2021年05月30日
「佐賀を取り戻す話」
こんにちは。
前回の記事で“西九州新幹線”の沿線シリーズを一旦終えました。
あらためて調べると、佐賀と長崎に様々なつながりが見えて来ます。まだまだ、書き足らなかったところは、いずれご紹介する機会も作りたいです。
――ところで、前回の冒頭でつぶやいた“余談”。
アニメ『ゾンビランドサガR(リベンジ)』を見て衝撃を受けたと書きました。
…とはいえ、同番組をご覧になっていない方も多いと思います。
「何に、そこまで反応するのか?」と問われれば、とくに今回は「明治時代の話だったから!」と答えます。
以下、物語の筋書きに関する情報(いわゆるネタバレ)を含みます。
――幕末・明治期を生きた女性も、現代で活躍します。
“ゾンビ”という禁じ手で成り立っているためか、そのストーリーは変幻自在。
明治期に人気が出過ぎて、誰も手が届かなくなったと称される、「伝説の花魁(おいらん)」“ゆうぎり”の生前の姿が描かれました。
なお、現代ではメンバーの“5号”として仲間とともにアイドル活動をします。
直近の放送回は“ゆうぎり”が政府高官に身請けされ、花街から一般の社会に戻る場面から始まります。行く先は、その有力者の出身地と思われる佐賀。

※さがレトロ館(もとは明治二十年に建築された“佐賀県”の警察庁舎だそうです。)
――しかし、一筋縄では行かない展開が。
いきなり「実はもう、佐賀は無いんだけどな…」という衝撃のセリフが飛びます。
知ってはいましたが、言葉で聞くとドキッとします。“佐賀の乱”と呼ばれ、士族反乱に分類される戦争の後、佐賀県が一時“消滅”の憂き目にあっていたこと。
明治九年(1876年)、当時の佐賀県は、福岡・筑後地方の三潴(みずま)県に合併。県名としての“佐賀”は姿を消します。
のち三潴県は消滅。続いて佐賀は長崎県に合併となります。福岡県と長崎県だけが存在し、佐賀県が消えた北部九州の地図。あらためて見ると衝撃的。
――まさか、これをアニメの物語に入れて来るとは…
明治期の人物として、今回の主役っぽい地元・佐賀の青年が登場します。
彼は「“佐賀”を取り戻したい」と、道行く人々に訴えます。話が進む途上で青年は満開の桜のもと、先ほどの“ゆうぎり”と出会い、心をときめかせる展開に。
この時点で“ゆうぎり”は花魁(おいらん)を辞めて佐賀に来たものの、この地に連れてきた有力者には先立たれて、独りになっています。

――見ていて、感銘を受けたこと。
話の前段で「近代化を果たした佐賀が、新時代の立役者になった」旨の説明。
一瞬ではありますが、歴史の紹介で佐賀の殿・鍋島直正公の姿が見えました。「思いもかけぬ場所にて、殿のご尊顔を拝し奉れるとは…」という気分です。
――また、“主役”の青年と知人との会話で…
明治七年(1874年)の「“佐賀戦争”の二の舞はいけない」とセリフがあります。しかも、青年の父は、その戦いの中で討たれたと語られていました。
一般的な「佐賀の乱」という用語を使わないことに、作品の心意気を感じます。
この戦乱については新政府側が「誰を消そうとしたか」の動機が読み取りやすく、佐賀側は「攻めてくるから、迎え撃った」だけ…との見解も主張されています。

――しかも、物語が展開する年代が絶妙。
明治十四年(1881年)から。明治政府で頑張っていた大隈重信や佐野常民までが政変で追いやられ、佐賀(肥前閥)の力が決定的に低下した時期です。
少し史実寄りの話をすると、ここで「転んでもタダでは起きない」のが大隈らしさ。負けじと国会の開設への動きを加速させ、新しい教育にも情熱を注ぎます。
今度は政党や大学を創設し、日本の“意識の近代化”を進める、大隈の意地も「佐賀の大河ドラマ」で見たいポイントです。
――いろいろと話が逸れましたが…
メンバーが“故人”ばかりで異色のアイドル系アニメ。ノリについて行くのが大変な時もありますが、佐賀を語って、考えさせられる作品の存在は喜ばしいです。
しかし、悲劇が予感される次週の展開は不安なところ。おそらくハッピーエンドではなくて、それでも“佐賀”の志は続く…ような展開になるのでしょうか。
ちなみに、粘り強い“復県運動”により「佐賀県」が再び地図上に返り咲くのは、明治十六年(1883年)のことだそうです。
前回の記事で“西九州新幹線”の沿線シリーズを一旦終えました。
あらためて調べると、佐賀と長崎に様々なつながりが見えて来ます。まだまだ、書き足らなかったところは、いずれご紹介する機会も作りたいです。
――ところで、前回の冒頭でつぶやいた“余談”。
アニメ『ゾンビランドサガR(リベンジ)』を見て衝撃を受けたと書きました。
…とはいえ、同番組をご覧になっていない方も多いと思います。
「何に、そこまで反応するのか?」と問われれば、とくに今回は「明治時代の話だったから!」と答えます。
以下、物語の筋書きに関する情報(いわゆるネタバレ)を含みます。
――幕末・明治期を生きた女性も、現代で活躍します。
“ゾンビ”という禁じ手で成り立っているためか、そのストーリーは変幻自在。
明治期に人気が出過ぎて、誰も手が届かなくなったと称される、「伝説の花魁(おいらん)」“ゆうぎり”の生前の姿が描かれました。
なお、現代ではメンバーの“5号”として仲間とともにアイドル活動をします。
直近の放送回は“ゆうぎり”が政府高官に身請けされ、花街から一般の社会に戻る場面から始まります。行く先は、その有力者の出身地と思われる佐賀。
※さがレトロ館(もとは明治二十年に建築された“佐賀県”の警察庁舎だそうです。)
――しかし、一筋縄では行かない展開が。
いきなり「実はもう、佐賀は無いんだけどな…」という衝撃のセリフが飛びます。
知ってはいましたが、言葉で聞くとドキッとします。“佐賀の乱”と呼ばれ、士族反乱に分類される戦争の後、佐賀県が一時“消滅”の憂き目にあっていたこと。
明治九年(1876年)、当時の佐賀県は、福岡・筑後地方の三潴(みずま)県に合併。県名としての“佐賀”は姿を消します。
のち三潴県は消滅。続いて佐賀は長崎県に合併となります。福岡県と長崎県だけが存在し、佐賀県が消えた北部九州の地図。あらためて見ると衝撃的。
――まさか、これをアニメの物語に入れて来るとは…
明治期の人物として、今回の主役っぽい地元・佐賀の青年が登場します。
彼は「“佐賀”を取り戻したい」と、道行く人々に訴えます。話が進む途上で青年は満開の桜のもと、先ほどの“ゆうぎり”と出会い、心をときめかせる展開に。
この時点で“ゆうぎり”は花魁(おいらん)を辞めて佐賀に来たものの、この地に連れてきた有力者には先立たれて、独りになっています。
――見ていて、感銘を受けたこと。
話の前段で「近代化を果たした佐賀が、新時代の立役者になった」旨の説明。
一瞬ではありますが、歴史の紹介で佐賀の殿・鍋島直正公の姿が見えました。「思いもかけぬ場所にて、殿のご尊顔を拝し奉れるとは…」という気分です。
――また、“主役”の青年と知人との会話で…
明治七年(1874年)の「“佐賀戦争”の二の舞はいけない」とセリフがあります。しかも、青年の父は、その戦いの中で討たれたと語られていました。
一般的な「佐賀の乱」という用語を使わないことに、作品の心意気を感じます。
この戦乱については新政府側が「誰を消そうとしたか」の動機が読み取りやすく、佐賀側は「攻めてくるから、迎え撃った」だけ…との見解も主張されています。
――しかも、物語が展開する年代が絶妙。
明治十四年(1881年)から。明治政府で頑張っていた大隈重信や佐野常民までが政変で追いやられ、佐賀(肥前閥)の力が決定的に低下した時期です。
少し史実寄りの話をすると、ここで「転んでもタダでは起きない」のが大隈らしさ。負けじと国会の開設への動きを加速させ、新しい教育にも情熱を注ぎます。
今度は政党や大学を創設し、日本の“意識の近代化”を進める、大隈の意地も「佐賀の大河ドラマ」で見たいポイントです。
――いろいろと話が逸れましたが…
メンバーが“故人”ばかりで異色のアイドル系アニメ。ノリについて行くのが大変な時もありますが、佐賀を語って、考えさせられる作品の存在は喜ばしいです。
しかし、悲劇が予感される次週の展開は不安なところ。おそらくハッピーエンドではなくて、それでも“佐賀”の志は続く…ような展開になるのでしょうか。
ちなみに、粘り強い“復県運動”により「佐賀県」が再び地図上に返り咲くのは、明治十六年(1883年)のことだそうです。
2021年05月29日
「夢の舞台は、隣の県」〔長崎駅〕
こんばんは。
“西九州新幹線”の開業を控えた沿線のシリーズも、ひとまず最終回。
これは余談ですが、他地域に住む私は、たぶん佐賀の皆様より先に見た「ゾンビランドサガR」がまさかの展開だったので、衝撃を受けながら書いてます。
――さて終着点は、長崎駅。
江戸時代。オランダを通じて西洋に開かれた唯一の窓口・長崎。
幕末の開国後も存在感が大きかった理由は、国際都市としての蓄積。そして長崎が“自由な場所”だったことが挙げられます。
横浜は開港後、江戸に近いことで急速に発展しました。一方で“首都”に近すぎる港町には、厳しい出入りの監視はあったそうです。

――「それに比べて、長崎は動きやすいぜよ!」
…という言葉を発したかは、定かではありません。坂本龍馬などの志士が長崎で活動したのは有名な話。
大河ドラマ『龍馬伝』の放映中は、主演の福山雅治さんが長崎出身ということも手伝ってか、かなりの経済効果があったと聞きます。
――その龍馬が作った“亀山社中”は…
ざっくり分類すると“貿易商社”ですね。長崎の商人である大浦慶も『龍馬伝』に登場していました。余貴美子さんが演じていたかと思います。
凄腕の貿易商だった女性。彼女の活躍により、佐賀の製茶ブランド“嬉野茶”はさり気なく世界進出を果たしています。
〔参照:「主に嬉野市民の方を対象にしたつぶやき(前編)」〕

