2020年06月30日

「主に基山町民・鳥栖市民の方を対象にしたつぶやき」

こんばんは。
前回は「幕末佐賀と4つの“口”」というタイトルでした。
このテーマを意識しながら、「佐賀県内各地域皆様に向けた“つぶやき”」を試みます。


――初回は“対馬口”の特集です。朝鮮半島への交流ルートとしての長い歴史があります。

ここで、数少ない県外の読者の方に補足なのですが、佐賀県=佐賀藩ではありません。

佐賀県の東端にある基山町。そして隣接する鳥栖市の東部。

江戸時代は、対馬藩領地でした。
長崎県対馬本拠地。対馬府中藩、厳原藩とも呼ばれたようです。



――写真は長崎街道(佐賀市内)です。この道を東に進めば、鳥栖・基山へと続きます。

今のところ“本編”で一番アクセスのあった記事は、殿鍋島直正のお国入りの場面。

鳥栖市東部)の田代(たじろ)宿までは、対馬藩領
殿直正は、ここまでは駕籠に乗って移動したことでしょう。

国境を越え、鳥栖市西部)の轟木(とどろき)宿からは、颯爽と馬に跨ります。
そして、佐賀藩領民たちから万雷の歓声で迎えられる…というお話でした。

また“団にょん”こと島義勇は、まず長崎街道を東上し、蝦夷地への探検に向かっています。
佐賀藩東端から旅立つときには、何を想ったのでしょうか。


――そんな佐賀藩との“国境の街”だった、この地域の名称は“対馬藩・田代領”。

田代領は、離島を本拠地とする対馬藩にとって“台所”。いわば経済の中心としての役回りがあったようです。

対馬藩田代領は、“白蝋(ろう)”などの品質管理徹底していた佐賀藩に比べれば統制が緩やか。
薬種”になる商品作物の売買も、融通がきいたようです。


――長崎街道の田代宿は賑わいのある宿場町。

鳥栖と言えば、交通物流の重要ポイントであることは変わらないようです。
現在でも鳥栖近辺は製薬業が強い地域ですが、“田代の薬”は日本4大売薬の一角を占めたとか。

…ちなみに他の3大売薬は、富山、大和(奈良)、近江(滋賀)のようですね。この3強に並ぶとは、田代の売薬…かなりの実力者です。


――そして、対馬藩田代領も、幕末の動乱に巻き込まれていきます。

江戸時代も「対馬口」として、朝鮮半島との交流拠点だった対馬藩
しかし、日本海上の要衝にある、この対馬諸外国が放っておくわけがありません。

次々に現れる、西洋列強の影。
対馬藩も、佐賀藩大砲を発注するなど、防備を固めていきます。


――1860年代。“本編”では第14話ぐらいで描けるかどうか…

対馬藩は、イギリスロシアの争いに巻き込まれていきます。

ロシア船が、対馬に上陸する非常事態。

佐賀海軍新鋭艦を出動させ、伊万里沖で待機。
幕府ロシアと敵対するイギリスを通じて圧力をかけます。


――もちろん対馬が脅かされれば、田代領の侍たちも黙っていません。

攘夷じゃ!」
夷狄(いてき)ば、追い払わんばならん!」

田代領の侍たちは、対馬に馳せ参じ、ロシア船との戦闘に備えます。ロシア船が退去した後は、攘夷急先鋒長州藩(山口)に接近していきます。

そして、対長同盟対馬長州の同盟)の締結に至ります!


…いかがでしょうか。基山町・鳥栖市(東部)の激動の幕末。

私も調べるまで、全然知りませんでした。九州北部には語られなかった“幕末”が数多くありそうです。

古代の山城・基肄(きい)城が、基山町の名所と聞きます。福岡大野城とともに、大宰府の守りを固める役割があったそうです。
元寇でも最前線に立った、対馬藩の領地だったこともあり、より国を守る気概が強かったのかもしれません…

2018年の「さが幕末維新博覧会」。基山町による「基山の日」というイベントがあったようですが、どちらかと言えば、基山町そのもののPRの色合いが強かったようです。

壮絶な運命を辿った対馬藩田代領の侍たち。少しでも話題になれば良いなと思います。

  


2020年06月29日

「幕末佐賀と4つの“口”」

こんばんは。

今回のタイトルですが、怪奇小説でもSFファンタジー映画でもありません。
…但し、佐賀県歴史に詳しい人ならば、たぶん先の展開推理することができます。


――江戸時代、日本が取った対外政策は“鎖国”と呼ばれます。

そのまま読めば、国を閉ざし、外国との交流を断つということです。

しかし、長崎では、オランダ清国との交易が盛んに行われていました。“鎖国”の例外である“長崎口”です。

※現在の長崎(眼鏡橋)付近


――ここで、気づいた方もいるかもしれません。

4つの“口”?…残る“口”は、あと3つ
当時の日本には、他にも国際交流窓口があった…というお話です。


――では、一気にご紹介します。

長崎口」…幕府直轄。西洋(オランダ)との交易が許された唯一の港

対馬口」…対馬藩(厳原藩)を介して成立する。朝鮮半島との交流ルート。

薩摩口」…薩摩藩が独占する。琉球王国を通じて、清国や世界とも繋がる。

松前口」…松前藩が仕切る、樺太やロシアにも居住域を持つアイヌへの窓口。


――以上、不正確を恐れず、ざっくりとした説明を試みました。

これから何回か「県内各地域の皆様へのつぶやき」を投稿していく予定です。

今回は、あえて幕末“佐賀”というタイトルにしています。
「もう、お見通しばい!こん地域と…あん地域ば、投稿すっとね!」という方もいるかもしれません。

※現在の佐賀県庁付近。

試行錯誤の投稿ですが、該当地域の皆様、温かくお読みいただければ幸いです。


  


