変わる直前。
私は、佐賀に新たな価値を見出していた。


(続く)

〔関連記事(後半):「慈雨の剣」

  


2020年11月05日

連続ブログ小説「旅立の剣」(2)バスターミナルにて

こんばんは。
にわかに始まった「連続ブログ小説」です。淡々と続きます。

2019年10月
ある金曜日時刻10:30を回った。

雲行きはあやしくも、明るさを残す空。
ほどよい潤いを含んだ風が、清々しい


――佐賀駅前に降り立った。

計画どおり、午前中佐賀入りを果たす。
まず、第一段階は成功と言って良い。

佐賀で活動できる時間は限られる。
可能な限り、迅速な行動を要す。


――駅前バスターミナルへの移動。

私を出迎えたのは“賢人たち”の案内板だった。
やはり佐賀は、私の期待に応えてくれるようだ。

ターミナルが日常である人は、おそらく気に留めない
日々が積もれば、ただのバス乗り場の表示。何も不思議はない。



――佐賀は故郷だが、私には“非日常”の世界。

2018年の“さが幕末維新博”。
その盛況は伝え聞くのみ。「行きたかった!」と悔やむばかりだった。

佐賀から遠い不利、ピークを外した悲しみ
逆説的だが、これらは私の“強み”になり得る。


(続く)


〔関連記事(中盤):「“麒麟(きりん)”とともに走る」

  


2020年11月06日

連続ブログ小説「旅立の剣」(3)流れる景色を

こんばんは。
本シリーズでは、1年ちょっと前の話をお送りしています。

2019年10月金曜日佐賀駅到着から30分ほどが経過。
時刻は、午前11:00を回った。


――場所は、佐賀駅前バスターミナル。

私は“早津江”行きのバスを待っていた。
佐賀は故郷だが、いまの私には“遠征”である。

そのため、私は荷物を背負って移動する。
目的地に向かうバスは30分に1本程度だ。



――各地行きのバスが乗り場を周回する。

ターミナルという名に、ふさわしい光景。
待ち時間に、次からの行動を算段する。

私が“早津江”に向かうのは、佐野常民足跡をたどるため。
佐賀藩が、近代化先駆けだったことが体感できるはずだ。


――バスの車窓に流れていく景色

私の目に写る景色は、大都市圏とは異なっていた。
沿道が“栄えている”と言い張るのは強弁だろう。

だが、何やらホッとする感覚がある。
この落ち着きを保ったまま、佐賀が力を取り戻す日を想った。


(続く)

〔関連記事(写真):「望郷の剣2」

  


2020年11月07日

連続ブログ小説「旅立の剣」(4)早津江の嵐

こんばんは。

わずか2日間30時間にも満たない短い滞在。
佐賀での調査活動の様子を綴る“連続ブログ小説”です。

昨秋10月の、ある金曜日。時刻は11:40を過ぎた。
私は、早津江行きのバスから下車した。


――ポッ、ポッと降っていた雨。

雨の勢いが増した頃、バス停に降りた私。
バス停の名は「“佐野常民記念館」の最寄りを示すが、施設は見当たらない。

田園風景の中、徒歩での移動を開始したとき、雨足が強まる。
だけならまだしも、の吹くも響いてきた。



――まず、退避できる場所を探さねば…

疾風の勢いに乗り、横殴りとなった雨。どしゃ降りの域に達する。
を盾としてを受けるが、かなりの風圧を感じる。

幕末と言えば“蒸気船”だが、当時は、帆走での航海が併用された。
海軍力に長じた佐賀藩先人たちも風を読む力を学んだのだろう。


――後ろからの追い風。傘を強く叩く雨。

まるで“嵐の幕末”だが、このまま濡れ続けるのも不本意だ。
私は退避できる場所を見つけ、身を隠した

秋雨も良いが、これは度が過ぎているな…」と一息をつく。
降りしきる雨の向こう側。“佐野常民記念館の建物は、眼前に現れていた。


(続く)

〔関連記事(後半):第12話「海軍伝習」⑩-1(負けんばい!・前編)

  


