2025年03月09日

「シリーズ・増える賢人の謎(⑧25賢人・唐人町)」

こんばんは。前回、2027年の大河ドラマが「逆賊の幕臣」に決定した…という記事にしました。少し、深掘りしたくなるテーマです。

しかし、投稿の間隔も空いています。今年は「なるべく佐賀のことを書きたい!」ので、元のシリーズに戻ります。

――佐賀市内のメインストリートを駅前から南へ。

駅前すぐ近くに“佐賀七賢人”を中心として、幕末・明治期の偉人が10名
参照:「シリーズ・増える賢人の謎(⑥25賢人・駅前中央通り)」

少し進んで、佐賀銀行本店前に、唐津出身の近代建築の巨匠が2名
参照:「シリーズ・増える賢人の謎(⑦25賢人・佐賀銀行前)」

さらに歩くと、今度は“文化人”として語るべき枠の1名が居られます。

――“九州の小京都”の1つ、とも言われる。小城市。

伝統製法の羊羹が有名な街であることは、県内の皆様には説明不要でしょう。

江戸時代には、佐賀藩の支藩の1つ、小城藩がありました。この小城支藩も、佐賀本藩と同じく教育熱心な印象です。

幕末明治期を中心に、佐賀の歴史への関心が強い私の感覚でまとめると…

――小城の出身者からは、“文化”の香りがする。

ここ唐人町のまちかどでただ1人、に向き合っておられる姿。明治を代表する書家・中林梧竹です。

駅前の10名のうち、明治初期外務卿・政治家でもある、副島種臣も、書家「蒼海」として知られています。

中林梧竹は「近代書道の礎」「書聖」とまで語られるようですが、その副島の勧めで、明治天皇に臨書を献上したこともあるようです。

45歳の頃から一切の職を辞して、書に専念した…人柄は親しみやすかったようですが、ただ一人のモニュメントからは、そんな孤高の雰囲気も漂います。

――では、「中林梧竹」以外の、小城の人物は…

大通りモニュメントはありませんが、語りたい方は幾人か思いつきます。

○現在の工芸教育を築いた、納富介次郎

幕府の上海での貿易調査団に加わり、長州藩の高杉晋作からは「佐賀が、調査記録のため送り込んだ画工の少年」と認識されたようです。

明治期には、ウィーン万博などで海外調査を行い、日本の貿易収支の改善のため、工芸品の量産体制を整える必要に気づきます。

そのための教育活動にも熱心に取り組み、県内の有田工業高校だけでなく、金沢(石川県)など各地でも学校を創設しています。

○山梨県や熊本県で行政官として活躍した、富岡敬明

若き日の江藤新平が通った、小城の剣術道場の兄弟子。謹慎中の江藤を保護した人でもあります。

熊本県令のときに、西南戦争で籠城…という経歴もあります。晩年も過ごした山梨県では、漢詩の名手としても知られたようです。

佐賀にはモニュメントは見当たりませんが、開港に尽力した、熊本の世界遺産・三角西港に銅像があると知りました。

○知られざる小城の志士古賀利渉(祇園太郎)

統制の取れていた佐賀藩内では珍しく、京都での尊王攘夷活動に身を投じた志士。もともとは小城の庄屋。離別の和歌をしたためて脱藩しています。

朝廷の教育機関(学習院)へと出仕したとか、長州の奇兵隊に加わったとか、いろいろと謎の多い人物。

佐賀の志士たちの秘密結社・義祭同盟に出入りし、当時は重罪だった脱藩者のはずが、すんなり小城に戻れているし、やはり不思議な動きをしています。


このように、幕末期の小城を顧みるだけで、けっこう魅力的な人物たちが見えてきます。

中央大通りに設置されたモニュメントは「佐賀県ゆかりの偉人・25人」ですが、「佐賀の“賢人”はその数に収まらない」と、私の気持ちが生じてくるのです。








  


Posted by SR at 22:26 | Comments(0) | 戦略編(S)

2025年03月05日

2027年「大河ドラマ」決定に想う…

こんばんは。私事が立て込んでおり、気付くのが遅れました。別のシリーズでの掲載途中ですが、気付いてしまった以上、何か書かずにはいられません。

――2027年の「大河ドラマ」は…『逆賊の幕臣』

主人公:小栗忠順(小栗上野介)