――長崎の幕末に、大浦慶という人物を語ると…
幕末の志士たちの支援者としての姿が。この貿易商とのつながりを調べると、なぜだか坂本龍馬より先に名前が出て来ることもあるのが…大隈重信。
“本編”では、大隈を小さいときから母親大好き、わりと要領が良く先輩にはしっかり甘える…感じに描いています。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(14)限りなき“母の愛”〕
――何冊かの書籍を参照し、私が知ったこと。
大隈重信は、幕末期の長崎で、かなり貿易業務に当たっているようです。
当時、藩の重役だった鍋島河内(現・佐賀県みやき町の領主)の影も見え隠れ。佐賀藩の資金調達のために、秘密裡に動いていた可能性が高そうです。
“嬉野茶”を扱った、大浦慶とのつながりには説得力を感じます。大隈だと10歳ほど年上の“お姉さん”のような感覚だった…としても不思議はないです。
――そして、大隈には長崎での“お兄さん”的存在も居ます。
明治期に“外務卿”となる副島種臣。大隈にお願いされて、佐賀藩の英学校・致遠館の責任者になります。
「難しい顔で洋書を翻訳し、数頁ずつ理解できると嬉しそうだった…」との微笑ましいエピソードも。
ちなみに、この英学校は“長崎の佐賀藩士”である諫早家家臣・山本家の屋敷内にあったと聞きます。

――そして、もう1人のお兄さん(?)は…
佐賀藩は英学校に、長崎奉行所でも英語を教えていた先生を呼びます。
オランダ生まれで若くしてアメリカに渡り、そして長崎に来た宣教師フルベッキ。大隈より8歳ほど年上なので、“お兄さん”呼ばわりしてみました!
「フルベッキなくして、大隈なし」とも言われ、早稲田大学で“建学の父”とまで称される存在だそうです。
――長崎の街を、自由闊達(かったつ)に動き回った大隈は…
のちに「もっと幕末に勉強しておけば良かった!」と語ったそうです。
近代の日本を引っ張っていく人材の多くが、自由な空気のあった長崎で学んでいます。まさに西洋の学問を志す者たちの“夢の舞台”であり続けた街。
佐賀藩が日本の近代化を先導できた理由は色々と考えますが、決定的な要因は「長崎に近かったから」というのは否めません。
…長崎駅。物話はこの街から始まるのでしょう。「幕末佐賀藩の大河ドラマ」が実現すれば、地元・佐賀以上に観光に来るべき場所なのかもしれません。
“西九州新幹線”の開業を控えた沿線のシリーズも、ひとまず最終回。
これは余談ですが、他地域に住む私は、たぶん佐賀の皆様より先に見た「ゾンビランドサガR」がまさかの展開だったので、衝撃を受けながら書いてます。
――さて終着点は、長崎駅。
江戸時代。オランダを通じて西洋に開かれた唯一の窓口・長崎。
幕末の開国後も存在感が大きかった理由は、国際都市としての蓄積。そして長崎が“自由な場所”だったことが挙げられます。
横浜は開港後、江戸に近いことで急速に発展しました。一方で“首都”に近すぎる港町には、厳しい出入りの監視はあったそうです。
――「それに比べて、長崎は動きやすいぜよ!」
…という言葉を発したかは、定かではありません。坂本龍馬などの志士が長崎で活動したのは有名な話。
大河ドラマ『龍馬伝』の放映中は、主演の福山雅治さんが長崎出身ということも手伝ってか、かなりの経済効果があったと聞きます。
――その龍馬が作った“亀山社中”は…
ざっくり分類すると“貿易商社”ですね。長崎の商人である大浦慶も『龍馬伝』に登場していました。余貴美子さんが演じていたかと思います。
凄腕の貿易商だった女性。彼女の活躍により、佐賀の製茶ブランド“嬉野茶”はさり気なく世界進出を果たしています。
〔参照:
――長崎の幕末に、大浦慶という人物を語ると…
幕末の志士たちの支援者としての姿が。この貿易商とのつながりを調べると、なぜだか坂本龍馬より先に名前が出て来ることもあるのが…大隈重信。
“本編”では、大隈を小さいときから母親大好き、わりと要領が良く先輩にはしっかり甘える…感じに描いています。
〔参照:
――何冊かの書籍を参照し、私が知ったこと。
大隈重信は、幕末期の長崎で、かなり貿易業務に当たっているようです。
当時、藩の重役だった鍋島河内(現・佐賀県みやき町の領主)の影も見え隠れ。佐賀藩の資金調達のために、秘密裡に動いていた可能性が高そうです。
“嬉野茶”を扱った、大浦慶とのつながりには説得力を感じます。大隈だと10歳ほど年上の“お姉さん”のような感覚だった…としても不思議はないです。
――そして、大隈には長崎での“お兄さん”的存在も居ます。
明治期に“外務卿”となる副島種臣。大隈にお願いされて、佐賀藩の英学校・致遠館の責任者になります。
「難しい顔で洋書を翻訳し、数頁ずつ理解できると嬉しそうだった…」との微笑ましいエピソードも。
ちなみに、この英学校は“長崎の佐賀藩士”である諫早家家臣・山本家の屋敷内にあったと聞きます。
――そして、もう1人のお兄さん(?)は…
佐賀藩は英学校に、長崎奉行所でも英語を教えていた先生を呼びます。
オランダ生まれで若くしてアメリカに渡り、そして長崎に来た宣教師フルベッキ。大隈より8歳ほど年上なので、“お兄さん”呼ばわりしてみました!
「フルベッキなくして、大隈なし」とも言われ、早稲田大学で“建学の父”とまで称される存在だそうです。
――長崎の街を、自由闊達(かったつ)に動き回った大隈は…
のちに「もっと幕末に勉強しておけば良かった!」と語ったそうです。
近代の日本を引っ張っていく人材の多くが、自由な空気のあった長崎で学んでいます。まさに西洋の学問を志す者たちの“夢の舞台”であり続けた街。
佐賀藩が日本の近代化を先導できた理由は色々と考えますが、決定的な要因は「長崎に近かったから」というのは否めません。
…長崎駅。物話はこの街から始まるのでしょう。「幕末佐賀藩の大河ドラマ」が実現すれば、地元・佐賀以上に観光に来るべき場所なのかもしれません。
2021年05月26日
「佐賀と長崎をつなぐもの」〔諫早駅〕
こんばんは。
来年秋の“西九州新幹線”の開業を見越して、その盛り上がりを先取りすべく、佐賀・長崎をつなぐ「大河ドラマ」のネタを探し回る(?)シリーズ。
…初回の「武雄温泉駅」編から始めて、4駅目となりました。
――今回は、諫早駅です。
「しまった!私の手元には、諫早の写真が無いっ!」
早くもピンチ。しかし、私とて“佐賀藩士(?)”を名乗る者。この程度で挫(くじ)けたくありません。
「私はこれまでよく頑張ってきた!私は『佐賀のドラマ』が書ける者だ。今までも。そして、これからも…」
これで「私が挫けることは絶対に無い!」と続けば、『鬼滅の刃』っぽい言い回しですが、私に同作品の主人公のような精神力は無いので、時々折れそうです。
――「何の話だ!?」と思われた方へ
直接に名所のアピールが叶わずとも、諫早の魅力を語るための前振りでした。先ほどの“小芝居”。実は、「佐賀藩士」という言葉が重要だったのです。
…当地・長崎県諫早市ですが、江戸時代には“佐賀藩”の領内です。
もう少し詳しく言えば、佐賀藩の自治領の1つ・諫早領。ふだんから、当ブログをお読みの方ならば「もしや…あの並びか!」とお気づきかもしれません。

※太良町の竹崎城址展望台(諫早家初代・龍造寺家晴さまが活用した城跡)
――では、参ります!
「武雄・須古・多久…そして、諫早!」
「4か所揃って、“龍造寺四家”!」
今度は、グッと懐かしく『秘密戦隊ゴレンジャー』風にまとめてみました。
…説明しましょう。このグループは鍋島家のもと主家筋、龍造寺氏の流れをくむ家柄。佐賀藩の上級家臣団(親類同格)で、各地域の自治領主たちです。
――こうして戦国期の龍造寺家から連なる「諫早家」。
かなり領民から慕われた、ご領主だったとか。江戸中期(1750年)。うっかり、佐賀藩の後継争いに介入してしまった、諫早家。
自治領主も、家臣団ですから「出過ぎた真似(まね)を!」とばかりに、佐賀本藩から怒られます。下った処分は「領地“四千石”の没収」。
ここで、なぜか領民が「抗議をせんば!」「一揆ば起こさんね!」とヒートアップ。
――慌てたのは、諫早家。家老を領民たちの元へと走らせます。
家老は必死の説得で一揆を止め、そして、彼らと運命をともにした…
地元の“領主”のため領民が決起した、珍しい“百姓一揆”。騒動の経過には、諸説あるようですが、諫早家と領民に一体感があったのは間違いなさそうです。
当時の佐賀本藩も、領民たちの“諫早への愛”に思うところがあったのかもしれません。20年と経たないうちに、この四千石を諫早家に戻します。
この騒動の舞台は、長崎県諫早市から佐賀県太良町を結ぶルート上。ちなみに海側と山側で二手の道があり、太良町で合流、嬉野市の塩田に至るそうです。

――そして、先ほどの道を総称して「多良海道」。
“神秘”に満ちている…という表現もされる多良山系の大自然。『多良海道』は諫早市(長崎)と太良町(佐賀)が協力して“ブランド化”を進めている様子。
この県境の2市町は、江戸時代は諫早領としてつながります。山側(多良海道)と海側(竹崎街道)。「歴史の道」百選にも入って、今後に期待のエリアです。
ネットで検索すると『多良海道』のパンフレットも見られます。大自然の“神秘”の風景が続き、道に沿って人々の歴史が折り重なる…素敵な出来映えでした。
このつながりは、すでに諫早の強みの1つでしょう。
〔参照(太良町側の写真あり):「醒覚の剣」(満干)〕
――幕末期。長崎警備の担当・佐賀藩としては…
多良岳の裾野を縫うように“海道”を往けば、佐賀藩領から出ることなく長崎に向かうことが可能です。
時には佐賀藩主も通ったと聞きます。幕末の名君・鍋島直正も「此度はオランダの蒸気船に乗れるかのう!」と意気揚々と多良海道を進んだことでしょう。
近隣に海の難所も多く、諫早家の家老は燈台を設置。明治期に、子孫の早田市右衛門が、台風で失われた燈台を西洋式で再建する、世代を超えた快挙も。
〔参照(後半):「主に太良町民の皆様を対象にしたつぶやき」〕

