2022年06月29日

「そこに“かもめ”は、飛ばずとも…」

こんばんは。
私がブログを始めてから2年半ばかり、それは新型コロナの拡大への警戒期と、ほぼ重なっていました。

なかなか佐賀に帰ることはかなわず、当初の計画のように現地で情報収集を行って、物語を進める目算は大きく外れてしまったのです。

そして、県内メディアによる報道も、自然には入って来ない私は、感覚的に気付かないことがあります。


――西九州新幹線も、9月の開業が間近となってきた。

私は、佐賀を走る特急に『かささぎ』という愛称が付くと聞き、意気揚々とした。『かちがらす』だと思えば、さらに佐賀らしさが増す。

しかし、その周辺情報を知った時。いや、冷静に考えればわかる事なのだが、その特急の新設は“救済策”だったことを、遅まきながら理解した。

これは「ボーッと生きてきた」帰結なのか。“佐賀大河ドラマ”を志向する身として、まさに「チコちゃんに叱られ」ても仕方のない展開である。



――なんと、気付いていなかったのだ。

長崎本線を走る、特急『かもめ』が廃止となる重大事に。大都市圏にいる私は、お気楽なことに『かささぎ』が追加されると“足し算”で考えていたのだ。

その次にあった情報が、さらに私を打ち据える。
肥前浜諫早間は、“非電化”区間になる…」

鹿島市までは電車が走るが、太良町からは汽車になることを意味するようだ。

これは厳しい。浮かれている場合では無い…と何やらムズムズとするが、この局面で私にできることは皆無である。


――この頃に見かけた『町報たら 2022年6月号』

「いきなり何を言い出すのか?」という方が大半だろう。もし、これが即座に理解できる方がいれば、佐賀県の太良町民。もしくは、縁のある方に相違ない。

ちなみに、私は『さがファンブログ』から参照した。こういうところは便利な世となっている。大事なのは、その中身である。

そのページの標題は『さが未来発見塾』。主催は佐賀新聞社とある。
https://static.saga-ebooks.jp/actibook_data/t_tara_2022_06_2022006130000/HTML5/pc.html#/page/3(『町報たら』の掲載箇所※外部リンク)


――参加者は、太良町の中学3年生。

塾生”として、その企画に参加したのは11名。言うなれば太良町の“明日”のために、7つのプランを建言していた。

多少、私が書きやすいように言葉を加除しながら記す。



その1.海中鳥居に「新たらふく館」(道の駅)を
その2.「6時間観光プラン」で滞在時間増

以下は、3.「太良ミカンアイス」を夏の名物に、4.家族向けに海のレジャーを充実、5.SNSでの魅力発信の強化、6.道の駅連携で「車での観光」を促進、7.兼業・副業で働く場所を増やす…というように続く。

