2020年08月31日
第13話「通商条約」⑩(扇の要が外れるとき…)
こんばんは。
話が複雑になりがちなので、細かく掲載します。
今回の投稿では淡々と語りますが、その後の幕末の展開、ひいては日本の歴史に大きい影響のあったと思われる出来事です。
――1857年。強い陽射しの中、佐賀城下を早馬が駆ける…
「火急の用向きにござる!」
早馬の使者が大声を出す。
ほどなく本丸御殿に向かって、50代ほどの年配の武士が急ぐ。
使者から手紙を受け取っている様子だ。
「夏雲さま…いかがなされました。」
古川与一(松根)が声をかけた。
殿・鍋島直正の“執事役”として、忙しい殿の生活をサポートしている人物。
――駆け足だった年配の武士が、古川を見つけて足を止める。
殿・直正の側近、鍋島夏雲(市佑)である。息切れしながらも言葉を発する。
「…殿は何処に居られるか!?」
「何か、大事が御座いましたか!」
古川与一は、夏雲(市佑)の様子に、只事ではない気配を察する。
最近では、黒船来航、異国との条約締結など“一大事”続きである。。
そんな中“フェートン号”事件よりも以前の生まれ、側近の中でも大ベテランの鍋島夏雲が動じている。

――夏雲は、殿・直正の“書記官”とでも言おうか、様々な情報に通じる。
「落ち着いて聞かれよ!阿部伊勢守さまが…」
「…!殿は、書院に居られる、すぐにお知らせなされませ!」
一報を受けた、古川も動揺が隠せない。
“火急の知らせ”とは、10年以上も、幕府政治の中心に居た人物の訃報だった。老中・阿部正弘が急逝したのである。
――そして季節は進む。江戸の佐賀藩邸。
長崎警護を担当する、佐賀藩の参勤交代での江戸滞在は、他の大名より短い期間で認められている。
例によって、慌ただしく江戸での用事をこなす、鍋島直正。
江戸城に登る支度中である。
「伊勢守(阿部)さまが居られぬだけで、随分と騒がしくなったのう…」
安定感抜群、その調整能力で、黒船来航の危機すら乗り切った阿部正弘。にわかに政権の柱を失ったことで、幕政は混乱していた。
「はい、全くでございます。殿は巻き込まれませぬよう、ご用心なされませ。」
古川与一(松根)、支度ついでに忠告をしている。
――江戸城内。様々な大名が、鍋島直正に接触を試みる。
それだけ不穏な時勢に、佐賀の軍事技術は魅力的なのであろう。
殿・直正は、ややこしい話に深入りせぬよう、当たり障りのない対応を心がける。
「鍋島肥前!久しいな。」
薩摩の殿様・島津斉彬である。
「おおっ、薩摩さま。これはお久しゅうござる。」
ここまで周囲を警戒する場面の多かった、殿・直正。
幼少期から付き合いのある島津斉彬の登場に、少し安堵した様子にも見えた。
(続く)
話が複雑になりがちなので、細かく掲載します。
今回の投稿では淡々と語りますが、その後の幕末の展開、ひいては日本の歴史に大きい影響のあったと思われる出来事です。
――1857年。強い陽射しの中、佐賀城下を早馬が駆ける…
「火急の用向きにござる!」
早馬の使者が大声を出す。
ほどなく本丸御殿に向かって、50代ほどの年配の武士が急ぐ。
使者から手紙を受け取っている様子だ。
「夏雲さま…いかがなされました。」
古川与一(松根)が声をかけた。
殿・鍋島直正の“執事役”として、忙しい殿の生活をサポートしている人物。
――駆け足だった年配の武士が、古川を見つけて足を止める。
殿・直正の側近、鍋島夏雲(市佑)である。息切れしながらも言葉を発する。
「…殿は何処に居られるか!?」
「何か、大事が御座いましたか!」
古川与一は、夏雲(市佑)の様子に、只事ではない気配を察する。
最近では、黒船来航、異国との条約締結など“一大事”続きである。。
そんな中“フェートン号”事件よりも以前の生まれ、側近の中でも大ベテランの鍋島夏雲が動じている。

――夏雲は、殿・直正の“書記官”とでも言おうか、様々な情報に通じる。
「落ち着いて聞かれよ!阿部伊勢守さまが…」
「…!殿は、書院に居られる、すぐにお知らせなされませ!」
一報を受けた、古川も動揺が隠せない。
“火急の知らせ”とは、10年以上も、幕府政治の中心に居た人物の訃報だった。老中・阿部正弘が急逝したのである。
――そして季節は進む。江戸の佐賀藩邸。
長崎警護を担当する、佐賀藩の参勤交代での江戸滞在は、他の大名より短い期間で認められている。
例によって、慌ただしく江戸での用事をこなす、鍋島直正。
江戸城に登る支度中である。
「伊勢守(阿部)さまが居られぬだけで、随分と騒がしくなったのう…」
安定感抜群、その調整能力で、黒船来航の危機すら乗り切った阿部正弘。にわかに政権の柱を失ったことで、幕政は混乱していた。
「はい、全くでございます。殿は巻き込まれませぬよう、ご用心なされませ。」
古川与一(松根)、支度ついでに忠告をしている。
――江戸城内。様々な大名が、鍋島直正に接触を試みる。
それだけ不穏な時勢に、佐賀の軍事技術は魅力的なのであろう。
殿・直正は、ややこしい話に深入りせぬよう、当たり障りのない対応を心がける。
「鍋島肥前!久しいな。」
薩摩の殿様・島津斉彬である。
「おおっ、薩摩さま。これはお久しゅうござる。」
ここまで周囲を警戒する場面の多かった、殿・直正。
幼少期から付き合いのある島津斉彬の登場に、少し安堵した様子にも見えた。
(続く)
2020年08月30日
「麒麟が来た!」
こんばんは。
今夜から通常放送が帰ってきた大河ドラマ「麒麟がくる」。
当ブログをご覧の皆様にも、再開を待ち望んだ方が多かったのではと思います。
〔参照:「麒麟を待つ…」,「誰の“視点”から見るか?」〕
「幕末佐賀藩の大河ドラマを見たい」想いから、そのイメージを考えている私からすると“教科書”とも言える存在です。
どう場面転換が行われて、誰を“カメラ”が追っているのか…
あまり知られていないエピソードをどう語るのか…
以降は大河ドラマ「麒麟がくる」の“ネタバレ”を含む記事です。
まだ視聴していない方や、その類の記事が好きでない方は、また、次回以降をご覧いただければと思います。
――今年の大河ドラマ「今までの戦国大河では、触れていたのかな?」という“渋い”話を連発します。
たとえば室町幕府の最後の将軍になる足利義昭〔演:滝藤賢一〕。当時、僧侶として、暮らしていたとか…
三好長慶〔演:山路和弘〕が実質的に“天下人”だった時期だった時期があるとか。その配下・松永久秀〔演:吉田鋼太郎〕が奈良に城を構えていたとか…
…この辺り、私もよく知らない話が多く、単なる歴史好きとして興味深いです。
――さて今回、注目して見ていたポイントです。
前提となる時代背景などは、ナレーションでの解説が多いでしょう。
一方で登場人物が、特に主人公に事情を説明するシーンもよく見られます。
…これは、視聴者に対しての解説にもなっているのでしょう。
――たとえば、主人公の明智十兵衛〔演:長谷川博己〕と、将軍の側近・細川藤孝〔演:眞島秀和〕の会話。
越前(福井)まで、明智十兵衛(光秀)に会いに来た、細川藤孝。
京で将軍・足利義輝〔演:向井理〕が力を失っている情勢について語ります。
「場面の設定と将軍の気持ちを、ここで説明しておくのね…」と思いました。
…細川藤孝が、やたら赤ん坊(光秀の次女・たま)に気に入られたのは、今後の“伏線”でしょうね。
――そう言えば、2004年の大河ドラマ「新選組!」では…
山南敬助〔演:堺雅人〕が、よく周囲に状況説明をする役回りでした。いまやTBSドラマの「倍返しだ!」でおなじみですね。
堺雅人さんを全国区の知名度に押し上げたのは、この配役だった…ように記憶します。
…というわけで、私が書く“本編”で、状況説明をしている登場人物がいたら、期待の温かい目でご覧いただければと思います。
今夜から通常放送が帰ってきた大河ドラマ「麒麟がくる」。
当ブログをご覧の皆様にも、再開を待ち望んだ方が多かったのではと思います。
〔参照:
「幕末佐賀藩の大河ドラマを見たい」想いから、そのイメージを考えている私からすると“教科書”とも言える存在です。
どう場面転換が行われて、誰を“カメラ”が追っているのか…
あまり知られていないエピソードをどう語るのか…
以降は大河ドラマ「麒麟がくる」の“ネタバレ”を含む記事です。
まだ視聴していない方や、その類の記事が好きでない方は、また、次回以降をご覧いただければと思います。
――今年の大河ドラマ「今までの戦国大河では、触れていたのかな?」という“渋い”話を連発します。
たとえば室町幕府の最後の将軍になる足利義昭〔演:滝藤賢一〕。当時、僧侶として、暮らしていたとか…
三好長慶〔演:山路和弘〕が実質的に“天下人”だった時期だった時期があるとか。その配下・松永久秀〔演:吉田鋼太郎〕が奈良に城を構えていたとか…
…この辺り、私もよく知らない話が多く、単なる歴史好きとして興味深いです。
――さて今回、注目して見ていたポイントです。
前提となる時代背景などは、ナレーションでの解説が多いでしょう。
一方で登場人物が、特に主人公に事情を説明するシーンもよく見られます。
…これは、視聴者に対しての解説にもなっているのでしょう。
――たとえば、主人公の明智十兵衛〔演:長谷川博己〕と、将軍の側近・細川藤孝〔演:眞島秀和〕の会話。
越前(福井)まで、明智十兵衛(光秀)に会いに来た、細川藤孝。
京で将軍・足利義輝〔演:向井理〕が力を失っている情勢について語ります。
「場面の設定と将軍の気持ちを、ここで説明しておくのね…」と思いました。
…細川藤孝が、やたら赤ん坊(光秀の次女・たま)に気に入られたのは、今後の“伏線”でしょうね。
――そう言えば、2004年の大河ドラマ「新選組!」では…
山南敬助〔演:堺雅人〕が、よく周囲に状況説明をする役回りでした。いまやTBSドラマの「倍返しだ!」でおなじみですね。
堺雅人さんを全国区の知名度に押し上げたのは、この配役だった…ように記憶します。
…というわけで、私が書く“本編”で、状況説明をしている登場人物がいたら、期待の温かい目でご覧いただければと思います。
2020年08月29日
「異郷の剣」
こんばんは。
来週くらいまで第13話「通商条約」が続きそうなのですが、週末に入ったので、一息入れます。
なかなか故郷に帰ることが叶わない、ある佐賀藩士(?)のお話。これを「望郷の剣」シリーズと称しています。まったく歴史に関わらない、現代の小さな日常の話を“本編”のトーンのまま描きます。
今回は、同じ肥前国でありつつも、佐賀ではない…あえて“異郷”と表現した、長崎への複雑な想い(!)です。
――果たして、お1人でも覚えておられる方がいるだろうか。
私は「望郷の剣2」という投稿で、幾袋かの佐賀銘菓・“丸ぼうろ”を購入した。
〔参照:「望郷の剣2」〕
大袈裟に“脱藩”と形容しているが、私は容易に佐賀へと帰ることができない。そんな私に届けとばかり、眼前に“丸ぼうろ”が現れた話である。
先だって、その最後の1袋を完食した。
「しばしの別れだ。また相見(あいまみ)える、その日まで…」
――こうして、再び“丸ぼうろ”の無い日々を送る私。
断じて「ネットショッピングで買ったら?」などと指摘してはならない。
これは「望郷の剣」シリーズの“お約束”のようなものである。
そんな、ある日。
都市圏で活動を続ける私に、西国からの支援が届く。