2020年11月08日

連続ブログ小説「旅立の剣」(5)雨に打たれても

こんばんは。

佐野常民記念館入口」バス停から、同施設までは徒歩5分とあります。
ほぼ1年前の訪問時、この短い道のりも、風雨に見舞われて長く感じました。


――“佐野常民記念館”にたどり着いた。時刻は12時前。

私が玄関口に着いたときには、ずぶ濡れだった。
「…こんにちは。」

見渡す範囲では、現在の訪問者私1人。とくに不思議はない。平日(金曜)でもあるし、この天気だ。

私の風体では佐賀への出張ついでに立ち寄ったと見えるだろうか。“佐野常民記念館”も目的地の1つだが、このスケジュールを決めた要因は別にあった。


――外は引き続き、雨。

雨天の場合、屋外での“三重津海軍所跡”の見学はできない様子だ。天気が回復しないときは、施設内を見学次第、すぐに市街地戻る事も考える。

帰りのバス時刻を確認した。私の活動時間は限られる一方、佐賀調査すべきポイントは多い佐賀での一刻には、非常に重みがあるのだ。



――そんな思案を始めたところ、スタッフの方から声がかかる。

「まずは、こちらにどうぞ。」
みえつドームシアター”に案内される。半球体状映像空間だ。

こうして私1人に向けた“幕末佐賀藩海軍物語”の上映が始まった。
「おおっ!いきなり、こう来たか…」

朝から移動し続け、雨にも降られたが、肝心の調査はこれからだ。


(続く)



  


2020年11月09日

連続ブログ小説「旅立の剣」(6)ささやかな幸福

こんばんは。
幕末佐賀藩大河ドラマで見たい!」と発心した私。昨秋佐賀での取材を開始した頃の話です。

私の周りに「なんと無意味なことを!」と言う人はいませんでした。ただ、呆気に取られていただけ…という可能性は残ります。

最初の目的地は“佐野常民記念館”。屋外は降りしきる。他に来館者の姿はなく、私のためだけに“みえつドームシアター”の上映が始まります。


――船底から煽るように見上げる、大型の艦船。

長さ45.5メートルの船体がリアルに迫ってくる。
映し出されるのは、佐賀藩海軍の主力艦・“電流丸”。

電流丸”は、佐賀藩オランダから購入した蒸気船アメリカに渡った幕府の“咸臨丸”と同じく、スクリュー推進式の新鋭艦だった。


――空を舞う、鳥の目も用いて“電流丸”を眺める。

有明海干満の差を利用して船を曳き込み、整備を行う“ドライドック”の紹介。西洋技術だけでなく、日本古来工法も活きているのが渋い

佐賀藩は、国産初の実用蒸気船凌風丸”を建造した。有明の海を駆け回った小型蒸気船蒸気機関修繕自力で行えるのが、佐賀強みだった。



――この映像が見られるだけでも、ここまで来た甲斐はあった…

ささやかな幸福感に浸る私に吉報が続く。
止んだみたいですよ。」

風雨は治まり、曇り空が広がる。
私は「見えない世界遺産」“三重津海軍所跡”を見聞する機会を得た。


(続く)

〔関連記事(後半):「主に伊万里市民の方を対象にしたつぶやき」

  


2020年11月10日

連続ブログ小説「旅立の剣」(7)時を超える“双眼鏡”

こんばんは。
昨秋に実行した、佐賀での調査活動を綴るシリーズを続けています。

時刻は、正午を回り12:10頃。

が止んだ“早津江”の地。世界文化遺産三重津海軍所跡”の見学が可能になった。記念館の外に出ると、湿気を含んだ風を感じる


――見学のスタートに立つ。私には“みえつスコープ”が貸与された。

これが「見えない世界遺産」を見るための道具
いわば“時を超える双眼鏡”を手に取り、施設スタッフの方と話す。

「あれほどの雨が止むとは…ここまで来た甲斐がありました。」
「わざわざ海軍所の見学に、佐賀まで?」

佐賀の出身なので、気になってましてね。」
スタッフの方も“あぁ、なるほど”と言った表情を見せた。



――利用者の来所のきっかけは、施設が抑えておきたいところ。

経過は失念したが、私が“佐賀に戻る可能性”についての話となる。
「そう簡単には戻れませんね。あるいは…」

私の想いから出た言葉は伏せておく。それは、施設の方にも予想外の一言だったはずだ。

生活の基盤が定まれば、拠点となる土地からは離れがたい私の来歴では、郷里に帰ることは容易ではない。今までは、そこに思い至ることすら無かった。


――大都市圏には、様々な経緯で地方から人が集まる。

巻き取っていく”と形容しても良いかもしれない。もちろん都会生活に馴染み、帰りたくない人が多数いるのは事実だろう。

逆に“望郷の想い”を抱く者にも、郷里に帰る道は険しいようだ。そんな記憶が過(よ)ぎる中、スタッフの方から“みえつスコープ”の使い方の説明を受けた。

この時を超える双眼鏡で、本当に強かった佐賀姿は見えるのだろうか。

(続く)

