2022年04月30日
「幕末!京都事件ファイル①〔前編〕」
こんばんは。
現在、当ブログでは“本編”・第18話「京都見聞」を書き進めていますが、ここから3回ほど、ゴールデンウィーク特別企画です。
私が見たい「幕末佐賀藩の大河ドラマ」のイメージ、佐賀県にある各地域の風景や人物の描き方、隣県の福岡や長崎の幕末期をどう表現するか…
また幕末期が題材の大河ドラマ作品の中で、どのような立ち位置を選択するか…という各種の課題があり、足らない才能の限界を顧みずに挑んでいます。
――さて、文久二年(1862年)夏頃。
第2部の主人公である江藤新平が国元・佐賀を脱藩し、京都での活動を開始しました。ここが“本編”の現在地です。
前回、京都(伏見)に到着したばかりの江藤の前に“祇園太郎”と名乗る男が現れました。謎の男のはずが、途中から「佐賀ことば」で語り出す展開に。
〔参照:第18話「京都見聞」⑥(もう1人の脱藩者)〕
“祇園太郎”は「九州の小京都」とも称される小城出身の実在人物。活動内容等には謎が多いようで、この時点では長崎に居た可能性もあるようです。

しかし、ここで数年前から上方(京・大坂)で活動した人物が登場したことには、江藤にも協力者がいたのではないかという推測と、構成上の都合があります。
不穏な空気の漂う京の都。新選組などの幕末の大河ドラマの“常連組”が、出揃う前の時期。そこには、激動の始まりとでも言うべき事件がありました。
――ここで、「幕末!京都事件ファイル①」です。
前回描いた「①寺田屋騒動」から。薩摩藩(鹿児島)の同士討ちの事件ですが、現在の“福岡県”の志士たちとも関わりが深いです。
〔参照:第18話「京都見聞」③(寺田屋騒動の始末)〕
「寺田屋事件」と呼ばれることもありますが、他にも同名称の事件があるため、“本編”では「寺田屋騒動」で通しています。
事件の発生時期は、文久二年(1862年)四月。新暦でいえば初夏の5月頃。場所は現・京都市南部。“川の港町”として栄えた水運の拠点・伏見です。

――この「①寺田屋騒動」は
「薩摩藩志士粛清事件」という事件名でも表されるようです。
伏見の船宿・寺田屋に集結した薩摩の勤王派志士が、幕府寄りの公家だった関白・九条尚忠の暗殺を計画したことが事件の背景にあります。
その動機は幕府に近い要人の襲撃を強行し、薩摩の国父(藩主の父)・島津久光が「もう“倒幕”に立つしかない状況」を作り出す事。
しかし、国父・島津久光の狙いは“公武合体”による幕府の改革で、主導権を取ること。亡兄・島津斉彬が熱心だった“一橋派”の復権運動にも見えます。
〔参照:「将軍継嗣問題をどう描くか?(後編)」〕
そして、“倒幕”は考えていなかったようです。逆に薩摩藩側は過激な志士たちを制圧するため、剣術に長けた藩士を派遣し、事態の収拾をはかります。
――鎮撫(制圧)する側の薩摩藩士は、
結局、説得に応じない勤王派に斬りかかりました。
制圧に赴いた側にも犠牲者が出ましたが、勤王派の被害は凄まじく、斬り合いの時点だけで6名が落命したそうです。
この壮絶な場面は、2018年大河ドラマ『西郷どん』でも描かれました。薩摩藩士・有馬新七〔演:増田修一郎〕が印象的だったように思います。
〔参照(中盤):「新キャストを考える④」(“絶望”を越えて行け)〕
倒幕への熱すぎる想いのもとで、同士討ちに散った“勤王派”。
同郷の者たちが残した“無念”が、のちに薩摩藩士たちが“武力倒幕”に執念を燃やす伏線とも考えられます。

――なお、同じ寺田屋には、
薩摩藩士のほか、公家の関係者、現在は福岡県内にあたる久留米藩、秋月藩などの志士も居ました。
久留米の真木和泉などは自藩に引き渡されたようですが、秋月の海賀宮門など薩摩方面に送られる方々も…。この辺り、本編でも表現を試みたいです。
本編によく名前が出る福岡の志士・平野国臣は、福岡藩も“倒幕”に協力するよう工作に動いており、事件現場には不在だったようです。
――こうして薩摩藩は、勤王派を追放し…
「幕府寄り・開国受容の薩摩 VS 倒幕派・攘夷実行の長州」という対立軸が、しばらく展開するようです。
そんな中、佐賀藩のある動きにより、薩摩藩との間に軋轢(あつれき)が生じるのですが、続きは“本編”の展開にあわせて書こうと思います。
なお、この『事件ファイル』は、中編に続く予定です。
現在、当ブログでは“本編”・第18話「京都見聞」を書き進めていますが、ここから3回ほど、ゴールデンウィーク特別企画です。
私が見たい「幕末佐賀藩の大河ドラマ」のイメージ、佐賀県にある各地域の風景や人物の描き方、隣県の福岡や長崎の幕末期をどう表現するか…
また幕末期が題材の大河ドラマ作品の中で、どのような立ち位置を選択するか…という各種の課題があり、足らない才能の限界を顧みずに挑んでいます。
――さて、文久二年(1862年)夏頃。
第2部の主人公である江藤新平が国元・佐賀を脱藩し、京都での活動を開始しました。ここが“本編”の現在地です。
前回、京都(伏見)に到着したばかりの江藤の前に“祇園太郎”と名乗る男が現れました。謎の男のはずが、途中から「佐賀ことば」で語り出す展開に。
〔参照:
“祇園太郎”は「九州の小京都」とも称される小城出身の実在人物。活動内容等には謎が多いようで、この時点では長崎に居た可能性もあるようです。

しかし、ここで数年前から上方(京・大坂)で活動した人物が登場したことには、江藤にも協力者がいたのではないかという推測と、構成上の都合があります。
不穏な空気の漂う京の都。新選組などの幕末の大河ドラマの“常連組”が、出揃う前の時期。そこには、激動の始まりとでも言うべき事件がありました。
――ここで、「幕末!京都事件ファイル①」です。
前回描いた「①寺田屋騒動」から。薩摩藩(鹿児島)の同士討ちの事件ですが、現在の“福岡県”の志士たちとも関わりが深いです。
〔参照:
「寺田屋事件」と呼ばれることもありますが、他にも同名称の事件があるため、“本編”では「寺田屋騒動」で通しています。
事件の発生時期は、文久二年(1862年)四月。新暦でいえば初夏の5月頃。場所は現・京都市南部。“川の港町”として栄えた水運の拠点・伏見です。

