2023年12月29日
「遠路の剣Ⅱ(金波)」
こんばんは。
すでに年の瀬ですが、気にせず続けます。当ブログでは佐賀県に行くことを“帰藩”として語ることが多いですが、私は今年も帰れませんでした。
ところで、江戸期に佐賀藩ではなかった、佐賀県内の唐津(唐津藩)や、基山(対馬藩田代領)に行くことがあったなら、それは“帰藩”に数えて良いのか?
…という課題は、実際に行くことができてから考えます。

そして、私が佐賀に行く代わり…でもないのですが、叔父上がこちらに来た時の話を、長い日記のように綴るシリーズ、2回目も書くことにしました。
――叔父上と会ったのは、その旅の終盤。
次の予定も入っているらしく、なかなか慌ただしいスケジュールになっている。
ゆっくり話が出来たのは、移動中の電車内。ここで私は、大都市圏で習得してきた技能を使った。あらゆる予測をたてて、混雑する電車を避けたのだ。

結果、その車内が、一番落ち着いて話ができた。
向かい合った座席。叔父上が私の顔を見て、ふいに言葉を発する。
「“SR”くん。自分だけが、仕事をしよると思うてはならんばい。」
――その時、私は言葉の意味を、うまく拾えなかった。
かつて叔父上が、仕事で相当に苦労していた事は知っている。
たしかに皆、忙しく働いているわけだから疲れているのは、私だけではない。「もうちょっと、頑張ろうよ」という励ましなのかとも考えた。
そういえば、私が崇敬する“佐賀の大先輩”たちは、働き者ぞろいだ。

今年は「憧れるのをやめましょう」という言葉も流行った。だが、私には“大先輩”の背中を追えるほどの能力は無いので、憧れを持つぐらいにしておく。
――話を戻す。乗車した路線は、海に沿って進むようだ。
流れゆく空を眺める、叔父上。会話の内容はさておき、車窓から見えるのは、師走の好天である。光る海も見えてきた。
普段は「無理ば、せんごと…」と気遣ってくれることが多いので、先ほどの言葉も、単なる叱咤激励とは考えにくい。
ただ、今は「よかとね~」という雰囲気で海辺を見つめるものだから、それ以上は私からも、仕事の話をするのは差し控えた。
――まもなく、電車は目的地へと到着する。
「次の駅で、降ります。」
「そうね、思うたより早かったとね。」
次の予定は、郊外に出た海沿いの町にあると聞いていた。私は、その案内役のような役回りをしている。
あわせて、1時間ばかりは走ったか。電車は降車駅のホームへと入線した。

――私も来たことがない、海沿いの町。
下車してからも離れた海が見える。陽光をはじいて、波が金色に彩られる。
「にゃ~、あいつ。良かところに住んどるばい…」
意外だったが、叔父上は、この町に旧知の友がいるのだという。
もとは九州で作った友達のはずが、いろいろな場所に居るものだと感心する。
――友人との待ち合わせまでには、まだ時間があるという。
見た感じ、夏が似合いそうな海辺の町。だが、季節は師走。そこまで、寒くはなくとも12月である。
「珈琲でも、飲みますか。」
「よかごたよ。」
ある店のテラスで、サクサクと美味いがボロボロと崩れるパイをかじりながら、珈琲を飲む。
「身体の疲れは寝たらよかけど、気ば遣こうたら、ざっといかんばい。」
やはり、叔父上の言葉は心配の気持ちの表れだったらしい。今の私からは、疲労感という名の“波動”でも出ているのか…と驚く。
――ゆっくりと珈琲を飲み終えると…
いつの間にか、向こう側の道路に一台の車が止まっている。
「…んにゃ、あいつ、もう来とるばい。」
「あの車ですか。」
「そのうち来ると思うとったけんが、意外と早かったとね。」
この辺り、叔父上は、県内と同じ感覚でゆっつらと構えていたらしい。

その叔父上も、地元では佐賀の者のたしなみなのか、土いじりをする。
優れた注意力は、空を舞い果実を狙いに来る鳥や、地を這って野菜を奪いに来る小動物に向けられるから、旅先の都市圏ではのんびりしてしまっている。
――さて、ここで豪快にして、陽気な感じの年配の方が現れた。
「お前は、もう、来とったんかい。」
「予定よりちょっと、早う着いたとよ。」
叔父上は、その年配の男性に親しげに言葉を返す。これは、学生時代の友人と感動の再会の場面であろうか。
「それにしても、海の近くで、よかところに住んどるとね~。」
「ここに住んどるわけじゃないぞ。車に乗らんと、家には着かん。」
海沿いの景色を讃える叔父上。「家はもっと先だ!」と言葉を返す旧知の友。

