2020年02月29日
第5話「藩校立志」③
こんばんは。
1844年には、鎖国を続ける江戸幕府に対して「オランダ国王の開国勧告」がありました。
当時のオランダは、長崎の出島を通じて、日本国内と唯一つながっていた西洋の国。いわば「開国のススメ」を携えて、オランダの軍船「パレンバン号」がやって来ます。
――佐賀城。鍋島直正に貴重な知らせがあった。
直正が、やや細い目を見開く。
「オランダの軍船が長崎に参ると聞いたぞ!」
「ははっ!確かな知らせのようです。」
“火術方”での研究だけでなく、長崎の砲台も整備する本島藤太夫が答える。
「何とか見聞してみたいものだ。」
直正は思案し始めた。
――直正は、今までにも“オランダ商人の船”にはよく乗り込んでいる。
しかし、さすがの直正にも、西洋の軍船を間近で見る機会はなかった。千載一遇の好機の到来である。
――その頃、佐賀藩士たちが城内・城下で慌ただしく長崎行きの準備をする。
「第二陣の武器の支度は整ったか!」
「この荷は、もう長崎に運んでも良いのだな!」
「そこの一山、あわせて三十箱は運び出しても良うござる!」
「第二陣の出立は、明日の何刻(なんどき)じゃ!」
「兵と荷が揃ってからの出立ゆえ、辰の刻(午前8時頃)になるかと!」
「少し遅いな…やむを得ぬか…」
輸送費のほか、宿営費も気になっている佐賀藩である。できるだけ節約したい。長崎警護には、とにかくお金がかかるのだ。
――多数の改革プロジェクトを管理し、非常に忙しい直正。
しかし、長崎には行きたい。特に軍船は絶対に見学したい。
「此度は軍船まで来ておる。公儀(幕府)から、くれぐれも無事に警備を務めるよう、お達しがあった。」
直正は、守旧派の重臣たちを、先に抑えておく。
「それゆえ、余が自ら長崎に足を運ぶ、何度でもじゃ!」
「ははっ…!?」
「“フェートン号”の失態を繰り返すことはできぬ。」
「…殿自らお出ましなさらずとも…」
直正の予測どおり、やはり行動を封じようとしてくる。
「その油断がいかんのだ!余自ら陣の先頭に立ち、兵たちを鼓舞する。これが公儀(幕府)への忠節である!」
直正の本音は“オランダ軍船を見たい!”なのだが、表向きの理由はしっかりと述べておく。
――そして、次は長崎奉行所である。

オランダ軍船“パレンバン号”は既に長崎に入港している。
商船とは違い、威圧感のある船影が見える。
「あれがオランダ軍船か…。いま手の届くところにおるのだ、この機は逃さん!必ず学んでおくぞ!」
すっかり“武雄の義兄上”鍋島茂義の気質を引き継いでしまった直正。
――長崎奉行所内が慌ただしくなる。
「肥前守(鍋島直正)さまが、自らお越しです!」
面食らう長崎奉行。
「なにゆえか!これで何度目だ!肥前様はおヒマなのか!?」
――鍋島直正は警護の陣頭に立つとして、この年は長崎に5回も足を運んだ。
「長崎を守護する者としては、異国船を知るが肝要。」
「オランダ国は我が国と誼(よしみ)を通じておるゆえ、この機を逃す手はない。」
――直正は、これからの長崎の防衛のためだと奉行所を説得する。
肥前佐賀(三十五万石)の大名・鍋島直正。「オランダの軍船、見に行って良いか」と全力のお願いである。
対する長崎奉行所としては「異国の軍船に大名が乗り込むなど、前例がないゆえ無理でござる」で返したいところである。
結果、“殿のお願い”は認められた。
「オランダ国王」から”開国”を勧められるほど、日本近海の情勢は危うい。
長崎警護の負担も含め、佐賀藩の事情は、一応は幕府にも理解されたのである。
(続く)
1844年には、鎖国を続ける江戸幕府に対して「オランダ国王の開国勧告」がありました。
当時のオランダは、長崎の出島を通じて、日本国内と唯一つながっていた西洋の国。いわば「開国のススメ」を携えて、オランダの軍船「パレンバン号」がやって来ます。
――佐賀城。鍋島直正に貴重な知らせがあった。
直正が、やや細い目を見開く。
「オランダの軍船が長崎に参ると聞いたぞ!」
「ははっ!確かな知らせのようです。」
“火術方”での研究だけでなく、長崎の砲台も整備する本島藤太夫が答える。
「何とか見聞してみたいものだ。」
直正は思案し始めた。
――直正は、今までにも“オランダ商人の船”にはよく乗り込んでいる。
しかし、さすがの直正にも、西洋の軍船を間近で見る機会はなかった。千載一遇の好機の到来である。
――その頃、佐賀藩士たちが城内・城下で慌ただしく長崎行きの準備をする。
「第二陣の武器の支度は整ったか!」
「この荷は、もう長崎に運んでも良いのだな!」
「そこの一山、あわせて三十箱は運び出しても良うござる!」
「第二陣の出立は、明日の何刻(なんどき)じゃ!」
「兵と荷が揃ってからの出立ゆえ、辰の刻(午前8時頃)になるかと!」
「少し遅いな…やむを得ぬか…」
輸送費のほか、宿営費も気になっている佐賀藩である。できるだけ節約したい。長崎警護には、とにかくお金がかかるのだ。
――多数の改革プロジェクトを管理し、非常に忙しい直正。
しかし、長崎には行きたい。特に軍船は絶対に見学したい。
「此度は軍船まで来ておる。公儀(幕府)から、くれぐれも無事に警備を務めるよう、お達しがあった。」
直正は、守旧派の重臣たちを、先に抑えておく。
「それゆえ、余が自ら長崎に足を運ぶ、何度でもじゃ!」
「ははっ…!?」
「“フェートン号”の失態を繰り返すことはできぬ。」
「…殿自らお出ましなさらずとも…」
直正の予測どおり、やはり行動を封じようとしてくる。
「その油断がいかんのだ!余自ら陣の先頭に立ち、兵たちを鼓舞する。これが公儀(幕府)への忠節である!」
直正の本音は“オランダ軍船を見たい!”なのだが、表向きの理由はしっかりと述べておく。
――そして、次は長崎奉行所である。

オランダ軍船“パレンバン号”は既に長崎に入港している。
商船とは違い、威圧感のある船影が見える。
「あれがオランダ軍船か…。いま手の届くところにおるのだ、この機は逃さん!必ず学んでおくぞ!」
すっかり“武雄の義兄上”鍋島茂義の気質を引き継いでしまった直正。
――長崎奉行所内が慌ただしくなる。
「肥前守(鍋島直正)さまが、自らお越しです!」
面食らう長崎奉行。
「なにゆえか!これで何度目だ!肥前様はおヒマなのか!?」
――鍋島直正は警護の陣頭に立つとして、この年は長崎に5回も足を運んだ。
「長崎を守護する者としては、異国船を知るが肝要。」
「オランダ国は我が国と誼(よしみ)を通じておるゆえ、この機を逃す手はない。」
――直正は、これからの長崎の防衛のためだと奉行所を説得する。
肥前佐賀(三十五万石)の大名・鍋島直正。「オランダの軍船、見に行って良いか」と全力のお願いである。
対する長崎奉行所としては「異国の軍船に大名が乗り込むなど、前例がないゆえ無理でござる」で返したいところである。
結果、“殿のお願い”は認められた。
「オランダ国王」から”開国”を勧められるほど、日本近海の情勢は危うい。
長崎警護の負担も含め、佐賀藩の事情は、一応は幕府にも理解されたのである。
(続く)
2020年02月28日
第5話「藩校立志」②
こんばんは。
一昨日の続きです。
――1844年。佐賀藩の砲術の研究所“火術方”が創設される。
大隈信保は忙しく働いていた。
信保は、大隈八太郎(のちの大隈重信)の父である。
そして“石火矢頭人”(いしびや かしら)の役職にある。
“石火矢”、ここでは大砲の古風な表現とお考えください。
大隈の父は、佐賀藩の砲術の担当者であった。
――ドン!ドン!
「大隈どの!モルチール砲の試射、滞りなく。」
“西洋砲術”の流儀に基づいて実験を行う。
「ご苦労。ここに記してくれ。」
大隈信保は次々に生じる実験データを集めていた。
「火薬の調合ごとに結果が異なり申した。」
「やはりな。見込みどおりだ。」
信保は“砲術長”の立場にあり、自身で火薬の調合もこなせたという。