――この「①寺田屋騒動」は
「薩摩藩志士粛清事件」という事件名でも表されるようです。
伏見の船宿・寺田屋に集結した薩摩の勤王派志士が、幕府寄りの公家だった関白・九条尚忠の暗殺を計画したことが事件の背景にあります。
その動機は幕府に近い要人の襲撃を強行し、薩摩の国父(藩主の父)・島津久光が「もう“倒幕”に立つしかない状況」を作り出す事。
しかし、国父・島津久光の狙いは“公武合体”による幕府の改革で、主導権を取ること。亡兄・島津斉彬が熱心だった“一橋派”の復権運動にも見えます。
〔参照:
そして、“倒幕”は考えていなかったようです。逆に薩摩藩側は過激な志士たちを制圧するため、剣術に長けた藩士を派遣し、事態の収拾をはかります。
――鎮撫(制圧)する側の薩摩藩士は、
結局、説得に応じない勤王派に斬りかかりました。
制圧に赴いた側にも犠牲者が出ましたが、勤王派の被害は凄まじく、斬り合いの時点だけで6名が落命したそうです。
この壮絶な場面は、2018年大河ドラマ『西郷どん』でも描かれました。薩摩藩士・有馬新七〔演:増田修一郎〕が印象的だったように思います。
〔参照(中盤):
倒幕への熱すぎる想いのもとで、同士討ちに散った“勤王派”。
同郷の者たちが残した“無念”が、のちに薩摩藩士たちが“武力倒幕”に執念を燃やす伏線とも考えられます。

――なお、同じ寺田屋には、
薩摩藩士のほか、公家の関係者、現在は福岡県内にあたる久留米藩、秋月藩などの志士も居ました。
久留米の真木和泉などは自藩に引き渡されたようですが、秋月の海賀宮門など薩摩方面に送られる方々も…。この辺り、本編でも表現を試みたいです。
本編によく名前が出る福岡の志士・平野国臣は、福岡藩も“倒幕”に協力するよう工作に動いており、事件現場には不在だったようです。
――こうして薩摩藩は、勤王派を追放し…
「幕府寄り・開国受容の薩摩 VS 倒幕派・攘夷実行の長州」という対立軸が、しばらく展開するようです。
そんな中、佐賀藩のある動きにより、薩摩藩との間に軋轢(あつれき)が生じるのですが、続きは“本編”の展開にあわせて書こうと思います。
なお、この『事件ファイル』は、中編に続く予定です。
2022年04月26日
第18話「京都見聞」⑥(もう1人の脱藩者)
こんばんは。しばらく間が空きましたが、前回の続きです。
単身、佐賀を発った江藤新平。九州から出て瀬戸内では、大木喬任(民平)が用立てた旅費で、海路を利用して上方(京・大坂)に向かったとも聞きます。
福岡では、その人脈を当てにした勤王の志士・平野国臣の所在がつかめず、頼りとなる情報は、かなり乏しい状況でした。
そんな中、江藤は親友・中野方蔵の手紙によく出てきた長州藩士・久坂玄瑞を尋ねるべく行動します。

次第に目的地である京の都へと近づく江藤。その後の展開を見ると、誰か、足跡の残っていない協力者がいたのではないか…という気がしています。
――京。伏見の港。
大坂(大阪)へと流れていく川沿いに“港”が開ける。そこには、昼夜を問わずに乗合いの“三十石船”が入って来ていた。
この伏見の“京都港”は内陸にある。そもそも京の都は海に面してはいない。そのため、水運には川を使う。京から大坂方面へは下りの流れがある。
「ふぇ~い」「やっと伏見や…、」
口々に疲労感を訴える。くたびれ果てた人足たちの声が響く。大坂方面より、川の流れに逆らって、岸から縄を使って船を引っ張ってきた者たちだ。
「世話をかけた。」
伏見で船から降りる人々の中に、佐賀の脱藩浪士・江藤新平の姿もあった。

――江藤のよく通る声に、反応する人足たち。
「…おおっ、」「なんや、礼を言うとるで。」「あれ侍か?変わった奴やな…」
ひとしきり、その場がざわざわとした。
京から大坂への下りは、川の流れに乗り半日。大坂から京への上りは人力で頑張って遡り、約一日の行程だったという。
市街地へと水路を小舟で移動する、旅人や積荷が行き交う。川沿いは大いに賑わっている。伏見の船宿が並ぶ通りを行く江藤。
水が良く、酒どころとも評判がある伏見。酒蔵が並ぶ通りへと歩を進める。
――木陰から、その姿を見つめる者がいた。
「さて、あいつやな…。」
一言、たどたどしい上方(京・大坂)の言葉をつぶやいた男。少しずつ、江藤の背後に近づいていく。
掟を破って脱藩したと聞くが、その質素過ぎる身なりは、佐賀藩で奨励される倹約そのもの。「規則に背いて、決まり事を守る…」よくわからぬ男と見えた。
「あれっ…居らんぞ。」
曲がり角にさしかかった時、男は江藤を見失った様子だ。
「私に、何か用向きがあるのか。」
「おっ…!」

――不意に江藤の声が通る。近づいた男は絶句した。
「…え~っと。えーっとやな…」
気付かぬうちに、江藤の方が背後に回り込んでいたらしい。慌てた様子の男。
「そうや…あれや。」
この男の発する上方の言葉は、抑揚(よくよう)が安定しない。
「何用であるか。」
「待て、しばし待て!そがんに急ぐな。」
江藤の声は鋭い。そして、男の発する“上方ことば”は既に崩れている。
――男は右掌で「少し待って」と示し、ひと呼吸を入れた。
そして物々しく「行くで!」と発した。“禅問答”でも仕掛けるような空気だ。
「清水と言えば、何か!」
「…滝。」
「…なれば、清水の滝は、何処(いずこ)に在りや!」
「小城に在り。」
期せずに行うことになった、このやり取り。佐賀からの脱藩の実行前に、剣術道場の兄弟子で、小城支藩の代官を務める富岡敬明との話に出た内容だ。
〔参照:第18話「京都見聞」⑤(清水の滝、何処…)〕
「名は、何と言う。」
「江藤と申す。佐賀より出でて、京に参った。」

――江藤と、問答を仕掛けた男との間に流れる、微妙な沈黙の時。
「かくいうお主も、佐賀の者だな。」
スパッと言い放つ江藤。いわば“偽装”した関西人である「上方ことばの男」の面目は丸つぶれである。
「…なんね!そがん言わんでも、よかばってん。おいも気張って、上方の言葉を学びよるけん!」
色々と溜めていた気持ちがあふれたか“佐賀ことば”でまくしたてる、元・上方ことばの男。
「それは、済まぬ事を言った。」
いささか空気を読まない傾向の江藤だが、ここまで言葉が重なればわかる。おそらくは志を胸に佐賀から出てきた、この男も相当に苦労したのだ。
――ひとまずは、男が信用できそうな人物である事も見えた。
「名は、何と申されるか。」
「“祇園太郎”と名乗っておる。」
「幾分、わかりやすい“偽名”だな。」
「いきなり“偽名”やら言わんでよか…」
江藤の登場から調子が狂いっぱなしの“祇園太郎”だが、当時「ほぼ居ない」と言ってよいほど稀少な、佐賀からの脱藩者だった。
数年前から播磨(兵庫)を拠点に、京・大坂の様子を見聞している志士である。
(続く)
単身、佐賀を発った江藤新平。九州から出て瀬戸内では、大木喬任(民平)が用立てた旅費で、海路を利用して上方(京・大坂)に向かったとも聞きます。
福岡では、その人脈を当てにした勤王の志士・平野国臣の所在がつかめず、頼りとなる情報は、かなり乏しい状況でした。
そんな中、江藤は親友・中野方蔵の手紙によく出てきた長州藩士・久坂玄瑞を尋ねるべく行動します。