〔関連記事:「発心の剣」

  


2020年11月12日

連続ブログ小説「旅立の剣」(8)“見た目”より中身

こんばんは。前回の続きです。

見えない世界遺産」と呼ばれる三重津海軍所跡では、仮想現実(バーチャルリアリティ)で当時の姿映し出される仕組みです。

見学場所ごとに“みえつスコープ”を装着。施設の方から解説もありました。
で見て、で聞き、に触れる…幕末の佐賀が、すぐ傍に感じられます。


――“時を超える双眼鏡”から見える景色。

今は何もない“稽古場”の跡。ここで、佐賀藩士たちは欧米列強に対抗する力を得るべく、鉄製大砲新式銃の訓練に勤しんだことだろう。

漂うのは火薬の匂いか。西洋式銃砲の威力は、幕末の動乱期に最後の輝きを見せた刀槍の時代を終わらせた。

幕末佐賀藩士近代化を目指して技術開発に打ち込んだ。サムライたちの努力は、その時代の終焉へとつながっていく。



――“スコープ”を構えると、読込時間があって映像が展開する。

蒸気船の“修覆場”の製造ライン、木造の小屋が見える。ボイラ-製造など近代的金属加工の場。建物の見た目は…最先端ではない。

ふと、“さがんもん”の気質に思い当たる。佐賀藩は倹約を大事にした。最新鋭砲兵部隊でさえ野袴を着用したと聞く。技術一流でも見た目質素だ。

おそらく佐賀人無い物ねだりをしない。いま使えるもの何とかするのだ。
説明も「確かな情報」を重視する印象だ。“観光向き”の派手な幕末ではない。


――“見た目”より中身が大事。それも佐賀らしくはある。

まだ、三重津海軍所で躍動する佐野常民栄寿)の姿は見えて来ない。それが、その時点での私の力量でもあった。

スタッフの方の説明に集中する。その言葉は、佐野先生のものと思うべきだ。
「まずは情報の収集だ。然(しか)る後に“大河ドラマ”のイメージに変換する!」

船屋地区(船の停泊)→稽古場地区(海軍の訓練)→修覆場地区(洋式船の修理)と見学は進む。記念館に戻り、私は施設スタッフの方に“ある質問”をした。

(続く)

〔関連記事:「佐野常民」(賢人その2)<前編>
※“本編”の開始前に“佐賀七賢人”のキャラクターを把握するために書いていたシリーズです。当時は、佐野常民編が一番描きづらかった…という記憶があります。  


2020年11月15日

連続ブログ小説「旅立の剣」(9)想いを語るとき

おはようございます。
当ブログの主題佐賀、物語を動かす舞台長崎には、なかなか足を運ぶことが叶わず、それでも、今できる方法で“取材活動”を続けています。

…なお、昨日は“取材”に出ていたため、今日はに更新しております。


――昨秋。佐野常民記念館。時刻は13:00。

幸運にも雨が上がって、屋外での“三重津海軍所跡”の見学を終えた私。続いて、館内2F佐野常民記念館・展示室に立ち寄る。

最初、雨に濡れて入館した私を、施設スタッフの方が気遣ったのか、見学ルート通常の順路と異なっていたようだ。

ナマコのような男…」
明治期、ある人物が佐野常民評した言葉だ。


――この言葉、最初は佐野先生への悪口かと思った。

しかし、真意はこうだった。
「叩いても、捻っても、ナマコ変じることは無い。」

「…佐野常民頑固者だ。その信念を曲げることはできない。」
概ね、このような解釈らしい。

佐賀では、七賢人(八賢人)の1人として知られる佐野常民
調べるほど応援したくなる人物。」と評する研究者の方もいる。



――日本赤十字社の創設をはじめ、様々な仕事を成し遂げた佐野常民

一風変わった佐野の行動。最初のうちは苦笑することがあっても、だんだんと「負けるな!常民!」という気分になるらしい。

…まったく同感なので、私も“本編”で表現していきたい。

佐野常民栄寿)の業績は、赤十字社だけではない。

蒸気機関の開発、近代海軍の創設、万国博への出展、洋式燈台の設置、内国博京都の復興、日本美術の保護…

佐野先生は、とにかく頑張った人なのだ。


――2Fの佐野常民記念館・展示室、出入り口に戻る。

偶然、スタッフの方々が集まっていたので、私は挨拶をする。
「ありがとうございました。大変、勉強になりました。」

スタッフの皆様も「それは、良かった!」という反応。

ここで、私は心に留めていた言葉を続けた。
「これだけ業績があるのに、なぜ佐賀は“大河ドラマ”にならないんでしょうか。」


(続く)