2020年06月27日

「発心の剣」

こんにちは。
お読みいただいている皆様、第11話「蝦夷探検」はいかがだったでしょうか。

今年も大雨への心配が尽きないシーズンですね。あらためて自然大きさを感じるのは、こういう時なのかもしれません。


――さて、本日は息抜きに投稿しております「望郷の剣」シリーズです。

帰るに帰れない郷里・佐賀を想いながら、現代の大都市圏で生きる…ある佐賀藩士(?)の物語。

シリーズエピソード・ゼロ(前日譚)にあたる“出会い”を描いてみます。たぶん2~3年前の出来事です。


――「今日の仕事も終わった。いや、終わらせた…」夜の帰路を急ぐ。電車には乗り遅れ、途中からの最終バスも逃した。

日中の強い日差しが、余韻を残している。
アスファルトで固められたような街に、乾いた砂ぼこりが舞う。

大都市圏であれば、人の数は居る。は集まる。むろん情報お金の流れもある。
但し、そこで暮らす人生が、“豊か”であるかは、別の問題だ。


――早く帰って眠りたい。私は時間をかけて歩くのをあきらめ、タクシーを選ぶことが増えていた。

広い道である。何台かのタクシーが直進し、通り過ぎていった。

運転手と目の合った1台が、手前まで寄ってくれる。
「こんばんは。」

簡単な挨拶を交わすと、私は目的地を告げた。

「この道を左に曲がってください。」
とりあえず、少しは早く帰れそうだ。私はホッと一息をついた。


――しばしの沈黙のあと、運転手が口を開く。ドライバーによって個性が出る“タクシー車内の雑談”である。

しかし、今日はいつもと勝手が違う。

急に、ぶしつけな質問が飛んできたのだ。
「兄さん、どこの人ね。」

私の疲れた頭はこう考えた。
「タクシーの呼び止め方が…当地の作法と違ったのか?」と。

おそらくは“出身地”に関する問いだ。まず、こう答えよう。
「生まれは、九州です。」

すると想定以上のトーン(声量)で、さらに質問が来る。
九州どこね!?」


――ここで「佐賀県です」と答えればよいのだが、私には躊躇があった。

それまでの私の人生で、佐賀出身と伝えたときの経験によるが、

「え、何県だって?」→「佐賀県です!」
どこにあるんだ?」→「九州にあります!」

…という展開が多い。あまり芳しくない傾向がある。

この運転手さんの質問だと、その展開に陥る心配はない。
「…出身は、佐賀です。」

そうね!やっぱり、そうね佐賀どこね!?」


――タクシーの運転手さんは、佐賀の出身者だった。そして故郷を離れてから、かなりの歳月が流れていると想像できた。

私に“さがんもん”の気配を感じ取り、積極的な質問に至ったようだ。

彼は「望郷の念」を強く持つ者であったらしい。私が佐賀の出身と知るや、嬉々としている。

特急“かもめ”号シートは、よかたい!」

…それが、佐賀自慢になるのかは定かではない。しかし、喜んで語っている気持ちは良く伝わった。


――日中と違い、夜は空いた道である。目的地にはアッという間に辿り着いた。

私は、タクシーの運転手さんに料金を支払い、礼を述べる。
佐賀の話が、楽しかったと申し添えて。

…家まで少し歩く間に、色々なことを考えた。
私は、わずか二言を発しただけで“佐賀出身”と見抜かれている。


――当時の私に、“佐賀”を意識する機会は、ほとんど無かった。

だが、見る人が見れば、一瞬で“さがんもん”と判るという事実が突き付けられたのである。

これが、運転手さん能力によるものなのか、よほど私が“佐賀”っぽい雰囲気を纏(まと)って生きているのか…これは、今のところ分からない。

ある年配のタクシードライバーの「望郷の想い」。おそらくは、の現在の行動につながっているのである。  


Posted by SR at 18:23 | Comments(4) | 「望郷の剣」シリーズ

2020年06月25日

第11話「蝦夷探検」⑩(“開拓神”の降臨)

こんばんは。

のちに大都市・札幌の基礎を築く島義勇
佐賀で調べを進めると“団にょん”さんと親しまれ、やや“面白い人”扱いに感じます。

しかし、北海道では同じ人が“判官さま”と敬愛されている様子。そのためか佐賀島義勇像は等身大ですが、“北海道神宮”の銅像は4メートルと巨大…のようです。

今回で、その偉大さ片鱗が描ければ良いのですが…


――安政4年(1857年)旧暦5月。

松浦武四郎の手引きで、箱館奉行所の“蝦夷調査”に加わった島義勇(団右衛門)