――同じ“肥前国”ではあるが、その荷物の差出は長崎からだった。
長崎に住む親族が、送ってきた品。
それは、長崎の某有名カステラ会社の詰め合わせである。
「…これは期待して良いのでは。」
佐賀藩の貿易部門が、品物を検品を行うような心持ちで箱を開封した。
2箱に仕分けられた品の陣容は、以下である。
その1つは、餡をふっくらの生地で包む和風菓子“三笠山”
もう1つは、カステラを生地で巻いた洋風菓子“カステラ巻”
――長崎から来た菓子には“佐賀の品”をも超える要素がある。
それは、甘味の強さである。
「この菓子…“さがんもん”より、かなり甘い!」
昔から“砂糖”と言えば、長崎である。流石(さすが)はシュガーロードと称される“長崎街道”の起点。
“甘さ”で余所に後れをとることは、おそらくは長崎の誇りが許さない。
「これが、長崎にとっての“正義”…」
――砂糖が足らないことは「長崎の遠か…」と例えると聞く。
「佐賀を深く描くには、もっと広く長崎を知らねば…」
江戸時代、長崎は幕府直轄の港だった。また、現在の長崎県にあたる地域には、佐賀藩の領地もあった。
そして大村藩、平戸藩など…“西洋に近い”長崎にある各藩は、影日向に“幕末”に関わってきたのだ。
「長崎には、いずれ向き合わねばなるまい。」
こうして長崎の甘味は、私の決意を新たにするのだった。
来週くらいまで第13話「通商条約」が続きそうなのですが、週末に入ったので、一息入れます。
なかなか故郷に帰ることが叶わない、ある佐賀藩士(?)のお話。これを「望郷の剣」シリーズと称しています。まったく歴史に関わらない、現代の小さな日常の話を“本編”のトーンのまま描きます。
今回は、同じ肥前国でありつつも、佐賀ではない…あえて“異郷”と表現した、長崎への複雑な想い(!)です。
――果たして、お1人でも覚えておられる方がいるだろうか。
私は「望郷の剣2」という投稿で、幾袋かの佐賀銘菓・“丸ぼうろ”を購入した。
〔参照:
大袈裟に“脱藩”と形容しているが、私は容易に佐賀へと帰ることができない。そんな私に届けとばかり、眼前に“丸ぼうろ”が現れた話である。
先だって、その最後の1袋を完食した。
「しばしの別れだ。また相見(あいまみ)える、その日まで…」
――こうして、再び“丸ぼうろ”の無い日々を送る私。
断じて「ネットショッピングで買ったら?」などと指摘してはならない。
これは「望郷の剣」シリーズの“お約束”のようなものである。
そんな、ある日。
都市圏で活動を続ける私に、西国からの支援が届く。
――同じ“肥前国”ではあるが、その荷物の差出は長崎からだった。
長崎に住む親族が、送ってきた品。
それは、長崎の某有名カステラ会社の詰め合わせである。
「…これは期待して良いのでは。」
佐賀藩の貿易部門が、品物を検品を行うような心持ちで箱を開封した。
2箱に仕分けられた品の陣容は、以下である。
その1つは、餡をふっくらの生地で包む和風菓子“三笠山”
もう1つは、カステラを生地で巻いた洋風菓子“カステラ巻”
――長崎から来た菓子には“佐賀の品”をも超える要素がある。
それは、甘味の強さである。
「この菓子…“さがんもん”より、かなり甘い!」
昔から“砂糖”と言えば、長崎である。流石(さすが)はシュガーロードと称される“長崎街道”の起点。
“甘さ”で余所に後れをとることは、おそらくは長崎の誇りが許さない。
「これが、長崎にとっての“正義”…」
――砂糖が足らないことは「長崎の遠か…」と例えると聞く。
「佐賀を深く描くには、もっと広く長崎を知らねば…」
江戸時代、長崎は幕府直轄の港だった。また、現在の長崎県にあたる地域には、佐賀藩の領地もあった。
そして大村藩、平戸藩など…“西洋に近い”長崎にある各藩は、影日向に“幕末”に関わってきたのだ。
「長崎には、いずれ向き合わねばなるまい。」
こうして長崎の甘味は、私の決意を新たにするのだった。
2020年08月28日
第13話「通商条約」⑨(嗚呼、蘭学寮)
こんばんは。
第13話では「日米修好通商条約」までの時代の動きを描こうと試みています。歴史上の国政の話は、油断すると教科書みたいな記述になりがちです。
個人的に佐賀の話を、想像を織り交ぜて書くのが楽しいので、バランスが難しいです。なるべく国政の出来事と、佐賀のエピソードをつなげていくのが、課題かなと思います。
今話は情報量が多過ぎて、「佐賀の大河ドラマ」ならナレーションが相応しい所まで“本編”として書いている感じです。たぶん10回目の投稿では終わりません…
――佐賀城下。以前、大隈八太郎(重信)が乱闘騒ぎを起こした“弘道館”。
いつになく神妙な面持ちで、大隈八太郎が反省を述べる。
「かくも未熟なる私。しかし亡き父への想い…片時も忘れる事はございません。」
大隈は“蘭学寮”の担当者を意識し、今度は決意を語る。
「志半ばで、世を去った父に成り代わり、“砲術”を極めんと、発心しました。」
藩の“砲術長”を務めていた大隈の父・信保。八太郎が13歳のときに急逝した。佐賀が鉄製大砲の鋳造に苦闘を始めていた頃、6年ほど前の話である。
〔参照:第6話「鉄製大砲」⑨〕
――親戚筋の応援も得て、大隈八太郎の“蘭学寮”入りの計画が進む。
葉隠や儒学といった伝統的な学問を好まない大隈は、藩校「弘道館」には戻りたくない。ここで“蘭学寮”に入れれば、親戚や近所にも面目は立つ。
しかも亡父の遺志を継ぐ、“健気な八太郎くん”が演出できるのである。
…これが、誰かの“入れ知恵”だったかは定かではない。
「八太郎も頭を冷やし、改心をいたしました。お許しをいただきたく…」
大隈の思惑を知ってか知らずか、親戚も援護をする。これには母・三井子が影で動いているのは疑いなさそうだ。
〔参照:第13話「通商条約」⑥(母の流儀)〕
じっと大隈の話を聞く、蘭学寮の担当者。亡父の志を果たす…というところに感心した様子である。
「うむ、良かろう!大隈よ、その志を忘れるなよ。」