次第に目的地である京の都へと近づく江藤。その後の展開を見ると、誰か、足跡の残っていない協力者がいたのではないか…という気がしています。
――京。伏見の港。
大坂(大阪)へと流れていく川沿いに“港”が開ける。そこには、昼夜を問わずに乗合いの“三十石船”が入って来ていた。
この伏見の“京都港”は内陸にある。そもそも京の都は海に面してはいない。そのため、水運には川を使う。京から大坂方面へは下りの流れがある。
「ふぇ~い」「やっと伏見や…、」
口々に疲労感を訴える。くたびれ果てた人足たちの声が響く。大坂方面より、川の流れに逆らって、岸から縄を使って船を引っ張ってきた者たちだ。
「世話をかけた。」
伏見で船から降りる人々の中に、佐賀の脱藩浪士・江藤新平の姿もあった。

――江藤のよく通る声に、反応する人足たち。
「…おおっ、」「なんや、礼を言うとるで。」「あれ侍か?変わった奴やな…」
ひとしきり、その場がざわざわとした。
京から大坂への下りは、川の流れに乗り半日。大坂から京への上りは人力で頑張って遡り、約一日の行程だったという。
市街地へと水路を小舟で移動する、旅人や積荷が行き交う。川沿いは大いに賑わっている。伏見の船宿が並ぶ通りを行く江藤。
水が良く、酒どころとも評判がある伏見。酒蔵が並ぶ通りへと歩を進める。
――木陰から、その姿を見つめる者がいた。
「さて、あいつやな…。」
一言、たどたどしい上方(京・大坂)の言葉をつぶやいた男。少しずつ、江藤の背後に近づいていく。
掟を破って脱藩したと聞くが、その質素過ぎる身なりは、佐賀藩で奨励される倹約そのもの。「規則に背いて、決まり事を守る…」よくわからぬ男と見えた。
「あれっ…居らんぞ。」
曲がり角にさしかかった時、男は江藤を見失った様子だ。
「私に、何か用向きがあるのか。」
「おっ…!」

――不意に江藤の声が通る。近づいた男は絶句した。
「…え~っと。えーっとやな…」
気付かぬうちに、江藤の方が背後に回り込んでいたらしい。慌てた様子の男。
「そうや…あれや。」
この男の発する上方の言葉は、抑揚(よくよう)が安定しない。
「何用であるか。」
「待て、しばし待て!そがんに急ぐな。」
江藤の声は鋭い。そして、男の発する“上方ことば”は既に崩れている。
――男は右掌で「少し待って」と示し、ひと呼吸を入れた。
そして物々しく「行くで!」と発した。“禅問答”でも仕掛けるような空気だ。
「清水と言えば、何か!」
「…滝。」
「…なれば、清水の滝は、何処(いずこ)に在りや!」
「小城に在り。」
期せずに行うことになった、このやり取り。佐賀からの脱藩の実行前に、剣術道場の兄弟子で、小城支藩の代官を務める富岡敬明との話に出た内容だ。
〔参照:
「名は、何と言う。」
「江藤と申す。佐賀より出でて、京に参った。」

――江藤と、問答を仕掛けた男との間に流れる、微妙な沈黙の時。
「かくいうお主も、佐賀の者だな。」
スパッと言い放つ江藤。いわば“偽装”した関西人である「上方ことばの男」の面目は丸つぶれである。
「…なんね!そがん言わんでも、よかばってん。おいも気張って、上方の言葉を学びよるけん!」
色々と溜めていた気持ちがあふれたか“佐賀ことば”でまくしたてる、元・上方ことばの男。
「それは、済まぬ事を言った。」
いささか空気を読まない傾向の江藤だが、ここまで言葉が重なればわかる。おそらくは志を胸に佐賀から出てきた、この男も相当に苦労したのだ。
――ひとまずは、男が信用できそうな人物である事も見えた。
「名は、何と申されるか。」
「“祇園太郎”と名乗っておる。」
「幾分、わかりやすい“偽名”だな。」
「いきなり“偽名”やら言わんでよか…」
江藤の登場から調子が狂いっぱなしの“祇園太郎”だが、当時「ほぼ居ない」と言ってよいほど稀少な、佐賀からの脱藩者だった。
数年前から播磨(兵庫)を拠点に、京・大坂の様子を見聞している志士である。
(続く)
2022年04月20日
第18話「京都見聞」⑤(清水の滝、何処…)
こんばんは。
江藤新平が京へと向かう道のり。手持ちの資金で小倉から船に乗り、瀬戸内を海路で進んだ…という説も聞くところです。
構成の都合上、脱藩する前の話が駆け足となってしまったので、京に向かう旅の途上で、佐賀への“回想”場面として表現しています。
江藤は少年期、小城の剣術道場で修業をしていました。当時からの兄弟子・富岡敬明は、江藤より一回り(12歳ほど)年上。
脱藩より戻ってからの江藤との関わりが深く、この兄弟子も事情を知っていた可能性を考えます。佐賀から福岡へ抜ける時に、関与した説もあるようです。

――夕日が差す、瀬戸内の海をゆく。
揺れる船中で甲板へと上がる。佐賀を抜けてから、数日。江藤は、眼前の島々を見つめながら、西へと離れていく国元・佐賀を想った
開国後、異国船の往来も増えている。どうにか長崎に行けそうな機会はあったが、下級武士である江藤には、江戸や京への留学の話は遠かった。
佐賀から脱藩してはじめて触れる、未知の世界である。九州に居る時は、己の足で歩き続けていた。船に乗っては歩む必要もなく、色々の事を想いだす。
――江藤が尋ねた、ある代官所は自然豊かな場所にあった。
小城の剣術道場での兄弟子、富岡敬明。山内郷の大野で代官を務めていた。何かを思い付いた様子で、目を丸くする。
「そうだ、よか事を教えておこう。」
少し勿体(もったい)ぶる、富岡。これは、中年の茶目っ気なのであろうか。
「もしや、京に関わる事をお教えいただけるのか。」
一方で、やはり真っ直ぐな受け答えの江藤。
「…まぁ、そう急かすな。」
ひと呼吸を置く、富岡。
――山間部のため“山内”は、初夏の風も涼しい。
山あいの清流の地。大野代官所は石垣も立派だが、周りは静かなものだ。
富岡は江藤に問いかける。
「“清水の滝”は、何処にあるか。」
「…京にも、清水の観音があると聞くが。」
怪訝な表情をする、江藤。
「そこにも滝はあるが、そいは“音羽の滝”と呼ばれるそうだ。」
「なれば小城に在る、“清水の滝”を指すか。」