「…んにゃ、こがん、きれいか海が見られるだけでよかごた。」
「おう、そんなにいいか?」
冬でも光る海は絵画的というか、詩的というか、上手く形容できないが美しい。
――叔父上があまりにも、自宅の近所を褒めまくるので、
旧知の友人さんも、やはり悪い気はしないらしい。この辺で、後ろに立っていた私の存在に気付いたようだ。
「ところで、一緒にいるのは誰ね?紹介ば、せんね。」
「あぁ、この辺りに住んどる甥っ子ばい。ここまで付いてきてもらったとよ。」
私は案内だけのつもりで行動していたが、期せず叔父上の学生時代の姿を見たような気がした。
長い歳月を経たはずだが、それを“解凍”するように、元の時間に戻っていく。景色だけでなく、この海辺の町で良いものを見た…と、私はそう思った。
(…おそらく、あと1回ぐらいは続きます)
すでに年の瀬ですが、気にせず続けます。当ブログでは佐賀県に行くことを“帰藩”として語ることが多いですが、私は今年も帰れませんでした。
ところで、江戸期に佐賀藩ではなかった、佐賀県内の唐津(唐津藩)や、基山(対馬藩田代領)に行くことがあったなら、それは“帰藩”に数えて良いのか?
…という課題は、実際に行くことができてから考えます。
そして、私が佐賀に行く代わり…でもないのですが、叔父上がこちらに来た時の話を、長い日記のように綴るシリーズ、2回目も書くことにしました。
――叔父上と会ったのは、その旅の終盤。
次の予定も入っているらしく、なかなか慌ただしいスケジュールになっている。
ゆっくり話が出来たのは、移動中の電車内。ここで私は、大都市圏で習得してきた技能を使った。あらゆる予測をたてて、混雑する電車を避けたのだ。
結果、その車内が、一番落ち着いて話ができた。
向かい合った座席。叔父上が私の顔を見て、ふいに言葉を発する。
「“SR”くん。自分だけが、仕事をしよると思うてはならんばい。」
――その時、私は言葉の意味を、うまく拾えなかった。
かつて叔父上が、仕事で相当に苦労していた事は知っている。
たしかに皆、忙しく働いているわけだから疲れているのは、私だけではない。「もうちょっと、頑張ろうよ」という励ましなのかとも考えた。
そういえば、私が崇敬する“佐賀の大先輩”たちは、働き者ぞろいだ。
今年は「憧れるのをやめましょう」という言葉も流行った。だが、私には“大先輩”の背中を追えるほどの能力は無いので、憧れを持つぐらいにしておく。
――話を戻す。乗車した路線は、海に沿って進むようだ。
流れゆく空を眺める、叔父上。会話の内容はさておき、車窓から見えるのは、師走の好天である。光る海も見えてきた。
普段は「無理ば、せんごと…」と気遣ってくれることが多いので、先ほどの言葉も、単なる叱咤激励とは考えにくい。
ただ、今は「よかとね~」という雰囲気で海辺を見つめるものだから、それ以上は私からも、仕事の話をするのは差し控えた。
――まもなく、電車は目的地へと到着する。
「次の駅で、降ります。」
「そうね、思うたより早かったとね。」
次の予定は、郊外に出た海沿いの町にあると聞いていた。私は、その案内役のような役回りをしている。
あわせて、1時間ばかりは走ったか。電車は降車駅のホームへと入線した。
――私も来たことがない、海沿いの町。
下車してからも離れた海が見える。陽光をはじいて、波が金色に彩られる。
「にゃ~、あいつ。良かところに住んどるばい…」
意外だったが、叔父上は、この町に旧知の友がいるのだという。
もとは九州で作った友達のはずが、いろいろな場所に居るものだと感心する。
――友人との待ち合わせまでには、まだ時間があるという。
見た感じ、夏が似合いそうな海辺の町。だが、季節は師走。そこまで、寒くはなくとも12月である。
「珈琲でも、飲みますか。」
「よかごたよ。」
ある店のテラスで、サクサクと美味いがボロボロと崩れるパイをかじりながら、珈琲を飲む。
「身体の疲れは寝たらよかけど、気ば遣こうたら、ざっといかんばい。」
やはり、叔父上の言葉は心配の気持ちの表れだったらしい。今の私からは、疲労感という名の“波動”でも出ているのか…と驚く。
――ゆっくりと珈琲を飲み終えると…
いつの間にか、向こう側の道路に一台の車が止まっている。
「…んにゃ、あいつ、もう来とるばい。」
「あの車ですか。」
「そのうち来ると思うとったけんが、意外と早かったとね。」
この辺り、叔父上は、県内と同じ感覚でゆっつらと構えていたらしい。
その叔父上も、地元では佐賀の者のたしなみなのか、土いじりをする。
優れた注意力は、空を舞い果実を狙いに来る鳥や、地を這って野菜を奪いに来る小動物に向けられるから、旅先の都市圏ではのんびりしてしまっている。
――さて、ここで豪快にして、陽気な感じの年配の方が現れた。
「お前は、もう、来とったんかい。」
「予定よりちょっと、早う着いたとよ。」
叔父上は、その年配の男性に親しげに言葉を返す。これは、学生時代の友人と感動の再会の場面であろうか。
「それにしても、海の近くで、よかところに住んどるとね~。」
「ここに住んどるわけじゃないぞ。車に乗らんと、家には着かん。」
海沿いの景色を讃える叔父上。「家はもっと先だ!」と言葉を返す旧知の友。
「…んにゃ、こがん、きれいか海が見られるだけでよかごた。」
「おう、そんなにいいか?」
冬でも光る海は絵画的というか、詩的というか、上手く形容できないが美しい。
――叔父上があまりにも、自宅の近所を褒めまくるので、
旧知の友人さんも、やはり悪い気はしないらしい。この辺で、後ろに立っていた私の存在に気付いたようだ。
「ところで、一緒にいるのは誰ね?紹介ば、せんね。」
「あぁ、この辺りに住んどる甥っ子ばい。ここまで付いてきてもらったとよ。」
私は案内だけのつもりで行動していたが、期せず叔父上の学生時代の姿を見たような気がした。
長い歳月を経たはずだが、それを“解凍”するように、元の時間に戻っていく。景色だけでなく、この海辺の町で良いものを見た…と、私はそう思った。
(…おそらく、あと1回ぐらいは続きます)
タグ :佐賀
2023年12月23日
「遠路の剣(雑踏)」
こんばんは。
今年も残り、あと1週間ほどになりました。
執筆者として、この1年を振り返ると「書きたい事が浮かんできてもまとめる力に欠けた」という印象です。この状態は今も変わっていません。
今年も、たびたび“帰藩”を叫ぶも、なかなか佐賀県に近づくこともできない私。逆に、つい最近、県内に住む叔父上が、こちらを訪ねてきたことがありました。

当ブログでは時折、『○○の剣』という大層なタイトルの記事を投稿しますが、もともとは、私の文章の練習から始まったシリーズです。
〔参照:「望郷の剣」〕
そのため、“本編”っぽい台詞回しもありますが、内容は長い日記みたいなものなので、気楽にお読みいただければ幸いです。
――ある、晩秋の日。叔父上から電話が入った。
「あぁ、叔父上。息災ですか。」
「元気とよ。それはよかけん、今度、そっちの近くまで行くことになったとよ。」
今年も、佐賀に行くためのまとまった時間は取れなかった。仕事や雑務に追われても、若ければ気力と体力で補うが、どちらも決定的に不足している。
「…え、叔父上が、こちらに来るのですか。」
私も歳を取ってきているのだから、叔父上が若いまま…ということはない。相応の年齢とそれなりの持病もある。