〔関連記事:「佐賀の功績を語れ!」(独自色②)
※投稿の時期は昨年の年末(大晦日)。幕末の雄藩「薩長土肥」のそれぞれの業績をなるべくシンプルに表して、その比較で“肥前佐賀藩の功績をどう描くか…を考えたときの投稿です。

  


2020年11月16日

連続ブログ小説「旅立の剣」(10)雲を掴むことさえも

こんばんは。
連続ブログ小説第1シリーズ佐野常民記念館 編」のラストです。

…気楽な昨秋旅日記のはずが、思いのほか長編になっています。ひとまず、区切りを入れようかと思案しています。


――「何故、幕末佐賀藩が“大河ドラマ”にならないか?」

これは聞かれて困る質問かもしれない。施設スタッフの皆様は、NHKの関係者ではないだろう。

しかし、この話はわりと盛り上がるのである。
「いろいろ試みはありますが、なかなか難しいようですよ。」

最近の大きい“試み”は、2018年の“さが幕末維新博”だろう。一方、草の根での地道な活動もある様子。以前から“”ある方々は走り続けているのだ。


――「雲を掴む」ような話。私に“何ができるか”はわからない。

ここで、やや使い古された感のある言い回しが頭をよぎる。
「大事なのは、できるかどうかではない。やるかやらないか」なのだ。

まず全国的知名度の問題がある。実際の活躍に比べ、佐賀藩士たちの足跡が、テレビの歴史番組で語られることはほとんど無い。

その問題を乗り越えるカギは、やはりあの方だろう。次に“どこを目指すか”は、明確になった。

通貨単位“”を定め、早稲田大学を創設、2度総理大臣大隈重信侯だ。



――バスの到着まで、あと20分ばかり。まだ館内での時間はある。

スタッフの方々に御礼を述べる。そして、私の決意も語った。
期待をするだけでは駄目ですね。私自身でも動いてみます。」

2時間ばかり佐野常民記念館三重津海軍所跡)に滞在していたが、まだ見学していないフロアがある。
「まだ…バスまでの時間があるので、3階を見学してきます!」

私は可笑しな訪問者だったと思うが、話の始終、スタッフの方々は笑顔だった。


――慌ただしい滞在…、だが机上の資料とは違う充実感がある。

残り時間は貴重だ。3階への階段を駆け上がる。全力をもって展示物の見聞を行った。たとえ“速習”でも、佐賀藩躍動を体感しておく必要がある。

タイムリミットが来た。佐野常民記念館1階に降りる。
そこでスタッフの方の1人と、玄関でお会いした。

先ほどの私との会話をふまえて、最後に一声をかけてくれた。
「“大河ドラマ”の実現には10年かかる…と聞くこともありますね。」


――私は、その言葉を「道のりは険しいが、実現はできる」と受け取った。

「ありがとうございます。私なりに進んでみますよ。」
日々思うに任せぬ事が多い。しかし私は“自由”な立場で行動することもできる。

晴れやかな気持ちで、市街地に戻るバス停に向かう。いわば“聖地”である佐賀で、取材を行うことの意味を噛みしめる。だが、この旅は、まだこれからだった。


(“第2シリーズ”に続く)
  


2020年11月24日

連続ブログ小説「旅立の剣」(11)再びバスターミナル

こんばんは。
前回の記事で思い至った今年残り日数。本日を含め、38日

ひとまず年内完了を目指している企画を進めます。昨秋コロナ禍の影も無かった時期。当ブログの“聖地”佐賀での、主に御城下を巡る旅路の記録です。


――14:00頃に“早津江”方面から、市街地に向かうバスに乗る。

時間にして、40分ほどかかったか。
出立から4時間足らず佐賀駅前バスターミナルに戻る。

すでに1日乗車券は入手した。これで終日、佐賀市営バス味方に引き込んだも同然である。私は自在に動くことができる。


――佐賀への到着から、ひたすらに動き続ける。

佐野常民記念館は、市街地からは少し離れている。親戚と会ったり、法事に行ったりという、通常の帰省だと見学時間が取りづらい。

「先に遠方の施設から回ったのは、良い判断だった…」

私は自画自賛を行った。周到に準備した今回の帰省取材に特化した単独行動に設定した。この場面、自分で褒めねば、誰も褒めてはくれない。



――すぐに体勢を整え、次の目的地に向かう必要がある。

えきマチ1丁目”を抜ける。佐賀城下での拠点とも思う場所。飲食店のほか、土産物コーナーが充実する。飲食物産とも素材が良いのが、佐賀の地力だ。

ドラックストアも何かと便利。そして、積文館書店には、佐賀の歴史に関する書籍が揃う。ここで違和感を感じた人もいるだろう…これは1年前の世界の話だ。(※文末に注釈あり)