なお、県内の各地域で同様の企画は開催されるが、今回は、非電化の憂き目にあう、太良町の“反撃”の物語を見守りたい。


――そして、私の目がとまったのは、“その2”だ。

6時間…観光プランだと…!?」
県内・近隣県からの行楽や、遠距離の観光客の旅プランの一部に…ということなのだろうか。

この一文は、私に発想転換を促すことになる。私は、佐賀に“帰藩”するためには、まとまった日程が要ると思い込んでいたのだ。

「そうだ、佐賀に行こう。」
まだ太良町には足を運べずとも、この“6時間観光”という象徴的なキーワードは、私にも勇気を与えたのである。


――太良町の中学生が考えた“6時間”には…

実はもっと深い意図があった。有明海の干満の差は6メートルもあって、日本一という。その満ち引き時間に合わせ、観光プランを立てるらしい。

名所・海中鳥居の前に拠点となる施設を築き、万全の体勢で待ち受けるのようだ。「月の引力が見える町」という、“異名”も映える戦術と感じさせる。


――「望みを捨てぬ者だけに、道は開けるのです。」

ふと思い出すのは、2016年大河ドラマ『真田丸』で、主人公・真田信繁(幸村)〔演:堺雅人〕が発したセリフである。

若者が考えた太良町7つの策が、功を奏することを期待したい。



特急は肥前鹿島駅で止まろうとも、肥前浜駅以降はディーゼル車が走ろうと、これからも『多良海道』の物語は、諫早を経て、長崎まで続くに違いない。

映える”使い方かはさておき、私もブログでは太良町写真を多用している。応援になるかはともかく、その辺りも近いうちに紹介したいと考えている。







  
タグ :佐賀太良町


Posted by SR at 21:49 | Comments(2) | 佐賀への道

2022年06月24日

「醒覚の剣(蛙歌)」

こんばんは。
私は“大河ドラマ”を意識してブログを進めているため、テレビなどのメディアで「佐賀が、どのように伝えられるか」に、かなり注目している方だと思います。

佐賀出身の芸能人を多く見るわけではありませんが、最近では「佐賀への愛」を臆せずに語る傾向も出てきた…と感じるところです。

コメントの類型(パターン)は幾つかありますが、まず「食べ物が美味しい」は、よく聞きます。納得の答えです。


――そして「疲れた人には、佐賀はお勧めできる…」と。

ここからは、ありふれた日常をどことなく、幕末っぽく語るシリーズです。最近、やや疲れ気味の私に、佐賀から届いた“”がありました。



「そろそろ、落ち着いて来たとよ。」
私の電話佐賀県へとつながっている。声の主は、叔父上である。

猛威をふるった新型コロナの影響も弱まり、大都市圏から佐賀に帰省できた人も多いだろう。そろそろ郷里との往来も可能のはずだ。


――私がブログを始めてから、記事は通算500本を超えた。

その期間は概ね2年半になる。主に「幕末佐賀藩大河ドラマ」のイメージを書き連ねてきたのだが、実はこの間、一度も佐賀に帰れてはいない。

「…今度は別の理由で、なかなか帰れそうにありません。」

いろいろとタイミングに不都合がある。動ける可能性のある時には“緊急事態宣言”にぶつかり、“警戒”が緩んでいる時には、仕事等が忙しい。


――そんな経過もあり、叔父上は私に代わって…

写真素材の確保を引き受けてくれており、県内各地を探索中の状況にある。

「ちょっと地図を見てくるばい、」
電話を携えて、叔父上は車に置いた地図を取るのか、屋外へと出た様子だ。

「ゲコゲコ…ケロケロ、グワッグワッ…」

叔父上の移動中。不意に電話へと語りかけてきたのは、佐賀に住むたち。まさに『かえるの合唱』が、遠方にいる私の耳にまで届く…


――「叔父上、こちらにも“かえるの歌”が聞こえる…」

「あ~、いつもの事やけん。気にもせんかったよ。」
佐賀の六月である、四方の水田から響き渡るは“蛙の歌声”。地元に居れば、いちいち心が動く事ではないだろう。

しかし、もはや四周が“コンクリートジャングル”と言ってしまってよい、無機質な暮らしぶりのには響くものがある。



都市圏域でも少し移動すれば、さすがに蛙ぐらいは豊富に居るはずなのだが、何やら“佐賀の蛙”は、私に直接、語りかけてくる感じがした。


――「早う、帰って来んね。」

実際のところ、ケロケロ、クワックワッ…と、恵みの雨の予感に喜んでいるだけかもしれない。但したちとて、豪雨は願い下げだろう、ほどよく降ってほしい。

そんな蛙の歌に耳を澄ませる。私には「たまには、顔ぐらい出さんね。」という、メッセージにも感じられるのだ。

佐賀カエルには「そがんこと、言っとらんばい。」と異論があるかもしれないが、私はそう受け取った。


――「月並みだが、何とか近々に“かえる”としよう。」

安直だが、私はそう考えた。“佐賀蛙歌”は、乾いた心に染み入って、潤いをもたらしたのである。

「まさか…カエルで、そんなに喜ぶとは思わんかったよ。」
叔父上が苦笑するのは電話口にもわかる様子だが、それはそれで良かった。

こうして、幕末の佐賀藩を追い求めるだけでなく、いまの佐賀県もどうにか語りたい…また、そんな想いに至るのだった。




  
タグ :佐賀


Posted by SR at 21:57 | Comments(2) | 「望郷の剣」シリーズ

2022年06月19日

「記事500件目への到達」

こんにちは。
幕末佐賀藩大河ドラマをイメージして書いています“本編”の現在位置は、第18話京都見聞」の中盤です。

そして、例によって書き溜めた原稿のストックが切れましたので、また小休止を入れたいと思います。


――前回で、通算での記事投稿数が500件になりました。

ちょうど本編で描いたのは、佐賀を脱藩した江藤新平が、京都にある長州藩の屋敷に乗り込んだ場面。
〔参照:第18話「京都見聞」⑫(江藤、“長州”と出会う)



