2024年07月30日

「滑込の剣」(8)私にも、言いたいことがある

こんばんは。前回、佐賀の七賢人・江藤新平の“銅像との対話”を経て、私は「結局、学び続けるほかに道は無い」と感じ取りました。

多くの佐賀県出身者と同じように、大都市圏に住む身の上で、故郷知名度の低さに色々と考えさせられることも、度々あります。

私には「自分の生まれた場所に、誇りを持つことができるか?」は、かなり大事な問いではないかと思えるのです。

――江藤新平は、日本を近代国家へと進める枠組みを整えた人物。

明治初頭に、国家としての仕組みを整えるため、江藤立法行政司法とあらゆる分野に関わった。

新政府の中枢にいて、様々な問題解決したが、裏方で進めていた仕事が多く、その活躍はあまり語られない。

偉大な“大先輩”たちの銅像を振り返り、私は声にならざる声を張る…
玄関の正面にお二人の像がドーンと現われるものと思っておりました!」

佐賀七賢人”の2人、江藤両者の像は、ロビーの吹き抜けにある階段の手前に揃っている。わりと地味な配置で、しばらく気付かなかったぐらいだ。

――むろん県庁ロビーで騒いではならず、私の“声”は、想いの表れだ。

そして気持ちの問題なので、が呼びかければ、先輩たちは“返事”をくれる。

見栄えんごたところに、頓着はしない流儀だ!」
そうだ…、格好を気にせず仕事に没頭するのが、江藤新平だった。

おいも、そがん細かかことは、なん~も気にせんばい。」
北海道の荒野に大都市を築いた、島義勇壮大な事を考える人物だった。

はしっかりと向き直った。一つ、言いたいことがあるので、言わせてもらう。
先輩方(がた)~っ!もう少し、映え(ばえ)を意識してくださ~い!」

令和の時代に“偉人”を続けるには、それなりの人気も要りますよ~っ!」

歴史上の有名人物にとってもイメージが大切なのは身に染みている。実力や功績のわりに、“佐賀七賢人”は、他の地域では何だか語りづらい。

――いつの日か、故郷の“英雄”たちを、もっと誇りを持って語りたい。

当時の県庁ですら「平穏」と認識した状況で、いきなり進撃してきた新政府軍

やむを得ず迎撃したら、江藤新平島義勇たちは“反逆者”扱いにされ、まともな裁判もなく処刑に至った。この経過は「近代国家の恥」とも言われている。

そんな理不尽な事件が、150年前に発生した。

後年、その戦闘は「佐賀の乱」と呼ばれた。故郷の英雄を「反乱を起こした人」と教えられ、若き日の私は、佐賀歴史に関心を持たなくなった。

明治後期には公式に官位も追贈され、両者の名誉も回復されたはずで、近年では「佐賀戦争」という表記も増えたが、過去の悲劇が消えるわけではない。

起きた事象そのものは変えられないが、評価を見つめ直すことはできる。ここを乗り越えた時、もっと“佐賀出身”を誇れる日が来る…私は、そう信じている。




  


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2024年07月26日

「滑込の剣」(7)向き合えば、問答の間

こんばんは。5月上旬のこの時、ある「特別展」が閉幕の間近だったので、佐賀へと駆け込みました。

かつて、教科書では「佐賀の乱」とだけ記された、あの事件の真相…それが見えてきそうな気がしたからです。

会場である“佐賀城本丸歴史館”に向かう途上で、私は佐賀県庁に立ち寄りました。例によって“銅像との対話”が続きます。

県庁ロビーには佐賀七賢人江藤新平の銅像もあった。幕末佐賀から脱藩し謹慎となるが、明治初期のわずかな期間、その才能は強い光を放った。

「議論において、並ぶ者なし」とも評された江藤裁判所など近代の司法制度を整備するのみならず、徳川幕府から明治新政府への移行にも深く関わった。

ところが、日本近代国家として成り立たせるために奔走した人物は、新政府に不満を持つ士族による“反乱の首謀者”扱いとされ、その生涯を閉じた。

――「私は、江藤先生と違って、平凡な人間です。」

「…歳も取ってしまった。もう勉学に励んでも、たかが知れています。」
まさに、時を費やした。若き日は遠く、身体からは気力が感じられない。

「では、はそのままで良かと、そう考えるか。」
さすが江藤新平という人物、その銅像に向き合うだけで、ピリピリとした問答の気分になる。

「…いや、だからこそ“佐賀の力”が要るのです。」
「そがん言いよるが、佐賀ん力ば、いかに使うか。」

――しばし、無音にて間が空く。私は言葉を返した。

「…私はともかくとして、まだ佐賀には無限の可能性が残っている。」
「その佐賀可能性ば、どうやって引き出すつもりか。」

江藤理想を語れば、常に実行の手順があったという。それだけ、言いっ放しで後を考えない“評論家”には厳しい。

「それには佐賀の誇りを取り戻すこと。江藤新平という人物の評価を正しく行うのが、遠回りに見えて近道だと考えます。」
「よか、わかった。では、勉学に励まんね!」

――これが問答の結論か。

佐賀への帰藩のたびに行う「銅像との対話」は大体、何か1つの答えを残していく。今回、は結局のところ“勉学に励むべし”という話に戻された。

そういえば幕末期、全国で一番勉強したのは、佐賀藩だという話も聞く。

おそるべし、江藤新平。向き合うだけで「ああ、佐賀の者とは、その命が尽きるまで、学び続けることと見つけたり…」という気分になった。



  


