2020年04月19日
第8話「黒船来航」⑧
こんばんは。
前回の続きです。アメリカの艦隊が日本に現れるとの情報。
長崎警備を担当する佐賀藩、福岡藩。そして“琉球”の交易ルートを抑えている薩摩藩には、幕府からも連絡が回っていました。
しかし、その情報は“噂話”として、既に諸大名にも伝わっていたのです。
――老中・阿部正弘も嘆息していた。
「此度は、切り抜けられるであろうか…」
阿部正弘は、幕府の老中のリーダー(老中首座)である。
――この時点から、およそ7年ばかり前。1846年。
アメリカの艦船が日本に来航し、開国の要求をしたことがある。出現したのは、浦賀沖。艦隊を率いていたのは、アメリカ海軍代将のビドル。
幕府側はビドルに、はっきりと伝えた。
「我が国では“鎖国”を行っている。ご用があれば長崎に回られよ。」
――長崎への回航は拒否したが、終始、穏便な態度だったビドル。帰国後、「臆病者!」と批判された。
ビドルの弁明である。
「私は本国(アメリカ)の指示に従い、紳士的にふるまっただけだ!何故に批判される!?」
この経過もあり、老中・阿部正弘には、提督ペリーの態度は予測できていた。
「アメリカが来航するならば、今度は強硬策で来るだろう」と。
――「天保の改革」の老中・水野忠邦の失脚から、10年近い歳月が流れた。
阿部正弘は、この間ずっと老中として江戸にいる。
領国である福山藩(広島)に帰ったのは、十数年前に1度きりである。

国政の実質的なトップは、忙し過ぎるのである。太目の体型のせいか、時おり、息苦しそうにも見える。
――逆に、鍋島直正は「百日大名」と言われる、長崎警護の担当。江戸にいる期間が短い。
直正の江戸での滞在は慌ただしい。本日は城まで足を運ぶ。
「作事(さくじ)のお許しをいただいた、長崎の台場につき、お耳に入れまする。」
老中・阿部正弘の表情が明るくなる。
「おおっ、肥前守(直正)。恙(つつが)なく、進んでおるか!」
「浅瀬の埋め立てに難儀しましたが、概ね仕上がり申した。」
「さすが、肥前!なんと頼もしいことだ。」
「御用金など、お気遣いをいただきましたゆえ、滞りなく進み申した。」
――20年近く前、佐賀城の火災に伴う再建の頃から、大事業のたびに幕府より資金を借入れる佐賀藩。
しかし、日本の表玄関・長崎港の防衛費用は、本来なら幕府持ちである。
また、福岡藩は砲台を設置する離島が、佐賀藩領であることを理由に関わろうとしなかった。
鍋島直正の報告は続く。
「また、佐賀で鋳立(いたて)ました、鉄(くろがね)の砲を並べております。」
「肥前守、見事な働きじゃ。感じ入った!」

佐賀藩は、わざわざ幕府にお願いして許可を取り、独力で長崎港を“要塞”にしたのである。直正の堂々たる成果報告は、幕府や諸藩への“警鐘”でもあった。
一方で、感心しているばかりの老中・阿部正弘。
――表面上は幕府中枢は“無策”のように見える。しかし、直正が退出した後。
老中・阿部正弘、側近の“川路聖謨(としあきら)”を呼び寄せる。
この川路は、阿部が取り立てた。勘定奉行に出世している。
痘痕(あばた)が目立つ顔、大きく窪んだ目…特徴のある見た目だが、それ以上に、利発な人物であることが気配に表れる。
「先ほど、鍋島肥前と話をした。」
「はっ、存じております。ほぼ長崎の台場を仕上げていると。」
「川路…もしものときは、鍋島肥前を頼るぞ。」
「はっ、賢明なご判断かと。」
「川路、段取りを頼む。」
「算段は既に付けております。お目通しを。」
川路は、身分ではなく能力で出世した人物。
老中・阿部正弘は、有能な人物を次々に登用した。海軍の創設を主張する“勝海舟”、アメリカに渡り西洋事情に通じる“ジョン万次郎”などが好例である。
――川路の資金計画が、老中・阿部正弘に渡された。もちろん極秘の内容である。
そこには佐賀藩に鉄製大砲を発注する前提で、幕府への借金返済を免除する計画があった。
「無用な支度に終われば良いのだが…」
「申し上げます!水戸様が、ご面会を求めておられます。」
また、呼び出される阿部正弘。
「水戸のご老公か…油断なく、お話をお伺いせねばな…」
次の面談相手は、水戸藩・徳川斉昭。“烈公”と呼ばれる激しい人物。“攘夷”の急先鋒である。
阿部正弘は、人の話を最後まで良く聞いた。自身は元から“開国派”だったが、いかに対立を少なく“最善手”を選ぶかに苦心していた。
(続く)
前回の続きです。アメリカの艦隊が日本に現れるとの情報。
長崎警備を担当する佐賀藩、福岡藩。そして“琉球”の交易ルートを抑えている薩摩藩には、幕府からも連絡が回っていました。
しかし、その情報は“噂話”として、既に諸大名にも伝わっていたのです。
――老中・阿部正弘も嘆息していた。
「此度は、切り抜けられるであろうか…」
阿部正弘は、幕府の老中のリーダー(老中首座)である。
――この時点から、およそ7年ばかり前。1846年。
アメリカの艦船が日本に来航し、開国の要求をしたことがある。出現したのは、浦賀沖。艦隊を率いていたのは、アメリカ海軍代将のビドル。
幕府側はビドルに、はっきりと伝えた。
「我が国では“鎖国”を行っている。ご用があれば長崎に回られよ。」
――長崎への回航は拒否したが、終始、穏便な態度だったビドル。帰国後、「臆病者!」と批判された。
ビドルの弁明である。
「私は本国(アメリカ)の指示に従い、紳士的にふるまっただけだ!何故に批判される!?」
この経過もあり、老中・阿部正弘には、提督ペリーの態度は予測できていた。
「アメリカが来航するならば、今度は強硬策で来るだろう」と。
――「天保の改革」の老中・水野忠邦の失脚から、10年近い歳月が流れた。
阿部正弘は、この間ずっと老中として江戸にいる。
領国である福山藩(広島)に帰ったのは、十数年前に1度きりである。