箱館(函館)から北に向かい、“石狩”地域に足を踏み入れる。


フゥー、フゥー♪
何やら楽し気な歌舞音曲が聞こえる。

寒い“蝦夷地”にも初夏の気配がする。
自然とともに生きる土地の民。“アイヌ”の者たちの祈り舞いである。

松浦どの!ワシも踊りたくなっておる♪」
島義勇は愉快な気分で、松浦武四郎に話しかける。

アイヌの者たちは、自然の全てに感謝を捧げておる。俺は人間はそうあるべきだと思う。」
陽気な“団にょん”に対して、松浦は深いことを語る。


――松浦は幾度もの“蝦夷探検”を経て、アイヌの暮らしに敬意を持っている。

「我々は自然への畏敬の念を捨て、思い上がっているだけではないか…」

「ほうほう…」
丸い目をさらに丸くして、松浦の話に聞き入る“団にょん”。

どの。お主は、やはり変わった男だ。」
「何がじゃ。ワシは至って真面目じゃぞ!」

真っ直ぐな奴め…」
松浦は愉快そうに笑う。



――さらに、石狩周辺の調査は進む。湖のほとり、美しい景色と出会う。

「おおっ、“ピリカ”であるな。」
松浦、清々しい水辺に感銘を受ける。

ピリカ…!?ピリカとは、なんじゃ?」
島義勇、いろいろな話に反応する。
殿鍋島直正の「となり、となって“蝦夷地”を知る!」がスローガンなのだ。

ピリカとはな…美しい!とか素晴らしい!という、アイヌの言葉だ。」
「そうか、このような風情を“ピリカ”と呼ぶのだな!」

こうして“団にょん”は、ピリカという言葉を胸に刻み込む。


――箱館奉行所の一行は、小高い丘に差し掛かった。

ガイドとして同行していた、アイヌの村の者が緊迫した表情をする。
「向こうにヒグマがいる…、皆、近くに揃っているか!」

松浦が列にいない。

「いかん…、先を行く者は、おそらく気づいておらん。」
奉行所の役人が、先行していた2人に気づく。


――その頃、“団にょん”は丘のてっぺんに差し掛かっていた。

「おおっ、これは美しい!このような時には、あの言葉じゃ!」
陽の光の加減で、広い大地の色が移ろう。


ピ-リカ~っ!」
思い切り“ピリカ”を叫んだ“団にょん”。

その刹那、丘の袂(たもと)でビクッと震えた、黒い影があった。ヒグマである。


――島義勇、壮大な心持ちで、右手に大鑓(やり)を携え、左手の掌を高く掲げている。むろんクマには気づいていない。

「ここで走って逃げるのは、命取りじゃ…」
うっかりとした動きはできない。遠目に“団にょん”の様子を見守る奉行所の一同。

アイヌの者は、短刀を構えている。
クマが動けば…隙を見て、死角から突く!」

厳しい環境である“蝦夷地”での暮らし。
自然への畏敬は、自然との苦闘の中で育まれているのだ。


――そして、移ろう陽の光が、島義勇の背を照らし始めた。

クマにとっては逆光になる。
浮かびあがるシルエット(影)は、長く伸びる。

「…どのが大きく見えませぬか!?」
奉行所の役人が、不思議なことを言う。

クマの反応も不自然だ。
を見上げるや、ビクン!としたかと思うと、ゆっくりと背を向けた。
そして、帰るべき場所へと引き返していったのである。

「“団にょん”…何やら神々しいな…」
途中からクマの存在に気づき、事の一部始終を見守っていた、松浦がつぶやく。

「おぉ、松浦どの!何が、あったとね!?」
しかし、丘から戻ってきたのは、いつもの“団にょん”だった。



――島義勇は、石狩を調査中に病を得た。“千歳(ちとせ)”のベースキャンプ(拠点)にて一時療養する。

すでに佐賀を発ってから9か月が過ぎようとしていた。
極寒の東北を経て、蝦夷地に至り、探検を開始するスケジュールでは、さすがに体に負担も来る。

全身の痛みに、痒み…夜も熟睡できない


――ふと、眼前に浮かぶ景色があった。

碁盤の目のような通りに、整然と石造りの建屋が並ぶ巨大な街である。

祭礼の日であろうか、集う人々の様子は佐賀と大差は感じられない。但し、西洋風の衣服を纏っている。皆、道なりに飾られた、大きな雪像を眺めて、楽し気である。

「何と豊かなことじゃ!」

「これこそ…五州(世界)第一の都ではないか!」
夢うつつに“団にょん”は大声を張り上げた。


――そこに今回の小調査を完了した、箱館奉行所の面々が戻ってくる。

「おおっ!どの。加減は良いのか。」
奉行所の役人が、を気遣って声をかけた。

「“団にょん”!こう言うのを、鬼の霍乱(おにのかくらん)とでも言うのかのぅ。」
松浦武四郎が、ちょっとした皮肉を言う。

「…まぁ、そがん言われたら、面目なかばい!」
島義勇、苦笑する。

「良き場所であったぞ、土地の者は“サッ・ポロ”とか呼んでおった。」
箱館奉行所の調査では、開拓に向いた土地であるらしい。

サッ・ポロ…」
は、夢うつつの中で見た街の姿を思い浮かべていた。


(第12話「海軍伝習」に続く)
  


Posted by SR at 21:58 | Comments(0) | 第11話「蝦夷探検」

2020年06月23日

第11話「蝦夷探検」⑨(“犬塚”の別れ)