――当時の長崎を描いた、ある絵図を見ました…
異国船に対する警備に、諫早家の活躍が確認できるようです。私が目にしたのは、1846(弘化三)年の絵図。三艘のフランス船が長崎に現れています。
…ペリー来航の7年ほど前。佐賀藩は海上に船を並べ、身を挺してフランス船が長崎市中に進入するのを阻止していたようです。
国際都市・長崎での外国とのトラブルは国の危機にもつながる恐れがありました。諫早の佐賀藩士たちも、神経を遣って警備にあたったと思うのです。
――長崎警護で重要な役割を果たした“諫早領”。
異国船の脅威が迫れば、長崎に近い立地で初動に対応し、佐賀本藩に急を知らせる役回り。まるで日本の海を守る“安全装置”のようです。
…地元・諫早の高校生が調べた資料にも、異国船に備えた“諫早の先人”の姿を見かけました。
先ほどの絵図の説明文には、諫早領をはじめ、武雄領、深堀(長崎)領といった佐賀藩の各地域から海上警備に集結しています。
――来年の開業を控えた“西九州新幹線”。
その沿線である、諫早・長崎の佐賀藩士たちが、最前線で「日本の表玄関」を守っていたこと。“本編”の第1部では、強調するチャンスを逃しています。
佐賀藩士(?)の後輩として、諫早領の“先輩方”の頑張りを表現しそこなうのは不本意なので、また、何か考えたいところです。
…諫早駅。佐賀へと続く「多良海道」。北を見れば大村。西へ進めば長崎。東に入れば島原。“西洋の風”を感じる分岐点。あふれる浪漫が感じられそうです。
来年秋の“西九州新幹線”の開業を見越して、その盛り上がりを先取りすべく、佐賀・長崎をつなぐ「大河ドラマ」のネタを探し回る(?)シリーズ。
…初回の「武雄温泉駅」編から始めて、4駅目となりました。
――今回は、諫早駅です。
「しまった!私の手元には、諫早の写真が無いっ!」
早くもピンチ。しかし、私とて“佐賀藩士(?)”を名乗る者。この程度で挫(くじ)けたくありません。
「私はこれまでよく頑張ってきた!私は『佐賀のドラマ』が書ける者だ。今までも。そして、これからも…」
これで「私が挫けることは絶対に無い!」と続けば、『鬼滅の刃』っぽい言い回しですが、私に同作品の主人公のような精神力は無いので、時々折れそうです。
――「何の話だ!?」と思われた方へ
直接に名所のアピールが叶わずとも、諫早の魅力を語るための前振りでした。先ほどの“小芝居”。実は、「佐賀藩士」という言葉が重要だったのです。
…当地・長崎県諫早市ですが、江戸時代には“佐賀藩”の領内です。
もう少し詳しく言えば、佐賀藩の自治領の1つ・諫早領。ふだんから、当ブログをお読みの方ならば「もしや…あの並びか!」とお気づきかもしれません。
※太良町の竹崎城址展望台(諫早家初代・龍造寺家晴さまが活用した城跡)
――では、参ります!
「武雄・須古・多久…そして、諫早!」
「4か所揃って、“龍造寺四家”!」
今度は、グッと懐かしく『秘密戦隊ゴレンジャー』風にまとめてみました。
…説明しましょう。このグループは鍋島家のもと主家筋、龍造寺氏の流れをくむ家柄。佐賀藩の上級家臣団(親類同格)で、各地域の自治領主たちです。
――こうして戦国期の龍造寺家から連なる「諫早家」。
かなり領民から慕われた、ご領主だったとか。江戸中期(1750年)。うっかり、佐賀藩の後継争いに介入してしまった、諫早家。
自治領主も、家臣団ですから「出過ぎた真似(まね)を!」とばかりに、佐賀本藩から怒られます。下った処分は「領地“四千石”の没収」。
ここで、なぜか領民が「抗議をせんば!」「一揆ば起こさんね!」とヒートアップ。
――慌てたのは、諫早家。家老を領民たちの元へと走らせます。
家老は必死の説得で一揆を止め、そして、彼らと運命をともにした…
地元の“領主”のため領民が決起した、珍しい“百姓一揆”。騒動の経過には、諸説あるようですが、諫早家と領民に一体感があったのは間違いなさそうです。
当時の佐賀本藩も、領民たちの“諫早への愛”に思うところがあったのかもしれません。20年と経たないうちに、この四千石を諫早家に戻します。
この騒動の舞台は、長崎県諫早市から佐賀県太良町を結ぶルート上。ちなみに海側と山側で二手の道があり、太良町で合流、嬉野市の塩田に至るそうです。
――そして、先ほどの道を総称して「多良海道」。
“神秘”に満ちている…という表現もされる多良山系の大自然。『多良海道』は諫早市(長崎)と太良町(佐賀)が協力して“ブランド化”を進めている様子。
この県境の2市町は、江戸時代は諫早領としてつながります。山側(多良海道)と海側(竹崎街道)。「歴史の道」百選にも入って、今後に期待のエリアです。
ネットで検索すると『多良海道』のパンフレットも見られます。大自然の“神秘”の風景が続き、道に沿って人々の歴史が折り重なる…素敵な出来映えでした。
このつながりは、すでに諫早の強みの1つでしょう。
〔参照(太良町側の写真あり):
――幕末期。長崎警備の担当・佐賀藩としては…
多良岳の裾野を縫うように“海道”を往けば、佐賀藩領から出ることなく長崎に向かうことが可能です。
時には佐賀藩主も通ったと聞きます。幕末の名君・鍋島直正も「此度はオランダの蒸気船に乗れるかのう!」と意気揚々と多良海道を進んだことでしょう。
近隣に海の難所も多く、諫早家の家老は燈台を設置。明治期に、子孫の早田市右衛門が、台風で失われた燈台を西洋式で再建する、世代を超えた快挙も。
〔参照(後半):
――当時の長崎を描いた、ある絵図を見ました…
異国船に対する警備に、諫早家の活躍が確認できるようです。私が目にしたのは、1846(弘化三)年の絵図。三艘のフランス船が長崎に現れています。
…ペリー来航の7年ほど前。佐賀藩は海上に船を並べ、身を挺してフランス船が長崎市中に進入するのを阻止していたようです。
国際都市・長崎での外国とのトラブルは国の危機にもつながる恐れがありました。諫早の佐賀藩士たちも、神経を遣って警備にあたったと思うのです。
――長崎警護で重要な役割を果たした“諫早領”。
異国船の脅威が迫れば、長崎に近い立地で初動に対応し、佐賀本藩に急を知らせる役回り。まるで日本の海を守る“安全装置”のようです。
…地元・諫早の高校生が調べた資料にも、異国船に備えた“諫早の先人”の姿を見かけました。
先ほどの絵図の説明文には、諫早領をはじめ、武雄領、深堀(長崎)領といった佐賀藩の各地域から海上警備に集結しています。
――来年の開業を控えた“西九州新幹線”。
その沿線である、諫早・長崎の佐賀藩士たちが、最前線で「日本の表玄関」を守っていたこと。“本編”の第1部では、強調するチャンスを逃しています。
佐賀藩士(?)の後輩として、諫早領の“先輩方”の頑張りを表現しそこなうのは不本意なので、また、何か考えたいところです。
…諫早駅。佐賀へと続く「多良海道」。北を見れば大村。西へ進めば長崎。東に入れば島原。“西洋の風”を感じる分岐点。あふれる浪漫が感じられそうです。
2021年05月23日
「鞍馬天狗は、長崎の人?」〔新大村駅〕
こんにちは。
来年秋に開業予定の西九州新幹線。沿線の魅力を“先取り”して語るシリーズ。今回から舞台が佐賀県から長崎県に移り、新たな視点を加えていきます。
幕末を舞台とした時代劇として知られる「鞍馬天狗」。もともとは、幕末期に興味が薄かった私は、“古い物語”だと思っていました。
――まず語りたいのは、NHKの木曜時代劇「鞍馬天狗」。
たしか十年以上前の作品だったと思いますが、狂言師・野村萬斎さんが主演。満月の高く上がる夜、白馬にまたがり駆け付ける覆面の剣士・鞍馬天狗。
愛馬の背に立ち、高く見下ろす目前に抜刀した侍たちが十数名ばかりか。揃いの羽織は、彼らが新選組の隊士であることを示しています。
野村萬斎版の「鞍馬天狗」は、公家の出身ながら幼少期から鞍馬の山に隠れ、剣の達人になっています。この辺りは映像化作品ごとに設定が異なるようです。
――新選組は不審な若侍(女性剣士)を追い、斬ろうとします。
頭巾で正体を隠した鞍馬天狗。馬上から新選組隊士たちに言い放ちます。
「その者に手を出すな…と言っても、聞く耳を持つまい。」
いきなり現れた覆面の剣士の言うことに、新選組が応じるわけはありません。
「…ならば、お相手するしかあるまい。」
覆面を通じて発する声は低くこもって、それでいて周囲から響くような演出。

――「問答無用!」と、天狗の足元へ斬りかかる新選組隊士。
ひょうと白馬から飛ぶ鞍馬天狗。取り囲む新選組と適度に間合いを取り、地上に降り立ちます。ここまでの雰囲気が、なんだかハリウッド映画っぽい。
…実は『バットマン』を意識したダークヒーローとして表現されたとか。
ドラマの構成で新選組はかなり横暴ですが、この辺は市中警備の仕事。しかも逃げる側(京野ことみさん演じる、白菊姫)が追われて当然の行動をしてたり…
――多数で襲い掛かる、新選組に応じて
あざやかな剣さばきを見せ、次々に返り討ちにする鞍馬天狗。すごくカッコいいけど、冷静に見ると…幕末の“正義”を語るのは難しい。
長い前振りでしたが、このドラマをベースに「鞍馬天狗」の条件を考えてみます。
※なお、原作小説の鞍馬天狗のモデルは諸説あるようで、以下はドラマ版への個人的な考察です。
①長州藩士・桂小五郎と親しく、活動の手助けをする遊撃の剣士。
②新選組局長・近藤勇と敵対するが、互いの力を認める絆がある。
➂もとは第三者的な立場だが、自身の判断で志士たちに味方する。
…そして、幕末期に上記の3つの条件を満たす剣士がいたようです。

――肥前 大村藩(現・長崎県大村市)の剣士・渡邉昇(わたなべ のぼり)。
大村藩士の渡邉昇は江戸に来た時に、神道無念流・練兵館道場で剣の修業を行ったといいます。
・渡邉は腕が立ち、当時の塾頭・桂小五郎とは双璧と呼ばれたそうです(①)
・桂から塾頭を引き継ぐ渡邉昇。天然理心流・近藤勇とも知り合います(②)
近藤の運営する“試衛館”に道場破りが来た時、渡邉昇が加勢したという話も。「重い木刀で鍛える」近藤の流派。竹刀の試合は苦手だった?…と想像します。
――幕末の動乱は進み、京の都では斬り合いが多発。
渡邉昇は尊攘志士側で倒幕派のために刀を振るうことに(③) 義理堅い人なのか新選組・近藤勇は、敵側で過激な行動に走る渡邉に忠告を試みたようです。
幕府方から凄腕の剣客と恐れられた、渡邉昇。後年「正面から戦った相手には思うところは無いが、不意打ちを行った際の悔恨が残る」ように語ったそうです。
しかし渡邉らが突き進んだことで、大村藩は倒幕に積極的な立場となりました。
もともとの石高は2万7千石で大きい藩ではありませんが、存在感を示します。