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2024年07月18日

「滑込の剣」(6)“開拓神”と、もう1人

こんばんは。『さがファンブログ』で得た情報から、県庁のモニュメントを探しに行った話の続きです。

現在、200万人に近い人口を擁する、札幌の街を創り出した人物・島義勇の銅像と目が合いました。

佐賀の誇る賢人たちの姿を見かけると、多少の会話が始まるのが、当ブログの特徴です。いつもの感じで綴ります。

――明治初期、北海道(蝦夷地)の開拓判官という立場で

当地に趣き、数か月で現在の大都市・札幌の基礎設計を成し遂げた、島義勇団右衛門)。佐賀の人が、親しみを込めて呼ぶと“団にょん”さん。

明治初期、札幌の地は「四方広漠の平原」、言うならば「な~んも無か」みたいな場所だったらしい。“団にょん”は、そこを世界一の都市にしようと志した。

団にょん…、いや“判官さま”とお呼びした方がよろしいでしょうか。」
急に恐縮しだしたである。たしかに“本編”を書く時には、島義勇の登場が、かなり少ない傾向がある。

しかも、蝦夷地(北海道)探索についての第11話『蝦夷探検』で歩き回った以外は、砂ぼこりをあげて走っている…感じの描写ばかりだ。

――繰り返すが、大都市・札幌の基礎を築いた、すごい人である。

「一応は、わい(お前)も佐賀ん者たい。“団にょん”さんでよかとよ。」

北海道開拓の英雄を“判官さま”とお呼びしても良いかもしれないが、せっかくの話の流れなので、そのまま佐賀藩士(?)として振る舞いたい。

「ありがとうございます。“団にょん”さま。」
それとなく、強めに敬意は込めてみた。

「“SR”とか言いよったか。意外に調子のよか奴とね~」
島義勇、明治新政府権力者とはよく衝突したが、直属の部下現場で働く人々の評判は良かったようで、男気のある“アニキ”な印象の人物だ。

――その時である。「君はここで、時ば費やしてもよかとか。」

なんだか“団にょん”さんと談笑する感じになっていたところ、その空気を打ち破るかのように右前方から、スッと一筋の声が通った。

そう、この場に“英雄”は、もう1人いる。この日、佐賀に滑り込んできた理由とも言える、あの人だ。



  


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2024年07月13日

「滑込の剣」(5)振り向けば、“英雄”のいた街

こんばんは。例によって、無理な行程を組んでいる5月上旬の“帰藩”。前回は、佐賀県庁の1Fロビー、言うなれば“佐賀中枢”にたどり着きました。

時間が無い」と言うわりに、佐賀城本丸歴史館に直行せず、何故そんな寄り道をするのか…今回は、その経緯を記します。

――この時点で、私が掴んでいた情報。

ほぼ毎日、閲覧している『さがファンブログ』だが、時折「おおっ!」と思う記事に行き当たる。

そこで得た情報県庁に“二人の英雄”が並び立っているという知らせだった。

いざ、県庁の内部に入ると、思いのほか佐賀の物産も展示されており、物珍しさに目移りがする。

――「佐賀の誇りを取り戻す」という意図もあってか。

一度は名誉を失った“英雄”たちの真の復権を目指して、“モニュメント”が設置されている…と聞いていた。

ただ、玄関口から入って正面を見渡しても、それらしき展示は見当たらない。

わい(お前)は、どこを見よっとね。」
眼前の景色ばかりに気を取られていたが、気配を感じる…後ろだ。

「だ…団にょん!?」
呼び捨てはなかろうもん。せめて“団にょん”さん、じゃなかね。」

歩み進めたロビーの後ろ、もと来た方向に向かって振り返ると、日本に「札幌」という街を創り出した男・島義勇の勇姿があった。

札幌と言えば、200万に近い人口がある大都市。そこは、日本の五大都市圏の一つにも数えられる。

明治初期の北海道に、巨大都市を造り始めたすごい人、という説明がわかりやすいだろうか。

なお、島団右衛門という通称があるので、地元の佐賀では、親しみを込めて“団にょん”さん、と呼ばれているという。


  