こんばんは。

札幌を創った男・島義勇、そして同僚の犬塚与七郎。2人の佐賀藩士の“蝦夷地”への旅路を描いています。

どんどん雪国に入って行きますので、「とにかく寒い!」と思いながら、ご覧いただければ幸いです。




――安政4年(1857年)旧暦2月。極寒の東北。現在の盛岡辺り。

「うう”っ…寒かごだぁ~」

温暖の地に慣れている“さがんもん”2人。
東北真冬の寒さは半端ではない。特に犬塚には応えている様子だ。

「もう駄目じゃ…」
「ほら、温かごたぞ!しっかりせんね。」
島義勇(団にょん)が声を掛ける。

「だがら…“”じゃなか!犬塚ですばい…」
寒さ悶絶しながらも、いつもの反応を返す、犬塚


――が差し出したのは、毛並みのモフモフとした子犬である。

「そこの屋敷の者に借りてきた。」
犬種としては、秋田犬に近い類であろうか。うっかり近づくと、噛まれるのだが、そこは“団にょん”である。既に馴染んでいる様子だ。

ハッ、ハッ!
白い息を吐く。まるで“暖房器具”の扱いだ。クルクルとした目である。

ありがたかです…」
冷え切った手を温める、犬塚
尻尾を振る。将来は、立派な猟犬に育つのであろう。


――安政4年(1857年)旧暦3月。佐賀を出立しておよそ半年。ようやく箱館(函館)に到着する。

ここまで海岸線の防衛と、特産品の販路などをイメージしながら、各地域調査を続けながら北上してきた。

「険しか道のりでしたね。」
「めったに目にできぬ諸国の様子が知れたのだ。有難いことじゃ。」

「たしかに、そがんですね。」
ワシも、殿となり、となったつもりじゃ。」
島義勇初心を忘れていない。



――開港後は、異国船の“補給基地”としても賑わう箱館(函館)。この街で会うべき人物がいる。

「肥前佐賀鍋島家中の者で、島団右衛門と申す!」
「同じく、犬塚与七郎にござる。」

2人が仰々しく、挨拶をしている相手が、“松浦武四郎”だ。
蝦夷地”のエキスパートとして、幕府に雇われている。

堅苦しいご挨拶は苦手でな。手短かにお願いしたい。」
当時の松浦は、“箱館奉行所”の関係者とお考えいただきたい。


――松浦は、十代の頃から旅から旅に生きている。自分の感性を大事にする“探検家”である。

「俺も若い時分には、長崎に居たこともある。佐賀の者は、真面目で賢いが…面白味は無いな。」

なんだと!
その言葉を聞くなり、“団にょん”が立ち上がる。真っ直ぐな分、カッと来やすいタイプである。

「待たんね、“団にょん”さん!わりと褒められとるばい!」
犬塚が言葉を掛ける。

「…ん!?」
一時停止する“団にょん”。

「真面目で賢い…そうじゃな!松浦どの、わかっておるではないか!」
くるりと表情が変わる。笑顔だ。


――「ハッハッハ…!」笑い始める、松浦武四郎。

「たしか、どの…であったか。俺は前言取り消す。」
まだ、笑いが止まらない松浦

「ほう、なんじゃ!?」
面白味のある…佐賀の者もいるようだ!」

「箱館奉行所には口を利いておく。“御調べ”に加わってみるか。」

松浦は、普通の侍ではない。ほどなく島義勇犬塚与七郎は、奉行所の“蝦夷探索”に加わる許可を得た。



――しかし、箱館および蝦夷地の様子は、島義勇たちの想像を超えていた。

「“団にょん”さん。あの男…どうやら長州(山口)者のごたです。」
犬塚。そう言えば、ワシ宇和島(愛媛)から来た者を見かけたぞ。」

この頃、外様の“雄藩”も、次々に家臣たちを“蝦夷地”に派遣していた。
情報を集めても、幕府への手続きで、先手を取られては圧倒的に不利である。


――箱館の滞在中に明らかになってくる、沿海の諸藩の動き。

犬塚。これは二手に分かれた方が良いかもしれぬな…」
「“団にょん”さん。今日は冴えとりますね。どがんしたとですか。」

「“犬っ”!ワシはいつでも冴えとるばい!」
じゃなかです…、犬塚たい…。“団にょん”さん、“蝦夷地”は厳しか所です。くれぐれもお気をつけて。」


――こうして、と犬塚の2人は、別行動を取ることを決めたのである。

名残り惜しそうな、犬塚与七郎。“蝦夷地”で見聞した現況を、佐賀に持ち帰って準備を進める役回りを引き受けた。

ここまで辛い旅路を乗り越えてきた“相棒”。見送る島義勇も涙目だった。
犬塚…お主も、帰りの道中、達者でな…」

そして島義勇は、松浦武四郎らとともに“蝦夷地”の探索に入るのである。


(続く)  


Posted by SR at 21:38 | Comments(0) | 第11話「蝦夷探検」

2020年06月21日

第11話「蝦夷探検」⑧(伊勢街道の“旅人”)

こんにちは。
昨年、NHKで放送された「永遠のニシパ」というドラマをご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。
北海道150周年記念」で製作された番組。“嵐”の松本潤さんが主役で、“北海道”の命名者“松浦武四郎”を演じました。

ここから数回、“団にょん(島義勇)”さんが街道を、雪原を、そして荒野行くロードムービーのような展開になります。先ほどのドラマを見ていた方には、「おっ!?」と思う場面があるかもしれません…


――安政3年(1856年)旧暦9月。佐賀城下。

「“団にょん”さん、気ばつけていかんね!」
「体を厭(いと)いんしゃい!」

北へ向けて旅立つ島義勇佐賀の人々が見送る。

見送り、ご苦労!いざ“蝦夷地”に行って参るぞ!」
高揚している。無理もない…かなりの大冒険になるのだ。

「では、行こうか!“犬っ”!」
「“”じゃなかばい!おいは、犬塚たい!」

「すまん、すまん…以後、気を付ける!」
島義勇とともに、同僚の犬塚与七郎も“蝦夷地”の探索に向かうのである。


――幕末、まだ陸路での旅が一般的な時代。と犬塚の2人は佐賀から長崎街道を東へ。

秋の気配は少しずつ深まっていく。
双方とも健脚である。まずは3日間下関に到着し、山陰道に入る。

津和野米子鳥取

出立から1か月後10月に入って城崎(兵庫)に到着した。
ひととき、城崎の温泉で疲れを癒す。

「“団にょん”さん!城崎の湯は、よかですね!」
「まぁ“武雄の湯”のくらいかのう!」

…“団にょん”の地元びいきである。
佐賀には武雄温泉以外にも、“嬉野”や“古湯”など名湯も多いが、ここでは殿鍋島直正のお気に入りを推しておこう。

この後、日本海沿いに小浜(福井)まで進み、南下京都からは東海道に入る。


――出立から2か月後、11月に入る。桑名(三重)に差し掛かった2人。

「おおっ!じゃ!」
先を歩く、島義勇が声を出す。

おいは、犬塚たい!…あっ、本当に犬の話でしたか…」
ここで犬塚与七郎にも、こちらに歩いてくる犬の姿が目に入った。参拝客たちと一緒に、東海道西に向かってくる。


――三重といえば、“伊勢神宮”を思い浮かべる方も多いだろう。



江戸時代には“お伊勢参り”は「一生に一度は行きたいビックイベント」であった。しかし、日々の暮らしに追われる、大半の庶民にとっては叶わぬ夢


――そして、江戸などに住む庶民は「お伊勢さんに行きたい!」想いを、地域の代表者や“犬”に託すこともあった!

ワンワン!

きつね色の毛並み、三角に立った両耳、クルンと巻いた尻尾
典型的な“柴犬”である!