――やや芝居がかっていた大隈の“亡父への想い”だが、許可が出て“蘭学寮”に入ることに成功する。
父・信保の役職の関係もあり、大砲製造チーム“鋳立方の七人”に詳しい、大隈八太郎。
「杉谷先生!ご高名は、若輩者の我が耳にまでも轟いております。」
「おおっ!大隈信保さまの…ご子息か。」
杉谷雍助は、オランダの技術書の翻訳者。
“これは効率よく勉強ができる!”と高揚する、大隈八太郎。
「杉谷先生のもとで、蘭学を学べるとは!定めし、父・信保も喜んで…」
「済まぬ!大隈。」
「私は、公儀(幕府)の御用で、伊豆・韮山に行かねばならぬ。」
――まさかの長期出張。ご老中・阿部正弘からの“お願い”で、杉谷は韮山反射炉まで技術協力に赴く。
大隈八太郎は、地道な勉強よりも“速習”を好む。ここは気持ちを切り替える。
「そういえば“蘭学寮”には、江藤さんが居られるはず!」
“先生だけでなく、先輩にも頼る!”これが、大隈流である。
「なんだ、大隈。聞いていないのか。江藤は“蘭学寮”を辞めたぞ。」
何と間が悪い…大隈八太郎は困惑した。
「何故(なにゆえ)、江藤さんが、お辞めになったのですか!」
直近の“義祭同盟”の集まりでは、この情報は得ていなかった。あの才気あふれる先輩・江藤新平が、“蘭学寮”を辞めた理由が気になる大隈。
「江藤にも事情があるようだ…詳しくは知らぬゆえ、差し控える。」
――杉谷は言いたくない。「江藤は優秀だったが、残念なことに学費が尽きたのだ!」とは。
「大隈!“蘭学”の道は、努力がものを言う。励むのだぞ!」
「…心得ました。」
“先輩が無理なら、友達にも頼る!”これも大隈流だ。
しかし、中牟田倉之助など同年代の優等生には、長崎の海軍伝習に出ている者が多い。
「仕方なかごたぁ!まずは“蘭書”ば読まんば…!」
大隈八太郎は、渋々ではあるが、地道に辞書を引いて、西洋の書物に触れるのであった。
(続く)
第13話では「日米修好通商条約」までの時代の動きを描こうと試みています。歴史上の国政の話は、油断すると教科書みたいな記述になりがちです。
個人的に佐賀の話を、想像を織り交ぜて書くのが楽しいので、バランスが難しいです。なるべく国政の出来事と、佐賀のエピソードをつなげていくのが、課題かなと思います。
今話は情報量が多過ぎて、「佐賀の大河ドラマ」ならナレーションが相応しい所まで“本編”として書いている感じです。たぶん10回目の投稿では終わりません…
――佐賀城下。以前、大隈八太郎(重信)が乱闘騒ぎを起こした“弘道館”。
いつになく神妙な面持ちで、大隈八太郎が反省を述べる。
「かくも未熟なる私。しかし亡き父への想い…片時も忘れる事はございません。」
大隈は“蘭学寮”の担当者を意識し、今度は決意を語る。
「志半ばで、世を去った父に成り代わり、“砲術”を極めんと、発心しました。」
藩の“砲術長”を務めていた大隈の父・信保。八太郎が13歳のときに急逝した。佐賀が鉄製大砲の鋳造に苦闘を始めていた頃、6年ほど前の話である。
〔参照:
――親戚筋の応援も得て、大隈八太郎の“蘭学寮”入りの計画が進む。
葉隠や儒学といった伝統的な学問を好まない大隈は、藩校「弘道館」には戻りたくない。ここで“蘭学寮”に入れれば、親戚や近所にも面目は立つ。
しかも亡父の遺志を継ぐ、“健気な八太郎くん”が演出できるのである。
…これが、誰かの“入れ知恵”だったかは定かではない。
「八太郎も頭を冷やし、改心をいたしました。お許しをいただきたく…」
大隈の思惑を知ってか知らずか、親戚も援護をする。これには母・三井子が影で動いているのは疑いなさそうだ。
〔参照:
じっと大隈の話を聞く、蘭学寮の担当者。亡父の志を果たす…というところに感心した様子である。
「うむ、良かろう!大隈よ、その志を忘れるなよ。」

――やや芝居がかっていた大隈の“亡父への想い”だが、許可が出て“蘭学寮”に入ることに成功する。
父・信保の役職の関係もあり、大砲製造チーム“鋳立方の七人”に詳しい、大隈八太郎。
「杉谷先生!ご高名は、若輩者の我が耳にまでも轟いております。」
「おおっ!大隈信保さまの…ご子息か。」
杉谷雍助は、オランダの技術書の翻訳者。
“これは効率よく勉強ができる!”と高揚する、大隈八太郎。
「杉谷先生のもとで、蘭学を学べるとは!定めし、父・信保も喜んで…」
「済まぬ!大隈。」
「私は、公儀(幕府)の御用で、伊豆・韮山に行かねばならぬ。」
――まさかの長期出張。ご老中・阿部正弘からの“お願い”で、杉谷は韮山反射炉まで技術協力に赴く。
大隈八太郎は、地道な勉強よりも“速習”を好む。ここは気持ちを切り替える。
「そういえば“蘭学寮”には、江藤さんが居られるはず!」
“先生だけでなく、先輩にも頼る!”これが、大隈流である。
「なんだ、大隈。聞いていないのか。江藤は“蘭学寮”を辞めたぞ。」
何と間が悪い…大隈八太郎は困惑した。
「何故(なにゆえ)、江藤さんが、お辞めになったのですか!」
直近の“義祭同盟”の集まりでは、この情報は得ていなかった。あの才気あふれる先輩・江藤新平が、“蘭学寮”を辞めた理由が気になる大隈。
「江藤にも事情があるようだ…詳しくは知らぬゆえ、差し控える。」
――杉谷は言いたくない。「江藤は優秀だったが、残念なことに学費が尽きたのだ!」とは。
「大隈!“蘭学”の道は、努力がものを言う。励むのだぞ!」
「…心得ました。」
“先輩が無理なら、友達にも頼る!”これも大隈流だ。
しかし、中牟田倉之助など同年代の優等生には、長崎の海軍伝習に出ている者が多い。
「仕方なかごたぁ!まずは“蘭書”ば読まんば…!」
大隈八太郎は、渋々ではあるが、地道に辞書を引いて、西洋の書物に触れるのであった。
(続く)
2020年08月26日
第13話「通商条約」⑧(幕府の要〔かなめ〕)
こんばんは。
1856年には伊豆(静岡)の下田にアメリカの総領事・ハリスが着任します。ハリスと言えば、日米修好通商条約を締結するときの、アメリカ側代表。
最近では、阿部正弘を中心とした黒船来航からの幕府の外交を評価する動きがあります。外国との交渉に当たる人材も、うまく抜擢している印象です。
――江戸城。老中・阿部正弘が鍋島直正にお願いの書状を綴っている。
「先立っては、船に備える見事な“石火矢”、忝(かたじけな)く…」
まずは、佐賀から届いた大砲の御礼である。
ペリーの黒船来航を受け、佐賀藩は城下の多布施に、“幕府用”の大砲工場を設置した。
そして10年以上前から政権の中枢にいる、阿部正弘。
「とにかく人の話を聞かねばならぬ、最善の手を選ぶのだ…」
――この姿勢で“天保の改革”後の混乱を乗り越え、黒船来航の危機にも対処した。
いまも老中の1人として、幕府の中心にいる。
ここで、また阿部への訪問者があった。
阿部が後継者にした、老中首座・堀田正睦である。
「伊勢守(阿部)様。お話ししたき儀がござる。」
堀田は、かなり険しい表情をしている。

――堀田正睦は下総佐倉藩(千葉)のお殿様で、いまや幕府政治のトップ。
「水戸さま(徳川斉昭)の件にござる…」
堀田は小刻みにプルプルと震える。怒りを抑えているかの様子だ。
「堀田どの、まぁ落ち着きなされ。」
阿部は、ちょっと太めでゆるりとしている。しかし、その政治的バランス感覚は達人の域である。
「口を開けば、すぐさま攘夷!と…異国との力の差を全く分かっておられぬ!」
堀田正睦は“開国派”なのだ。
――佐賀では江藤新平も論文に記すが「欧米と戦えば必敗」の情勢。
堀田は「もう、時代はオランダ語よりも英語だ!」と考えるような人物。
外国の技術力を考えずに“攘夷”を唱える人々が、とても無責任に見えている。
おっとりとした容姿の阿部正弘。じっと堀田の話を聞いていた。
「では水戸さまに、お会いして来ようかのう。」
その政治力は高い。一言発するとのっそりと動き出したのである。
「伊勢守(阿部)さま、水戸さまは頑迷(がんめい)の極みにござるぞ。」
堀田は海外事情に通じて賢いが、阿部ほどの余裕が無い。
――ちなみに堀田の方が“老中首座”。現代の感覚では“総理”である。
「水戸さまとて良くお話を聞けば、お分かりいただけようぞ。」
少し動けば、汗をかくような阿部だが、軽く笑みすら浮かべる。
阿部は、徳川斉昭の子・一橋慶喜を将軍に推すグループの良き理解者で通る。この“一橋派”には、島津斉彬など有力大名も集う。
こうして、攘夷派の首領・徳川斉昭からも一目置かれる、阿部正弘。扱いが難しい「水戸さま」も見事に丸め込むのである。

