2024年02月25日
「武雄の物語、再び(第20話を作成中)」
こんにちは。
“本編”・第20話『長崎方控』の各記事のサブタイトルを大体決めて、ようやく、下書きを始めました。
ところで、佐賀といえば「農業の県」というイメージがあります。私は県内にいないので、例によって、地元にいる叔父上との話から始めます。
――佐賀県の市街地以外の人には、よくある風景だと思いますが、
叔父上も、近くの山まで行っては、畑で農作物を作っているようです。
もっとも、“プロの農家”ではないので、野菜や果物を収穫しては、親戚や近所に配ったりします。
そこで避けられないのは、“害鳥”や“害獣”との小競り合いです。

――都会暮らしの私は、届いたジャガイモなどを食べては…
「おおっ!佐賀の大地の力が、心身に染みわたるぞ!」と疲労の回復を実感します。※個人の感想です。
そして、当然ながら芋を送った側の、叔父上が作物を収穫するまでには、ある程度には、苦労の“物語”があるわけで…
時々、「畑の柵ば作ったとよ」と話せば、小動物を防ぐ作業でしょうし、「カラスのこっちを見よったばい」と語れば、鳥とのにらみ合いが思われます。
――但し、プロの農家や漁業関係者からすると、
アマチュアで畑仕事をする叔父上のような、余裕はないでしょう。
「作物を食べる、皆を笑顔にしたい」気持ちは、プロ・アマで違わないかもしれませんが、農家でも海苔を含む漁業者でも、プロには生活がかかっています。

さすがは、自然豊かな佐賀県。動物も相当に元気そうで、彼らから作物を守ることは容易では無いはず。
「鳥も獣も、手強い…、誰か“味方”はいないものか」と思うことでしょう。
――“強い味方”と言えば、幕末から明治にかけての転換期。
“本編”ではまだまだ先の時期で、おそらく第30話前後になるまで書けない話ですが、佐賀藩の武雄部隊は、新政府軍の中でも精鋭として知られました。
「武芸第一」とも称され、不安定な明治初期の東京(江戸)を守っていたところ、激闘の続く東北戦線に呼び出されます。
旧幕府方では「最強無敗」と評された、山形の庄内藩の勢いが止められず、対応が必要となっていたためだそうです。

――ここで、武雄部隊は、秋田の“強い味方”になります。
新政府側に付いて東北で孤立し、庄内藩に攻められた、秋田(久保田)藩を助けて守り抜き、ともに反撃に転じた…等の活躍がありました。
こんな縁があって、幾度か「秋田の竿燈まつり」の出張が武雄で見られる機会があったそうです。「秋田の人は、とても義理堅い…」という印象を受けます。
なお、一度、歴史番組で耳にした情報ですが、佐賀藩の武雄部隊は戦闘での犠牲者が、他の主力藩に比べれば、かなり少なかったようです。
もしや、かつての龍造寺氏の失策から学んだのか「深追いせず、命は大事に」という意識があったのかもしれません。
――「そいぎ、“武雄領”の強かごとは、わかったばってん、」
「今は鳥とかで困りおるとよ」という反応はごもっとも、話を現代に戻します。
全国で放送されていた旅番組。『遠くへ行きたい』だったと記憶しますが、佐賀が特集された時に“切り札”を見かけました。
「目には目を、歯には歯を…。」ではなくて、「鳥には鳥を」。現代の武雄には、江戸時代からの流れを汲むという、“鷹術”を遣う組織(会社)があるそうです。

――ここでも、「命を大事に」ということなのか。
鳥の世界での“鷹”たちは、猛禽類の“精鋭”というべき力があると思います。
但し、この鷹使いをする会社の情報では、“害鳥”とされる鳥をむやみに傷つけない方針と読めました。
作物を荒らす“害鳥”を駆除する依頼を受けた場合、飛来時に追い払うだけではなく、「鷹の攻撃で、“仲間”がやられた」と見せかける作戦もあるそうで…
例えば“害鳥”を追い払う時に、ダミーの“別個体”を準備しておき、仲間が仕留められたと思い込ませるという技術があるようです。
特にカラスなどは学習能力が高いですから、直接に攻撃をせずとも、鷹の危険を感じてからは、当分、近寄ってこないと聞きます。
――個人的には、このあたりに「佐賀の美学」を感じます。
「侵入者に対しては、最小限の攻撃で追い返し、以降は秩序を守らせる。」
幕末期の佐賀藩主・鍋島直正公が、理想とした強さを連想させる内容です。
――ところで現在でも、武雄領主が描いた「鷹の絵」が残ると聞きました。
それは、鍋島直正が佐賀藩主に就任する7~8年ぐらい前で、まだ10歳頃の少年期だったといいます。
年齢差から見て、20歳ぐらいの青年だったであろう、武雄領主・鍋島茂義に絵を描くよう求めたそうです。

