2022年04月06日
第18話「京都見聞」①(新平、東へ)
こんばんは。
“本編”第18話をスタートします。本日の「新平、東へ」は以前から考えていたサブタイトル。元ネタは、“本編”を開始した頃の大河ドラマからです。
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』初回のタイトルが「光秀、西へ」でした。江藤の脱藩まで書き続けられたら、使ってみようと思っていました。
なお、江藤新平の脱藩経路には諸説あるようで、未だ明確ではありません。
周辺地理に詳しい方には、疑問符も付くかもしれませんが、なるべく佐賀近くで“映える”風景を…という意図もあります。

――筑前国(福岡県北部)の海岸を望む。
現代では、海沿いの美景が話題となっている糸島市近辺であろうか。玄界灘の波がさざめき、強い朝日が1人歩む男の頬を照らしていた。
年の頃、三十歳手前。やや浅黒い肌色。質素な身なりの旅姿である。特筆すべきはその歩速で、静かな波打ち際を横目にすいすいと進んでいく。
その男、江藤新平は親友から渡された資金の重みを感じていた。貧しい暮らしが長かったため、大金を携えたことなど記憶に無い。
――「大木さん、恩に着るぞ。」
背負っているのは、二つ年上の親友・大木喬任(民平)の期待だ。そして、もう1人の親友は、もはやこの世を辞していた。
年の初めに老中・安藤信正が襲撃された「坂下門外の変」への関与を疑われ、獄中で落命した中野方蔵である。
「…中野、既に斃(たお)る。吾人をおいて、ほかに立つべき者なし!」
尊王の志厚く、朝廷の下に人々が集う“あるべき姿”を求めた中野の想いは、期せぬ形で、江藤に受け継がれた。

――他藩の志士に豊富な人脈があった、中野はもういない。
江藤自身も「“国事”を動かすための伝手(つて)は、中野がどうにかする。」と、どこかに甘えがあったと顧みた。
勤王か佐幕か、開国か攘夷か。立ち位置は如何にせよ、新しい世を目指すうねりがある。
誰かが動かねば、西洋を知る雄藩でありながら、佐賀は時流に取り残される。前藩主・鍋島直正(閑叟)が京の調べを始めた、今がその時と江藤は判じた。
――ザァザァ…と浜辺に続く、波の音。
“義祭同盟”の仲間の協力もあって三瀬の番所を回避し、佐賀藩境を抜けた。ここから江藤は“脱藩者”である。しばらくは人目に付かない道を選んでいた。
急に眼前が開けたと思えば、広い玄界灘を望んだ。遠浅の有明の海とも、入り組んだ伊万里の湾内とも異なる。
佐賀を出た、江藤に新しい世界を予感させる景色だ。
――朝廷のある京の都へ。
現状ではその権威をどう利用してやろうかと、幕府と雄藩たちの駆け引きが繰り広げられることは見当がつく。
欧米の列強が日本の様子をうかがっている。無謀な攘夷論や、拙速な倒幕論が世を支配するのは危うい。
「閑叟さまは…佐賀は、如何に動くべきか。それを見極めねばならん。」

――しばしの回り道を経て、福岡城下に至る。
黒田家が治める福岡藩。筑前五十二万石、外様の大藩で、佐賀藩と交互に長崎の警備を担当している。
京の都の事情を探りたい江藤は、先年、佐賀に来訪した“福岡のさぶらい”・平野国臣を尋ねたのである。
〔参照(後半):第17話「佐賀脱藩」⑧(福岡から来た“さぶらい”)〕
「御免!平野さまは居られるか。」
平野の居宅、門前で江藤が問う。
「あいにくだが…先生は居られぬ。」
扉の向こうから、古めかしい格好をした人物が応じる。
――おそらくは地元・福岡の者で、平野の門下生。
平野国臣は、鎌倉期までの古式に則ることを理想とするため、弟子の志向も影響を受けているのだろう。
江戸期の侍としては、髪型や装束にも珍しいこだわりが見られる。
「枝吉神陽門下で、佐賀より来た。江藤と申す。」
「佐賀から?よく出て来られましたな…。」
門下生は少し驚いた表情を見せた。九州各地から志士たちは尋ねてくるが、“二重鎖国”と評される佐賀からの来訪者は珍しいのだ。
師匠・枝吉神陽の名も効いたようで、平野の留守を預かる様子の門下生は、江藤からの問いかけに応じるようだ。
(続く)
“本編”第18話をスタートします。本日の「新平、東へ」は以前から考えていたサブタイトル。元ネタは、“本編”を開始した頃の大河ドラマからです。
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』初回のタイトルが「光秀、西へ」でした。江藤の脱藩まで書き続けられたら、使ってみようと思っていました。
なお、江藤新平の脱藩経路には諸説あるようで、未だ明確ではありません。
周辺地理に詳しい方には、疑問符も付くかもしれませんが、なるべく佐賀近くで“映える”風景を…という意図もあります。
――筑前国(福岡県北部)の海岸を望む。
現代では、海沿いの美景が話題となっている糸島市近辺であろうか。玄界灘の波がさざめき、強い朝日が1人歩む男の頬を照らしていた。
年の頃、三十歳手前。やや浅黒い肌色。質素な身なりの旅姿である。特筆すべきはその歩速で、静かな波打ち際を横目にすいすいと進んでいく。
その男、江藤新平は親友から渡された資金の重みを感じていた。貧しい暮らしが長かったため、大金を携えたことなど記憶に無い。
――「大木さん、恩に着るぞ。」
背負っているのは、二つ年上の親友・大木喬任(民平)の期待だ。そして、もう1人の親友は、もはやこの世を辞していた。
年の初めに老中・安藤信正が襲撃された「坂下門外の変」への関与を疑われ、獄中で落命した中野方蔵である。
「…中野、既に斃(たお)る。吾人をおいて、ほかに立つべき者なし!」
尊王の志厚く、朝廷の下に人々が集う“あるべき姿”を求めた中野の想いは、期せぬ形で、江藤に受け継がれた。
――他藩の志士に豊富な人脈があった、中野はもういない。
江藤自身も「“国事”を動かすための伝手(つて)は、中野がどうにかする。」と、どこかに甘えがあったと顧みた。
勤王か佐幕か、開国か攘夷か。立ち位置は如何にせよ、新しい世を目指すうねりがある。
誰かが動かねば、西洋を知る雄藩でありながら、佐賀は時流に取り残される。前藩主・鍋島直正(閑叟)が京の調べを始めた、今がその時と江藤は判じた。
――ザァザァ…と浜辺に続く、波の音。
“義祭同盟”の仲間の協力もあって三瀬の番所を回避し、佐賀藩境を抜けた。ここから江藤は“脱藩者”である。しばらくは人目に付かない道を選んでいた。
急に眼前が開けたと思えば、広い玄界灘を望んだ。遠浅の有明の海とも、入り組んだ伊万里の湾内とも異なる。
佐賀を出た、江藤に新しい世界を予感させる景色だ。
――朝廷のある京の都へ。
現状ではその権威をどう利用してやろうかと、幕府と雄藩たちの駆け引きが繰り広げられることは見当がつく。
欧米の列強が日本の様子をうかがっている。無謀な攘夷論や、拙速な倒幕論が世を支配するのは危うい。
「閑叟さまは…佐賀は、如何に動くべきか。それを見極めねばならん。」
――しばしの回り道を経て、福岡城下に至る。
黒田家が治める福岡藩。筑前五十二万石、外様の大藩で、佐賀藩と交互に長崎の警備を担当している。
京の都の事情を探りたい江藤は、先年、佐賀に来訪した“福岡のさぶらい”・平野国臣を尋ねたのである。
〔参照(後半):
「御免!平野さまは居られるか。」
平野の居宅、門前で江藤が問う。
「あいにくだが…先生は居られぬ。」
扉の向こうから、古めかしい格好をした人物が応じる。
――おそらくは地元・福岡の者で、平野の門下生。
平野国臣は、鎌倉期までの古式に則ることを理想とするため、弟子の志向も影響を受けているのだろう。
江戸期の侍としては、髪型や装束にも珍しいこだわりが見られる。
「枝吉神陽門下で、佐賀より来た。江藤と申す。」
「佐賀から?よく出て来られましたな…。」
門下生は少し驚いた表情を見せた。九州各地から志士たちは尋ねてくるが、“二重鎖国”と評される佐賀からの来訪者は珍しいのだ。
師匠・枝吉神陽の名も効いたようで、平野の留守を預かる様子の門下生は、江藤からの問いかけに応じるようだ。
(続く)
2022年04月09日
第18話「京都見聞」②(消えた“さぶらい”の行方)
こんばんは。
江藤新平は、文久二年(1862年)六月に佐賀を脱藩しています。数か月前、春の桜咲く頃は、京に集まった勤王の志士たちが期待に沸き立っていました。
その理由は薩摩藩(鹿児島)の“国父”(藩主の父)・島津久光が藩兵を率いて京都に上る動きがあったため。かつて各地の志士たちが大きい期待を寄せた、薩摩の名君・島津斉彬の異母弟です。
実際に島津久光が京に入ったのは、旧暦の四月なので、とうに桜の時節は過ぎ、初夏の陽気もあったかもしれません。その花が散った後に残ったものは…

――「いまは、京に向かう途上である。」
強い陽射しが注ぐ中、福岡城下の一角に足を運んでいた江藤。“佐賀脱藩”という身分だけでなく、その行先も明かした。
筑前・筑後(福岡県)だけでなく、九州各地、また双方が政治への影響力を競い始めている、薩摩や長州の志士たちの連携までを目論む平野国臣。
京の情勢を事前に探るには、その人脈は有用なはず。この留守の者からも、何か聞き出せるかもしれない。
――ところが門下生と思しき人物は、声を詰まらせた。
「いまや平野先生の、行方も知れぬのだ…。」
江戸期の一般的な武士と違い、平野と同様に古式ゆかしく髪をまとめている。
「一体、何があったか。」
発言を促す、江藤。良くない話が続きそうな事は容易にうかがえた。
――「京に向われるならば、お教えしておこう…」
江藤は、訥々と語る平野の門下生の話をうかがう。文久二年の春。京の都で活動する、各藩の勤王志士は沸き立っていた。
あの薩摩の名君・島津斉彬の弟である、久光公が亡き兄君の志を引き継ぎ、兵を率いて上洛(京)すると聞いていたからだ。
「今こそ、天下を動かす時!」
「徳川を倒す、千載一遇の好機じゃ!」
各地から集まる勤王の志士たちが、大いに盛り上がったのは言うまでもない。
その“沸騰”の中には、もちろん薩摩藩士だけではなく、他藩の者たちもいる。
福岡・平野国臣、秋月・海賀宮門、久留米・真木和泉など、筑前・筑後(現在の福岡県)の志士たちも京に集結していた。

――先年に、佐賀を訪れた者たちの名が続く。
枝吉神陽門下との連携を求めて、佐賀へと訪れる志士も多くあった。江藤も、よく他藩からの来訪者と議論をしていた。
但し、久留米の神官・真木和泉は地元から出られなかったのか、息子・主馬を佐賀に派遣したという。
そういった“福岡”からの客人を迎えた、江藤の師匠・枝吉神陽。彼らの話に共感を示すも、何かの思慮があってか動こうとしなかった印象がある。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑨(佐賀に“三平”あり)〕
「平野さまが、行方知れずとは。」
「…わからぬのだ。京に戻られたか、否かも。」
当時、京にいた志士たちは「薩摩の島津久光が“倒幕”に立ち上がる!」と大騒ぎしたが、それは誤解だったのだ。
島津久光の狙いは幕府を倒すことではなく、改革に手を貸し、幕政での主導権を握ることにあった。
――何とか、“国父”を動かそうとする薩摩藩士たち。
「じゃっどん、国父さまには立ってもらわねばなりもはん!」
島津久光の上洛にあわせ、幕府と親しい公家を排除する計画が動いていた。薩摩の“国父”から見れば、家来に邪魔をされているも同然だったようだ。
平野の門下生の話を聞いていた江藤が、鋭い一言を発した。
「その薩摩の者たちが、“暗殺”を企てたの意か。」
「お主の真っ直ぐな目。信じるぞ。その通りだろう。」
その弟子は思い切って、先刻、会ったばかりの江藤に言葉を返す。
――江藤は、さらに問答を続ける。
「先ほど、平野さまが“京に戻る”と聞いたが、如何なることか。」
ここで、江藤は事情を知りたがる。親友・中野方蔵が捕らわれた時の想いが、過(よぎ)っていた。
「黒田の殿様に訴えをなさるため、一時、京を離れたとも聞くのだ。」
平野国臣は福岡藩(黒田家)も、薩摩藩と共に倒幕に立つよう促したという。
福岡藩は慎重だった。薩摩の島津久光に「荒れる京都は素通りしよう」と提案するつもりだったという。

――「そこからは、先生の足取りがわからぬのだ。」
各地の志士に人気のある平野国臣が“直訴”に出たことで、福岡藩は対応に苦慮して、薩摩藩との接触を控えたようだ。
薩摩の島津久光はそのまま京に入ったが、これが筑前・筑後(福岡)の志士には厳しい展開の始まりだった。
そして佐賀は…と言えば、藩内の統制が取れていた分、志士たちも勝手には動きづらい。こういった激動の政局からは一歩引いた立場だった。
――幕末の黎明期から藩を富ませて、
外国の技術を導入する“近代化”のために、走ってきた佐賀藩士たち。
藩内の勤王志士たちも概ね、前藩主・鍋島直正(閑叟)のもとで佐賀藩全体が一致して、朝廷を中心とした国づくりに貢献する姿を望んでいた。
しかし当時の京では、佐賀藩士の江藤には想像しにくかった、“同郷の者”が潰し合う凄惨な事件が起きたばかりだった。
(続く)
江藤新平は、文久二年(1862年)六月に佐賀を脱藩しています。数か月前、春の桜咲く頃は、京に集まった勤王の志士たちが期待に沸き立っていました。
その理由は薩摩藩(鹿児島)の“国父”(藩主の父)・島津久光が藩兵を率いて京都に上る動きがあったため。かつて各地の志士たちが大きい期待を寄せた、薩摩の名君・島津斉彬の異母弟です。
実際に島津久光が京に入ったのは、旧暦の四月なので、とうに桜の時節は過ぎ、初夏の陽気もあったかもしれません。その花が散った後に残ったものは…

――「いまは、京に向かう途上である。」
強い陽射しが注ぐ中、福岡城下の一角に足を運んでいた江藤。“佐賀脱藩”という身分だけでなく、その行先も明かした。
筑前・筑後(福岡県)だけでなく、九州各地、また双方が政治への影響力を競い始めている、薩摩や長州の志士たちの連携までを目論む平野国臣。
京の情勢を事前に探るには、その人脈は有用なはず。この留守の者からも、何か聞き出せるかもしれない。
――ところが門下生と思しき人物は、声を詰まらせた。
「いまや平野先生の、行方も知れぬのだ…。」
江戸期の一般的な武士と違い、平野と同様に古式ゆかしく髪をまとめている。
「一体、何があったか。」
発言を促す、江藤。良くない話が続きそうな事は容易にうかがえた。
――「京に向われるならば、お教えしておこう…」
江藤は、訥々と語る平野の門下生の話をうかがう。文久二年の春。京の都で活動する、各藩の勤王志士は沸き立っていた。
あの薩摩の名君・島津斉彬の弟である、久光公が亡き兄君の志を引き継ぎ、兵を率いて上洛(京)すると聞いていたからだ。
「今こそ、天下を動かす時!」
「徳川を倒す、千載一遇の好機じゃ!」
各地から集まる勤王の志士たちが、大いに盛り上がったのは言うまでもない。
その“沸騰”の中には、もちろん薩摩藩士だけではなく、他藩の者たちもいる。
福岡・平野国臣、秋月・海賀宮門、久留米・真木和泉など、筑前・筑後(現在の福岡県)の志士たちも京に集結していた。

――先年に、佐賀を訪れた者たちの名が続く。
枝吉神陽門下との連携を求めて、佐賀へと訪れる志士も多くあった。江藤も、よく他藩からの来訪者と議論をしていた。
但し、久留米の神官・真木和泉は地元から出られなかったのか、息子・主馬を佐賀に派遣したという。
そういった“福岡”からの客人を迎えた、江藤の師匠・枝吉神陽。彼らの話に共感を示すも、何かの思慮があってか動こうとしなかった印象がある。
〔参照:
「平野さまが、行方知れずとは。」
「…わからぬのだ。京に戻られたか、否かも。」
当時、京にいた志士たちは「薩摩の島津久光が“倒幕”に立ち上がる!」と大騒ぎしたが、それは誤解だったのだ。
島津久光の狙いは幕府を倒すことではなく、改革に手を貸し、幕政での主導権を握ることにあった。
――何とか、“国父”を動かそうとする薩摩藩士たち。
「じゃっどん、国父さまには立ってもらわねばなりもはん!」
島津久光の上洛にあわせ、幕府と親しい公家を排除する計画が動いていた。薩摩の“国父”から見れば、家来に邪魔をされているも同然だったようだ。
平野の門下生の話を聞いていた江藤が、鋭い一言を発した。
「その薩摩の者たちが、“暗殺”を企てたの意か。」
「お主の真っ直ぐな目。信じるぞ。その通りだろう。」
その弟子は思い切って、先刻、会ったばかりの江藤に言葉を返す。
――江藤は、さらに問答を続ける。
「先ほど、平野さまが“京に戻る”と聞いたが、如何なることか。」
ここで、江藤は事情を知りたがる。親友・中野方蔵が捕らわれた時の想いが、過(よぎ)っていた。
「黒田の殿様に訴えをなさるため、一時、京を離れたとも聞くのだ。」
平野国臣は福岡藩(黒田家)も、薩摩藩と共に倒幕に立つよう促したという。
福岡藩は慎重だった。薩摩の島津久光に「荒れる京都は素通りしよう」と提案するつもりだったという。

――「そこからは、先生の足取りがわからぬのだ。」
各地の志士に人気のある平野国臣が“直訴”に出たことで、福岡藩は対応に苦慮して、薩摩藩との接触を控えたようだ。
薩摩の島津久光はそのまま京に入ったが、これが筑前・筑後(福岡)の志士には厳しい展開の始まりだった。
そして佐賀は…と言えば、藩内の統制が取れていた分、志士たちも勝手には動きづらい。こういった激動の政局からは一歩引いた立場だった。
――幕末の黎明期から藩を富ませて、
外国の技術を導入する“近代化”のために、走ってきた佐賀藩士たち。
藩内の勤王志士たちも概ね、前藩主・鍋島直正(閑叟)のもとで佐賀藩全体が一致して、朝廷を中心とした国づくりに貢献する姿を望んでいた。
しかし当時の京では、佐賀藩士の江藤には想像しにくかった、“同郷の者”が潰し合う凄惨な事件が起きたばかりだった。
(続く)
2022年04月12日
第18話「京都見聞」③(寺田屋騒動の始末)
こんばんは。
福岡城下に来た、江藤新平。先年、佐賀を来訪した福岡の志士・平野国臣の足取りを追っていました。
平野は、鎌倉期までの装束を好むだけでなく、よく変装して薩摩藩に入ったり、福岡藩からの追跡を振り切ったりしています。
福岡城下以外では、単独か他藩士との行動が多く、山伏やら、飛脚やらと…次々に衣装をチェンジして追っ手をかわしたそうです。まさに“七変化”。
このように何かと目立つ平野国臣。各地の勤王志士からの人気も急上昇で、江藤は、その人脈に期待したようですが、所在がつかめません。
今回は福岡の志士たちに暗い影を落とした“寺田屋騒動”の惨劇を描きます。七月頃に、事件のあった京に着いてから、江藤も詳細を調査したようです。

――文久二年(1862年)四月。京・伏見の船宿、寺田屋にて。
幕末期。大坂(大阪)から川を遡る水運があって、内陸であるが“京都港”として賑わう伏見の街。薩摩藩士の定宿で事件は起こった。
藩内の勤王派の不穏な動きを知った、薩摩の国父(藩主の父・島津久光)は、側近たちに事態の収拾を命じて、使者を度々送った。
しかし国父の側近・大久保一蔵(利通)などの説得工作は実らず。薩摩の過激な志士は、“寺田屋”に集結する。今度は、剣に秀でた者たちが派遣された。
「国父さまの仰せであるぞ、従え!」
「じゃっどん、今、立たねばなりもはん!我らの存念をお伝えしてくれやい。」
“倒幕”への決起を訴え、出頭に応じない志士たち。
“薩摩ことば”での言い争い。次第に大声となり、うち1人が「上意である!」と叫ぶと、突然「キェーッ!」と鋭い奇声が発された。
――重い金属の打ち合う響き、ザクッ…と不快な音が響く。
豪剣とも言うべき、薩摩の侍が振るう刃。それが互いに顔見知りの間で、命のやり取りに遣われている。
わずかの刻にある者は絶命し、ある者は瀕死の重傷を負った。劣勢となった勤王派の薩摩藩士・有馬新七が、対峙した薩摩藩士に組み付きながら叫ぶ。
「おいごと、刺せ!」
この場で“上意討ち”にあった者は、薩摩藩内の勤王派だが、幕府に近い公家などの襲撃を試みていたという。
それを上洛した薩摩の国父・島津久光が“成敗”したのだ。同郷の者たちの間で、凄惨な同士討ちが続く。

――同じ寺田屋の次の間には“福岡”の志士も居た。
久留米の神官・真木和泉らが、薩摩藩内の勤王派と連絡を取りに来ていた。騒ぎに気付いて、奥から出てきた。
「…おいっ、お主ら。ここは引け。もう、抵抗するな。」
筑前・筑後(福岡)など幾人か居た他藩の志士たちは、死ぬまで戦おうとする薩摩の侍を諫めたという。
「どうやら“他国”の者も居られるようじゃ。方々も、お連れしもんそ!」
「秋月の海賀宮門だ。仰せに従う。」
息のある薩摩藩士たちとあわせて、寺田屋に居た久留米や秋月など他藩の志士も連行された。福岡の平野は藩庁への直訴で不在だったようだ。
――その時は江藤も、福岡の者も騒動の顛末を知らない。
「先生も、捕らわれたのであろうか…」
平野がその場に居たか判然としないが、何か京では“凶事”が起きたらしい。伝え聞く事柄は、平野の門下生の表情を暗くしていた。
門下生は、訥々と言葉を続ける。
「それからは、秋月の海賀さんも行方が知れぬ。もし、事の次第がわかれば、お教えいただきたい。」
「承知した。京に着き次第、消息を探ろう。」
江藤は、騒動の経過を追うことにした。
福岡藩・平野国臣、秋月藩・海賀宮門。両者とも先年、佐賀を訪問している。その際に“義祭同盟”の面々と意見を交わしていた。

――自らの想いで動いた、“福岡”の志士たち。
佐賀に居た頃、江藤は自由な彼らに羨望(せんぼう)の眼差しを向けていた。よもや自身が、これほど早期に脱藩するとは、予期しなかったのだ。
過激な活動に巻き込まれ、あるいは自らが短慮を起こす。次々に惜しむべき人々が失われていく。親友・中野方蔵を思い起して、江藤は歯がみをした。
「我は、形勢を測るべく、京に赴くのだ。貴君も命は大切になされよ。」
江藤は、京都に向かうのは情報収集のためで、命を捨てに行くのではないと語る。そして、思い詰めた印象の門下生に、別れの言葉を発して退出した。
(続く)
福岡城下に来た、江藤新平。先年、佐賀を来訪した福岡の志士・平野国臣の足取りを追っていました。
平野は、鎌倉期までの装束を好むだけでなく、よく変装して薩摩藩に入ったり、福岡藩からの追跡を振り切ったりしています。
福岡城下以外では、単独か他藩士との行動が多く、山伏やら、飛脚やらと…次々に衣装をチェンジして追っ手をかわしたそうです。まさに“七変化”。
このように何かと目立つ平野国臣。各地の勤王志士からの人気も急上昇で、江藤は、その人脈に期待したようですが、所在がつかめません。
今回は福岡の志士たちに暗い影を落とした“寺田屋騒動”の惨劇を描きます。七月頃に、事件のあった京に着いてから、江藤も詳細を調査したようです。