叔父上も、また「枯れても走ることを命と呼べ」という心持ちなのか。
――聞けば、旅行社のツアーで近くまで来るのだという、
しばらく、新型コロナ禍の影響で動けていなかった反動もあるのか、叔父上の動きも最近では活発である。
少し前、「青春って密なので」という言葉を聞いたが、年寄りの場合も、自在に動ける残り年数は限られる。その時間は、意外と“密”であり、貴重なのだ。
「近くに寄るけん、時間があったら、会えんかにゃ。」
「…ほう、私が佐賀県まで行かずとも、こちらで会えるという事ですか。」

当ブログで使う県内と周辺の写真は叔父上が撮ったものも多い。電話や郵便でのやり取りはよく行っているが、直接、会えてはいなかった。
――実際には、4年ほど対面していない。
私の住む街の近隣まで来るのなら、再会の好機と見てよいだろう。
「週末なら、会いに行けるくらいの時間はあります。」
「よかたい。そいじゃ、よろしく頼むとよ。」
叔父上からの頼まれ事もあり、週末に私はターミナル駅まで出向くこととした。
――そして、師走に入ってからの、ある週末に。
私はターミナル駅まで来ていた。四方八方からキャリーケースの車輪の音をガラガラと響かせながら、大勢の人が不規則に動いている。
概ね、待ち合わせ場所は決めていたものの、この人の数だ。あぁ大都市圏。もはや、人が人の影で見えなくなっている。
何やら、どこまでも、佐賀が遠く霞むような心地がした…

「さて叔父上は、到着しているのか…」
一瞬、ボーッとして、意識が佐賀駅近くまで飛んでいたが、気を取り直した私。
ここは、大都会の雑踏の中である。
この際、電話をかけて連絡をとる事にする。携帯電話のない、昔の待ち合わせならば、なかなか会うことができない状況だろう。
「待ち合わせでのすれ違い」それはそれで、ドラマ性がある響きだが、たぶん現代人には、そんな余裕はない。
――私は、携帯を手にして発信をしながらも、周囲を見回した。
ガチャッ。電話が通話状態となる。
「おじうえ~、どちらですか~」
「あ、もう着いてるとよ。」
ひょっとすると、今居るフロア(階数)が違うのか。私は、四周の人波を避けながら、叔父上を探した。

ごったがえす人々の動きは、まるで水の粒が集まって、大河の渦となるが如くに、ガヤガヤと流れに流れている。
文字・映像・音声…と情報量が多すぎるターミナル駅。私とて、日々の通勤で鍛えてはいるが、朝のラッシュ時よりも、人の流れが読みづらい。
…待ち人を探すには、かなり騒々しく、手強い環境である。
――このような都市圏の状況を表すのに、
“過剰負荷環境”という言葉があり、人間の脳の処理能力が、情報の多さに追いつかない事を示すらしい。
「田舎の人に比べて、都会の人は冷たく感じる」と言われる理由は、都会の人が、今より情報を増やさないよう防御するからだ…と
たしかNHKの番組『チコちゃんに叱られる』では、そんな説明だった。もはや、「ボーッと生きる」は贅沢なのだ…そんな気分も感じる、せわしない年末だ。

――話を戻す。私は通話を続けたままで、叔父上を探した。
「あ、叔父上…見っけ。」
私の視界には、4年前と全然、変わらない叔父上の姿が入る。どうやら、まだ移動しながら話していたらしい。
「おじうえ~、そこに居ましたか!」
「そがんね。で、“SR”くんは、どこに居っとね?」
叔父上からは、私を見つけられていない様子だ。電話でつながりながら、ご本人まで近づく、これは昭和や平成初期には無かった、待ち合わせの景色だ。
――私は歩みを進めながら、軽く手を振った。
「ここです。叔父上!」
「…ん、どこね?」
「目の前にいます。“ぶんぶんぶん”と、手を振りよるです!」
今度は携帯を耳にあてている、叔父上の目線を遮るように、手を振った。
「あ、そこに居ったね。前より痩せとったし、マスクで気付かんかったばい。」
…どうやら、私の方は叔父上と会っていなかった、この4年で、幾分、変わってしまったらしい。
(この話は…気が向いたら、続きを書きます)
今年も残り、あと1週間ほどになりました。
執筆者として、この1年を振り返ると「書きたい事が浮かんできてもまとめる力に欠けた」という印象です。この状態は今も変わっていません。
今年も、たびたび“帰藩”を叫ぶも、なかなか佐賀県に近づくこともできない私。逆に、つい最近、県内に住む叔父上が、こちらを訪ねてきたことがありました。

当ブログでは時折、『○○の剣』という大層なタイトルの記事を投稿しますが、もともとは、私の文章の練習から始まったシリーズです。
〔参照:
そのため、“本編”っぽい台詞回しもありますが、内容は長い日記みたいなものなので、気楽にお読みいただければ幸いです。
――ある、晩秋の日。叔父上から電話が入った。
「あぁ、叔父上。息災ですか。」
「元気とよ。それはよかけん、今度、そっちの近くまで行くことになったとよ。」
今年も、佐賀に行くためのまとまった時間は取れなかった。仕事や雑務に追われても、若ければ気力と体力で補うが、どちらも決定的に不足している。
「…え、叔父上が、こちらに来るのですか。」
私も歳を取ってきているのだから、叔父上が若いまま…ということはない。相応の年齢とそれなりの持病もある。
叔父上も、また「枯れても走ることを命と呼べ」という心持ちなのか。
――聞けば、旅行社のツアーで近くまで来るのだという、
しばらく、新型コロナ禍の影響で動けていなかった反動もあるのか、叔父上の動きも最近では活発である。
少し前、「青春って密なので」という言葉を聞いたが、年寄りの場合も、自在に動ける残り年数は限られる。その時間は、意外と“密”であり、貴重なのだ。
「近くに寄るけん、時間があったら、会えんかにゃ。」
「…ほう、私が佐賀県まで行かずとも、こちらで会えるという事ですか。」
当ブログで使う県内と周辺の写真は叔父上が撮ったものも多い。電話や郵便でのやり取りはよく行っているが、直接、会えてはいなかった。
――実際には、4年ほど対面していない。
私の住む街の近隣まで来るのなら、再会の好機と見てよいだろう。
「週末なら、会いに行けるくらいの時間はあります。」
「よかたい。そいじゃ、よろしく頼むとよ。」
叔父上からの頼まれ事もあり、週末に私はターミナル駅まで出向くこととした。
――そして、師走に入ってからの、ある週末に。
私はターミナル駅まで来ていた。四方八方からキャリーケースの車輪の音をガラガラと響かせながら、大勢の人が不規則に動いている。
概ね、待ち合わせ場所は決めていたものの、この人の数だ。あぁ大都市圏。もはや、人が人の影で見えなくなっている。
何やら、どこまでも、佐賀が遠く霞むような心地がした…
「さて叔父上は、到着しているのか…」
一瞬、ボーッとして、意識が佐賀駅近くまで飛んでいたが、気を取り直した私。
ここは、大都会の雑踏の中である。
この際、電話をかけて連絡をとる事にする。携帯電話のない、昔の待ち合わせならば、なかなか会うことができない状況だろう。
「待ち合わせでのすれ違い」それはそれで、ドラマ性がある響きだが、たぶん現代人には、そんな余裕はない。
――私は、携帯を手にして発信をしながらも、周囲を見回した。
ガチャッ。電話が通話状態となる。
「おじうえ~、どちらですか~」
「あ、もう着いてるとよ。」
ひょっとすると、今居るフロア(階数)が違うのか。私は、四周の人波を避けながら、叔父上を探した。