“個人蔵”との記載があり、現物は見られないようですが、書籍で見る限りでは「文人画」と表される風格のある筆遣いで、枝にとまった鷹の姿が見えます。
“兄貴分”の描いた「鷹の絵」は、のちに佐賀の名君となる若様を、きっと喜ばせたことでしょう。
――幕末・明治期の“佐賀藩の大河ドラマ”をイメージすると…
要所に姿を見せる「武雄領を、どう描くか?」は、個人的に重要なポイントだと考えています。
本編の第3話『西洋砲術』は、武雄を軸とした物語でした。作中では20年ほどの時を経た、その続きの話を再び描きたいと思います。
“本編”・第20話『長崎方控』の各記事のサブタイトルを大体決めて、ようやく、下書きを始めました。
ところで、佐賀といえば「農業の県」というイメージがあります。私は県内にいないので、例によって、地元にいる叔父上との話から始めます。
――佐賀県の市街地以外の人には、よくある風景だと思いますが、
叔父上も、近くの山まで行っては、畑で農作物を作っているようです。
もっとも、“プロの農家”ではないので、野菜や果物を収穫しては、親戚や近所に配ったりします。
そこで避けられないのは、“害鳥”や“害獣”との小競り合いです。
――都会暮らしの私は、届いたジャガイモなどを食べては…
「おおっ!佐賀の大地の力が、心身に染みわたるぞ!」と疲労の回復を実感します。※個人の感想です。
そして、当然ながら芋を送った側の、叔父上が作物を収穫するまでには、ある程度には、苦労の“物語”があるわけで…
時々、「畑の柵ば作ったとよ」と話せば、小動物を防ぐ作業でしょうし、「カラスのこっちを見よったばい」と語れば、鳥とのにらみ合いが思われます。
――但し、プロの農家や漁業関係者からすると、
アマチュアで畑仕事をする叔父上のような、余裕はないでしょう。
「作物を食べる、皆を笑顔にしたい」気持ちは、プロ・アマで違わないかもしれませんが、農家でも海苔を含む漁業者でも、プロには生活がかかっています。
さすがは、自然豊かな佐賀県。動物も相当に元気そうで、彼らから作物を守ることは容易では無いはず。
「鳥も獣も、手強い…、誰か“味方”はいないものか」と思うことでしょう。
――“強い味方”と言えば、幕末から明治にかけての転換期。
“本編”ではまだまだ先の時期で、おそらく第30話前後になるまで書けない話ですが、佐賀藩の武雄部隊は、新政府軍の中でも精鋭として知られました。
「武芸第一」とも称され、不安定な明治初期の東京(江戸)を守っていたところ、激闘の続く東北戦線に呼び出されます。
旧幕府方では「最強無敗」と評された、山形の庄内藩の勢いが止められず、対応が必要となっていたためだそうです。
――ここで、武雄部隊は、秋田の“強い味方”になります。
新政府側に付いて東北で孤立し、庄内藩に攻められた、秋田(久保田)藩を助けて守り抜き、ともに反撃に転じた…等の活躍がありました。
こんな縁があって、幾度か「秋田の竿燈まつり」の出張が武雄で見られる機会があったそうです。「秋田の人は、とても義理堅い…」という印象を受けます。
なお、一度、歴史番組で耳にした情報ですが、佐賀藩の武雄部隊は戦闘での犠牲者が、他の主力藩に比べれば、かなり少なかったようです。
もしや、かつての龍造寺氏の失策から学んだのか「深追いせず、命は大事に」という意識があったのかもしれません。
――「そいぎ、“武雄領”の強かごとは、わかったばってん、」
「今は鳥とかで困りおるとよ」という反応はごもっとも、話を現代に戻します。
全国で放送されていた旅番組。『遠くへ行きたい』だったと記憶しますが、佐賀が特集された時に“切り札”を見かけました。
「目には目を、歯には歯を…。」ではなくて、「鳥には鳥を」。現代の武雄には、江戸時代からの流れを汲むという、“鷹術”を遣う組織(会社)があるそうです。
――ここでも、「命を大事に」ということなのか。
鳥の世界での“鷹”たちは、猛禽類の“精鋭”というべき力があると思います。
但し、この鷹使いをする会社の情報では、“害鳥”とされる鳥をむやみに傷つけない方針と読めました。
作物を荒らす“害鳥”を駆除する依頼を受けた場合、飛来時に追い払うだけではなく、「鷹の攻撃で、“仲間”がやられた」と見せかける作戦もあるそうで…
例えば“害鳥”を追い払う時に、ダミーの“別個体”を準備しておき、仲間が仕留められたと思い込ませるという技術があるようです。
特にカラスなどは学習能力が高いですから、直接に攻撃をせずとも、鷹の危険を感じてからは、当分、近寄ってこないと聞きます。
――個人的には、このあたりに「佐賀の美学」を感じます。
「侵入者に対しては、最小限の攻撃で追い返し、以降は秩序を守らせる。」
幕末期の佐賀藩主・鍋島直正公が、理想とした強さを連想させる内容です。
――ところで現在でも、武雄領主が描いた「鷹の絵」が残ると聞きました。
それは、鍋島直正が佐賀藩主に就任する7~8年ぐらい前で、まだ10歳頃の少年期だったといいます。
年齢差から見て、20歳ぐらいの青年だったであろう、武雄領主・鍋島茂義に絵を描くよう求めたそうです。
“個人蔵”との記載があり、現物は見られないようですが、書籍で見る限りでは「文人画」と表される風格のある筆遣いで、枝にとまった鷹の姿が見えます。
“兄貴分”の描いた「鷹の絵」は、のちに佐賀の名君となる若様を、きっと喜ばせたことでしょう。
――幕末・明治期の“佐賀藩の大河ドラマ”をイメージすると…
要所に姿を見せる「武雄領を、どう描くか?」は、個人的に重要なポイントだと考えています。
本編の第3話『西洋砲術』は、武雄を軸とした物語でした。作中では20年ほどの時を経た、その続きの話を再び描きたいと思います。
2024年02月19日
「ある“お買い物リスト”の話(後編)」
こんばんは。
前編のラストで紹介した、鍋島茂義公の“お買い物リスト”という「長崎方控」。
佐賀県西部にあり、長崎へとつながる西九州新幹線の発着点でもある、現在の武雄市で綴られた文書です。