――15:00頃。近隣の宿への手続きを済ませる。

ひと息を付く暇(いとま)など無い。記念館などの施設は、閉館時間というリミットがある。大半の荷物を降ろし、いくぶん軽装となった。

これで、また動き出せる。いざ、佐賀が誇る明治の傑物・大隈重信の生家へ。
大隈重信記念館を通るバスを見定め、飛び乗ったのである。


(続く)

〔参照記事(冒頭):第4話「諸国遊学」⑥
※残念ながら、積文館書店・佐賀駅店は、2020年3月に閉店しています。年明けからのコロナ禍で、最後に立ち寄ることもできずショックでした。

  


2020年11月26日

連続ブログ小説「旅立の剣」(12)雨の“水ケ江”を行く

こんばんは。

再び走り始めた“連続ブログ小説”…初めてご覧の方に説明しましょう。ひとことで言えば昨秋、私が佐賀を駆け回った、旅路の記録です。

まだ、コロナ禍の無かった1年前の自由な“空気感”が見て取れると思います。


――15:30頃。佐賀市営バスで“水ケ江”の地に到着する。

バス停大隈重信記念館前次の目的地も間近である。

バスを降りると、またポツポツと雨が降り始めた。私が佐賀に帰るとき雨の降る描写が多いが、これは偶然である。とくに、雨を呼ぶ力体得した覚えはない。

「ふーっ。」
深呼吸をした。少し疲れを感じる。走り続けられるほど、若くもない。


――ここも市街地の中心部に近いが、大都市圏とは空気感が異なる。

いわゆる住宅地。一筋ばかり、道を間違えた。くるりと転換し歩みを進める。ほどなく、大隈重信記念館の立派な門構えが私を出迎えた。

「こんにちは。」
雨を避けられる屋根がありがたい。受付に挨拶をする。



――全国的には、早稲田大学の創設者として著名な大隈重信

受付の奥に見える限り、同窓会館の事務局のような機能も兼ねる様子だ。早大卒業生たちが集う行事も多いのだろう。

大隈先生は、自分の家人が集まるのが大好きだったと聞く。
お若いの。雨の中、よく来たな。」

何だか、そう言われた心地がする…私も歳を取ったが、大隈先生からすれば、おそらくは、まだまだ現世で活動できる私は“若者”であるのかもしれない。

(続く)

〔参照記事:「大隈重信」(賢人その7)<前編>
※“本編”の開始前に、“佐賀七賢人”のキャラクターを把握するために書いたシリーズ(創作)です。私は、大隈先生を「日本史上で、最も国民から愛された人物の1人」と捉えていますので、どうしても遊び心が強めの描写になります。もし、関係者の方がご覧になっていましたら、色々とご容赦ください。  