ごったがえす人々の動きは、まるで水の粒が集まって、大河の渦となるが如くに、ガヤガヤと流れに流れている。
文字・映像・音声…と情報量が多すぎるターミナル駅。私とて、日々の通勤で鍛えてはいるが、朝のラッシュ時よりも、人の流れが読みづらい。
…待ち人を探すには、かなり騒々しく、手強い環境である。
――このような都市圏の状況を表すのに、
“過剰負荷環境”という言葉があり、人間の脳の処理能力が、情報の多さに追いつかない事を示すらしい。
「田舎の人に比べて、都会の人は冷たく感じる」と言われる理由は、都会の人が、今より情報を増やさないよう防御するからだ…と
たしかNHKの番組『チコちゃんに叱られる』では、そんな説明だった。もはや、「ボーッと生きる」は贅沢なのだ…そんな気分も感じる、せわしない年末だ。

――話を戻す。私は通話を続けたままで、叔父上を探した。
「あ、叔父上…見っけ。」
私の視界には、4年前と全然、変わらない叔父上の姿が入る。どうやら、まだ移動しながら話していたらしい。
「おじうえ~、そこに居ましたか!」
「そがんね。で、“SR”くんは、どこに居っとね?」
叔父上からは、私を見つけられていない様子だ。電話でつながりながら、ご本人まで近づく、これは昭和や平成初期には無かった、待ち合わせの景色だ。
――私は歩みを進めながら、軽く手を振った。
「ここです。叔父上!」
「…ん、どこね?」
「目の前にいます。“ぶんぶんぶん”と、手を振りよるです!」
今度は携帯を耳にあてている、叔父上の目線を遮るように、手を振った。
「あ、そこに居ったね。前より痩せとったし、マスクで気付かんかったばい。」
…どうやら、私の方は叔父上と会っていなかった、この4年で、幾分、変わってしまったらしい。
(この話は…気が向いたら、続きを書きます)
タグ :佐賀
2023年12月18日
「どうする?の感想」
こんばんは。
日曜に最終回を迎えた、2023年大河ドラマ『どうする家康』。
この1年間、たしか1回も落とさず、視聴できたと思います。他に準備中の記事もあるのですが、いま感想を書きたい気分ですので、先に投稿しました。
いち大河ドラマファンの個人的な意見として、お読みいただければ幸いです。※ドラマから受けた印象で作成しましたので、記述は正確でない可能性があります。
――何だか、すごかった最終回。
今年の大河ドラマ『どうする家康』。インターネット上では、あちこちに記事やコメントが。賛否両論あるようですが、私は、意欲的な作品だったと捉えました。
有名どころの歴史上の人物に、人気者のキャストを充てたので、冒険ができたところもあるのかもしれません。

「はじめて大河ドラマを1年通して見た」という声も見かければ、「現代人の感覚に寄りすぎている」という意見もあるようです。
私としては、色々な見方ができることも含めて「大河ドラマは面白い」と感じていて、今回は「わかりやすい」物語だったと評価します。
そのためか、“大河ドラマ初心者”受けも良かったのかもしれません。以下で、私が本作品の特徴だと思った内容を、最終回を題材に書いてみます。
――まず、「①対比が、わかりやすい。」
最終回、栄華を誇った豊臣家は、大坂夏の陣での敗北が決定的となり、天下の名城だった大坂城は炎に包まれます。
ここでの茶々〔演:北川景子〕が、とにかく怖い。怪演と言っても良さそうです。
最愛の息子・豊臣秀頼〔演:作間龍斗〕は、壮絶な覚悟で自害するとともに、母である茶々(淀殿)には生きてほしい…と言い残します。

この秀頼公、今までになく勇ましくて、徳川家康〔演:松本潤〕としては絶対に消しておくべき人物、という説得力がありました。
火の勢いも強まり、豊臣方の人物が次々と自害する中で、独り立つのは茶々。
――ここで、茶々は“呪いのような言葉”を発します。
戦乱がなくなり、「やさしくて、卑屈な、かよわき者の国になる」と。この言葉が「令和の日本を感じさせる…」と、堪(こた)えた視聴者も多数のようです。
誰に向けるでもない最期の演説。茶々は壮絶な生涯を自らの手で終えます。
もちろん、主人公・家康はその場には居らず、遠く炎上する大坂城を合掌しながら見つめていました。
――平和な江戸時代が訪れ…
茶々の残響に、まだ視聴者が引きずられる頃、家康にも死期が迫ります。
いわゆる“お迎え現象”が起きたのか、若いままの正室・瀬名〔演:有村架純〕と長男・信康〔演:細田佳央太〕が姿を見せます。
この家康の妻子は、当時の織田・徳川連合と敵対する、武田氏とつながる事を模索したのが露見し、命を落としています。