お伊勢さんまで、あと少しじゃ!お前も頑張れよ!」
「お~よしよし、ワシの飯の残りじゃが、少し食べるか!」
伊勢に向かう人々のサポートを受けて、目的地を目指す

クゥーン…!
こうして、お伊勢さんには、“犬”も参拝できた。


――彼らは“おかげ犬”と呼ばれ、親切にすると功徳(くどく)を積むことができると信じられ、大事にされた。

そして、犬たち参拝客沿道の人々に支えられて、伊勢を目指すのである。

「さすが、お伊勢さんが近いと賑やかなもんじゃのう!」
「そういえば、この辺りの生まれで、たいそう“蝦夷地”に詳しい者が居っとです!」

この頃“松浦武四郎”という人物が、“蝦夷地”に関する書籍を次々に発行していた。その松浦は、“伊勢商人”で有名な、松坂(三重)の出身である。

伊勢街道往来する人々を、間近に眺めて育った、松浦武四郎
自身も旅から旅への人生を選んでいったのである。


――島と犬塚の2人は、そのまま東海道を進む。途中、黒船来航の地・浦賀などを経て、江戸にある佐賀藩の屋敷に到着する。

9月に佐賀を発ち、12月に江戸入り。概ね3か月の旅路だった。

「“蝦夷地”に入った折は、まず箱館に留まれ。そして“松浦武四郎”と接触を試みよ!」
江戸では、さらに詳細な指示が与えられた。

沿海の各藩が、すでに“蝦夷地”の探索に乗り出している。
幕府箱館奉行所松前藩(蝦夷地の一部を統治)…そして、各藩。“蝦夷地”への目論見は様々である。

そして、現地で自由に動くためには、伝手(つて)が要る。佐賀藩は、既に“蝦夷地”を3度も探検し、当代随一の“蝦夷通”である松浦武四郎に着目していた。


――現地での接触は、おそらく“出たとこ勝負”になる。ある意味で、直線的な突破型の“団にょん”に向いた仕事である。

「陸奥(みちのく)の冬は厳しい。道中、気を付けて行かれよ。」
同じ佐賀藩でも、江戸屋敷の見送りは、やや“都会的”である。

「お見送り、忝(かたじけ)のうございます。」
そして島義勇、冬の東北に向かう。



まず水戸街道を北へ。かつてが、水戸(茨城)に出向いたときにも通った道だ。
安政の江戸地震で、藤田東湖をはじめ政務の中心人物を失った水戸藩不穏な空気が漂い始めていた。

「…やはり、なのじゃな。大事なものは…」
島義勇は、東北へと続くを見上げた。

ピ-ヒョロロ-

冬の寒空を、鳶(トンビ)が鳴き声を上げて、旋回していた。


(続く)  


Posted by SR at 19:38 | Comments(0) | 第11話「蝦夷探検」

2020年06月19日

第11話「蝦夷探検」⑦(“拓北”の決意)

こんばんは。
前回、藩校の大乱闘事件・“南北騒動”の中心にいた、大隈八太郎(重信)。藩校・“弘道館”を退学になった大隈は、学びの場を求めて、枝吉神陽を訪ねます。

災害が頻発した安政年間は、幕府が大きく揺らいだ時期でもあります。長文ですので、落ち着いたときにお読みいただければと思います。


――1855年。佐賀城下。

枝吉家の門前に立つ、少年が声を張る。
大隈八太郎です!神陽先生、こんにちは。」

いつもの大隈らしからぬ緊張ぶりである。
佐賀枝吉神陽と言えば、志ある若者たちの“カリスマ”なのである。

構わぬぞ!表より入るが良い。」
「はい、失礼します!」


――神陽の声は清々しく辺りに響いた。大隈八太郎も元気よく返す。

八太郎か!大きくなったな。」
「はい!」
この辺りの感じは、幼児のときに母・三井子に連れられて、神陽先生に会ったときと変わらない。
しかし、大隈八太郎、今ではかなりの長身である。まさに“大きくなった”のだ。