この展開が、のちに明治初頭で新政府に、佐賀藩が加わって“薩長土肥”の一角に入ることにつながっていきます。

場面の描写は想像によるところですが、ここが後の明治への転換期にかなり大きい意味を持ってくるので、区切りとしては良かったのではと思います。


――実際に書いてみて、体感していることがあります。

昨年(2021年)の夏。佐賀の視点から幕末の動乱期を描こうと、本編を再開し、第2部を始めてから1年あまり。
〔参照:「第2部を、どう描くか?」

ひたすら幕末黎明期の“佐賀による近代化”を綴る感じだった第1部と違い、相当に書きづらい第2部
〔参照(中盤):「佐賀の物語を描け!」(独自色③)

直接的には佐賀藩の話ではない、幕府他の雄藩の動向など…抑えるべきポイントは増える一方なのです。


――この辺りが、佐賀の「大河ドラマ」への道が険しい理由の一つかも。

例えば司馬遼太郎さんの『歳月』などの作品を読むと書きやすくなりそうですが、私の力量では“名作”に引っ張られた話になってしまう…と思っています。

まずは、なるべく佐賀特化したオリジナルの試作品を作りたい想いがあり、これが“本編”を書くうえで四苦八苦する理由です。
〔参照:「長崎街道をゆく」



私が調べている情報にも、司馬先生の影響を受けた記述が含まれる可能性はありますが、当面、作品自体は読まないようにしています。

今のところ、他にも各作家の先生が著わした“佐賀歴史ドラマ”の傑作も、一通り書き終えてから読むつもりです。

後で「こう書けば良かったか…」という気分にひたるのも、楽しみにしています。


――私の周辺にも、何やら険しさを増す…日々の仕事。

たしかに私の書く記事の“燃料”にもなっている、仕事のストレスですが、最近は「燃料過積載」の傾向があり、こうなると厳しいところ。

ブログ開始当初から比べれば、記事の投稿頻度も相当に落ちており、現在は3~4日1記事がやっとのペースになっています。

新型コロナ禍は一時より落ち着いているのに、佐賀へと“帰藩”できない要因でもあります。どこかで隙を見つけ、再び「佐賀への道」は開きたいです。


――というわけで、第18話「京都見聞」の後半の…

再開の時期は、話の構成や下書きが、ある程度整ってからになりそうです。

長州藩と接点を持つことになった江藤は、ある有力な公家と出会い、幕末の動乱が深まっていく京都の情勢を探ることに…というあらすじの予定。

しばらくは佐賀への「望郷の想い」を時折綴っていきたいと考えていますので、こちらもよろしくお願いします。




  


Posted by SR at 18:23 | Comments(2) | 佐賀への道

2022年06月15日

第18話「京都見聞」⑫(江藤、“長州”と出会う)