――ポン!ポン!
「大隈どの!古来の“石火矢”も、まずまずの結果ですばい。」
佐賀藩は、和製大筒も比較の対象とし、洋砲と並べて試験をしていた。
「ほう、思いのほか、よかごたね…」
大隈信保、大筒の担当とも旧知の様子。
「この大筒も使えるかもしれぬな…」
信保は、大砲の弾道の計算もできたと言われる。
――そこで“長崎御番の侍”の継承者・本島藤太夫が現場に現れる。
鍋島直正の側近でもあり、“火術方”でも重責を担う本島。
“製砲”の主任、“台場”の責任者と忙しい。
先ほど、殿から激励を受けてきたらしい。
「本島よ!不埒な異国船あらば、打払えるだけの備えをせよ!」
と言い残すと、直正は次の仕事のため城に戻った。
各々の責任者がいるとはいえ、直正のもとでは、
防衛や科学技術だけでなく、財政・教育・農業・都市計画・特産開発…多数のプロジェクトが進んでいたのである。
大隈信保は、ぽつりと言った。
「殿も忙しかごたですな。」
――しかし、本島藤太夫は殿からの激励で高揚している。
「大隈どの!私はやるぞ!」
そして、右拳を握りしめる本島。
「もし長崎で異国船が暴れるならば、私が悉く打払ってやる!」
…これは、第1話「長崎警護」からの流れである。
あの日の若侍の志は、たしかに受け継がれている…
この直前1840年からのアヘン戦争で、東洋の大国・清がイギリスに完敗している。この衝撃、長崎を警備する佐賀藩では特に大きい。製砲と台場の整備は急務だった。
――そして、ごく小さい話ですが、暴れると言えば…舞台は、佐賀城下。
「おおくま はちたろう!かくごしろ!」
年のころ、7歳ぐらいの男子が仁王立ちしている。
「なにを~うてるものなら、うってみろ!」
大隈八太郎、何やら自分より大きい子と喧嘩を始めた。
「こしゃくな!まて~っ!」
追われる八太郎。
そこで身を翻す、いつの間にか手に持った柄杓(ひしゃく)。
低い体勢から、追いついた男の子の向う脛(むこうずね)をスコン!と叩く。
「いてて…」
――そして、手ごろな台の上に飛び乗った八太郎。
「たかうじ!かくご!」
「…たかうじ!?だれのことだ?」
困惑する相手に体ごと飛びかかる八太郎。とても危ない。
「ぐへっ、…まいった。」
いきなり“尊氏”と呼ばれた喧嘩の相手。奇襲攻撃に降参する。八太郎の勝利である。
「どうだ!これが、なんこう(楠公)さまの、へいほう(兵法)だ!」
“太平記”の物語を読んでもらうだけで、“楠木正成”に感化され戦闘力が上がった大隈八太郎。
――後の大隈重信には、先輩や部下から話を聞いただけで、必要な知識を得る力が備わった。
いわば“耳学問”の達人のような要領の良さがあった。
しかし、それはまだ随分、先の話…
弱々しい甘えん坊だった八太郎くん。
強い子になってほしいという母の想い、そして薬であった“太平記”が効き過ぎて、今度は喧嘩ばかりする子になっていく。
母・大隈三井子は、相変わらず八太郎くんの育て方に悩むのだった。
(続く)
一昨日の続きです。
――1844年。佐賀藩の砲術の研究所“火術方”が創設される。
大隈信保は忙しく働いていた。
信保は、大隈八太郎(のちの大隈重信)の父である。
そして“石火矢頭人”(いしびや かしら)の役職にある。
“石火矢”、ここでは大砲の古風な表現とお考えください。
大隈の父は、佐賀藩の砲術の担当者であった。
――ドン!ドン!
「大隈どの!モルチール砲の試射、滞りなく。」
“西洋砲術”の流儀に基づいて実験を行う。
「ご苦労。ここに記してくれ。」
大隈信保は次々に生じる実験データを集めていた。
「火薬の調合ごとに結果が異なり申した。」
「やはりな。見込みどおりだ。」
信保は“砲術長”の立場にあり、自身で火薬の調合もこなせたという。

――ポン!ポン!
「大隈どの!古来の“石火矢”も、まずまずの結果ですばい。」
佐賀藩は、和製大筒も比較の対象とし、洋砲と並べて試験をしていた。
「ほう、思いのほか、よかごたね…」
大隈信保、大筒の担当とも旧知の様子。
「この大筒も使えるかもしれぬな…」
信保は、大砲の弾道の計算もできたと言われる。
――そこで“長崎御番の侍”の継承者・本島藤太夫が現場に現れる。
鍋島直正の側近でもあり、“火術方”でも重責を担う本島。
“製砲”の主任、“台場”の責任者と忙しい。
先ほど、殿から激励を受けてきたらしい。
「本島よ!不埒な異国船あらば、打払えるだけの備えをせよ!」
と言い残すと、直正は次の仕事のため城に戻った。
各々の責任者がいるとはいえ、直正のもとでは、
防衛や科学技術だけでなく、財政・教育・農業・都市計画・特産開発…多数のプロジェクトが進んでいたのである。
大隈信保は、ぽつりと言った。
「殿も忙しかごたですな。」
――しかし、本島藤太夫は殿からの激励で高揚している。
「大隈どの!私はやるぞ!」
そして、右拳を握りしめる本島。
「もし長崎で異国船が暴れるならば、私が悉く打払ってやる!」
…これは、第1話「長崎警護」からの流れである。
あの日の若侍の志は、たしかに受け継がれている…
この直前1840年からのアヘン戦争で、東洋の大国・清がイギリスに完敗している。この衝撃、長崎を警備する佐賀藩では特に大きい。製砲と台場の整備は急務だった。
――そして、ごく小さい話ですが、暴れると言えば…舞台は、佐賀城下。
「おおくま はちたろう!かくごしろ!」
年のころ、7歳ぐらいの男子が仁王立ちしている。
「なにを~うてるものなら、うってみろ!」
大隈八太郎、何やら自分より大きい子と喧嘩を始めた。
「こしゃくな!まて~っ!」
追われる八太郎。
そこで身を翻す、いつの間にか手に持った柄杓(ひしゃく)。
低い体勢から、追いついた男の子の向う脛(むこうずね)をスコン!と叩く。
「いてて…」
――そして、手ごろな台の上に飛び乗った八太郎。
「たかうじ!かくご!」
「…たかうじ!?だれのことだ?」
困惑する相手に体ごと飛びかかる八太郎。とても危ない。
「ぐへっ、…まいった。」
いきなり“尊氏”と呼ばれた喧嘩の相手。奇襲攻撃に降参する。八太郎の勝利である。
「どうだ!これが、なんこう(楠公)さまの、へいほう(兵法)だ!」
“太平記”の物語を読んでもらうだけで、“楠木正成”に感化され戦闘力が上がった大隈八太郎。
――後の大隈重信には、先輩や部下から話を聞いただけで、必要な知識を得る力が備わった。
いわば“耳学問”の達人のような要領の良さがあった。
しかし、それはまだ随分、先の話…
弱々しい甘えん坊だった八太郎くん。
強い子になってほしいという母の想い、そして薬であった“太平記”が効き過ぎて、今度は喧嘩ばかりする子になっていく。
母・大隈三井子は、相変わらず八太郎くんの育て方に悩むのだった。
(続く)
2020年02月26日
第5話「藩校立志」①
こんばんは。
今回から第5話「藩校立志」に入ります。
枝吉神陽の影響で、子・八太郎に「太平記」を読み聞かせることにした大隈の母・三井子。次第にヒートアップしていきます。これも幕末の“熱気”なのかもしれません。
――大隈三井子は、子・八太郎に本を読むことをせがまれる。
「ははうえ~ごほんよんで~」
もちろん、八太郎くんのリクエストは「太平記」である。
なお「太平記」は作者がはっきりせず、様々な種類の本があるという。ざっくりした内容なので、細かいところは大目に見てほしい…
――八太郎くんの熱いリクエストに応え、本を手に取る三井子。
「では八太郎!心してお聞きなさい!」
「はい、ははうえさま!」
…大隈八太郎、正座をする。
~太平記より「湊川の戦い」~
――摂津国・湊川(現在の兵庫県神戸市)。
楠木正成は、京の都への防衛線である地に着陣した。
そして、南朝方の大将・新田義貞と合流する。
負け戦続きで士気が落ちていた南朝方。“軍神”楠木正成の到着に沸く。
ほどなく大音声とともに、足利尊氏の軍勢が陸から海から押し寄せてきた。
南朝方には海の戦力が無い。海からの攻撃には新田勢が弓で応戦する。
わずか七百騎であるが、楠木正成の軍は精兵ぞろいである。
陸から攻めてくる尊氏の弟・足利直義の軍勢を迎え撃つ。
――足利直義の軍は、楠木正成の手勢の二十倍以上…
足利軍の中心は、軍事責任者である弟の直義。
「怯むな!直義さえ討ち取れば、足利勢は崩せるぞ!」
「指揮を執る大将どもだけを狙え!馬から叩き落せ!」
荒れる戦場。前が見えぬほどの土煙が舞う。
暴れ馬達の嘶きが反響し、無数の矢が飛び交う。
「直義は、すぐそこじゃ!討ち取れ!」
攻め続ける楠木正成。圧倒的な兵力を持つ足利直義が、陣を捨て逃げ出す。
――楠木軍が突撃を繰り返すこと十六度…
しかし、兵力の差は歴然。
時が経つに連れ、戦の流れは足利勢有利に傾いていく。
次第に削られていく楠木正成の軍勢。
残されたのは、正成の弟・正季を含め七十三騎。
「楠木勢に近づいてはならん!弓を射かけ、数を減らすのじゃ!」
次々に新手の兵を送り込む足利方。伝令の声が響く…
――敵が遠巻きに取り囲む中、楠木正成は覚悟を決めた。
楠木正成・正季の兄弟は粗末な小屋を見つけた。
ここを最期の場所に選んだのである。
「兄上、ここまででござるな。拙者は生まれ変わっても、きっと尊氏を討ちまする。」
「そうだな我ら兄弟、たとえ七度生まれ変わっても、帝をお守りしよう。」
そして、楠木兄弟は互いを短刀で突き、命を断ったのである。
~以上、三井子の朗読の設定は終了~
――再び、自身の朗読で涙を流す、三井子。そして横で号泣する八太郎。
「ははうえ!八太郎は楠公(なんこう)様のように強い武士になりまする!」
涙を流しながら、決意を語る八太郎。
「八太郎!立派です!決して、今日の“志”を忘れてはなりません!」
「はい!ははうえさま。」