――富岡は「そがんたい。」とうなずいた。
得心したように「その通りだ」と言っている、兄弟子・富岡。その真意を量りかねる、江藤である。
富岡は言葉を続けた。
「もし、小城の者に会ったら、そう言ってやってくれ。喜ぶ。」
「なにゆえ京で、小城の者と出会うのか。」
「まぁ、念のために、教えておくだけばい。」
上方の商人などに知り合いがいるのかと尋ねると、「居らん」との返答だった。
――大野代官所を後にする、江藤。
現代で言えば、佐賀市富士町辺り。古湯温泉なども近い、風光の地である…
代官の任にあり、当地では一定の融通が効く、富岡は頼りにして良さそうだ。自身の脱藩後に、立場の危うくなる家族。ひとまず行く先の目途は付いた。
しかし、最後のやり取りは何やら兄弟子にからかわれているようで、少し腹立たしさを感じる。
さておき、京の時勢は動いている。旅支度も脱藩となれば、表立っては動きづらいが、準備は急がねばならない。

――時間は限られる。急ぎ足にて、佐賀城下に戻る。
すると“義祭同盟”の仲間、坂井辰之允が家の近くに来ていた。
〔参照(中盤):第17話「佐賀脱藩」⑰(救おうとする者たち)〕
「坂井さん、何用か。」
「江藤…、私も助右衛門さんのお立場が危うくならぬよう手を尽くすぞ。」
えらく先走った言葉で励まされる。秘密裡に進めているはずの脱藩計画だが、既に幾人かは知っている様子だ。
坂井の励ましは、江藤の父・助右衛門を気にかけているところに配慮がある。「家族は守りたい」という江藤の気持ちを、よく汲んでいた。
――ただ、江藤には、確認したい事があった。
「坂井さん、ありがたい。ただ、その話は誰から聞いたか。」
「…大木民平。」
坂井の返答を聞いて、江藤は腹をくくった。ここは、大木民平(喬任)の根回しを信じるほか無さそうだ。
「京で形勢を探り、文(ふみ)を書く。坂井さんも頼みとするぞ。」
「心得た。」
佐賀を出て動くからには、京周辺で入手した情報を国元で受け止める役回りの者が要る。きっと大木は、その人選を進めているのだ。
――慌ただしかった一日。その夜、江藤家の屋敷。
「今宵の月は美しいな。」
江藤が言葉を発すると、クスクスと笑う、妻・千代子。
「何か、可笑しいか。」
「新平さまは、綺麗な月を見ると、わたくしに語り出すのですね。」
「…おっしゃってくださいな。」
「済まぬ。近々、京に向けて発つ。」
こうして江藤は、佐賀を発つ決意を妻・千代子に話し始めた。