――文久二年(1862年)四月。京・伏見の船宿、寺田屋にて。
幕末期。大坂(大阪)から川を遡る水運があって、内陸であるが“京都港”として賑わう伏見の街。薩摩藩士の定宿で事件は起こった。
藩内の勤王派の不穏な動きを知った、薩摩の国父(藩主の父・島津久光)は、側近たちに事態の収拾を命じて、使者を度々送った。
しかし国父の側近・大久保一蔵(利通)などの説得工作は実らず。薩摩の過激な志士は、“寺田屋”に集結する。今度は、剣に秀でた者たちが派遣された。
「国父さまの仰せであるぞ、従え!」
「じゃっどん、今、立たねばなりもはん!我らの存念をお伝えしてくれやい。」
“倒幕”への決起を訴え、出頭に応じない志士たち。
“薩摩ことば”での言い争い。次第に大声となり、うち1人が「上意である!」と叫ぶと、突然「キェーッ!」と鋭い奇声が発された。
――重い金属の打ち合う響き、ザクッ…と不快な音が響く。
豪剣とも言うべき、薩摩の侍が振るう刃。それが互いに顔見知りの間で、命のやり取りに遣われている。
わずかの刻にある者は絶命し、ある者は瀕死の重傷を負った。劣勢となった勤王派の薩摩藩士・有馬新七が、対峙した薩摩藩士に組み付きながら叫ぶ。
「おいごと、刺せ!」
この場で“上意討ち”にあった者は、薩摩藩内の勤王派だが、幕府に近い公家などの襲撃を試みていたという。
それを上洛した薩摩の国父・島津久光が“成敗”したのだ。同郷の者たちの間で、凄惨な同士討ちが続く。

――同じ寺田屋の次の間には“福岡”の志士も居た。
久留米の神官・真木和泉らが、薩摩藩内の勤王派と連絡を取りに来ていた。騒ぎに気付いて、奥から出てきた。
「…おいっ、お主ら。ここは引け。もう、抵抗するな。」
筑前・筑後(福岡)など幾人か居た他藩の志士たちは、死ぬまで戦おうとする薩摩の侍を諫めたという。
「どうやら“他国”の者も居られるようじゃ。方々も、お連れしもんそ!」
「秋月の海賀宮門だ。仰せに従う。」
息のある薩摩藩士たちとあわせて、寺田屋に居た久留米や秋月など他藩の志士も連行された。福岡の平野は藩庁への直訴で不在だったようだ。
――その時は江藤も、福岡の者も騒動の顛末を知らない。
「先生も、捕らわれたのであろうか…」
平野がその場に居たか判然としないが、何か京では“凶事”が起きたらしい。伝え聞く事柄は、平野の門下生の表情を暗くしていた。
門下生は、訥々と言葉を続ける。
「それからは、秋月の海賀さんも行方が知れぬ。もし、事の次第がわかれば、お教えいただきたい。」
「承知した。京に着き次第、消息を探ろう。」
江藤は、騒動の経過を追うことにした。
福岡藩・平野国臣、秋月藩・海賀宮門。両者とも先年、佐賀を訪問している。その際に“義祭同盟”の面々と意見を交わしていた。

――自らの想いで動いた、“福岡”の志士たち。
佐賀に居た頃、江藤は自由な彼らに羨望(せんぼう)の眼差しを向けていた。よもや自身が、これほど早期に脱藩するとは、予期しなかったのだ。
過激な活動に巻き込まれ、あるいは自らが短慮を起こす。次々に惜しむべき人々が失われていく。親友・中野方蔵を思い起して、江藤は歯がみをした。
「我は、形勢を測るべく、京に赴くのだ。貴君も命は大切になされよ。」
江藤は、京都に向かうのは情報収集のためで、命を捨てに行くのではないと語る。そして、思い詰めた印象の門下生に、別れの言葉を発して退出した。
(続く)
2022年04月16日
第18話「京都見聞」④(湯呑みより茶が走る)
こんばんは。
福岡城下を後にした、江藤新平。小倉(北九州市)方面へと歩みを進めます。
尋ねた相手・平野国臣は不在でしたが、京の都がいかに荒れた状況にあるか、その一端をうかがい知る事となりました。
リアルタイムの通信手段がない幕末期。現代から見れば、想像を絶するほどのすれ違いは常の事だったでしょう。
実は行方を探していた平野は、福岡で囚われていたようです。京で薩摩藩の勤王派が制圧されてから、福岡藩も関わりの深い平野を投獄したと聞きます。

江藤は、情報収集のための伝手(つて)を得られませんでした。その一方で、佐賀を出る前にも、色々と手は打っていたはず…
現代では「九州の“小京都”」とも呼ばれる、小城(おぎ)。なぜか、江藤の京都への脱藩の前後には、佐賀の小城支藩の影も見え隠れします。
――時は、半月ほど前に遡る。
佐賀からの脱藩を決めた江藤は、小城支藩領・山内(現在の佐賀市富士町)に足を運んでいた。
江藤は少年期に小城に住んでおり、当地の道場で剣術の稽古に励んだ。小城藩領に入ったのは、道場での兄弟子・富岡敬明を尋ねるためだ。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」②(小城の秘剣)〕
富岡は小城藩の上級武士だが、酒での不始末があって、小城の屋敷での務めから外れ、清流のある山間の地・“山内”で代官を務めている。
「富岡さん、頼みがあって来ました。」
「何だ。随分と仰々しいな。」
江藤より、一回り年上の富岡。親分肌で面倒見がよく、地元の者から慕われる傾向があるようだ。
――江藤は「佐賀を発つ覚悟」を語った。
脱藩には、特に厳しい佐賀藩。老親や妻子も辛い立場になると予期される。
「佐賀の御城下に居ては不都合だ。家の者を近くにかくまってほしい。」
家族の行く末を心配する江藤。藩の掟を破るのだから、やむを得ないのだが、富岡はその思い詰めた様子を受け止めた。
「江藤。まずは茶でも飲んで、落ち着け。」
「…頂戴いたします。」

山あいのため涼しいが、佐賀平野には、もう夏の風が吹く頃だ。少しばかりの世間話となる。勧められた茶を口にする江藤。
「身内だけだなく、お主もまとめて面倒をみるばい。」
ここで富岡が本題に戻った。家族だけでなく、江藤本人も、どうにか小城藩領に引き取ると言い出したのだ。
――江藤には、もともと風変わりだが、
藩校で学んでいた頃から、議論に熱が入ると、敷居の辺りに飲みかけの茶を捨てる事があった。特に深い意味は無さそうで、単なる癖(くせ)だったようだ。
ここで富岡の発言に、江藤は過剰に反応した。
「我は命を賭すのだ。自らを惜しむような覚悟で、国を抜けるのではない!」
「脱藩は死罪」が藩の掟である事は理解している。もちろん命の保証は無い。さらに熱弁を振るう江藤。
手にした茶は、すっかり温(ぬる)くなっていた。江藤の発声にあわせ、掌中の湯呑みが一瞬、水平に近い傾きとなる。当然にして茶は流れ、床へと走る。
――江藤は、お茶に浸った床を見た。
藩校の片隅や、古びたお堂なら、癖もさほど気にもしなかったが、さすがに気が咎める。まず「相済まない」と謝ろうとしたところ、富岡の大声が飛んだ。
「命ば粗末にしてはならん!お主も、まとめて面倒を見る!と言いおろうが。」
恰幅の良い中年である、富岡。何かと気詰まりも多い小城支藩の中枢から、村の代官へと暮らしぶりも変わり、その声も豪快に響く。
ちなみに江藤が茶をこぼしている事は、気にも留めていない様子だ。
「…相済まない。」
何やら今回は、剣術道場の先輩・富岡に一本取られた格好の江藤である。

――ふと過(よぎ)るのは、十年以上も昔。藩校・弘道館の日々の記憶。
その日も藩校での課業を終えて、親友三人で議論を続ける。江藤と大木民平(喬任)、そして中野方蔵はよく寄り集まっていた。
「江藤くん、その論は理には合うのかもしれない。ただ、志が低くはないか。」
中野方蔵が、鋭く指摘をした。
「いや、中野。理に合わざることを通さば、歪(ゆが)みを生ずるのだ。」
理論派の江藤に、情熱系の中野。次第に二人の討論は熱を帯びてくる。
――バシャッ!手にしたお茶をこぼしながら、熱弁を振るう江藤。
「江藤くん!湯呑みを傾けるのは、何か論と関わりがあるのか。」
中野が、少しひねくれた言い方をする。たしかに、討論の中身とお茶をこぼす事は無関係と思われる。
「机を毀損(きそん)する、中野には言われたくなか!」
江藤も、その言葉を打ち返す。今のところ中野は冷静だが、議論に熱が入り過ぎて、机をたたき割ってしまった前歴がある。
〔参照:第7話「尊王義祭」⑥〕
「…おい、江藤に中野、随分と話が逸(そ)れているぞ!」
――呆れた大木が、軌道の修正を試みていた。
「大木兄さんこそ、どちらの論を是(ぜ)とするのですか。」
中野が、討論に割って入った大木に問う。
「俺か…?どちらの論が通ろうが、実現のために手を貸してやる。」
「…狡(ずる)いな。大木兄さん。」
やや口をとがらせる中野。柄(がら)にもなく苦笑する江藤。勝ち誇ったように、ニッと笑う大木。

――「江藤!何ば…大事かこと。思い出しよるか。」
しばし待ちぼうけだった富岡が、“回想”から戻って来ない江藤に声をかけた。
「ああ、富岡さん。済まない。亡き友のことを想い出していた。」
「…中野くんか。気の毒なことだったな。」
「友が斃(たお)れたゆえ、我は立たねばならんのです。」
佐賀の志士たちの中でも、行動力に長じていた中野。その人脈の豊富さが裏目に出て、江戸の獄中で亡くなっていた。
「ばってん、お主は友の分まで、生きねばならんのだ。」
富岡は、そう力強く言い放つ。その言動からは、“脱藩者”となる江藤を、どうにか救おうとする気持ちが見えていた。
(続く)
福岡城下を後にした、江藤新平。小倉(北九州市)方面へと歩みを進めます。
尋ねた相手・平野国臣は不在でしたが、京の都がいかに荒れた状況にあるか、その一端をうかがい知る事となりました。
リアルタイムの通信手段がない幕末期。現代から見れば、想像を絶するほどのすれ違いは常の事だったでしょう。
実は行方を探していた平野は、福岡で囚われていたようです。京で薩摩藩の勤王派が制圧されてから、福岡藩も関わりの深い平野を投獄したと聞きます。
江藤は、情報収集のための伝手(つて)を得られませんでした。その一方で、佐賀を出る前にも、色々と手は打っていたはず…
現代では「九州の“小京都”」とも呼ばれる、小城(おぎ)。なぜか、江藤の京都への脱藩の前後には、佐賀の小城支藩の影も見え隠れします。
――時は、半月ほど前に遡る。
佐賀からの脱藩を決めた江藤は、小城支藩領・山内(現在の佐賀市富士町)に足を運んでいた。
江藤は少年期に小城に住んでおり、当地の道場で剣術の稽古に励んだ。小城藩領に入ったのは、道場での兄弟子・富岡敬明を尋ねるためだ。
〔参照:
富岡は小城藩の上級武士だが、酒での不始末があって、小城の屋敷での務めから外れ、清流のある山間の地・“山内”で代官を務めている。
「富岡さん、頼みがあって来ました。」
「何だ。随分と仰々しいな。」
江藤より、一回り年上の富岡。親分肌で面倒見がよく、地元の者から慕われる傾向があるようだ。
――江藤は「佐賀を発つ覚悟」を語った。
脱藩には、特に厳しい佐賀藩。老親や妻子も辛い立場になると予期される。
「佐賀の御城下に居ては不都合だ。家の者を近くにかくまってほしい。」
家族の行く末を心配する江藤。藩の掟を破るのだから、やむを得ないのだが、富岡はその思い詰めた様子を受け止めた。
「江藤。まずは茶でも飲んで、落ち着け。」
「…頂戴いたします。」
山あいのため涼しいが、佐賀平野には、もう夏の風が吹く頃だ。少しばかりの世間話となる。勧められた茶を口にする江藤。
「身内だけだなく、お主もまとめて面倒をみるばい。」
ここで富岡が本題に戻った。家族だけでなく、江藤本人も、どうにか小城藩領に引き取ると言い出したのだ。
――江藤には、もともと風変わりだが、
藩校で学んでいた頃から、議論に熱が入ると、敷居の辺りに飲みかけの茶を捨てる事があった。特に深い意味は無さそうで、単なる癖(くせ)だったようだ。
ここで富岡の発言に、江藤は過剰に反応した。
「我は命を賭すのだ。自らを惜しむような覚悟で、国を抜けるのではない!」
「脱藩は死罪」が藩の掟である事は理解している。もちろん命の保証は無い。さらに熱弁を振るう江藤。
手にした茶は、すっかり温(ぬる)くなっていた。江藤の発声にあわせ、掌中の湯呑みが一瞬、水平に近い傾きとなる。当然にして茶は流れ、床へと走る。
――江藤は、お茶に浸った床を見た。
藩校の片隅や、古びたお堂なら、癖もさほど気にもしなかったが、さすがに気が咎める。まず「相済まない」と謝ろうとしたところ、富岡の大声が飛んだ。
「命ば粗末にしてはならん!お主も、まとめて面倒を見る!と言いおろうが。」
恰幅の良い中年である、富岡。何かと気詰まりも多い小城支藩の中枢から、村の代官へと暮らしぶりも変わり、その声も豪快に響く。
ちなみに江藤が茶をこぼしている事は、気にも留めていない様子だ。
「…相済まない。」
何やら今回は、剣術道場の先輩・富岡に一本取られた格好の江藤である。
――ふと過(よぎ)るのは、十年以上も昔。藩校・弘道館の日々の記憶。
その日も藩校での課業を終えて、親友三人で議論を続ける。江藤と大木民平(喬任)、そして中野方蔵はよく寄り集まっていた。
「江藤くん、その論は理には合うのかもしれない。ただ、志が低くはないか。」
中野方蔵が、鋭く指摘をした。
「いや、中野。理に合わざることを通さば、歪(ゆが)みを生ずるのだ。」
理論派の江藤に、情熱系の中野。次第に二人の討論は熱を帯びてくる。
――バシャッ!手にしたお茶をこぼしながら、熱弁を振るう江藤。
「江藤くん!湯呑みを傾けるのは、何か論と関わりがあるのか。」
中野が、少しひねくれた言い方をする。たしかに、討論の中身とお茶をこぼす事は無関係と思われる。
「机を毀損(きそん)する、中野には言われたくなか!」
江藤も、その言葉を打ち返す。今のところ中野は冷静だが、議論に熱が入り過ぎて、机をたたき割ってしまった前歴がある。
〔参照:
「…おい、江藤に中野、随分と話が逸(そ)れているぞ!」
――呆れた大木が、軌道の修正を試みていた。
「大木兄さんこそ、どちらの論を是(ぜ)とするのですか。」
中野が、討論に割って入った大木に問う。
「俺か…?どちらの論が通ろうが、実現のために手を貸してやる。」
「…狡(ずる)いな。大木兄さん。」
やや口をとがらせる中野。柄(がら)にもなく苦笑する江藤。勝ち誇ったように、ニッと笑う大木。
――「江藤!何ば…大事かこと。思い出しよるか。」
しばし待ちぼうけだった富岡が、“回想”から戻って来ない江藤に声をかけた。
「ああ、富岡さん。済まない。亡き友のことを想い出していた。」
「…中野くんか。気の毒なことだったな。」
「友が斃(たお)れたゆえ、我は立たねばならんのです。」
佐賀の志士たちの中でも、行動力に長じていた中野。その人脈の豊富さが裏目に出て、江戸の獄中で亡くなっていた。
「ばってん、お主は友の分まで、生きねばならんのだ。」
富岡は、そう力強く言い放つ。その言動からは、“脱藩者”となる江藤を、どうにか救おうとする気持ちが見えていた。
(続く)
2022年04月20日
第18話「京都見聞」⑤(清水の滝、何処…)
こんばんは。
江藤新平が京へと向かう道のり。手持ちの資金で小倉から船に乗り、瀬戸内を海路で進んだ…という説も聞くところです。
構成の都合上、脱藩する前の話が駆け足となってしまったので、京に向かう旅の途上で、佐賀への“回想”場面として表現しています。
江藤は少年期、小城の剣術道場で修業をしていました。当時からの兄弟子・富岡敬明は、江藤より一回り(12歳ほど)年上。
脱藩より戻ってからの江藤との関わりが深く、この兄弟子も事情を知っていた可能性を考えます。佐賀から福岡へ抜ける時に、関与した説もあるようです。

――夕日が差す、瀬戸内の海をゆく。
揺れる船中で甲板へと上がる。佐賀を抜けてから、数日。江藤は、眼前の島々を見つめながら、西へと離れていく国元・佐賀を想った
開国後、異国船の往来も増えている。どうにか長崎に行けそうな機会はあったが、下級武士である江藤には、江戸や京への留学の話は遠かった。
佐賀から脱藩してはじめて触れる、未知の世界である。九州に居る時は、己の足で歩き続けていた。船に乗っては歩む必要もなく、色々の事を想いだす。
――江藤が尋ねた、ある代官所は自然豊かな場所にあった。
小城の剣術道場での兄弟子、富岡敬明。山内郷の大野で代官を務めていた。何かを思い付いた様子で、目を丸くする。
「そうだ、よか事を教えておこう。」
少し勿体(もったい)ぶる、富岡。これは、中年の茶目っ気なのであろうか。
「もしや、京に関わる事をお教えいただけるのか。」
一方で、やはり真っ直ぐな受け答えの江藤。
「…まぁ、そう急かすな。」
ひと呼吸を置く、富岡。
――山間部のため“山内”は、初夏の風も涼しい。
山あいの清流の地。大野代官所は石垣も立派だが、周りは静かなものだ。
富岡は江藤に問いかける。
「“清水の滝”は、何処にあるか。」
「…京にも、清水の観音があると聞くが。」
怪訝な表情をする、江藤。
「そこにも滝はあるが、そいは“音羽の滝”と呼ばれるそうだ。」
「なれば小城に在る、“清水の滝”を指すか。」

――富岡は「そがんたい。」とうなずいた。
得心したように「その通りだ」と言っている、兄弟子・富岡。その真意を量りかねる、江藤である。
富岡は言葉を続けた。
「もし、小城の者に会ったら、そう言ってやってくれ。喜ぶ。」
「なにゆえ京で、小城の者と出会うのか。」
「まぁ、念のために、教えておくだけばい。」
上方の商人などに知り合いがいるのかと尋ねると、「居らん」との返答だった。
――大野代官所を後にする、江藤。
現代で言えば、佐賀市富士町辺り。古湯温泉なども近い、風光の地である…
代官の任にあり、当地では一定の融通が効く、富岡は頼りにして良さそうだ。自身の脱藩後に、立場の危うくなる家族。ひとまず行く先の目途は付いた。
しかし、最後のやり取りは何やら兄弟子にからかわれているようで、少し腹立たしさを感じる。
さておき、京の時勢は動いている。旅支度も脱藩となれば、表立っては動きづらいが、準備は急がねばならない。

――時間は限られる。急ぎ足にて、佐賀城下に戻る。
すると“義祭同盟”の仲間、坂井辰之允が家の近くに来ていた。
〔参照(中盤):第17話「佐賀脱藩」⑰(救おうとする者たち)〕
「坂井さん、何用か。」
「江藤…、私も助右衛門さんのお立場が危うくならぬよう手を尽くすぞ。」
えらく先走った言葉で励まされる。秘密裡に進めているはずの脱藩計画だが、既に幾人かは知っている様子だ。
坂井の励ましは、江藤の父・助右衛門を気にかけているところに配慮がある。「家族は守りたい」という江藤の気持ちを、よく汲んでいた。
――ただ、江藤には、確認したい事があった。
「坂井さん、ありがたい。ただ、その話は誰から聞いたか。」
「…大木民平。」
坂井の返答を聞いて、江藤は腹をくくった。ここは、大木民平(喬任)の根回しを信じるほか無さそうだ。
「京で形勢を探り、文(ふみ)を書く。坂井さんも頼みとするぞ。」
「心得た。」
佐賀を出て動くからには、京周辺で入手した情報を国元で受け止める役回りの者が要る。きっと大木は、その人選を進めているのだ。
――慌ただしかった一日。その夜、江藤家の屋敷。
「今宵の月は美しいな。」
江藤が言葉を発すると、クスクスと笑う、妻・千代子。
「何か、可笑しいか。」
「新平さまは、綺麗な月を見ると、わたくしに語り出すのですね。」
「…おっしゃってくださいな。」
「済まぬ。近々、京に向けて発つ。」
こうして江藤は、佐賀を発つ決意を妻・千代子に話し始めた。