作中では「皆が争わずに済む、平和への道」を求めていた瀬名。もう余命幾ばくもない、老いた家康を褒め称えました。
「孫の家光が鎧を着て、戦に出なくても良い世の中を作ったのは、すごい事だ」と“救いのある言葉”を与えます。
――まるで「光の瀬名と、闇の茶々」。
史実は諸説あるのですから、異論は出るでしょうし、夢うつつの設定であれば、あらゆる展開が可能です。
本作での瀬名の思考は、「現代的すぎる」との批判もあると思います。
それでも、徳川政権が戦乱の時代を終わらせたことは否めないので、「物語の作り方としては上手い」と感じるところでした。

――次に、「②繰り返しが、わかりやすい。」
結果、炎の中で命を落とした、豊臣秀頼と母の茶々でしたが、秀頼の妻・千姫〔演:原菜乃華〕が必死で助命を訴えるのも印象的でした。
徳川家康の孫である、千姫。
最初は、豊臣家の中で“よそ者”で、立つ瀬もないような印象で出ていたのですが、次第に夫・秀頼だけでなく、義母・茶々との絆も深まり…
大坂の陣の終盤では、気構えまで“豊臣の妻”になっています。
最後まであきらめず、徳川家の姫である自分の力で、夫と義母を救おうと、祖父の家康に必死に食い下がる千姫。これも涙を誘う、迫真の演技でした。
――どこかで見た感じの設定…と思ったのですが、
先ほど①でも書いた、家康の長男・信康に幼少期から嫁入りし、喧嘩をしながら、ともに育ってきた妻・五徳姫〔演:久保史緒里〕を連想しました。
千姫が徳川の姫であるように、かつて織田家を背負って嫁いだ五徳が存在を描かれていました。
最初は気位の高い、“よそ者”だったものの、最後は夫・信康と義母・瀬名をどうにか助けたい!という、心の動きが強く見えたのを思い出します。
この大河ドラマ、諸説あるのは知りつつも作品の軸はブレさせない…、物語としての構成は硬めの、大河ドラマという印象です。

――本作で、繰り返し出ると言えば“海老すくい”。
最初こそ、楽しく明るく、結束の強い、三河武士団を示すような郷土の踊り。
そんな演出だったと思いますが、やがて踊る場面と、誰が踊るかで、喜びも悲しみも表現できる。
過ぎ去りし時間、失ったものの大きさまで表せる“万能のダンス”に成長していった…ように見えました。
――最後に、「③回想が、わかりやすい。」
壮絶な大坂の陣の終幕、その後に病に倒れた家康は、生きながらに“神”扱いとなっていきます。
最後のエピソードは、徳川家康の長男・信康と、織田家の姫・五徳とのまだ幼い夫婦の、祝言(婚礼)に関わる回想でした。
作中では時間をさかのぼる回想で、話の説明をつける手法も多用されたと思います。登場人物は多数、脇役の心情までを見せるための演出なのでしょう。

――おそらくは、徳川家康と家臣たちが、最も幸せだった時期。
年代的に主な登場人物たちは皆若く、先達の年配者もまだ生きています。
若き家康と、妻の瀬名が仲良く並んで語らう。そして、家臣団の集う城から向こうを見遣ると…
暁の空に浮かぶ景色は、現代へとつながった江戸の街。高層ビルの立ち並ぶ東京の遠景のようです。
実は、私はラストシーンに東京が映るとは気づかず、「東京タワーがある!」とか、インターネット上の情報で知って見返しました。