神陽は、八太郎を一瞥(いちべつ)すると、軽く微笑んだ。

「“弘道館”では、随分と暴れたそうではないか!」
「はい…」


――年を経る毎に、神陽先生の“義祭同盟”は存在感が高まり、有望な若者が多く集う。

最近の大隈八太郎は、その末席に居るような状況である。
オーラがある神陽先生に、あまり馴れ馴れしくも話しかけられず、しばらく様子を見守る。

…うむ。」
神陽先生!いかがなさいましたか!」
読みかけであった手紙を見ながら、眉間にしわを寄せる神陽先生。
手紙の内容が気になって仕方がない八太郎が問う。

八太郎よ。存じておるか。ここ1年ばかり天変地異が続いておる。」


――当時、日米和親条約の締結の年(1854年)から災害が続いた。代表的なものは、安政の東海地震および南海地震である。

新暦で言えば12月下旬初冬に立て続けに起きた、2つの巨大地震。あまりに災害が続くので、元号を“嘉永”から“安政”に改めたのである。

このような経過で、歴史上は1854年は年始から“安政元年”だったという扱いになっている。

「公儀(幕府)の費え(支出)は莫大になるだろう。いかに建て直すか…であろうな」
神陽は、幕府の安定を揺るがす、財政負担に考えを巡らせる。

大隈八太郎は「やはり神陽先生は、“弘道館”の教師たちとは違う!今を見ておられる!」と目を輝かせた

ここで、いつもなら“鐘の鳴る”ような声量で言葉を発する神陽が、いつになく訥々(とつとつ)とつぶやく。
「何やら、良からぬ胸騒ぎがいたすな…」


――不幸なことに、この年(1855年)も“天変地異”は続いた。そして、大都市・江戸を大きな揺れが襲ったのである。



前年の初冬に起きた2つの巨大地震から1年も経たない、晩秋

江戸の小石川にある水戸藩の屋敷。
島義勇(団右衛門)先生でもある、藤田東湖は“安政の江戸地震”の真っ只中にいた。

「浮足(うきあし)立つな!気を鎮めて、事にあたれ!!」
藤田東湖が、落ち着いた声で指示を出す。

「はっ!」
激しい揺れに驚いた水戸藩士たちも、藤田の言葉に正気を取り戻す。避難誘導は順調である。


――水戸の屋敷には、藤田東湖の母・梅子もいた。年老いてはいるが避難には問題ない。

しかし、藤田の母は、屋敷が延焼する危険に気付いた。
「いけない…火鉢をそのままにしておる!辺りに火が廻ってしまう!」

責任感の強い、藤田の母は慌てて屋敷に引き返そうとする。
ここで藤田東湖は、母の動きに気付いた。
いかん!母上、お戻りなされ!」


――先ほどの揺れで、屋敷の建屋が崩れかかっている。

ガラガラッ…ズン
屋敷の梁(はり)が、落下する。

ガシッ!
藤田東湖は、“神道無念流”の剣の達人である。

無駄のない足運びで、崩れゆく梁の下に潜り込み、で受け止めた。
「むっ…ぐぐ…っ」

「…母上お逃げなされ!」
「“虎っ”…!」

藤田東湖の幼名は“虎之助”であったと言う。
年老いた母・梅子は、東湖の身を挺した動きにより、難を逃れたのである。


――佐賀城下。島義勇(団右衛門)のもとに、同僚の犬塚が駆け込んでくる。



「おおっ、どうした犬っ!何かあったのか!?」
じゃなか!犬塚たい。」

「いや…そいどころじゃなか!“団にょん”さん!落ち着いて聞かんね。」
犬塚は、人には「落ち着け」と言いながら、明らかに慌てている。

「もしや!江戸に関わる話か…」
江戸で、発生した巨大地震について、凄まじい被害状況が伝わり始めていた。

「実は、お主の親しかった、水戸藤田さまが…」

先ほどまで軽口をたたいていた“団にょん”の表情が変わる。

藤田東湖逝去が伝わった。
島義勇無言のまま、はらはらと涙を落した。


――後日、佐賀城の本丸。殿・鍋島直正から呼び出しを受け、島義勇が登城していた。

水戸藤田は、最後まで立派な(さむらい)であったようだな。」
「はい、ご母堂を庇(かば)って、お亡くなりに…」

藤田お主の二人で整えた、貢姫縁組み。既に川越(藩)との話に進んでおり、盤石である。」
藤田には、一言、礼を申したかったな。」

「はっ!」

――殿のお褒めを受け、は「藤田東湖との“仕事”が形になった」と感じる。少し救われた想いである。

ここから、殿直正は呼び出しの用件を伝える。
「此度の地震で、江戸の屋敷も無傷ではない。しかし時勢は動いておる。立ち止まってもおれん。」


――ついに殿から直々に、島義勇へ“蝦夷地探索”の命が下ったのである。


この頃、箱館(函館)が開港した影響で、沿海の諸藩が一斉に“蝦夷地”を目指していた。

「どの者を“蝦夷地”に派するか、迷うておったが…お主に決めた。」

「はっ!ワシ…いや、拙者お命じいただいたのは、何故でございますか。」
じゃな!」

「はっ…?でございますか。」
「あとは、であろうな。」

「ははっ、ありがたき幸せ!この一身にて、蝦夷地を見聞いたしまする!」


――藤田東湖は“尊王”の志を説いたが、その後ろ姿で島義勇に伝えたことは、むしろ“殿様の懐刀”としての生き様である。

殿・直正からの「となり、となって働いて来い!」という指示は、まさにが望むものであった。

蝦夷地”で待つものは、広大な土地、豊かな天然資源、特産品の新しい販路
こうして、“情熱の開拓者”・島義勇の冒険が始まるのである。


(続く)
  


Posted by SR at 22:19 | Comments(0) | 第11話「蝦夷探検」

2020年06月17日

第11話「蝦夷探検」⑥(南北騒動始末)