――それを、物陰から見つめる者が二人…
「やはり、月の綺麗かごた夜に伝えおったか。」
「ええ、そこはいつもの事ですわね。」
そこに居たのは、江藤の両親である。父・助右衛門と母・浅子だった。行きがかり上、浅子は孫の熊太郎を抱きかかえていた。
グズグズ…と熊太郎が起きそうになる。
「いかん、浅子。早う、熊太郎をあやすのじゃ。」
「あなた、声が大きうございます。」
――その様子をじっと見つめ返す、江藤と妻・千代子。
「親父どのと母上は、何を騒いでおるのか。」
「…仲のよろしいこと。」
千代子とて、夫・新平がいつかは激動の時代に立ち向かっていく、そんな存在になることは予期していた。
そして勤王の志が高い、この一家が流転の日々を送ることも覚悟していた…とはいえ、強い不安を感じるのは仕方の無いことであった。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑫(陽だまりの下で)〕
――結局、ワーッと泣き出した熊太郎。概ね1歳半である。
「はい、はい…」
江藤の両親に駆け寄っていく、千代子。
「こんなに泣くのは、珍しいねぇ。」
困惑する江藤の母・浅子。熊太郎にも幼いなりに何か不穏な空気が伝わったのかもしれない。
「…済まぬ。千代子。」
江藤は聞き手が、その音声でビリビリと震えるほどに声が通るのだが、ここは千代子に聞こえぬよう抑えてつぶやいていた。
京へと発つ事は「自身の使命である」と迷いは無かった。しかし、江藤新平の気がかりは老親と妻子にあったのだ。
(続く)
江藤新平が京へと向かう道のり。手持ちの資金で小倉から船に乗り、瀬戸内を海路で進んだ…という説も聞くところです。
構成の都合上、脱藩する前の話が駆け足となってしまったので、京に向かう旅の途上で、佐賀への“回想”場面として表現しています。
江藤は少年期、小城の剣術道場で修業をしていました。当時からの兄弟子・富岡敬明は、江藤より一回り(12歳ほど)年上。
脱藩より戻ってからの江藤との関わりが深く、この兄弟子も事情を知っていた可能性を考えます。佐賀から福岡へ抜ける時に、関与した説もあるようです。
――夕日が差す、瀬戸内の海をゆく。
揺れる船中で甲板へと上がる。佐賀を抜けてから、数日。江藤は、眼前の島々を見つめながら、西へと離れていく国元・佐賀を想った
開国後、異国船の往来も増えている。どうにか長崎に行けそうな機会はあったが、下級武士である江藤には、江戸や京への留学の話は遠かった。
佐賀から脱藩してはじめて触れる、未知の世界である。九州に居る時は、己の足で歩き続けていた。船に乗っては歩む必要もなく、色々の事を想いだす。
――江藤が尋ねた、ある代官所は自然豊かな場所にあった。
小城の剣術道場での兄弟子、富岡敬明。山内郷の大野で代官を務めていた。何かを思い付いた様子で、目を丸くする。
「そうだ、よか事を教えておこう。」
少し勿体(もったい)ぶる、富岡。これは、中年の茶目っ気なのであろうか。
「もしや、京に関わる事をお教えいただけるのか。」
一方で、やはり真っ直ぐな受け答えの江藤。
「…まぁ、そう急かすな。」
ひと呼吸を置く、富岡。
――山間部のため“山内”は、初夏の風も涼しい。
山あいの清流の地。大野代官所は石垣も立派だが、周りは静かなものだ。
富岡は江藤に問いかける。
「“清水の滝”は、何処にあるか。」
「…京にも、清水の観音があると聞くが。」
怪訝な表情をする、江藤。
「そこにも滝はあるが、そいは“音羽の滝”と呼ばれるそうだ。」
「なれば小城に在る、“清水の滝”を指すか。」
――富岡は「そがんたい。」とうなずいた。
得心したように「その通りだ」と言っている、兄弟子・富岡。その真意を量りかねる、江藤である。
富岡は言葉を続けた。
「もし、小城の者に会ったら、そう言ってやってくれ。喜ぶ。」
「なにゆえ京で、小城の者と出会うのか。」
「まぁ、念のために、教えておくだけばい。」
上方の商人などに知り合いがいるのかと尋ねると、「居らん」との返答だった。
――大野代官所を後にする、江藤。
現代で言えば、佐賀市富士町辺り。古湯温泉なども近い、風光の地である…
代官の任にあり、当地では一定の融通が効く、富岡は頼りにして良さそうだ。自身の脱藩後に、立場の危うくなる家族。ひとまず行く先の目途は付いた。
しかし、最後のやり取りは何やら兄弟子にからかわれているようで、少し腹立たしさを感じる。
さておき、京の時勢は動いている。旅支度も脱藩となれば、表立っては動きづらいが、準備は急がねばならない。
――時間は限られる。急ぎ足にて、佐賀城下に戻る。
すると“義祭同盟”の仲間、坂井辰之允が家の近くに来ていた。
〔参照(中盤):
「坂井さん、何用か。」
「江藤…、私も助右衛門さんのお立場が危うくならぬよう手を尽くすぞ。」
えらく先走った言葉で励まされる。秘密裡に進めているはずの脱藩計画だが、既に幾人かは知っている様子だ。
坂井の励ましは、江藤の父・助右衛門を気にかけているところに配慮がある。「家族は守りたい」という江藤の気持ちを、よく汲んでいた。
――ただ、江藤には、確認したい事があった。
「坂井さん、ありがたい。ただ、その話は誰から聞いたか。」
「…大木民平。」
坂井の返答を聞いて、江藤は腹をくくった。ここは、大木民平(喬任)の根回しを信じるほか無さそうだ。
「京で形勢を探り、文(ふみ)を書く。坂井さんも頼みとするぞ。」
「心得た。」
佐賀を出て動くからには、京周辺で入手した情報を国元で受け止める役回りの者が要る。きっと大木は、その人選を進めているのだ。
――慌ただしかった一日。その夜、江藤家の屋敷。
「今宵の月は美しいな。」
江藤が言葉を発すると、クスクスと笑う、妻・千代子。
「何か、可笑しいか。」
「新平さまは、綺麗な月を見ると、わたくしに語り出すのですね。」
「…おっしゃってくださいな。」
「済まぬ。近々、京に向けて発つ。」
こうして江藤は、佐賀を発つ決意を妻・千代子に話し始めた。
――それを、物陰から見つめる者が二人…
「やはり、月の綺麗かごた夜に伝えおったか。」
「ええ、そこはいつもの事ですわね。」
そこに居たのは、江藤の両親である。父・助右衛門と母・浅子だった。行きがかり上、浅子は孫の熊太郎を抱きかかえていた。
グズグズ…と熊太郎が起きそうになる。
「いかん、浅子。早う、熊太郎をあやすのじゃ。」
「あなた、声が大きうございます。」
――その様子をじっと見つめ返す、江藤と妻・千代子。
「親父どのと母上は、何を騒いでおるのか。」
「…仲のよろしいこと。」
千代子とて、夫・新平がいつかは激動の時代に立ち向かっていく、そんな存在になることは予期していた。
そして勤王の志が高い、この一家が流転の日々を送ることも覚悟していた…とはいえ、強い不安を感じるのは仕方の無いことであった。
〔参照:
――結局、ワーッと泣き出した熊太郎。概ね1歳半である。
「はい、はい…」
江藤の両親に駆け寄っていく、千代子。
「こんなに泣くのは、珍しいねぇ。」
困惑する江藤の母・浅子。熊太郎にも幼いなりに何か不穏な空気が伝わったのかもしれない。
「…済まぬ。千代子。」
江藤は聞き手が、その音声でビリビリと震えるほどに声が通るのだが、ここは千代子に聞こえぬよう抑えてつぶやいていた。
京へと発つ事は「自身の使命である」と迷いは無かった。しかし、江藤新平の気がかりは老親と妻子にあったのだ。
(続く)
2022年04月26日
第18話「京都見聞」⑥(もう1人の脱藩者)
こんばんは。しばらく間が空きましたが、前回の続きです。
単身、佐賀を発った江藤新平。九州から出て瀬戸内では、大木喬任(民平)が用立てた旅費で、海路を利用して上方(京・大坂)に向かったとも聞きます。
福岡では、その人脈を当てにした勤王の志士・平野国臣の所在がつかめず、頼りとなる情報は、かなり乏しい状況でした。
そんな中、江藤は親友・中野方蔵の手紙によく出てきた長州藩士・久坂玄瑞を尋ねるべく行動します。

次第に目的地である京の都へと近づく江藤。その後の展開を見ると、誰か、足跡の残っていない協力者がいたのではないか…という気がしています。
――京。伏見の港。
大坂(大阪)へと流れていく川沿いに“港”が開ける。そこには、昼夜を問わずに乗合いの“三十石船”が入って来ていた。
この伏見の“京都港”は内陸にある。そもそも京の都は海に面してはいない。そのため、水運には川を使う。京から大坂方面へは下りの流れがある。
「ふぇ~い」「やっと伏見や…、」
口々に疲労感を訴える。くたびれ果てた人足たちの声が響く。大坂方面より、川の流れに逆らって、岸から縄を使って船を引っ張ってきた者たちだ。
「世話をかけた。」
伏見で船から降りる人々の中に、佐賀の脱藩浪士・江藤新平の姿もあった。

――江藤のよく通る声に、反応する人足たち。
「…おおっ、」「なんや、礼を言うとるで。」「あれ侍か?変わった奴やな…」
ひとしきり、その場がざわざわとした。
京から大坂への下りは、川の流れに乗り半日。大坂から京への上りは人力で頑張って遡り、約一日の行程だったという。
市街地へと水路を小舟で移動する、旅人や積荷が行き交う。川沿いは大いに賑わっている。伏見の船宿が並ぶ通りを行く江藤。
水が良く、酒どころとも評判がある伏見。酒蔵が並ぶ通りへと歩を進める。
――木陰から、その姿を見つめる者がいた。
「さて、あいつやな…。」
一言、たどたどしい上方(京・大坂)の言葉をつぶやいた男。少しずつ、江藤の背後に近づいていく。
掟を破って脱藩したと聞くが、その質素過ぎる身なりは、佐賀藩で奨励される倹約そのもの。「規則に背いて、決まり事を守る…」よくわからぬ男と見えた。
「あれっ…居らんぞ。」
曲がり角にさしかかった時、男は江藤を見失った様子だ。
「私に、何か用向きがあるのか。」
「おっ…!」

――不意に江藤の声が通る。近づいた男は絶句した。
「…え~っと。えーっとやな…」
気付かぬうちに、江藤の方が背後に回り込んでいたらしい。慌てた様子の男。
「そうや…あれや。」
この男の発する上方の言葉は、抑揚(よくよう)が安定しない。
「何用であるか。」
「待て、しばし待て!そがんに急ぐな。」
江藤の声は鋭い。そして、男の発する“上方ことば”は既に崩れている。
――男は右掌で「少し待って」と示し、ひと呼吸を入れた。
そして物々しく「行くで!」と発した。“禅問答”でも仕掛けるような空気だ。
「清水と言えば、何か!」
「…滝。」
「…なれば、清水の滝は、何処(いずこ)に在りや!」
「小城に在り。」
期せずに行うことになった、このやり取り。佐賀からの脱藩の実行前に、剣術道場の兄弟子で、小城支藩の代官を務める富岡敬明との話に出た内容だ。
〔参照:第18話「京都見聞」⑤(清水の滝、何処…)〕
「名は、何と言う。」
「江藤と申す。佐賀より出でて、京に参った。」

――江藤と、問答を仕掛けた男との間に流れる、微妙な沈黙の時。
「かくいうお主も、佐賀の者だな。」
スパッと言い放つ江藤。いわば“偽装”した関西人である「上方ことばの男」の面目は丸つぶれである。
「…なんね!そがん言わんでも、よかばってん。おいも気張って、上方の言葉を学びよるけん!」
色々と溜めていた気持ちがあふれたか“佐賀ことば”でまくしたてる、元・上方ことばの男。
「それは、済まぬ事を言った。」
いささか空気を読まない傾向の江藤だが、ここまで言葉が重なればわかる。おそらくは志を胸に佐賀から出てきた、この男も相当に苦労したのだ。
――ひとまずは、男が信用できそうな人物である事も見えた。
「名は、何と申されるか。」
「“祇園太郎”と名乗っておる。」
「幾分、わかりやすい“偽名”だな。」
「いきなり“偽名”やら言わんでよか…」
江藤の登場から調子が狂いっぱなしの“祇園太郎”だが、当時「ほぼ居ない」と言ってよいほど稀少な、佐賀からの脱藩者だった。
数年前から播磨(兵庫)を拠点に、京・大坂の様子を見聞している志士である。
(続く)
単身、佐賀を発った江藤新平。九州から出て瀬戸内では、大木喬任(民平)が用立てた旅費で、海路を利用して上方(京・大坂)に向かったとも聞きます。
福岡では、その人脈を当てにした勤王の志士・平野国臣の所在がつかめず、頼りとなる情報は、かなり乏しい状況でした。
そんな中、江藤は親友・中野方蔵の手紙によく出てきた長州藩士・久坂玄瑞を尋ねるべく行動します。

次第に目的地である京の都へと近づく江藤。その後の展開を見ると、誰か、足跡の残っていない協力者がいたのではないか…という気がしています。
――京。伏見の港。
大坂(大阪)へと流れていく川沿いに“港”が開ける。そこには、昼夜を問わずに乗合いの“三十石船”が入って来ていた。
この伏見の“京都港”は内陸にある。そもそも京の都は海に面してはいない。そのため、水運には川を使う。京から大坂方面へは下りの流れがある。
「ふぇ~い」「やっと伏見や…、」
口々に疲労感を訴える。くたびれ果てた人足たちの声が響く。大坂方面より、川の流れに逆らって、岸から縄を使って船を引っ張ってきた者たちだ。
「世話をかけた。」
伏見で船から降りる人々の中に、佐賀の脱藩浪士・江藤新平の姿もあった。

――江藤のよく通る声に、反応する人足たち。
「…おおっ、」「なんや、礼を言うとるで。」「あれ侍か?変わった奴やな…」
ひとしきり、その場がざわざわとした。
京から大坂への下りは、川の流れに乗り半日。大坂から京への上りは人力で頑張って遡り、約一日の行程だったという。
市街地へと水路を小舟で移動する、旅人や積荷が行き交う。川沿いは大いに賑わっている。伏見の船宿が並ぶ通りを行く江藤。
水が良く、酒どころとも評判がある伏見。酒蔵が並ぶ通りへと歩を進める。
――木陰から、その姿を見つめる者がいた。
「さて、あいつやな…。」
一言、たどたどしい上方(京・大坂)の言葉をつぶやいた男。少しずつ、江藤の背後に近づいていく。
掟を破って脱藩したと聞くが、その質素過ぎる身なりは、佐賀藩で奨励される倹約そのもの。「規則に背いて、決まり事を守る…」よくわからぬ男と見えた。
「あれっ…居らんぞ。」
曲がり角にさしかかった時、男は江藤を見失った様子だ。
「私に、何か用向きがあるのか。」
「おっ…!」

――不意に江藤の声が通る。近づいた男は絶句した。
「…え~っと。えーっとやな…」
気付かぬうちに、江藤の方が背後に回り込んでいたらしい。慌てた様子の男。
「そうや…あれや。」
この男の発する上方の言葉は、抑揚(よくよう)が安定しない。
「何用であるか。」
「待て、しばし待て!そがんに急ぐな。」
江藤の声は鋭い。そして、男の発する“上方ことば”は既に崩れている。
――男は右掌で「少し待って」と示し、ひと呼吸を入れた。
そして物々しく「行くで!」と発した。“禅問答”でも仕掛けるような空気だ。
「清水と言えば、何か!」
「…滝。」
「…なれば、清水の滝は、何処(いずこ)に在りや!」
「小城に在り。」
期せずに行うことになった、このやり取り。佐賀からの脱藩の実行前に、剣術道場の兄弟子で、小城支藩の代官を務める富岡敬明との話に出た内容だ。
〔参照:
「名は、何と言う。」
「江藤と申す。佐賀より出でて、京に参った。」

――江藤と、問答を仕掛けた男との間に流れる、微妙な沈黙の時。
「かくいうお主も、佐賀の者だな。」
スパッと言い放つ江藤。いわば“偽装”した関西人である「上方ことばの男」の面目は丸つぶれである。
「…なんね!そがん言わんでも、よかばってん。おいも気張って、上方の言葉を学びよるけん!」
色々と溜めていた気持ちがあふれたか“佐賀ことば”でまくしたてる、元・上方ことばの男。
「それは、済まぬ事を言った。」
いささか空気を読まない傾向の江藤だが、ここまで言葉が重なればわかる。おそらくは志を胸に佐賀から出てきた、この男も相当に苦労したのだ。
――ひとまずは、男が信用できそうな人物である事も見えた。
「名は、何と申されるか。」
「“祇園太郎”と名乗っておる。」
「幾分、わかりやすい“偽名”だな。」
「いきなり“偽名”やら言わんでよか…」
江藤の登場から調子が狂いっぱなしの“祇園太郎”だが、当時「ほぼ居ない」と言ってよいほど稀少な、佐賀からの脱藩者だった。
数年前から播磨(兵庫)を拠点に、京・大坂の様子を見聞している志士である。
(続く)
2022年05月26日
第18話「京都見聞」⑦(ちょっと、待たんね!)
こんばんは。
“本編”に戻ります。前回、京にある川の港・伏見に到着した江藤新平。そこに現れた“祇園太郎”は、幕末期に実在した佐賀の人物で、地元は小城。
〔参照:第18話「京都見聞」⑥(もう1人の脱藩者)〕
江藤が脱藩した際に、京に居たかは定かではありませんが、数年前から播磨(兵庫)を拠点に志士として活動。京でも情報収集に励んだようです。

――文久二年(1862)七月。
京にて、時勢は動く。薩摩(鹿児島)の国父・島津久光が“寺田屋騒動”で、藩内の勤王派を粛清したのは、同年の四月。
それに関わる、土佐(高知)や福岡など他藩の脱藩浪士も取り締まったため、志士たちの活動は大打撃を受けていた。
江藤は、京の事情を知る“祇園太郎”に、矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「その後、薩摩はいかに動いたか。」
「…意気揚々と、江戸にお進みになったとよ。」
“祇園太郎”は佐賀出身とはっきりしたため、同郷の者どうしの会話になる。
「公儀(幕府)に言上する事があるのだな。」
江藤は、薩摩の意図を察した。幕政の主導権を取ろうとしているのだと。
――島津久光は、幕府を悩ませる勤王派志士を取り締まった。
その実績を手土産に江戸へと進発する。もはや薩摩の意向が、幕府の人事にも作用する勢いだ。
島津久光が狙うのは、数年前に大老・井伊直弼が抑え込んだ“一橋派”の復権。この時、徳川家茂が14代将軍だが、一橋慶喜を要職に推す声も強い。
「そうたい。一橋さまと、越前(福井)の松平春嶽さまが、要職に就くらしか。」
元は侍ではなさそうな印象の“祇園太郎”だが、異常に政治情勢に詳しい。

――伏見の街には、薩摩の屋敷もある。
「…では、探りを入れてみるか。」
江藤がにわかに、歩を早める。目線の先には、薩摩藩士らしき侍が見えた。
「ちょっ…待たんね!」
祇園太郎は、江藤を制止しようとしたが、すでに時遅し。次の瞬間には辺りを見回っているらしい、薩摩の侍が、江藤の姿に気付いている。
「…何を考えよるか!?…あん男は。」
呆気に取られる、祇園太郎。
――「こら、何者じゃ、」
伏見の街角を見回る、薩摩藩士らしき男は、少し気が立っている様子だ。
「いかんばい!」
“祇園太郎”は江藤の危機に気付くが、この状況では、どうにも手が出せない。そして上方(京・大坂)での活動で、薩摩の侍の怖さもよく知っている。
江藤の風体は、侍であるとはわかるものの、服装は粗末で旅の埃(ほこり)にまみれて、立派とは言い難い。どう考えても怪しまれるのが自然だ。
そんな心配をよそに、江藤はスッと薩摩の侍と向き合った。
「済まぬが、物を尋ねる。」
――ピーンと、張り詰めた声が通った。
江藤は質問を発しただけなのだが、弦を引き絞って、一筋の矢が放たれたかのようで、薩摩の侍もピッと震動した様子がうかがえる。

「…良かった。あの侍は、刀を抜かんばい…」
物陰から様子をうかがい、息を詰める“祇園太郎”。以前は小城で、大庄屋だった者だが、ここ数年で様々な物事を見てきた。
一般的に志士としての活動には、危機の察知能力が重要である。物怖じせず堂々と出ていく、江藤がおかしいのだ。
「お主、どこの“国”の者だ!?」
「佐賀から来た。」
――何やら、薩摩藩士と話し始める江藤。
「…佐賀、だと?」
「先だって佐賀を抜け、いまは京に至っている。」
江藤は脱藩したから京に居るのだ…と理屈では、当然の事を言っている。怪訝(けげん)な顔をする薩摩の侍。
それもそのはずで、佐賀は「科学技術の進んだ雄藩」として知られるが、その一方で「二重鎖国」とまで語られるほど統制が強い。
――佐賀からの脱藩浪士など、他には見かけないのだ。
“寺田屋騒動”の残党からの襲撃に備えて、警戒にあたる薩摩の侍。想定外の訪問者への対応に困惑している。
「あまり、こん周囲ばうろつくと、斬り捨て申すぞ。」
「それは、物騒だな。失礼する。」
随分と薩摩の侍に絡んだが、引く時はあっさり退出した江藤。
――物陰の“祇園太郎”のところに戻る、江藤。
「あん薩摩の侍は辺りを見回るのみ。特に聞けた事はなか。」
状況報告のつもりか、江藤は淡々と語る。

しかし、次の瞬間から“祇園太郎”が捲(まく)し立てた。もはや、説教をせずにはいられない。
「…佐賀のごた(ような)気分で、居ってはならんばい!」
「様子を見聞してきたまで。どげんしたとか?」
大騒ぎの反応に驚いた、江藤が不思議な表情で語るが、祇園太郎は「えすか(怖い)~」と繰り返す。
――興奮気味の“涙目”で語る、祇園太郎。
「心して聞かんね!薩摩の侍の“初太刀”ば受けたら、もう…命の無かよ。」
薩摩には、一撃必殺の豪剣が広く普及している。守りを捨ててでも、相手を仕留める気迫の恐ろしい流儀である。
「だが、刀を抜く気配もなかごた。」
江藤は侍に、抜刀の様子が無かったと語るが、傍らで肝を冷やしていた祇園太郎は、随分ご立腹だ。
「よし…今から、えすか(怖い)話ば語るから、心して聞かんね。」
“情報通”のこの男が語るのは、江藤が調べようとした事件の続報だった。
(続く)
“本編”に戻ります。前回、京にある川の港・伏見に到着した江藤新平。そこに現れた“祇園太郎”は、幕末期に実在した佐賀の人物で、地元は小城。
〔参照:
江藤が脱藩した際に、京に居たかは定かではありませんが、数年前から播磨(兵庫)を拠点に志士として活動。京でも情報収集に励んだようです。

――文久二年(1862)七月。
京にて、時勢は動く。薩摩(鹿児島)の国父・島津久光が“寺田屋騒動”で、藩内の勤王派を粛清したのは、同年の四月。
それに関わる、土佐(高知)や福岡など他藩の脱藩浪士も取り締まったため、志士たちの活動は大打撃を受けていた。
江藤は、京の事情を知る“祇園太郎”に、矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「その後、薩摩はいかに動いたか。」
「…意気揚々と、江戸にお進みになったとよ。」
“祇園太郎”は佐賀出身とはっきりしたため、同郷の者どうしの会話になる。
「公儀(幕府)に言上する事があるのだな。」
江藤は、薩摩の意図を察した。幕政の主導権を取ろうとしているのだと。
――島津久光は、幕府を悩ませる勤王派志士を取り締まった。
その実績を手土産に江戸へと進発する。もはや薩摩の意向が、幕府の人事にも作用する勢いだ。
島津久光が狙うのは、数年前に大老・井伊直弼が抑え込んだ“一橋派”の復権。この時、徳川家茂が14代将軍だが、一橋慶喜を要職に推す声も強い。
「そうたい。一橋さまと、越前(福井)の松平春嶽さまが、要職に就くらしか。」
元は侍ではなさそうな印象の“祇園太郎”だが、異常に政治情勢に詳しい。

――伏見の街には、薩摩の屋敷もある。
「…では、探りを入れてみるか。」
江藤がにわかに、歩を早める。目線の先には、薩摩藩士らしき侍が見えた。
「ちょっ…待たんね!」
祇園太郎は、江藤を制止しようとしたが、すでに時遅し。次の瞬間には辺りを見回っているらしい、薩摩の侍が、江藤の姿に気付いている。
「…何を考えよるか!?…あん男は。」
呆気に取られる、祇園太郎。
――「こら、何者じゃ、」
伏見の街角を見回る、薩摩藩士らしき男は、少し気が立っている様子だ。
「いかんばい!」
“祇園太郎”は江藤の危機に気付くが、この状況では、どうにも手が出せない。そして上方(京・大坂)での活動で、薩摩の侍の怖さもよく知っている。
江藤の風体は、侍であるとはわかるものの、服装は粗末で旅の埃(ほこり)にまみれて、立派とは言い難い。どう考えても怪しまれるのが自然だ。
そんな心配をよそに、江藤はスッと薩摩の侍と向き合った。
「済まぬが、物を尋ねる。」
――ピーンと、張り詰めた声が通った。
江藤は質問を発しただけなのだが、弦を引き絞って、一筋の矢が放たれたかのようで、薩摩の侍もピッと震動した様子がうかがえる。