2020年11月27日

連続ブログ小説「旅立の剣」(13)“砲術長”のご子息

こんばんは。

昨秋金曜からの1泊2日の行程で佐賀での取材を行いました。決定的に時間が不足しており、走り続けることを余儀なくされます。

…ただ、疲れてきて始めて「見える姿聞こえる声」もあるのかもしれません。


――右側からの視線を感じて、私は向き直った。

貴君。今日はあいにくの雨だが、ゆっくりしていくと良い。」
そう語らんばかりの大隈先生、老成したお姿(像)である。

屋外銅像たる宿命とは言え、今日は天気が良くない
「…大隈先生には、晴天が似合うと思うのです。」

「些細な事だ。気遣いは無用である。」
なんとも風格が出ている。これも大物だけが持つ“オーラ”だろうか。


――大隈侯は、自身に爆弾を投げつけた相手の名誉まで気遣ったと聞く。

それでも何だか寒そうではあるが、雨など物ともしない雰囲気だ。

生家も見ておくと、あとあと役立つであろう。」
「では、失礼して、拝見をいたします。」


いそいそと大隈先生像の横を通る。私の足取りがおかしいのは…たぶん偉い方侯爵)の面前なので、緊張するのだ。

大隈家は、“会所小路”と呼ばれる上級武士の住まう一角にある。砲術隊長を務める家柄で、長崎警備も担当していた。


――1808年。大隈重信の祖父・彦次郎の代。

幕末佐賀藩の悲劇であり、出発点でもあった“フェートン号事件”。オフシーズンの経費節減のため、警備隊の大半が佐賀に帰還していた。

手薄な警備の隙に生じた、イギリス“フェートン号”による長崎港への侵入。祖父彦次郎も、責任問われる立場だった。

信保の代も“砲術隊長”の仕事が引き継がれているところを見ると、大隈家にとって、最悪の展開は免れたようだ。


――大隈重信八太郎)の生家。縁側の方に回る。

その家から感じられる気配は、先ほどの立派な大隈重信のものではない。

三井子にべったりと甘え、後にやんちゃな喧嘩坊主に成長する、幼き日大隈八太郎少年が走り回る面影だった。

(続く)

〔参照記事:第3話「西洋砲術」③-3
※“本編”で大隈重信八太郎)の名が初登場する回です。祖父は描けていないのですが、大隈信保は結構、活躍しています。砲術の部隊長で、火薬調合や弾道計算にも長じていたらしいので、佐賀藩技術者チーム意気投合している場面をよく描いています。

  


2020年11月28日

連続ブログ小説「旅立の剣」(14)限りなき“母の愛”

こんばんは。

佐賀版「幕末男子の育て方」が、体感できる場所。昨秋大隈重信記念館に行ったときの記憶をたどっています。

幼い大隈重信八太郎)は、人より成長が遅く、超甘えん坊だったと言います。

三井子は、神仏に祈り、物語を読み聞かせ友達を大事にします。今年、流行りの言葉なら“全集中”で子育てをしたでしょう。


――大隈重信八太郎)は、4人きょうだいの3番目で、長男。

信保は、佐賀藩の“砲術長”で、物理(弾道計算)や化学(火薬調合)に長じたと聞くが、その人となりを知る資料の持ち合わせは無い。

しかし、佐賀黒船来航前に国産初鉄製大砲を完成するほど進んだ雄藩大隈役職に見合う、才覚が伴った人物と見るのが自然だろう。

そして、地元で“女丈夫”と言われる元気な三井子八太郎には、2人。後にが生まれ、2女2男の4人姉弟となる。


――時刻は16時頃。穏やかな雨は続く。縁側から灯りが見える。

ほう…
リアルな武家屋敷。しかも大隈先生の生家。私は感嘆した。

現地への取材と並行し、図書も調べた私には、予備知識があった。三井子と長男・八太郎母子のエピソードは、なかなか「面白い」のだ。



――元気なだけでなく、キャラクターの強い母・三井子。

甘えん坊我が子に困ったは、八太郎くんに勇敢な軍記物語(『太平記』など)を読み聞かせたという。

そして、今度は喧嘩ばかりするようになった八太郎くんに、“念仏“を10回唱えて、「それでも腹が立つ時にだけ」喧嘩するように諭す。

八太郎くんが成長して、学びを深め、友達との議論に熱中すれば、家計を切り詰めてでも、友人たち食事菓子を振る舞う。


――後に大隈侯は「自分は家に恵まれていた」と語ったという。

秋雨には少し肌寒さを感じつつも、大隈家灯りは私の心を温かくした。

名だたる佐賀の賢人たちの“溜まり場”だった大隈八太郎重信)の新時代を築く知恵が培われた…とも言えるこの場所

まるで「“明治の礎を築く”若者たち」を優しく見守る、佐賀の母大隈三井子の視点でも「幕末佐賀大河ドラマ」は描けるかも…そんな感想を持った。


(続く)

〔参照記事:第5話「藩校立志」①
佐賀藩士たちが、尊王の象徴と崇めていたのが、“楠木正成”。軍記物語『太平記』に描かれた、その活躍を三井子八太郎くんに読んで聞かせる場面です。“本編”中、さらに「歴史ドラマ」を入れるという構成で、勢いのままに書いたお話です。
  