主演:松坂桃李さん


大河ドラマの第66作は、幕末史の“ウラ側”に迫るそうです。

――明治の政治家・大隈重信(佐賀藩 出身)は…

後年、この主人公・小栗忠順を評して、
明治政府の近代化政策のほとんどは小栗の模倣」と語ったといいます。

実際に明治近代化を引っ張ってきた大隈の言葉はやはり重みがあるのか、NHK公式サイトでの発表にも引用されています。
(参考)NHK公式サイト※外部リンク

――私の気持ちの整理は、あらためて付けますが、

日本の近代幕末から始まった」ことが、大河ドラマ逆賊の幕臣』の前提になるようです。

明治維新の前段階に徳川政権による近代化があった…」という理解ならば、江戸末期に幕府近代化に協力した、佐賀藩の立場も見えてくるはず…

この発表を受けて、もし「幕末佐賀藩大河ドラマ」があったとして、私ならどう描くか…今までの小栗忠順の関連記事を以下にご紹介したいと思います。

〔関連記事〕※史実に着想を得たフィクション要素も含みます。

○前回の幕末大河ドラマ青天を衝け』関連
2021/06/04

○私が見たい「幕末佐賀藩の大河ドラマ」での描き方

○小栗忠順を抜擢した、大老・井伊直弼について

私は気付いていませんでしたが、2日前の3月3日が、この大河ドラマの発表日だったようです。

その3月3日(但し、旧暦)が大老井伊直弼が落命した“桜田門外の変”発生日だったので、それも関係あるのかな…と考えたりもしました。






  


Posted by SR at 22:57 | Comments(0) | 「大河ドラマ」関連

2025年03月01日

「シリーズ・増える賢人の謎(⑦25賢人・佐賀銀行前)」

こんばんは。佐賀市内のメインストリートを歩くイメージで、軽快に進めていく…予定だったこのシリーズ。諸般の事情があって記事の間隔が空いています。

佐賀駅から中央大通りを南に進む設定です。なお、使用する写真は5~6年ほど前のものが多く、現状と変わっている場合もあるので、ご留意ください。

当ブログは主に「佐賀藩」の話題を綴りますが、現在の「佐賀県」は江戸期の「唐津藩」も「対馬藩(田代領)」も含んでいる事は、ご存じの方も多いでしょう。

私は九州以外の地域にいますので、「唐津という街があるのは知っているが、佐賀県とは思わなかった…」という反応も、けっこう聞くことがあります。

今回は「佐賀県ゆかりの偉人・25名」の中でも、かつて唐津市周辺に存在した藩が輩出した、2名の“賢人”のモニュメントをご紹介します。

――幕末期。唐津藩もまた、激動の時代に立ち向かっていた。

江戸時代にずっと、鍋島家が治めていた佐賀藩と違って、お殿様の家が次々と交代をしていたのが唐津藩

幕末黎明期の「天保の改革」を行った、水野忠邦。その水野家が浜松に移って、代わりに唐津藩主に入ったのが小笠原家

激動の時代に入っても忠義を尽くし、揺らいでいく幕府を支えて、イギリスなど列強との交渉に心を砕いたのが、唐津の若殿(藩主の名代)・小笠原長行公。

――こうして明治維新では、唐津藩は“勝者”になれませんでした。

小笠原長行も、よりによって、この時期に幕府老中として奮闘した人物。

しっかりと海外を見つめて、現実的な対応をした印象はありますが、その強烈な苦労が語られることも、ほとんどありません。

政治的には不遇だった小笠原さまですが、開明的な人だったらしく、その影響は日本の近代につながっています。

後に唐津藩の英学校「耐恒寮」から、“ある分野”で突出した業績を残す人たちが出ているのです。

――では、佐賀市内の大通りに場面を戻します。

10名のモニュメントが揃っていた、駅前のひろばから大通りを少し歩くと、左手に佐賀銀行本店の建物が見えてきます。

そこに、お二人の唐津藩出身者が並んでいました。2名の職業は「建築家」。

幕末の唐津から、明治へとつながったもの。それは日本近代建築の先駆者たちだったのですね。

立ち姿でメガネをかけた人が、辰野金吾。椅子に腰掛けた方が、曾禰達蔵

2人には共通の経歴があり、先述の英学校教師として1年ほど唐津に来た高橋是清に師事。のち、工部大学校でイギリス人のコンドルに建築を学びます。

――その後の2名の活躍は…

辰野金吾は、明治の人々に「これじゃあ、辰野“堅固”だ!」と言われるほど、頑丈な建物を設計。

美しくて強い建物を造った、建築家・辰野の業績は、全国の各地に残りますが、やはり目立つのは「東京駅」でしょうか。

一方の曾禰(そね)達蔵は、その東京駅に隣接した丸の内日本初オフィスビル街の建築を手掛ける、という業績が残ります。

建築の師匠がイギリス人だったので、やっぱり“ロンドン風”だったようですね。曾禰の建築は、日本最大のビジネス街へと発展していきます。

――なお、曾禰達蔵の出生地は、

江戸にあった唐津藩邸だったようで、先ほどの小笠原長行公に少年期から仕えていたようです。

主君は不遇でしたが、才能を見いだした家臣が活躍したことで、少しは小笠原さまのも果たされたのかもしれません。

後進の建築家の育成にも力を注ぎ、「近代建築の“賢人”」とも言える、お二人のモニュメントは佐賀市内だけでなく、唐津市内にも設置されたと聞きます。

有明海に近い県南部佐賀市から、玄海灘を見つめる県北部唐津市まで想いを馳せる…こともできそうです。


  


Posted by SR at 21:27 | Comments(0) | 戦略編(S)