こんばんは。
前回の続きです。鴨川近くにある、長州藩(山口)の屋敷にたどり着いた江藤新平

藩邸の門前で、いつものように声を張ります。屋敷から出てきたは、江藤のことをじっと見つめるのでした。

この場で応対に出た人物明治期には大政治家として知られるのですが、ここでは、桂小五郎の配下としてご覧ください。


――ここの屋敷に居る、上級武士の手下と思われる男。

まるで商人が相手の支払い能力を値踏みするような眼差し、江藤の身なりでは、即座にお断りだろう。



しかし、このの反応は意外なもので、あっさりとこう言い放つ。
「よし、さまはお会いになるじゃろと思います。」

屈強な感じの体躯だが、えらく軽い男だ。江藤が今まで会ったことが無さそうな類型の人物である。
「申し遅れました。伊藤俊輔と言います。お見知りおきを。」


――伊藤という男は“謎の脱藩者”に対して、すかさず名乗った。

江藤と申す。世話をかける。」
「では、こちらにどうぞ。」
続いて、あっさりと屋敷内に案内して、座敷で待つように促した。

「恐れ入る。」
このトントン拍子の展開には、江藤も面食らった。よく小回りが効き、頭の回転も速い人物と見える。

そして、長州藩の屋敷には質素倹約とは似ても似つかない、金回りの良さを感じさせる雰囲気があった。
「甚(はなは)だ、華美なり…。」



――見栄えも重視する、西国の雄・長州藩。

当時の流通は、日本沿海廻る船によって支えられた。商人たちは陸地に沿った航路で、港から港へと回る中で、各地の物産を取引していく。

日本海側から瀬戸内海を通り、天下の台所・大坂(大阪)に至る。その航路の要所・下関などの港がある長州藩(山口)は豊かになる基礎があった。

財政が好転してからは、商人への金払いも良いのか、上方(京・大坂)の町衆たちからの受けも良い。

佐賀から来たと聞く。待たせた。」
立派な衣服に身を包んだ、若い上級武士と見える人物が姿を見せる。


――ここでも、展開が早い。これが雄藩・長州の流儀か。

「そろそろ、佐賀の者と話がしたいと思っていた。」

この人物が、祇園太郎に聞いた“さん”だろう。神道無念流の剣の遣い手で、江戸の三大道場の1つ・練兵館でも塾頭を務めたらしい。

江藤と申す。故(ゆえ)ありて佐賀を抜け、に至った。」
相変わらず語り口調は固いが、江藤からも名乗った。

だ。気になっては居たが、佐賀は今ひとつ真意がわからんのじゃ。」



もはや身なり粗末な下級武士でも「…ついに佐賀代表が来た」という扱い。この場合、江藤の堂々とした態度は効果的だ。

西洋との交易での経済力も高く、国内最新鋭軍事技術を持つが、どう動くかわからない…と見られていた、佐賀藩

佐賀の動向は幕府他藩にも影響するため、「何の腹づもりがあるのか…」と常に注目される。


――桂小五郎は、医者の家の出身だったが、

当時、江戸剣術道場は各藩から有為の人材が集まり、も各地の志士と交流した。西洋技術に通じる者も訪ね、見識を磨いた。

文武両道に通じ、他藩ともつながる桂小五郎。いまや藩内で大出世を遂げ、長州の若きリーダー格として存在感が見てとれる。



江藤くんだったな。佐賀の方には、お聞きしたい事が山ほどあるゆえ。」
上機嫌に語ると見える、桂小五郎絹地であろうか、いかにも心地がよさそうな着物を翻す。

「やはり、華美なり…。」
脱藩者でありながら、自然と“鍋島武士”の精神を重んじてしまう江藤佐賀藩質素倹約の掟が、まったく抜けていない。

期せずして、江藤は“佐賀の者”として存在感を示すことになり、での活動は前に進むのだった。


(続く)



  


Posted by SR at 21:59 | Comments(0) | 第18話「京都見聞」

2022年06月12日

第18話「京都見聞」⑪(佐賀より来たる者なり)

こんばんは。前回の続きです。

江藤新平が、佐賀から京都に脱藩した際の“物語”を綴っています。の“川の港”伏見から、同郷の脱藩者・祇園太郎に案内される設定で描きました。
〔参照(後半):第18話「京都見聞」⑥(もう1人の脱藩者)

協力者が居たのでは…と推測から構成したため、史実寄りのお話ではないのですが、江藤より前に脱藩し、共通の人物と接点があったのが、祇園太郎

佐賀城下の「義祭同盟」と小城支藩の志士とは、藩内で連携があったと聞き、本編では小城での人脈が、江藤活動を後押しする展開で表現しています。
〔参照(前半):第18話「京都見聞」⑤(清水の滝、何処…)