――佐賀城。鍋島直正が、そんな老中・阿部からの書状を受け取る。
「ほほう…伊勢守(阿部正弘)さまからであるか。」
最近の直正だが、大砲だけでなく、蒸気機関を造り、海軍を作ろうと計画する。そしてオランダへの輸出品を考えたりと、普通の大名とは違うところで忙しい。
久しぶりに、しっかりと剣術の稽古をしていた。
「清々しい。たまには汗をかくのも良いものだな。」
最近、胃の調子が優れない直正だが、久しぶりに晴れやかな表情をした。
――手紙は「韮山反射炉の性能が芳しくない。佐賀から技術者を派遣してほしい」という趣旨である。
「本島藤太夫は、長崎だな…」
「はい。伝習に励んでございます。」
答えたのは、書記官のような役回りの鍋島夏雲(市佑)。
当時の大砲製造チームの責任者は、直正の側近・本島藤太夫である。直正と同じく、40代半ばだが、若手藩士と一緒に、長崎で海軍伝習を受けている。
「“火術方”や“蘭学寮”には尋ねますが、この者たちで如何(いかが)かと。」
情報通の鍋島夏雲は、ほぼ対象者の選定を完了していた。
――伊豆・韮山にある幕府の反射炉完成に向けた技術支援のメンバー。
かつて本島がリーダーを務めた“鋳立方の七人”の名が2人ある。
オランダの“技術書”を翻訳した、杉谷雍助。
会計担当で、プロジェクトの進捗に詳しい、田代孫三郎である。
〔参照:第6話「鉄製大砲」③,第6話「鉄製大砲」⑥〕
薩摩の“反射炉”築造の際は、杉谷が翻訳した技術書が提供されている。
――薩摩の島津斉彬は“母方のいとこ”で気心も知れており、鍋島直正からの信用もあった。
直正は、佐賀藩が苦心のすえ作り上げた“虎の巻”を供与し、薩摩の反射炉の完成に、手を貸したのだった。
そして、今度は幕府への助力である。
「この二人に、腕利きの職人衆が付けば、申し分なかろう。」
「はっ。」
直正は、日本全体の技術力でいかに西洋に追いつくかを考える。
幕府の韮山反射炉の責任者だった江川英龍は、佐賀と長年にわたり交流があった。先年、江川は亡くなっていたが、もちろん協力は惜しまないこととなった。
(続く)
1856年には伊豆(静岡)の下田にアメリカの総領事・ハリスが着任します。ハリスと言えば、日米修好通商条約を締結するときの、アメリカ側代表。
最近では、阿部正弘を中心とした黒船来航からの幕府の外交を評価する動きがあります。外国との交渉に当たる人材も、うまく抜擢している印象です。
――江戸城。老中・阿部正弘が鍋島直正にお願いの書状を綴っている。
「先立っては、船に備える見事な“石火矢”、忝(かたじけな)く…」
まずは、佐賀から届いた大砲の御礼である。
ペリーの黒船来航を受け、佐賀藩は城下の多布施に、“幕府用”の大砲工場を設置した。
そして10年以上前から政権の中枢にいる、阿部正弘。
「とにかく人の話を聞かねばならぬ、最善の手を選ぶのだ…」
――この姿勢で“天保の改革”後の混乱を乗り越え、黒船来航の危機にも対処した。
いまも老中の1人として、幕府の中心にいる。
ここで、また阿部への訪問者があった。
阿部が後継者にした、老中首座・堀田正睦である。
「伊勢守(阿部)様。お話ししたき儀がござる。」
堀田は、かなり険しい表情をしている。

――堀田正睦は下総佐倉藩(千葉)のお殿様で、いまや幕府政治のトップ。
「水戸さま(徳川斉昭)の件にござる…」
堀田は小刻みにプルプルと震える。怒りを抑えているかの様子だ。
「堀田どの、まぁ落ち着きなされ。」
阿部は、ちょっと太めでゆるりとしている。しかし、その政治的バランス感覚は達人の域である。
「口を開けば、すぐさま攘夷!と…異国との力の差を全く分かっておられぬ!」
堀田正睦は“開国派”なのだ。
――佐賀では江藤新平も論文に記すが「欧米と戦えば必敗」の情勢。
堀田は「もう、時代はオランダ語よりも英語だ!」と考えるような人物。
外国の技術力を考えずに“攘夷”を唱える人々が、とても無責任に見えている。
おっとりとした容姿の阿部正弘。じっと堀田の話を聞いていた。
「では水戸さまに、お会いして来ようかのう。」
その政治力は高い。一言発するとのっそりと動き出したのである。
「伊勢守(阿部)さま、水戸さまは頑迷(がんめい)の極みにござるぞ。」
堀田は海外事情に通じて賢いが、阿部ほどの余裕が無い。
――ちなみに堀田の方が“老中首座”。現代の感覚では“総理”である。
「水戸さまとて良くお話を聞けば、お分かりいただけようぞ。」
少し動けば、汗をかくような阿部だが、軽く笑みすら浮かべる。
阿部は、徳川斉昭の子・一橋慶喜を将軍に推すグループの良き理解者で通る。この“一橋派”には、島津斉彬など有力大名も集う。
こうして、攘夷派の首領・徳川斉昭からも一目置かれる、阿部正弘。扱いが難しい「水戸さま」も見事に丸め込むのである。

――佐賀城。鍋島直正が、そんな老中・阿部からの書状を受け取る。
「ほほう…伊勢守(阿部正弘)さまからであるか。」
最近の直正だが、大砲だけでなく、蒸気機関を造り、海軍を作ろうと計画する。そしてオランダへの輸出品を考えたりと、普通の大名とは違うところで忙しい。
久しぶりに、しっかりと剣術の稽古をしていた。
「清々しい。たまには汗をかくのも良いものだな。」
最近、胃の調子が優れない直正だが、久しぶりに晴れやかな表情をした。
――手紙は「韮山反射炉の性能が芳しくない。佐賀から技術者を派遣してほしい」という趣旨である。
「本島藤太夫は、長崎だな…」
「はい。伝習に励んでございます。」
答えたのは、書記官のような役回りの鍋島夏雲(市佑)。
当時の大砲製造チームの責任者は、直正の側近・本島藤太夫である。直正と同じく、40代半ばだが、若手藩士と一緒に、長崎で海軍伝習を受けている。
「“火術方”や“蘭学寮”には尋ねますが、この者たちで如何(いかが)かと。」
情報通の鍋島夏雲は、ほぼ対象者の選定を完了していた。
――伊豆・韮山にある幕府の反射炉完成に向けた技術支援のメンバー。
かつて本島がリーダーを務めた“鋳立方の七人”の名が2人ある。
オランダの“技術書”を翻訳した、杉谷雍助。
会計担当で、プロジェクトの進捗に詳しい、田代孫三郎である。
〔参照:
薩摩の“反射炉”築造の際は、杉谷が翻訳した技術書が提供されている。
――薩摩の島津斉彬は“母方のいとこ”で気心も知れており、鍋島直正からの信用もあった。
直正は、佐賀藩が苦心のすえ作り上げた“虎の巻”を供与し、薩摩の反射炉の完成に、手を貸したのだった。
そして、今度は幕府への助力である。
「この二人に、腕利きの職人衆が付けば、申し分なかろう。」
「はっ。」
直正は、日本全体の技術力でいかに西洋に追いつくかを考える。
幕府の韮山反射炉の責任者だった江川英龍は、佐賀と長年にわたり交流があった。先年、江川は亡くなっていたが、もちろん協力は惜しまないこととなった。
(続く)
2020年08月24日
第13話「通商条約」⑦(誰に聞けばよかね?)
こんばんは。
皆様は困り事があったときに、どなたに相談するでしょうか。
藩校を退学になっている大隈八太郎(重信)、“義祭同盟”の仲間と関わりながら、次の一歩を踏み出そうとします。
――佐賀城下。大隈八太郎が、“義祭同盟”でも一緒に活動する久米丈一郎(邦武)と話している。
「それは、弘道館に戻った方が良いかと。」
大隈の友達、久米丈一郎(邦武)。
有田・皿山の代官など、藩の要職を歴任するエリート・久米邦郷の息子である。
「やはり、そがんね…」
大隈は、久米の反応が残念な様子だ。
「弘道館には、面白い書物が山のようにあります!」
久米はニッと笑った。意外とチャーミングである。
「いや、話を聞く相手を間違えたばい…」
「何ね…書物ば読み込むのは、楽しかですよ。」
この2人、仲は良いのだが、話がかみ合っていない。
後に政治家になる大隈と、歴史学者になる久米の興味の違いであろうか。

――向こうの方で、江藤新平と大木喬任(民平)が何やら議論する。
大木が渋い顔をする。
「相変わらず、神陽先生の問いは…ざっといかん(難しい)な。」
一方で江藤は、難しい“宿題”を前向きに捉えた様子だ。
「それゆえ“学び”になるのでは。」
江藤が、課題の解決策を切り出す。
「まず1つは、そこに山積みなる書物を通読し、論旨を拾うこと。」
「そうだな。」
――さらに江藤が声を張る。
「次に長崎より取り寄せた書物との、照し合せが肝要と存ずる。」
「お前が読みたいのは“長崎”の方だろう。山積みの方は、俺が引き受けた!」
そう言うと、大木はフッと笑った。
江藤の気持ちと、自身の得手を考え、分業の役割を決めた様子だ。
――こんな様子だ。どうやら本日、江藤と大木には意見が聞けそうにない。
そこに中野方蔵が現れる。今日も、江戸への留学を目指して奔走している。
「やぁ、皆、お揃いだね!」
「中野さん!相変わらず、お忙しそうですね。」
久米丈一郎も“義祭同盟”に加入して、すっかり城下に顔見知りが増えた様子だ。
「大木兄さんと江藤くんは居るかい!?」
「向こうで、神陽先生の問いを考えておられますよ。」
中野の問いかけに、久米が答える。
――神陽先生の課題は、簡単に答えが出せる類のものではない。
のちに日本の“司法”と“教育”の近代を切り開く2人。江藤と大木は、枝吉神陽の門下で“鍛えられて”いるのだ。
中野は“空気が読める”タイプである。
取り込み中の2人には、話しかけずに去るようだ。
「大隈くんじゃないか。母上さまはお元気かな。」
母・三井子が、よく手料理や菓子を出していたので、中野方蔵も、よく大隈の家には遊びに行っていた。
「思うようにならんことがあるんです。」