2020年11月30日

連続ブログ小説「旅立の剣」(15)もう1つの物語

こんばんは。

もし、幕末佐賀で「女性主人公の“大河ドラマ”」を設定するなら…と考えたとき、私は“隠れた主役候補”に思い至ります。

昨秋の調査をベースとして、三井子と、大隈重信八太郎)の物語について、もう少し綴っていきたいと思います。


――大隈重信記念館・1階の常設展示室にて。

スピーカーより流れる、大隈の声。
「…いま、帝国は、(だい)なる変化のとき迎えているんである…」

明治期に“演説の名手”として知られた、大隈重信現代政治家からは、もう聞くことができないタイプの声かもしれない。

堂々とした、それでいて流れのある心地の良い演説と聞こえる。“変化”という言葉にも、希望が湧くのだ。


――展示室内には、多数のパネルがある。

効率よく取材をしたい来館者である、には有難い情報量があった。大隈重信ゆかりの品々に囲まれながら、調査を続ける。

「まったく…、大したお方ですぜ。大隈先生は!」
私は“江戸っ子”ではないが、このように感銘を受けたのは事実である。

実際、大隈頑張っただけの業績を残している。尊王の志士外国との交渉役、政治家、教育者…その足跡追うだけでも、ひと仕事なのは認めよう。



――ふと、1つのパネル展示に目が止まった。

我が子を“偉大な大隈重信”に育てた女性の説明が綴られる。

説明文の中心に、年配ご婦人の写真がある。
その姿はとしている。若い頃から快活な女性であったらしい。

活躍を影で支えながら、明治を生きた大隈重信三井子


――その母が90年に渡る、天寿を全うするとき…

大晦日の晩。危篤となった三井子の枕元に居た、大隈重信
年が明けるまでは、寿命を延ばしてほしい」と祈ったという。

そして、新しい年が来る。ほどなく、母子別れのときを迎えた。
大隈も、このときは幼き日八太郎の気持ちだったかもしれない。


――そして、3年ほど後、こんな展開になった。

日本政党内閣が発足する。首相となったのは、大隈重信

世のために働け」など、大隈には政治信条がある。そのになったのは、三井子教えだったという。


(続く)

  


2020年12月02日

連続ブログ小説「旅立の剣」(16)佐賀玉屋での思索

こんばんは。
今年新語・流行語大賞(現代用語の基礎知識 選)は「3密」だとか。

年の瀬も近づき「昨年は…ずっと自由だったなぁ。新型コロナも無かったし…」と思う方もいるかもしれません。

最近、“連続ブログ小説”と称して、昨秋の話を投稿しています。わずか30時間(実動15時間)の佐賀滞在でしたが、1年前実行しておいて良かったです。


――ひとまず目的地の見聞は達した。

昼間には佐野常民記念館夕方大隈重信記念館の見学を完了した。これで佐賀七賢人のうち、2名記念館を回った。

「この勢いで、あと5名記念館も回るぞ!!」
…と言いたいが、佐賀七賢人で公式な“記念館”があるのは、2名だけらしい。

早朝から移動を始め、佐賀に入って11時からの6時間、ほぼ全力疾走だった。


――暮色迫る、佐賀の街。

「ありがとうございました。」
大隈記念館の受付に一声をかけて、退出する。

降り続ける雨。辺りも暗くなる取材すべき施設は、もう閉館時刻だ。

「そうだ…、まだ商業施設ならば開いている…」
に濡れて、街灯に光る路面を踏みしめる。


――県庁通りへと歩を進めた。時刻は、17時。

私は、佐賀玉屋にいた。ほぼ無意識百貨店まで来ていたのである。

「まだ…、今日のうちに出来る事があるはず…」
そんな思索をする私を、エスカレーターは淡々と上階へと運ぶ

このエスカレーターもまた「お客を上下に運ぶ使命を果たす者であるようだ。



――考え事をしたまま、南館6階の“巨大室内遊園地”フロアに着いた。

「おおっ!デパート遊園地と言えば、屋上が普通ではないのか!」
その景色が、私を考え事から解き放った。

「そうだ!この近く商業ビルの中に…」
私は、まだ寄るべき場所がある事に思い至った。

遠き故郷・佐賀帰藩して、“果たすべき使命”は何か。私は、「幕末佐賀藩大河ドラマ」実現の一助となるべく、走り始めたのではなかったか。


――そういう“志”もあるが、せっかく佐賀玉屋に来たのだ。

「このまま、立ち去るのも勿体(もったいない。」

私はくるりと回って、下りエスカレーターへと乗り換えた。地下1階食料品売り場を目指す。佐賀の“地下街”「玉ちか」に立ち寄るのだ。


(続く)

  