――ここで父・大隈信保が帰宅する。
佐賀藩が砲術の研究所“火術方”を立ち上げるので、最近はさらに忙しい。
「いま、戻った…、で…いつもの調子か。」
目に入ってきたのは、泣きながら何やら叫ぶ八太郎を抱きしめる母・三井子。
「父上!今は触れぬ方が…」
「…言わずともわかる。そっとしておくとしよう。」
娘(八太郎の姉)の肩を軽くポンポンと叩き、父・信保は玄関に引き返した。
――そして江戸。枝吉神陽は、幕府の昌平坂学問所でも頭角を現していた。
神陽の一言で「太平記」ブームが到来した大隈家。
しかし、神陽の“引力”は佐賀には留まらない。
「このたび舎長(しゃちょう)は、肥前佐賀の枝吉君に務めてもらうことになった!」
全国の各藩から“必勝”の天才が送り込まれる、幕府の学問所。
――枝吉神陽は、実にあっさりと“天才”たちのリーダーに就いていた。
「枝吉だ。このたび舎長に任じられた。皆、よろしく頼む!」
神陽の声はよく通る。皆が一斉に注目する。
挨拶が終わった後、学問所内の噂話が続く。
「相変わらず…鐘が鳴るような声じゃけ。」
「枝吉さんと言えば、3万冊の本を暗唱しとるらしいぞ。」
「いや、この前な…富士の山を下駄で登って悠然と帰ってきたべ。」
――ここで神陽の噂話をしているのも、並の人物たちではない。
各藩で指導的な存在となるべき者たちも、引き付けてしまう枝吉神陽。
幕末の“指導者”と言えば、ある人物が神陽を訪ねて、衝撃を受けることになる。それは神陽が佐賀に帰ってからなので、もう少し後の話である。
(続く)
今回から第5話「藩校立志」に入ります。
枝吉神陽の影響で、子・八太郎に「太平記」を読み聞かせることにした大隈の母・三井子。次第にヒートアップしていきます。これも幕末の“熱気”なのかもしれません。
――大隈三井子は、子・八太郎に本を読むことをせがまれる。
「ははうえ~ごほんよんで~」
もちろん、八太郎くんのリクエストは「太平記」である。
なお「太平記」は作者がはっきりせず、様々な種類の本があるという。ざっくりした内容なので、細かいところは大目に見てほしい…
――八太郎くんの熱いリクエストに応え、本を手に取る三井子。
「では八太郎!心してお聞きなさい!」
「はい、ははうえさま!」
…大隈八太郎、正座をする。
~太平記より「湊川の戦い」~
――摂津国・湊川(現在の兵庫県神戸市)。
楠木正成は、京の都への防衛線である地に着陣した。
そして、南朝方の大将・新田義貞と合流する。
負け戦続きで士気が落ちていた南朝方。“軍神”楠木正成の到着に沸く。
ほどなく大音声とともに、足利尊氏の軍勢が陸から海から押し寄せてきた。
南朝方には海の戦力が無い。海からの攻撃には新田勢が弓で応戦する。
わずか七百騎であるが、楠木正成の軍は精兵ぞろいである。
陸から攻めてくる尊氏の弟・足利直義の軍勢を迎え撃つ。
――足利直義の軍は、楠木正成の手勢の二十倍以上…
足利軍の中心は、軍事責任者である弟の直義。
「怯むな!直義さえ討ち取れば、足利勢は崩せるぞ!」
「指揮を執る大将どもだけを狙え!馬から叩き落せ!」
荒れる戦場。前が見えぬほどの土煙が舞う。
暴れ馬達の嘶きが反響し、無数の矢が飛び交う。
「直義は、すぐそこじゃ!討ち取れ!」
攻め続ける楠木正成。圧倒的な兵力を持つ足利直義が、陣を捨て逃げ出す。
――楠木軍が突撃を繰り返すこと十六度…
しかし、兵力の差は歴然。
時が経つに連れ、戦の流れは足利勢有利に傾いていく。
次第に削られていく楠木正成の軍勢。
残されたのは、正成の弟・正季を含め七十三騎。
「楠木勢に近づいてはならん!弓を射かけ、数を減らすのじゃ!」
次々に新手の兵を送り込む足利方。伝令の声が響く…
――敵が遠巻きに取り囲む中、楠木正成は覚悟を決めた。
楠木正成・正季の兄弟は粗末な小屋を見つけた。
ここを最期の場所に選んだのである。
「兄上、ここまででござるな。拙者は生まれ変わっても、きっと尊氏を討ちまする。」
「そうだな我ら兄弟、たとえ七度生まれ変わっても、帝をお守りしよう。」
そして、楠木兄弟は互いを短刀で突き、命を断ったのである。
~以上、三井子の朗読の設定は終了~
――再び、自身の朗読で涙を流す、三井子。そして横で号泣する八太郎。
「ははうえ!八太郎は楠公(なんこう)様のように強い武士になりまする!」
涙を流しながら、決意を語る八太郎。
「八太郎!立派です!決して、今日の“志”を忘れてはなりません!」
「はい!ははうえさま。」

――ここで父・大隈信保が帰宅する。
佐賀藩が砲術の研究所“火術方”を立ち上げるので、最近はさらに忙しい。
「いま、戻った…、で…いつもの調子か。」
目に入ってきたのは、泣きながら何やら叫ぶ八太郎を抱きしめる母・三井子。
「父上!今は触れぬ方が…」
「…言わずともわかる。そっとしておくとしよう。」
娘(八太郎の姉)の肩を軽くポンポンと叩き、父・信保は玄関に引き返した。
――そして江戸。枝吉神陽は、幕府の昌平坂学問所でも頭角を現していた。
神陽の一言で「太平記」ブームが到来した大隈家。
しかし、神陽の“引力”は佐賀には留まらない。
「このたび舎長(しゃちょう)は、肥前佐賀の枝吉君に務めてもらうことになった!」
全国の各藩から“必勝”の天才が送り込まれる、幕府の学問所。
――枝吉神陽は、実にあっさりと“天才”たちのリーダーに就いていた。
「枝吉だ。このたび舎長に任じられた。皆、よろしく頼む!」
神陽の声はよく通る。皆が一斉に注目する。
挨拶が終わった後、学問所内の噂話が続く。
「相変わらず…鐘が鳴るような声じゃけ。」
「枝吉さんと言えば、3万冊の本を暗唱しとるらしいぞ。」
「いや、この前な…富士の山を下駄で登って悠然と帰ってきたべ。」
――ここで神陽の噂話をしているのも、並の人物たちではない。
各藩で指導的な存在となるべき者たちも、引き付けてしまう枝吉神陽。
幕末の“指導者”と言えば、ある人物が神陽を訪ねて、衝撃を受けることになる。それは神陽が佐賀に帰ってからなので、もう少し後の話である。
(続く)
2020年02月25日
第4話「諸国遊学」⑨
こんばんは。
今回は、島義勇が東へ旅立ちます。一時、江戸に行った佐野常民ですが、この頃は佐賀にいて結婚もしています。
第4話「諸国遊学」は1843年前後を軸にしたお話を構成しました。”資料”と“想像”の間を行ったり来たり…という感じです。
――ピーヒョロロ~♪
トンビが大空を旋回している。
島義勇(団右衛門)にも、諸国遊学の許しが出た。
幕府の“昌平坂学問所”に派遣されている枝吉神陽ほどではないが、島も期待されているのだ。
「さて、神陽には無くて、儂が持っている力か…なんじゃろうか。」
島義勇は神陽から与えられた問いに向き合う。
見た目は豪快だが、まっすぐで凄くマジメな男なのだ。
――島義勇は、東海道を東に向かっている。
「おおっ、海じゃ!」
目の前にガバッと開ける太平洋。
有明海とは雰囲気が異なる、やたら広い海域。

――島は、藩校「弘道館」での講義を想い出す。
「殿は、この国の隅々まで知りたいと仰せになった。」
藩校の教師の1人、永山十兵衛が語る。
「そして、私は白河の関を超え、陸奥(みちのく)を旅したのである。」
かつて鍋島直正の命令により、永山は東北を探索したことがある。
若殿だった直正が悩んでいるときに支えた側近、永山十兵衛。
その言葉は、真っ直ぐな島にビシビシと刺さっていた。
「儂も殿のためなら、どこにでも行く!」
…としばらくの間、息巻いて(空回りして)いたのだった。
――この後、島義勇は水戸(茨城)まで足を運ぶ。
東北へと続く、長い海岸線を持つ、水戸藩。
幕府では、沿岸警備の役目を担い、“蝦夷地”にも強い関心を持っていた。
後に島義勇が“蝦夷地”(北海道)に向かう伏線が着々と張られていた…。
――そして佐野常民である。なんと結婚式を挙げている。
佐野常民(栄寿)は、藩医・佐野家の養子である。
お相手の“駒子”も同じ家の養女だった。
先に言ってしまうと、佐野の妻・駒子は「良くできた奥さん」である。
まず身を固め、そして“医術のため”に蘭学修業に出る佐野。
先日、殿からの指示で城下の武家屋敷に行き、佐賀藩“蘭学”の中枢に触れた。その場で、佐野は密命を受ける。
「蘭学を学ぶ傍ら、才能ある者を探し、佐賀に引き込め」との内容である。
やはり佐野は困惑していた。
「私は医者の修業に行くのだ…いきなり他事を考えるのは、いかがなものか。」
――考え事をするも、婚儀の宴席の最中である。
親戚筋の酒好きが集まって言う。
「栄寿!何をポ~ッとしておる!めでたい席じゃ。」
「そうそう、もっと酒を飲んで良いのだぞ。」
「そうですね。では、ありがたくいただきます。」
グイッと盃を空ける。
佐野も“鯨飲”と呼ばれるほどだ。酒はかなりいける。
「まぁ、良い飲みっぷりですこと。」
傍らで、新婦の駒子が笑っていた。
(第5話「藩校立志」に続く)
今回は、島義勇が東へ旅立ちます。一時、江戸に行った佐野常民ですが、この頃は佐賀にいて結婚もしています。
第4話「諸国遊学」は1843年前後を軸にしたお話を構成しました。”資料”と“想像”の間を行ったり来たり…という感じです。
――ピーヒョロロ~♪
トンビが大空を旋回している。
島義勇(団右衛門)にも、諸国遊学の許しが出た。
幕府の“昌平坂学問所”に派遣されている枝吉神陽ほどではないが、島も期待されているのだ。
「さて、神陽には無くて、儂が持っている力か…なんじゃろうか。」
島義勇は神陽から与えられた問いに向き合う。
見た目は豪快だが、まっすぐで凄くマジメな男なのだ。
――島義勇は、東海道を東に向かっている。
「おおっ、海じゃ!」
目の前にガバッと開ける太平洋。
有明海とは雰囲気が異なる、やたら広い海域。