こんばんは。前回の続きです。
藩校「弘道館」の“内生寮”で学生たちの人気者大隈八太郎(重信)に関わって騒動が発生します。


――“南寮”側で先頭に立つ学生が、よく通る大声を張り上げる。

北寮”に乗り込んできた理由の宣言をしているのだ。まるで“討ち入り”である。
大隈八太郎は、南寮の学生である。引き渡してもらおうか!」

「何ね!?大隈じゃなか!たい!」
「そうじゃ!居たかところに、おるんが道理ばい!」
北寮の学生たちが、寮の建屋の階上から“やいやい”と反論する。


――先ほどまで、談話の中心にいた大隈。いまや南北の寮で“争奪戦”の対象となっている。

「にゃあ…居心地の悪かごた!」
さすがの大隈八太郎も、このシチュエーション(状況)は勘弁してほしい。

「さて、どがんすっかね…」
思案する大隈。おそらく答えは“良からぬ方法”になりそうな気配だ。


――そして、南寮側は“前線”に、続々と屈強な学生を投入し始めた。

いわば北寮の学生は“籠城”する側である。
階上から、玄関前に集まる南寮側の動きを見張る。

おそらくは、幾つかある階段が、“防衛ライン”となるのであろう。

「申し上げます!南寮の連中は、さらに数を増やしています!」
いつの間にか、“北寮”の学生の間に、“指揮命令”系統が出来上がっている。



――ここで、大隈の脳裏に浮かんだのは、幼い頃、母・三井子が朗読してくれた『太平記』である。

南北朝時代の軍記物『太平記』
幼き日の大隈八太郎は“南朝”の忠臣・楠木正成に憧れた。

「いかん!は“南寮方”につかんばならんぞ!」
ここで北寮側から見れば、急に寝返った大隈八太郎
しかし、もともとの所属は“南寮”なのだから、表返ったと言うべきか。


――ほどなく大隈の思惑とは関係なく、戦いの火ぶたは切られた。

おおーっ!
大隈奪い返せ!」
北寮の玄関から、勢いよく階段を駆け上がる“南寮生”たち。

ダンダンダン迫る足音。狭い階段が軋(きし)む。

「落ち着け!“地の利”は我ら“北寮”にあるぞ!」
北寮生”は、階上から応戦を開始する。

「これで、どがんね!」

ドシンガツン
火鉢やら、行灯(あんどん)やら、階段上から、色々の物が投げ落とされる。


痛てて…
怯(ひる)むな!一歩も引くな!」
攻める南寮側の上級生が、檄(げき)を飛ばす。


――階段を舞台にした乱戦中、大隈八太郎が、顔見知りの“南寮”の先輩に声を掛ける。

先輩階段は向こうにもございます!」
大隈、結局は“南寮”側で乱闘に加わっている。

大隈っ!助かるぞ!」
南寮”の先輩は、軽く手を上げて応える。

慌てたのは“北寮”の学生たちである。

「いかん!大隈が寝返った。」
「いや…待て。もともと大隈南寮の者だぞ。我らが油断しておったのかもな!」

南北双方の寮とも、いつもは抑制の効いた生活をしている寮生たち。“水を得た魚”のように“合戦ごっこ”に興じる。


――大隈の離反により、北寮側の連携には、綻(ほころ)びが見える。

「よし、ここで一気に“北寮”を攻め落とすぞ!」
「おおーっ!」
大隈の“帰還”も得て、勢いに乗る“南寮生”たち。

味方も皆、何やらキラキラとしている様子も感じられる。
窮屈な日常からの解放…なのであろう。

よかごたぁ!!」
…そして、おそらく一番楽しんでいるのは、大隈八太郎である。


――しかし、ここで乱闘する学生たちを脅かす“影”も集結していた。壮大な声が響く。

「こん馬鹿者どもがっ!!」
武術の教授を中心とした、藩校教師たちが騒動の鎮圧に乗り出したのである。

「この騒ぎの…首謀者は誰だ!」

こうして“弘道館”の南北寮生による、青春のエネルギーをぶつけ合った“お祭り”。平たく言うと、乱闘騒ぎ終幕となった。

そして、祭りの中心、言わば“神輿(みこし)”のような存在であったのは、大隈八太郎。ごく自然な流れで、藩校退学処分となってしまったのである。



――数日後、母・大隈三井子は、たまたま道で行き会った人物に、この騒動の一部始終を語った。

「ハッハッハッ…」
1人の落ち着いた感じの青年が、柄にもなく爆笑している。いつもは冷静な枝吉次郎副島種臣)である。

笑い事ではございませぬ。退学なのですよ!」
大隈三井子である。“ちゃんと聞いてくださいな!”という表情をする。

「…失礼。相変わらず、八太郎くんは面白い子ですね。」
次郎は何やら久しぶりに愉快だったようで、“笑いを止める方法がわからない”といった様子だ。


――枝吉次郎(副島種臣)は、大隈八太郎と9つばかり歳が離れている。

かつては大隈家にも遊びに来ていた次郎だが、いまや学識の高い立派な青年
思わず愚痴をこぼす三井子

「そうだ、兄上のもとを訪ねてみてはいかがでしょうか。」
神陽先生を!?」

「ええ、きっと面白がると思いますよ。それに八太郎くんにも学びの場があった方がいい。」
「そういえば!次郎さまも“副島”の家を継がれるのですね。」

「はい…立派な跡取りになるべく精進いたします…」
次郎さま…まだ、可笑しいのですか。“笑い”が抜けておりませぬよ…」

八太郎騒動の顛末(てんまつ)を聞いて、もはや数年分笑ったと思われる、枝吉次郎副島種臣)。
いつもクールな次郎があまり笑うので、膨れっ面をする三井子だった。


(続く)  


Posted by SR at 21:39 | Comments(0) | 第11話「蝦夷探検」

2020年06月15日

第11話「蝦夷探検」⑤(演説者の目覚め)

こんばんは。

藩校「弘道館」は、“内生寮”と呼ばれる全寮制の学校が主軸です。
この頃、藩校の生徒数は600人を超えていたとも言われ、大人数となった学生の寮南北に分けています。

エネルギーに満ち溢れた男子校で、南北二寮が並び立つ…
ライバル関係となることは必定と言えるでしょう。


――普段は“南寮”に寄宿している寮生が1人。何故か“北寮”で弁舌を奮っていた。

「その黒船たるや、蒸気仕掛けにて船足早く、進退も自在なり…」
いわば演説を続ける“南寮の学生”に、“北寮”の聴衆たちも夢中である。

長崎の港を避け、メリケン(アメリカ)の提督ペルリ江戸のほど近く、浦賀沖に現れたんである!」
「ほうほう!」


――黒船来航の経過について、こと細かに語るのは、大隈八太郎(重信)

上背高く、目元涼しく、弁舌は巧み…現代風に言えば、“ハイスペック”な高校生に成長した。ただ、いかんせん幕末なので、より志は高く気性は暑苦しいところがある。

大隈っ!そのようなをどこで仕入れた!」
聴衆から質問が飛ぶ。

「さて、志高くあれば、自然(じねん)、有用な話が集まるんである!」
少し気取っている大隈



――母・大隈三井子の手料理に釣られてか、以前から大隈家には優秀な先輩たちがよく集まった。

例えば“いつもの3人組”を、覚えておいでであろうか。
年の順で大木喬任江藤新平中野方蔵の3人である。

「あら、いらっしゃい。」
これは三井子思惑どおりである。藩校の中でも優秀な先輩がよく来るのも、計算どおりなのであろうか。

八太郎は、自宅で先輩の話を聞いているだけで、様々な知識を吸収し、成長してきた。

先ほど、1つ目の話の“仕入れ先”は、学校の教師から藩の上層部まで、顔の効く“事情通”・中野方蔵
尊王の志厚く、“政治的”な小回りもできる要領の良い若者である。


――聴衆から「では大隈よ!そん異国どもを、どがんすっとね!?」と質問が上がる。

「やはり、攘夷か!」
他の聴衆からも声が上がり、続々と“北寮”の学生たちが、大隈の話を聞くために集まる。

「…いや、すぐさま“打払い”に走るのは、短慮である!」
大隈は少し間を溜めて言い放った。

「それでは、腰抜けではないか!」
聴衆から、反論の声が上がる。

「“蛮勇”は、いかんばい!残念なことであるが、いまの我が国に、“夷狄”(いてき)を無傷で払う力は無い!」


――いま異国と戦うのは危うい、大隈は“攘夷”の危険性を指摘した。「おおっ!」とまた、聴衆がどよめく。

「もし“打払い”に踏み出せば、戦に民は傷つき国は疲弊してしまうであろう!」
「まず、異国との“商い”で力を蓄える。しかる後に、野蛮なる夷狄(いてき)があらば打払うんである!」