――大隈八太郎は、自身の退学で母・三井子が悩んでいることを語った。
「では、大隈くん。“蘭学”ならどうだい。お父上の跡目を継ぐにも良いよ。」
中野はスパッと提案した。その行動力で、情報収集に長じる。
「そがんですね!その手があった!」
亡くなった大隈の父の役職は、佐賀藩の“砲術長”だった。
いまや砲術を学ぶには、西洋の知識は不可欠であり、“蘭学寮”に入れば全ての辻褄(つじつま)が合う。
「中野さん!蘭学寮に入れるなら、“退学”もよかですね!」
「大隈くん…そういうことを言うと偉い人には嫌われるよ。身を立てるなら、言葉には気を付けんばね。」
――中野方蔵は、向こうで話し込んでいる武骨者・大木喬任と、“空気を読まない”江藤新平の友達である。
しかし、わりと要領の良い中野は、無鉄砲な大隈に「“出世”への道」を説くのであった。
この頃、一般的には“蘭学”が出世に有利という感覚はなく、あまり希望者の多い課程ではなかった。大隈の表情は、パッと明るくなったのである。
(続く)
皆様は困り事があったときに、どなたに相談するでしょうか。
藩校を退学になっている大隈八太郎(重信)、“義祭同盟”の仲間と関わりながら、次の一歩を踏み出そうとします。
――佐賀城下。大隈八太郎が、“義祭同盟”でも一緒に活動する久米丈一郎(邦武)と話している。
「それは、弘道館に戻った方が良いかと。」
大隈の友達、久米丈一郎(邦武)。
有田・皿山の代官など、藩の要職を歴任するエリート・久米邦郷の息子である。
「やはり、そがんね…」
大隈は、久米の反応が残念な様子だ。
「弘道館には、面白い書物が山のようにあります!」
久米はニッと笑った。意外とチャーミングである。
「いや、話を聞く相手を間違えたばい…」
「何ね…書物ば読み込むのは、楽しかですよ。」
この2人、仲は良いのだが、話がかみ合っていない。
後に政治家になる大隈と、歴史学者になる久米の興味の違いであろうか。

――向こうの方で、江藤新平と大木喬任(民平)が何やら議論する。
大木が渋い顔をする。
「相変わらず、神陽先生の問いは…ざっといかん(難しい)な。」
一方で江藤は、難しい“宿題”を前向きに捉えた様子だ。
「それゆえ“学び”になるのでは。」
江藤が、課題の解決策を切り出す。
「まず1つは、そこに山積みなる書物を通読し、論旨を拾うこと。」
「そうだな。」
――さらに江藤が声を張る。
「次に長崎より取り寄せた書物との、照し合せが肝要と存ずる。」
「お前が読みたいのは“長崎”の方だろう。山積みの方は、俺が引き受けた!」
そう言うと、大木はフッと笑った。
江藤の気持ちと、自身の得手を考え、分業の役割を決めた様子だ。
――こんな様子だ。どうやら本日、江藤と大木には意見が聞けそうにない。
そこに中野方蔵が現れる。今日も、江戸への留学を目指して奔走している。
「やぁ、皆、お揃いだね!」
「中野さん!相変わらず、お忙しそうですね。」
久米丈一郎も“義祭同盟”に加入して、すっかり城下に顔見知りが増えた様子だ。
「大木兄さんと江藤くんは居るかい!?」
「向こうで、神陽先生の問いを考えておられますよ。」
中野の問いかけに、久米が答える。
――神陽先生の課題は、簡単に答えが出せる類のものではない。
のちに日本の“司法”と“教育”の近代を切り開く2人。江藤と大木は、枝吉神陽の門下で“鍛えられて”いるのだ。
中野は“空気が読める”タイプである。
取り込み中の2人には、話しかけずに去るようだ。
「大隈くんじゃないか。母上さまはお元気かな。」
母・三井子が、よく手料理や菓子を出していたので、中野方蔵も、よく大隈の家には遊びに行っていた。
「思うようにならんことがあるんです。」
――大隈八太郎は、自身の退学で母・三井子が悩んでいることを語った。
「では、大隈くん。“蘭学”ならどうだい。お父上の跡目を継ぐにも良いよ。」
中野はスパッと提案した。その行動力で、情報収集に長じる。
「そがんですね!その手があった!」
亡くなった大隈の父の役職は、佐賀藩の“砲術長”だった。
いまや砲術を学ぶには、西洋の知識は不可欠であり、“蘭学寮”に入れば全ての辻褄(つじつま)が合う。
「中野さん!蘭学寮に入れるなら、“退学”もよかですね!」
「大隈くん…そういうことを言うと偉い人には嫌われるよ。身を立てるなら、言葉には気を付けんばね。」
――中野方蔵は、向こうで話し込んでいる武骨者・大木喬任と、“空気を読まない”江藤新平の友達である。
しかし、わりと要領の良い中野は、無鉄砲な大隈に「“出世”への道」を説くのであった。
この頃、一般的には“蘭学”が出世に有利という感覚はなく、あまり希望者の多い課程ではなかった。大隈の表情は、パッと明るくなったのである。
(続く)
2020年08月22日
第13話「通商条約」⑥(母の流儀)
こんばんは。
女性の登場が少なく、このままではキャストの男女比率が「半沢直樹」よりも偏る“本編”。第1部で女性と言えば、ほとんどを“母”の視点として描きます。
登場機会がもっとも多いのが、大隈八太郎(重信)の母・三井子です。ちなみに八太郎くんは、歳の離れた姉が2人と、他家に養子に入った弟が1人いる「4人姉弟の3番目で長男」だったようです。
いつも登場人物が多めなのですが、今回の投稿は母子2人だけの場面です。このとき、大隈八太郎は、藩校で乱闘騒ぎを起こして退学になっています。
〔参照:第11話「蝦夷探検」⑥(南北騒動始末)〕
――佐賀城下の早朝。大隈家。
朝の澄んだ空気の中。
スーッと呼吸を整える、武家の女性がいる。
大隈の母・三井子である。
威儀を正し、背筋を伸ばして座る。
そして、遥か東にある、京都の方角に向かって、座礼をとった。
大隈三井子は、神仏への信心が厚いだけでなく、皇室を崇敬するのである。
――大隈八太郎。そんな母の姿を見ていた。
「母上、ご立派です…」
八太郎も、直に20歳に届こうかという年頃である。
最近では、藩校「弘道館」で大乱闘を引き起こして退学。
母の後押しもあり、枝吉神陽のもとへ国学を学ぶために出入りしている。神陽と言えば、著名な尊王思想家。
昨夜も“義祭同盟”の仲間と集まって、これからの“国の在り方”を論じていた。そして、夜が遅くなったので、まだ眠いのだ。

――大隈の母は、遠く京都の御所へ“遥拝”(ようはい)をしている。
“遥拝”とは現地に行けない人が、著名な神社などを遠方から拝むことである。高い集中力で、遠く京都にある“皇居”を拝む母・三井子。
神陽のもとで“尊王”を学ぶ、大隈八太郎。
この母にして、この子あり…といったところである。
「八太郎!話があります。」
少し前まで遥か遠方を拝んでいた三井子。後ろに向き直るや否や八太郎に話かける。とても切り替えが早い。
「はい!母上さま。」
この母子の関係性は、八太郎が幼少の頃から、あまり変わっていない様子だ。
――母・三井子が気にするのは、退学した八太郎の“進路”である。
大隈の親戚筋の人々は忠告していた。
「反省ば示して“弘道館”に戻らんね。」
三井子が答える。
「皆様には、ご迷惑をおかけしました。」
「八太郎くんにも先行きがあるったい。学校にも通わずに、どがんすっとね。」
乱闘騒ぎに加わった生徒の大半は、既に藩校に戻っている。
「儂も口を聞いてやるけん、謝ってきんしゃい。」
大隈家は、上級武士の家柄。親戚の思考は常識的である。
――そんな母の気苦労も知らずに“国事”に奔走する志士気取りの八太郎。
「八太郎!弘道館に戻りはしませぬか。」
母・三井子が本題を述べる。
「母上…、もはや弘道館に戻る気はございません。」
子・八太郎の意思はハッキリしていた。
「それは、なにゆえですか!」
母は質問を続ける。
「古い教えに拘(こだわ)る学校は…、嫌なのでございます!」
大隈八太郎は、藩校の主流である、葉隠や儒学を重視する教育に反発した。その思想はそれぞれ、忍耐と秩序の教えでもある。
――母・三井子は、八太郎の返答を受け止める。
「では、如何(いかが)しますか。八太郎は、どうしたいのです?」
「今は、神陽先生のもとで学びたいのです!」
「いいでしょう。でも、これからの事はしっかり考えておくのですよ!」
母なりの激励である。
“八太郎が出す結論を待つ”という姿勢も、またハッキリとしていたのである。
(続く)
女性の登場が少なく、このままではキャストの男女比率が「半沢直樹」よりも偏る“本編”。第1部で女性と言えば、ほとんどを“母”の視点として描きます。
登場機会がもっとも多いのが、大隈八太郎(重信)の母・三井子です。ちなみに八太郎くんは、歳の離れた姉が2人と、他家に養子に入った弟が1人いる「4人姉弟の3番目で長男」だったようです。
いつも登場人物が多めなのですが、今回の投稿は母子2人だけの場面です。このとき、大隈八太郎は、藩校で乱闘騒ぎを起こして退学になっています。
〔参照:
――佐賀城下の早朝。大隈家。
朝の澄んだ空気の中。
スーッと呼吸を整える、武家の女性がいる。
大隈の母・三井子である。
威儀を正し、背筋を伸ばして座る。
そして、遥か東にある、京都の方角に向かって、座礼をとった。
大隈三井子は、神仏への信心が厚いだけでなく、皇室を崇敬するのである。
――大隈八太郎。そんな母の姿を見ていた。
「母上、ご立派です…」
八太郎も、直に20歳に届こうかという年頃である。
最近では、藩校「弘道館」で大乱闘を引き起こして退学。
母の後押しもあり、枝吉神陽のもとへ国学を学ぶために出入りしている。神陽と言えば、著名な尊王思想家。
昨夜も“義祭同盟”の仲間と集まって、これからの“国の在り方”を論じていた。そして、夜が遅くなったので、まだ眠いのだ。