――島は、藩校「弘道館」での講義を想い出す。
「殿は、この国の隅々まで知りたいと仰せになった。」
藩校の教師の1人、永山十兵衛が語る。
「そして、私は白河の関を超え、陸奥(みちのく)を旅したのである。」
かつて鍋島直正の命令により、永山は東北を探索したことがある。
若殿だった直正が悩んでいるときに支えた側近、永山十兵衛。
その言葉は、真っ直ぐな島にビシビシと刺さっていた。
「儂も殿のためなら、どこにでも行く!」
…としばらくの間、息巻いて(空回りして)いたのだった。
――この後、島義勇は水戸(茨城)まで足を運ぶ。
東北へと続く、長い海岸線を持つ、水戸藩。
幕府では、沿岸警備の役目を担い、“蝦夷地”にも強い関心を持っていた。
後に島義勇が“蝦夷地”(北海道)に向かう伏線が着々と張られていた…。
――そして佐野常民である。なんと結婚式を挙げている。
佐野常民(栄寿)は、藩医・佐野家の養子である。
お相手の“駒子”も同じ家の養女だった。
先に言ってしまうと、佐野の妻・駒子は「良くできた奥さん」である。
まず身を固め、そして“医術のため”に蘭学修業に出る佐野。
先日、殿からの指示で城下の武家屋敷に行き、佐賀藩“蘭学”の中枢に触れた。その場で、佐野は密命を受ける。
「蘭学を学ぶ傍ら、才能ある者を探し、佐賀に引き込め」との内容である。
やはり佐野は困惑していた。
「私は医者の修業に行くのだ…いきなり他事を考えるのは、いかがなものか。」
――考え事をするも、婚儀の宴席の最中である。
親戚筋の酒好きが集まって言う。
「栄寿!何をポ~ッとしておる!めでたい席じゃ。」
「そうそう、もっと酒を飲んで良いのだぞ。」
「そうですね。では、ありがたくいただきます。」
グイッと盃を空ける。
佐野も“鯨飲”と呼ばれるほどだ。酒はかなりいける。
「まぁ、良い飲みっぷりですこと。」
傍らで、新婦の駒子が笑っていた。
(第5話「藩校立志」に続く)
2020年02月24日
第4話「諸国遊学」⑧
こんばんは。
昨日の続きです。今回も、大隈母が“歴史ドラマ”にはまったり、“佐賀の七賢人”(その3)島義勇が初登場したりと盛りだくさんです。
――大隈三井子は、枝吉神陽の勧めにより、歴史物語「太平記」を入手した!
あの神陽先生のように、賢い子になってほしい!…そんな母の想い。八太郎くんに「太平記」を読み聞かせる。
「ははうえ~、ごほんよむの?」
この八太郎くんは、後に明治を代表する偉人の1人になる。
しかし、幼い頃は、周囲に成長の度合いを心配される子だったという。
三井子は、常日頃から八太郎の成長を神仏に祈るほどだった。
――さて、ここからは、三井子による朗読とお考えいただきたい。“南北朝時代”の話である。
~“太平記”より「桜井の別れ」~
――後醍醐天皇のいる京の都に、足利尊氏が率いる数万の軍勢が迫る。
対して後醍醐天皇を守る側の楠木正成には、数百の兵しかいない。
かつて正成は河内(大阪)の千早城・赤坂城で、鎌倉幕府の6万とも言われる軍勢を打ち破ったことがある。
しかし、今回は得意の“山岳戦”ではない。
平地での“数万対数百”の決戦となる見通しだった。
――楠木正成は子・正行を呼んだ。
「此度、父は生きては帰れまい。」
「正行よ、もし儂が倒れても、そなたはきっと強く成長し、帝に忠義を尽くすのだ。」
「父上っ!」
そして、最後の戦いへと向かう楠木正成。
子・楠木正行はその後ろ姿を目に焼き付けていた。
~以上、三井子の朗読の設定は終了~
…これが“桜井の別れ”である。
――気持ちが入り過ぎて、自身の朗読で涙を流す、三井子。
「ははうえ…ないておられるのですか?だいじょうぶですか?」
心配そうに母の顔を見やる八太郎。
「いいですか!八太郎。楠公(なんこう)様のように強い武士になるのです!」
「はい!ははうえさま。」

――ちょうど父・大隈信保が帰宅する。砲術の担当者なので、最近とくに忙しい。
「いま、戻った…、で…何かあったのか。」
涙を流す三井子と、母の背中をさする八太郎。
「父上!今、良いところなので…。」
八太郎の姉は“母子2人の世界”を壊さぬよう、父・信保を玄関に引き戻した。
――大隈家に「太平記」ブームを起こした、枝吉神陽。
江戸への派遣前に、同い年のいとこ・島団右衛門(義勇)と話している。
「神陽は凄いな。“佐賀の誇り”じゃ。儂には、お主の足元も見えぬわ。」
「そう謙遜するな。“団にょん”も儂より優れた力を持っているぞ。」
妙な呼び名であるが、この“団にょん”が島義勇である。
後に、北海道の大都市・札幌の礎を築く人物。
――しかし、この頃は島義勇は、“天才”と自身を比較して焦っていた。
「儂が神陽にも無い力を持っていると!なんじゃ、それは!?」
「まだ、気づいていないと見えるな。」
「教えてくれ、神陽!」
「“団にょん”よ。本当の力は自身で見つけぬ限り、使いこなせぬ。努めて探すことだな。」
「神陽…厳しいのう!まぁお主なら、江戸でも全く難儀せぬだろうな!」
…枝吉神陽は、島には答えを示さなかった。
“問いかけ”によって、相手の成長を促す人物なのである。
島義勇は、札幌では“判官さま”と崇められているが、地元・佐賀では親しみやすく“団にょんさん”と呼ばれるという。
但し、仲間うちで“団にょん”と呼ばれていたかは定かではない。面白いと思ったので、使ってみた…
(続く)
昨日の続きです。今回も、大隈母が“歴史ドラマ”にはまったり、“佐賀の七賢人”(その3)島義勇が初登場したりと盛りだくさんです。
――大隈三井子は、枝吉神陽の勧めにより、歴史物語「太平記」を入手した!
あの神陽先生のように、賢い子になってほしい!…そんな母の想い。八太郎くんに「太平記」を読み聞かせる。
「ははうえ~、ごほんよむの?」
この八太郎くんは、後に明治を代表する偉人の1人になる。
しかし、幼い頃は、周囲に成長の度合いを心配される子だったという。
三井子は、常日頃から八太郎の成長を神仏に祈るほどだった。
――さて、ここからは、三井子による朗読とお考えいただきたい。“南北朝時代”の話である。
~“太平記”より「桜井の別れ」~
――後醍醐天皇のいる京の都に、足利尊氏が率いる数万の軍勢が迫る。
対して後醍醐天皇を守る側の楠木正成には、数百の兵しかいない。
かつて正成は河内(大阪)の千早城・赤坂城で、鎌倉幕府の6万とも言われる軍勢を打ち破ったことがある。
しかし、今回は得意の“山岳戦”ではない。
平地での“数万対数百”の決戦となる見通しだった。
――楠木正成は子・正行を呼んだ。
「此度、父は生きては帰れまい。」
「正行よ、もし儂が倒れても、そなたはきっと強く成長し、帝に忠義を尽くすのだ。」
「父上っ!」
そして、最後の戦いへと向かう楠木正成。
子・楠木正行はその後ろ姿を目に焼き付けていた。
~以上、三井子の朗読の設定は終了~
…これが“桜井の別れ”である。
――気持ちが入り過ぎて、自身の朗読で涙を流す、三井子。
「ははうえ…ないておられるのですか?だいじょうぶですか?」
心配そうに母の顔を見やる八太郎。
「いいですか!八太郎。楠公(なんこう)様のように強い武士になるのです!」
「はい!ははうえさま。」

――ちょうど父・大隈信保が帰宅する。砲術の担当者なので、最近とくに忙しい。
「いま、戻った…、で…何かあったのか。」
涙を流す三井子と、母の背中をさする八太郎。
「父上!今、良いところなので…。」
八太郎の姉は“母子2人の世界”を壊さぬよう、父・信保を玄関に引き戻した。
――大隈家に「太平記」ブームを起こした、枝吉神陽。
江戸への派遣前に、同い年のいとこ・島団右衛門(義勇)と話している。
「神陽は凄いな。“佐賀の誇り”じゃ。儂には、お主の足元も見えぬわ。」
「そう謙遜するな。“団にょん”も儂より優れた力を持っているぞ。」
妙な呼び名であるが、この“団にょん”が島義勇である。
後に、北海道の大都市・札幌の礎を築く人物。
――しかし、この頃は島義勇は、“天才”と自身を比較して焦っていた。
「儂が神陽にも無い力を持っていると!なんじゃ、それは!?」
「まだ、気づいていないと見えるな。」
「教えてくれ、神陽!」
「“団にょん”よ。本当の力は自身で見つけぬ限り、使いこなせぬ。努めて探すことだな。」
「神陽…厳しいのう!まぁお主なら、江戸でも全く難儀せぬだろうな!」
…枝吉神陽は、島には答えを示さなかった。
“問いかけ”によって、相手の成長を促す人物なのである。
島義勇は、札幌では“判官さま”と崇められているが、地元・佐賀では親しみやすく“団にょんさん”と呼ばれるという。
但し、仲間うちで“団にょん”と呼ばれていたかは定かではない。面白いと思ったので、使ってみた…
(続く)
2020年02月23日
第4話「諸国遊学」⑦
こんばんは。
前回の投稿で“密命”を帯びた佐野常民。本格的に各地を廻るのは、もう少し後の時期です。今回は、賢人たちの“師匠”となる枝吉神陽が、幼い大隈八太郎(後の大隈重信)と出会う場面を綴ります。
――佐賀城下。武家屋敷の街並みを1人の青年が行く。
カラン、カラン…
軽やかに下駄を鳴らし、歩みを進める。
青年の名は枝吉神陽。
佐野常民と同じ年に生まれた神陽。まだ20代初めである。
背筋正しく、力みもなく、悠然と歩く。
武家屋敷が続く街角、何やらご婦人たちが騒がしい。
「見て、見て。神陽さんよ。」
「江戸で公儀(幕府)の学問所に行くんですって。」
教育熱心な佐賀城下において、いまや神陽は時の人。
佐野常民も「蘭学の秀才」として評判ではあるが、なにぶん玄人好みである。
一方、枝吉神陽は、一般の人たちにもイメージしやすい文系の天才だった。
――枝吉神陽は、幕府の昌平坂学問所への派遣が決まっていた。
江戸の”昌平坂学問所”だが、現代の教育機関と比べるとプレッシャーが違う。
全国の各藩が、幕府や他藩に対して絶対に恥をかかぬよう、藩が誇る“必勝”の天才を送り込んでくる。
神陽は、いわば佐賀を代表して、全国の天才たちと競う場に出向くのだ。
ただ歩き方にも表れているように、神陽は泰然としており、そんな些末な事は考えてもいなかった。
その志は天に届くほど高かったのである…