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2024年07月07日

「滑込の剣」(4)佐賀の“中枢”に至る

こんばんは。今年1回目の佐賀への“帰藩”で、5月上旬の話を書いています。

陽射しはそこそこありましたが、まだ新緑の季節だったので、日陰に入れば過ごしやすい時期でした。

大型スクリーンからピアノの音色が流れる、駅前の大屋根を後にして、佐賀駅BCへと進むところからです。

――駅改札のすぐ東。“BC”とは、「バスセンター」だという。

佐賀市内のバス交通の結節点。この場所からは様々な選択肢がある…とはいえ、私の進むべき方向は決まっている。

中央大通りに向かうバスが「丁度よか時に来たとよ。さぁ、乗らんね」とばかりに、スーッと走り込んでくる。

「かなり、空いている…ほぼ貸し切りに見えるぞ!」
自家用車でないと不便、それもわかる。だが、もう少し混んでいないと、いわゆる“都会”で暮らすは、やや不安をおぼえる。

「いや、これは佐賀が私を“特別扱い”してくれたのだ!そうに違いない」と、納得しておくことにした。

――実際、バスは快適で早かった。

市街地の大通りを佐賀銀行、佐賀玉屋、佐賀バルーンミュージアム…と進む、こんな時、私はこう思う。

「いま、私は間違いなく、佐賀の地にいる…」
いつから、このような“体質”になったのか。体の中心から、指先にまで気力が還ってくる感じがする。

そういう、地元に住む方に理解し難い感覚はさておき、「県庁前」で下車する。

本日、最初の目的地がすぐ近くにあるからだ。そこは、いわば現代における“佐賀中枢”。

私は佐賀県庁の1階ロビーに到達した。なぜ、ここに来たのか…というと、ある情報を掴んでいたからだ。




  
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2024年07月04日

「滑込の剣」(3)“難曲”に挑む者

こんばんは。2年ぶりとなった、今年1回目佐賀への帰還。時期は5月上旬の話です。今回は以前、投稿した記事と同じ場面を、異なる描き方で綴ります。
〔参照:「小休止その5、カンパネラの鳴る街角」

2年前の来訪時は工事中だったかもしれません。その時、私は佐賀駅南口、強い日差しも、しのげる大屋根の下にいました。

――ここで、聞こえてくる音色は…

練達のピアニストも敬遠するという難曲『ラ・カンパネラ』。いま佐賀駅前の街角には、このメロディーが似つかわしい。

佐賀海苔漁師・徳永さんが、超有名ピアニストの前座演奏できるほどに腕を磨いてきた、この難曲の旋律。

背中を追いかけた、そのピアニスト(フジコ・ヘミングさん)は先日、世を去られたが、この“物語”は残っていくはず。

何歳からの始まりでも一途に追い続ければ、“難曲”を会得できることもある…

――私も、“佐賀の者”を名乗るならば、

あきらめずに書くことは続けてみよう。きっと海苔漁は、私の仕事より、遙かに厳しい重労働だ。
仕事の傍らで、何かを成し遂げた者。」

見ようによっては、私も海苔漁師の“徳永さん”から勇気を与えられる立場で、その背中を追わねばならないのかもしれない。

ただ、この時に弁当を食べていて、私はこんなことを考えていた。
嬉野茶飯は美味だ。佐賀米嬉野茶との相性は抜群で、隙がない。」

「しかし、佐賀海苔弁当も選んでみたかった…」
…迷い多きには、まだまだ成功への道は遠そうである。

ちなみに、海苔漁師のピアニストの物語は『ら・かんぱねら』として映画化されると告知されていた。ぜひ観てみたいと思っている。

  
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Posted by SR at 21:36 | Comments(0) | 佐賀への道

2024年07月01日

「滑込の剣」(2)いざ、佐賀之“世界”へ

こんばんは。ここ数年、「なかなか帰れない」「佐賀の遠か…」と言い続けましたが、今年はすでに2回も佐賀県内に入っています。

うち1回目の話。5月上旬の佐賀市内です。

――佐賀駅のBC(バスセンター)とJRの改札口との間。

たしか“えきマチ1丁目”と呼ばれる区画。数年前に一度、佐賀駅構内からは書店が消滅したのだが、新しい本屋が出て“復活”していた。

店の名はそのまま「佐賀之書店」。なかなかインパクトのある看板で「う~む」とばかりに、しばらく眺めてみる。

…これは、佐賀還ったのを実感するには良い場所だ。

――いや、感慨にふけっている場合ではない。

この時の用件は、“佐賀の七賢人”の誇る稀才・江藤新平の没後150年特別展を観に行くことだ。

私がこの企画展示を見ようものなら、相当な時間を遣うのは想像に難くない。

「…少々、腹ごしらえが要りそうだ。」
人智空腹より生じる”と聞くが、私のような凡人には真似ができそうにない。

さて、佐賀駅のすぐ近くに“街かど畑”という呼称を持つスーパーがある。

そこで、嬉野茶飯お弁当を入手して「美味い、美味い!」と食べている傍らでは、ピアノの音色が響いていた。



  


Posted by SR at 22:07 | Comments(2) | 佐賀への道