――時代の転換点には、様々な人が関わっています。
土佐の脱藩浪士・坂本龍馬を長州藩に紹介したのは、この渡邉昇だと言われます。言い換えれば“薩長同盟”への線路をつないだ人なのかもしれません。
そして、この渡邉昇の兄・渡邉清も、鳥羽伏見の戦いの時に、幕府方からの挟み撃ちを封じる活躍をして、江戸開城前の西郷隆盛・勝海舟の会談に同席。
“明治維新”への主導権争いに、地味ながら決定的な役割のあった渡邉兄弟。ちなみに兄・渡邉清は、佐賀市内にも銅像がある“石井筆子”の父親です。
〔参照:「私の失策とイルミネーションのご夫婦(後編)」〕
――とても熱く幕末に関わった、大村藩。
明治新政府でも要職に就く渡邉昇。のちに“剣道”の普及に情熱を注ぎます。
渡邉昇が試合をした中に、明治期の佐賀(小城)の剣士・辻真平という人物がいたようです。“本編”第2部につながる、佐賀の剣術を語るのは次の機会に。
…新大村駅。長崎空港に近い立地の新駅。キリシタン大名からの文化、花の名所である海の城(玖島城)もあり、ぜひ市街地にも足を延ばしたいところです。
来年秋に開業予定の西九州新幹線。沿線の魅力を“先取り”して語るシリーズ。今回から舞台が佐賀県から長崎県に移り、新たな視点を加えていきます。
幕末を舞台とした時代劇として知られる「鞍馬天狗」。もともとは、幕末期に興味が薄かった私は、“古い物語”だと思っていました。
――まず語りたいのは、NHKの木曜時代劇「鞍馬天狗」。
たしか十年以上前の作品だったと思いますが、狂言師・野村萬斎さんが主演。満月の高く上がる夜、白馬にまたがり駆け付ける覆面の剣士・鞍馬天狗。
愛馬の背に立ち、高く見下ろす目前に抜刀した侍たちが十数名ばかりか。揃いの羽織は、彼らが新選組の隊士であることを示しています。
野村萬斎版の「鞍馬天狗」は、公家の出身ながら幼少期から鞍馬の山に隠れ、剣の達人になっています。この辺りは映像化作品ごとに設定が異なるようです。
――新選組は不審な若侍(女性剣士)を追い、斬ろうとします。
頭巾で正体を隠した鞍馬天狗。馬上から新選組隊士たちに言い放ちます。
「その者に手を出すな…と言っても、聞く耳を持つまい。」
いきなり現れた覆面の剣士の言うことに、新選組が応じるわけはありません。
「…ならば、お相手するしかあるまい。」
覆面を通じて発する声は低くこもって、それでいて周囲から響くような演出。
――「問答無用!」と、天狗の足元へ斬りかかる新選組隊士。
ひょうと白馬から飛ぶ鞍馬天狗。取り囲む新選組と適度に間合いを取り、地上に降り立ちます。ここまでの雰囲気が、なんだかハリウッド映画っぽい。
…実は『バットマン』を意識したダークヒーローとして表現されたとか。
ドラマの構成で新選組はかなり横暴ですが、この辺は市中警備の仕事。しかも逃げる側(京野ことみさん演じる、白菊姫)が追われて当然の行動をしてたり…
――多数で襲い掛かる、新選組に応じて
あざやかな剣さばきを見せ、次々に返り討ちにする鞍馬天狗。すごくカッコいいけど、冷静に見ると…幕末の“正義”を語るのは難しい。
長い前振りでしたが、このドラマをベースに「鞍馬天狗」の条件を考えてみます。
※なお、原作小説の鞍馬天狗のモデルは諸説あるようで、以下はドラマ版への個人的な考察です。
①長州藩士・桂小五郎と親しく、活動の手助けをする遊撃の剣士。
②新選組局長・近藤勇と敵対するが、互いの力を認める絆がある。
➂もとは第三者的な立場だが、自身の判断で志士たちに味方する。
…そして、幕末期に上記の3つの条件を満たす剣士がいたようです。
――肥前 大村藩(現・長崎県大村市)の剣士・渡邉昇(わたなべ のぼり)。
大村藩士の渡邉昇は江戸に来た時に、神道無念流・練兵館道場で剣の修業を行ったといいます。
・渡邉は腕が立ち、当時の塾頭・桂小五郎とは双璧と呼ばれたそうです(①)
・桂から塾頭を引き継ぐ渡邉昇。天然理心流・近藤勇とも知り合います(②)
近藤の運営する“試衛館”に道場破りが来た時、渡邉昇が加勢したという話も。「重い木刀で鍛える」近藤の流派。竹刀の試合は苦手だった?…と想像します。
――幕末の動乱は進み、京の都では斬り合いが多発。
渡邉昇は尊攘志士側で倒幕派のために刀を振るうことに(③) 義理堅い人なのか新選組・近藤勇は、敵側で過激な行動に走る渡邉に忠告を試みたようです。
幕府方から凄腕の剣客と恐れられた、渡邉昇。後年「正面から戦った相手には思うところは無いが、不意打ちを行った際の悔恨が残る」ように語ったそうです。
しかし渡邉らが突き進んだことで、大村藩は倒幕に積極的な立場となりました。
もともとの石高は2万7千石で大きい藩ではありませんが、存在感を示します。
――時代の転換点には、様々な人が関わっています。
土佐の脱藩浪士・坂本龍馬を長州藩に紹介したのは、この渡邉昇だと言われます。言い換えれば“薩長同盟”への線路をつないだ人なのかもしれません。
そして、この渡邉昇の兄・渡邉清も、鳥羽伏見の戦いの時に、幕府方からの挟み撃ちを封じる活躍をして、江戸開城前の西郷隆盛・勝海舟の会談に同席。
“明治維新”への主導権争いに、地味ながら決定的な役割のあった渡邉兄弟。ちなみに兄・渡邉清は、佐賀市内にも銅像がある“石井筆子”の父親です。
〔参照:
――とても熱く幕末に関わった、大村藩。
明治新政府でも要職に就く渡邉昇。のちに“剣道”の普及に情熱を注ぎます。
渡邉昇が試合をした中に、明治期の佐賀(小城)の剣士・辻真平という人物がいたようです。“本編”第2部につながる、佐賀の剣術を語るのは次の機会に。
…新大村駅。長崎空港に近い立地の新駅。キリシタン大名からの文化、花の名所である海の城(玖島城)もあり、ぜひ市街地にも足を延ばしたいところです。
2021年05月21日
「佐賀の忍者、幕末を走る!」〔嬉野温泉駅〕
こんばんは。
2022年秋に開業予定の西九州新幹線を先取りしたうえに、あらゆる手段を講じて「大河ドラマ」のイメージと結び付け…
今のままの姿でも佐賀・長崎を潤す“ドル箱路線”(!)になってほしい…という、私の想いの入った、この企画。
――長崎に向かう路線。次なる停車駅は「嬉野温泉駅」。
「“タケオ”に続いて、また温泉か!なんて癒される路線だ!」
…まるで洋画の吹き替え版のように、オーバーな感じでお読みください。
そして、本日のテーマは「忍者」。
欧米をはじめ、海外でも人気のコンテンツ(情報の内容)です。
――ところで、なぜ嬉野(ウレシノ)で“忍者”なのか…
私の書いた「幕末佐賀藩の大河ドラマ」のイメージである“本編”を引き合いに出して、ご紹介します。
幕末期。次々に日本に押し寄せる欧米列強。国際都市・長崎は、外国との交渉窓口になることも多くありました。
…そこで、密かにイギリス船の動向を探る1人の“忍者”の姿。

――それが幕末の佐賀藩(蓮池支藩)の忍者・古賀源太夫。
佐賀藩の支藩の1つである“蓮池藩”。本拠地は佐賀市内(蓮池)ですが、主な領地は現在の佐賀県西部。嬉野辺りに広い土地を持っていました。
それが、この人物を「嬉野の忍者」と呼ぶ理由です。
――ここからが、私の想像力の激しいところ。
一応「大河ドラマ」を目指したイメージを語るので、今までにも明らかに“史実”と違うことがわかってボツにした話もあります。
真の“歴史ファン”からすると当然かもしれませんが、いろいろな佐賀の物語も作っていきたい私は、その展開になると悔しいのですね。
「どうしても“忍者”ぐらいは自由に書きたい!」という想いを持ちました。
――こうして誕生したのが、史実の人物をモデルとする「嬉野の忍者」。
ウェブで調べると、若いイケメンの「古賀源太夫」のイラストも見かけましたが、ここは我慢。キャラクター設定は佐賀言葉が強めの“中年の忍者”になりました。
…史実の古賀源太夫と同一人物とは言い切れず、「嬉野の忍者(蓮池藩士)・古賀」として登場します。
初登場の場面は“史実”に近い描き方で、長崎に停泊するイギリス船の偵察。何故だかネコの手を借りて、英国水兵たちをけむに巻く、“嬉野の忍者”。
〔参照:第14話「遣米使節」③(嬉野から来た忍び)〕
――さすが忍者、書いてて楽しい!
「忍者の足跡が完全にわかるとは考えにくい」と割り切り、ここでは出典が不確かな情報も使用。ややフィクションに寄りますが、次々と登場の機会が生じます。
〔参照:「史実と創作の狭間で…」〕
古賀源太夫は、佐賀藩の“火術方”(大砲関連の部署)と関わったと聞くや、
この部署で就職する江藤新平が通り、忍者・古賀と関わる話を書いています。
〔参照:第14話「遣米使節」⑤(火術方への“就活”)〕

――もっと、佐賀の各地域を活かした話が書きたい!
忍者は、私のそんな願いも叶えてくれます。
舞台は、現在の嬉野市にある“塩田宿”。川の港として栄えたといいます。ここでは、長崎街道を往来する佐野常民と、古賀との雑談も描きました。
そこで、佐野にあるアイデアが浮かぶ話。世界文化遺産の三重津海軍所跡にある“ドライドック”は有明海の干満差を活かしています。
〔参照:第14話「遣米使節」④(長崎街道の往来)〕
…ネコを可愛がっては驚くという忍者らしくない展開を繰り返す古賀。佐賀藩の秘密を守って影で戦う、忍者らしい姿も描いているので紹介しておきますね。
〔参照:第14話「遣米使節」⑨(聞かれては困る話)〕
――忍者の任務は、主に「情報収集」でもあります。
表向きはネコ好きの“おじさん”。裏では西洋の事情にも通じる忍者。紹介した記事は“創作の要素”が強い話ですが、佐賀の忍者を推す理由はあるのです。
さて、嬉野に「佐賀元祖忍者村 肥前夢街道」というテーマパークがあります。お子様だけでなく年配の人でも、楽しめるらしいですよ。
でも、「肩が上がらない…」とか弱音も出るご年配の忍者は、無理して手裏剣は打たずに、見物に勤(いそ)しんでください。
――私が「古賀源太夫」という人物を知ったのは、ある新聞記事。
嬉野市がこのテーマパークと協力して「佐賀に居た、歴史上の忍者」について調べた経過があったらしいのです。
専門研究者が集まる学会で、古賀源太夫を含む、様々な年代の3人の人物が「忍者である」と認定されたようです。