――そして、こんな出会いがある。
年の頃、4~5歳の男の子。
武家の子のようだが、母親にべったりの甘えている。
「あら、神陽先生!」
子どもの母親の名は、大隈三井子。
「はっはっは…“先生”は止してくださいよ。私はまだ修業の身です。」
枝吉神陽が答える。旧知の間柄のようだ。
男の子は、母親にまとわりついている。母・三井子が少し怒った調子で言う。
「八太郎…、ちゃんと神陽先生にご挨拶なさい!」
「おおくま はちたろう…です。しんようせんせい、こんにちは。」
――この母親べったりの男の子が、大隈八太郎である。
「どうも、うちの子はしっかりしてなくて。主人も甘やかしますし…」
大隈三井子、姉2人は順調に育てるも、男の子の育て方に悩む。
「かわいい坊やではないですか。」
枝吉神陽は、意外に子ども好きである。
「おーい、八太郎よ!あまり母上を困らせるでないぞ!」
神陽は、八太郎の頭に手をやり、髪の毛をくしゃくしゃとやった。
「えへへ…っ。」
照れたような笑顔で神陽を見返す八太郎。
――後の国民的人気者・大隈重信の片鱗がここにある。
「この子…どう育てれば、神陽先生みたいになりますか?」
大隈三井子、直球の質問である。
「そうですな。まず学問なれば、書物を読まねばなりませんな。」
神陽は、基礎学力が大事と説いた。
「どのような書物がよろしいですか。」
せっかく佐賀藩の誇る“天才”と話しているのだ。この際、聞けることは聞きたい三井子である。
「“太平記”をお勧めしますよ。」
神陽は、佐賀藩の知識人たちの間で大ブームを起こしていた書物を進めた。
――“太平記”とは、
鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代(室町時代初期)を舞台とした歴史物。
足利尊氏を中心として動く北朝方、後醍醐天皇を守るために集う南朝方との戦いを記した軍記物語である。
枝吉神陽は“国学”を学ぶ家の者であり、尊王の志が厚い。
南朝の後醍醐天皇に命を掛けて尽くす“楠木正成”を高く評価していた。
「お勧めは“太平記”ですね。わかりました!」
大隈三井子、現代的な表現で言えば、エンジンがかかった瞬間である。
「ではな。八太郎よ!よく本を読むと良いぞ!」
「はい!しんようせんせい!」
そして八太郎くんは、すっかり枝吉神陽に懐いたようだ。
――幕末の佐賀藩。勉強すれば、お役目に就けて“役職給”がもらえる!…というシステムを採用していた。
逆に言えば、上級武士でも身分に胡坐をかいて、勉強を怠ると“役職給”が入らず、貧しい暮らしをすることになる。
大隈家に戻った三井子は、上の子(姉)に子守を命じた。
「ちょっとの間、留守にするから、八太郎をお願い!」
神陽との出会いに触発された、幕末“教育ママ”は「太平記」を求め、駆けて行く。
これもまた、新時代の幕開けだった。
(続く)
前回の投稿で“密命”を帯びた佐野常民。本格的に各地を廻るのは、もう少し後の時期です。今回は、賢人たちの“師匠”となる枝吉神陽が、幼い大隈八太郎(後の大隈重信)と出会う場面を綴ります。
――佐賀城下。武家屋敷の街並みを1人の青年が行く。
カラン、カラン…
軽やかに下駄を鳴らし、歩みを進める。
青年の名は枝吉神陽。
佐野常民と同じ年に生まれた神陽。まだ20代初めである。
背筋正しく、力みもなく、悠然と歩く。
武家屋敷が続く街角、何やらご婦人たちが騒がしい。
「見て、見て。神陽さんよ。」
「江戸で公儀(幕府)の学問所に行くんですって。」
教育熱心な佐賀城下において、いまや神陽は時の人。
佐野常民も「蘭学の秀才」として評判ではあるが、なにぶん玄人好みである。
一方、枝吉神陽は、一般の人たちにもイメージしやすい文系の天才だった。
――枝吉神陽は、幕府の昌平坂学問所への派遣が決まっていた。
江戸の”昌平坂学問所”だが、現代の教育機関と比べるとプレッシャーが違う。
全国の各藩が、幕府や他藩に対して絶対に恥をかかぬよう、藩が誇る“必勝”の天才を送り込んでくる。
神陽は、いわば佐賀を代表して、全国の天才たちと競う場に出向くのだ。
ただ歩き方にも表れているように、神陽は泰然としており、そんな些末な事は考えてもいなかった。
その志は天に届くほど高かったのである…

――そして、こんな出会いがある。
年の頃、4~5歳の男の子。
武家の子のようだが、母親にべったりの甘えている。
「あら、神陽先生!」
子どもの母親の名は、大隈三井子。
「はっはっは…“先生”は止してくださいよ。私はまだ修業の身です。」
枝吉神陽が答える。旧知の間柄のようだ。
男の子は、母親にまとわりついている。母・三井子が少し怒った調子で言う。
「八太郎…、ちゃんと神陽先生にご挨拶なさい!」
「おおくま はちたろう…です。しんようせんせい、こんにちは。」
――この母親べったりの男の子が、大隈八太郎である。
「どうも、うちの子はしっかりしてなくて。主人も甘やかしますし…」
大隈三井子、姉2人は順調に育てるも、男の子の育て方に悩む。
「かわいい坊やではないですか。」
枝吉神陽は、意外に子ども好きである。
「おーい、八太郎よ!あまり母上を困らせるでないぞ!」
神陽は、八太郎の頭に手をやり、髪の毛をくしゃくしゃとやった。
「えへへ…っ。」
照れたような笑顔で神陽を見返す八太郎。
――後の国民的人気者・大隈重信の片鱗がここにある。
「この子…どう育てれば、神陽先生みたいになりますか?」
大隈三井子、直球の質問である。
「そうですな。まず学問なれば、書物を読まねばなりませんな。」
神陽は、基礎学力が大事と説いた。
「どのような書物がよろしいですか。」
せっかく佐賀藩の誇る“天才”と話しているのだ。この際、聞けることは聞きたい三井子である。
「“太平記”をお勧めしますよ。」
神陽は、佐賀藩の知識人たちの間で大ブームを起こしていた書物を進めた。
――“太平記”とは、
鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代(室町時代初期)を舞台とした歴史物。
足利尊氏を中心として動く北朝方、後醍醐天皇を守るために集う南朝方との戦いを記した軍記物語である。
枝吉神陽は“国学”を学ぶ家の者であり、尊王の志が厚い。
南朝の後醍醐天皇に命を掛けて尽くす“楠木正成”を高く評価していた。
「お勧めは“太平記”ですね。わかりました!」
大隈三井子、現代的な表現で言えば、エンジンがかかった瞬間である。
「ではな。八太郎よ!よく本を読むと良いぞ!」
「はい!しんようせんせい!」
そして八太郎くんは、すっかり枝吉神陽に懐いたようだ。
――幕末の佐賀藩。勉強すれば、お役目に就けて“役職給”がもらえる!…というシステムを採用していた。
逆に言えば、上級武士でも身分に胡坐をかいて、勉強を怠ると“役職給”が入らず、貧しい暮らしをすることになる。
大隈家に戻った三井子は、上の子(姉)に子守を命じた。
「ちょっとの間、留守にするから、八太郎をお願い!」
神陽との出会いに触発された、幕末“教育ママ”は「太平記」を求め、駆けて行く。
これもまた、新時代の幕開けだった。
(続く)
2020年02月22日
第4話「諸国遊学」⑥
こんばんは。
積文館書店・佐賀駅店が3月21日に閉店とのニュースを目にしました。
私のような“佐賀脱藩”にとっては、効率よく資料の選定と購入が出来る貴重な場所でした。
きわめて残念ですが、この書店での衝動買いで得た力は、今後も当ブログで活かしていきます。
では、昨日の続きです。
――殿・鍋島直正の指示により、佐野常民は城下の屋敷に来ている。
やたら覇気のある“ご隠居”に当惑する佐野。
おそらく鍋島家のご一門の方なのだろう…佐野にも察しは付いていた。
「儂のことじゃが、“蘭癖(西洋かぶれ)の隠居”とでも呼んでほしい。」
前・武雄領主の鍋島茂義。この段階では名乗らなかった。
数年前、当時の幕閣に“西洋砲術”の師匠・高島秋帆が捕縛されたことで、門下生である茂義の立場も危うくなった。
武雄領では、茂義と高島の取次役だった家来・平山を処断せざるを得ない状況に追い込まれたのである。
その後、蘭学のネットワーク形成は、なるべく秘密裡に実行していた。
「私たちは、単に“ご隠居”とお呼びしております。」
元・長崎御番の侍だった老人が補足する。
「そうか、そうか…“蘭癖”と言えば、誰だかわかってしまうか。」
茂義は愉快そうに笑った。あまり気性は変わっていない様子だ。