2020年12月03日

連続ブログ小説「旅立の剣」(17)誇りを取り戻せ

こんばんは。

昨秋が降る夕暮れの記憶。旅の初日ラストスパートです。


――暮色…というより、とっぷり日が暮れた感じになった。

佐賀玉屋の地下街“玉ちか”。私は佐賀特産品を買い込んだ。地上に出て、県庁通りを渡り、長崎街道(白山通り)を早足にて進む

「人が…、少ない。」
アーケード街。酒類を出すお店は、これからという時間か。昼間に営業する店は、もうシャッターを下ろしている様子だ。



――それでも、私には寄るべき場所がある。

「何故、私は進み続けるのか…」
この旅の途上。時折、浮かんでは消える疑問

たしかに、佐賀の先人たちの功績を知った。

幕末から明治へと転換する時代。佐賀藩官軍への参加が遅かった。それでも、新政府佐賀が“薩長土肥”の一角を占めたのは必然だったようだ。

…だが、それは「いま、私が走る理由」になるのだろうか。


――おそらく、私を動かしているのは、理屈ではない。

私は歩みを速めた。かつて佐賀の志士たちは“義祭同盟”を結成し、この近くの龍造寺八幡宮に集った。参道でもある白山通りを行くのは、実に感慨深い

「…“エスプラッツ”、ここか!!」
佐賀市内の方、ズッコケないでほしい。

“どこかに討ち入りでもしそうな勢い”で記述したが…これは、私の旅日記だ。



――この商業ビルには、佐賀市の観光協会が入っている。

幕末佐賀藩大河ドラマ”が実現したには、多忙を極める組織だろう。

「今のうちから、充分なご準備を…」
これは心の声だ。窓口の人に語ったわけではない。

時刻は、もう18:00に近い。協会は営業終了時刻の間近。
観光客長崎分け合うことになるか。あるいは佐賀大河ドラマで、一番、潤うのは長崎かも知れん。」


――私の、心の声は続く。

「それよりも佐賀必要なのは、持続するブランド力…」
セリフでは、随分と勝手な事を言っているが、誰かに語ったものではない。

これらの思いつきを、説得力を持って人に伝えるためには、私自身相応の努力が要るからだ。実際の私は、関係資料やパンフレットを黙々と集めていた。

証拠だ!証拠固めが要るのだ!」
幕末期。佐賀が最も先進的で、日本中から熱い視線を集めたのは、それほど遠い昔のことではない。


(続く)

  


2020年12月05日

連続ブログ小説「旅立の剣」(18)憩いのシシリアン

こんばんは。
1年前には“コロナ禍”という言葉も無く「大河ドラマ」と言えば経済効果も!…と素直に期待できる状況でした。

前回に「佐賀大河ドラマで、一番、潤うのは長崎かも知れん。」という言葉に込めた想いは、また、いずれ語りたいと思います。

昨秋1泊2日の行程を追った“連続ブログ小説”も、今回で初日分(第1・2シリーズ)終了です。その翌日は「第2回さが維新まつり」が控えていました。


――白山通りのアーケードの下を行く。

12時間くらい移動見学を繰り返した。さすがに疲労感が積もる。

行きの早足と違って、ゆっくりと県庁通りへと戻る。
「まぁ、今日のところは為すべきことは果たしたか…」

ある作家が「青春とは阿呆である」と語ったという。たしかに、この終日行動は、まさしく“阿呆”の所業であったかもしれない。

言い換えれば、その一日、は“青春”の真っ只中にあったのだ。


――佐賀玉屋前に戻った。「中の小路」バス停。

乗り込んだバスの座席。佐賀市営バス一日乗車券を改めて見つめる。
「一日、世話になった…」

最初の佐野常民記念館との往復で、ほぼ元は取れている。お得だった。

金曜夕刻。ちょうどオフィス街からの帰宅ラッシュと重なる。佐賀駅前に近づくと、ちょっとした渋滞ターミナルへの道をバスもゆっくりと進む。



――私が日常、見慣れない景色。不思議な感覚だ。

佐賀駅バスターミナルに入ると「ふーっ」とひと息をついて宿に向かう。もはや、気力は使いきった。そして、明日も早い

私は、強い空腹感を感じていた。部屋に入ると、佐賀玉屋の地下街“玉ちか”の紙袋から楽しみにしていた品を出した。

佐賀名物のB級グルメ“シシリアンライス”である。県外向けに説明を試みると、“甘辛焼肉サラダ丼”だろうか。
美味い…!」

その日、ラストの写真。撮影時刻は18:30を回っていた。


(第3シリーズに続く)