――それを、物陰から見つめる者が二人…
「やはり、月の綺麗かごた夜に伝えおったか。」
「ええ、そこはいつもの事ですわね。」
そこに居たのは、江藤の両親である。父・助右衛門と母・浅子だった。行きがかり上、浅子は孫の熊太郎を抱きかかえていた。
グズグズ…と熊太郎が起きそうになる。
「いかん、浅子。早う、熊太郎をあやすのじゃ。」
「あなた、声が大きうございます。」
――その様子をじっと見つめ返す、江藤と妻・千代子。
「親父どのと母上は、何を騒いでおるのか。」
「…仲のよろしいこと。」
千代子とて、夫・新平がいつかは激動の時代に立ち向かっていく、そんな存在になることは予期していた。
そして勤王の志が高い、この一家が流転の日々を送ることも覚悟していた…とはいえ、強い不安を感じるのは仕方の無いことであった。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑫(陽だまりの下で)〕
――結局、ワーッと泣き出した熊太郎。概ね1歳半である。
「はい、はい…」
江藤の両親に駆け寄っていく、千代子。
「こんなに泣くのは、珍しいねぇ。」
困惑する江藤の母・浅子。熊太郎にも幼いなりに何か不穏な空気が伝わったのかもしれない。
「…済まぬ。千代子。」
江藤は聞き手が、その音声でビリビリと震えるほどに声が通るのだが、ここは千代子に聞こえぬよう抑えてつぶやいていた。
京へと発つ事は「自身の使命である」と迷いは無かった。しかし、江藤新平の気がかりは老親と妻子にあったのだ。
(続く)
江藤新平が京へと向かう道のり。手持ちの資金で小倉から船に乗り、瀬戸内を海路で進んだ…という説も聞くところです。
構成の都合上、脱藩する前の話が駆け足となってしまったので、京に向かう旅の途上で、佐賀への“回想”場面として表現しています。
江藤は少年期、小城の剣術道場で修業をしていました。当時からの兄弟子・富岡敬明は、江藤より一回り(12歳ほど)年上。
脱藩より戻ってからの江藤との関わりが深く、この兄弟子も事情を知っていた可能性を考えます。佐賀から福岡へ抜ける時に、関与した説もあるようです。
――夕日が差す、瀬戸内の海をゆく。
揺れる船中で甲板へと上がる。佐賀を抜けてから、数日。江藤は、眼前の島々を見つめながら、西へと離れていく国元・佐賀を想った
開国後、異国船の往来も増えている。どうにか長崎に行けそうな機会はあったが、下級武士である江藤には、江戸や京への留学の話は遠かった。
佐賀から脱藩してはじめて触れる、未知の世界である。九州に居る時は、己の足で歩き続けていた。船に乗っては歩む必要もなく、色々の事を想いだす。
――江藤が尋ねた、ある代官所は自然豊かな場所にあった。
小城の剣術道場での兄弟子、富岡敬明。山内郷の大野で代官を務めていた。何かを思い付いた様子で、目を丸くする。
「そうだ、よか事を教えておこう。」
少し勿体(もったい)ぶる、富岡。これは、中年の茶目っ気なのであろうか。
「もしや、京に関わる事をお教えいただけるのか。」
一方で、やはり真っ直ぐな受け答えの江藤。
「…まぁ、そう急かすな。」
ひと呼吸を置く、富岡。
――山間部のため“山内”は、初夏の風も涼しい。
山あいの清流の地。大野代官所は石垣も立派だが、周りは静かなものだ。
富岡は江藤に問いかける。
「“清水の滝”は、何処にあるか。」
「…京にも、清水の観音があると聞くが。」
怪訝な表情をする、江藤。
「そこにも滝はあるが、そいは“音羽の滝”と呼ばれるそうだ。」
「なれば小城に在る、“清水の滝”を指すか。」
――富岡は「そがんたい。」とうなずいた。
得心したように「その通りだ」と言っている、兄弟子・富岡。その真意を量りかねる、江藤である。
富岡は言葉を続けた。
「もし、小城の者に会ったら、そう言ってやってくれ。喜ぶ。」
「なにゆえ京で、小城の者と出会うのか。」
「まぁ、念のために、教えておくだけばい。」
上方の商人などに知り合いがいるのかと尋ねると、「居らん」との返答だった。
――大野代官所を後にする、江藤。
現代で言えば、佐賀市富士町辺り。古湯温泉なども近い、風光の地である…
代官の任にあり、当地では一定の融通が効く、富岡は頼りにして良さそうだ。自身の脱藩後に、立場の危うくなる家族。ひとまず行く先の目途は付いた。
しかし、最後のやり取りは何やら兄弟子にからかわれているようで、少し腹立たしさを感じる。
さておき、京の時勢は動いている。旅支度も脱藩となれば、表立っては動きづらいが、準備は急がねばならない。
――時間は限られる。急ぎ足にて、佐賀城下に戻る。
すると“義祭同盟”の仲間、坂井辰之允が家の近くに来ていた。
〔参照(中盤):
「坂井さん、何用か。」
「江藤…、私も助右衛門さんのお立場が危うくならぬよう手を尽くすぞ。」
えらく先走った言葉で励まされる。秘密裡に進めているはずの脱藩計画だが、既に幾人かは知っている様子だ。
坂井の励ましは、江藤の父・助右衛門を気にかけているところに配慮がある。「家族は守りたい」という江藤の気持ちを、よく汲んでいた。
――ただ、江藤には、確認したい事があった。
「坂井さん、ありがたい。ただ、その話は誰から聞いたか。」
「…大木民平。」
坂井の返答を聞いて、江藤は腹をくくった。ここは、大木民平(喬任)の根回しを信じるほか無さそうだ。
「京で形勢を探り、文(ふみ)を書く。坂井さんも頼みとするぞ。」
「心得た。」
佐賀を出て動くからには、京周辺で入手した情報を国元で受け止める役回りの者が要る。きっと大木は、その人選を進めているのだ。
――慌ただしかった一日。その夜、江藤家の屋敷。
「今宵の月は美しいな。」
江藤が言葉を発すると、クスクスと笑う、妻・千代子。
「何か、可笑しいか。」
「新平さまは、綺麗な月を見ると、わたくしに語り出すのですね。」
「…おっしゃってくださいな。」
「済まぬ。近々、京に向けて発つ。」
こうして江藤は、佐賀を発つ決意を妻・千代子に話し始めた。
――それを、物陰から見つめる者が二人…
「やはり、月の綺麗かごた夜に伝えおったか。」
「ええ、そこはいつもの事ですわね。」
そこに居たのは、江藤の両親である。父・助右衛門と母・浅子だった。行きがかり上、浅子は孫の熊太郎を抱きかかえていた。
グズグズ…と熊太郎が起きそうになる。
「いかん、浅子。早う、熊太郎をあやすのじゃ。」
「あなた、声が大きうございます。」
――その様子をじっと見つめ返す、江藤と妻・千代子。
「親父どのと母上は、何を騒いでおるのか。」
「…仲のよろしいこと。」
千代子とて、夫・新平がいつかは激動の時代に立ち向かっていく、そんな存在になることは予期していた。
そして勤王の志が高い、この一家が流転の日々を送ることも覚悟していた…とはいえ、強い不安を感じるのは仕方の無いことであった。
〔参照:
――結局、ワーッと泣き出した熊太郎。概ね1歳半である。
「はい、はい…」
江藤の両親に駆け寄っていく、千代子。
「こんなに泣くのは、珍しいねぇ。」
困惑する江藤の母・浅子。熊太郎にも幼いなりに何か不穏な空気が伝わったのかもしれない。
「…済まぬ。千代子。」
江藤は聞き手が、その音声でビリビリと震えるほどに声が通るのだが、ここは千代子に聞こえぬよう抑えてつぶやいていた。
京へと発つ事は「自身の使命である」と迷いは無かった。しかし、江藤新平の気がかりは老親と妻子にあったのだ。
(続く)
2022年04月16日
第18話「京都見聞」④(湯呑みより茶が走る)
こんばんは。
福岡城下を後にした、江藤新平。小倉(北九州市)方面へと歩みを進めます。
尋ねた相手・平野国臣は不在でしたが、京の都がいかに荒れた状況にあるか、その一端をうかがい知る事となりました。
リアルタイムの通信手段がない幕末期。現代から見れば、想像を絶するほどのすれ違いは常の事だったでしょう。
実は行方を探していた平野は、福岡で囚われていたようです。京で薩摩藩の勤王派が制圧されてから、福岡藩も関わりの深い平野を投獄したと聞きます。

江藤は、情報収集のための伝手(つて)を得られませんでした。その一方で、佐賀を出る前にも、色々と手は打っていたはず…
現代では「九州の“小京都”」とも呼ばれる、小城(おぎ)。なぜか、江藤の京都への脱藩の前後には、佐賀の小城支藩の影も見え隠れします。
――時は、半月ほど前に遡る。
佐賀からの脱藩を決めた江藤は、小城支藩領・山内(現在の佐賀市富士町)に足を運んでいた。
江藤は少年期に小城に住んでおり、当地の道場で剣術の稽古に励んだ。小城藩領に入ったのは、道場での兄弟子・富岡敬明を尋ねるためだ。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」②(小城の秘剣)〕
富岡は小城藩の上級武士だが、酒での不始末があって、小城の屋敷での務めから外れ、清流のある山間の地・“山内”で代官を務めている。
「富岡さん、頼みがあって来ました。」
「何だ。随分と仰々しいな。」
江藤より、一回り年上の富岡。親分肌で面倒見がよく、地元の者から慕われる傾向があるようだ。
――江藤は「佐賀を発つ覚悟」を語った。
脱藩には、特に厳しい佐賀藩。老親や妻子も辛い立場になると予期される。
「佐賀の御城下に居ては不都合だ。家の者を近くにかくまってほしい。」
家族の行く末を心配する江藤。藩の掟を破るのだから、やむを得ないのだが、富岡はその思い詰めた様子を受け止めた。
「江藤。まずは茶でも飲んで、落ち着け。」
「…頂戴いたします。」

山あいのため涼しいが、佐賀平野には、もう夏の風が吹く頃だ。少しばかりの世間話となる。勧められた茶を口にする江藤。
「身内だけだなく、お主もまとめて面倒をみるばい。」
ここで富岡が本題に戻った。家族だけでなく、江藤本人も、どうにか小城藩領に引き取ると言い出したのだ。
――江藤には、もともと風変わりだが、
藩校で学んでいた頃から、議論に熱が入ると、敷居の辺りに飲みかけの茶を捨てる事があった。特に深い意味は無さそうで、単なる癖(くせ)だったようだ。
ここで富岡の発言に、江藤は過剰に反応した。
「我は命を賭すのだ。自らを惜しむような覚悟で、国を抜けるのではない!」
「脱藩は死罪」が藩の掟である事は理解している。もちろん命の保証は無い。さらに熱弁を振るう江藤。
手にした茶は、すっかり温(ぬる)くなっていた。江藤の発声にあわせ、掌中の湯呑みが一瞬、水平に近い傾きとなる。当然にして茶は流れ、床へと走る。
――江藤は、お茶に浸った床を見た。
藩校の片隅や、古びたお堂なら、癖もさほど気にもしなかったが、さすがに気が咎める。まず「相済まない」と謝ろうとしたところ、富岡の大声が飛んだ。
「命ば粗末にしてはならん!お主も、まとめて面倒を見る!と言いおろうが。」
恰幅の良い中年である、富岡。何かと気詰まりも多い小城支藩の中枢から、村の代官へと暮らしぶりも変わり、その声も豪快に響く。
ちなみに江藤が茶をこぼしている事は、気にも留めていない様子だ。
「…相済まない。」
何やら今回は、剣術道場の先輩・富岡に一本取られた格好の江藤である。