――茂義が話を続ける。佐野が今後関わる“実動部隊”を紹介することにした。
「“蘭学じじい”よ、他の者も紹介せよ。」
元・長崎御番の老人は「蘭学じじい」を自称するうちに、呼び名として定着してしまったらしい。
直正の側近・本島藤太夫。佐野をこの場に誘導した人物である。
“蘭学じじい”が本島について紹介する。
「この本島は、長崎の“天狗”と呼ばれております。私も昔、そう呼ばれました。」
「なぜ“天狗”なのですか?」
最初は戸惑っていたが、次第に好奇心が勝ってくる佐野。
――ここで第1話から登場する勘定方が歩み寄る。
長崎御番と同じく、元・勘定方の隠居の老人である。
「それは、儂から説明しよう!」
「おおっ“倹約じじい”も来ておったか。」
蘭学に関わる集いだと、茂義は楽しそうである。
「長崎の砲台は、殿のご意向もあって、上から資金を攫(さら)って行くからだ!」
“倹約じじい”が説明する。元・勘定方ならではの言いようだ。
「そして、台場の資金でも差配できるよう、蘭学の勘所(かんどころ)を身につけたのが、この男だ!」
――次に紹介されたのは、科学技術のポイントを抑えて、会計を担当できる侍らしい。
名を“田代孫三郎”という。
「儂の期待を込めて、田代を二代目“倹約の鬼”と呼ぶことにした!」
「その呼び名は、何とかなりませぬか…」
いきなり“鬼”呼ばわりされている、田代という侍。
“倹約じじい”に不満の目を向けるが、老人の方は「良い名を付けた」とばかりに大きく頷いている。
――この会合には、なぜか出費を抑制する側の人物まで入り込んでいる。
「お家のために算盤を弾くのも、また忠義であるからな。」
茂義は苦笑していた。
――いわば“コードネーム”が飛び交う。どうやら、この場は“秘密の会合”であるらしい。
後に佐賀藩には多数、研究のための機関(プロジェクトチーム)が組成される。
たとえば、
火術方(かじゅつかた)・・・銃砲や火薬の研究・実践のチーム
鋳立方(いたてかた) ・・・主に鉄製大砲の製造プロジェクト
精錬方(せいれんかた)・・・蒸気機関など理化学の総合研究所
…という具合である。
当時、佐賀では鍋島直正の意向を受け、リーダーとなる家臣たちを通じ、理系、文系、体育会系(?)…を問わず、多数のプロジェクトが進行していた。
特に理系の研究プロジェクトは軍事機密に直結しているため、秘密裡に動いていたと考えられる。
そのためか、佐賀の科学研究は成果物が残っていても、過程(プロセス)を示す資料が失われていることが多い。
佐賀藩の「蘭学の先駆者」であった武雄領の鍋島茂義。
簡単に動けない殿・直正にとって、自在に動ける“ご隠居”の存在は好都合だったと考えられる。
鍋島直正は、武雄温泉の湯を大変好み、しばしば茂義のいる武雄に足を運んでいたという。
(続く)
積文館書店・佐賀駅店が3月21日に閉店とのニュースを目にしました。
私のような“佐賀脱藩”にとっては、効率よく資料の選定と購入が出来る貴重な場所でした。
きわめて残念ですが、この書店での衝動買いで得た力は、今後も当ブログで活かしていきます。
では、昨日の続きです。
――殿・鍋島直正の指示により、佐野常民は城下の屋敷に来ている。
やたら覇気のある“ご隠居”に当惑する佐野。
おそらく鍋島家のご一門の方なのだろう…佐野にも察しは付いていた。
「儂のことじゃが、“蘭癖(西洋かぶれ)の隠居”とでも呼んでほしい。」
前・武雄領主の鍋島茂義。この段階では名乗らなかった。
数年前、当時の幕閣に“西洋砲術”の師匠・高島秋帆が捕縛されたことで、門下生である茂義の立場も危うくなった。
武雄領では、茂義と高島の取次役だった家来・平山を処断せざるを得ない状況に追い込まれたのである。
その後、蘭学のネットワーク形成は、なるべく秘密裡に実行していた。
「私たちは、単に“ご隠居”とお呼びしております。」
元・長崎御番の侍だった老人が補足する。
「そうか、そうか…“蘭癖”と言えば、誰だかわかってしまうか。」
茂義は愉快そうに笑った。あまり気性は変わっていない様子だ。

――茂義が話を続ける。佐野が今後関わる“実動部隊”を紹介することにした。
「“蘭学じじい”よ、他の者も紹介せよ。」
元・長崎御番の老人は「蘭学じじい」を自称するうちに、呼び名として定着してしまったらしい。
直正の側近・本島藤太夫。佐野をこの場に誘導した人物である。
“蘭学じじい”が本島について紹介する。
「この本島は、長崎の“天狗”と呼ばれております。私も昔、そう呼ばれました。」
「なぜ“天狗”なのですか?」
最初は戸惑っていたが、次第に好奇心が勝ってくる佐野。
――ここで第1話から登場する勘定方が歩み寄る。
長崎御番と同じく、元・勘定方の隠居の老人である。
「それは、儂から説明しよう!」
「おおっ“倹約じじい”も来ておったか。」
蘭学に関わる集いだと、茂義は楽しそうである。
「長崎の砲台は、殿のご意向もあって、上から資金を攫(さら)って行くからだ!」
“倹約じじい”が説明する。元・勘定方ならではの言いようだ。
「そして、台場の資金でも差配できるよう、蘭学の勘所(かんどころ)を身につけたのが、この男だ!」
――次に紹介されたのは、科学技術のポイントを抑えて、会計を担当できる侍らしい。
名を“田代孫三郎”という。
「儂の期待を込めて、田代を二代目“倹約の鬼”と呼ぶことにした!」
「その呼び名は、何とかなりませぬか…」
いきなり“鬼”呼ばわりされている、田代という侍。
“倹約じじい”に不満の目を向けるが、老人の方は「良い名を付けた」とばかりに大きく頷いている。
――この会合には、なぜか出費を抑制する側の人物まで入り込んでいる。
「お家のために算盤を弾くのも、また忠義であるからな。」
茂義は苦笑していた。
――いわば“コードネーム”が飛び交う。どうやら、この場は“秘密の会合”であるらしい。
後に佐賀藩には多数、研究のための機関(プロジェクトチーム)が組成される。
たとえば、
火術方(かじゅつかた)・・・銃砲や火薬の研究・実践のチーム
鋳立方(いたてかた) ・・・主に鉄製大砲の製造プロジェクト
精錬方(せいれんかた)・・・蒸気機関など理化学の総合研究所
…という具合である。
当時、佐賀では鍋島直正の意向を受け、リーダーとなる家臣たちを通じ、理系、文系、体育会系(?)…を問わず、多数のプロジェクトが進行していた。
特に理系の研究プロジェクトは軍事機密に直結しているため、秘密裡に動いていたと考えられる。
そのためか、佐賀の科学研究は成果物が残っていても、過程(プロセス)を示す資料が失われていることが多い。
佐賀藩の「蘭学の先駆者」であった武雄領の鍋島茂義。
簡単に動けない殿・直正にとって、自在に動ける“ご隠居”の存在は好都合だったと考えられる。
鍋島直正は、武雄温泉の湯を大変好み、しばしば茂義のいる武雄に足を運んでいたという。
(続く)
2020年02月21日
第4話「諸国遊学」⑤
こんばんは。
今回の投稿から、“佐賀の七賢人”(その2)佐野常民が本編に登場します。
――鍋島直正は、月に一度ほど藩校「弘道館」を見て回っていた。
「お主は佐野であるな。励んでおるか。」
直正の目に留まったのは、佐野常民である。
佐野常民は幼少期からの秀才で、藩医を務める佐野家に養子に入った。
但し、この頃は“栄寿”という名である。
「お主には才があるゆえ、蘭学の修業にでも出るか。」
「ありがたきお言葉!」
…佐賀藩では勉強ができると、殿に突然、話しかけられる。
そして、全国に留学ができる特典もあった。
――直正が、佐野を招き寄せる。
「佐野よ、もう少し近こう寄れ。」
「恐れ多いことでございます!」
“せっかち”なところがある直正。佐野を急かす。
「なんの差し障りもないぞ!まぁ、良いから寄れ!」
「はっ!」
直正が何やら佐野に耳打ちをする。
「詳しくは“本島”より伝える。必ず屋敷を訪ねるのだぞ。」
「ははっ。」
――佐野は、直正の側近“本島藤太夫”に教えられた屋敷を訪ねた。
「御免ください。佐野と申します。」
屋敷から出てきたのは、なぜか道を教えた“本島”だった。
「佐野どの。ささっ、中にお入りなさい。」