――ひと言で、語ると…
「今年も、面白かった!」なのですが、当ブログのテーマもありますので…
「ところで、幕末の佐賀藩が大河ドラマになるのは、いつだろう…」という言葉も申し添えておきたいと思います。
〇これまでの『どうする家康』の感想記事など
〔初回〕「今年は、どうする…」
〔序盤〕「猫の鳴きまねと、おんな城主」
〔終盤〕「年末まで、どうする。」
日曜に最終回を迎えた、2023年大河ドラマ『どうする家康』。
この1年間、たしか1回も落とさず、視聴できたと思います。他に準備中の記事もあるのですが、いま感想を書きたい気分ですので、先に投稿しました。
いち大河ドラマファンの個人的な意見として、お読みいただければ幸いです。※ドラマから受けた印象で作成しましたので、記述は正確でない可能性があります。
――何だか、すごかった最終回。
今年の大河ドラマ『どうする家康』。インターネット上では、あちこちに記事やコメントが。賛否両論あるようですが、私は、意欲的な作品だったと捉えました。
有名どころの歴史上の人物に、人気者のキャストを充てたので、冒険ができたところもあるのかもしれません。
「はじめて大河ドラマを1年通して見た」という声も見かければ、「現代人の感覚に寄りすぎている」という意見もあるようです。
私としては、色々な見方ができることも含めて「大河ドラマは面白い」と感じていて、今回は「わかりやすい」物語だったと評価します。
そのためか、“大河ドラマ初心者”受けも良かったのかもしれません。以下で、私が本作品の特徴だと思った内容を、最終回を題材に書いてみます。
――まず、「①対比が、わかりやすい。」
最終回、栄華を誇った豊臣家は、大坂夏の陣での敗北が決定的となり、天下の名城だった大坂城は炎に包まれます。
ここでの茶々〔演:北川景子〕が、とにかく怖い。怪演と言っても良さそうです。
最愛の息子・豊臣秀頼〔演:作間龍斗〕は、壮絶な覚悟で自害するとともに、母である茶々(淀殿)には生きてほしい…と言い残します。
この秀頼公、今までになく勇ましくて、徳川家康〔演:松本潤〕としては絶対に消しておくべき人物、という説得力がありました。
火の勢いも強まり、豊臣方の人物が次々と自害する中で、独り立つのは茶々。
――ここで、茶々は“呪いのような言葉”を発します。
戦乱がなくなり、「やさしくて、卑屈な、かよわき者の国になる」と。この言葉が「令和の日本を感じさせる…」と、堪(こた)えた視聴者も多数のようです。
誰に向けるでもない最期の演説。茶々は壮絶な生涯を自らの手で終えます。
もちろん、主人公・家康はその場には居らず、遠く炎上する大坂城を合掌しながら見つめていました。
――平和な江戸時代が訪れ…
茶々の残響に、まだ視聴者が引きずられる頃、家康にも死期が迫ります。
いわゆる“お迎え現象”が起きたのか、若いままの正室・瀬名〔演:有村架純〕と長男・信康〔演:細田佳央太〕が姿を見せます。
この家康の妻子は、当時の織田・徳川連合と敵対する、武田氏とつながる事を模索したのが露見し、命を落としています。
作中では「皆が争わずに済む、平和への道」を求めていた瀬名。もう余命幾ばくもない、老いた家康を褒め称えました。
「孫の家光が鎧を着て、戦に出なくても良い世の中を作ったのは、すごい事だ」と“救いのある言葉”を与えます。
――まるで「光の瀬名と、闇の茶々」。
史実は諸説あるのですから、異論は出るでしょうし、夢うつつの設定であれば、あらゆる展開が可能です。
本作での瀬名の思考は、「現代的すぎる」との批判もあると思います。
それでも、徳川政権が戦乱の時代を終わらせたことは否めないので、「物語の作り方としては上手い」と感じるところでした。
――次に、「②繰り返しが、わかりやすい。」
結果、炎の中で命を落とした、豊臣秀頼と母の茶々でしたが、秀頼の妻・千姫〔演:原菜乃華〕が必死で助命を訴えるのも印象的でした。
徳川家康の孫である、千姫。
最初は、豊臣家の中で“よそ者”で、立つ瀬もないような印象で出ていたのですが、次第に夫・秀頼だけでなく、義母・茶々との絆も深まり…
大坂の陣の終盤では、気構えまで“豊臣の妻”になっています。
最後まであきらめず、徳川家の姫である自分の力で、夫と義母を救おうと、祖父の家康に必死に食い下がる千姫。これも涙を誘う、迫真の演技でした。
――どこかで見た感じの設定…と思ったのですが、
先ほど①でも書いた、家康の長男・信康に幼少期から嫁入りし、喧嘩をしながら、ともに育ってきた妻・五徳姫〔演:久保史緒里〕を連想しました。
千姫が徳川の姫であるように、かつて織田家を背負って嫁いだ五徳が存在を描かれていました。
最初は気位の高い、“よそ者”だったものの、最後は夫・信康と義母・瀬名をどうにか助けたい!という、心の動きが強く見えたのを思い出します。
この大河ドラマ、諸説あるのは知りつつも作品の軸はブレさせない…、物語としての構成は硬めの、大河ドラマという印象です。
――本作で、繰り返し出ると言えば“海老すくい”。
最初こそ、楽しく明るく、結束の強い、三河武士団を示すような郷土の踊り。
そんな演出だったと思いますが、やがて踊る場面と、誰が踊るかで、喜びも悲しみも表現できる。
過ぎ去りし時間、失ったものの大きさまで表せる“万能のダンス”に成長していった…ように見えました。
――最後に、「③回想が、わかりやすい。」
壮絶な大坂の陣の終幕、その後に病に倒れた家康は、生きながらに“神”扱いとなっていきます。
最後のエピソードは、徳川家康の長男・信康と、織田家の姫・五徳とのまだ幼い夫婦の、祝言(婚礼)に関わる回想でした。
作中では時間をさかのぼる回想で、話の説明をつける手法も多用されたと思います。登場人物は多数、脇役の心情までを見せるための演出なのでしょう。

――おそらくは、徳川家康と家臣たちが、最も幸せだった時期。
年代的に主な登場人物たちは皆若く、先達の年配者もまだ生きています。
若き家康と、妻の瀬名が仲良く並んで語らう。そして、家臣団の集う城から向こうを見遣ると…
暁の空に浮かぶ景色は、現代へとつながった江戸の街。高層ビルの立ち並ぶ東京の遠景のようです。
実は、私はラストシーンに東京が映るとは気づかず、「東京タワーがある!」とか、インターネット上の情報で知って見返しました。

――ひと言で、語ると…
「今年も、面白かった!」なのですが、当ブログのテーマもありますので…
「ところで、幕末の佐賀藩が大河ドラマになるのは、いつだろう…」という言葉も申し添えておきたいと思います。
〇これまでの『どうする家康』の感想記事など
〔初回〕
〔序盤〕
〔終盤〕
タグ :大河ドラマ
2023年12月08日
「4周年に思うこと。」
こんばんは。
今年も季節は飛ぶように過ぎ、すでに師走。そして、どうやら年内に佐賀へと“帰藩”することもかなわないようです。
3月から休んでは途切れながらも書き続けた、“本編”第19話「閑叟上洛」を、ようやく先日に書き上げました。

先ほど「ブログ開設4周年」のお知らせが来ましたが、当ブログも、到底勢いがあるとは言えない状況。
これから「どうする?」と考えるところも。
その一方で、第20話のタイトルは、あえて「長崎方控」にしてみたい…とか、次のイメージも浮かんできてはいます。

このタイトル、おそらく佐賀県の…特に武雄あたりの歴史に詳しい人ならば、私が何を書こうとしているか、先読みもできるかもしれません。
たとえ書き進める速さを失っても、書きたい事、まだ消えてはいないようです。
「枯れても走ることを命と呼べ」
これは、アニメ『ゾンビランドサガ』の主題歌の一節で、妙に印象に残っているフレーズ。そんな言葉が胸をよぎる、開設4周年の日です。
今年も季節は飛ぶように過ぎ、すでに師走。そして、どうやら年内に佐賀へと“帰藩”することもかなわないようです。
3月から休んでは途切れながらも書き続けた、“本編”第19話「閑叟上洛」を、ようやく先日に書き上げました。
先ほど「ブログ開設4周年」のお知らせが来ましたが、当ブログも、到底勢いがあるとは言えない状況。
これから「どうする?」と考えるところも。
その一方で、第20話のタイトルは、あえて「長崎方控」にしてみたい…とか、次のイメージも浮かんできてはいます。
このタイトル、おそらく佐賀県の…特に武雄あたりの歴史に詳しい人ならば、私が何を書こうとしているか、先読みもできるかもしれません。
たとえ書き進める速さを失っても、書きたい事、まだ消えてはいないようです。
「枯れても走ることを命と呼べ」
これは、アニメ『ゾンビランドサガ』の主題歌の一節で、妙に印象に残っているフレーズ。そんな言葉が胸をよぎる、開設4周年の日です。
2023年12月01日
第19話「閑叟上洛」㉔(御所へと参じる日)
こんばんは。本編の第19話、ようやく今回で完結です。
文久二年の十二月。佐賀の前藩主・鍋島直正(閑叟)は、京都で御所を訪問し、孝明天皇と対面しました。(西暦でいえば1863年1月頃になるようです。)
十一月の22日に藩の蒸気船・電流丸で、大坂(大阪)の港に到着。そのわずか2日後の24日には、京都入りしたという慌ただしい日程が伝わります。