「…良かった。あの侍は、刀を抜かんばい…」
物陰から様子をうかがい、息を詰める“祇園太郎”。以前は小城で、大庄屋だった者だが、ここ数年で様々な物事を見てきた。
一般的に志士としての活動には、危機の察知能力が重要である。物怖じせず堂々と出ていく、江藤がおかしいのだ。
「お主、どこの“国”の者だ!?」
「佐賀から来た。」
――何やら、薩摩藩士と話し始める江藤。
「…佐賀、だと?」
「先だって佐賀を抜け、いまは京に至っている。」
江藤は脱藩したから京に居るのだ…と理屈では、当然の事を言っている。怪訝(けげん)な顔をする薩摩の侍。
それもそのはずで、佐賀は「科学技術の進んだ雄藩」として知られるが、その一方で「二重鎖国」とまで語られるほど統制が強い。
――佐賀からの脱藩浪士など、他には見かけないのだ。
“寺田屋騒動”の残党からの襲撃に備えて、警戒にあたる薩摩の侍。想定外の訪問者への対応に困惑している。
「あまり、こん周囲ばうろつくと、斬り捨て申すぞ。」
「それは、物騒だな。失礼する。」
随分と薩摩の侍に絡んだが、引く時はあっさり退出した江藤。
――物陰の“祇園太郎”のところに戻る、江藤。
「あん薩摩の侍は辺りを見回るのみ。特に聞けた事はなか。」
状況報告のつもりか、江藤は淡々と語る。
しかし、次の瞬間から“祇園太郎”が捲(まく)し立てた。もはや、説教をせずにはいられない。
「…佐賀のごた(ような)気分で、居ってはならんばい!」
「様子を見聞してきたまで。どげんしたとか?」
大騒ぎの反応に驚いた、江藤が不思議な表情で語るが、祇園太郎は「えすか(怖い)~」と繰り返す。
――興奮気味の“涙目”で語る、祇園太郎。
「心して聞かんね!薩摩の侍の“初太刀”ば受けたら、もう…命の無かよ。」
薩摩には、一撃必殺の豪剣が広く普及している。守りを捨ててでも、相手を仕留める気迫の恐ろしい流儀である。
「だが、刀を抜く気配もなかごた。」
江藤は侍に、抜刀の様子が無かったと語るが、傍らで肝を冷やしていた祇園太郎は、随分ご立腹だ。
「よし…今から、えすか(怖い)話ば語るから、心して聞かんね。」
“情報通”のこの男が語るのは、江藤が調べようとした事件の続報だった。
(続く)
2022年05月30日
第18話「京都見聞」⑧(真っ直ぐな心で)
こんばんは。前回の続きです。
文久二年(1862年)六月に佐賀を発った、江藤新平。京都に向かう道中では福岡城下に立ち寄り、筑前(福岡)の志士たちの消息を探ろうと決めます。
江藤が訪ねた相手・平野国臣ですが、福岡藩内の牢獄に居たようです。また現在の福岡県朝倉市にあった秋月藩・海賀宮門も姿を消していました。
〔参照(後半):第18話「京都見聞」③(寺田屋騒動の始末)〕
京都では、“寺田屋騒動”についても調査したという江藤。幕末期に佐賀を訪れた、筑前(福岡)の志士たちの足跡も、次第に見えてくることになります。
――情報通の“祇園太郎”が語り出す「怖い話」。
「寺田屋の騒動の事たい。その場に、秋月の者も居った。」
薩摩藩士の同士討ちの事件として知られる“寺田屋騒動”。その場には公家や他藩に仕える尊王活動家も集まっていた。
〔参照(後半):第18話「京都見聞」③(寺田屋騒動の始末)〕
「…秋月の者だと。“海賀”という名ではないか。」
「そうたい。よく知っとるとね。よもや…探しよったか。」
江藤の反応に、祇園太郎の表情が、少し曇ったように見えた。

――万延年間(1860~1861年)からの佐賀では。
長崎警備に注力する佐賀藩。西洋と向き合うことで、陶磁器など貿易に使う物産の開発や海外への販路開拓にも、ますます熱心となっている。
蒸気機関を研究する一方で、水力等を用いた工業の“自動化”も進めていた。
〔参照(後半):第10話「蒸気機関」⑩(佐賀の産業革命)〕
近隣の九州北部の志士たちは、“西洋通”の雄藩・佐賀を味方に引き込む事が力になると考えたか、この時期、次々に“来佐”していた。
彼らが訪ねたのは尊王思想家として著名な、江藤たちの師匠・枝吉神陽。
――その日も、年の頃20代後半の訪問者があった。
「秋月(藩)の海賀宮門と申す。こちらに、枝吉神陽先生は居られるか。」
どこから“義祭同盟”の会合を聞きつけたか、この日も一人の志士が現れた。
「神陽先生の門下で、江藤と申す。用向きを承る。」
佐賀は旅人への規制が厳しい。通常、他藩の者は城下深くには入れず、長崎街道沿いを行き来することになったようだ。
「恐れ入るが、ぜひ神陽先生に、お目通り願いたい。」

――他藩の志士にも、様々な者が居る。
もともと才気が勝り、ピリピリと無愛想なところがある江藤。何がしかの企てがあって近づいてくる“志士”も居るため、多少の警戒感もあった。
ところが、訪ねてきた海賀という男は、江藤を話す値打ちがある人物と見たか、熱っぽく語り始めた。
「私は黒田の家臣で、秋月から来た者だ。」
――秋月藩は、福岡藩の支藩。
福岡藩主・黒田家の分家が治める秋月。海賀は、朝廷を崇敬する志士だが、黒田武士であることは誇りとする様子だ。
「福岡にも志のある者は多く居るが、“国”の動きは芳しくない。」
「黒田のご家中には、勤王への動きが見えぬということか。」
――佐賀藩と交代で、長崎警備を担当する福岡藩。
概ね幕府寄りで慎重な立ち位置だ。そのため、福岡の平野国臣らは、よく藩の役人から追われている。
かくいう海賀も、一時は長州藩(山口)に接触を試みて、幽閉されたらしい。
「…だからこそ、我らのような者が働かねばならぬ。」
「では此度(こたび)は、なにゆえ佐賀に参られたか。」
――問答を続ける、秋月からの来訪者と江藤。
「それは佐賀が動けば、時勢が動くからだ。」
海賀宮門(直求)も若くて、覇気のある印象である。さらに目を輝かせて語る。
「事はそのように、容易ではない。」
江藤は幾分、冷たく言い放った。
幕末期、鍋島直正(閑叟)の統制により、雄藩への道を走ってきた佐賀。
身分を問わない人材の登用には熱心だが、他の雄藩とは違い、下級武士が藩政に影響を及ぼし始める傾向は見られない。
――江藤の才能に、下級役人の日々は見合ってはいなかった。
「だが、私は待っている。佐賀が我らとともに動いてくれる日を。」
言葉遣いはわりと丁寧だが、とても真っ直ぐで熱いところのある男だ。

江藤とて曲がった事は許せぬ、融通の効かない性分である。
こちらも変わり者ではあるが、まっすぐな気性と言える。
「海賀どのだったな。しばし、待たれよ。」
江藤が師匠の許可を得ようと振り向いた、その時。会合に使うお堂の奥から、枝吉神陽の声が響いた。
――「秋月からの客人なれば、通して良いぞ。」
“鐘が響く如し”と喩(たと)えられる、師匠・枝吉神陽の声が続く。
「海賀どのの話を聞こうではないか。江藤も同座してよい。」
「聞いてのとおり、師に尋ねるまでも無かったようだ。」
江藤が状況を伝える。
「いや、江藤さんだったか。貴方とも話がしたい。」
まっすぐな目線で語ると、秋月から来た志士・海賀は、自らの腹をポンポンと軽く叩いた。
「奇妙な事をする。それは何か。」
さほど恰幅(かっぷく)が良いわけでもなく、良い音をたてるために叩くでは無さそうだ。何かの想いを確かめるような所作に江藤が、興味を持って尋ねる。
――秋月の志士・海賀は、苦笑して答えた。
「これは気合いを入れる…まぁ、癖のようなものだ。」
「如何なる想いを込めるか。」
江藤には、単なる癖や習慣では無いと見えるのか、明確に聞こうとする。
「あえて言うなれば“赤心報国”だ。その志は、この肚(はら)に在りと。」
海賀は、言葉にする事ではないと思ったか、少し照れくさそうではあった。
聞いてみれば「偽りの無い心で、国に尽くす気持ちがここにある…」との答えに、江藤は「いや、得心した」と大きく頷(うなず)き、しきりに感心する。
自らの想いを持って進む、秋月の志士の真っ直ぐな心が快い。その一方で、どこか強大な佐賀藩に頼る気持ちがあった、自身を省みていた。
(続く)
文久二年(1862年)六月に佐賀を発った、江藤新平。京都に向かう道中では福岡城下に立ち寄り、筑前(福岡)の志士たちの消息を探ろうと決めます。
江藤が訪ねた相手・平野国臣ですが、福岡藩内の牢獄に居たようです。また現在の福岡県朝倉市にあった秋月藩・海賀宮門も姿を消していました。
〔参照(後半):
京都では、“寺田屋騒動”についても調査したという江藤。幕末期に佐賀を訪れた、筑前(福岡)の志士たちの足跡も、次第に見えてくることになります。
――情報通の“祇園太郎”が語り出す「怖い話」。
「寺田屋の騒動の事たい。その場に、秋月の者も居った。」
薩摩藩士の同士討ちの事件として知られる“寺田屋騒動”。その場には公家や他藩に仕える尊王活動家も集まっていた。
〔参照(後半):
「…秋月の者だと。“海賀”という名ではないか。」
「そうたい。よく知っとるとね。よもや…探しよったか。」
江藤の反応に、祇園太郎の表情が、少し曇ったように見えた。
――万延年間(1860~1861年)からの佐賀では。
長崎警備に注力する佐賀藩。西洋と向き合うことで、陶磁器など貿易に使う物産の開発や海外への販路開拓にも、ますます熱心となっている。
蒸気機関を研究する一方で、水力等を用いた工業の“自動化”も進めていた。
〔参照(後半):
近隣の九州北部の志士たちは、“西洋通”の雄藩・佐賀を味方に引き込む事が力になると考えたか、この時期、次々に“来佐”していた。
彼らが訪ねたのは尊王思想家として著名な、江藤たちの師匠・枝吉神陽。
――その日も、年の頃20代後半の訪問者があった。
「秋月(藩)の海賀宮門と申す。こちらに、枝吉神陽先生は居られるか。」
どこから“義祭同盟”の会合を聞きつけたか、この日も一人の志士が現れた。
「神陽先生の門下で、江藤と申す。用向きを承る。」
佐賀は旅人への規制が厳しい。通常、他藩の者は城下深くには入れず、長崎街道沿いを行き来することになったようだ。
「恐れ入るが、ぜひ神陽先生に、お目通り願いたい。」
――他藩の志士にも、様々な者が居る。
もともと才気が勝り、ピリピリと無愛想なところがある江藤。何がしかの企てがあって近づいてくる“志士”も居るため、多少の警戒感もあった。
ところが、訪ねてきた海賀という男は、江藤を話す値打ちがある人物と見たか、熱っぽく語り始めた。
「私は黒田の家臣で、秋月から来た者だ。」
――秋月藩は、福岡藩の支藩。
福岡藩主・黒田家の分家が治める秋月。海賀は、朝廷を崇敬する志士だが、黒田武士であることは誇りとする様子だ。
「福岡にも志のある者は多く居るが、“国”の動きは芳しくない。」
「黒田のご家中には、勤王への動きが見えぬということか。」
――佐賀藩と交代で、長崎警備を担当する福岡藩。
概ね幕府寄りで慎重な立ち位置だ。そのため、福岡の平野国臣らは、よく藩の役人から追われている。
かくいう海賀も、一時は長州藩(山口)に接触を試みて、幽閉されたらしい。
「…だからこそ、我らのような者が働かねばならぬ。」
「では此度(こたび)は、なにゆえ佐賀に参られたか。」
――問答を続ける、秋月からの来訪者と江藤。
「それは佐賀が動けば、時勢が動くからだ。」
海賀宮門(直求)も若くて、覇気のある印象である。さらに目を輝かせて語る。
「事はそのように、容易ではない。」
江藤は幾分、冷たく言い放った。
幕末期、鍋島直正(閑叟)の統制により、雄藩への道を走ってきた佐賀。
身分を問わない人材の登用には熱心だが、他の雄藩とは違い、下級武士が藩政に影響を及ぼし始める傾向は見られない。
――江藤の才能に、下級役人の日々は見合ってはいなかった。
「だが、私は待っている。佐賀が我らとともに動いてくれる日を。」
言葉遣いはわりと丁寧だが、とても真っ直ぐで熱いところのある男だ。
江藤とて曲がった事は許せぬ、融通の効かない性分である。
こちらも変わり者ではあるが、まっすぐな気性と言える。
「海賀どのだったな。しばし、待たれよ。」
江藤が師匠の許可を得ようと振り向いた、その時。会合に使うお堂の奥から、枝吉神陽の声が響いた。
――「秋月からの客人なれば、通して良いぞ。」
“鐘が響く如し”と喩(たと)えられる、師匠・枝吉神陽の声が続く。
「海賀どのの話を聞こうではないか。江藤も同座してよい。」
「聞いてのとおり、師に尋ねるまでも無かったようだ。」
江藤が状況を伝える。
「いや、江藤さんだったか。貴方とも話がしたい。」
まっすぐな目線で語ると、秋月から来た志士・海賀は、自らの腹をポンポンと軽く叩いた。
「奇妙な事をする。それは何か。」
さほど恰幅(かっぷく)が良いわけでもなく、良い音をたてるために叩くでは無さそうだ。何かの想いを確かめるような所作に江藤が、興味を持って尋ねる。
――秋月の志士・海賀は、苦笑して答えた。
「これは気合いを入れる…まぁ、癖のようなものだ。」
「如何なる想いを込めるか。」
江藤には、単なる癖や習慣では無いと見えるのか、明確に聞こうとする。
「あえて言うなれば“赤心報国”だ。その志は、この肚(はら)に在りと。」
海賀は、言葉にする事ではないと思ったか、少し照れくさそうではあった。
聞いてみれば「偽りの無い心で、国に尽くす気持ちがここにある…」との答えに、江藤は「いや、得心した」と大きく頷(うなず)き、しきりに感心する。
自らの想いを持って進む、秋月の志士の真っ直ぐな心が快い。その一方で、どこか強大な佐賀藩に頼る気持ちがあった、自身を省みていた。
(続く)
2022年06月02日
第18話「京都見聞」⑨(その志は、海に消えても)
こんばんは。
前回の続きです。佐賀の小城支藩から出て、上方で活動すること数年。京の事情にも通じる謎の男・“祇園太郎”が語り出した「怖い話」。
それは幕末期に志を果たすべく、佐賀に期待して城下にも来訪し、江藤らの所属する“義祭同盟”との連携を求めた、秋月(福岡)の志士の悲劇でした。
――「江藤さん。大丈夫とね?」
祇園太郎が声をかける。その思惑は様々でも、勤王の想いを胸に“来佐”した志士たちを想い返す江藤。その姿を、考え込む様子と見たようだ。

「先年、海賀どのには会ったことがある。」
そんな江藤の反応に、祇園太郎は少し語りづらそうに続けた。
「…もはや、この世には居らぬかもしれんばい。」
「寺田屋の騒動で、討ち死にしたというか。」
「いや、戦わんかった。そん男だけでなく、薩摩の者以外は皆、おとなしくしておった。」
――寺田屋に居た、薩摩藩の勤王派。
一部の薩摩藩士が壮絶に斬り合った後、残りの薩摩の者は“上意”に従った。
〔参照(後半):第18話「京都見聞」③(寺田屋騒動の始末)〕
久留米(福岡)などの者は、自らの藩に引き渡されることになったが、公家に仕える者や、他藩が引き取らない見通しの者など、幾人かが残る。
「他の方々は…薩摩で、お引き受け申そう。」
国父・島津久光の命を受けた、取締り側の薩摩藩士が“残党”に対応する。
残った中には、島原(長崎)の中村主計など10代の若者もおり、薩摩の侍は彼らを連れていく。
――ここで「仰せに従う。」と、言葉を発した者が居た。
秋月藩・海賀宮門は、あえて薩摩行きに加わることを申し出た。
「私も、彼らとともに参ろう。」

「海賀さん…」
「中村くん。ここはひとまず、再起の時節を待とう。」
現代の感覚で言えば、この二人は長崎の少年と福岡の青年である。他にも、但馬(兵庫)の志士も居たが、彼もまた年少のようだ。
「秋月の者か…、よかでごわす。」
やや低く絞ったような声で応じる、薩摩藩士。
海賀には“兄貴分”として、年少の者の面倒を見ようという意識があったか、自ら合流したという。しかし、この薩摩藩士には彼らの行く末が見えていた。
――ここまで黙して、祇園太郎の話を聞いていた、江藤。
「しばし、待て。逆に、一行が薩摩に着かなかった証(あかし)はあるか。」
江藤とて続く話の察しはつく。その旅路は、薩摩には届かなかったのだろう。
「…乗ってはならぬ、誘いがある。」
祇園太郎は、そう言い切った。ここでの薩摩行きは、勤王派の粛清の続きだったのだ。それらの船に乗った者の命運は、既に尽きていた。
公武合体を進め、一橋派を復活させて薩摩藩が幕政改革の主導権を握る。これが薩摩の国父・島津久光の狙いだった。
この“大望”にとっては、薩摩藩の勤王派だけでなく、それに関わってくる筑前(福岡)など諸国の“浪士”たちも、目障りな存在だったようだ。
――そう語る“祇園太郎”の横顔。今までになく暗い影が見える。
「それが、京の…今の姿か。」
江藤が、いつになく抑えた声を発した。

「そうたい。甘い心持ちで居ったら、命は幾つあっても足らんとよ。」
ここ数年、この“佐賀からの脱藩者”が目にした事柄も多いのだろう。江藤が知らなかった世界がそこにはあった。
「“赤心報国”…。」
「偽りの無か心で、国に尽くす…とか、言いよるか?」
ここで祇園太郎が、すかさず江藤のつぶやいた言葉を拾う。
――江藤は、想い出していた。
まだ若いのに腹巻をして、その肚(はら)に真心を込めた“秋月の志士”を。
「その真っ直ぐな男が、大事にした“言葉”だ。」
「…残念な知らせばい。」
祇園太郎は、一瞬、済まなさそうな表情を見せた。
「その男からは…佐賀が、ともに動く日を待つと聞いた。」
またもや、ずいと足早に動き出した江藤新平。
「待たんね!危うい動きはならんばい。」
再び振り回される感じとなった、祇園太郎は、また声を張るのだった。
(続く)
前回の続きです。佐賀の小城支藩から出て、上方で活動すること数年。京の事情にも通じる謎の男・“祇園太郎”が語り出した「怖い話」。
それは幕末期に志を果たすべく、佐賀に期待して城下にも来訪し、江藤らの所属する“義祭同盟”との連携を求めた、秋月(福岡)の志士の悲劇でした。
――「江藤さん。大丈夫とね?」
祇園太郎が声をかける。その思惑は様々でも、勤王の想いを胸に“来佐”した志士たちを想い返す江藤。その姿を、考え込む様子と見たようだ。
「先年、海賀どのには会ったことがある。」
そんな江藤の反応に、祇園太郎は少し語りづらそうに続けた。
「…もはや、この世には居らぬかもしれんばい。」
「寺田屋の騒動で、討ち死にしたというか。」
「いや、戦わんかった。そん男だけでなく、薩摩の者以外は皆、おとなしくしておった。」
――寺田屋に居た、薩摩藩の勤王派。
一部の薩摩藩士が壮絶に斬り合った後、残りの薩摩の者は“上意”に従った。
〔参照(後半):
久留米(福岡)などの者は、自らの藩に引き渡されることになったが、公家に仕える者や、他藩が引き取らない見通しの者など、幾人かが残る。
「他の方々は…薩摩で、お引き受け申そう。」
国父・島津久光の命を受けた、取締り側の薩摩藩士が“残党”に対応する。
残った中には、島原(長崎)の中村主計など10代の若者もおり、薩摩の侍は彼らを連れていく。
――ここで「仰せに従う。」と、言葉を発した者が居た。
秋月藩・海賀宮門は、あえて薩摩行きに加わることを申し出た。
「私も、彼らとともに参ろう。」
「海賀さん…」
「中村くん。ここはひとまず、再起の時節を待とう。」
現代の感覚で言えば、この二人は長崎の少年と福岡の青年である。他にも、但馬(兵庫)の志士も居たが、彼もまた年少のようだ。
「秋月の者か…、よかでごわす。」
やや低く絞ったような声で応じる、薩摩藩士。
海賀には“兄貴分”として、年少の者の面倒を見ようという意識があったか、自ら合流したという。しかし、この薩摩藩士には彼らの行く末が見えていた。
――ここまで黙して、祇園太郎の話を聞いていた、江藤。
「しばし、待て。逆に、一行が薩摩に着かなかった証(あかし)はあるか。」
江藤とて続く話の察しはつく。その旅路は、薩摩には届かなかったのだろう。
「…乗ってはならぬ、誘いがある。」
祇園太郎は、そう言い切った。ここでの薩摩行きは、勤王派の粛清の続きだったのだ。それらの船に乗った者の命運は、既に尽きていた。
公武合体を進め、一橋派を復活させて薩摩藩が幕政改革の主導権を握る。これが薩摩の国父・島津久光の狙いだった。
この“大望”にとっては、薩摩藩の勤王派だけでなく、それに関わってくる筑前(福岡)など諸国の“浪士”たちも、目障りな存在だったようだ。
――そう語る“祇園太郎”の横顔。今までになく暗い影が見える。
「それが、京の…今の姿か。」
江藤が、いつになく抑えた声を発した。

「そうたい。甘い心持ちで居ったら、命は幾つあっても足らんとよ。」
ここ数年、この“佐賀からの脱藩者”が目にした事柄も多いのだろう。江藤が知らなかった世界がそこにはあった。
「“赤心報国”…。」
「偽りの無か心で、国に尽くす…とか、言いよるか?」
ここで祇園太郎が、すかさず江藤のつぶやいた言葉を拾う。
――江藤は、想い出していた。
まだ若いのに腹巻をして、その肚(はら)に真心を込めた“秋月の志士”を。
「その真っ直ぐな男が、大事にした“言葉”だ。」
「…残念な知らせばい。」
祇園太郎は、一瞬、済まなさそうな表情を見せた。
「その男からは…佐賀が、ともに動く日を待つと聞いた。」
またもや、ずいと足早に動き出した江藤新平。
「待たんね!危うい動きはならんばい。」
再び振り回される感じとなった、祇園太郎は、また声を張るのだった。
(続く)
2022年06月08日
第18話「京都見聞」⑩(小城の風が、都に吹いた)
こんばんは。
京・三条付近まで至った、江藤新平。同郷の志士・祇園太郎から情報を得ていく設定で物語を展開しています。
この2人に接点はあるようですが、京の都で関わりがあったかは定かではありません。なお、双方とも長州(山口)が誇る人物とのつながりがあります。
文久二年(1862年)に、江藤が佐賀を脱藩して、京で活動する際に出会ったのが、長州藩士・桂小五郎。

翌・文久三年(1863年)に祇園太郎(古賀利渉)は朝廷の教育機関・学習院に出仕します。その時の紹介者も、桂小五郎だそうです。
この時点で、それだけの信頼を得ていたとすれば、その少し前から祇園太郎は長州とは関わりがあったはず…と考えました。
――足早に進む、江藤に何とか付いていく、祇園太郎。
「まずは、長州の久坂という者に会わねばならん。」
「江藤さん、そがん早う歩いて、どがんすっとね。」
念のため、佐賀県外の人に補足する。「そんなに早く歩いて、どうするのか…」の意で、読んでほしい。
「それだけ、急げば早く着こう。」
理屈っぽく言い返す、江藤。気が急くのは、秋月の志士の悲報を聞き、また、背負う想いが増えてしまったのかもしれない。
佐賀を抜ける直接のきっかけになったのは、親友・中野方蔵が江戸で投獄されたまま、世を去ったこと。
〔参照(終盤):第17話「佐賀脱藩」⑱(青葉茂れる頃に)〕
――その親友・中野方蔵の手紙に、よく見かけた名。
その長州の者に会わねばならない。久坂玄瑞と言い、江戸でも志士たちの間で注目を集める人物らしい。
「待たんね!」
こればかり、言っている感じの祇園太郎だが、この冷静さで京での活動中に身を守ってきたようだ。
「…そもそも、久坂さんは、京には居らんばい。」