――京の都。鴨川にも近く、御池通に位置する長州藩邸。

京を去る」とは言ったが、まだ祇園太郎は“見聞”を続けているのか、屋敷の門前を見つめる。

この江藤という男。少々危なっかしく、同郷の者として気になって仕方が無い。少し遠くから見守ると、門前のやり取りが耳に入った。

「この屋敷で立場ある方に、お目通り願いたい。」
「…何者じゃ。」

身なりはともかく、江藤は堂々とした態度。長州藩の門番は不審がっている。何の前触れもなく、藩の要職にある桂小五郎への面談を求めてきたのだ。

佐賀から来ただ。お会いできるか。」
「…何と、佐賀じゃと!?」


――追い返そうとしていた門番に、困惑の様子が見られる。

西洋技術に長じる」が、「二重鎖国得体が知れない」ことでも知られる…佐賀藩士が、ここに1人で来ている事自体が、不自然だ。

江藤が発する声は相変わらず、よく通る。しかも、脱藩者を名乗るわりには、佐賀藩から来たことを強く示している。



「…あん男。やっぱり、何(なん)もわかっとらんばい…」

半ば呆気にとられた感じで、祇園太郎が“佐賀ことば”で独りつぶやく。やはり「危うい動きは避けた方が良い…」という忠告は、江藤には響かないようだ。

一方で痛快に感じるところもあった。どちらかと言えば「“佐賀”を表に出さず」に活動してきた自分とは違う。


――きっと、このような者が時代を回すのだ…

長州藩邸の門前には、何らかの信念を持って立つ、佐賀からの脱藩者

追い返す判断に自信が持てないか、慌てて屋敷内と連絡を取る門番。遠目に江藤の立ち姿を見て、祇園太郎は一つ大きく頷いた。

もう信じるしかあるまい、どう見ても普通ではない、この男を。
おいは、もう長崎に行くけん。“武運”を祈っとるばい…。」



小城から出て来た“もう1人脱藩者”は、志士たちとの交流で、各藩の動向をよく知っていた。

志士でありながら、“密偵”の任務も背負うらしい祇園太郎。この間の活動で、収集した情報を、佐賀への“手土産”に携えて九州への道を歩み始めた。


――長州藩邸では、門番から応対を引き継がれた者が出る。

上級武士の手下らしい風体の人物が、江藤にあらためて問う。
貴方は間違えなく、佐賀から来られたので…?」

「六月の末に佐賀を抜けた。さまは、屋敷に居られるか。」

出てきた男は、じっと江藤を見つめる。旅の埃にまみれた衣服が目に付く。
「…お召し物は、取り替えられた方がよろしいのでは。」

佐賀では、質素倹約を旨としておるゆえ。」
「これからは、見栄えも大事にございますよ。」

とにかく、じろじろと相手をよく見る男だった。そのうえで、ふと表情を緩めた。


(続く)



  


Posted by SR at 17:38 | Comments(0) | 第18話「京都見聞」

2022年06月08日

第18話「京都見聞」⑩(小城の風が、都に吹いた)

こんばんは。
三条付近まで至った、江藤新平。同郷の志士・祇園太郎から情報を得ていく設定で物語を展開しています。

この2人接点はあるようですが、京の都関わりがあったかは定かではありません。なお、双方とも長州(山口)が誇る人物とのつながりがあります。

文久二年(1862年)に、江藤佐賀を脱藩して、で活動する際に出会ったのが、長州藩士桂小五郎



翌・文久三年(1863年)に祇園太郎(古賀利渉)は朝廷の教育機関・学習院に出仕します。その時の紹介者も、桂小五郎だそうです。

この時点で、それだけの信頼を得ていたとすれば、その少し前から祇園太郎長州とは関わりがあったはず…と考えました。


――足早に進む、江藤に何とか付いていく、祇園太郎。

「まずは、長州久坂という者に会わねばならん。」
江藤さん、そがん早う歩いて、どがんすっとね。」

念のため、佐賀県外の人に補足する。「そんなに早く歩いて、どうするのか…」の意で、読んでほしい。

「それだけ、急げば早く着こう。」
理屈っぽく言い返す、江藤気が急くのは、秋月の志士の悲報を聞き、また、背負う想いが増えてしまったのかもしれない。

佐賀を抜ける直接のきっかけになったのは、親友・中野方蔵が江戸で投獄されたまま、世を去ったこと。
〔参照(終盤):第17話「佐賀脱藩」⑱(青葉茂れる頃に)