――ふと過(よぎ)るのは、十年以上も昔。藩校・弘道館の日々の記憶。
その日も藩校での課業を終えて、親友三人で議論を続ける。江藤と大木民平(喬任)、そして中野方蔵はよく寄り集まっていた。
「江藤くん、その論は理には合うのかもしれない。ただ、志が低くはないか。」
中野方蔵が、鋭く指摘をした。
「いや、中野。理に合わざることを通さば、歪(ゆが)みを生ずるのだ。」
理論派の江藤に、情熱系の中野。次第に二人の討論は熱を帯びてくる。
――バシャッ!手にしたお茶をこぼしながら、熱弁を振るう江藤。
「江藤くん!湯呑みを傾けるのは、何か論と関わりがあるのか。」
中野が、少しひねくれた言い方をする。たしかに、討論の中身とお茶をこぼす事は無関係と思われる。
「机を毀損(きそん)する、中野には言われたくなか!」
江藤も、その言葉を打ち返す。今のところ中野は冷静だが、議論に熱が入り過ぎて、机をたたき割ってしまった前歴がある。
〔参照:第7話「尊王義祭」⑥〕
「…おい、江藤に中野、随分と話が逸(そ)れているぞ!」
――呆れた大木が、軌道の修正を試みていた。
「大木兄さんこそ、どちらの論を是(ぜ)とするのですか。」
中野が、討論に割って入った大木に問う。
「俺か…?どちらの論が通ろうが、実現のために手を貸してやる。」
「…狡(ずる)いな。大木兄さん。」
やや口をとがらせる中野。柄(がら)にもなく苦笑する江藤。勝ち誇ったように、ニッと笑う大木。

――「江藤!何ば…大事かこと。思い出しよるか。」
しばし待ちぼうけだった富岡が、“回想”から戻って来ない江藤に声をかけた。
「ああ、富岡さん。済まない。亡き友のことを想い出していた。」
「…中野くんか。気の毒なことだったな。」
「友が斃(たお)れたゆえ、我は立たねばならんのです。」
佐賀の志士たちの中でも、行動力に長じていた中野。その人脈の豊富さが裏目に出て、江戸の獄中で亡くなっていた。
「ばってん、お主は友の分まで、生きねばならんのだ。」
富岡は、そう力強く言い放つ。その言動からは、“脱藩者”となる江藤を、どうにか救おうとする気持ちが見えていた。
(続く)
福岡城下を後にした、江藤新平。小倉(北九州市)方面へと歩みを進めます。
尋ねた相手・平野国臣は不在でしたが、京の都がいかに荒れた状況にあるか、その一端をうかがい知る事となりました。
リアルタイムの通信手段がない幕末期。現代から見れば、想像を絶するほどのすれ違いは常の事だったでしょう。
実は行方を探していた平野は、福岡で囚われていたようです。京で薩摩藩の勤王派が制圧されてから、福岡藩も関わりの深い平野を投獄したと聞きます。
江藤は、情報収集のための伝手(つて)を得られませんでした。その一方で、佐賀を出る前にも、色々と手は打っていたはず…
現代では「九州の“小京都”」とも呼ばれる、小城(おぎ)。なぜか、江藤の京都への脱藩の前後には、佐賀の小城支藩の影も見え隠れします。
――時は、半月ほど前に遡る。
佐賀からの脱藩を決めた江藤は、小城支藩領・山内(現在の佐賀市富士町)に足を運んでいた。
江藤は少年期に小城に住んでおり、当地の道場で剣術の稽古に励んだ。小城藩領に入ったのは、道場での兄弟子・富岡敬明を尋ねるためだ。
〔参照:
富岡は小城藩の上級武士だが、酒での不始末があって、小城の屋敷での務めから外れ、清流のある山間の地・“山内”で代官を務めている。
「富岡さん、頼みがあって来ました。」
「何だ。随分と仰々しいな。」
江藤より、一回り年上の富岡。親分肌で面倒見がよく、地元の者から慕われる傾向があるようだ。
――江藤は「佐賀を発つ覚悟」を語った。
脱藩には、特に厳しい佐賀藩。老親や妻子も辛い立場になると予期される。
「佐賀の御城下に居ては不都合だ。家の者を近くにかくまってほしい。」
家族の行く末を心配する江藤。藩の掟を破るのだから、やむを得ないのだが、富岡はその思い詰めた様子を受け止めた。
「江藤。まずは茶でも飲んで、落ち着け。」
「…頂戴いたします。」
山あいのため涼しいが、佐賀平野には、もう夏の風が吹く頃だ。少しばかりの世間話となる。勧められた茶を口にする江藤。
「身内だけだなく、お主もまとめて面倒をみるばい。」
ここで富岡が本題に戻った。家族だけでなく、江藤本人も、どうにか小城藩領に引き取ると言い出したのだ。
――江藤には、もともと風変わりだが、
藩校で学んでいた頃から、議論に熱が入ると、敷居の辺りに飲みかけの茶を捨てる事があった。特に深い意味は無さそうで、単なる癖(くせ)だったようだ。
ここで富岡の発言に、江藤は過剰に反応した。
「我は命を賭すのだ。自らを惜しむような覚悟で、国を抜けるのではない!」
「脱藩は死罪」が藩の掟である事は理解している。もちろん命の保証は無い。さらに熱弁を振るう江藤。
手にした茶は、すっかり温(ぬる)くなっていた。江藤の発声にあわせ、掌中の湯呑みが一瞬、水平に近い傾きとなる。当然にして茶は流れ、床へと走る。
――江藤は、お茶に浸った床を見た。
藩校の片隅や、古びたお堂なら、癖もさほど気にもしなかったが、さすがに気が咎める。まず「相済まない」と謝ろうとしたところ、富岡の大声が飛んだ。
「命ば粗末にしてはならん!お主も、まとめて面倒を見る!と言いおろうが。」
恰幅の良い中年である、富岡。何かと気詰まりも多い小城支藩の中枢から、村の代官へと暮らしぶりも変わり、その声も豪快に響く。
ちなみに江藤が茶をこぼしている事は、気にも留めていない様子だ。
「…相済まない。」
何やら今回は、剣術道場の先輩・富岡に一本取られた格好の江藤である。
――ふと過(よぎ)るのは、十年以上も昔。藩校・弘道館の日々の記憶。
その日も藩校での課業を終えて、親友三人で議論を続ける。江藤と大木民平(喬任)、そして中野方蔵はよく寄り集まっていた。
「江藤くん、その論は理には合うのかもしれない。ただ、志が低くはないか。」
中野方蔵が、鋭く指摘をした。
「いや、中野。理に合わざることを通さば、歪(ゆが)みを生ずるのだ。」
理論派の江藤に、情熱系の中野。次第に二人の討論は熱を帯びてくる。
――バシャッ!手にしたお茶をこぼしながら、熱弁を振るう江藤。
「江藤くん!湯呑みを傾けるのは、何か論と関わりがあるのか。」
中野が、少しひねくれた言い方をする。たしかに、討論の中身とお茶をこぼす事は無関係と思われる。
「机を毀損(きそん)する、中野には言われたくなか!」
江藤も、その言葉を打ち返す。今のところ中野は冷静だが、議論に熱が入り過ぎて、机をたたき割ってしまった前歴がある。
〔参照:
「…おい、江藤に中野、随分と話が逸(そ)れているぞ!」
――呆れた大木が、軌道の修正を試みていた。
「大木兄さんこそ、どちらの論を是(ぜ)とするのですか。」
中野が、討論に割って入った大木に問う。
「俺か…?どちらの論が通ろうが、実現のために手を貸してやる。」
「…狡(ずる)いな。大木兄さん。」
やや口をとがらせる中野。柄(がら)にもなく苦笑する江藤。勝ち誇ったように、ニッと笑う大木。
――「江藤!何ば…大事かこと。思い出しよるか。」
しばし待ちぼうけだった富岡が、“回想”から戻って来ない江藤に声をかけた。
「ああ、富岡さん。済まない。亡き友のことを想い出していた。」
「…中野くんか。気の毒なことだったな。」
「友が斃(たお)れたゆえ、我は立たねばならんのです。」
佐賀の志士たちの中でも、行動力に長じていた中野。その人脈の豊富さが裏目に出て、江戸の獄中で亡くなっていた。
「ばってん、お主は友の分まで、生きねばならんのだ。」
富岡は、そう力強く言い放つ。その言動からは、“脱藩者”となる江藤を、どうにか救おうとする気持ちが見えていた。
(続く)
2022年04月12日
第18話「京都見聞」③(寺田屋騒動の始末)
こんばんは。
福岡城下に来た、江藤新平。先年、佐賀を来訪した福岡の志士・平野国臣の足取りを追っていました。
平野は、鎌倉期までの装束を好むだけでなく、よく変装して薩摩藩に入ったり、福岡藩からの追跡を振り切ったりしています。
福岡城下以外では、単独か他藩士との行動が多く、山伏やら、飛脚やらと…次々に衣装をチェンジして追っ手をかわしたそうです。まさに“七変化”。
このように何かと目立つ平野国臣。各地の勤王志士からの人気も急上昇で、江藤は、その人脈に期待したようですが、所在がつかめません。
今回は福岡の志士たちに暗い影を落とした“寺田屋騒動”の惨劇を描きます。七月頃に、事件のあった京に着いてから、江藤も詳細を調査したようです。