――祇園太郎の言葉を受けて、江藤が言葉を返す。
「貴君。長州とも、つながりがあるのか。」
江藤の反応に、祇園太郎は少し得意げに答える。
「久坂さんは、京には居らんばってん、桂さんを尋ねると良かよ。」
「桂さん…とは、何者だ。」
「いまや長州の“出世頭”たい。久坂さんより会うべき人物かも知れんとよ。」
――その言葉で、さらに前のめりとなった、江藤。
「よし、急ごう。」
「だから、待たんね。」
やむなく駆け出した、祇園太郎が、ドン!と派手に追突する。今度は江藤が、急に立ち止まったのだ。
「…なんや、調子の狂う男ばい。」
「貴君が、“待て”と繰り返すゆえ、待つことにした。」
「おいは、これから長崎に行かんばならんと。道案内は、この辺りまでたい。」
――伏見で急に現れた“祇園太郎”だったが、今度は、突然の退出宣言。
「そうか。ここまで忝(かたじけな)かった。」
「…よか。同郷のよしみばい。」
「ところで、真(まこと)の名は、何と言う。」
礼を言うや否や、江藤が質問する。なんとなく、答えた方が良さそうな流れになっている。
盆地である京の都は、空気が澱(よど)んだ感じだ。籠もったような温い風が、頬(ほお)を撫でていく。

――京の夏。高瀬川に小舟の行き交う、川べり。
この街では、随分と“祇園太郎”として頑張ってきた。その名は素性を隠すのに好都合なだけでなく、もはや“誇り”と言ってもよい。
地元の小城にそびえる、天まで続くような石段を駆け上がるほどの志。その名にはいつしか、そんな想いまでも乗っていた。
こうして、せっかく「謎の男・祇園太郎」として眼前に現れたのに、この江藤という佐賀の者は、まったく空気を読んでくれない。
――「真の名は、“古賀”と言いよるばい!こいで、よかね!」
語気も強めに言い放つ、祇園太郎。本名は、古賀利渉という。
もとは小城の大庄屋だったが、尊王攘夷の思想に目覚め、脱藩に至った。行きがかり上、国元・佐賀からの様々な思惑も背負い込み、いま京で走る。
「また、古賀さんか…世話に、成りっぱなしだ。」
「何ね!」
祇園太郎は、少しご立腹だ。上方(京・大坂)の人間を気取ってみたかったのに、江藤が次々と正体を暴くので、格好が付けられない。
何やら、同郷の者に引っ張られて、完全に佐賀の者に戻ってしまった気分だ。地元・小城の風まで感じるほどに。

――郷里は懐かしいが、勤王の志士・“祇園太郎”としては不本意である。
江藤はそんな気持ちを意に介さず、祇園太郎に正対し、深々と一礼した。
「いや、古賀どの。恩に着る。」
…こう丁寧に感謝されると悪い気はしない。
「よかね。お主は危うかところのあるけん、これからは気を付けんば。」
「心得た。」
――本当にわかっているのか…少し疑わしい。
「…ほな、さいなら。」
祇園太郎は、急に口調を、よそよそしい“上方ことば”に戻した。
久々に同郷の者と話したので、佐賀ことばが強く出ていたが、本来は、あまり佐賀を表に出さない。これが京で活動する時の流儀だ。
周囲に溶け込めば、得られる情報量も増えることが多い。しかし、この江藤という男は、そんな事は気にもせず、真っ直ぐに突き進むのだろう。
「…この男に限っては、それも悪くはない」と考え始めた、祇園太郎だった。
(続く)
京・三条付近まで至った、江藤新平。同郷の志士・祇園太郎から情報を得ていく設定で物語を展開しています。
この2人に接点はあるようですが、京の都で関わりがあったかは定かではありません。なお、双方とも長州(山口)が誇る人物とのつながりがあります。
文久二年(1862年)に、江藤が佐賀を脱藩して、京で活動する際に出会ったのが、長州藩士・桂小五郎。
翌・文久三年(1863年)に祇園太郎(古賀利渉)は朝廷の教育機関・学習院に出仕します。その時の紹介者も、桂小五郎だそうです。
この時点で、それだけの信頼を得ていたとすれば、その少し前から祇園太郎は長州とは関わりがあったはず…と考えました。
――足早に進む、江藤に何とか付いていく、祇園太郎。
「まずは、長州の久坂という者に会わねばならん。」
「江藤さん、そがん早う歩いて、どがんすっとね。」
念のため、佐賀県外の人に補足する。「そんなに早く歩いて、どうするのか…」の意で、読んでほしい。
「それだけ、急げば早く着こう。」
理屈っぽく言い返す、江藤。気が急くのは、秋月の志士の悲報を聞き、また、背負う想いが増えてしまったのかもしれない。
佐賀を抜ける直接のきっかけになったのは、親友・中野方蔵が江戸で投獄されたまま、世を去ったこと。
〔参照(終盤):
――その親友・中野方蔵の手紙に、よく見かけた名。
その長州の者に会わねばならない。久坂玄瑞と言い、江戸でも志士たちの間で注目を集める人物らしい。
「待たんね!」
こればかり、言っている感じの祇園太郎だが、この冷静さで京での活動中に身を守ってきたようだ。
「…そもそも、久坂さんは、京には居らんばい。」
――祇園太郎の言葉を受けて、江藤が言葉を返す。
「貴君。長州とも、つながりがあるのか。」
江藤の反応に、祇園太郎は少し得意げに答える。
「久坂さんは、京には居らんばってん、桂さんを尋ねると良かよ。」
「桂さん…とは、何者だ。」
「いまや長州の“出世頭”たい。久坂さんより会うべき人物かも知れんとよ。」
――その言葉で、さらに前のめりとなった、江藤。
「よし、急ごう。」
「だから、待たんね。」
やむなく駆け出した、祇園太郎が、ドン!と派手に追突する。今度は江藤が、急に立ち止まったのだ。
「…なんや、調子の狂う男ばい。」
「貴君が、“待て”と繰り返すゆえ、待つことにした。」
「おいは、これから長崎に行かんばならんと。道案内は、この辺りまでたい。」
――伏見で急に現れた“祇園太郎”だったが、今度は、突然の退出宣言。
「そうか。ここまで忝(かたじけな)かった。」
「…よか。同郷のよしみばい。」
「ところで、真(まこと)の名は、何と言う。」
礼を言うや否や、江藤が質問する。なんとなく、答えた方が良さそうな流れになっている。
盆地である京の都は、空気が澱(よど)んだ感じだ。籠もったような温い風が、頬(ほお)を撫でていく。

――京の夏。高瀬川に小舟の行き交う、川べり。
この街では、随分と“祇園太郎”として頑張ってきた。その名は素性を隠すのに好都合なだけでなく、もはや“誇り”と言ってもよい。
地元の小城にそびえる、天まで続くような石段を駆け上がるほどの志。その名にはいつしか、そんな想いまでも乗っていた。
こうして、せっかく「謎の男・祇園太郎」として眼前に現れたのに、この江藤という佐賀の者は、まったく空気を読んでくれない。
――「真の名は、“古賀”と言いよるばい!こいで、よかね!」
語気も強めに言い放つ、祇園太郎。本名は、古賀利渉という。
もとは小城の大庄屋だったが、尊王攘夷の思想に目覚め、脱藩に至った。行きがかり上、国元・佐賀からの様々な思惑も背負い込み、いま京で走る。
「また、古賀さんか…世話に、成りっぱなしだ。」
「何ね!」
祇園太郎は、少しご立腹だ。上方(京・大坂)の人間を気取ってみたかったのに、江藤が次々と正体を暴くので、格好が付けられない。
何やら、同郷の者に引っ張られて、完全に佐賀の者に戻ってしまった気分だ。地元・小城の風まで感じるほどに。
――郷里は懐かしいが、勤王の志士・“祇園太郎”としては不本意である。
江藤はそんな気持ちを意に介さず、祇園太郎に正対し、深々と一礼した。
「いや、古賀どの。恩に着る。」
…こう丁寧に感謝されると悪い気はしない。
「よかね。お主は危うかところのあるけん、これからは気を付けんば。」
「心得た。」
――本当にわかっているのか…少し疑わしい。
「…ほな、さいなら。」
祇園太郎は、急に口調を、よそよそしい“上方ことば”に戻した。
久々に同郷の者と話したので、佐賀ことばが強く出ていたが、本来は、あまり佐賀を表に出さない。これが京で活動する時の流儀だ。
周囲に溶け込めば、得られる情報量も増えることが多い。しかし、この江藤という男は、そんな事は気にもせず、真っ直ぐに突き進むのだろう。
「…この男に限っては、それも悪くはない」と考え始めた、祇園太郎だった。
(続く)
2022年06月12日
第18話「京都見聞」⑪(佐賀より来たる者なり)
こんばんは。前回の続きです。
江藤新平が、佐賀から京都に脱藩した際の“物語”を綴っています。京の“川の港”伏見から、同郷の脱藩者・祇園太郎に案内される設定で描きました。
〔参照(後半):第18話「京都見聞」⑥(もう1人の脱藩者)〕
協力者が居たのでは…と推測から構成したため、史実寄りのお話ではないのですが、江藤より前に脱藩し、共通の人物と接点があったのが、祇園太郎。
佐賀城下の「義祭同盟」と小城支藩の志士とは、藩内で連携があったと聞き、本編では小城での人脈が、江藤の活動を後押しする展開で表現しています。
〔参照(前半):第18話「京都見聞」⑤(清水の滝、何処…)〕

――京の都。鴨川にも近く、御池通に位置する長州藩邸。
「京を去る」とは言ったが、まだ祇園太郎は“見聞”を続けているのか、屋敷の門前を見つめる。
この江藤という男。少々危なっかしく、同郷の者として気になって仕方が無い。少し遠くから見守ると、門前のやり取りが耳に入った。
「この屋敷で立場ある方に、お目通り願いたい。」
「…何者じゃ。」
身なりはともかく、江藤は堂々とした態度。長州藩の門番は不審がっている。何の前触れもなく、藩の要職にある桂小五郎への面談を求めてきたのだ。
「佐賀から来た者だ。お会いできるか。」
「…何と、佐賀じゃと!?」
――追い返そうとしていた門番に、困惑の様子が見られる。
「西洋の技術に長じる」が、「二重鎖国で得体が知れない」ことでも知られる…佐賀藩士が、ここに1人で来ている事自体が、不自然だ。
江藤が発する声は相変わらず、よく通る。しかも、脱藩者を名乗るわりには、佐賀藩から来たことを強く示している。

「…あん男。やっぱり、何(なん)もわかっとらんばい…」
半ば呆気にとられた感じで、祇園太郎が“佐賀ことば”で独りつぶやく。やはり「危うい動きは避けた方が良い…」という忠告は、江藤には響かないようだ。
一方で痛快に感じるところもあった。どちらかと言えば「“佐賀”を表に出さず」に活動してきた自分とは違う。
――きっと、このような者が時代を回すのだ…
長州藩邸の門前には、何らかの信念を持って立つ、佐賀からの脱藩者。
追い返す判断に自信が持てないか、慌てて屋敷内と連絡を取る門番。遠目に江藤の立ち姿を見て、祇園太郎は一つ大きく頷いた。
もう信じるしかあるまい、どう見ても普通ではない、この男を。
「おいは、もう長崎に行くけん。“武運”を祈っとるばい…。」

小城から出て来た“もう1人の脱藩者”は、志士たちとの交流で、各藩の動向をよく知っていた。
志士でありながら、“密偵”の任務も背負うらしい祇園太郎。この間の活動で、収集した情報を、佐賀への“手土産”に携えて九州への道を歩み始めた。
――長州藩邸では、門番から応対を引き継がれた者が出る。
上級武士の手下らしい風体の人物が、江藤にあらためて問う。
「貴方は間違えなく、佐賀から来られたので…?」
「六月の末に佐賀を抜けた。桂さまは、屋敷に居られるか。」
出てきた男は、じっと江藤を見つめる。旅の埃にまみれた衣服が目に付く。
「…お召し物は、取り替えられた方がよろしいのでは。」
「佐賀では、質素倹約を旨としておるゆえ。」
「これからは、見栄えも大事にございますよ。」
とにかく、じろじろと相手をよく見る男だった。そのうえで、ふと表情を緩めた。
(続く)
江藤新平が、佐賀から京都に脱藩した際の“物語”を綴っています。京の“川の港”伏見から、同郷の脱藩者・祇園太郎に案内される設定で描きました。
〔参照(後半):
協力者が居たのでは…と推測から構成したため、史実寄りのお話ではないのですが、江藤より前に脱藩し、共通の人物と接点があったのが、祇園太郎。
佐賀城下の「義祭同盟」と小城支藩の志士とは、藩内で連携があったと聞き、本編では小城での人脈が、江藤の活動を後押しする展開で表現しています。
〔参照(前半):
――京の都。鴨川にも近く、御池通に位置する長州藩邸。
「京を去る」とは言ったが、まだ祇園太郎は“見聞”を続けているのか、屋敷の門前を見つめる。
この江藤という男。少々危なっかしく、同郷の者として気になって仕方が無い。少し遠くから見守ると、門前のやり取りが耳に入った。
「この屋敷で立場ある方に、お目通り願いたい。」
「…何者じゃ。」
身なりはともかく、江藤は堂々とした態度。長州藩の門番は不審がっている。何の前触れもなく、藩の要職にある桂小五郎への面談を求めてきたのだ。
「佐賀から来た者だ。お会いできるか。」
「…何と、佐賀じゃと!?」
――追い返そうとしていた門番に、困惑の様子が見られる。
「西洋の技術に長じる」が、「二重鎖国で得体が知れない」ことでも知られる…佐賀藩士が、ここに1人で来ている事自体が、不自然だ。
江藤が発する声は相変わらず、よく通る。しかも、脱藩者を名乗るわりには、佐賀藩から来たことを強く示している。

「…あん男。やっぱり、何(なん)もわかっとらんばい…」
半ば呆気にとられた感じで、祇園太郎が“佐賀ことば”で独りつぶやく。やはり「危うい動きは避けた方が良い…」という忠告は、江藤には響かないようだ。
一方で痛快に感じるところもあった。どちらかと言えば「“佐賀”を表に出さず」に活動してきた自分とは違う。
――きっと、このような者が時代を回すのだ…
長州藩邸の門前には、何らかの信念を持って立つ、佐賀からの脱藩者。
追い返す判断に自信が持てないか、慌てて屋敷内と連絡を取る門番。遠目に江藤の立ち姿を見て、祇園太郎は一つ大きく頷いた。
もう信じるしかあるまい、どう見ても普通ではない、この男を。
「おいは、もう長崎に行くけん。“武運”を祈っとるばい…。」
小城から出て来た“もう1人の脱藩者”は、志士たちとの交流で、各藩の動向をよく知っていた。
志士でありながら、“密偵”の任務も背負うらしい祇園太郎。この間の活動で、収集した情報を、佐賀への“手土産”に携えて九州への道を歩み始めた。
――長州藩邸では、門番から応対を引き継がれた者が出る。
上級武士の手下らしい風体の人物が、江藤にあらためて問う。
「貴方は間違えなく、佐賀から来られたので…?」
「六月の末に佐賀を抜けた。桂さまは、屋敷に居られるか。」
出てきた男は、じっと江藤を見つめる。旅の埃にまみれた衣服が目に付く。
「…お召し物は、取り替えられた方がよろしいのでは。」
「佐賀では、質素倹約を旨としておるゆえ。」
「これからは、見栄えも大事にございますよ。」
とにかく、じろじろと相手をよく見る男だった。そのうえで、ふと表情を緩めた。
(続く)
2022年06月15日
第18話「京都見聞」⑫(江藤、“長州”と出会う)
こんばんは。
前回の続きです。京の鴨川近くにある、長州藩(山口)の屋敷にたどり着いた江藤新平。
藩邸の門前で、いつものように声を張ります。屋敷から出てきた男は、江藤のことをじっと見つめるのでした。
この場で応対に出た人物、明治期には大政治家として知られるのですが、ここでは、桂小五郎の配下としてご覧ください。
――ここの屋敷に居る、上級武士の手下と思われる男。
まるで商人が相手の支払い能力を値踏みするような眼差し、江藤の身なりでは、即座にお断りだろう。

しかし、この男の反応は意外なもので、あっさりとこう言い放つ。
「よし、桂さまはお会いになるじゃろと思います。」
屈強な感じの体躯だが、えらく軽い男だ。江藤が今まで会ったことが無さそうな類型の人物である。
「申し遅れました。伊藤俊輔と言います。お見知りおきを。」
――伊藤という男は“謎の脱藩者”に対して、すかさず名乗った。
「江藤と申す。世話をかける。」
「では、こちらにどうぞ。」
続いて、あっさりと屋敷内に案内して、座敷で待つように促した。
「恐れ入る。」
このトントン拍子の展開には、江藤も面食らった。よく小回りが効き、頭の回転も速い人物と見える。
そして、長州藩の屋敷には質素倹約とは似ても似つかない、金回りの良さを感じさせる雰囲気があった。
「甚(はなは)だ、華美なり…。」

――見栄えも重視する、西国の雄・長州藩。
当時の流通は、日本沿海を廻る船によって支えられた。商人たちは陸地に沿った航路で、港から港へと回る中で、各地の物産を取引していく。
日本海側から瀬戸内海を通り、天下の台所・大坂(大阪)に至る。その航路の要所・下関などの港がある長州藩(山口)は豊かになる基礎があった。
財政が好転してからは、商人への金払いも良いのか、上方(京・大坂)の町衆たちからの受けも良い。
「佐賀から来た方と聞く。待たせた。」
立派な衣服に身を包んだ、若い上級武士と見える人物が姿を見せる。
――ここでも、展開が早い。これが雄藩・長州の流儀か。
「そろそろ、佐賀の者と話がしたいと思っていた。」
この人物が、祇園太郎に聞いた“桂さん”だろう。神道無念流の剣の遣い手で、江戸の三大道場の1つ・練兵館でも塾頭を務めたらしい。
「江藤と申す。故(ゆえ)ありて佐賀を抜け、京に至った。」
相変わらず語り口調は固いが、江藤からも名乗った。
「桂だ。気になっては居たが、佐賀は今ひとつ真意がわからんのじゃ。」

もはや身なり粗末な下級武士でも「…ついに佐賀の代表が来た」という扱い。この場合、江藤の堂々とした態度は効果的だ。
西洋との交易での経済力も高く、国内最新鋭の軍事技術を持つが、どう動くかわからない…と見られていた、佐賀藩。
佐賀の動向は幕府や他藩にも影響するため、「何の腹づもりがあるのか…」と常に注目される。
――桂小五郎は、医者の家の出身だったが、
当時、江戸の剣術道場は各藩から有為の人材が集まり、桂も各地の志士と交流した。西洋の技術に通じる者も訪ね、見識を磨いた。
文武両道に通じ、他藩ともつながる桂小五郎。いまや藩内で大出世を遂げ、長州の若きリーダー格として存在感が見てとれる。

「江藤くんだったな。佐賀の方には、お聞きしたい事が山ほどあるゆえ。」
上機嫌に語ると見える、桂小五郎。絹地であろうか、いかにも心地がよさそうな着物を翻す。
「やはり、華美なり…。」
脱藩者でありながら、自然と“鍋島武士”の精神を重んじてしまう江藤。佐賀藩の質素倹約の掟が、まったく抜けていない。
期せずして、江藤は“佐賀の者”として存在感を示すことになり、京での活動は前に進むのだった。
(続く)
前回の続きです。京の鴨川近くにある、長州藩(山口)の屋敷にたどり着いた江藤新平。
藩邸の門前で、いつものように声を張ります。屋敷から出てきた男は、江藤のことをじっと見つめるのでした。
この場で応対に出た人物、明治期には大政治家として知られるのですが、ここでは、桂小五郎の配下としてご覧ください。
――ここの屋敷に居る、上級武士の手下と思われる男。
まるで商人が相手の支払い能力を値踏みするような眼差し、江藤の身なりでは、即座にお断りだろう。
しかし、この男の反応は意外なもので、あっさりとこう言い放つ。
「よし、桂さまはお会いになるじゃろと思います。」
屈強な感じの体躯だが、えらく軽い男だ。江藤が今まで会ったことが無さそうな類型の人物である。
「申し遅れました。伊藤俊輔と言います。お見知りおきを。」
――伊藤という男は“謎の脱藩者”に対して、すかさず名乗った。
「江藤と申す。世話をかける。」
「では、こちらにどうぞ。」
続いて、あっさりと屋敷内に案内して、座敷で待つように促した。
「恐れ入る。」
このトントン拍子の展開には、江藤も面食らった。よく小回りが効き、頭の回転も速い人物と見える。
そして、長州藩の屋敷には質素倹約とは似ても似つかない、金回りの良さを感じさせる雰囲気があった。
「甚(はなは)だ、華美なり…。」
――見栄えも重視する、西国の雄・長州藩。
当時の流通は、日本沿海を廻る船によって支えられた。商人たちは陸地に沿った航路で、港から港へと回る中で、各地の物産を取引していく。
日本海側から瀬戸内海を通り、天下の台所・大坂(大阪)に至る。その航路の要所・下関などの港がある長州藩(山口)は豊かになる基礎があった。
財政が好転してからは、商人への金払いも良いのか、上方(京・大坂)の町衆たちからの受けも良い。
「佐賀から来た方と聞く。待たせた。」
立派な衣服に身を包んだ、若い上級武士と見える人物が姿を見せる。
――ここでも、展開が早い。これが雄藩・長州の流儀か。
「そろそろ、佐賀の者と話がしたいと思っていた。」
この人物が、祇園太郎に聞いた“桂さん”だろう。神道無念流の剣の遣い手で、江戸の三大道場の1つ・練兵館でも塾頭を務めたらしい。
「江藤と申す。故(ゆえ)ありて佐賀を抜け、京に至った。」
相変わらず語り口調は固いが、江藤からも名乗った。
「桂だ。気になっては居たが、佐賀は今ひとつ真意がわからんのじゃ。」
もはや身なり粗末な下級武士でも「…ついに佐賀の代表が来た」という扱い。この場合、江藤の堂々とした態度は効果的だ。
西洋との交易での経済力も高く、国内最新鋭の軍事技術を持つが、どう動くかわからない…と見られていた、佐賀藩。
佐賀の動向は幕府や他藩にも影響するため、「何の腹づもりがあるのか…」と常に注目される。
――桂小五郎は、医者の家の出身だったが、
当時、江戸の剣術道場は各藩から有為の人材が集まり、桂も各地の志士と交流した。西洋の技術に通じる者も訪ね、見識を磨いた。
文武両道に通じ、他藩ともつながる桂小五郎。いまや藩内で大出世を遂げ、長州の若きリーダー格として存在感が見てとれる。
「江藤くんだったな。佐賀の方には、お聞きしたい事が山ほどあるゆえ。」
上機嫌に語ると見える、桂小五郎。絹地であろうか、いかにも心地がよさそうな着物を翻す。
「やはり、華美なり…。」
脱藩者でありながら、自然と“鍋島武士”の精神を重んじてしまう江藤。佐賀藩の質素倹約の掟が、まったく抜けていない。
期せずして、江藤は“佐賀の者”として存在感を示すことになり、京での活動は前に進むのだった。
(続く)
2022年11月27日
第18話「京都見聞」⑬(ある佐賀の峠にて)
こんばんは。久しぶりに書き始めた“本編”。
舞台は、1862年(文久二年)の夏です。
前回は、佐賀を脱藩した江藤新平が、京都の長州藩邸で、桂小五郎と話している場面でした。
〔参照:第18話「京都見聞」⑫(江藤、“長州”と出会う)〕

物語として、この前後の時期に京都に居たもう1人の脱藩者・“祇園太郎”が、江藤の協力者だったという設定で展開しています。
〔参照:第18話「京都見聞」⑩(小城の風が、都に吹いた)〕
佐賀藩で、勤王のはたらきを志す者たちが集った「義祭同盟」。“南北朝”期、朝廷に尽くした忠臣・楠木正成・正行親子を讃える集いから発した結社。
その結社と関わる、尊王の志厚い2人が佐賀にある峠の番所で出会います。2人とも、佐賀に多い名字の“古賀さん”ですが、1人は“変名”で通します。
――佐賀の藩境の1つが、三瀬街道にある。
“二重鎖国”と語られ、藩外からの出入りには厳しい佐賀藩。江藤たちが集う義祭同盟の仲間・古賀一平(定雄)は、ここの番所を担当していた。
今日も番所の門番が、棒をかざして通行人を問いただす。
「いま一度、お主の名を言わんね。」
「“祇園太郎”と申します。これより長崎に向かうところです。」
「そいは、偽りの名ではなかか。」