「なるほど…たしかに、そのとおりか…」
大隈っ!いいぞ。」

「そして蝦夷地箱館で、異国に港が開いた!これからは“拓北”(たくほく)である!」


――大隈は“拓北”という言葉を示した。これは、北海道を開拓し、今後の通商の展開に対応していくと言ったところであろう。



すごかっ大隈、もっと話ば、聞かせんね!」
「…いや、この話はここまでとしよう!」

この2つ目の話。“理論派”・江藤新平から聞いた内容が元になっている。ここで、大隈八太郎は、ひとまず話を切り上げた。

江藤は“図海策”という論文を構想中である。今のところ、大隈ここまでしか話を聞いていない。


――“北寮”の聴衆たちは、「大隈の話は面白かね!」と、ひとしきり盛り上がっている。

「そうじゃ!“葉隠”ばかりでは、つまらんばい!」
「こら、滅多なことを申すな。」
北寮学生たちの間でも、議論が始まる。

一言で表せば“我慢の教え”である、佐賀武士の教典“葉隠”。
学生たちの中にも「窮屈な教育だ!」と感じる者も多いようだ。


――そして、大隈八太郎は、その最たる1人であった。藩校での教育内容に不満がある。

「然り(しかり)!いまの“弘道館”の在り方は好ましくない!」

「そして、佐賀では“科挙”よりも苛烈な試験が行われておる!」
大隈が新しい話題に参加する。古代より中国では、科挙(かきょ)と言われる役人登用試験があった。


――そして、佐賀藩には“文武課業法”という規則があった。

「藩が決めた課程で、所定の成績を修めなければ、お役目就けない」のだ。

大隈は「面白味の無い人材を作ってしまう」と、この制度に疑問を持っていた。
3つ目の話は、聴衆との対話から始めたものだ。大隈が古代中国をはじめ教育制度に詳しいのは、“学識者”・大木喬任の影響だった。


――ここで、にわかに“北寮”の玄関口が騒々しくなる。

大隈八太郎は、"南寮"のもん(者)じゃ!ええ加減に返さんね!」

南寮学生たちが、大声を張り上げる。
なかなか帰って来ない、南寮人気者大隈八太郎奪還しに来たのである。


(続く)  


Posted by SR at 20:31 | Comments(0) | 第11話「蝦夷探検」

2020年06月13日

第11話「蝦夷探検」④(保守派の賢人)

こんばんは。

舞台は江戸から移り、佐賀城の本丸です。殿鍋島直正の面前にて、佐賀藩重役たちが詰めの協議中です。議題は「蒸気船購入について」です。


――まず、口を開いたのは、藩政ナンバー2の請役・鍋島安房である。

「では、“蒸気船”を用立てる算段について話し合いたい。」

鍋島安房は、長崎へのロシア船来航の際、長崎御番調整役で、走り回った人物に声をかける。
池田半九郎、そなたの思うところを申してほしい。」


――安房より発言を促された、池田半九郎。もとは下級藩士だが、いまや殿・直正の側近である。

「はっ!僭越(せんえつ)ながら、申し上げます。」
以前は佐賀城下の区画整備に活躍し、“雨戸すら不要”とまで言われた治安の良い街づくりを実現した。

長崎にて、露西亜(ロシア)の“蒸気船”を見分いたしました。」
池田は、ロシアプチャーチン艦隊の“ボストーク号”のことを報告する。

「話に聞くペルリ黒船と違い、“外輪”で動く蒸気船ではございません。」

ボストーク号”は、最新鋭スクリュー推進式蒸気船だった。ロシアは、今後の戦略を練るため、機動力の高い“ボストーク号”を日本近海調査に投入していた。




――池田の報告に反応したのが、鍋島夏雲(市佑)。現在の佐賀県上峰町付近に領地を持つ。

ペルリの黒船は巨大なり。プゥーチャーチンの蒸気船は小振りなれど、新しき仕掛けにて動く…」

「此度は“大砲”のように、船を一から仕立てておっては、間に合いませぬな…」

鍋島夏雲は、殿の傍に長く仕える。几帳面で冷静な側近のようだ。話の整理に努める。

佐賀藩には洋書を翻訳し、鉄製大砲を自力で作り上げた成功例がある。これが技術的に、佐賀が“トップランナー”である1つの要因だが、大きい労力を伴ったことも事実である。


――ここで、保守派で頭角を現している、原田小四郎が「よろしいか」と発言を求める。

「公儀(幕府)から“大船建造”のお許しも出ております。黒船持つに障りはございません。」

「もはや“洋船”を如何なる算段で、手にするかを論じるべきでございます。」

保守派原田ですら、幕府が諸大名への“大型船の所有禁止”を解いた今、蒸気船を買うことを、早急に進めることを提言する。


――議題への重臣たちの反応を見ていた、殿・直正が、話のまとめに入る。

原田、お主には“算段”があるようじゃな。」

「はっ、交易に用いる“白蝋”でございます。」
良き品であれば、それだけ値打ちが高まります。厳しく品定めを致すべきかと。」

当時、西洋船の購入には、代金を“白蝋”で支払うこともできたため、品質が高ければ有利になる。現代的に言えば、ブランド力を付けるため、検品の労力を惜しまないとの提案である。

もともと佐賀藩は、“陶磁器”の徹底した品質管理で有名である。しかし、陶磁器白蝋などの“佐賀ブランド”を守るため、生産者たちも必死の努力をせねばならなかった。



――こうして、蒸気船購入の方向性は定まった。のちに、この原田小四郎が“改革派”にとっては高い壁となっていく。

安房さま。少々、お話をよろしいでしょうか。」
「おおっ、原田よ。先ほどは見事な算段であったな。」

お褒めに預かり、恐縮です。お話と申しますのは、枝吉神陽についてでございます。」
神陽のことか…」
請役・鍋島安房は、神陽が主導する「楠公義祭同盟」の活動に理解がある。

原田小四郎が、このようなトーンで話を持ってくるときは、大体が“忠臣からのお小言”である。保守派には、枝吉神陽弟子たち意見に耳を傾ける、鍋島安房苦言を呈する者もいた。

この頃、藩校の教師であった枝吉神陽は、「弘道館」から距離を置き、「義祭同盟」に注力していた。自身の信ずるところで、若者たちを導き始めていたのである。


(続く)  


Posted by SR at 20:20 | Comments(0) | 第11話「蝦夷探検」