「ながさきかたひかえ」と一気に読むのではなく、「長崎方」と「控」で意味の区切りがあります。
“控”(ひかえ)とは記録のこと、では、“長崎方”(ながさきかた)とは何なのか。今でも、その答えは明確には出ていないそうです。
ここからは、長い歴史の流れに沿って、お話をします。
――江戸時代の武雄領の成り立ちから考える…
まずは遡ること、戦国時代まで。“肥前の熊”の異名を持ち、「五州二島の太守」とも呼ばれ、九州北部をほぼ掌握した佐賀の戦国武将・龍造寺隆信。
龍造寺の快進撃を支えた副将格・鍋島直茂(当時の名は、信昌→信生)との並びは"龍造寺の仁王門”とも称されたそうです。
言うならば、剛と柔の“二枚看板”をもって、九州の北部から、その名を轟かせていたのですが…

――晩年の龍造寺隆信は、現在の白石町にある須古城を拠点とします。
しかし、この頃から素行を乱していったようで、いろいろと諫言する鍋島直茂を、次第に遠ざけるようになっていたそうです。
南九州の覇者・島津氏との戦。西九州の有馬氏の援軍として、薩摩の島津が進出してきます。
ここでも、鍋島直茂による「出陣を見合わせ、持久戦が有利」との忠告を聞き入れず、龍造寺隆信は戦場での深追いをします。
その最期の地は、島原の沖田畷という湿地帯。兵の動かしづらい、足場の悪く、狭い沼地へと突き進んでいったそうです。
このような場所を選んで、伏兵を忍ばせて待ち伏せ、側面から攻撃する…これは、島津氏の必勝パターンだったと聞きます。

――私は、戦国時代について充分調べていませんが…
カリスマのあった、大将・龍造寺隆信を戦で失い、当時の佐賀が大混乱に陥ったことは想像できます。
龍造寺一門が賢明だったのは、新当主は龍造寺氏で立てるものの、舵取りは“二枚看板”だった鍋島直茂に任せたことでしょう。
――豊臣政権の統治、徳川幕府の成立…と続く激動の時代。
失策や内紛で滅びゆく大名家は数知れず。
鍋島直茂は、嫡子・勝茂とともに龍造寺家臣団を率いて、この荒波を乗り越えたことにより、佐賀藩の祖となりました。

こうして、鍋島勝茂が初代藩主となり、龍造寺一門は藩の重臣として幕末まで続く…というのが、私の理解です。
――そして、龍造寺隆信の三男・後藤家信の家系が…
武雄鍋島家を名乗って、代々、佐賀藩の要職に就いていきます。
なお、後藤家信の姓が龍造寺ではなかったのは、戦国期に至るまで武雄を守った有力者・後藤一族に婿入りしたからだそうです。
龍造寺四家の一つ・武雄鍋島家。ここまで長い歴史を綴りましたが、幕末期には“お買い物リスト”の主である、鍋島茂義を世に送り出すことになります。
以上が、私の認識に基づいて、ざっと調べた内容ですが、佐賀県内の…とくに武雄周辺の歴史に詳しい方、おおむね合ってますでしょうか。

――幕末期の佐賀藩が「日本近代化のトップランナー」だったことは、
疑いの無いところでしょう。但し、開明の名君として知られる鍋島直正が藩主に就いた時期は1830年(天保元年)頃。
佐賀藩の改革そのものは、ここからのスタートという見解もあります。
しかし、近代化の進展で考えると、この時期から佐賀藩内にある程度の西洋知識の蓄積がないと、辻褄が合わないと考えます。
――その“矛盾”を説明できる存在が、
当ブログでは「蘭学兄貴」とかお呼びしている、武雄領主(邑主)・鍋島茂義だと考えています。
佐賀は、たしかに“トップランナー”だったが、マラソンや駅伝に喩えるなら、それを“白バイ”くらいの位置から先導する存在があった。
当時の日本では異例の感覚で、西洋に興味を持ち、その文物を買い求め、最新の砲術を自ら学んでしまう。飛び抜けて“蘭癖”な自治領主・鍋島茂義。