――その親友・中野方蔵の手紙に、よく見かけた名。

その長州の者に会わねばならない。久坂玄瑞と言い、江戸でも志士たちの間で注目を集める人物らしい。

待たんね!」
こればかり、言っている感じの祇園太郎だが、この冷静さででの活動中に身を守ってきたようだ。

「…そもそも、久坂さんは、には居らんばい。」



――祇園太郎の言葉を受けて、江藤が言葉を返す。

「貴君。長州とも、つながりがあるのか。」

江藤の反応に、祇園太郎は少し得意げに答える。
久坂さんは、には居らんばってん、さんを尋ねると良かよ。」

さん…とは、何者だ。」
「いまや長州の“出世頭”たい。久坂さんより会うべき人物かも知れんとよ。」


――その言葉で、さらに前のめりとなった、江藤

「よし、急ごう。」
「だから、待たんね。」

やむなく駆け出した、祇園太郎が、ドン!と派手に追突する。今度は江藤が、急に立ち止まったのだ。

「…なんや、調子の狂うばい。」
貴君が、“待て”と繰り返すゆえ、待つことにした。」

おいは、これから長崎に行かんばならんと。道案内は、この辺りまでたい。」


――伏見で急に現れた“祇園太郎”だったが、今度は、突然の退出宣言。

「そうか。ここまで忝(かたじけな)かった。」
「…よか。同郷よしみばい。」

「ところで、真(まこと)のは、何と言う。」
礼を言うや否や、江藤が質問する。なんとなく、答えた方が良さそうな流れになっている。

盆地である京の都は、空気が澱(よど)んだ感じだ。籠もったような温い風が、頬(ほお)を撫でていく。



――京の夏。高瀬川に小舟の行き交う、川べり。

この街では、随分と“祇園太郎”として頑張ってきた。その名は素性を隠すのに好都合なだけでなく、もはや“誇り”と言ってもよい。

地元の小城にそびえる、まで続くような石段を駆け上がるほどのその名にはいつしか、そんな想いまでも乗っていた。

こうして、せっかく「謎の男祇園太郎」として眼前に現れたのに、この江藤という佐賀の者は、まったく空気を読んでくれない。


――「真の名は、“古賀”と言いよるばい!こいで、よかね!」

語気も強めに言い放つ、祇園太郎。本名は、古賀利渉という。

もとは小城大庄屋だったが、尊王攘夷の思想に目覚め、脱藩に至った。行きがかり上、国元・佐賀からの様々な思惑も背負い込み、いまで走る。

「また、古賀さんか…世話に、成りっぱなしだ。」
「何ね!」
祇園太郎は、少しご立腹だ。上方(京・大坂)の人間を気取ってみたかったのに、江藤が次々と正体を暴くので、格好が付けられない。

何やら、同郷の者に引っ張られて、完全に佐賀の者に戻ってしまった気分だ。地元・小城の風まで感じるほどに。



――郷里は懐かしいが、勤王の志士・“祇園太郎”としては不本意である。

江藤はそんな気持ちを意に介さず、祇園太郎に正対し、深々と一礼した。
「いや、古賀どの。恩に着る。」

…こう丁寧に感謝されると悪い気はしない。

「よかね。お主危うかところのあるけん、これからは気を付けんば。」
「心得た。」


――本当にわかっているのか…少し疑わしい。

「…ほな、さいなら。」
祇園太郎は、急に口調を、よそよそしい“上方ことば”に戻した。

久々に同郷の者と話したので、佐賀ことばが強く出ていたが、本来は、あまり佐賀を表に出さない。これがで活動する時の流儀だ。

周囲に溶け込めば、得られる情報量も増えることが多い。しかし、この江藤というは、そんな事は気にもせず、真っ直ぐに突き進むのだろう。

「…この男に限っては、それも悪くはない」と考え始めた、祇園太郎だった。


(続く)




  


Posted by SR at 22:12 | Comments(0) | 第18話「京都見聞」

2022年06月05日

「志士たちの悲劇について(第18話・場面解説②)」

こんばんは。
直近の“本編”3回は、現在の福岡県朝倉市にある“小京都”・秋月を意識した話を展開しました。

江戸期、佐賀藩と交互に長崎警備を務めた福岡藩。福岡の支藩である秋月藩も、本藩に代わり長崎の警備を担当したこともあり、進んだ地域でした。



現在、書き進める第18話前半の展開の軸になる“寺田屋騒動”は、幕末史でも、描き方が難しいテーマだと思います。

一般的には、薩摩藩内紛として扱われることが多いのですが、その周辺には色々と複雑な話があるようです。


――その秋月の志士・海賀宮門の名は、

江藤新平脱藩する少し前の時期に、佐賀を来訪した志士として知りました。

福岡平野国臣秋月海賀宮門など、藩の枠を越えて活動している姿が、江藤佐賀からの脱藩に影響したとも言われます。

本編”でも、師匠・枝吉神陽のもとに同座して、熱く語る福岡志士から話を聞く場面も描きました。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑨(佐賀に“三平”あり)



――ところが、いたく冷静な佐賀のカリスマ・枝吉神陽。

福岡志士たちも、福岡秋月など所属するを動かしたかったはずですが、彼らは自藩から、捕らえられたり、追われたり…という傾向です。

一方で佐賀枝吉神陽は、他藩の尊王思想の指導者と比べて、上層部とも、折り合いを付けていた印象があります。

こうして福岡志士たちに共感を示すも、具体的な計画には乗らず、佐賀藩を一体として“勤王”へと向かうイメージがあったと推測しています。


――あるいは、弟子たちの身を案じたか…

先ほどの師匠・枝吉神陽の態度は、江藤などの弟子たちが、“暴挙”に出ないよう抑えていたようにも見えます。

この辺りの過激な志士の動きといえば、“桜田門外の変”など暗殺や襲撃により、幕政の動揺・転覆を志向するものが続発しました。
〔参照:第15話「江戸動乱」⑮(雪の舞う三月)