――大隈の母は、遠く京都の御所へ“遥拝”(ようはい)をしている。
“遥拝”とは現地に行けない人が、著名な神社などを遠方から拝むことである。高い集中力で、遠く京都にある“皇居”を拝む母・三井子。
神陽のもとで“尊王”を学ぶ、大隈八太郎。
この母にして、この子あり…といったところである。
「八太郎!話があります。」
少し前まで遥か遠方を拝んでいた三井子。後ろに向き直るや否や八太郎に話かける。とても切り替えが早い。
「はい!母上さま。」
この母子の関係性は、八太郎が幼少の頃から、あまり変わっていない様子だ。
――母・三井子が気にするのは、退学した八太郎の“進路”である。
大隈の親戚筋の人々は忠告していた。
「反省ば示して“弘道館”に戻らんね。」
三井子が答える。
「皆様には、ご迷惑をおかけしました。」
「八太郎くんにも先行きがあるったい。学校にも通わずに、どがんすっとね。」
乱闘騒ぎに加わった生徒の大半は、既に藩校に戻っている。
「儂も口を聞いてやるけん、謝ってきんしゃい。」
大隈家は、上級武士の家柄。親戚の思考は常識的である。
――そんな母の気苦労も知らずに“国事”に奔走する志士気取りの八太郎。
「八太郎!弘道館に戻りはしませぬか。」
母・三井子が本題を述べる。
「母上…、もはや弘道館に戻る気はございません。」
子・八太郎の意思はハッキリしていた。
「それは、なにゆえですか!」
母は質問を続ける。
「古い教えに拘(こだわ)る学校は…、嫌なのでございます!」
大隈八太郎は、藩校の主流である、葉隠や儒学を重視する教育に反発した。その思想はそれぞれ、忍耐と秩序の教えでもある。
――母・三井子は、八太郎の返答を受け止める。
「では、如何(いかが)しますか。八太郎は、どうしたいのです?」
「今は、神陽先生のもとで学びたいのです!」
「いいでしょう。でも、これからの事はしっかり考えておくのですよ!」
母なりの激励である。
“八太郎が出す結論を待つ”という姿勢も、またハッキリとしていたのである。
(続く)
2020年08月20日
第13話「通商条約」⑤(京の雲行き)
こんばんは。
幕末と言えば、京都…とイメージする方も多いのではないでしょうか。
副島種臣(枝吉次郎)は国学者・枝吉神陽の実弟。
幕末期、京都に何度か“留学”をしています。
明治期に新しい国家の組織体制を構築する、副島種臣。古くからの国の形を京都で学び、のちに西洋の近代国家の知識を得て、新時代に活躍しました。
――1855年。副島種臣(枝吉次郎)は、再び佐賀藩より京に派遣された。
ペリー来航の前年(1852年)にも、副島は京に留学していた。
しかし、数年を経て情勢は異なっている。諸外国への開港や、異国船への補給を可能にする、“和親条約”が続々と締結されていた。
先年、大坂(大阪)の港には、プチャーチン提督のロシア船が出現していた。
大坂への異国船出没は、公家たちの度肝を抜いた。
「おろしや(ロシア)の船が、大坂まで乗り込んで来たんやて…」
「えらいこっちゃ…」

――公家たちは言葉こそ柔らかいが、その扱いは非常に難しい…
尊王の志が高い佐賀藩士ならば、なお気を遣うのである。
「枝吉(副島)はん、何とかしてたもれ…」
「そうや、佐賀の者たちは“武芸第一”と言うしな…」
副島種臣が“尊王思想家”・枝吉神陽の弟であることは知られている。
「たしかに佐賀は、いち早く異国に対する備えを尽くしました。」
長崎でロシアと堂々と交渉が進められたのは、佐賀藩が整備した砲台の影響があったという。幕府の交渉役たちも「佐賀の頑張り」を絶賛したのである。
――朝廷の期待は、異国を追い払う“攘夷”である。
幕府のトップは朝廷から“征夷大将軍”に任じられ、国内の支配をしている。
「異国と戦うのが、あんたら武士の仕事や!」と、一応、理屈は通っているのだ。
「ほう…、やはり佐賀の鍋島は頼りになるようや…」
「その力は、お上(帝)の為にお使いになってこそや…」
――しかし、西洋列強との技術力や資源の差は歴然としている。
海路を抑えられでもすれば、“物流”は止まってしまう。
このとき“攘夷”は、既に現実的ではなかった。
幕府の実質的なリーダーである阿部正弘は、“和親条約”を締結した当事者。
その阿部が後継に推したのが、ときの老中首座・堀田正睦である。堀田は熱心な開国派で知られ、英語教育の重要性にまで考えが及んだ。
これから欧米が要求することは、本格的な“通商”である。
長崎港と関わる佐賀藩は既にオランダを通じ、実質的な貿易を進めていた。

――盆地である京都。夏の夜には、ぬるい風が漂う。
夜の風が、副島が伸ばしている顎ひげを撫でて通る。
夏の終わりを告げる“送り火”が、遠くに浮かんでいた。
副島の京都滞在歴は長く、国学に熱心な公家たちからの期待もある。
「そうや、佐賀から“御親兵”を出してもらえんやろか…」
「…“御親兵”でございますか?」
副島が聞き返す。聴き取れなかったのではない、探りを入れている。
「数は、百…いや五十でもええ…」
御所を守護する“御親兵”を出すとは、大変名誉なことである。
幕府の安定が揺らぐ中、朝廷の権威は上昇しつつある。佐賀が先陣を切って、“尊王”の立場を示す好機…副島には、そう感じられた。
――佐賀の皆が憧れる“楠木正成”のように…
「心得ました。お話は、国元(佐賀)に持ち帰りましょう。」
「頼むで…」
この頃、上方(京・大坂)では“尊王攘夷”の気風が盛り上がっていた。
その多くが“尊王”の響きに昂(たかぶ)り、西洋の技術力を理解せず“攘夷”を唱えていた。ギラギラと「成りあがる」機会を狙っている、不遇の武士たち。
――帝を守ってほしいという公家たち。
“京の雲行き“は極めて怪しく、街には不穏な空気が漂い始めていた。
そして、公家たちの心配も的中していく。
京の街には、幕末の嵐が吹き荒れるのである。
(続く)
幕末と言えば、京都…とイメージする方も多いのではないでしょうか。
副島種臣(枝吉次郎)は国学者・枝吉神陽の実弟。
幕末期、京都に何度か“留学”をしています。
明治期に新しい国家の組織体制を構築する、副島種臣。古くからの国の形を京都で学び、のちに西洋の近代国家の知識を得て、新時代に活躍しました。
――1855年。副島種臣(枝吉次郎)は、再び佐賀藩より京に派遣された。
ペリー来航の前年(1852年)にも、副島は京に留学していた。
しかし、数年を経て情勢は異なっている。諸外国への開港や、異国船への補給を可能にする、“和親条約”が続々と締結されていた。
先年、大坂(大阪)の港には、プチャーチン提督のロシア船が出現していた。
大坂への異国船出没は、公家たちの度肝を抜いた。
「おろしや(ロシア)の船が、大坂まで乗り込んで来たんやて…」
「えらいこっちゃ…」
――公家たちは言葉こそ柔らかいが、その扱いは非常に難しい…
尊王の志が高い佐賀藩士ならば、なお気を遣うのである。
「枝吉(副島)はん、何とかしてたもれ…」
「そうや、佐賀の者たちは“武芸第一”と言うしな…」
副島種臣が“尊王思想家”・枝吉神陽の弟であることは知られている。
「たしかに佐賀は、いち早く異国に対する備えを尽くしました。」
長崎でロシアと堂々と交渉が進められたのは、佐賀藩が整備した砲台の影響があったという。幕府の交渉役たちも「佐賀の頑張り」を絶賛したのである。
――朝廷の期待は、異国を追い払う“攘夷”である。
幕府のトップは朝廷から“征夷大将軍”に任じられ、国内の支配をしている。
「異国と戦うのが、あんたら武士の仕事や!」と、一応、理屈は通っているのだ。
「ほう…、やはり佐賀の鍋島は頼りになるようや…」
「その力は、お上(帝)の為にお使いになってこそや…」
――しかし、西洋列強との技術力や資源の差は歴然としている。
海路を抑えられでもすれば、“物流”は止まってしまう。
このとき“攘夷”は、既に現実的ではなかった。
幕府の実質的なリーダーである阿部正弘は、“和親条約”を締結した当事者。
その阿部が後継に推したのが、ときの老中首座・堀田正睦である。堀田は熱心な開国派で知られ、英語教育の重要性にまで考えが及んだ。
これから欧米が要求することは、本格的な“通商”である。
長崎港と関わる佐賀藩は既にオランダを通じ、実質的な貿易を進めていた。