――地理的に、長崎に近いところで
佐賀藩の重臣となっていた「武雄・須古・多久、そして諫早」の龍造寺四家は、自治領を持っていました。
鍋島直正が佐賀藩主となった時代。藩政改革に協力的だったのは、前藩主の影響が強かった鍋島家の一門よりも、龍造寺四家だった…という話も。
武雄の自治領主として、決定権を持つ人物に“西洋かぶれ”の鍋島茂義がいたことは、佐賀藩を通じて、日本の近代に影響したと考えています。

――蘭学領主の“お買い物リスト”は、西洋の技術だけではないようで…
鉄砲、薬品、洋書、理化学機器…などはわかりやすいのですが、意外と飲食などの嗜好品が多いようです。
ブランデー、葡萄酒、リキュール、タバコ…あたりは“ちょいワル”な印象(?)の品物にも思えます。
それらが何処かで販売されて、佐賀藩や武雄領に利益をもたらしたのか、そもそも「長崎方」とは何者なのか…詳しくはわからないそうです。

――ところで随分と前に“本編”で、
佐賀の“蘭学ネットワーク”の関係者が集まる場面を書いたことがあります。その中心にいたのが、隠居した武雄領主の鍋島茂義。
〔参照:第4話「諸国遊学」⑥〕
行きがかり上で書いた話だったので、今、見返すとまとまりがありません…
ただ、「長崎方」とは、当時の佐賀にいた“西洋かぶれ”でやる気のある人々の集まりだったのかもしれない、とは思います。
――たとえば、ペリー来航の10年以上前の1840年代に、
当時の武雄では、西洋式の青銅砲を製作していましたが、のち幕府の韮山反射炉の開発責任者となる、江川英龍も視察に立ち寄ったといいます。
〔参照:第3話「西洋砲術」③-4〕
また、実際に韮山反射炉が造られた時期には、すでに反射炉で鉄製大砲を生産していた佐賀から技術者が派遣された、という記録もあるそうです。
〔参照(後半):第13話「通商条約」⑧(幕府の要〔かなめ〕)〕

幕末期、近代化のトップランナーの佐賀藩を先導した武雄領が、日本でも最先端の地域だった、ということはオーバーな話では無いと思います。
――歴史の表舞台から消えたように見えた、龍造寺氏。
その家系から、日本の近代化の先陣を切る人物が出ていたというのも、佐賀の皆様にとってロマンのある話だと思うのですが、どうでしょうか。
前編のラストで紹介した、鍋島茂義公の“お買い物リスト”という「長崎方控」。
佐賀県西部にあり、長崎へとつながる西九州新幹線の発着点でもある、現在の武雄市で綴られた文書です。
「ながさきかたひかえ」と一気に読むのではなく、「長崎方」と「控」で意味の区切りがあります。
“控”(ひかえ)とは記録のこと、では、“長崎方”(ながさきかた)とは何なのか。今でも、その答えは明確には出ていないそうです。
ここからは、長い歴史の流れに沿って、お話をします。
――江戸時代の武雄領の成り立ちから考える…
まずは遡ること、戦国時代まで。“肥前の熊”の異名を持ち、「五州二島の太守」とも呼ばれ、九州北部をほぼ掌握した佐賀の戦国武将・龍造寺隆信。
龍造寺の快進撃を支えた副将格・鍋島直茂(当時の名は、信昌→信生)との並びは"龍造寺の仁王門”とも称されたそうです。
言うならば、剛と柔の“二枚看板”をもって、九州の北部から、その名を轟かせていたのですが…
――晩年の龍造寺隆信は、現在の白石町にある須古城を拠点とします。
しかし、この頃から素行を乱していったようで、いろいろと諫言する鍋島直茂を、次第に遠ざけるようになっていたそうです。
南九州の覇者・島津氏との戦。西九州の有馬氏の援軍として、薩摩の島津が進出してきます。
ここでも、鍋島直茂による「出陣を見合わせ、持久戦が有利」との忠告を聞き入れず、龍造寺隆信は戦場での深追いをします。
その最期の地は、島原の沖田畷という湿地帯。兵の動かしづらい、足場の悪く、狭い沼地へと突き進んでいったそうです。
このような場所を選んで、伏兵を忍ばせて待ち伏せ、側面から攻撃する…これは、島津氏の必勝パターンだったと聞きます。