――チュン、チュン。小雀が鳴く、穏やかな午後。
「お初にお目にかかります。佐野でござる。」
「佐野どのか、よく参られた。」
挨拶をする佐野。
人の良さそうな老人が座っている。
老人は、第1話の長崎御番の若侍である。
長崎の砲台を“本島藤太夫”に任せ、ようやく隠居できた。
「なにゆえ呼ばれたのか、測りかねている様子だな。」
「…はい、正直なところ。おっしゃられる通りです。」
「実はな、お主と話をするのは儂ではない。」
殿が会いに行くよう勧めたのは、この老人のはず…佐野は困惑した。
――襖の向こうに人の気配がある。
「もう、出て来ても良いか!」
「よろしゅうございますよ、“ご隠居”さま」
奥から出てきたのは、武雄領のご隠居・鍋島茂義である。
「お主が佐野であるか。良き面構えじゃ。」
「…ははっ!」
何やら偉い人である気配を感じ、佐野は反射的に座礼をした。
凄く気迫を感じる。歳も四十過ぎぐらいで若く見える。
佐野は「一体、どこが“ご隠居”なのか」と思った。
「驚かせてすまぬな。殿よりお主の評判を聞き及んでな。」
しかも、殿とつながりがある様子である。
幕末期に“二重鎖国”とまで言われた佐賀藩で、秘密研究プロジェクトが既に動き出していた。
そのメンバーのスカウト役として注目されたのが、佐野常民だったのである。
佐賀から江戸・京都・大坂など各地に留学(蘭学修業)に出た、佐野の行動には色々と謎が多い。
(続く)
今回の投稿から、“佐賀の七賢人”(その2)佐野常民が本編に登場します。
――鍋島直正は、月に一度ほど藩校「弘道館」を見て回っていた。
「お主は佐野であるな。励んでおるか。」
直正の目に留まったのは、佐野常民である。
佐野常民は幼少期からの秀才で、藩医を務める佐野家に養子に入った。
但し、この頃は“栄寿”という名である。
「お主には才があるゆえ、蘭学の修業にでも出るか。」
「ありがたきお言葉!」
…佐賀藩では勉強ができると、殿に突然、話しかけられる。
そして、全国に留学ができる特典もあった。
――直正が、佐野を招き寄せる。
「佐野よ、もう少し近こう寄れ。」
「恐れ多いことでございます!」
“せっかち”なところがある直正。佐野を急かす。
「なんの差し障りもないぞ!まぁ、良いから寄れ!」
「はっ!」
直正が何やら佐野に耳打ちをする。
「詳しくは“本島”より伝える。必ず屋敷を訪ねるのだぞ。」
「ははっ。」
――佐野は、直正の側近“本島藤太夫”に教えられた屋敷を訪ねた。
「御免ください。佐野と申します。」
屋敷から出てきたのは、なぜか道を教えた“本島”だった。
「佐野どの。ささっ、中にお入りなさい。」

――チュン、チュン。小雀が鳴く、穏やかな午後。
「お初にお目にかかります。佐野でござる。」
「佐野どのか、よく参られた。」
挨拶をする佐野。
人の良さそうな老人が座っている。
老人は、第1話の長崎御番の若侍である。
長崎の砲台を“本島藤太夫”に任せ、ようやく隠居できた。
「なにゆえ呼ばれたのか、測りかねている様子だな。」
「…はい、正直なところ。おっしゃられる通りです。」
「実はな、お主と話をするのは儂ではない。」
殿が会いに行くよう勧めたのは、この老人のはず…佐野は困惑した。
――襖の向こうに人の気配がある。
「もう、出て来ても良いか!」
「よろしゅうございますよ、“ご隠居”さま」
奥から出てきたのは、武雄領のご隠居・鍋島茂義である。
「お主が佐野であるか。良き面構えじゃ。」
「…ははっ!」
何やら偉い人である気配を感じ、佐野は反射的に座礼をした。
凄く気迫を感じる。歳も四十過ぎぐらいで若く見える。
佐野は「一体、どこが“ご隠居”なのか」と思った。
「驚かせてすまぬな。殿よりお主の評判を聞き及んでな。」
しかも、殿とつながりがある様子である。
幕末期に“二重鎖国”とまで言われた佐賀藩で、秘密研究プロジェクトが既に動き出していた。
そのメンバーのスカウト役として注目されたのが、佐野常民だったのである。
佐賀から江戸・京都・大坂など各地に留学(蘭学修業)に出た、佐野の行動には色々と謎が多い。
(続く)
2020年02月20日
第4話「諸国遊学」④
こんばんは。
鍋島直正の名君ぶりも発揮されてきたところですが、今日の投稿では意外な苦手も明らかになります。第3話のラスト(第3話「西洋砲術」⑤)からもつながるお話です。
――佐賀城、本丸の敷地内を移動する、直正。
「ぎゃっ、蛇が出た!」
すっかり立派になった直正。
しかし、蛇の出現を嫌がるのは、子どもの頃からである。
「“蛇嫌い”は相変わらずですな。ええぃ!殿に無礼をはたらくものはこうじゃ!」
直正に政務の相談に来ていた、請役(佐賀藩ナンバー2)の鍋島安房。
すばやく蛇の動きを止め、尾を掴んで放り投げた。
「さすが“須古領”を治める者だな。蛇の扱いに慣れておる!」
「殿…たしかに“須古”は田舎かもしれませぬが、そこを褒められても困ります。」
鍋島安房が、少しムッとして言い返す。

ちなみに須古領とは、現在の佐賀県白石町(西部)である。
「おぉ、安房よ。済まなんだ。さっきのは“マムシ”ではないのか!やはりお主は頼りになる!」
「ありがたき幸せ…」
――ここで、なぜ“マムシ”の話をしたか。察しの良い方はお気づきかもしれない。
ここで、第3話「西洋砲術」のラストシーンの直後の話に戻る。
武雄領での導入から、佐賀藩全体の“砲術”の師匠となった高島秋帆が捕縛された。
そして、武雄領の平山醇左衛門が処刑された悲劇である。
この後、1843年の幕府の状況を説明する。
“天保の改革”の最終盤、老中・水野忠邦が「上知令」を発した。
江戸・大坂近辺の土地を幕府が取り、その土地の大名や旗本には代わりの土地を与える政策。幕府にとっては、都市圏の抑えを効かせて、政権の基盤を強化する狙いがある。
――そして、この政策は当然のように大名たちの猛反発を受ける。
“マムシの耀蔵”こと鳥居耀蔵は、老中・水野が政権を追われると判断した。
「水野様は、もう終いじゃ。儂は政(まつりごと)の中心にあらねばのう…」
そして、権力を維持したい鳥居は、さっさと別の派閥に乗り換えた。
“蘭学を学ぶ者”を嫌っていた鳥居。高島を捕縛することで、幕府の“開明派”の追い落としも画策していた。
しかし、老中・水野忠邦は高島の門下で“西洋砲術”を学び、武雄領とも交流していた江川英龍を守った。
鳥居は、水野のこの対応も不満だったのかもしれない。
水野が失脚したため「天保の改革」は終焉する。
江戸の町人たちは、何かと締め付けられた“改革”から解き放たれ、快哉を叫んだ。
――しかし、この話には続きがある。
水野の後を継いだ老中・土井が火災の始末で対応を誤り、いきなり諸大名の支持を失った。
そして急遽、水野が再登板するのである。
「鳥居よ、どうなるかは…わかっておるだろうな!」
怒りに打ち震える、水野忠邦。
「いやいや水野様、あれには行き違いがござりまして…」
もちろん言い訳は通じない。水野の逆襲により、鳥居は失脚した。
かつて“マムシの耀蔵”と恐れられた鳥居は、九州から東北など各地の藩に預けられ、転々と飛ばされていく。
そして、四国で明治時代になるまで軟禁状態に置かれることとなった。
――武雄領。鍋島茂義の屋敷。

鍋島茂義は武雄領の“ご隠居”である。
しかし、次の領主である茂昌は、まだ10歳程度の子どもであった。
茂義の気持ちとしては、領主の政務よりも優先すべき“志”がある。
佐賀藩の技術開発は、国の守りとなるべきものだった。
「ほう、あの“マムシ”(鳥居)が追い落とされたか。」
何とも言えない表情をする、茂義。知らせに一瞬、頬が緩む。
そして、武雄領の家来を呼び出して伝える。
「平山醇左衛門の墓の建立を許す。」
「ははっ!えらく唐突でございますが…承りましてござる!」
――家来の足取りも軽い。すぐに平山の家の者に伝えにいく様子だ。
今は亡き家来・平山を想い、茂義は静かな決意を口にする。
「…平山よ。もはや、罪滅ぼしにもならんことは承知している。」
「しかし、儂は悟ったぞ。今後、如何なる“マムシ”が出て来ようが、もう、こちらの動きは掴ませぬ…」
その後に建立された、平山の墓。
深く編笠をかぶった立派な身なりの武士が、時折、墓参に来ていたようである。
――佐賀藩の“蘭学研究”の形成には、武雄領の“ご隠居”茂義が関わっていた。
長崎と佐賀をつないで、さらに秘密裡にネットワーク化が進む。
有望な者は長崎のみならず、江戸や大坂にも留学させていた。
こうして佐賀藩の「諸国遊学」の時代が始まったのである。
(続く)
鍋島直正の名君ぶりも発揮されてきたところですが、今日の投稿では意外な苦手も明らかになります。第3話のラスト(第3話「西洋砲術」⑤)からもつながるお話です。
――佐賀城、本丸の敷地内を移動する、直正。
「ぎゃっ、蛇が出た!」
すっかり立派になった直正。
しかし、蛇の出現を嫌がるのは、子どもの頃からである。
「“蛇嫌い”は相変わらずですな。ええぃ!殿に無礼をはたらくものはこうじゃ!」
直正に政務の相談に来ていた、請役(佐賀藩ナンバー2)の鍋島安房。
すばやく蛇の動きを止め、尾を掴んで放り投げた。
「さすが“須古領”を治める者だな。蛇の扱いに慣れておる!」
「殿…たしかに“須古”は田舎かもしれませぬが、そこを褒められても困ります。」
鍋島安房が、少しムッとして言い返す。