――幕末期。佐賀に目立った動きは少なくとも…
あるテレビ番組。歴史学者の磯田道史さんが幕末期の調べ物について、このような“後悔”の言葉を語っていた記憶があります。
「最初から佐賀に行けば良かった、探していた情報が全部あったのに…」と。
佐賀の歴史の本を読むと、各地で調査にあたる佐賀藩士を見かけます。情報収集こそが忍者の使命ならば、意外と“佐賀の忍者”は多いのかもしれません。
――広大な茶畑と“美肌の湯”だけではなかった嬉野温泉。
他にも、いろいろな魅力が見つかると思います。そんな嬉野温泉に鉄道の新駅。しかも、新幹線の駅が出来ることになるのです!
…嬉野温泉駅。忙しい日々を離れ、湯につかり、茶を飲めば。冷静で集中力に長じた忍者のように、冴えた考えも浮かぶかもしれません。
2022年秋に開業予定の西九州新幹線を先取りしたうえに、あらゆる手段を講じて「大河ドラマ」のイメージと結び付け…
今のままの姿でも佐賀・長崎を潤す“ドル箱路線”(!)になってほしい…という、私の想いの入った、この企画。
――長崎に向かう路線。次なる停車駅は「嬉野温泉駅」。
「“タケオ”に続いて、また温泉か!なんて癒される路線だ!」
…まるで洋画の吹き替え版のように、オーバーな感じでお読みください。
そして、本日のテーマは「忍者」。
欧米をはじめ、海外でも人気のコンテンツ(情報の内容)です。
――ところで、なぜ嬉野(ウレシノ)で“忍者”なのか…
私の書いた「幕末佐賀藩の大河ドラマ」のイメージである“本編”を引き合いに出して、ご紹介します。
幕末期。次々に日本に押し寄せる欧米列強。国際都市・長崎は、外国との交渉窓口になることも多くありました。
…そこで、密かにイギリス船の動向を探る1人の“忍者”の姿。
――それが幕末の佐賀藩(蓮池支藩)の忍者・古賀源太夫。
佐賀藩の支藩の1つである“蓮池藩”。本拠地は佐賀市内(蓮池)ですが、主な領地は現在の佐賀県西部。嬉野辺りに広い土地を持っていました。
それが、この人物を「嬉野の忍者」と呼ぶ理由です。
――ここからが、私の想像力の激しいところ。
一応「大河ドラマ」を目指したイメージを語るので、今までにも明らかに“史実”と違うことがわかってボツにした話もあります。
真の“歴史ファン”からすると当然かもしれませんが、いろいろな佐賀の物語も作っていきたい私は、その展開になると悔しいのですね。
「どうしても“忍者”ぐらいは自由に書きたい!」という想いを持ちました。
――こうして誕生したのが、史実の人物をモデルとする「嬉野の忍者」。
ウェブで調べると、若いイケメンの「古賀源太夫」のイラストも見かけましたが、ここは我慢。キャラクター設定は佐賀言葉が強めの“中年の忍者”になりました。
…史実の古賀源太夫と同一人物とは言い切れず、「嬉野の忍者(蓮池藩士)・古賀」として登場します。
初登場の場面は“史実”に近い描き方で、長崎に停泊するイギリス船の偵察。何故だかネコの手を借りて、英国水兵たちをけむに巻く、“嬉野の忍者”。
〔参照:
――さすが忍者、書いてて楽しい!
「忍者の足跡が完全にわかるとは考えにくい」と割り切り、ここでは出典が不確かな情報も使用。ややフィクションに寄りますが、次々と登場の機会が生じます。
〔参照:
古賀源太夫は、佐賀藩の“火術方”(大砲関連の部署)と関わったと聞くや、
この部署で就職する江藤新平が通り、忍者・古賀と関わる話を書いています。
〔参照:
――もっと、佐賀の各地域を活かした話が書きたい!
忍者は、私のそんな願いも叶えてくれます。
舞台は、現在の嬉野市にある“塩田宿”。川の港として栄えたといいます。ここでは、長崎街道を往来する佐野常民と、古賀との雑談も描きました。
そこで、佐野にあるアイデアが浮かぶ話。世界文化遺産の三重津海軍所跡にある“ドライドック”は有明海の干満差を活かしています。
〔参照:
…ネコを可愛がっては驚くという忍者らしくない展開を繰り返す古賀。佐賀藩の秘密を守って影で戦う、忍者らしい姿も描いているので紹介しておきますね。
〔参照:
――忍者の任務は、主に「情報収集」でもあります。
表向きはネコ好きの“おじさん”。裏では西洋の事情にも通じる忍者。紹介した記事は“創作の要素”が強い話ですが、佐賀の忍者を推す理由はあるのです。
さて、嬉野に「佐賀元祖忍者村 肥前夢街道」というテーマパークがあります。お子様だけでなく年配の人でも、楽しめるらしいですよ。
でも、「肩が上がらない…」とか弱音も出るご年配の忍者は、無理して手裏剣は打たずに、見物に勤(いそ)しんでください。
――私が「古賀源太夫」という人物を知ったのは、ある新聞記事。
嬉野市がこのテーマパークと協力して「佐賀に居た、歴史上の忍者」について調べた経過があったらしいのです。
専門研究者が集まる学会で、古賀源太夫を含む、様々な年代の3人の人物が「忍者である」と認定されたようです。
――幕末期。佐賀に目立った動きは少なくとも…
あるテレビ番組。歴史学者の磯田道史さんが幕末期の調べ物について、このような“後悔”の言葉を語っていた記憶があります。
「最初から佐賀に行けば良かった、探していた情報が全部あったのに…」と。
佐賀の歴史の本を読むと、各地で調査にあたる佐賀藩士を見かけます。情報収集こそが忍者の使命ならば、意外と“佐賀の忍者”は多いのかもしれません。
――広大な茶畑と“美肌の湯”だけではなかった嬉野温泉。
他にも、いろいろな魅力が見つかると思います。そんな嬉野温泉に鉄道の新駅。しかも、新幹線の駅が出来ることになるのです!
…嬉野温泉駅。忙しい日々を離れ、湯につかり、茶を飲めば。冷静で集中力に長じた忍者のように、冴えた考えも浮かぶかもしれません。
2021年05月18日
「多くの仕事を成し遂げた者」〔武雄温泉駅〕
こんばんは。
西九州新幹線の開業後は、長崎方面への“乗り換え駅”となる武雄温泉駅。
今のところ、この新幹線の停車予定は5駅。
武雄温泉駅-嬉野温泉駅-新大村駅-諫早駅-長崎駅と聞いております!
…これは、2022年秋の開業が楽しみになってきましたね。

――まず、佐賀県の武雄と言えば…
歴史と伝統の武雄温泉ですね。一方で、どことなく西洋の風が吹き込んでいるモダンな感じもします。
…そして最近、疲れ気味の私も“武雄の湯”で癒されたい。
新型コロナが抑え込めたら、西九州新幹線に乗られるつもりの皆様。
ホームで乗り換えるだけでは勿体ないです、ぜひ武雄で下車しましょう!
――私が、「佐賀の大河ドラマ」で武雄について語る時…
以前から、当ブログをお読みの方は予想が付くことでしょう。
「日本の近代化を先導した佐賀藩を、さらに先導した武雄領。」
蘭癖(西洋かぶれ)でお馴染みの、武雄のご領主(ご隠居)・鍋島茂義さま。
佐賀藩の自治領の1つ・武雄のご領主だったのですが、当初から凄い存在感を発揮。“本編”第1部の序盤。茂義さまの登場場面には、特に力が入りました。

――第2話「算盤大名」からご登場いただいた、茂義さま。
第1話「長崎警護」(1808年~)の開始時に誕生していた数少ない登場人物。1800年生まれ。現代の小学生くらいの年齢でフェートン号事件を知ったはず。
幕末期。佐賀の“西洋化”を引っ張ったのは、武雄の“蘭学兄貴”だったと言って良いでしょう。
ちなみに佐賀本藩の殿様・鍋島直正から見ると姉の夫(義兄)なので、当ブログでは“兄貴”と呼ばせていただいております。
〔参照:第2話「算盤大名」②-1〕※この話に登場する藩主・斉直さまは、鍋島直正の父です。
――のちに殿・直正(実は江戸期には斉正というお名前)は…
何かと蒸気船に乗っていますが、どう見ても義兄・茂義さまの影響に見えます。
まるで、親戚のお兄さんがカッコ良くバイクに乗っているのに憧れる少年のよう。私はこの2人の関係性を、そんな感覚で捉えています。

――そして、ついに殿・直正に、“蘭学兄貴”との別れの時が…
鍋島茂義さまも当時としては高齢となりました。史実では、そろそろ書かねばならないようです。でも“ナレーション”だけで退場のような扱いにはしたくなくて…
武雄市の方はご存じかもしれない言葉。以前にも当ブログでは語ったのですが、何度でも。
――茂義さまの銅像の台座にはこんな一言が刻まれます。
「人間は一生の中に 多くの仕事を成し遂げた者が 長生きしたのである」
いざ佐賀藩のこととなると、やたら涙もろい私。このセリフだけで泣きそうです。
いつか茂義さまが集めていた“蘭学コレクション”を、武雄まで見に行きたい!