――門番の反応どおり、明らかに疑わしい名である。
この“祇園太郎”は、よそ者のふりをしているが、もとは佐賀藩内(小城支藩)から出た脱藩者だ。
佐賀では脱藩は重罪なので、もちろん本名は名乗れない。国元に戻ってくるのも危険なはずなのだが、この人物の動きには不可解な点が多い。
番所の門番は、少し上役と思われる仲間に声をかけた。
「古賀さん、怪しい奴がおる。」
「なんね。おいが代わろう。」
呼ばれて現れたふうなのは、古賀一平という人物。実は、江藤新平の脱藩を手助けした1人だ。
「いま、“祇園太郎”と名乗ったか?」
「お役人、古賀さまとおっしゃるか。」

――双方で探りを入れている、古賀一平と“祇園太郎”。
京で活動する江藤新平とは双方が知り合いなのだが、目の前の相手が情報を伝えるべき者なのかの確証がない。
小城支藩で尊王の志を持つ者には、佐賀本藩の「義祭同盟」と交流もあったようだ。謎の通行者と番所の役人、小声で“合い言葉”を交わす様子が見える。
「…“清水”と言えば、何ね!」
「滝ばい。」
「…そん“清水の滝”、何処に在りや!」
「小城にあるとよ。」
「やはり…小城の“祇園太郎”か。」
古賀一平は納得したらしく、身元を探る質問をやめ、何かの書状を受け取る。
――脱藩者の方も、急に“佐賀ことば”に戻っている。
「では、上方(京・大坂)の様子を教えんね。」
古賀一平が気にするのは、江藤新平の京での行動。これも“祇園太郎”ならば、知っているに違いない。
こちらの聞きたいことにも、よどみなく答えられるはずだ。
「江藤さんは…貴きお人を訪ねよるばい。」
“祇園太郎”によれば、佐賀を脱藩した江藤は、長州藩の桂小五郎の伝手(つて)で、京都の公家との接触に成功したようだ。
「そいで、よか。」
表情には、軽く笑みが見える古賀一平。これでこそ夜明け前に、江藤に峠の抜け道を手配した甲斐があったというものだ。

――京の政局に関わることに慎重な佐賀藩。
「いよいよたい…」
古賀一平は誰に聞かせるでもなく、江藤への期待をつぶやいた。
時代は江戸の幕府から、京の朝廷を軸として回り始めている。諸大名もそのように変化を感じているはずだ。
江戸で諸藩の志士と連絡をとっていた、中野方蔵を欠いた今、佐賀の志士で突破口を開けそうなのは、江藤をおいて他には見当たらない。
〔参照(後半):第17話「佐賀脱藩」③(江戸からの便り)〕
勤王の志を秘めつつも、淡々と三瀬峠の番人を務める日常を過ごす、古賀にとって、祇園太郎が持ってきた知らせは、心を躍らせるものだった。
――三瀬の番所から、佐賀藩側に進んでいく“祇園太郎”。
「古賀さん、大丈夫なのか。あん男、あやしかぞ。」
「心配のなか…あれは、佐賀のために働く者たい。」
江藤より四年ほど前。1858年(安政五年)頃から上方の様子を調べていた、もう1人の脱藩者・“祇園太郎”。
尊王攘夷の志士だったとされるが、その行動には謎が多く、佐賀藩に情報を流している形跡がある。

まるで“密偵”だったような祇園太郎だが、佐賀の関係者では数少ない、幕末の京都で志士として行動した人物。
その活動も、これからの時代の渦の中で、ある“政変”の影響を受けることになるが、それはしばらく後の話になる。
(続く)
舞台は、1862年(文久二年)の夏です。
前回は、佐賀を脱藩した江藤新平が、京都の長州藩邸で、桂小五郎と話している場面でした。
〔参照:
物語として、この前後の時期に京都に居たもう1人の脱藩者・“祇園太郎”が、江藤の協力者だったという設定で展開しています。
〔参照:
佐賀藩で、勤王のはたらきを志す者たちが集った「義祭同盟」。“南北朝”期、朝廷に尽くした忠臣・楠木正成・正行親子を讃える集いから発した結社。
その結社と関わる、尊王の志厚い2人が佐賀にある峠の番所で出会います。2人とも、佐賀に多い名字の“古賀さん”ですが、1人は“変名”で通します。
――佐賀の藩境の1つが、三瀬街道にある。
“二重鎖国”と語られ、藩外からの出入りには厳しい佐賀藩。江藤たちが集う義祭同盟の仲間・古賀一平(定雄)は、ここの番所を担当していた。
今日も番所の門番が、棒をかざして通行人を問いただす。
「いま一度、お主の名を言わんね。」
「“祇園太郎”と申します。これより長崎に向かうところです。」
「そいは、偽りの名ではなかか。」
――門番の反応どおり、明らかに疑わしい名である。
この“祇園太郎”は、よそ者のふりをしているが、もとは佐賀藩内(小城支藩)から出た脱藩者だ。
佐賀では脱藩は重罪なので、もちろん本名は名乗れない。国元に戻ってくるのも危険なはずなのだが、この人物の動きには不可解な点が多い。
番所の門番は、少し上役と思われる仲間に声をかけた。
「古賀さん、怪しい奴がおる。」
「なんね。おいが代わろう。」
呼ばれて現れたふうなのは、古賀一平という人物。実は、江藤新平の脱藩を手助けした1人だ。
「いま、“祇園太郎”と名乗ったか?」
「お役人、古賀さまとおっしゃるか。」
――双方で探りを入れている、古賀一平と“祇園太郎”。
京で活動する江藤新平とは双方が知り合いなのだが、目の前の相手が情報を伝えるべき者なのかの確証がない。
小城支藩で尊王の志を持つ者には、佐賀本藩の「義祭同盟」と交流もあったようだ。謎の通行者と番所の役人、小声で“合い言葉”を交わす様子が見える。
「…“清水”と言えば、何ね!」
「滝ばい。」
「…そん“清水の滝”、何処に在りや!」
「小城にあるとよ。」
「やはり…小城の“祇園太郎”か。」
古賀一平は納得したらしく、身元を探る質問をやめ、何かの書状を受け取る。
――脱藩者の方も、急に“佐賀ことば”に戻っている。
「では、上方(京・大坂)の様子を教えんね。」
古賀一平が気にするのは、江藤新平の京での行動。これも“祇園太郎”ならば、知っているに違いない。
こちらの聞きたいことにも、よどみなく答えられるはずだ。
「江藤さんは…貴きお人を訪ねよるばい。」
“祇園太郎”によれば、佐賀を脱藩した江藤は、長州藩の桂小五郎の伝手(つて)で、京都の公家との接触に成功したようだ。
「そいで、よか。」
表情には、軽く笑みが見える古賀一平。これでこそ夜明け前に、江藤に峠の抜け道を手配した甲斐があったというものだ。
――京の政局に関わることに慎重な佐賀藩。
「いよいよたい…」
古賀一平は誰に聞かせるでもなく、江藤への期待をつぶやいた。
時代は江戸の幕府から、京の朝廷を軸として回り始めている。諸大名もそのように変化を感じているはずだ。
江戸で諸藩の志士と連絡をとっていた、中野方蔵を欠いた今、佐賀の志士で突破口を開けそうなのは、江藤をおいて他には見当たらない。
〔参照(後半):
勤王の志を秘めつつも、淡々と三瀬峠の番人を務める日常を過ごす、古賀にとって、祇園太郎が持ってきた知らせは、心を躍らせるものだった。
――三瀬の番所から、佐賀藩側に進んでいく“祇園太郎”。
「古賀さん、大丈夫なのか。あん男、あやしかぞ。」
「心配のなか…あれは、佐賀のために働く者たい。」
江藤より四年ほど前。1858年(安政五年)頃から上方の様子を調べていた、もう1人の脱藩者・“祇園太郎”。
尊王攘夷の志士だったとされるが、その行動には謎が多く、佐賀藩に情報を流している形跡がある。
まるで“密偵”だったような祇園太郎だが、佐賀の関係者では数少ない、幕末の京都で志士として行動した人物。
その活動も、これからの時代の渦の中で、ある“政変”の影響を受けることになるが、それはしばらく後の話になる。
(続く)
2022年11月30日
第18話「京都見聞」⑭(若き公家の星)
こんばんは。
幕末期、海外からの先端技術の吸収には熱心だった佐賀藩ですが、動乱の京都政局での主導権争いにはあまり関わっていません。
そのため、江藤新平の脱藩は、明治初期に佐賀藩が“薩長土肥”と呼ばれた一角に入ることに大きい影響がありました。
前回で、京都から長崎に向かっていた“祇園太郎”が佐賀の峠で語ったように、江藤は京の都で有力な公家との接点を持つことになります。
〔参照:第18話「京都見聞」⑬(ある佐賀の峠にて)〕

――1862年(文久二年)夏。京の都。
風は通らないものの、屋敷の中は程よく日陰にも入って「いけずな蒸し暑さ」と評される、京都の夏にしては、まだ過ごしやすい昼下がり。
いつになく整った衣服に身を包み、江藤新平はある貴人と向き合って、ずっと下座に控えている。
「江藤とやら、佐賀から来たというのはまことか。」
「佐賀を抜け、京に参りました。」
江藤が話をしている“貴人”とは、かなり若い公家である。名を、姉小路公知といい、年の頃は、まだ二十歳ぐらいと見えて、江藤より明らかに年下だ。
その若さだが、近年では尊王攘夷派の公家として、頭角を現している。覇気があって、志士たちの受けも良いため、長州藩とも関わりが強い。
――公家だけあって品はあるが、その舌鋒は鋭かった。
「佐賀の鍋島は、徳川におもねり、勤王の志が見えぬと聞くが、どうじゃ。」
「左様なことは、ございません。」
江藤はきっぱりと否定した。
「…ほほ、可笑しなことを言うのう。鍋島が、勤王に動く気配は見えへんぞ。」
「それも帝の御為、日本(ひのもと)のためにございます。」
「ほう、動かぬことが何故、為(ため)になるのや。」

――当時、佐賀藩の意図は理解されていなかった。
「佐賀は動かぬのではありません。動けぬのです。」
「なにゆえや?」
公家の中でも、姉小路は当時「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったとも言われ、しかも若く血気盛んである。江藤の返答に、食ってかかるようでもあった。
「姉小路卿は、夷狄(いてき)の力量をご承知か。」
相手は公家であるから、佐賀の下級武士とは著しい身分の差があるが、江藤に全くひるむ様子は無い。
――江藤は、西洋列強の力を知っているかと逆に問いただす。
「…夷狄に睨(にら)まれて動けんとは、腰抜け武士やないか。」
江藤からの質問返しに、一瞬たじろいだ姉小路だが、鋭い言葉を放った。
「黒船の船足がいかほどのものか、ご存知か。彼の者たちは“蒸気仕掛け”にて、自在に船を操ります。」
蒸気船の速度に言及する、江藤。これを佐賀藩は自力で作ろうとしている。
「大筒とて、我が国のものとは比にはなりませぬぞ。」

――佐賀は、すでに鉄製大砲を量産しているが、
それとて西洋の物には及ばぬと、佐賀の者は知っている。だからこそ、必死で研究をするのだ。江藤は続けた。
姉小路は先ほどの“腰抜け武士”との一言を発してから黙って聞いている。
「佐賀が長崎を守護するは、帝より託されたお役目。」
江藤の声は、いつもより抑えてはいても、ビリビリと通っていく。
――姉小路は、じっと言葉を発する江藤を見ていた。
「我ら佐賀の者は夷狄に睨(にら)まれておるのではなく、長崎にて睨み合っておるのです。」
日本の表玄関・長崎港を守ることが、江戸期を通じて佐賀藩の重責である。そこで気を緩めれば、国の面目は丸つぶれとなる。
長崎では、海外との貿易が開港後、さらに活発となっており、「自国の商人を守る必要がある」と、警備の弱さを口実として異国から介入されかねない。
「時には、身を挺して異国船を止めたこともございます。」
佐賀藩は十数年前にも海峡に船を並べ、諫早領や武雄領などの部隊で警備を固め、フランス船の進入を阻止したりと、最前線の苦労を重ねている。

――そのまま江藤が語る。公家らしくもなく、姉小路は目線を外さない。
江藤は、西洋の技術を導入し、列強と向き合う佐賀藩の立場を説いた。
「…では、帝がその任を解き、京にて勤王せよと命ぜられた時はいかがする。」
姉小路は、質問を変えた。長崎警備の役目を外したら、どう動くのかと。
「それが帝の御心とあれば、佐賀は命に従いまする。」
佐賀藩の代表でもないのに、江藤は言い切った。
「…ほっ。」
――扇で口元を隠しながらも、愉快そうに笑いだす、姉小路。
「ほほほ…おもろい男やの。」
もはや姉小路に、江藤を問い詰める気はないらしい。
「そなたは佐賀を抜けて、鍋島を捨てたんやないのか?」
脱藩者であるはずの江藤が、堂々と佐賀藩の立場を弁明し、藩主・鍋島家の朝廷への忠節を語ることがおかしかったようだ。
先ほどまでと違って、急に上機嫌となった、姉小路の反応に困惑する江藤。
「江藤とやら、名を覚えておこう。また、近きうちにあらためて参れ。」
こうして江藤は、京で力を持つ公家・姉小路公知との面識を得たのである。
(続く)
幕末期、海外からの先端技術の吸収には熱心だった佐賀藩ですが、動乱の京都政局での主導権争いにはあまり関わっていません。
そのため、江藤新平の脱藩は、明治初期に佐賀藩が“薩長土肥”と呼ばれた一角に入ることに大きい影響がありました。
前回で、京都から長崎に向かっていた“祇園太郎”が佐賀の峠で語ったように、江藤は京の都で有力な公家との接点を持つことになります。
〔参照:
――1862年(文久二年)夏。京の都。
風は通らないものの、屋敷の中は程よく日陰にも入って「いけずな蒸し暑さ」と評される、京都の夏にしては、まだ過ごしやすい昼下がり。
いつになく整った衣服に身を包み、江藤新平はある貴人と向き合って、ずっと下座に控えている。
「江藤とやら、佐賀から来たというのはまことか。」
「佐賀を抜け、京に参りました。」
江藤が話をしている“貴人”とは、かなり若い公家である。名を、姉小路公知といい、年の頃は、まだ二十歳ぐらいと見えて、江藤より明らかに年下だ。
その若さだが、近年では尊王攘夷派の公家として、頭角を現している。覇気があって、志士たちの受けも良いため、長州藩とも関わりが強い。
――公家だけあって品はあるが、その舌鋒は鋭かった。
「佐賀の鍋島は、徳川におもねり、勤王の志が見えぬと聞くが、どうじゃ。」
「左様なことは、ございません。」
江藤はきっぱりと否定した。
「…ほほ、可笑しなことを言うのう。鍋島が、勤王に動く気配は見えへんぞ。」
「それも帝の御為、日本(ひのもと)のためにございます。」
「ほう、動かぬことが何故、為(ため)になるのや。」
――当時、佐賀藩の意図は理解されていなかった。
「佐賀は動かぬのではありません。動けぬのです。」
「なにゆえや?」
公家の中でも、姉小路は当時「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったとも言われ、しかも若く血気盛んである。江藤の返答に、食ってかかるようでもあった。
「姉小路卿は、夷狄(いてき)の力量をご承知か。」
相手は公家であるから、佐賀の下級武士とは著しい身分の差があるが、江藤に全くひるむ様子は無い。
――江藤は、西洋列強の力を知っているかと逆に問いただす。
「…夷狄に睨(にら)まれて動けんとは、腰抜け武士やないか。」
江藤からの質問返しに、一瞬たじろいだ姉小路だが、鋭い言葉を放った。
「黒船の船足がいかほどのものか、ご存知か。彼の者たちは“蒸気仕掛け”にて、自在に船を操ります。」
蒸気船の速度に言及する、江藤。これを佐賀藩は自力で作ろうとしている。
「大筒とて、我が国のものとは比にはなりませぬぞ。」
――佐賀は、すでに鉄製大砲を量産しているが、
それとて西洋の物には及ばぬと、佐賀の者は知っている。だからこそ、必死で研究をするのだ。江藤は続けた。
姉小路は先ほどの“腰抜け武士”との一言を発してから黙って聞いている。
「佐賀が長崎を守護するは、帝より託されたお役目。」
江藤の声は、いつもより抑えてはいても、ビリビリと通っていく。
――姉小路は、じっと言葉を発する江藤を見ていた。
「我ら佐賀の者は夷狄に睨(にら)まれておるのではなく、長崎にて睨み合っておるのです。」
日本の表玄関・長崎港を守ることが、江戸期を通じて佐賀藩の重責である。そこで気を緩めれば、国の面目は丸つぶれとなる。
長崎では、海外との貿易が開港後、さらに活発となっており、「自国の商人を守る必要がある」と、警備の弱さを口実として異国から介入されかねない。
「時には、身を挺して異国船を止めたこともございます。」
佐賀藩は十数年前にも海峡に船を並べ、諫早領や武雄領などの部隊で警備を固め、フランス船の進入を阻止したりと、最前線の苦労を重ねている。
――そのまま江藤が語る。公家らしくもなく、姉小路は目線を外さない。
江藤は、西洋の技術を導入し、列強と向き合う佐賀藩の立場を説いた。
「…では、帝がその任を解き、京にて勤王せよと命ぜられた時はいかがする。」
姉小路は、質問を変えた。長崎警備の役目を外したら、どう動くのかと。
「それが帝の御心とあれば、佐賀は命に従いまする。」
佐賀藩の代表でもないのに、江藤は言い切った。
「…ほっ。」
――扇で口元を隠しながらも、愉快そうに笑いだす、姉小路。
「ほほほ…おもろい男やの。」
もはや姉小路に、江藤を問い詰める気はないらしい。
「そなたは佐賀を抜けて、鍋島を捨てたんやないのか?」
脱藩者であるはずの江藤が、堂々と佐賀藩の立場を弁明し、藩主・鍋島家の朝廷への忠節を語ることがおかしかったようだ。
先ほどまでと違って、急に上機嫌となった、姉小路の反応に困惑する江藤。
「江藤とやら、名を覚えておこう。また、近きうちにあらためて参れ。」
こうして江藤は、京で力を持つ公家・姉小路公知との面識を得たのである。
(続く)
2022年12月12日
第18話「京都見聞」⑮(京の覇権争い)
こんばんは。
再び“本編”に戻ります。文久二年(1862年)夏。佐賀を脱藩し、京都に居た江藤新平は、有力な公家・姉小路公知との接点を得ました。
〔参照:第18話「京都見聞」⑭(若き公家の星)〕
姉小路は、尊王攘夷派の公家として頭角を現していた人物。“同志”の公家には、明治新政府の中枢にいた、三条実美などがいます。
前回、江藤は身分違いのはずの姉小路に対しても、堂々と持論を述べます。この若き公家は、そんな江藤を気に入ったようです。
――京の都、姉小路邸。
「そもそも、徳川の体(てい)たらく、異人におびえて手も出せぬとは。」
奥の座にいる、姉小路卿のもとに、連日のように新しい志士が挨拶に来る。
この頃、各地の雄藩が京都を目指し、まるで“上洛”の競争となっていた。
外交の危機が続き、そして開国をめぐって、通貨や物流など経済的な混乱が生じる。幕府は疲弊し、各地で外国への不満が高まりつつあった。
一方で、江戸期を通じて抑えられてきた、朝廷の権威は高まるばかり。もはや政局の中心は、京に移りつつあった。

――本日の志士も、さらに熱を帯びた声を上げる。
「神州に入り込む、夷狄(いてき)は打ち払い、異人は斬るべきと存ずる。」
来訪した志士は興が乗ってきたのか、威勢よく外国の排斥を唱えた。
「ほほっ…勇ましいことじゃ。」
歳は若いが、公家としての品格がある姉小路。志士たちを惹きつける魅力もある。印象に残って気に入られたいと考えるか、過激な論を叫ぶ者が続く。
「では、江藤はいかがに思う。存念を述べよ。」
ところが、姉小路はくるりと横を向くと、傍に控えていた江藤に発言を促す。
――血気盛んな志士は、江藤の方に目を向けた。
「“攘夷”の気概は、結構と存ずる。」
いつの間にか、姉小路の秘書のような位置に座っている江藤新平。
「そうであろう、貴公もいずこかの武士とお見受けする。ともに立とう。」
新参の志士は、江藤を有力公家・姉小路の側近とみて、近づこうとしている。
「されど、異人を斬って、その後はいかがする。」
「さらに斬って、追い払うのみ!」
「夷狄(いてき)とて人だ。仲間を斬られては黙ってはおるまい。」

――「この男、何が言いたい…」と怪訝(けげん)な表情をする志士。
「船にせよ、砲にせよ。我が国の業(わざ)は、異国の域に達しておらぬ。」
江藤は、整然と言葉を続ける。
「仲間を斬られたとあれば、威をもって貴殿の国元に攻めかかってこよう。」
ここで、志士は激高した。
「貴公は、とんだ腰抜けだな!夷狄(いてき)の砲が怖くて武士が務まるか!」
「武士は勝ち負けに関わらず、命を賭したとして、民はどうする。」
「民とて同じよ。立ち向かうんじゃ。」
――「それは理に合わぬ!」と江藤は、眼前の志士に鋭く言葉を発した。
「帝のためと語りながら、その民を“捨て駒”に使うとは何事か。」
江藤は、続けざまによく通る声を放った。
「まず、敵となる者の力量を知り、その業(わざ)を乗り越えねばならぬ。」
空論ではなく、実力が伴わなければ異国と対峙はできない。急進的な攘夷は、国を危うくする、これが江藤の持論だった。
長崎周辺の警備を担当し、オランダとの交易で技術を取り入れて、列強と向き合ってきた佐賀藩内では、過激な攘夷論は盛り上がらない傾向にあった。