ちなみに須古領とは、現在の佐賀県白石町(西部)である。
「おぉ、安房よ。済まなんだ。さっきのは“マムシ”ではないのか!やはりお主は頼りになる!」
「ありがたき幸せ…」
――ここで、なぜ“マムシ”の話をしたか。察しの良い方はお気づきかもしれない。
ここで、第3話「西洋砲術」のラストシーンの直後の話に戻る。
武雄領での導入から、佐賀藩全体の“砲術”の師匠となった高島秋帆が捕縛された。
そして、武雄領の平山醇左衛門が処刑された悲劇である。
この後、1843年の幕府の状況を説明する。
“天保の改革”の最終盤、老中・水野忠邦が「上知令」を発した。
江戸・大坂近辺の土地を幕府が取り、その土地の大名や旗本には代わりの土地を与える政策。幕府にとっては、都市圏の抑えを効かせて、政権の基盤を強化する狙いがある。
――そして、この政策は当然のように大名たちの猛反発を受ける。
“マムシの耀蔵”こと鳥居耀蔵は、老中・水野が政権を追われると判断した。
「水野様は、もう終いじゃ。儂は政(まつりごと)の中心にあらねばのう…」
そして、権力を維持したい鳥居は、さっさと別の派閥に乗り換えた。
“蘭学を学ぶ者”を嫌っていた鳥居。高島を捕縛することで、幕府の“開明派”の追い落としも画策していた。
しかし、老中・水野忠邦は高島の門下で“西洋砲術”を学び、武雄領とも交流していた江川英龍を守った。
鳥居は、水野のこの対応も不満だったのかもしれない。
水野が失脚したため「天保の改革」は終焉する。
江戸の町人たちは、何かと締め付けられた“改革”から解き放たれ、快哉を叫んだ。
――しかし、この話には続きがある。
水野の後を継いだ老中・土井が火災の始末で対応を誤り、いきなり諸大名の支持を失った。
そして急遽、水野が再登板するのである。
「鳥居よ、どうなるかは…わかっておるだろうな!」
怒りに打ち震える、水野忠邦。
「いやいや水野様、あれには行き違いがござりまして…」
もちろん言い訳は通じない。水野の逆襲により、鳥居は失脚した。
かつて“マムシの耀蔵”と恐れられた鳥居は、九州から東北など各地の藩に預けられ、転々と飛ばされていく。
そして、四国で明治時代になるまで軟禁状態に置かれることとなった。
――武雄領。鍋島茂義の屋敷。

鍋島茂義は武雄領の“ご隠居”である。
しかし、次の領主である茂昌は、まだ10歳程度の子どもであった。
茂義の気持ちとしては、領主の政務よりも優先すべき“志”がある。
佐賀藩の技術開発は、国の守りとなるべきものだった。
「ほう、あの“マムシ”(鳥居)が追い落とされたか。」
何とも言えない表情をする、茂義。知らせに一瞬、頬が緩む。
そして、武雄領の家来を呼び出して伝える。
「平山醇左衛門の墓の建立を許す。」
「ははっ!えらく唐突でございますが…承りましてござる!」
――家来の足取りも軽い。すぐに平山の家の者に伝えにいく様子だ。
今は亡き家来・平山を想い、茂義は静かな決意を口にする。
「…平山よ。もはや、罪滅ぼしにもならんことは承知している。」
「しかし、儂は悟ったぞ。今後、如何なる“マムシ”が出て来ようが、もう、こちらの動きは掴ませぬ…」
その後に建立された、平山の墓。
深く編笠をかぶった立派な身なりの武士が、時折、墓参に来ていたようである。
――佐賀藩の“蘭学研究”の形成には、武雄領の“ご隠居”茂義が関わっていた。
長崎と佐賀をつないで、さらに秘密裡にネットワーク化が進む。
有望な者は長崎のみならず、江戸や大坂にも留学させていた。
こうして佐賀藩の「諸国遊学」の時代が始まったのである。
(続く)
2020年02月19日
第4話「諸国遊学」③
こんばんは。
第4話「諸国遊学」では、幕末佐賀藩の“選手層”の厚さも表現したいと考えています。
――参勤交代で、江戸に到着した鍋島直正。
江戸に着くなり、側近の侍に話をしている。
「永山よ。儂は江戸までは来るのだが、それより北には行けぬ。」
「はっ、殿のご存念は、良くわかります。」
この側近の名は、永山十兵衛という。
かつて直正は、10代の若さで藩主に就任しており、父・斉直に近い重臣たちとの関係に苦労した。そして、不眠症にまで陥ったことがある。
永山は、学究肌の家臣である。呼吸法の研究を行い、直正の心身の回復に貢献した。いわば“メンタルトレーナー”も務めた人物である。
「代わりに見て来い…と言うことでございますね。」
「永山よ、なんと察しの良い。そのとおりだ。」
直正は自分に代わって、永山に東北地方を見聞してもらおうと考えていた。
――こうして、永山十兵衛は東北に旅立った。
もちろん物見遊山に出たのではない。
れっきとした調査であり、詳細な報告書を作成する。
なぜ、東北なのか。まず、日本の北方の沿海には、たびたびロシア船が出没している。かつてロシア船は、長崎にも来航したことがある。
この時点から30年以上前の話だが、当時の佐賀藩は千人規模で警備にあたった。
直正のもと、改革の途上にある佐賀藩はハゼ蝋、陶器などの特産品の開発に熱心だった。販路開拓のための消費地や経路の調査も重要だったのである。
他にも東北の地理や資源…とにかく直正には知りたいことが山ほどあったのだ。
――時期は前後するが、江戸では他藩の大名屋敷に招待されることもあった。
「肥前の…まぁ、楽にいたせ。」
肥前(佐賀藩)35万石の殿様に、この態度である。
お察しいただけると思うが、直正が話している相手は“凄く偉い人”である。
「本日はお招きいただき、ありがとう存じます。」
「まぁ、そう堅くなるな。」
溢れる大物感。
「そうじゃ、戦国の世から鍋島の者は武芸に優れると聞く。」
「水戸様に、披露できるほどの腕前はございませぬ。」
――話の相手は“水戸”であった。徳川御三家である。
さしもの直正も緊張していることであろう。
「我が家にも駿馬がおってな…試しに乗っては見ぬか。」
「お恥ずかしいことではございますが、太平の世に慣れきっており、馬は不得手でございまして。」
「ほう…馬は得意ではないか。はっきり申すのだな。」
――水戸藩の徳川斉昭。大物であると同時に曲者である感が、半端ではない。
あの“一橋慶喜”の父といえば、わかる人も多いだろう。
老中・水野忠邦らの“天保の改革”にも、水戸の徳川斉昭は強い影響力を与えていた。
「では、肥前どの。昨今は何かご執心のものはござるかな。」
…今度は、興味のあるものを尋ねる。まるで“面接”だ。
鍋島直正、いかほどの人物かと“値踏み”をされている印象である。
「そうですな、蝦夷地(えぞち)の空でも見てみたいと思うております。」
「蝦夷地だと!」

ここで蝦夷地(北海道)への想いを、さらりと口にする直正。
東北、さらには北海道まで。直正には“日本”の姿が見えていたのである。
――直正が屋敷を出てから、徳川斉昭が側近に伝える。
「“田舎大名”と思うてはならん。肥前には、目配りを怠るなよ…。」
徳川斉昭の直正に対する“値踏み”には、相当な高値が付いたようであった。
(続く)
第4話「諸国遊学」では、幕末佐賀藩の“選手層”の厚さも表現したいと考えています。
――参勤交代で、江戸に到着した鍋島直正。
江戸に着くなり、側近の侍に話をしている。
「永山よ。儂は江戸までは来るのだが、それより北には行けぬ。」
「はっ、殿のご存念は、良くわかります。」
この側近の名は、永山十兵衛という。
かつて直正は、10代の若さで藩主に就任しており、父・斉直に近い重臣たちとの関係に苦労した。そして、不眠症にまで陥ったことがある。
永山は、学究肌の家臣である。呼吸法の研究を行い、直正の心身の回復に貢献した。いわば“メンタルトレーナー”も務めた人物である。
「代わりに見て来い…と言うことでございますね。」
「永山よ、なんと察しの良い。そのとおりだ。」
直正は自分に代わって、永山に東北地方を見聞してもらおうと考えていた。
――こうして、永山十兵衛は東北に旅立った。
もちろん物見遊山に出たのではない。
れっきとした調査であり、詳細な報告書を作成する。
なぜ、東北なのか。まず、日本の北方の沿海には、たびたびロシア船が出没している。かつてロシア船は、長崎にも来航したことがある。
この時点から30年以上前の話だが、当時の佐賀藩は千人規模で警備にあたった。
直正のもと、改革の途上にある佐賀藩はハゼ蝋、陶器などの特産品の開発に熱心だった。販路開拓のための消費地や経路の調査も重要だったのである。
他にも東北の地理や資源…とにかく直正には知りたいことが山ほどあったのだ。
――時期は前後するが、江戸では他藩の大名屋敷に招待されることもあった。
「肥前の…まぁ、楽にいたせ。」
肥前(佐賀藩)35万石の殿様に、この態度である。
お察しいただけると思うが、直正が話している相手は“凄く偉い人”である。
「本日はお招きいただき、ありがとう存じます。」
「まぁ、そう堅くなるな。」
溢れる大物感。
「そうじゃ、戦国の世から鍋島の者は武芸に優れると聞く。」
「水戸様に、披露できるほどの腕前はございませぬ。」
――話の相手は“水戸”であった。徳川御三家である。
さしもの直正も緊張していることであろう。
「我が家にも駿馬がおってな…試しに乗っては見ぬか。」
「お恥ずかしいことではございますが、太平の世に慣れきっており、馬は不得手でございまして。」
「ほう…馬は得意ではないか。はっきり申すのだな。」
――水戸藩の徳川斉昭。大物であると同時に曲者である感が、半端ではない。
あの“一橋慶喜”の父といえば、わかる人も多いだろう。
老中・水野忠邦らの“天保の改革”にも、水戸の徳川斉昭は強い影響力を与えていた。
「では、肥前どの。昨今は何かご執心のものはござるかな。」
…今度は、興味のあるものを尋ねる。まるで“面接”だ。
鍋島直正、いかほどの人物かと“値踏み”をされている印象である。
「そうですな、蝦夷地(えぞち)の空でも見てみたいと思うております。」
「蝦夷地だと!」
ここで蝦夷地(北海道)への想いを、さらりと口にする直正。
東北、さらには北海道まで。直正には“日本”の姿が見えていたのである。
――直正が屋敷を出てから、徳川斉昭が側近に伝える。
「“田舎大名”と思うてはならん。肥前には、目配りを怠るなよ…。」
徳川斉昭の直正に対する“値踏み”には、相当な高値が付いたようであった。
(続く)