――幕末から明治へ。次の時代にも武雄が激動の時代に関わった証拠が。
明治維新150周年の2018年。東北三大祭りの1つが武雄で見られました。秋田の「竿燈まつり」が、佐賀までお越しいただいた時の写真です。
この画像だけを見て、早くも私が言いたいことがわかった方へ。「貴方も佐賀の夜明けば目指して、走るべき人ではなかね!?」という言葉を送ってみます。
佐賀にとって武雄にとって。その応援を受けて一緒に戦った秋田にとっても。本当は“不本意”だったかもしれない戦いの歴史がつないだ縁があったようです。
…武雄温泉駅。日本近代化の息吹を感じる、入口になるかもしれませんね。
西九州新幹線の開業後は、長崎方面への“乗り換え駅”となる武雄温泉駅。
今のところ、この新幹線の停車予定は5駅。
武雄温泉駅-嬉野温泉駅-新大村駅-諫早駅-長崎駅と聞いております!
…これは、2022年秋の開業が楽しみになってきましたね。
――まず、佐賀県の武雄と言えば…
歴史と伝統の武雄温泉ですね。一方で、どことなく西洋の風が吹き込んでいるモダンな感じもします。
…そして最近、疲れ気味の私も“武雄の湯”で癒されたい。
新型コロナが抑え込めたら、西九州新幹線に乗られるつもりの皆様。
ホームで乗り換えるだけでは勿体ないです、ぜひ武雄で下車しましょう!
――私が、「佐賀の大河ドラマ」で武雄について語る時…
以前から、当ブログをお読みの方は予想が付くことでしょう。
「日本の近代化を先導した佐賀藩を、さらに先導した武雄領。」
蘭癖(西洋かぶれ)でお馴染みの、武雄のご領主(ご隠居)・鍋島茂義さま。
佐賀藩の自治領の1つ・武雄のご領主だったのですが、当初から凄い存在感を発揮。“本編”第1部の序盤。茂義さまの登場場面には、特に力が入りました。
――第2話「算盤大名」からご登場いただいた、茂義さま。
第1話「長崎警護」(1808年~)の開始時に誕生していた数少ない登場人物。1800年生まれ。現代の小学生くらいの年齢でフェートン号事件を知ったはず。
幕末期。佐賀の“西洋化”を引っ張ったのは、武雄の“蘭学兄貴”だったと言って良いでしょう。
ちなみに佐賀本藩の殿様・鍋島直正から見ると姉の夫(義兄)なので、当ブログでは“兄貴”と呼ばせていただいております。
〔参照:
――のちに殿・直正(実は江戸期には斉正というお名前)は…
何かと蒸気船に乗っていますが、どう見ても義兄・茂義さまの影響に見えます。
まるで、親戚のお兄さんがカッコ良くバイクに乗っているのに憧れる少年のよう。私はこの2人の関係性を、そんな感覚で捉えています。
――そして、ついに殿・直正に、“蘭学兄貴”との別れの時が…
鍋島茂義さまも当時としては高齢となりました。史実では、そろそろ書かねばならないようです。でも“ナレーション”だけで退場のような扱いにはしたくなくて…
武雄市の方はご存じかもしれない言葉。以前にも当ブログでは語ったのですが、何度でも。
――茂義さまの銅像の台座にはこんな一言が刻まれます。
「人間は一生の中に 多くの仕事を成し遂げた者が 長生きしたのである」
いざ佐賀藩のこととなると、やたら涙もろい私。このセリフだけで泣きそうです。
いつか茂義さまが集めていた“蘭学コレクション”を、武雄まで見に行きたい!
――幕末から明治へ。次の時代にも武雄が激動の時代に関わった証拠が。
明治維新150周年の2018年。東北三大祭りの1つが武雄で見られました。秋田の「竿燈まつり」が、佐賀までお越しいただいた時の写真です。
この画像だけを見て、早くも私が言いたいことがわかった方へ。「貴方も佐賀の夜明けば目指して、走るべき人ではなかね!?」という言葉を送ってみます。
佐賀にとって武雄にとって。その応援を受けて一緒に戦った秋田にとっても。本当は“不本意”だったかもしれない戦いの歴史がつないだ縁があったようです。
…武雄温泉駅。日本近代化の息吹を感じる、入口になるかもしれませんね。
2021年05月16日
「西九州にほえろ!」
こんばんは。
最近では気温も湿度も上がり、めっきり過ごしづらいと感じる方も多いでしょう。そんな時節にも、当ブログの文章はわりと暑苦しく(?)、恐縮しています。
マスク着用時は熱中症のリスクも高いと聞きます。農作業、草取り、庭の手入れ…体が暑さに慣れていない時期。こまめな水分補給と休憩をお忘れなく。
――早くも“暑中見舞い”のような書き出し。
なかなかクールな文章は書けないようで、今回のシリーズも暑苦しいです。
何がアツいのかと言いますと、最近ネーミングが決まった新幹線の話題。「九州新幹線・西九州ルート」改め「西九州新幹線」とお呼びすれば良いのでしょうか。
開業は2022年秋予定と聞きますので、もう1年と少しですね。その頃には新型コロナの影響が抑え込めていれば良いのですが…
――さて、“西九州新幹線”と言えば、
長崎に向かうには武雄温泉駅ホームでの乗換が必要なリレー方式。博多駅~武雄温泉駅間は特急を利用することになりますね。
佐賀県にとっては難しい問題でもあります。
当初はフリーゲージトレインの前提で、開業を目指したはずが「技術的に困難」となって、通常の新幹線の規格での議論に至ったというのが、私の理解です。
現在でも、佐賀県内を横断する新幹線ルートを通すかどうかは“賛否両論”が飛び交っていることかと思います。
――私は、他地域にいるため…
この件について決定権は持っていません。一方で佐賀藩士(?)を名乗る以上、他地域の人が、この話をどう見ているかは、すごく気になります。
「佐賀が非協力的だから話も進まない!」とか「いや、当初の約束を破られたのは佐賀の方だ。」とか、意外と双方の意見が見受けられます。

――そんな中で、いま私が考えること。
まるで「幕府方に付くのか?薩長の側に立つのか?」と問われた幕末の佐賀藩のように、それでも「どちらに与(くみ)するのだ!」と尋ねられたならば。
私の結論は、当時の佐賀藩と似た感じの考え方かもしれません。「いまはどちらにも与(くみ)しない」そして「他にも為すべきことがある」と答えるでしょう。
新幹線の開通は、観光やビジネスでのアクセスに効果が期待できるとともに、大都市圏に若者が吸収される効力も持つ、いわば“諸刃の剣”。
“負の側面”が強く出るならば、費用対効果を心配する佐賀県だけでなく、直通を待望する長崎県にとっても、プラスに作用しないこともあり得る…と考えます。
――当ブログのテーマに戻ります…
近いうち(数年以内)には「幕末佐賀藩の大河ドラマ」を見たい、私。その時期には「西九州新幹線」は、佐賀県内の駅ホームでの乗り継ぎのままであるはず。
のちに西九州新幹線に県内の横断ルートが入っても、停車する各駅や周辺地域が「都会と綱引きができる」ぐらい「素通りできない場所」になってほしい。
一過性の観光需要だけではなく、持続するブランド力。有為の人材を惹きつけ、その地域の産品も売れる、佐賀の各地域にはそんな力を得てほしいです。
〔参照(終盤):連続ブログ小説「旅立の剣」(17)誇りを取り戻せ〕
…この辺りは、すでに各地域に奮闘する方々の姿があります。そして、私が語るのは、今のところ“願望”であり、“勝ち筋”が見えているわけではありません。
――「では、非力なお前は何をするか?」という問いには…
私は佐賀藩士(?)を名乗りはしますが、それほど腕が立つわけでもなく、例によって“先輩たち”に頼るほかなさそうです。
今回、私が記事にしたいのは“西九州新幹線”が停車予定の5駅。エリアとしてはもちろん長崎県を含みますので、佐賀だけでなく長崎の先人も語りたいです。

※大村藩(長崎県大村市)の殿様、大村純熈の銅像。“本編”第1話では、その父・大村純昌が颯爽と長崎に現れたお姿を書きました。
――現在、第2部で“長崎”をどう描くかで迷っています…
構成の都合上、ひとまず完結した第1部でも、私の見たい「幕末佐賀藩の大河ドラマ」のイメージは、長崎を舞台とした多くの場面が展開します。
第1話のタイトルから「長崎警護」。長崎奉行所や大村藩主が登場するも、後半になるまで主役の佐賀藩が、ほぼ表に出ないという設定で描きました。
〔参照:第1話「長崎警護」⑥-2〕
いろいろと複雑な第2部。油断すると整理するだけに終わって“年表”っぽくなるので、ほぼイチから練り直し中です。
皆様の反応も参考にしながら、進むべき方向を考えていきます。
最近では気温も湿度も上がり、めっきり過ごしづらいと感じる方も多いでしょう。そんな時節にも、当ブログの文章はわりと暑苦しく(?)、恐縮しています。
マスク着用時は熱中症のリスクも高いと聞きます。農作業、草取り、庭の手入れ…体が暑さに慣れていない時期。こまめな水分補給と休憩をお忘れなく。
――早くも“暑中見舞い”のような書き出し。
なかなかクールな文章は書けないようで、今回のシリーズも暑苦しいです。
何がアツいのかと言いますと、最近ネーミングが決まった新幹線の話題。「九州新幹線・西九州ルート」改め「西九州新幹線」とお呼びすれば良いのでしょうか。
開業は2022年秋予定と聞きますので、もう1年と少しですね。その頃には新型コロナの影響が抑え込めていれば良いのですが…
――さて、“西九州新幹線”と言えば、
長崎に向かうには武雄温泉駅ホームでの乗換が必要なリレー方式。博多駅~武雄温泉駅間は特急を利用することになりますね。
佐賀県にとっては難しい問題でもあります。
当初はフリーゲージトレインの前提で、開業を目指したはずが「技術的に困難」となって、通常の新幹線の規格での議論に至ったというのが、私の理解です。
現在でも、佐賀県内を横断する新幹線ルートを通すかどうかは“賛否両論”が飛び交っていることかと思います。
――私は、他地域にいるため…
この件について決定権は持っていません。一方で佐賀藩士(?)を名乗る以上、他地域の人が、この話をどう見ているかは、すごく気になります。
「佐賀が非協力的だから話も進まない!」とか「いや、当初の約束を破られたのは佐賀の方だ。」とか、意外と双方の意見が見受けられます。
――そんな中で、いま私が考えること。
まるで「幕府方に付くのか?薩長の側に立つのか?」と問われた幕末の佐賀藩のように、それでも「どちらに与(くみ)するのだ!」と尋ねられたならば。
私の結論は、当時の佐賀藩と似た感じの考え方かもしれません。「いまはどちらにも与(くみ)しない」そして「他にも為すべきことがある」と答えるでしょう。
新幹線の開通は、観光やビジネスでのアクセスに効果が期待できるとともに、大都市圏に若者が吸収される効力も持つ、いわば“諸刃の剣”。
“負の側面”が強く出るならば、費用対効果を心配する佐賀県だけでなく、直通を待望する長崎県にとっても、プラスに作用しないこともあり得る…と考えます。
――当ブログのテーマに戻ります…
近いうち(数年以内)には「幕末佐賀藩の大河ドラマ」を見たい、私。その時期には「西九州新幹線」は、佐賀県内の駅ホームでの乗り継ぎのままであるはず。
のちに西九州新幹線に県内の横断ルートが入っても、停車する各駅や周辺地域が「都会と綱引きができる」ぐらい「素通りできない場所」になってほしい。
一過性の観光需要だけではなく、持続するブランド力。有為の人材を惹きつけ、その地域の産品も売れる、佐賀の各地域にはそんな力を得てほしいです。
〔参照(終盤):
…この辺りは、すでに各地域に奮闘する方々の姿があります。そして、私が語るのは、今のところ“願望”であり、“勝ち筋”が見えているわけではありません。
――「では、非力なお前は何をするか?」という問いには…
私は佐賀藩士(?)を名乗りはしますが、それほど腕が立つわけでもなく、例によって“先輩たち”に頼るほかなさそうです。
今回、私が記事にしたいのは“西九州新幹線”が停車予定の5駅。エリアとしてはもちろん長崎県を含みますので、佐賀だけでなく長崎の先人も語りたいです。
※大村藩(長崎県大村市)の殿様、大村純熈の銅像。“本編”第1話では、その父・大村純昌が颯爽と長崎に現れたお姿を書きました。
――現在、第2部で“長崎”をどう描くかで迷っています…
構成の都合上、ひとまず完結した第1部でも、私の見たい「幕末佐賀藩の大河ドラマ」のイメージは、長崎を舞台とした多くの場面が展開します。
第1話のタイトルから「長崎警護」。長崎奉行所や大村藩主が登場するも、後半になるまで主役の佐賀藩が、ほぼ表に出ないという設定で描きました。
〔参照:
いろいろと複雑な第2部。油断すると整理するだけに終わって“年表”っぽくなるので、ほぼイチから練り直し中です。
皆様の反応も参考にしながら、進むべき方向を考えていきます。
2021年05月14日
「私の失策とイルミネーションのご夫婦(後編)」
こんばんは。
手元の辞書をひくと、“失策”とは「~しそこなうこと」だそうです。佐賀バルーンミュージアムの前にある、“ご夫婦”の像を撮影しそこなったと気付く私。
――第2部の調べ物を開始して…
佐賀藩と同じ肥前国には、他の藩もあります。ある日、大村藩(長崎県大村市)について書かれたページを見ました。そこで、記憶にあるお名前を見かけます。
「“石井筆子”…、長崎の人だったのか。」
そのお名前には、見覚えがあった。たしか佐賀市内に銅像があった方だ。
――「日本の知的障がい児教育・福祉の先駆者」
そんな説明板のタイトルとともに、石井亮一・筆子の夫妻の像があったはず。
「たしか“旅立の剣”の時に、写真を撮ったかな…」
私がデータを確認した、次の瞬間。
「写真の…無かごたぁ!」
――私の微妙な“佐賀ことば”はさておき、
かろうじて2人の後ろ姿が見られる写真があり、それが前編で紹介した画像。
「しまった…、これでは説明書きも読めん。」
2019年の晩秋「サガ・ライトファンタジー」で大通りが煌めく頃に撮影した写真より。これも偶然の写り込み。拡大はしたものの、やっぱり写りは小さいです。