――文久二年(1862年)四月。京・伏見の船宿、寺田屋にて。
幕末期。大坂(大阪)から川を遡る水運があって、内陸であるが“京都港”として賑わう伏見の街。薩摩藩士の定宿で事件は起こった。
藩内の勤王派の不穏な動きを知った、薩摩の国父(藩主の父・島津久光)は、側近たちに事態の収拾を命じて、使者を度々送った。
しかし国父の側近・大久保一蔵(利通)などの説得工作は実らず。薩摩の過激な志士は、“寺田屋”に集結する。今度は、剣に秀でた者たちが派遣された。
「国父さまの仰せであるぞ、従え!」
「じゃっどん、今、立たねばなりもはん!我らの存念をお伝えしてくれやい。」
“倒幕”への決起を訴え、出頭に応じない志士たち。
“薩摩ことば”での言い争い。次第に大声となり、うち1人が「上意である!」と叫ぶと、突然「キェーッ!」と鋭い奇声が発された。
――重い金属の打ち合う響き、ザクッ…と不快な音が響く。
豪剣とも言うべき、薩摩の侍が振るう刃。それが互いに顔見知りの間で、命のやり取りに遣われている。
わずかの刻にある者は絶命し、ある者は瀕死の重傷を負った。劣勢となった勤王派の薩摩藩士・有馬新七が、対峙した薩摩藩士に組み付きながら叫ぶ。
「おいごと、刺せ!」
この場で“上意討ち”にあった者は、薩摩藩内の勤王派だが、幕府に近い公家などの襲撃を試みていたという。
それを上洛した薩摩の国父・島津久光が“成敗”したのだ。同郷の者たちの間で、凄惨な同士討ちが続く。

――同じ寺田屋の次の間には“福岡”の志士も居た。
久留米の神官・真木和泉らが、薩摩藩内の勤王派と連絡を取りに来ていた。騒ぎに気付いて、奥から出てきた。
「…おいっ、お主ら。ここは引け。もう、抵抗するな。」
筑前・筑後(福岡)など幾人か居た他藩の志士たちは、死ぬまで戦おうとする薩摩の侍を諫めたという。
「どうやら“他国”の者も居られるようじゃ。方々も、お連れしもんそ!」
「秋月の海賀宮門だ。仰せに従う。」
息のある薩摩藩士たちとあわせて、寺田屋に居た久留米や秋月など他藩の志士も連行された。福岡の平野は藩庁への直訴で不在だったようだ。
――その時は江藤も、福岡の者も騒動の顛末を知らない。
「先生も、捕らわれたのであろうか…」
平野がその場に居たか判然としないが、何か京では“凶事”が起きたらしい。伝え聞く事柄は、平野の門下生の表情を暗くしていた。
門下生は、訥々と言葉を続ける。
「それからは、秋月の海賀さんも行方が知れぬ。もし、事の次第がわかれば、お教えいただきたい。」
「承知した。京に着き次第、消息を探ろう。」
江藤は、騒動の経過を追うことにした。
福岡藩・平野国臣、秋月藩・海賀宮門。両者とも先年、佐賀を訪問している。その際に“義祭同盟”の面々と意見を交わしていた。

――自らの想いで動いた、“福岡”の志士たち。
佐賀に居た頃、江藤は自由な彼らに羨望(せんぼう)の眼差しを向けていた。よもや自身が、これほど早期に脱藩するとは、予期しなかったのだ。
過激な活動に巻き込まれ、あるいは自らが短慮を起こす。次々に惜しむべき人々が失われていく。親友・中野方蔵を思い起して、江藤は歯がみをした。
「我は、形勢を測るべく、京に赴くのだ。貴君も命は大切になされよ。」
江藤は、京都に向かうのは情報収集のためで、命を捨てに行くのではないと語る。そして、思い詰めた印象の門下生に、別れの言葉を発して退出した。
(続く)
福岡城下に来た、江藤新平。先年、佐賀を来訪した福岡の志士・平野国臣の足取りを追っていました。
平野は、鎌倉期までの装束を好むだけでなく、よく変装して薩摩藩に入ったり、福岡藩からの追跡を振り切ったりしています。
福岡城下以外では、単独か他藩士との行動が多く、山伏やら、飛脚やらと…次々に衣装をチェンジして追っ手をかわしたそうです。まさに“七変化”。
このように何かと目立つ平野国臣。各地の勤王志士からの人気も急上昇で、江藤は、その人脈に期待したようですが、所在がつかめません。
今回は福岡の志士たちに暗い影を落とした“寺田屋騒動”の惨劇を描きます。七月頃に、事件のあった京に着いてから、江藤も詳細を調査したようです。