――どのように世界と向き合う力を得るか…それは佐賀の課題だった。
激高した志士も真っ赤になっていた顔から、スーッと冷静に肌色が戻っていく。
「…貴公、京の都に居た者ではないな。どこから来られた。」
たしかに列強に負けない力を備えるのも、“攘夷”の考え方の1つだと言える。この志士には、江藤の言葉を受け止めるだけの度量があったらしい。
「佐賀から来た者だ。」
「…肥前の佐賀か?鍋島の者が、なにゆえ姉小路卿のところに…」
尊王攘夷の急先鋒のはずの姉小路ではあったが、何やら愉快そうに、江藤と、新参の志士のやり取りを眺めていた。
――諸藩の志士たちから、幕府寄りと見られていた、肥前佐賀藩。
この時期、京の都の求心力は右肩上がりである。薩摩・長州だけでなく仙台・肥後・筑前・土佐など雄藩が競って上洛する。
各地の志士たちも続々と京に集まり、不穏な熱気が高まりつつあった。だが、西洋列強の技術をよく知り“近代化”を実践する佐賀藩は、いまだ動かない。
そのため、京の中心で佐賀を示すような江藤の行動は、京に集う志士からも注目されたのである。
(続く)
再び“本編”に戻ります。文久二年(1862年)夏。佐賀を脱藩し、京都に居た江藤新平は、有力な公家・姉小路公知との接点を得ました。
〔参照:
姉小路は、尊王攘夷派の公家として頭角を現していた人物。“同志”の公家には、明治新政府の中枢にいた、三条実美などがいます。
前回、江藤は身分違いのはずの姉小路に対しても、堂々と持論を述べます。この若き公家は、そんな江藤を気に入ったようです。
――京の都、姉小路邸。
「そもそも、徳川の体(てい)たらく、異人におびえて手も出せぬとは。」
奥の座にいる、姉小路卿のもとに、連日のように新しい志士が挨拶に来る。
この頃、各地の雄藩が京都を目指し、まるで“上洛”の競争となっていた。
外交の危機が続き、そして開国をめぐって、通貨や物流など経済的な混乱が生じる。幕府は疲弊し、各地で外国への不満が高まりつつあった。
一方で、江戸期を通じて抑えられてきた、朝廷の権威は高まるばかり。もはや政局の中心は、京に移りつつあった。
――本日の志士も、さらに熱を帯びた声を上げる。
「神州に入り込む、夷狄(いてき)は打ち払い、異人は斬るべきと存ずる。」
来訪した志士は興が乗ってきたのか、威勢よく外国の排斥を唱えた。
「ほほっ…勇ましいことじゃ。」
歳は若いが、公家としての品格がある姉小路。志士たちを惹きつける魅力もある。印象に残って気に入られたいと考えるか、過激な論を叫ぶ者が続く。
「では、江藤はいかがに思う。存念を述べよ。」
ところが、姉小路はくるりと横を向くと、傍に控えていた江藤に発言を促す。
――血気盛んな志士は、江藤の方に目を向けた。
「“攘夷”の気概は、結構と存ずる。」
いつの間にか、姉小路の秘書のような位置に座っている江藤新平。
「そうであろう、貴公もいずこかの武士とお見受けする。ともに立とう。」
新参の志士は、江藤を有力公家・姉小路の側近とみて、近づこうとしている。
「されど、異人を斬って、その後はいかがする。」
「さらに斬って、追い払うのみ!」
「夷狄(いてき)とて人だ。仲間を斬られては黙ってはおるまい。」
――「この男、何が言いたい…」と怪訝(けげん)な表情をする志士。
「船にせよ、砲にせよ。我が国の業(わざ)は、異国の域に達しておらぬ。」
江藤は、整然と言葉を続ける。
「仲間を斬られたとあれば、威をもって貴殿の国元に攻めかかってこよう。」
ここで、志士は激高した。
「貴公は、とんだ腰抜けだな!夷狄(いてき)の砲が怖くて武士が務まるか!」
「武士は勝ち負けに関わらず、命を賭したとして、民はどうする。」
「民とて同じよ。立ち向かうんじゃ。」
――「それは理に合わぬ!」と江藤は、眼前の志士に鋭く言葉を発した。
「帝のためと語りながら、その民を“捨て駒”に使うとは何事か。」
江藤は、続けざまによく通る声を放った。
「まず、敵となる者の力量を知り、その業(わざ)を乗り越えねばならぬ。」
空論ではなく、実力が伴わなければ異国と対峙はできない。急進的な攘夷は、国を危うくする、これが江藤の持論だった。
長崎周辺の警備を担当し、オランダとの交易で技術を取り入れて、列強と向き合ってきた佐賀藩内では、過激な攘夷論は盛り上がらない傾向にあった。
――どのように世界と向き合う力を得るか…それは佐賀の課題だった。
激高した志士も真っ赤になっていた顔から、スーッと冷静に肌色が戻っていく。
「…貴公、京の都に居た者ではないな。どこから来られた。」
たしかに列強に負けない力を備えるのも、“攘夷”の考え方の1つだと言える。この志士には、江藤の言葉を受け止めるだけの度量があったらしい。
「佐賀から来た者だ。」
「…肥前の佐賀か?鍋島の者が、なにゆえ姉小路卿のところに…」
尊王攘夷の急先鋒のはずの姉小路ではあったが、何やら愉快そうに、江藤と、新参の志士のやり取りを眺めていた。
――諸藩の志士たちから、幕府寄りと見られていた、肥前佐賀藩。
この時期、京の都の求心力は右肩上がりである。薩摩・長州だけでなく仙台・肥後・筑前・土佐など雄藩が競って上洛する。
各地の志士たちも続々と京に集まり、不穏な熱気が高まりつつあった。だが、西洋列強の技術をよく知り“近代化”を実践する佐賀藩は、いまだ動かない。
そのため、京の中心で佐賀を示すような江藤の行動は、京に集う志士からも注目されたのである。
(続く)
2022年12月16日
第18話「京都見聞」⑯(“故郷”を守る者たち)
こんばんは。
文久二年(1862年)頃。有力な諸藩だけでなく、尊王攘夷を叫ぶ志士たちも、続々と京に集まった幕末。次第に、不穏な空気が強まっていきます。
この年の夏に、佐賀を脱藩した江藤新平。京の都では、志士として活動したというより、情勢の分析・調査を行っていたようです。
京では朝廷に仕える公家や、それに関わる志士たちから全国の雄藩の動向が掴めるので、情報の収集に務めていました。

それは、西洋を追いかける技術開発には熱心でも、中央の政局からは距離を取っていた佐賀藩には、貴重な情報でした。
江藤は、京都での調査報告を、信頼のおける友人たちに手紙で逐一の共有をしたといいます。
一方で、江藤は地元にいる老親と妻子が、気がかりだったようです。
――佐賀城下。ある寺のお堂にて。
「大木さん、江藤から文(ふみ)が来たそうだな。」
スッとした振る舞いの武士が、開け放しになった扉の表から声をかける。
「おおっ、坂井か。待っとったぞ。」
先に堂内に居た大木喬任(民平)。あぐらをかいて座り、不敵にニッと笑う。
「まだ、封ば空けとらん。“お楽しみ”というやつだ。」
大木も、せっかくの手紙なので、誰かと一緒に読みたかったらしい。
「おいが、一番乗りだったというわけか。光栄だ。」
どことなく気取った感じで言った、坂井辰之允。江藤も信頼を置く人物だ。
――大木は仰々しく、手紙を開封する。
よく手紙を受け取る大木なので、ふだん無口なわりに代読をする機会は多い。
「ほうほう、寝る間も無いほどに忙しく…」
京都で公家や他藩の志士たちと関わり、江藤は見聞を進める様子だ。

「さすが江藤くん、気張っておるようたい。」
坂井は、納得の表情を見せる。
「…ふふっ。やはり、江藤を京に行かせてよかった。」
そして、その脱藩の資金を工面した、大木は得意げである。
いま、西洋の技術に詳しいうえに、朝廷からも幕府からも、一定の信用がある佐賀藩が動けば、混沌とした情勢への影響は大きいと見込まれる。
江藤の脱藩は「そのための下調べを、自らが引き受ける」という想いでもある。
志半ばで斃れた親友・中野方蔵に代わって、“国事”に奔走する気持ちがあるのだろう。

――ここで急に、江藤からの手紙の調子が変わる。
「だが、眠れぬ夜には郷里に残した、老親が思われる。」
大木は読み上げながらも、「…ん?」と少し怪訝(けげん)な表情をする。
江藤が書き連ねる言葉は、志士らしくない文言が続く。
「幼子を抱える妻・千代子の不安は、如何ほどかと案ずる。」
代読を聞いている坂井も、意外な展開だったのか口が半開きである。
「老親、妻子を思えば、夜半に涙を流すこともある。」
江藤新平、京で電光石火の動きを見せるが、家族への心配は強まっている。
脱藩した動機は佐賀のためでもあり、ひいては日本のためという志はあるが、藩の命令で動いていないから、勝手に国元を抜けることは重罪なのだ。

――大木の代読を聞いていた、坂井がそわそわとする。
「…貴兄たちが頼りだ。お助けを願いたい。」
江藤の手紙には、佐賀に残した家族への援護の依頼も綴られていた。
大木は手紙を読み進めていたが、坂井の反応を見て声をかけた。
「急に立ち上がって、どうしたか?」
「いや、助右衛門さんの様子を見てこようかと思ってな。」
「早速に動くか。江藤も、頼む相手はよく見ているようだ。」
江藤の父・助右衛門は、子・新平の脱藩により謹慎を命じられている。何かと不便なこともあるだろう。坂井はそれを察した様子だ。
藩の掟を破ってまで、江藤が挑んだ「京都見聞」。その行動計画は拡大して、京の都に留まらず、大和(奈良)や越前(福井)にも及んだという。
(続く)
文久二年(1862年)頃。有力な諸藩だけでなく、尊王攘夷を叫ぶ志士たちも、続々と京に集まった幕末。次第に、不穏な空気が強まっていきます。
この年の夏に、佐賀を脱藩した江藤新平。京の都では、志士として活動したというより、情勢の分析・調査を行っていたようです。
京では朝廷に仕える公家や、それに関わる志士たちから全国の雄藩の動向が掴めるので、情報の収集に務めていました。
それは、西洋を追いかける技術開発には熱心でも、中央の政局からは距離を取っていた佐賀藩には、貴重な情報でした。
江藤は、京都での調査報告を、信頼のおける友人たちに手紙で逐一の共有をしたといいます。
一方で、江藤は地元にいる老親と妻子が、気がかりだったようです。
――佐賀城下。ある寺のお堂にて。
「大木さん、江藤から文(ふみ)が来たそうだな。」
スッとした振る舞いの武士が、開け放しになった扉の表から声をかける。
「おおっ、坂井か。待っとったぞ。」
先に堂内に居た大木喬任(民平)。あぐらをかいて座り、不敵にニッと笑う。
「まだ、封ば空けとらん。“お楽しみ”というやつだ。」
大木も、せっかくの手紙なので、誰かと一緒に読みたかったらしい。
「おいが、一番乗りだったというわけか。光栄だ。」
どことなく気取った感じで言った、坂井辰之允。江藤も信頼を置く人物だ。
――大木は仰々しく、手紙を開封する。
よく手紙を受け取る大木なので、ふだん無口なわりに代読をする機会は多い。
「ほうほう、寝る間も無いほどに忙しく…」
京都で公家や他藩の志士たちと関わり、江藤は見聞を進める様子だ。
「さすが江藤くん、気張っておるようたい。」
坂井は、納得の表情を見せる。
「…ふふっ。やはり、江藤を京に行かせてよかった。」
そして、その脱藩の資金を工面した、大木は得意げである。
いま、西洋の技術に詳しいうえに、朝廷からも幕府からも、一定の信用がある佐賀藩が動けば、混沌とした情勢への影響は大きいと見込まれる。
江藤の脱藩は「そのための下調べを、自らが引き受ける」という想いでもある。
志半ばで斃れた親友・中野方蔵に代わって、“国事”に奔走する気持ちがあるのだろう。
――ここで急に、江藤からの手紙の調子が変わる。
「だが、眠れぬ夜には郷里に残した、老親が思われる。」
大木は読み上げながらも、「…ん?」と少し怪訝(けげん)な表情をする。
江藤が書き連ねる言葉は、志士らしくない文言が続く。
「幼子を抱える妻・千代子の不安は、如何ほどかと案ずる。」
代読を聞いている坂井も、意外な展開だったのか口が半開きである。
「老親、妻子を思えば、夜半に涙を流すこともある。」
江藤新平、京で電光石火の動きを見せるが、家族への心配は強まっている。
脱藩した動機は佐賀のためでもあり、ひいては日本のためという志はあるが、藩の命令で動いていないから、勝手に国元を抜けることは重罪なのだ。
――大木の代読を聞いていた、坂井がそわそわとする。
「…貴兄たちが頼りだ。お助けを願いたい。」
江藤の手紙には、佐賀に残した家族への援護の依頼も綴られていた。
大木は手紙を読み進めていたが、坂井の反応を見て声をかけた。
「急に立ち上がって、どうしたか?」
「いや、助右衛門さんの様子を見てこようかと思ってな。」
「早速に動くか。江藤も、頼む相手はよく見ているようだ。」
江藤の父・助右衛門は、子・新平の脱藩により謹慎を命じられている。何かと不便なこともあるだろう。坂井はそれを察した様子だ。
藩の掟を破ってまで、江藤が挑んだ「京都見聞」。その行動計画は拡大して、京の都に留まらず、大和(奈良)や越前(福井)にも及んだという。
(続く)
2022年12月24日
第18話「京都見聞」⑰(湖畔の道を駆ける)
こんばんは。
文久二年(1862年)夏。郷里に残した家族の心配をしながら、江藤新平は京を中心に情報収集にあたり、各藩の志士とも交流します。
江藤は、志士として尊王攘夷の運動に加わる様子でもなく、佐賀藩のために、勝手に“偵察”をしていた…という感じのようです。
雄藩の上洛競争が続く中、有力でありながらも秩序を守ることができる佐賀藩が“まとめ役”に立つべきとの想いもあったのでしょう。
佐賀の大殿(前藩主)・鍋島直正が動く日を想定した、江藤の京都での見聞。その行動は周辺の地域にも及んだようですが、わずか数ヶ月の期間でした。

なお江藤は、朝廷・幕府・諸藩の動きなど、質量ともに相当な情報を集めた事がうかがえるも、その間の詳しい行動の記録は、あまり残っていないそうです。
結果から言えば、幕末の文久年間には功を奏しなかった江藤の脱藩ですが、のち明治へと時代が切り替わる、慶応年間には大きい意味を持ってきます。
――パカラッ、パカラッ…湖の傍らに、馬の蹄の音が響く。
ボヘーッ…と、馬が一息をつく。
江藤は鞍から降りると、馬のたてがみを一撫でする。
「しばし、休むといい。」
ボッ…まだ夏場であるので、馬の鼻息も熱い。江藤は、きれいな水の湧く場所で、休息を入れることにした。
眼前には、海の如く大きな湖を望む。近江(滋賀)の琵琶湖である。当地にある彦根藩は、幕府を支える譜代の雄藩として知られた。
ところが、安政七年(1860年)に当時の藩主で、大老を務めた井伊直弼が「桜田門外の変」で落命して以来、彦根藩は動きが定まらぬところがある。

かつて、京都を警備し「安政の大獄」の取締りでも恐れられた彦根藩の存在が薄れたことで、幕府の関係者には、京の街は危険な場所になりつつあった。
〔参照(終盤):第15話「江戸動乱」⑪(親心に似たるもの)〕
――湖畔を走る道。北は越前(福井)につながり、江藤はその帰路にある。
この文久二年(1862年)、幕政に関与しようと薩摩藩(鹿児島)の動きが活発だ。少し前に薩摩の“国父”(藩主の父)・島津久光が江戸へと向っている。
以前は、徳川の将軍候補だった一橋慶喜や、福井藩の松平慶永(春嶽)らを、薩摩藩の進言で幕府の重職に付け、影響力を強めるつもりらしい。
安政五年(1858年)に日米修好通商条約を締結してからの“開国”以来、幕閣への襲撃が続く。徳川の権威は揺らぎ、外様大名の存在感も増している。
いまや「朝廷の命で動いている」という立場を取ることが、各藩にとって重要な意味を持つ。それは政局を有利に運び、身を安全に保つ切り札となっていた。
――こうして、全国の諸藩が京を目指す。
薩摩藩と張り合うのは長州藩(山口)。佐賀を脱藩した江藤新平は、この長州の人脈を通じて、活動の幅を広げている。
また、江藤が関わる公家・姉小路公知を“盟主”とも仰ぎ、連携を求める志士も多い土佐藩(高知)の動きも積極的だ。

遠く東北地方から仙台藩(宮城)。九州地方からは筑前(福岡)や肥後(熊本)の各藩も、次々と京に入る。
いまだ動きを見せぬ、肥前の佐賀藩。大殿・鍋島直正が動く、その時が大事だ。佐賀藩は有力なだけに間違った動きをすれば、大きな混乱が生じる。
「とにかく異人を斬れ」と無謀な攘夷を叫ぶ者、「ただちに徳川を討て」と無理な倒幕を唱える者…京の都には異様な熱気と、様々な陰謀が渦巻くのだ。
――それゆえ京の周辺で、できる限りの情報を得る。
それを佐賀へと伝えること。これは江藤が自身に課した“使命”だった。
都度、手紙を大木喬任や坂井辰之允など、信頼できる佐賀の同志に送るのはそのためである。
「近いうちに閑叟(鍋島直正)さまは動くはず…急がねば。」
馬で京へと駆ける、江藤。琵琶湖の南端に至れば、ほぼ京の入口だ。この時、すでに姉小路公知の信頼を得ており“秘書”のような仕事をしたという。
江藤は、剣術と学問だけをしてきた志士ではない。佐賀藩の“火術方”や“代品方”に務めていたので、技術や貿易の知識もあり、実務にも長じている。
――北陸方面から京に戻ると、姉小路卿が待ち構えていた。
「お役目、確かに果たしました。」
江藤は、何らかの機密文書を届けた様子。状況報告とともに先方の返事を、姉小路の従者に引き渡す。

「ご苦労やったな。そなたに良き知らせがある。」
「はっ。」
すかさず語りかける姉小路。屋敷の庭に控えながらも視線を合わせる江藤。
姉小路も、まだ若い公家である。江藤に伝えたい事がある様子は、その表情からすぐに読みとれた。
「近いうちに鍋島が動くぞ。まことに喜ばしいことじゃ。」
朝廷の呼びかけに応える形で、ついに佐賀藩が…、鍋島直正が京を目指す。
これは、江藤にとっては希望の一報であったが、「さらに急がねばならない」という気持ちも強めることになった。
(続く)
文久二年(1862年)夏。郷里に残した家族の心配をしながら、江藤新平は京を中心に情報収集にあたり、各藩の志士とも交流します。
江藤は、志士として尊王攘夷の運動に加わる様子でもなく、佐賀藩のために、勝手に“偵察”をしていた…という感じのようです。
雄藩の上洛競争が続く中、有力でありながらも秩序を守ることができる佐賀藩が“まとめ役”に立つべきとの想いもあったのでしょう。
佐賀の大殿(前藩主)・鍋島直正が動く日を想定した、江藤の京都での見聞。その行動は周辺の地域にも及んだようですが、わずか数ヶ月の期間でした。
なお江藤は、朝廷・幕府・諸藩の動きなど、質量ともに相当な情報を集めた事がうかがえるも、その間の詳しい行動の記録は、あまり残っていないそうです。
結果から言えば、幕末の文久年間には功を奏しなかった江藤の脱藩ですが、のち明治へと時代が切り替わる、慶応年間には大きい意味を持ってきます。
――パカラッ、パカラッ…湖の傍らに、馬の蹄の音が響く。
ボヘーッ…と、馬が一息をつく。
江藤は鞍から降りると、馬のたてがみを一撫でする。
「しばし、休むといい。」
ボッ…まだ夏場であるので、馬の鼻息も熱い。江藤は、きれいな水の湧く場所で、休息を入れることにした。
眼前には、海の如く大きな湖を望む。近江(滋賀)の琵琶湖である。当地にある彦根藩は、幕府を支える譜代の雄藩として知られた。
ところが、安政七年(1860年)に当時の藩主で、大老を務めた井伊直弼が「桜田門外の変」で落命して以来、彦根藩は動きが定まらぬところがある。
かつて、京都を警備し「安政の大獄」の取締りでも恐れられた彦根藩の存在が薄れたことで、幕府の関係者には、京の街は危険な場所になりつつあった。
〔参照(終盤):
――湖畔を走る道。北は越前(福井)につながり、江藤はその帰路にある。
この文久二年(1862年)、幕政に関与しようと薩摩藩(鹿児島)の動きが活発だ。少し前に薩摩の“国父”(藩主の父)・島津久光が江戸へと向っている。
以前は、徳川の将軍候補だった一橋慶喜や、福井藩の松平慶永(春嶽)らを、薩摩藩の進言で幕府の重職に付け、影響力を強めるつもりらしい。
安政五年(1858年)に日米修好通商条約を締結してからの“開国”以来、幕閣への襲撃が続く。徳川の権威は揺らぎ、外様大名の存在感も増している。
いまや「朝廷の命で動いている」という立場を取ることが、各藩にとって重要な意味を持つ。それは政局を有利に運び、身を安全に保つ切り札となっていた。
――こうして、全国の諸藩が京を目指す。
薩摩藩と張り合うのは長州藩(山口)。佐賀を脱藩した江藤新平は、この長州の人脈を通じて、活動の幅を広げている。
また、江藤が関わる公家・姉小路公知を“盟主”とも仰ぎ、連携を求める志士も多い土佐藩(高知)の動きも積極的だ。
遠く東北地方から仙台藩(宮城)。九州地方からは筑前(福岡)や肥後(熊本)の各藩も、次々と京に入る。
いまだ動きを見せぬ、肥前の佐賀藩。大殿・鍋島直正が動く、その時が大事だ。佐賀藩は有力なだけに間違った動きをすれば、大きな混乱が生じる。
「とにかく異人を斬れ」と無謀な攘夷を叫ぶ者、「ただちに徳川を討て」と無理な倒幕を唱える者…京の都には異様な熱気と、様々な陰謀が渦巻くのだ。
――それゆえ京の周辺で、できる限りの情報を得る。
それを佐賀へと伝えること。これは江藤が自身に課した“使命”だった。
都度、手紙を大木喬任や坂井辰之允など、信頼できる佐賀の同志に送るのはそのためである。
「近いうちに閑叟(鍋島直正)さまは動くはず…急がねば。」
馬で京へと駆ける、江藤。琵琶湖の南端に至れば、ほぼ京の入口だ。この時、すでに姉小路公知の信頼を得ており“秘書”のような仕事をしたという。
江藤は、剣術と学問だけをしてきた志士ではない。佐賀藩の“火術方”や“代品方”に務めていたので、技術や貿易の知識もあり、実務にも長じている。
――北陸方面から京に戻ると、姉小路卿が待ち構えていた。
「お役目、確かに果たしました。」
江藤は、何らかの機密文書を届けた様子。状況報告とともに先方の返事を、姉小路の従者に引き渡す。
「ご苦労やったな。そなたに良き知らせがある。」
「はっ。」
すかさず語りかける姉小路。屋敷の庭に控えながらも視線を合わせる江藤。
姉小路も、まだ若い公家である。江藤に伝えたい事がある様子は、その表情からすぐに読みとれた。
「近いうちに鍋島が動くぞ。まことに喜ばしいことじゃ。」
朝廷の呼びかけに応える形で、ついに佐賀藩が…、鍋島直正が京を目指す。
これは、江藤にとっては希望の一報であったが、「さらに急がねばならない」という気持ちも強めることになった。
(続く)
2023年01月16日
第18話「京都見聞」⑱(秋風の吹く頃に)
こんばんは。
『どうする家康』第2回も面白かったのですが、「大河ドラマの感想を書くブログ」になってしまいそうなので、まず第18話の完結に向けて“本編”を再開します。
文久二年(1862年)夏に佐賀を脱藩した江藤新平。わずかな期間とはいえ、幕末の京都で活動したことで、明治の新時代につながる人脈を築きました。
ところが、当時の江藤の報告からは失望の方が強く伝わると言います。各藩が政局の中での立場を確保しようと、続々と上洛(京都入り)した時期でした。
〔参照(前回):第18話「京都見聞」⑰(湖畔の道を駆ける)〕

諸藩の思惑が交錯して混乱が強まっていたこと、また、江藤がこれぞと思える人物に出会うこともほとんど無かったことが、その失望の理由と聞きます。
江藤は「朝廷に英明な者が見当たらず、志士は激情に任せて動く…」という旨の感想を残したようです。
そんな折に「佐賀藩の大殿(前藩主)・鍋島直正が、京を目指す」という一報を得て、期待する江藤の気持ちは急いています。
――京。有力公家・姉小路公知の屋敷。
この日も、各地から集まった志士たちの威勢の良い大声が響く。
「徳川は弱腰、夷狄(いてき)はただちに打ち払え!」
「そうじゃ、攘夷の決行じゃ。すぐに、やるんじゃ!。」
「通商条約など、破り捨ててしまえ。」
「神州にはびこる異人どもは…斬るべし!」
議論はどんどん熱を帯びるが、そんな声を聞きながら、あまり寝ていない江藤は、縁側であくびをしていた。