江戸で発生し、江藤らの親友・中野方蔵が巻き込まれた“坂下門外の変”も、幕府老中への襲撃事件でした。
〔参照(終盤):第17話「佐賀脱藩」⑯(つながりは諸刃の剣)

寺田屋騒動”も幕府寄りの公家などを排除する計画が発端とされます。薩摩の立場では、藩内勤王派の暴発を未然に防いだというところがあるのでしょう。
〔参照(後半):「幕末!京都事件ファイル①〔前編〕」



――薩摩としては、藩内の“内紛”で終わらせたかった…

ここで問題となるのは、寺田屋に集っていた公家の関係者や他藩の志士。

公家の中山忠能に仕えて、幼少期の明治天皇の教育係だった田中河内介久留米水天宮の神官で、尊王攘夷の活動家として著名だった真木和泉

こうした求心力の強い人物が居たためか、寺田屋諸国志士も集結したようです。騒動に関与した薩摩藩士の制圧後は、彼らの処遇が課題となります。

久留米真木和泉らは出身のに引き取られ、田中河内介など公家の関係者や、自藩が引き取らない者は留め置かれたようです。


――そして、秋月の志士・海賀宮門(直求)は、

薩摩への移送に同意して若い志士たちとに乗ったのですが、落命した状態で、日向(宮崎)の細島の地に流れ着きました。

細島の人々が現場で確認したところ、身につけていた腹巻きに、身元を特定する情報がありました。

そこには「赤心報国 唯四字」という言葉と「黒田家臣 海賀直求」という身分と氏名が記されていたそうです。



――これにより、残り二人の身元も特定されていきます。

肥前・島原(長崎)の中村主計。もう一人は但馬(兵庫)出身の千葉郁太郎と調べがついたそうです。

薩摩への護送中に斬り捨てられたと見られる、海賀たち三人。その亡きがらは、日向・細島の人々により丁重に葬られました。

彼らが供養される地は、海賀の身元から、いつしか『黒田の家臣』と呼ばれるようになったとか。


――おそらくは熱い想いをもって、佐賀に来訪した志士。

ここからは、秋月藩士・海賀宮門を、どうにか“本編”に載せようとした経過ですが、このエピソードを知り、あまりにも哀れに思ったことに起因します。

真っ直ぐ前を見すえる人柄、10代の若者を見捨てられない面倒見の良さ…は、周辺情報からの想像です。

但し、“本編”の時系列では、江藤京都で活動した時期には、海賀はすでに世を去っています。

そこで、ある程度は史実に近いと思われる「江藤新平影響を与えた志士」として描くことにしました。


――こうして、秋月の志士が“本編”で登場しました。

亡くなった時期が30歳手前でまだ若く、腹巻きは愛用のものと推測するので、胃腸が強くなさそうな痩せ型で設定をしています。

そして、いま一つ活躍の場に恵まれない“イケメン俳優”を起用するという配役イメージをします。ここまで固まってから、回想場面での登場になりました。
〔参照:第18話「京都見聞」⑧(真っ直ぐな心で)



――小城から来た情報通・祇園太郎が語る、事件の経過から…

江藤佐賀で出会った“真っ直ぐな男”を想い出し、そのも背負っていく。
〔参照:第18話「京都見聞」⑨(その志は、海に消えても)

佐賀大河ドラマ』で“秋月の志士”を表現しようと思うと、私には、この設定ぐらいしか思いつきませんでした。

朝廷に強い崇敬を持つも、黒田の武士として主君への忠義も捨てられない…そんな不器用さには、どことなく江藤と通じる印象も受けます。


――激動の文久年間(1861年~)に、

長州藩(山口)と接触し、一時は秋月藩で幽閉された、海賀宮門。秋月を脱藩して、薩摩藩の勤王派と関わり、その最期につながっていきました。

この時期に薩摩藩と長州藩の双方と関わり、佐賀藩との連携を求める…このような人物が、“明治維新”を先取りした志士の1人だったのかもしれません。

今回、かなり書き方に迷いましたが、第2部の1つのテーマである「佐賀を中心に、九州北部幕末を表現する」試みとしてお読みいただければ幸いです。





  