――私は、戦国時代について充分調べていませんが…
カリスマのあった、大将・龍造寺隆信を戦で失い、当時の佐賀が大混乱に陥ったことは想像できます。
龍造寺一門が賢明だったのは、新当主は龍造寺氏で立てるものの、舵取りは“二枚看板”だった鍋島直茂に任せたことでしょう。
――豊臣政権の統治、徳川幕府の成立…と続く激動の時代。
失策や内紛で滅びゆく大名家は数知れず。
鍋島直茂は、嫡子・勝茂とともに龍造寺家臣団を率いて、この荒波を乗り越えたことにより、佐賀藩の祖となりました。
こうして、鍋島勝茂が初代藩主となり、龍造寺一門は藩の重臣として幕末まで続く…というのが、私の理解です。
――そして、龍造寺隆信の三男・後藤家信の家系が…
武雄鍋島家を名乗って、代々、佐賀藩の要職に就いていきます。
なお、後藤家信の姓が龍造寺ではなかったのは、戦国期に至るまで武雄を守った有力者・後藤一族に婿入りしたからだそうです。
龍造寺四家の一つ・武雄鍋島家。ここまで長い歴史を綴りましたが、幕末期には“お買い物リスト”の主である、鍋島茂義を世に送り出すことになります。
以上が、私の認識に基づいて、ざっと調べた内容ですが、佐賀県内の…とくに武雄周辺の歴史に詳しい方、おおむね合ってますでしょうか。
――幕末期の佐賀藩が「日本近代化のトップランナー」だったことは、
疑いの無いところでしょう。但し、開明の名君として知られる鍋島直正が藩主に就いた時期は1830年(天保元年)頃。
佐賀藩の改革そのものは、ここからのスタートという見解もあります。
しかし、近代化の進展で考えると、この時期から佐賀藩内にある程度の西洋知識の蓄積がないと、辻褄が合わないと考えます。
――その“矛盾”を説明できる存在が、
当ブログでは「蘭学兄貴」とかお呼びしている、武雄領主(邑主)・鍋島茂義だと考えています。
佐賀は、たしかに“トップランナー”だったが、マラソンや駅伝に喩えるなら、それを“白バイ”くらいの位置から先導する存在があった。
当時の日本では異例の感覚で、西洋に興味を持ち、その文物を買い求め、最新の砲術を自ら学んでしまう。飛び抜けて“蘭癖”な自治領主・鍋島茂義。

――地理的に、長崎に近いところで
佐賀藩の重臣となっていた「武雄・須古・多久、そして諫早」の龍造寺四家は、自治領を持っていました。
鍋島直正が佐賀藩主となった時代。藩政改革に協力的だったのは、前藩主の影響が強かった鍋島家の一門よりも、龍造寺四家だった…という話も。
武雄の自治領主として、決定権を持つ人物に“西洋かぶれ”の鍋島茂義がいたことは、佐賀藩を通じて、日本の近代に影響したと考えています。
――蘭学領主の“お買い物リスト”は、西洋の技術だけではないようで…
鉄砲、薬品、洋書、理化学機器…などはわかりやすいのですが、意外と飲食などの嗜好品が多いようです。
ブランデー、葡萄酒、リキュール、タバコ…あたりは“ちょいワル”な印象(?)の品物にも思えます。
それらが何処かで販売されて、佐賀藩や武雄領に利益をもたらしたのか、そもそも「長崎方」とは何者なのか…詳しくはわからないそうです。

――ところで随分と前に“本編”で、
佐賀の“蘭学ネットワーク”の関係者が集まる場面を書いたことがあります。その中心にいたのが、隠居した武雄領主の鍋島茂義。
〔参照:
行きがかり上で書いた話だったので、今、見返すとまとまりがありません…
ただ、「長崎方」とは、当時の佐賀にいた“西洋かぶれ”でやる気のある人々の集まりだったのかもしれない、とは思います。
――たとえば、ペリー来航の10年以上前の1840年代に、
当時の武雄では、西洋式の青銅砲を製作していましたが、のち幕府の韮山反射炉の開発責任者となる、江川英龍も視察に立ち寄ったといいます。
〔参照:
また、実際に韮山反射炉が造られた時期には、すでに反射炉で鉄製大砲を生産していた佐賀から技術者が派遣された、という記録もあるそうです。
〔参照(後半):

幕末期、近代化のトップランナーの佐賀藩を先導した武雄領が、日本でも最先端の地域だった、ということはオーバーな話では無いと思います。
――歴史の表舞台から消えたように見えた、龍造寺氏。
その家系から、日本の近代化の先陣を切る人物が出ていたというのも、佐賀の皆様にとってロマンのある話だと思うのですが、どうでしょうか。
2024年02月10日
「ある“お買い物リスト”の話(前編)」
こんばんは。
人は、その一生の中で、どれぐらいの“買い物”をするのでしょうか。
前回の記事で、「佐賀の品物への愛」を語ることを思い立った私。
〔参照:「新章は始められるのか」〕
何を欲して、何に価値を見いだすのか…ふと、ご自身の“お買い物リスト”を振り返ってみれば、貴方の求める人生の姿が見えるのかもしれません。