――盆地である京都。夏の夜には、ぬるい風が漂う。
夜の風が、副島が伸ばしている顎ひげを撫でて通る。
夏の終わりを告げる“送り火”が、遠くに浮かんでいた。
副島の京都滞在歴は長く、国学に熱心な公家たちからの期待もある。
「そうや、佐賀から“御親兵”を出してもらえんやろか…」
「…“御親兵”でございますか?」
副島が聞き返す。聴き取れなかったのではない、探りを入れている。
「数は、百…いや五十でもええ…」
御所を守護する“御親兵”を出すとは、大変名誉なことである。
幕府の安定が揺らぐ中、朝廷の権威は上昇しつつある。佐賀が先陣を切って、“尊王”の立場を示す好機…副島には、そう感じられた。
――佐賀の皆が憧れる“楠木正成”のように…
「心得ました。お話は、国元(佐賀)に持ち帰りましょう。」
「頼むで…」
この頃、上方(京・大坂)では“尊王攘夷”の気風が盛り上がっていた。
その多くが“尊王”の響きに昂(たかぶ)り、西洋の技術力を理解せず“攘夷”を唱えていた。ギラギラと「成りあがる」機会を狙っている、不遇の武士たち。
――帝を守ってほしいという公家たち。
“京の雲行き“は極めて怪しく、街には不穏な空気が漂い始めていた。
そして、公家たちの心配も的中していく。
京の街には、幕末の嵐が吹き荒れるのである。
(続く)
2020年08月18日
第13話「通商条約」④(お大事になされませ!)
こんばんは。
本編では行ったり来たりを繰り返しながらも、少しずつ時代が進んでいます。
今回は、白石町ゆかりの人物が2人登場します。
本編序盤から殿を支える、須古(白石町)の領主・鍋島安房。
終盤にはもう1人。写真家として知られ、のちにジャーナリストの先駆けになる人物。佐賀藩医・川崎道民も初登場します。
――1856年。佐賀城下、龍造寺八幡宮にて。
「ようやく、この地に“楠公さま”をお連れすることが叶いました…」
佐賀藩の請役、鍋島安房。
長年に渡り、殿・鍋島直正の“右腕”として働いている。
「安房様のお力添え、誠に忝(かたじけな)く存じます。」
傍らにいるのは、佐賀の尊王活動のリーダー・枝吉神陽である。
「いや、礼には及ばぬ。これは私自身の心の表れだ。」
鍋島安房、実に晴れやかな表情をする。
神陽に言葉を返すと、安房は深々と木像に一礼をした。
――木像は、楠木正成の「桜井の別れ」を描いた父子像である。
南北朝時代に後醍醐天皇に忠義を尽くした、楠木正成。
木像が描き出すのは、決死の戦いの前に子・正行と別れる場面。
〔参照:第4話「諸国遊学」⑧、第7話「尊王義祭」④〕
まるで“尊王の志”の象徴のような像。佐賀城下の中心に近い龍造寺八幡宮の境内に、新たに社を造営し、祀ることとなったのである。。
「安房様、お涙が…。」
「私も歳をとったか…、少し涙もろくなったようだ。」
「その御心、誠に尊い。この神陽、感じ入りました!」
「…神陽。かくいう、お主も涙しておるではないか。」

――お二方の“楠木正成”公への熱い想いは伝わったかと思う。
佐賀の“楠木正成”への敬愛と、“尊王の志”は意外と根が深い。
この楠公の父子が向き合う木像も、江戸初期に佐賀藩士が製作している。
「安房様、この地には、さらに高き志が集いましょうぞ!」
「神陽よ。殿もお主らを見込んでおられる。励めよ。」
枝吉神陽は、佐賀城での政務に戻る、鍋島安房を見送った。
――佐賀城・本丸の廊下にて。
「安房様!こちらに居られましたか。」
保守派の筆頭格・原田小四郎である。
高い実務能力を持ち、最近では藩政の主力に成長しつつある。
「あまり“義祭同盟”に、ご執心なさるのも、いかがなものかと。」
やはり鍋島安房の“活動”を快く思っていない様子だ。
「原田よ。これは私の道楽だ。あまり目くじらを立てるな。」
「私の“道楽”…とは、まるで殿のようなことを仰せですな。」
以前にも殿・鍋島直正からも同じような事を言われている、原田。そのときは“精錬方”(研究所)に対して「予算の使い過ぎ」だと苦言を述べていた。

――保守派・原田小四郎は、“心配事”を口にする。
「諸国で“尊王”を掲げる者たちに、穏やかならざる動きがある様子。」
当時の状況を考えれば、原田の指摘も正しい。
尊王思想の台頭により、各地で派閥抗争が生じるのも、また事実である。
黒船来航や大災害を経て、絶対的だった幕府の力は弱まってきている。
各藩で下級武士たちが“尊王”を旗印に、旧来の秩序をひっくり返そうと動き始めていた。
「佐賀に限っては、そのような事はあるまい。」
「安房様は、お人が良過ぎまする!」
藩校の学生と一緒に学び、下級武士の意見にも向き合ってきた、鍋島安房。常に若い藩士たちに温かい眼差しを向けてきた。
――原田の忠告を受けた後、政務をこなす鍋島安房。佐賀藩の財政はすっかり安定していた。
以前ならば、仕事を片付けた傍から、教育の責任者として藩校「弘道館」に走るところ。しかし、40代半ばの鍋島安房には、長年の無理が積み重なっていた。
身体に残る澱(よど)みのような疲れ、軽快ではない足取りで、佐賀城の堀端に差し掛かる。そこで丸顔の若い医師とすれ違う。
「川崎ではないか!息災であったか。」
鍋島安房から声を掛ける。見知った顔である様子だ。
「はっ!久しくお伺いせず、無礼の段、平にご容赦のほどを。」
才気が前面に出ており、いかにも利発そうな若者である。
丸坊主であり、医術修業中であることが伺える。

――名を川崎道民という。須古領(現・白石町)の侍医の養子である。
殿・鍋島直正のもとに遣わされ、佐賀藩医となった川崎道民。
須古領主である鍋島安房とは、もともとは主従の間柄ということになる。
「はっはっは…気遣いは無用じゃ。よく励んでおると聞くぞ。」
利発な丸顔…川崎道民は、何かに気付いた。
「差し出がましいことを申します。安房様、お顔の色が優れぬご様子…」
軽く笑みを浮かべる、鍋島安房。
「もはや私も昔日のようには、働けぬようだな…」
――「度々、差し出がましくも、私が診て…」言葉を続けようとする川崎を、安房が静かに抑える。
「川崎よ、殿のために尽くせ。お主は、もっと学ぶのだ。」
安房は“ご領主”様としての指示を、川崎に与えた。
西洋の学問を学ばせるため、須古領の侍医に留めずに、佐賀藩医にした期待もあるのだ。
「お大事になされませ!」
川崎は、鍋島安房の背中を見送った。医者としての言葉を添えて。
(続く)
本編では行ったり来たりを繰り返しながらも、少しずつ時代が進んでいます。
今回は、白石町ゆかりの人物が2人登場します。
本編序盤から殿を支える、須古(白石町)の領主・鍋島安房。
終盤にはもう1人。写真家として知られ、のちにジャーナリストの先駆けになる人物。佐賀藩医・川崎道民も初登場します。
――1856年。佐賀城下、龍造寺八幡宮にて。
「ようやく、この地に“楠公さま”をお連れすることが叶いました…」
佐賀藩の請役、鍋島安房。
長年に渡り、殿・鍋島直正の“右腕”として働いている。
「安房様のお力添え、誠に忝(かたじけな)く存じます。」
傍らにいるのは、佐賀の尊王活動のリーダー・枝吉神陽である。
「いや、礼には及ばぬ。これは私自身の心の表れだ。」
鍋島安房、実に晴れやかな表情をする。
神陽に言葉を返すと、安房は深々と木像に一礼をした。
――木像は、楠木正成の「桜井の別れ」を描いた父子像である。
南北朝時代に後醍醐天皇に忠義を尽くした、楠木正成。
木像が描き出すのは、決死の戦いの前に子・正行と別れる場面。
〔参照:
まるで“尊王の志”の象徴のような像。佐賀城下の中心に近い龍造寺八幡宮の境内に、新たに社を造営し、祀ることとなったのである。。
「安房様、お涙が…。」
「私も歳をとったか…、少し涙もろくなったようだ。」
「その御心、誠に尊い。この神陽、感じ入りました!」
「…神陽。かくいう、お主も涙しておるではないか。」
――お二方の“楠木正成”公への熱い想いは伝わったかと思う。
佐賀の“楠木正成”への敬愛と、“尊王の志”は意外と根が深い。
この楠公の父子が向き合う木像も、江戸初期に佐賀藩士が製作している。
「安房様、この地には、さらに高き志が集いましょうぞ!」
「神陽よ。殿もお主らを見込んでおられる。励めよ。」
枝吉神陽は、佐賀城での政務に戻る、鍋島安房を見送った。
――佐賀城・本丸の廊下にて。
「安房様!こちらに居られましたか。」
保守派の筆頭格・原田小四郎である。
高い実務能力を持ち、最近では藩政の主力に成長しつつある。
「あまり“義祭同盟”に、ご執心なさるのも、いかがなものかと。」
やはり鍋島安房の“活動”を快く思っていない様子だ。
「原田よ。これは私の道楽だ。あまり目くじらを立てるな。」
「私の“道楽”…とは、まるで殿のようなことを仰せですな。」
以前にも殿・鍋島直正からも同じような事を言われている、原田。そのときは“精錬方”(研究所)に対して「予算の使い過ぎ」だと苦言を述べていた。