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2022年06月02日

第18話「京都見聞」⑨(その志は、海に消えても)

こんばんは。
前回の続きです。佐賀小城支藩から出て、上方で活動すること数年の事情にも通じる謎の男・“祇園太郎”が語り出した「怖い話」。

それは幕末期を果たすべく、佐賀に期待して城下にも来訪し、江藤らの所属する“義祭同盟”との連携を求めた、秋月(福岡)の志士の悲劇でした。


――「江藤さん。大丈夫とね?」

祇園太郎が声をかける。その思惑は様々でも、勤王の想いを胸に“来佐”した志士たちを想い返す江藤。その姿を、考え込む様子と見たようだ。



「先年、海賀どのには会ったことがある。」
そんな江藤の反応に、祇園太郎は少し語りづらそうに続けた。

「…もはや、この世には居らぬかもしれんばい。」

寺田屋の騒動で、討ち死にしたというか。」
「いや、戦わんかった。そん男だけでなく、薩摩の者以外は皆、おとなしくしておった。」


――寺田屋に居た、薩摩藩の勤王派。

一部の薩摩藩士が壮絶に斬り合った後、残りの薩摩の者は“上意”に従った。
〔参照(後半):第18話「京都見聞」③(寺田屋騒動の始末)

久留米(福岡)などの者は、自らの藩に引き渡されることになったが、公家に仕える者や、他藩が引き取らない見通しの者など、幾人かが残る。

「他の方々は…薩摩で、お引き受け申そう。」
国父・島津久光の命を受けた、取締り側の薩摩藩士が“残党”に対応する。

残った中には、島原(長崎)の中村主計など10代の若者もおり、薩摩の侍は彼らを連れていく。


――ここで「仰せに従う。」と、言葉を発した者が居た。

秋月藩・海賀宮門は、あえて薩摩行きに加わることを申し出た。
も、彼らとともに参ろう。」



海賀さん…」
中村くん。ここはひとまず、再起の時節を待とう。」
現代の感覚で言えば、この二人長崎の少年と福岡の青年である。他にも、但馬(兵庫)の志士も居たが、彼もまた年少のようだ。

秋月の者か…、よかでごわす。」
やや低く絞ったような声で応じる、薩摩藩士

海賀には“兄貴分”として、年少の者の面倒を見ようという意識があったか、自ら合流したという。しかし、この薩摩藩士には彼らの行く末が見えていた。


――ここまで黙して、祇園太郎の話を聞いていた、江藤

「しばし、待て。逆に、一行が薩摩に着かなかった証(あかし)はあるか。」
江藤とて続く話の察しはつく。その旅路は、薩摩には届かなかったのだろう。

「…乗ってはならぬ、誘いがある。」
祇園太郎は、そう言い切った。ここでの薩摩行きは、勤王派の粛清の続きだったのだ。それらのに乗った者の命運は、既に尽きていた。

公武合体を進め、一橋派を復活させて薩摩藩幕政改革の主導権を握る。これが薩摩の国父・島津久光の狙いだった。

この“大望”にとっては、薩摩藩の勤王派だけでなく、それに関わってくる筑前(福岡)など諸国の“浪士”たちも、目障りな存在だったようだ。


――そう語る“祇園太郎”の横顔。今までになく暗い影が見える。

「それが、の…今の姿か。」
江藤が、いつになく抑えた声を発した。



「そうたい。甘い心持ちで居ったら、は幾つあっても足らんとよ。」
ここ数年、この“佐賀からの脱藩者”が目にした事柄も多いのだろう。江藤が知らなかった世界がそこにはあった。

「“赤心報国”…。」
偽りの無か心で、国に尽くす…とか、言いよるか?」
ここで祇園太郎が、すかさず江藤のつぶやいた言葉を拾う。


――江藤は、想い出していた。

まだ若いのに腹巻をして、その肚(はら)に真心を込めた“秋月の志士”を。
「その真っ直ぐな男が、大事にした“言葉”だ。」

「…残念な知らせばい。」
祇園太郎は、一瞬、済まなさそうな表情を見せた。

その男からは…佐賀が、ともに動く日を待つと聞いた。」
またもや、ずいと足早に動き出した江藤新平

待たんね危うい動きはならんばい。」
再び振り回される感じとなった、祇園太郎は、また声を張るのだった。


(続く)




  


Posted by SR at 21:15 | Comments(0) | 第18話「京都見聞」