――ある日。県内に住む、叔父上から連絡があった。
「今日、“例の物”を送ったとよ。」という知らせだ。
私は、その報を聞いて微笑んだ。佐賀(市内)に用事があるときに…と、お願いしていた品物が届くそうだ。
“例の物”といっても送付元は現代の佐賀県で、幕末の佐賀藩ではないから、当然、アームストロング砲やスペンサー銃が送られてくるわけではない。
では、青が美しい伊万里の鍋島焼や、赤が冴える有田焼の陶磁器でも来るかと言えば、それも違う。

――しかし“例の物”は、幕末に世界に輸出された品物の1つではあった。
幕末期、世界での需要にお茶の供給は追いついていなかったという。日本からも海外に茶葉が輸出されたが、佐賀周辺では、やはり嬉野茶である。
〔参照:「主に嬉野市民の方を対象にしたつぶやき(前編)」〕
海の向こうでも紅茶として飲まれていた、嬉野茶のもう1つの姿が、この令和の現代に洗練されて、帰ってきている。
――その荷物を受け取った夜。
箱の封を開けると、また、新しい世界が見えた気がした。
待望の“嬉野の和紅茶”4種類のそろい踏みである。なんてスタイリッシュな。この並びだけでかなりの壮観だ。

もし佐賀藩で喩えるならば「武雄・須古・多久…そして、諫早」の龍造寺四家とでも語ろうか…と一般の方には、たぶん理解しづらい感覚が頭を巡る。
〔参照(中盤):「佐賀と長崎をつなぐもの」〔諫早駅〕〕
要は、かなり嬉しかったので、喜んで写真を撮った。
――叔父上にとりいそぎ、御礼の電話をする。
「これは、もう見た感じ…すでに美味しいです!」
「そうね、そいは良かったばい。」
その言葉には、何か含みがあった。
「…他にも、なにか別の物があったのですか?」
「そうとよ。実は“さくら”のあるらしかよ。」
「“さくら”とは…?」
その日は在庫が無くて入手できなかったらしいが、さらに別の種類で“さくら”のブレンド和紅茶も存在するらしい。
そういえば、“さくら”の紋様は、別に入手した小城羊羹の包装にも見かけた。「九州の小京都」の1つともいう、小城は桜のイメージが強い。

――「嬉野紅茶と、小城羊羹も合いそうだな…」
私は、佐賀県の各地がつながっていく思考を深める。叔父上は、言葉を継ぐ。
「そういえば、海苔も送っておいたとよ。」
「おお、この海苔ならば、こちらでも入手したことが…」
これは偶然にも、前回の記事で語ったものと同じ佐賀海苔だった。
都会の片隅で、今日も人波に流される、まるで“大河の一滴”のような私だが、佐賀の特産品が眼前に来れば見逃しはしない。

――こういう時の私は、都会に流される群衆の1人ではなくなる。
「佐賀の品物を選び取る」という、私自身の意思が強くはたらくからだ。近隣の大型スーバー等で、九州の特産を集めたフェアが狙い目と言える。
なお、佐賀の品物が出ない自称・“九州物産展”を、私は九州物産展とは認めていない。これも、私なりの意地なのだ。
――さて、「この海苔ならば、買った事はあるぞ」と思った私だったが、
「白のパッケージもあるのか…? これは見たことがない!」
黒いパッケージに入った味付海苔。その味わいについては、前回に語った。パリパリと海苔をかじりながら、有明の海を感じたものだ。

もう1つ、白いパッケージに包まれた、別種があるとは知らなかった。
「…塩海苔ですか?」
「ごま油も、使こうとるばい。」
叔父上は、そう補足をする。私は思った、「これも絶対、美味しいやつだ…」と。
――やはり、叔父上は常に、私の一歩先を行っている。
私は、叔父上にこう伝えた。
「また、次の機会があれば、ぜひ、買い物をお願いします。」
「佐賀駅まで行ったら、けっこう色々とあるけん。よかとよ。」
叔父上は、いつものように飄々(ひょうひょう)としていたのだった。

この私の生き方に「なぜ、通販を使わないのか」と疑問を持つ方もいるかもしれないが、それには幾つかの答えがある。
佐賀の品物を取り寄せ始めれば、たぶん私は買い過ぎる。"帰藩”のための資金も必要だ…というのも理由の1つだ。
――「買い物には、その人の“生き方”が表れる…」
こうして私は、自分自身の振る舞いからも、それを感じ取った。
本編・第20話「長崎方控」を何とか書き始めたいのだが、こんな日常から得た感覚も活かしていこうと思っている…