――だが、光の中に佇む2人。優しい風景。
ご夫婦が優しい目で見つめるのは、知的障がいをもった子供たちだそうです。石井亮一は、“大政奉還”のあった1867(慶応三)年に佐賀に生まれました。
しかし、亮一の幼少期には明治の新時代が始まっていました。佐賀藩の重臣の家系から出て、優秀だった亮一は鍋島家の奨学生として学問を進めたようです。
――まさに“新時代”らしく…
江戸時代には禁じられていたキリスト教の信仰に目覚めた、石井亮一。人間愛を実践するような生き方をします。
明治の濃尾大地震。亮一は、人身売買の手に掛からぬよう震災孤児(女児)を保護。その中に知的障がいを持つ子どもがいたことが、亮一の転機となります。
――当時の日本では知識が得られないので
亮一は渡米し、知的障がいについて研究。ヘレンケラーとも会談したそうです。日本に戻り、活動する石井亮一の前に現れたのが、のちに妻となる筆子でした。
筆子の父は、肥前大村藩士。あの西郷隆盛に信頼され、勝海舟との会談にも同席した、新政府軍の参謀・渡邉(わたなべ)清という人物。
父が明治新政府でも高官になっていたため、娘の筆子も当時には珍しい高等教育を受けた女性です。

――しかし筆子は、最初の夫とは死別…
前夫との間には知的障がいを持つ娘がいました。かつて“鹿鳴館の華”と呼ばれた女性の1人に、大きな試練が与えられていたことは想像に難くありません。
…しかし、のちの夫・石井亮一と知り合ったのは、その娘がつないだ縁でした。
当時の日本で知的障がいへの理解は皆無と言ってよく、亮一の“志”に触れた筆子は救われた想いだったことでしょう。
――やがて夫婦となった2人。
日本初の知的障がい者施設を運営していきます。
それが現在も続く“滝乃川学園”(現・東京都国立市)。明治期、人脈には恵まれていた夫婦ではありますが、経営は非常に苦しいものだったそうです。
――ある時、施設の園児により失火が発生。
その園児は、火の危険性を認識できなかったようです。そして、犠牲者を出した火災事故に、痛切な責任を感じる2人。学園を閉鎖することを考えます。
ここで「石井さんのためなら、私が動こう…」という老人が現れます。それが日本近代資本主義の父と呼ばれる、渋沢栄一。
――すでに80代の渋沢ですが「経営は任せろ!」とばかりに
ここは老いてなお、渋沢。理事長を引受け、学園を近代的な法人経営とします。石井亮一の負担を減らし、学園長として教育に専念できるよう動いたようです。
この行動はカッコいい。吉沢亮さんが演じれば、“映える”場面だと思います。
――これは、大河ドラマ『青天を衝け』でも…
渋沢栄一の晩年には、石井夫妻も登場するのでは?と思わせる展開。ちなみに渋沢は91歳で他界するまで、理事長を務めていたようです。
こうして、私が知った「大河ドラマ」の主人公も動かす“大きな愛”の話。銅像の写真を撮りそこなった“失策”は、次につながる一歩になったのかもしれません。
手元の辞書をひくと、“失策”とは「~しそこなうこと」だそうです。佐賀バルーンミュージアムの前にある、“ご夫婦”の像を撮影しそこなったと気付く私。
――第2部の調べ物を開始して…
佐賀藩と同じ肥前国には、他の藩もあります。ある日、大村藩(長崎県大村市)について書かれたページを見ました。そこで、記憶にあるお名前を見かけます。
「“石井筆子”…、長崎の人だったのか。」
そのお名前には、見覚えがあった。たしか佐賀市内に銅像があった方だ。
――「日本の知的障がい児教育・福祉の先駆者」
そんな説明板のタイトルとともに、石井亮一・筆子の夫妻の像があったはず。
「たしか“旅立の剣”の時に、写真を撮ったかな…」
私がデータを確認した、次の瞬間。
「写真の…無かごたぁ!」
――私の微妙な“佐賀ことば”はさておき、
かろうじて2人の後ろ姿が見られる写真があり、それが前編で紹介した画像。
「しまった…、これでは説明書きも読めん。」
2019年の晩秋「サガ・ライトファンタジー」で大通りが煌めく頃に撮影した写真より。これも偶然の写り込み。拡大はしたものの、やっぱり写りは小さいです。
――だが、光の中に佇む2人。優しい風景。
ご夫婦が優しい目で見つめるのは、知的障がいをもった子供たちだそうです。石井亮一は、“大政奉還”のあった1867(慶応三)年に佐賀に生まれました。
しかし、亮一の幼少期には明治の新時代が始まっていました。佐賀藩の重臣の家系から出て、優秀だった亮一は鍋島家の奨学生として学問を進めたようです。
――まさに“新時代”らしく…
江戸時代には禁じられていたキリスト教の信仰に目覚めた、石井亮一。人間愛を実践するような生き方をします。
明治の濃尾大地震。亮一は、人身売買の手に掛からぬよう震災孤児(女児)を保護。その中に知的障がいを持つ子どもがいたことが、亮一の転機となります。
――当時の日本では知識が得られないので
亮一は渡米し、知的障がいについて研究。ヘレンケラーとも会談したそうです。日本に戻り、活動する石井亮一の前に現れたのが、のちに妻となる筆子でした。
筆子の父は、肥前大村藩士。あの西郷隆盛に信頼され、勝海舟との会談にも同席した、新政府軍の参謀・渡邉(わたなべ)清という人物。
父が明治新政府でも高官になっていたため、娘の筆子も当時には珍しい高等教育を受けた女性です。
――しかし筆子は、最初の夫とは死別…
前夫との間には知的障がいを持つ娘がいました。かつて“鹿鳴館の華”と呼ばれた女性の1人に、大きな試練が与えられていたことは想像に難くありません。
…しかし、のちの夫・石井亮一と知り合ったのは、その娘がつないだ縁でした。
当時の日本で知的障がいへの理解は皆無と言ってよく、亮一の“志”に触れた筆子は救われた想いだったことでしょう。
――やがて夫婦となった2人。
日本初の知的障がい者施設を運営していきます。
それが現在も続く“滝乃川学園”(現・東京都国立市)。明治期、人脈には恵まれていた夫婦ではありますが、経営は非常に苦しいものだったそうです。
――ある時、施設の園児により失火が発生。
その園児は、火の危険性を認識できなかったようです。そして、犠牲者を出した火災事故に、痛切な責任を感じる2人。学園を閉鎖することを考えます。
ここで「石井さんのためなら、私が動こう…」という老人が現れます。それが日本近代資本主義の父と呼ばれる、渋沢栄一。
――すでに80代の渋沢ですが「経営は任せろ!」とばかりに
ここは老いてなお、渋沢。理事長を引受け、学園を近代的な法人経営とします。石井亮一の負担を減らし、学園長として教育に専念できるよう動いたようです。
この行動はカッコいい。吉沢亮さんが演じれば、“映える”場面だと思います。
――これは、大河ドラマ『青天を衝け』でも…
渋沢栄一の晩年には、石井夫妻も登場するのでは?と思わせる展開。ちなみに渋沢は91歳で他界するまで、理事長を務めていたようです。
こうして、私が知った「大河ドラマ」の主人公も動かす“大きな愛”の話。銅像の写真を撮りそこなった“失策”は、次につながる一歩になったのかもしれません。
2021年05月11日
「私の失策とイルミネーションのご夫婦(前編)」
こんばんは。
前回までの連続ブログ小説「旅立の剣」をご覧いただいた皆様。ありがとうございました。
普通の方なら“日記”とするところ。わずか1泊2日の行程で、40話も投稿しました。いま、コロナ禍で佐賀に帰れない悔しさもにじみ出ていたと思います。
――裏を返せば、私の日常には、それだけ記事のネタが無い!
「さがファンブログ」で毎日のように投稿されたり、1回の記事ごとに仕上がった作品や努力の姿を見せてくださる皆様。
私は、こう思っています。
「この人たちは、何と充実した日々を送っているんだ…」
一方で、私が記事を楽しみにしているけど、なかなか投稿が進まない皆様にも。佐賀の各地域から届く風を…待っております。
――充実している、していないに関わらず、ブログをご覧の皆様へ。
差し支えなければ、今日は、私の愚痴にお付き合いください。日々の仕事をしていると、やはりストレスというものは不可避のようでして。
苦境に陥るたびに、いつも心の中でこう叫んでいます。
「私は“佐賀藩士”だから我慢できるけど、もし“佐賀藩士”でなければ我慢できなかった!…(?)」と。
元ネタは大ヒットしたアニメ『鬼滅の刃』からです。同作品の主人公は“長男”だから、苦難に耐えられるそうです。うむ、それだけでは頑張れないかも。
――もちろん、大河ドラマ『青天を衝け』も毎週見ていますが、
ここでも愚痴です。佐賀藩士たちの登場予定が、まだ見えて来ません。
ちなみに、この日曜に登場していた、水戸藩士・原市之進〔演:尾上寛之さん〕
幕末期に、徳川慶喜の参謀だった人なのですが…
私が反応するポイントは
「大河ドラマ『西郷どん』で大隈重信役だった俳優さんだ!」となります。
――しかも、この徳川慶喜公の側近・原市之進さまは…
1867(慶応三)年。徳川慶喜が“大政奉還”を行った年に、大隈重信も京都で活動しました。大隈は原市之進を通じて「大政奉還の進言」をしたようですが…
原さまは、慶喜に進言を通そうと動く大隈を危険と判断したか、佐賀藩へ通報。大隈は佐賀に送り返されます。
そのすぐ後、“大政奉還”の実現は、土佐藩(高知)の功績となりました。
…大隈はこの時“脱藩”の身。佐賀藩のバックアップが無いのは痛かった。
たぶん「青天を衝け」で、この場面が出ることは無いと思います。
大隈役を演じた俳優さんが、大隈を追い返すところ。見たかったです。