――保守派・原田小四郎は、“心配事”を口にする。
「諸国で“尊王”を掲げる者たちに、穏やかならざる動きがある様子。」
当時の状況を考えれば、原田の指摘も正しい。
尊王思想の台頭により、各地で派閥抗争が生じるのも、また事実である。
黒船来航や大災害を経て、絶対的だった幕府の力は弱まってきている。
各藩で下級武士たちが“尊王”を旗印に、旧来の秩序をひっくり返そうと動き始めていた。
「佐賀に限っては、そのような事はあるまい。」
「安房様は、お人が良過ぎまする!」
藩校の学生と一緒に学び、下級武士の意見にも向き合ってきた、鍋島安房。常に若い藩士たちに温かい眼差しを向けてきた。
――原田の忠告を受けた後、政務をこなす鍋島安房。佐賀藩の財政はすっかり安定していた。
以前ならば、仕事を片付けた傍から、教育の責任者として藩校「弘道館」に走るところ。しかし、40代半ばの鍋島安房には、長年の無理が積み重なっていた。
身体に残る澱(よど)みのような疲れ、軽快ではない足取りで、佐賀城の堀端に差し掛かる。そこで丸顔の若い医師とすれ違う。
「川崎ではないか!息災であったか。」
鍋島安房から声を掛ける。見知った顔である様子だ。
「はっ!久しくお伺いせず、無礼の段、平にご容赦のほどを。」
才気が前面に出ており、いかにも利発そうな若者である。
丸坊主であり、医術修業中であることが伺える。

――名を川崎道民という。須古領(現・白石町)の侍医の養子である。
殿・鍋島直正のもとに遣わされ、佐賀藩医となった川崎道民。
須古領主である鍋島安房とは、もともとは主従の間柄ということになる。
「はっはっは…気遣いは無用じゃ。よく励んでおると聞くぞ。」
利発な丸顔…川崎道民は、何かに気付いた。
「差し出がましいことを申します。安房様、お顔の色が優れぬご様子…」
軽く笑みを浮かべる、鍋島安房。
「もはや私も昔日のようには、働けぬようだな…」
――「度々、差し出がましくも、私が診て…」言葉を続けようとする川崎を、安房が静かに抑える。
「川崎よ、殿のために尽くせ。お主は、もっと学ぶのだ。」
安房は“ご領主”様としての指示を、川崎に与えた。
西洋の学問を学ばせるため、須古領の侍医に留めずに、佐賀藩医にした期待もあるのだ。
「お大事になされませ!」
川崎は、鍋島安房の背中を見送った。医者としての言葉を添えて。
(続く)
2020年08月16日
「主にみやき町民の方を対象にしたつぶやき」
こんばんは。
今年のお盆は何とも気温が高かったですね
…「災害級の暑さ」なんて言葉も聞こえてくるようになりました。
――こう暑いと少しでも涼しく…「水の話」をします。
現在の佐賀市内も、水路(クリーク)の張り巡らされた街。

戦国から江戸初期の話なのですが、佐賀に「水利の神様」とまで呼ばれる人物が現れます。
その名は、成富兵庫茂安(なりとみ ひょうご しげやす)。
龍造寺隆信の傍でも活躍し、後を引き継ぐ鍋島家でも重用された武将です。
――この方のお名前は、みやき町では「北茂安」として地名にも残ります。
成富兵庫茂安は、筑後川流域を一体として、水利システムを構築した”治水家”として知られます。各地域の農業生産を高めた「佐賀の恩人」でもあります。
代表的工事の1つとして、みやき町の「千栗土居」が挙げられます。
さて、佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂公からも寄せられる絶大な信頼。
ご初代は四男・直弘を立派に育てるため、養子として茂安に預けるほどでした。
――ご初代の四男・鍋島直弘は“白石鍋島家”を興(おこ)します。
この白石鍋島家が、現在のみやき町を治めました。
家名は、当初は杵島郡白石(現在の白石町)にあった屋敷に由来するようです。
みやき町にある“白石神社”には、ご領主・鍋島直弘公と、養父・成富兵庫茂安も祀られていると聞きます。
――そして、幕末期のご領主も“白石神社”のご祭神の1人。
本編では「義祭同盟」の式典に佐賀藩の重役が参列していると記しました。
お1人は序盤から登場している、請役で須古領主の鍋島安房(茂真)。当時、藩政のナンバー2で、尊王のカリスマ・枝吉神陽の意見もよく採用します。
もうお1方、白石鍋島家・鍋島河内(直暠)も「義祭同盟」の参加者として名を残しています。幕末には、みやき町のご領主も尊王の活動に熱心だったようです。
〔参照:第12話「海軍伝習」④(義祭同盟の青春)〕
――他にも、みやき町ゆかりの人物が、直前に登場しています。
殿・鍋島直正の“早食い”を注意し、食事の取り方の改善を意見する…
相手が殿であっても、わりと厳しく健康指導を行っている人物。
佐賀藩医・大石良英です。
もともとの所属は、現・みやき町の“白石鍋島家”。
あまりにも優秀なので“本社”に栄転した…という感じでしょうか。
〔参照(終盤):第13話「通商条約」③(医者の言葉は聞いて)〕

――幕末期のみやき町も、蘭方(西洋)医学が盛んだったようです。
大石良英は、佐賀藩の若君・淳一郎(のちの鍋島直大)への種痘の実施を任されるほど、信頼されました。
…なお、写真は一部を拡大していますが、若君の後ろでは、殿・鍋島直正が、すごく心配そうに見守っています。
〔参照:第6話「鉄製大砲」⑦〕
東の対馬藩田代領(現・基山町と鳥栖市東部)は、田代売薬で著名でした。また西の神埼は、もっと全国的に知られて良いはずの“医の巨人”・伊東玄朴の出身地です。
――当時の、みやき町の周辺では、西洋医学も盛んだった…
今回の調べでは、治水に医術…他には「鍋島の陶磁器に京都の技を取り入れた“白石焼”」もありました。
そして「幕末佐賀の海軍整備費用を賄ったハゼの″白蝋”」には以前から注目しています。
今回は、密かに佐賀の技術を育んでいた“みやき町”というまとめ方にしてみました。みやき町民の皆様の共感が得られれば幸いです。
今年のお盆は何とも気温が高かったですね
…「災害級の暑さ」なんて言葉も聞こえてくるようになりました。
――こう暑いと少しでも涼しく…「水の話」をします。
現在の佐賀市内も、水路(クリーク)の張り巡らされた街。
戦国から江戸初期の話なのですが、佐賀に「水利の神様」とまで呼ばれる人物が現れます。
その名は、成富兵庫茂安(なりとみ ひょうご しげやす)。
龍造寺隆信の傍でも活躍し、後を引き継ぐ鍋島家でも重用された武将です。
――この方のお名前は、みやき町では「北茂安」として地名にも残ります。
成富兵庫茂安は、筑後川流域を一体として、水利システムを構築した”治水家”として知られます。各地域の農業生産を高めた「佐賀の恩人」でもあります。
代表的工事の1つとして、みやき町の「千栗土居」が挙げられます。
さて、佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂公からも寄せられる絶大な信頼。
ご初代は四男・直弘を立派に育てるため、養子として茂安に預けるほどでした。
――ご初代の四男・鍋島直弘は“白石鍋島家”を興(おこ)します。
この白石鍋島家が、現在のみやき町を治めました。
家名は、当初は杵島郡白石(現在の白石町)にあった屋敷に由来するようです。
みやき町にある“白石神社”には、ご領主・鍋島直弘公と、養父・成富兵庫茂安も祀られていると聞きます。
――そして、幕末期のご領主も“白石神社”のご祭神の1人。
本編では「義祭同盟」の式典に佐賀藩の重役が参列していると記しました。
お1人は序盤から登場している、請役で須古領主の鍋島安房(茂真)。当時、藩政のナンバー2で、尊王のカリスマ・枝吉神陽の意見もよく採用します。
もうお1方、白石鍋島家・鍋島河内(直暠)も「義祭同盟」の参加者として名を残しています。幕末には、みやき町のご領主も尊王の活動に熱心だったようです。
〔参照:
――他にも、みやき町ゆかりの人物が、直前に登場しています。
殿・鍋島直正の“早食い”を注意し、食事の取り方の改善を意見する…
相手が殿であっても、わりと厳しく健康指導を行っている人物。
佐賀藩医・大石良英です。
もともとの所属は、現・みやき町の“白石鍋島家”。
あまりにも優秀なので“本社”に栄転した…という感じでしょうか。
〔参照(終盤):
――幕末期のみやき町も、蘭方(西洋)医学が盛んだったようです。
大石良英は、佐賀藩の若君・淳一郎(のちの鍋島直大)への種痘の実施を任されるほど、信頼されました。
…なお、写真は一部を拡大していますが、若君の後ろでは、殿・鍋島直正が、すごく心配そうに見守っています。
〔参照:
東の対馬藩田代領(現・基山町と鳥栖市東部)は、田代売薬で著名でした。また西の神埼は、もっと全国的に知られて良いはずの“医の巨人”・伊東玄朴の出身地です。
――当時の、みやき町の周辺では、西洋医学も盛んだった…
今回の調べでは、治水に医術…他には「鍋島の陶磁器に京都の技を取り入れた“白石焼”」もありました。
そして「幕末佐賀の海軍整備費用を賄ったハゼの″白蝋”」には以前から注目しています。
今回は、密かに佐賀の技術を育んでいた“みやき町”というまとめ方にしてみました。みやき町民の皆様の共感が得られれば幸いです。