――ここから、幕末期の佐賀藩に話を戻します。
先ほど触れた、龍造寺四家の1つ・武雄領を治めたのが、鍋島茂義公。
第10代佐賀藩主だった鍋島直正公にとっては、義兄(姉の夫)にあたり、名実ともに“兄貴分”でした。
ご存知の方も多いと思いますが、「長崎方控」というのは、その鍋島茂義公の“お買い物リスト”の名前なのです。
…この続きは、後編で書く予定にしています。
人は、その一生の中で、どれぐらいの“買い物”をするのでしょうか。
前回の記事で、「佐賀の品物への愛」を語ることを思い立った私。
〔参照:
何を欲して、何に価値を見いだすのか…ふと、ご自身の“お買い物リスト”を振り返ってみれば、貴方の求める人生の姿が見えるのかもしれません。
――ある日。県内に住む、叔父上から連絡があった。
「今日、“例の物”を送ったとよ。」という知らせだ。
私は、その報を聞いて微笑んだ。佐賀(市内)に用事があるときに…と、お願いしていた品物が届くそうだ。
“例の物”といっても送付元は現代の佐賀県で、幕末の佐賀藩ではないから、当然、アームストロング砲やスペンサー銃が送られてくるわけではない。
では、青が美しい伊万里の鍋島焼や、赤が冴える有田焼の陶磁器でも来るかと言えば、それも違う。
――しかし“例の物”は、幕末に世界に輸出された品物の1つではあった。
幕末期、世界での需要にお茶の供給は追いついていなかったという。日本からも海外に茶葉が輸出されたが、佐賀周辺では、やはり嬉野茶である。
〔参照:
海の向こうでも紅茶として飲まれていた、嬉野茶のもう1つの姿が、この令和の現代に洗練されて、帰ってきている。
――その荷物を受け取った夜。
箱の封を開けると、また、新しい世界が見えた気がした。
待望の“嬉野の和紅茶”4種類のそろい踏みである。なんてスタイリッシュな。この並びだけでかなりの壮観だ。
もし佐賀藩で喩えるならば「武雄・須古・多久…そして、諫早」の龍造寺四家とでも語ろうか…と一般の方には、たぶん理解しづらい感覚が頭を巡る。
〔参照(中盤):
要は、かなり嬉しかったので、喜んで写真を撮った。
――叔父上にとりいそぎ、御礼の電話をする。
「これは、もう見た感じ…すでに美味しいです!」
「そうね、そいは良かったばい。」
その言葉には、何か含みがあった。
「…他にも、なにか別の物があったのですか?」
「そうとよ。実は“さくら”のあるらしかよ。」
「“さくら”とは…?」
その日は在庫が無くて入手できなかったらしいが、さらに別の種類で“さくら”のブレンド和紅茶も存在するらしい。
そういえば、“さくら”の紋様は、別に入手した小城羊羹の包装にも見かけた。「九州の小京都」の1つともいう、小城は桜のイメージが強い。
――「嬉野紅茶と、小城羊羹も合いそうだな…」
私は、佐賀県の各地がつながっていく思考を深める。叔父上は、言葉を継ぐ。
「そういえば、海苔も送っておいたとよ。」
「おお、この海苔ならば、こちらでも入手したことが…」
これは偶然にも、前回の記事で語ったものと同じ佐賀海苔だった。
都会の片隅で、今日も人波に流される、まるで“大河の一滴”のような私だが、佐賀の特産品が眼前に来れば見逃しはしない。
――こういう時の私は、都会に流される群衆の1人ではなくなる。
「佐賀の品物を選び取る」という、私自身の意思が強くはたらくからだ。近隣の大型スーバー等で、九州の特産を集めたフェアが狙い目と言える。
なお、佐賀の品物が出ない自称・“九州物産展”を、私は九州物産展とは認めていない。これも、私なりの意地なのだ。
――さて、「この海苔ならば、買った事はあるぞ」と思った私だったが、
「白のパッケージもあるのか…? これは見たことがない!」
黒いパッケージに入った味付海苔。その味わいについては、前回に語った。パリパリと海苔をかじりながら、有明の海を感じたものだ。
もう1つ、白いパッケージに包まれた、別種があるとは知らなかった。
「…塩海苔ですか?」
「ごま油も、使こうとるばい。」
叔父上は、そう補足をする。私は思った、「これも絶対、美味しいやつだ…」と。
――やはり、叔父上は常に、私の一歩先を行っている。
私は、叔父上にこう伝えた。
「また、次の機会があれば、ぜひ、買い物をお願いします。」
「佐賀駅まで行ったら、けっこう色々とあるけん。よかとよ。」
叔父上は、いつものように飄々(ひょうひょう)としていたのだった。
この私の生き方に「なぜ、通販を使わないのか」と疑問を持つ方もいるかもしれないが、それには幾つかの答えがある。
佐賀の品物を取り寄せ始めれば、たぶん私は買い過ぎる。"帰藩”のための資金も必要だ…というのも理由の1つだ。
――「買い物には、その人の“生き方”が表れる…」
こうして私は、自分自身の振る舞いからも、それを感じ取った。
本編・第20話「長崎方控」を何とか書き始めたいのだが、こんな日常から得た感覚も活かしていこうと思っている…