御所に参じた日は、十二月初旬(2日)とも中旬(19日)であるともいいますが、鍋島直正が朝廷と関わったことは、諸大名から相当に注目されたそうです。
――京の都。黒谷という閑かに社寺の佇む地区。
直正(閑叟)は、大坂の街で休養を取ることもなく、急ぎ足で京都入りした。
御所からは、北東の方角にある寺が宿舎となった。直正の世話をする“執事”・古川与一(松根)は、その寺の境内で段取りをする。

「その荷は、次の間に運ぶとよい。そいは献上の品、丁重にな。」
「はっ、古川さま。」
古川は、直正の生活面を支えており、ほぼ政務に関わらないが、その人望は厚い。藩士たちも、指示に従ってテキパキと動いている。
「もうじき日も暮れおるけん、急がんばならん。」
「ばってん、古川さまの仕切りがよか。何とかなるばい。」
「閑叟さまにとっても、晴れ舞台であるゆえな。つい張り切りおる。」
作業も、あと一息となりそうだ。藩士たちに、穏やかな表情で言葉を返す古川は、公家との交流が深い文化人でもある。
有力大名であっても御所に招かれるなど、今までは考えもしなかった。気合いが入るのも、自然なことだった。
――ようやく九州からの旅路が、ひと段落した、直正(閑叟)だが…
活き活きとする、古川とは対照的に、直正は重たい表情をする。話に聞く、海の向こうの清国では列強の侵出が進んでいるようだ。
国内では、朝廷の使者を奉じてではあるが、兵を率いて江戸へも行った、薩摩の動きも、火種になりそうな気配がする。
佐賀には若く優秀な藩士こそ多いものの、以前のように、直正の深い憂慮を受け止められるほどの経験を持つ人物は、もはや身近にはいない。

「…武雄の茂義さまの、お加減はどうであろうか。」
佐賀藩の西部にある武雄領の前領主は鍋島茂義といい、10歳ばかり年上。直正の姉の夫でもあった。
茂義と言えば、直正以上に西洋かぶれの“蘭癖”で、幼い頃から多大な影響を受けた。こんな心持ちの時にこそ、話がしたい“兄貴分”でもある。
「…遠き旅路から佐賀に戻らば、すぐ武雄に見舞いにいかねばならぬ。」
この時の直正(閑叟)には、早く京を出て江戸に来るようにという催促も届いていた。幕府には、朝廷と佐賀藩が接近してほしくないという思惑もあるようだ。
――七日ほどの後、文久二年も末の月、師走となった。
陽は差し込んでいるものの、盆地である京の都、寒さがひとしお身に染みる。十二月初旬のある日、側近の古川は朝から落ち着かない。
「閑叟さま。いよいよ、内裏(だいり)に参じる日にございますな。」
「うむ、そろそろ発つとするか。」
肥前国の“中将”・鍋島直正(閑叟)。京に入るや、朝廷から早速招きがあり、孝明天皇の住まう御所へと向かう。

ここまで江戸期を通じて、幕府(徳川政権)は、朝廷と諸大名の接近するのを徹底して封じてきたが、このところ、朝廷が力を持ち、慣例は崩れつつある。
朝廷から直接のお呼びがあるのも、異例のことだったので、さすがの直正も、天皇に拝謁するのは初めてのことである。
「この歳になっても、緊張をすることがあるものだな。」
やや堅い表情の直正を見て、傍に立つ古川は微笑みを浮かべていた。
――公家屋敷の建ち並ぶ中、御所への道を進む。
ふだんは武家の格好をする佐賀の大殿だが、この日は宮中に出向くにふさわしい公家風の装束のようだ。

「“中将”。遠く肥前より、よう参ったのう。」
場を仕切ると見える公家の発声で、対面の儀礼が進む。万事が仰々しくあるが、相応の風格がある。
「すぐさま駆けつけるべきところ、遅れて参じまして、恥じ入るばかりです。」
夏には上洛すると返答したものの、直正は病がちで、佐賀からの出立は晩秋になってしまった。
「殊勝な心がけや。お上(かみ)は、“中将”が参じたこと、お喜びやぞ。」
公家たちにも佐賀藩が異国に対抗しうる武力を持つとは伝わっているらしい。孝明天皇は、直正に期待するところが大きいようだ。

――さらに、天皇(お上)の意向として、直正に声がかかる。
「お上は、もうそっと近う寄れと仰せや。」
公家が、直正に呼びかける。
「はっ。」
手短かに答えて、玉座に向って距離を詰める直正。
「この盃(さかずき)を取らせる。肥前の武威、頼みにしておるぞ。」
平たく言えば、佐賀藩の武力で異国を打ち払う、“攘夷”の実行を期待するということだ。
そして、天皇自らが、直正に“天杯”を授けるという、破格の対応でもある。
「…勿体(もったい)のうございます。ありがたき幸せ。」
――周囲は色々な見方をするが、性根は真っ直ぐな鍋島直正(閑叟)。
孝明天皇から直々の期待が伝わり、さらに責任の重さを感じる。たしかに佐賀が培った技術を用いれば、国を守るための抑えになるかもしれない。
その力は、直正が若い頃から積み上げてきたものだ。
しかし、ともに強い佐賀藩への改革を進めた面々も、年を経るにつれ、次々と世を去った。あるいは長年の無理がたたり、動くこともままならない者もいる。