このところ、江藤は佐賀に向けて、京都で見聞きした情勢を、夜通しで書面に綴っているのだ。
事は急を要する。どうにかして上洛の前に、佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)に最新の情報を届けねば…そのような焦りもあった。
――今日も「尊王攘夷」に熱狂する志士たちが集う。
ところが、志士たちの熱弁も日々繰り返されれば…聞き飽きるのか。話を聞かせたいはずの公家・姉小路公知の姿がそこには無い。
白熱した志士たちは気づかぬ様子だが、座の主役であるべき姉小路は、その場から抜け出し、庭を散策中である。
「ほっほ…江藤よ。眠うおじゃるか。」
「いえ、人智は空腹より生じます。不眠とて、新しき知恵をもたらすと存ずる。」
縁側に控える江藤に、声をかける姉小路。江藤からは、気を張った返事だ。
「また…強情なことや。佐賀の者は、そなたのような者ばかりなんか?」
二十歳そこそこで、かなり若い公家・姉小路。少しおどけたように言った。

――そして姉小路は、フッとため息を付くようにこぼした。
「あの威勢のええ者たちは、まろが居ようが居まいが関わりないらしい。」
来る日も来る日も、各地から似た感じの勢い込んだ志士が送り込まれてくる。
「何処かで聞いた言葉を叫ぶ者は、実のところ、何も考えておらぬゆえ。」
江藤は、議論の場で加熱する志士たちをこう評価した。
「なかなか手厳しい物言いや。そんなんは、疎(うと)まれるで。」
「論があるなら、いかに形に成すかを示さねばなりませぬ。」
以前とは違い、姉小路からの柔らかい忠告だが、江藤はぴしゃりと言い放つ。
〔参照:第18話「京都見聞」⑭(若き公家の星)〕
――ふと、秋の気配を感じさせる風が通る。
江藤の弁舌は、時に攻撃的でもあった。
「何も考えずわめく者には、それなりの言い方をするまで。」
「まず手筈(てはず)を整えろ…か。そなたなら、そう言うやろうな。」
わずか2か月ほどの付き合いになるが、姉小路にも江藤の気性がわかってきたようだ。だが身分の差もあり、このように親しく語らう事は、そう多くない。
熱気のこもった京都の夏も、過ぎゆこうとしている。庭先に下りてきた姉小路には、まだ江藤に聞きたいことがある様子だった。
(続く)
『どうする家康』第2回も面白かったのですが、「大河ドラマの感想を書くブログ」になってしまいそうなので、まず第18話の完結に向けて“本編”を再開します。
文久二年(1862年)夏に佐賀を脱藩した江藤新平。わずかな期間とはいえ、幕末の京都で活動したことで、明治の新時代につながる人脈を築きました。
ところが、当時の江藤の報告からは失望の方が強く伝わると言います。各藩が政局の中での立場を確保しようと、続々と上洛(京都入り)した時期でした。
〔参照(前回):
諸藩の思惑が交錯して混乱が強まっていたこと、また、江藤がこれぞと思える人物に出会うこともほとんど無かったことが、その失望の理由と聞きます。
江藤は「朝廷に英明な者が見当たらず、志士は激情に任せて動く…」という旨の感想を残したようです。
そんな折に「佐賀藩の大殿(前藩主)・鍋島直正が、京を目指す」という一報を得て、期待する江藤の気持ちは急いています。
――京。有力公家・姉小路公知の屋敷。
この日も、各地から集まった志士たちの威勢の良い大声が響く。
「徳川は弱腰、夷狄(いてき)はただちに打ち払え!」
「そうじゃ、攘夷の決行じゃ。すぐに、やるんじゃ!。」
「通商条約など、破り捨ててしまえ。」
「神州にはびこる異人どもは…斬るべし!」
議論はどんどん熱を帯びるが、そんな声を聞きながら、あまり寝ていない江藤は、縁側であくびをしていた。
このところ、江藤は佐賀に向けて、京都で見聞きした情勢を、夜通しで書面に綴っているのだ。
事は急を要する。どうにかして上洛の前に、佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)に最新の情報を届けねば…そのような焦りもあった。
――今日も「尊王攘夷」に熱狂する志士たちが集う。
ところが、志士たちの熱弁も日々繰り返されれば…聞き飽きるのか。話を聞かせたいはずの公家・姉小路公知の姿がそこには無い。
白熱した志士たちは気づかぬ様子だが、座の主役であるべき姉小路は、その場から抜け出し、庭を散策中である。
「ほっほ…江藤よ。眠うおじゃるか。」
「いえ、人智は空腹より生じます。不眠とて、新しき知恵をもたらすと存ずる。」
縁側に控える江藤に、声をかける姉小路。江藤からは、気を張った返事だ。
「また…強情なことや。佐賀の者は、そなたのような者ばかりなんか?」
二十歳そこそこで、かなり若い公家・姉小路。少しおどけたように言った。
――そして姉小路は、フッとため息を付くようにこぼした。
「あの威勢のええ者たちは、まろが居ようが居まいが関わりないらしい。」
来る日も来る日も、各地から似た感じの勢い込んだ志士が送り込まれてくる。
「何処かで聞いた言葉を叫ぶ者は、実のところ、何も考えておらぬゆえ。」
江藤は、議論の場で加熱する志士たちをこう評価した。
「なかなか手厳しい物言いや。そんなんは、疎(うと)まれるで。」
「論があるなら、いかに形に成すかを示さねばなりませぬ。」
以前とは違い、姉小路からの柔らかい忠告だが、江藤はぴしゃりと言い放つ。
〔参照:
――ふと、秋の気配を感じさせる風が通る。
江藤の弁舌は、時に攻撃的でもあった。
「何も考えずわめく者には、それなりの言い方をするまで。」
「まず手筈(てはず)を整えろ…か。そなたなら、そう言うやろうな。」
わずか2か月ほどの付き合いになるが、姉小路にも江藤の気性がわかってきたようだ。だが身分の差もあり、このように親しく語らう事は、そう多くない。
熱気のこもった京都の夏も、過ぎゆこうとしている。庭先に下りてきた姉小路には、まだ江藤に聞きたいことがある様子だった。
(続く)
2023年01月19日
第18話「京都見聞」⑲(“蒸気”の目覚め)
こんばんは。
1862年(文久二年)当時、尊王攘夷派の公家として、「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったとも言われる、姉小路公知。
同年の秋には、幕府に「攘夷実行」を催促するため、盟友の公家・三条実美とともに、江戸へと向かう予定がありました。
姉小路卿が、脱藩した佐賀の下級武士・江藤新平と接点を持っていたのは、その直前の夏に3か月ほどの、わずかな期間でした。
江藤の気質ならば、貴人に媚びて持論を曲げたりはしなかったでしょう。それゆえ、この若い公家は江藤を気に入ったのかもしれません。
――急に、真っ直ぐな表情をする姉小路。
身分の高い公家という先入観を除けば、少年の面影を残すような若さがある。
「…江藤、あらためて聞く。我らは夷狄(いてき)と戦こうたら、勝てるんか。」
「いま、事を構えるのであれば、“必敗”と存じる。」
江藤は「攘夷」の旗頭とも言える、姉小路に直言した。異国の力量をよく理解しているのが、佐賀藩士の特徴でもある。

「…どないなるんや?」
「政のみならず、商いの仕組みも壊れ、民の暮らしも立ち行かぬでしょう。」
異国に海路を抑えられれば、日本沿岸を船で廻る物流網も寸断されるだろう。経済が大混乱に陥ることも容易に想像がつく。
――再び姉小路が、問いかける。
「では、いかがすれば良いのや。」
「近きうちに王政を復古せんと欲すれば、徳川に、異国との談判を任せたままではなりませぬ。」
江藤は幕府から、まず外交権を取り戻すべきと論じた。その言には、それが出来ぬならば、朝廷は政治の実権を握るべきではないという厳しさもあった。
困難な外交を受け持たずに、政治を主導できるというのは考えが浅い。江藤が語るのは、「やるからには、責任を持て」という姿勢だ。

――「難題をどうするか」を必死で考える。それも、佐賀の熱気だった。
「江藤。そなたは、やはり厳しい物言いをする。」
姉小路卿は、少しひねくれた言い振りをした。
尊王攘夷派の公家として、幕府の大老が井伊直弼だった時に、列強と結んだ修好通商条約を破棄し、異国を排除せよと主張する立場にあるからだ。
たしかに攘夷を叫ぶのは良いが、その後どうするかの手順は、誰も考えようとしない。江藤が指摘するのは、その“無責任さ”という事になる。
――幕府に“破約攘夷”を迫るだけで、後は受け持たない。
尊王攘夷派の志士たちが過熱すれば、異国と向き合う当事者として悩むのは、幕府の仕事である。
そうすれば幕閣としては舵取りに困るので、政治的に朝廷が優位を取ることができて一石二鳥だが、なにぶん人任せで、どう転ぶかはわからないのだ。

「“蒸気仕掛け”という、西洋の業がございます。」
「先だって、そなたの語った、異人が黒船を速やかに進める業やったか。」
――以前の姉小路は、佐賀に“勤王”の動きが見えないと言い放った。
その時に江藤は、長崎の警備で、異国と向き合う佐賀藩の立場を述べた。そして、西洋の進んだ技術の一例として、蒸気船を挙げた。
〔参照(中盤):第18話「京都見聞」⑭(若き公家の星)〕
「欧米では、船の部材まで、“蒸気”にて作ると聞き及びます。」
「どないして使うんや、そもそも“蒸気”とは何や?」
京で見てきた公家には「異人は嫌や!」「徳川が何とかせよ!」と繰り返すだけの者も多く居た。江藤は、姉小路の一歩進んだ問いに応じて語り始めた。

「平たく言えば、湯を沸かす力にて、鉄(くろがね)を自在に切り揃えます。」
「ほっほ…戯(たわむ)れを申すな。」
――姉小路は、いまいち得心がいかない様子だ。
しかし、江藤は真っ直ぐな目をしている。
「そなたは、戯言(ざれごと)を言うような者やないな…」
鉄瓶の蓋を動かすのも、湯を沸かす力。アメリカに渡った幕府の使節団には、数名の佐賀藩士も同行していた。
そこでは、その蒸気の力で、工業製品が大量生産されていたのである。
〔参照(中盤):第16話「攘夷沸騰」⑫(“錬金術”と闘う男)〕
「佐賀でも、蒸気を用いて、鉄が整うのか。」
「いまだ、水車を用います。」
鉄製大砲は反射炉で量産しているが、成形に利用するのは、佐賀城下を流れる多布施川などの水力だ。
〔参照(中盤):第10話「蒸気機関」⑩(佐賀の産業革命)〕

――佐賀藩ですら、蒸気機関で工業製品は作れていない。
江藤は悔しそうに、欧米列強と比べてしまえば、佐賀はひどく遅れているのだと熱弁を振るう。
「真に熱いんは、そなたら佐賀の者やもしれんな。」
姉小路は、少し呆れたような表情を見せた。江藤の言葉には、いちいち刺さるものがある。
若き公家の心のうちには、何か攘夷を叫ぶ事とは別の、新しい“熱気”が生じ始めていた。
(続く)
1862年(文久二年)当時、尊王攘夷派の公家として、「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったとも言われる、姉小路公知。
同年の秋には、幕府に「攘夷実行」を催促するため、盟友の公家・三条実美とともに、江戸へと向かう予定がありました。
姉小路卿が、脱藩した佐賀の下級武士・江藤新平と接点を持っていたのは、その直前の夏に3か月ほどの、わずかな期間でした。
江藤の気質ならば、貴人に媚びて持論を曲げたりはしなかったでしょう。それゆえ、この若い公家は江藤を気に入ったのかもしれません。
――急に、真っ直ぐな表情をする姉小路。
身分の高い公家という先入観を除けば、少年の面影を残すような若さがある。
「…江藤、あらためて聞く。我らは夷狄(いてき)と戦こうたら、勝てるんか。」
「いま、事を構えるのであれば、“必敗”と存じる。」
江藤は「攘夷」の旗頭とも言える、姉小路に直言した。異国の力量をよく理解しているのが、佐賀藩士の特徴でもある。
「…どないなるんや?」
「政のみならず、商いの仕組みも壊れ、民の暮らしも立ち行かぬでしょう。」
異国に海路を抑えられれば、日本沿岸を船で廻る物流網も寸断されるだろう。経済が大混乱に陥ることも容易に想像がつく。
――再び姉小路が、問いかける。
「では、いかがすれば良いのや。」
「近きうちに王政を復古せんと欲すれば、徳川に、異国との談判を任せたままではなりませぬ。」
江藤は幕府から、まず外交権を取り戻すべきと論じた。その言には、それが出来ぬならば、朝廷は政治の実権を握るべきではないという厳しさもあった。
困難な外交を受け持たずに、政治を主導できるというのは考えが浅い。江藤が語るのは、「やるからには、責任を持て」という姿勢だ。
――「難題をどうするか」を必死で考える。それも、佐賀の熱気だった。
「江藤。そなたは、やはり厳しい物言いをする。」
姉小路卿は、少しひねくれた言い振りをした。
尊王攘夷派の公家として、幕府の大老が井伊直弼だった時に、列強と結んだ修好通商条約を破棄し、異国を排除せよと主張する立場にあるからだ。
たしかに攘夷を叫ぶのは良いが、その後どうするかの手順は、誰も考えようとしない。江藤が指摘するのは、その“無責任さ”という事になる。
――幕府に“破約攘夷”を迫るだけで、後は受け持たない。
尊王攘夷派の志士たちが過熱すれば、異国と向き合う当事者として悩むのは、幕府の仕事である。
そうすれば幕閣としては舵取りに困るので、政治的に朝廷が優位を取ることができて一石二鳥だが、なにぶん人任せで、どう転ぶかはわからないのだ。

「“蒸気仕掛け”という、西洋の業がございます。」
「先だって、そなたの語った、異人が黒船を速やかに進める業やったか。」
――以前の姉小路は、佐賀に“勤王”の動きが見えないと言い放った。
その時に江藤は、長崎の警備で、異国と向き合う佐賀藩の立場を述べた。そして、西洋の進んだ技術の一例として、蒸気船を挙げた。
〔参照(中盤):
「欧米では、船の部材まで、“蒸気”にて作ると聞き及びます。」
「どないして使うんや、そもそも“蒸気”とは何や?」
京で見てきた公家には「異人は嫌や!」「徳川が何とかせよ!」と繰り返すだけの者も多く居た。江藤は、姉小路の一歩進んだ問いに応じて語り始めた。

「平たく言えば、湯を沸かす力にて、鉄(くろがね)を自在に切り揃えます。」
「ほっほ…戯(たわむ)れを申すな。」
――姉小路は、いまいち得心がいかない様子だ。
しかし、江藤は真っ直ぐな目をしている。
「そなたは、戯言(ざれごと)を言うような者やないな…」
鉄瓶の蓋を動かすのも、湯を沸かす力。アメリカに渡った幕府の使節団には、数名の佐賀藩士も同行していた。
そこでは、その蒸気の力で、工業製品が大量生産されていたのである。
〔参照(中盤):
「佐賀でも、蒸気を用いて、鉄が整うのか。」
「いまだ、水車を用います。」
鉄製大砲は反射炉で量産しているが、成形に利用するのは、佐賀城下を流れる多布施川などの水力だ。
〔参照(中盤):
――佐賀藩ですら、蒸気機関で工業製品は作れていない。
江藤は悔しそうに、欧米列強と比べてしまえば、佐賀はひどく遅れているのだと熱弁を振るう。
「真に熱いんは、そなたら佐賀の者やもしれんな。」
姉小路は、少し呆れたような表情を見せた。江藤の言葉には、いちいち刺さるものがある。
若き公家の心のうちには、何か攘夷を叫ぶ事とは別の、新しい“熱気”が生じ始めていた。
(続く)
2023年01月23日
第18話「京都見聞」⑳(公卿の評判)
こんばんは。
1862年(文久二年)秋。幕府に「攘夷実行」を催促するため、京都から2人の公家が正副の使者となり、江戸に向かうことになります。
1人は、のちの明治新政府でも主要な人物となった三条実美(さねとみ)。もう1人は、京の都で活動していた江藤新平と関わっていた、姉小路公知です。
佐賀からの脱藩中に江藤新平は、姉小路卿の“秘書”のような仕事をしたそうで、数々の機密情報にも触れたと聞きます。
江藤は、秘密裡に孝明天皇に奏上する書面(密奏書)も作成。趣旨は「幕府から外交権を接収し、漸次、王政復古に及ぶべし」という献策だったようです。

――京の都。御所にて、2人の公家が対話する。
「三条はん、見てもらいたいものがあるのや。」
そう語る姉小路には何か含むところがあるらしく、貴人ではあるが、いたずらな少年のような表情をしている。
「これは姉小路の…久方ぶりやないか。何かおもろいことでもあったんか。」
上方(京・大坂)の言葉ではあるが、公家であるので、その話し振りはより京の色彩が出て、穏やかで雅びだ。
但し、血気盛んな各地の志士たちとの交流が強まるにつれ、次第に語り口調も強く、早口になることが増えてきている。
――姉小路は、巻物を袖より取り出した。
「見てもらいたいもんは、ここにおじゃる。」
少し勿体(もったい)をつけている。姉小路は、三条実美と懇意である。
「帝に奏する書でもあるんか。」
三条の問いかけである。双方、扇を口元近くに置いて語らうのが、公家らしい。
巻物様の表装に仕立てられているが、その中身は佐賀藩を抜けた下級武士・江藤新平が書いたものだ。
「天朝が徳川に代わりて、異国と談判をすべし…やそうな。」

――三条は、驚いた表情を見せる。
「待ってたもれ。異人とのやり取りは、徳川に任せなあかん。」
今の朝廷に外交の折衝などできるはずがない。それは三条にも想像がつく。
「“新しき御代”(みよ)を作るには、それでは足らへんらしいで。」
姉小路は王政を復古する第一歩が外交であるという、江藤の説を紹介した。
「…姉小路はん、あんた何や変わったな。」
「何も変わらへんで。まろは、帝のもとで新しき御代(みよ)を作るんや。」
三条は、少し慌てた様子で問いかけを続ける。
「夷狄(いてき)を、打ち払うんやなかったんか。」
「それや。この日本を、夷狄すら敬服する、進んだ国にせんとな。」
――姉小路は、うんうんと得心したように答えを返す。
今までの熱気とは、様子が違う。一体、姉小路は誰に感化されているのか…三条はさらに訝(いぶ)しがった。
「江戸に下って、徳川に異国の打払いを問うんやろ。」
三条には確認したいことがある。秋には幕府への攘夷実行の催促に、姉小路とともに行く予定だが、姉小路の考え方が変わったとすれば影響はないのか。

「そうやな、三条はん。徳川がしっかり異国に備えとるか、まろが直々に見聞してやろうと思うのや。」
姉小路は人任せにせず、自ら動くつもりのようだ。新式の大砲を配する台場や蒸気船の運用など、海防の最前線も見に行くつもりがあるらしい。
とても活き活きと語りだす姉小路。以前とは、また違った“熱気”を帯びている。
――続けざまに語る、姉小路。この辺り、その若さが前面に出る。
「そうや。まろのところに、面白い者が居る。」
三条は気付いた。きっと姉小路に見られる変化はその者の影響に違いない。
「こんど、三条はんも会(お)うて見るといい。その者は佐賀から来たのや。」
「…佐賀やて?」
ほぼ接触してくる志士もおらず、今ひとつ動きが読めないが、最も西洋に近い国と言われた肥前の佐賀藩。

「その者の名は。」
「江藤という者や。新しき御代(みよ)には、きっと我らと共に居るやろうな。」
ここから5~6年ほどで政治的には大変動が起き、姉小路公知の盟友だった、公家・三条実美は新政府の要人となった。
それから三条も、江藤ら佐賀藩士とともに、日本の近代化に関わることになるが、それまでには多くの犠牲を経て、まだ長い道のりがある。
(第19話「閑叟上洛」に続く)
1862年(文久二年)秋。幕府に「攘夷実行」を催促するため、京都から2人の公家が正副の使者となり、江戸に向かうことになります。
1人は、のちの明治新政府でも主要な人物となった三条実美(さねとみ)。もう1人は、京の都で活動していた江藤新平と関わっていた、姉小路公知です。
佐賀からの脱藩中に江藤新平は、姉小路卿の“秘書”のような仕事をしたそうで、数々の機密情報にも触れたと聞きます。
江藤は、秘密裡に孝明天皇に奏上する書面(密奏書)も作成。趣旨は「幕府から外交権を接収し、漸次、王政復古に及ぶべし」という献策だったようです。
――京の都。御所にて、2人の公家が対話する。
「三条はん、見てもらいたいものがあるのや。」
そう語る姉小路には何か含むところがあるらしく、貴人ではあるが、いたずらな少年のような表情をしている。
「これは姉小路の…久方ぶりやないか。何かおもろいことでもあったんか。」
上方(京・大坂)の言葉ではあるが、公家であるので、その話し振りはより京の色彩が出て、穏やかで雅びだ。
但し、血気盛んな各地の志士たちとの交流が強まるにつれ、次第に語り口調も強く、早口になることが増えてきている。
――姉小路は、巻物を袖より取り出した。
「見てもらいたいもんは、ここにおじゃる。」
少し勿体(もったい)をつけている。姉小路は、三条実美と懇意である。
「帝に奏する書でもあるんか。」
三条の問いかけである。双方、扇を口元近くに置いて語らうのが、公家らしい。
巻物様の表装に仕立てられているが、その中身は佐賀藩を抜けた下級武士・江藤新平が書いたものだ。
「天朝が徳川に代わりて、異国と談判をすべし…やそうな。」
――三条は、驚いた表情を見せる。
「待ってたもれ。異人とのやり取りは、徳川に任せなあかん。」
今の朝廷に外交の折衝などできるはずがない。それは三条にも想像がつく。
「“新しき御代”(みよ)を作るには、それでは足らへんらしいで。」
姉小路は王政を復古する第一歩が外交であるという、江藤の説を紹介した。
「…姉小路はん、あんた何や変わったな。」
「何も変わらへんで。まろは、帝のもとで新しき御代(みよ)を作るんや。」
三条は、少し慌てた様子で問いかけを続ける。
「夷狄(いてき)を、打ち払うんやなかったんか。」
「それや。この日本を、夷狄すら敬服する、進んだ国にせんとな。」
――姉小路は、うんうんと得心したように答えを返す。
今までの熱気とは、様子が違う。一体、姉小路は誰に感化されているのか…三条はさらに訝(いぶ)しがった。
「江戸に下って、徳川に異国の打払いを問うんやろ。」
三条には確認したいことがある。秋には幕府への攘夷実行の催促に、姉小路とともに行く予定だが、姉小路の考え方が変わったとすれば影響はないのか。
「そうやな、三条はん。徳川がしっかり異国に備えとるか、まろが直々に見聞してやろうと思うのや。」
姉小路は人任せにせず、自ら動くつもりのようだ。新式の大砲を配する台場や蒸気船の運用など、海防の最前線も見に行くつもりがあるらしい。
とても活き活きと語りだす姉小路。以前とは、また違った“熱気”を帯びている。
――続けざまに語る、姉小路。この辺り、その若さが前面に出る。
「そうや。まろのところに、面白い者が居る。」
三条は気付いた。きっと姉小路に見られる変化はその者の影響に違いない。
「こんど、三条はんも会(お)うて見るといい。その者は佐賀から来たのや。」
「…佐賀やて?」
ほぼ接触してくる志士もおらず、今ひとつ動きが読めないが、最も西洋に近い国と言われた肥前の佐賀藩。
「その者の名は。」
「江藤という者や。新しき御代(みよ)には、きっと我らと共に居るやろうな。」
ここから5~6年ほどで政治的には大変動が起き、姉小路公知の盟友だった、公家・三条実美は新政府の要人となった。
それから三条も、江藤ら佐賀藩士とともに、日本の近代化に関わることになるが、それまでには多くの犠牲を経て、まだ長い道のりがある。
(第19話「閑叟上洛」に続く)