――ここから、幕末期の佐賀藩に話を戻します。
先ほど触れた、龍造寺四家の1つ・武雄領を治めたのが、鍋島茂義公。
第10代佐賀藩主だった鍋島直正公にとっては、義兄(姉の夫)にあたり、名実ともに“兄貴分”でした。
ご存知の方も多いと思いますが、「長崎方控」というのは、その鍋島茂義公の“お買い物リスト”の名前なのです。
…この続きは、後編で書く予定にしています。
2024年02月04日
「新章は始められるのか」
こんにちは。およそ10日ばかり更新を止めてしまいました。
「人は色々な事を同時に考えると、短期記憶が飛んでしまう」と聞いたことがあります。平たく言えば「忙しいと、つい先ほどの事を忘れる」という意味でしょう。
本日の記事は、このところ疲れ気味な私が「再生とは何か?」を考えるためのつぶやきです。
――「最近、時々物忘れが…」と感じ始めている、私。
あまり“老化”とは認めたくないので、こう考えました。「これは、複数の案件を同時並行で処理した結果、短期記憶が飛んでしまったのだ」と。
なお、これは私の現状分析に基づく判断なので、本当に物忘れが気になる方は、ぜひとも病院を受診してください。
それはさておき、新年に入ってから何かと忙しく、全く“本編”の下書きも進んでいない状況があります。

――「母なる佐賀の海よ、私に力を!」
そんなふうに叫んだわけでもないのですが、私の手元には、以前入手していた“佐賀海苔”がありました。
「母なる佐賀の海!」とは言いましたが、当然ながら、私の母が有明海というわけではありません。
そういう設定だと、私は干潟で生まれた“潟〔ガタ〕太郎”みたいな存在になるので、鬼退治でもできれば良いのですが、そんな昔話、聞いたことも無いです。
有明海が「佐賀の者にそれだけの恵みを与える大きな存在」という喩えです。
――前置きが長くなりましたが、数枚の佐賀海苔をパリパリとかじります。
「おお、みるみるうちに気力の戻ってくるとよ!」
…と、そこまで劇的に回復するわけでもないのですが、これが結構美味しくて、また数枚を取り出します。

――「これは、良かごた!」
さすがは“海苔の中の海苔”とでも言うべき、佐賀海苔。私だけの効能かもしれませんが、力が回復してきた印象があります。
ここで、私は“幕末佐賀藩の大河ドラマ”を追い求めるあまり、抑えてきた事があるのではないか?と思い至ります。
「特定の商品や企業のことを強調してはいけない、NHKなんで!」とばかり、無自覚のうち、己に制限をかけてきたように感じたのです。
そもそも、私は「テレビでは民放より、NHKを見ている事が多い」だけの、ただの“一(いち)視聴者”に過ぎません。
――「もっと、佐賀の品物への愛も語ろう!」
私のこの気付き。密かに“第20話”へとつながっていく予定です。
「人は色々な事を同時に考えると、短期記憶が飛んでしまう」と聞いたことがあります。平たく言えば「忙しいと、つい先ほどの事を忘れる」という意味でしょう。
本日の記事は、このところ疲れ気味な私が「再生とは何か?」を考えるためのつぶやきです。
――「最近、時々物忘れが…」と感じ始めている、私。
あまり“老化”とは認めたくないので、こう考えました。「これは、複数の案件を同時並行で処理した結果、短期記憶が飛んでしまったのだ」と。
なお、これは私の現状分析に基づく判断なので、本当に物忘れが気になる方は、ぜひとも病院を受診してください。
それはさておき、新年に入ってから何かと忙しく、全く“本編”の下書きも進んでいない状況があります。
――「母なる佐賀の海よ、私に力を!」
そんなふうに叫んだわけでもないのですが、私の手元には、以前入手していた“佐賀海苔”がありました。
「母なる佐賀の海!」とは言いましたが、当然ながら、私の母が有明海というわけではありません。
そういう設定だと、私は干潟で生まれた“潟〔ガタ〕太郎”みたいな存在になるので、鬼退治でもできれば良いのですが、そんな昔話、聞いたことも無いです。
有明海が「佐賀の者にそれだけの恵みを与える大きな存在」という喩えです。
――前置きが長くなりましたが、数枚の佐賀海苔をパリパリとかじります。
「おお、みるみるうちに気力の戻ってくるとよ!」
…と、そこまで劇的に回復するわけでもないのですが、これが結構美味しくて、また数枚を取り出します。
――「これは、良かごた!」
さすがは“海苔の中の海苔”とでも言うべき、佐賀海苔。私だけの効能かもしれませんが、力が回復してきた印象があります。
ここで、私は“幕末佐賀藩の大河ドラマ”を追い求めるあまり、抑えてきた事があるのではないか?と思い至ります。
「特定の商品や企業のことを強調してはいけない、NHKなんで!」とばかり、無自覚のうち、己に制限をかけてきたように感じたのです。
そもそも、私は「テレビでは民放より、NHKを見ている事が多い」だけの、ただの“一(いち)視聴者”に過ぎません。
――「もっと、佐賀の品物への愛も語ろう!」
私のこの気付き。密かに“第20話”へとつながっていく予定です。