「もはや…万事、余が決めていかねばならぬか。」
直正とて歳を重ねて、健康も損なった。御所からの帰路に、一人つぶやく言葉に、走り続ける辛さが浮かぶ。
以前なら、年長者や同世代の者たちが、直正の決断を支えてきた。ふと気が付けば、残る者はわずかとなっている。
めでたいはずの参内の日だが、直正が感じたのは、深まる孤独だった。
(第20話「長崎方控」に続く)
文久二年の十二月。佐賀の前藩主・鍋島直正(閑叟)は、京都で御所を訪問し、孝明天皇と対面しました。(西暦でいえば1863年1月頃になるようです。)
十一月の22日に藩の蒸気船・電流丸で、大坂(大阪)の港に到着。そのわずか2日後の24日には、京都入りしたという慌ただしい日程が伝わります。
御所に参じた日は、十二月初旬(2日)とも中旬(19日)であるともいいますが、鍋島直正が朝廷と関わったことは、諸大名から相当に注目されたそうです。
――京の都。黒谷という閑かに社寺の佇む地区。
直正(閑叟)は、大坂の街で休養を取ることもなく、急ぎ足で京都入りした。
御所からは、北東の方角にある寺が宿舎となった。直正の世話をする“執事”・古川与一(松根)は、その寺の境内で段取りをする。
「その荷は、次の間に運ぶとよい。そいは献上の品、丁重にな。」
「はっ、古川さま。」
古川は、直正の生活面を支えており、ほぼ政務に関わらないが、その人望は厚い。藩士たちも、指示に従ってテキパキと動いている。
「もうじき日も暮れおるけん、急がんばならん。」
「ばってん、古川さまの仕切りがよか。何とかなるばい。」
「閑叟さまにとっても、晴れ舞台であるゆえな。つい張り切りおる。」
作業も、あと一息となりそうだ。藩士たちに、穏やかな表情で言葉を返す古川は、公家との交流が深い文化人でもある。
有力大名であっても御所に招かれるなど、今までは考えもしなかった。気合いが入るのも、自然なことだった。
――ようやく九州からの旅路が、ひと段落した、直正(閑叟)だが…
活き活きとする、古川とは対照的に、直正は重たい表情をする。話に聞く、海の向こうの清国では列強の侵出が進んでいるようだ。
国内では、朝廷の使者を奉じてではあるが、兵を率いて江戸へも行った、薩摩の動きも、火種になりそうな気配がする。
佐賀には若く優秀な藩士こそ多いものの、以前のように、直正の深い憂慮を受け止められるほどの経験を持つ人物は、もはや身近にはいない。

「…武雄の茂義さまの、お加減はどうであろうか。」
佐賀藩の西部にある武雄領の前領主は鍋島茂義といい、10歳ばかり年上。直正の姉の夫でもあった。
茂義と言えば、直正以上に西洋かぶれの“蘭癖”で、幼い頃から多大な影響を受けた。こんな心持ちの時にこそ、話がしたい“兄貴分”でもある。
「…遠き旅路から佐賀に戻らば、すぐ武雄に見舞いにいかねばならぬ。」
この時の直正(閑叟)には、早く京を出て江戸に来るようにという催促も届いていた。幕府には、朝廷と佐賀藩が接近してほしくないという思惑もあるようだ。
――七日ほどの後、文久二年も末の月、師走となった。
陽は差し込んでいるものの、盆地である京の都、寒さがひとしお身に染みる。十二月初旬のある日、側近の古川は朝から落ち着かない。
「閑叟さま。いよいよ、内裏(だいり)に参じる日にございますな。」
「うむ、そろそろ発つとするか。」
肥前国の“中将”・鍋島直正(閑叟)。京に入るや、朝廷から早速招きがあり、孝明天皇の住まう御所へと向かう。
ここまで江戸期を通じて、幕府(徳川政権)は、朝廷と諸大名の接近するのを徹底して封じてきたが、このところ、朝廷が力を持ち、慣例は崩れつつある。
朝廷から直接のお呼びがあるのも、異例のことだったので、さすがの直正も、天皇に拝謁するのは初めてのことである。
「この歳になっても、緊張をすることがあるものだな。」
やや堅い表情の直正を見て、傍に立つ古川は微笑みを浮かべていた。
――公家屋敷の建ち並ぶ中、御所への道を進む。
ふだんは武家の格好をする佐賀の大殿だが、この日は宮中に出向くにふさわしい公家風の装束のようだ。
「“中将”。遠く肥前より、よう参ったのう。」
場を仕切ると見える公家の発声で、対面の儀礼が進む。万事が仰々しくあるが、相応の風格がある。
「すぐさま駆けつけるべきところ、遅れて参じまして、恥じ入るばかりです。」
夏には上洛すると返答したものの、直正は病がちで、佐賀からの出立は晩秋になってしまった。
「殊勝な心がけや。お上(かみ)は、“中将”が参じたこと、お喜びやぞ。」
公家たちにも佐賀藩が異国に対抗しうる武力を持つとは伝わっているらしい。孝明天皇は、直正に期待するところが大きいようだ。
――さらに、天皇(お上)の意向として、直正に声がかかる。
「お上は、もうそっと近う寄れと仰せや。」
公家が、直正に呼びかける。
「はっ。」
手短かに答えて、玉座に向って距離を詰める直正。
「この盃(さかずき)を取らせる。肥前の武威、頼みにしておるぞ。」
平たく言えば、佐賀藩の武力で異国を打ち払う、“攘夷”の実行を期待するということだ。
そして、天皇自らが、直正に“天杯”を授けるという、破格の対応でもある。
「…勿体(もったい)のうございます。ありがたき幸せ。」
――周囲は色々な見方をするが、性根は真っ直ぐな鍋島直正(閑叟)。
孝明天皇から直々の期待が伝わり、さらに責任の重さを感じる。たしかに佐賀が培った技術を用いれば、国を守るための抑えになるかもしれない。
その力は、直正が若い頃から積み上げてきたものだ。
しかし、ともに強い佐賀藩への改革を進めた面々も、年を経るにつれ、次々と世を去った。あるいは長年の無理がたたり、動くこともままならない者もいる。
「もはや…万事、余が決めていかねばならぬか。」
直正とて歳を重ねて、健康も損なった。御所からの帰路に、一人つぶやく言葉に、走り続ける辛さが浮かぶ。
以前なら、年長者や同世代の者たちが、直正の決断を支えてきた。ふと気が付けば、残る者はわずかとなっている。
めでたいはずの参内の日だが、直正が感じたのは、深まる孤独だった。
(第20話「長崎方控」に続く)