国政の実質的なトップは、忙し過ぎるのである。太目の体型のせいか、時おり、息苦しそうにも見える。
――逆に、鍋島直正は「百日大名」と言われる、長崎警護の担当。江戸にいる期間が短い。
直正の江戸での滞在は慌ただしい。本日は城まで足を運ぶ。
「作事(さくじ)のお許しをいただいた、長崎の台場につき、お耳に入れまする。」
老中・阿部正弘の表情が明るくなる。
「おおっ、肥前守(直正)。恙(つつが)なく、進んでおるか!」
「浅瀬の埋め立てに難儀しましたが、概ね仕上がり申した。」
「さすが、肥前!なんと頼もしいことだ。」
「御用金など、お気遣いをいただきましたゆえ、滞りなく進み申した。」
――20年近く前、佐賀城の火災に伴う再建の頃から、大事業のたびに幕府より資金を借入れる佐賀藩。
しかし、日本の表玄関・長崎港の防衛費用は、本来なら幕府持ちである。
また、福岡藩は砲台を設置する離島が、佐賀藩領であることを理由に関わろうとしなかった。
鍋島直正の報告は続く。
「また、佐賀で鋳立(いたて)ました、鉄(くろがね)の砲を並べております。」
「肥前守、見事な働きじゃ。感じ入った!」
佐賀藩は、わざわざ幕府にお願いして許可を取り、独力で長崎港を“要塞”にしたのである。直正の堂々たる成果報告は、幕府や諸藩への“警鐘”でもあった。
一方で、感心しているばかりの老中・阿部正弘。
――表面上は幕府中枢は“無策”のように見える。しかし、直正が退出した後。
老中・阿部正弘、側近の“川路聖謨(としあきら)”を呼び寄せる。
この川路は、阿部が取り立てた。勘定奉行に出世している。
痘痕(あばた)が目立つ顔、大きく窪んだ目…特徴のある見た目だが、それ以上に、利発な人物であることが気配に表れる。
「先ほど、鍋島肥前と話をした。」
「はっ、存じております。ほぼ長崎の台場を仕上げていると。」
「川路…もしものときは、鍋島肥前を頼るぞ。」
「はっ、賢明なご判断かと。」
「川路、段取りを頼む。」
「算段は既に付けております。お目通しを。」
川路は、身分ではなく能力で出世した人物。
老中・阿部正弘は、有能な人物を次々に登用した。海軍の創設を主張する“勝海舟”、アメリカに渡り西洋事情に通じる“ジョン万次郎”などが好例である。
――川路の資金計画が、老中・阿部正弘に渡された。もちろん極秘の内容である。
そこには佐賀藩に鉄製大砲を発注する前提で、幕府への借金返済を免除する計画があった。
「無用な支度に終われば良いのだが…」
「申し上げます!水戸様が、ご面会を求めておられます。」
また、呼び出される阿部正弘。
「水戸のご老公か…油断なく、お話をお伺いせねばな…」
次の面談相手は、水戸藩・徳川斉昭。“烈公”と呼ばれる激しい人物。“攘夷”の急先鋒である。
阿部正弘は、人の話を最後まで良く聞いた。自身は元から“開国派”だったが、いかに対立を少なく“最善手”を選ぶかに苦心していた。
(続く)
Posted by SR at 11:49 | Comments(0) | 第8話「黒船来航」
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