――このように(?)語るべきことの少ない、私の日常ですが…
最近、「旅立の剣」の道中で、1つの失策をしていることに気付きました。
上の写真…何も出ませんが、頑張ってご覧ください。画像の左下の方です。
バルーンミュージアムの向かいの歩道から撮りました。よくよく見ると、いかにも仲睦まじい感じの後ろ姿で、2人の銅像が見えませんか?
(後編に続く)
前回までの連続ブログ小説「旅立の剣」をご覧いただいた皆様。ありがとうございました。
普通の方なら“日記”とするところ。わずか1泊2日の行程で、40話も投稿しました。いま、コロナ禍で佐賀に帰れない悔しさもにじみ出ていたと思います。
――裏を返せば、私の日常には、それだけ記事のネタが無い!
「さがファンブログ」で毎日のように投稿されたり、1回の記事ごとに仕上がった作品や努力の姿を見せてくださる皆様。
私は、こう思っています。
「この人たちは、何と充実した日々を送っているんだ…」
一方で、私が記事を楽しみにしているけど、なかなか投稿が進まない皆様にも。佐賀の各地域から届く風を…待っております。
――充実している、していないに関わらず、ブログをご覧の皆様へ。
差し支えなければ、今日は、私の愚痴にお付き合いください。日々の仕事をしていると、やはりストレスというものは不可避のようでして。
苦境に陥るたびに、いつも心の中でこう叫んでいます。
「私は“佐賀藩士”だから我慢できるけど、もし“佐賀藩士”でなければ我慢できなかった!…(?)」と。
元ネタは大ヒットしたアニメ『鬼滅の刃』からです。同作品の主人公は“長男”だから、苦難に耐えられるそうです。うむ、それだけでは頑張れないかも。
――もちろん、大河ドラマ『青天を衝け』も毎週見ていますが、
ここでも愚痴です。佐賀藩士たちの登場予定が、まだ見えて来ません。
ちなみに、この日曜に登場していた、水戸藩士・原市之進〔演:尾上寛之さん〕
幕末期に、徳川慶喜の参謀だった人なのですが…
私が反応するポイントは
「大河ドラマ『西郷どん』で大隈重信役だった俳優さんだ!」となります。
――しかも、この徳川慶喜公の側近・原市之進さまは…
1867(慶応三)年。徳川慶喜が“大政奉還”を行った年に、大隈重信も京都で活動しました。大隈は原市之進を通じて「大政奉還の進言」をしたようですが…
原さまは、慶喜に進言を通そうと動く大隈を危険と判断したか、佐賀藩へ通報。大隈は佐賀に送り返されます。
そのすぐ後、“大政奉還”の実現は、土佐藩(高知)の功績となりました。
…大隈はこの時“脱藩”の身。佐賀藩のバックアップが無いのは痛かった。
たぶん「青天を衝け」で、この場面が出ることは無いと思います。
大隈役を演じた俳優さんが、大隈を追い返すところ。見たかったです。
――このように(?)語るべきことの少ない、私の日常ですが…
最近、「旅立の剣」の道中で、1つの失策をしていることに気付きました。
上の写真…何も出ませんが、頑張ってご覧ください。画像の左下の方です。
バルーンミュージアムの向かいの歩道から撮りました。よくよく見ると、いかにも仲睦まじい感じの後ろ姿で、2人の銅像が見えませんか?
(後編に続く)
2021年05月09日
連続ブログ小説「旅立の剣」(40)いつの日か佐賀で
こんにちは。
長々とお送りしました一昨年の秋の“旅日記”。第3シリーズで完結です。
当初は“息抜き”のつもりで始めましたが、わりと頑張ってしまい、全40話になりました。多少の感慨もあり、連続ブログ小説の最終回として区切りを入れます。
念のためですが、ブログは続きます。そして、このシリーズに関連した記事は、たぶん今後も登場します。企画案は色々とあって、時間と体力との勝負です。
――14:23。佐賀城内を北の堀端に出た。
混雑を避けて、西側の堀沿いを走ってきた私。人通りの少ない小径(こみち)。
このルート選択は正解だったようだ。手元で時刻を見る。
「よし、佐賀駅には充分…間に合いそうだ。」

――息切れはするが、到達感がある。
私は旅の終わりに感じる、一抹の寂しさを打ち消す。
「また、近いうちに来ればいい…」
堀沿いを抜ける風。ここには、お祭りの賑わいは無い。呼吸を整えて、大通りへ戻る道をゆっくり歩き出す。
――14:24。佐賀の県庁や議会が立ち並ぶ一角。
この2日間、あわせて30時間にも満たない滞在だった。
佐賀の街中で、繰り返した動き。パシャリと写真を撮る。
少し胸を張って、やや上向きの角度に撮った、この一枚だ。

――これが、この旅の最後の写真である。
広大な北堀を渡る、大きい橋を行く。中央大通りに面した佐賀の郵便局。その向かいの停留所で、バスを待つことにする。
幕末期。城の北堀の手前には、佐賀の藩校“弘道館”が立地したようだ。
若い佐賀藩士たちが学問に励み、武術で鍛え、飯を食い、議論をぶつけ合い、時には乱闘する…きっと当時の私にはそこまでのイメージは見えていなかった。
――この旅で見た景色は、時間をかけて、私の想像力とつながっていく。
本日は、初の市営バスに乗り込んだ。1日目に一日乗車券を使い、縦横無尽に佐賀の街を走り回ったことが既に懐かしい。
「今回は、これで良かったとするか。」
やっぱり名残惜しいが満足したことにする。佐賀駅に向けて、走り始めるバス。
――ここまでの密度の濃い時間に比べて、
不思議なぐらいに、帰路の記憶は残っていない。そこから50日ほどが過ぎた。私は、このブログを通じて皆様の前で語り始めることにした。
私自身も最近、知ったばかりの故郷・佐賀の偉大さを。そして、幕末の佐賀藩が、現代でこそ広く知られるべき存在であることを。
そして本作は、この一部始終を、ある佐賀藩士(?)の旅立として記すものだ。
〔連続ブログ小説「旅立の剣」 完〕
長々とお送りしました一昨年の秋の“旅日記”。第3シリーズで完結です。
当初は“息抜き”のつもりで始めましたが、わりと頑張ってしまい、全40話になりました。多少の感慨もあり、連続ブログ小説の最終回として区切りを入れます。
念のためですが、ブログは続きます。そして、このシリーズに関連した記事は、たぶん今後も登場します。企画案は色々とあって、時間と体力との勝負です。
――14:23。佐賀城内を北の堀端に出た。
混雑を避けて、西側の堀沿いを走ってきた私。人通りの少ない小径(こみち)。
このルート選択は正解だったようだ。手元で時刻を見る。
「よし、佐賀駅には充分…間に合いそうだ。」
――息切れはするが、到達感がある。
私は旅の終わりに感じる、一抹の寂しさを打ち消す。
「また、近いうちに来ればいい…」
堀沿いを抜ける風。ここには、お祭りの賑わいは無い。呼吸を整えて、大通りへ戻る道をゆっくり歩き出す。
――14:24。佐賀の県庁や議会が立ち並ぶ一角。
この2日間、あわせて30時間にも満たない滞在だった。
佐賀の街中で、繰り返した動き。パシャリと写真を撮る。
少し胸を張って、やや上向きの角度に撮った、この一枚だ。
――これが、この旅の最後の写真である。
広大な北堀を渡る、大きい橋を行く。中央大通りに面した佐賀の郵便局。その向かいの停留所で、バスを待つことにする。
幕末期。城の北堀の手前には、佐賀の藩校“弘道館”が立地したようだ。
若い佐賀藩士たちが学問に励み、武術で鍛え、飯を食い、議論をぶつけ合い、時には乱闘する…きっと当時の私にはそこまでのイメージは見えていなかった。
――この旅で見た景色は、時間をかけて、私の想像力とつながっていく。
本日は、初の市営バスに乗り込んだ。1日目に一日乗車券を使い、縦横無尽に佐賀の街を走り回ったことが既に懐かしい。
「今回は、これで良かったとするか。」
やっぱり名残惜しいが満足したことにする。佐賀駅に向けて、走り始めるバス。
――ここまでの密度の濃い時間に比べて、
不思議なぐらいに、帰路の記憶は残っていない。そこから50日ほどが過ぎた。私は、このブログを通じて皆様の前で語り始めることにした。
私自身も最近、知ったばかりの故郷・佐賀の偉大さを。そして、幕末の佐賀藩が、現代でこそ広く知られるべき存在であることを。
そして本作は、この一部始終を、ある佐賀藩士(?)の旅立として記すものだ。
〔連続ブログ小説「旅立の剣」 完〕
タグ :佐賀