――文久二年(1862年)四月。京・伏見の船宿、寺田屋にて。
幕末期。大坂(大阪)から川を遡る水運があって、内陸であるが“京都港”として賑わう伏見の街。薩摩藩士の定宿で事件は起こった。
藩内の勤王派の不穏な動きを知った、薩摩の国父(藩主の父・島津久光)は、側近たちに事態の収拾を命じて、使者を度々送った。
しかし国父の側近・大久保一蔵(利通)などの説得工作は実らず。薩摩の過激な志士は、“寺田屋”に集結する。今度は、剣に秀でた者たちが派遣された。
「国父さまの仰せであるぞ、従え!」
「じゃっどん、今、立たねばなりもはん!我らの存念をお伝えしてくれやい。」
“倒幕”への決起を訴え、出頭に応じない志士たち。
“薩摩ことば”での言い争い。次第に大声となり、うち1人が「上意である!」と叫ぶと、突然「キェーッ!」と鋭い奇声が発された。
――重い金属の打ち合う響き、ザクッ…と不快な音が響く。
豪剣とも言うべき、薩摩の侍が振るう刃。それが互いに顔見知りの間で、命のやり取りに遣われている。
わずかの刻にある者は絶命し、ある者は瀕死の重傷を負った。劣勢となった勤王派の薩摩藩士・有馬新七が、対峙した薩摩藩士に組み付きながら叫ぶ。
「おいごと、刺せ!」
この場で“上意討ち”にあった者は、薩摩藩内の勤王派だが、幕府に近い公家などの襲撃を試みていたという。
それを上洛した薩摩の国父・島津久光が“成敗”したのだ。同郷の者たちの間で、凄惨な同士討ちが続く。

――同じ寺田屋の次の間には“福岡”の志士も居た。
久留米の神官・真木和泉らが、薩摩藩内の勤王派と連絡を取りに来ていた。騒ぎに気付いて、奥から出てきた。
「…おいっ、お主ら。ここは引け。もう、抵抗するな。」
筑前・筑後(福岡)など幾人か居た他藩の志士たちは、死ぬまで戦おうとする薩摩の侍を諫めたという。
「どうやら“他国”の者も居られるようじゃ。方々も、お連れしもんそ!」
「秋月の海賀宮門だ。仰せに従う。」
息のある薩摩藩士たちとあわせて、寺田屋に居た久留米や秋月など他藩の志士も連行された。福岡の平野は藩庁への直訴で不在だったようだ。
――その時は江藤も、福岡の者も騒動の顛末を知らない。
「先生も、捕らわれたのであろうか…」
平野がその場に居たか判然としないが、何か京では“凶事”が起きたらしい。伝え聞く事柄は、平野の門下生の表情を暗くしていた。
門下生は、訥々と言葉を続ける。
「それからは、秋月の海賀さんも行方が知れぬ。もし、事の次第がわかれば、お教えいただきたい。」
「承知した。京に着き次第、消息を探ろう。」
江藤は、騒動の経過を追うことにした。
福岡藩・平野国臣、秋月藩・海賀宮門。両者とも先年、佐賀を訪問している。その際に“義祭同盟”の面々と意見を交わしていた。

――自らの想いで動いた、“福岡”の志士たち。
佐賀に居た頃、江藤は自由な彼らに羨望(せんぼう)の眼差しを向けていた。よもや自身が、これほど早期に脱藩するとは、予期しなかったのだ。
過激な活動に巻き込まれ、あるいは自らが短慮を起こす。次々に惜しむべき人々が失われていく。親友・中野方蔵を思い起して、江藤は歯がみをした。
「我は、形勢を測るべく、京に赴くのだ。貴君も命は大切になされよ。」
江藤は、京都に向かうのは情報収集のためで、命を捨てに行くのではないと語る。そして、思い詰めた印象の門下生に、別れの言葉を発して退出した。
(続く)
2022年04月09日
第18話「京都見聞」②(消えた“さぶらい”の行方)
こんばんは。
江藤新平は、文久二年(1862年)六月に佐賀を脱藩しています。数か月前、春の桜咲く頃は、京に集まった勤王の志士たちが期待に沸き立っていました。
その理由は薩摩藩(鹿児島)の“国父”(藩主の父)・島津久光が藩兵を率いて京都に上る動きがあったため。かつて各地の志士たちが大きい期待を寄せた、薩摩の名君・島津斉彬の異母弟です。
実際に島津久光が京に入ったのは、旧暦の四月なので、とうに桜の時節は過ぎ、初夏の陽気もあったかもしれません。その花が散った後に残ったものは…

――「いまは、京に向かう途上である。」
強い陽射しが注ぐ中、福岡城下の一角に足を運んでいた江藤。“佐賀脱藩”という身分だけでなく、その行先も明かした。
筑前・筑後(福岡県)だけでなく、九州各地、また双方が政治への影響力を競い始めている、薩摩や長州の志士たちの連携までを目論む平野国臣。
京の情勢を事前に探るには、その人脈は有用なはず。この留守の者からも、何か聞き出せるかもしれない。
――ところが門下生と思しき人物は、声を詰まらせた。
「いまや平野先生の、行方も知れぬのだ…。」
江戸期の一般的な武士と違い、平野と同様に古式ゆかしく髪をまとめている。
「一体、何があったか。」
発言を促す、江藤。良くない話が続きそうな事は容易にうかがえた。
――「京に向われるならば、お教えしておこう…」
江藤は、訥々と語る平野の門下生の話をうかがう。文久二年の春。京の都で活動する、各藩の勤王志士は沸き立っていた。
あの薩摩の名君・島津斉彬の弟である、久光公が亡き兄君の志を引き継ぎ、兵を率いて上洛(京)すると聞いていたからだ。
「今こそ、天下を動かす時!」
「徳川を倒す、千載一遇の好機じゃ!」
各地から集まる勤王の志士たちが、大いに盛り上がったのは言うまでもない。
その“沸騰”の中には、もちろん薩摩藩士だけではなく、他藩の者たちもいる。
福岡・平野国臣、秋月・海賀宮門、久留米・真木和泉など、筑前・筑後(現在の福岡県)の志士たちも京に集結していた。

――先年に、佐賀を訪れた者たちの名が続く。
枝吉神陽門下との連携を求めて、佐賀へと訪れる志士も多くあった。江藤も、よく他藩からの来訪者と議論をしていた。
但し、久留米の神官・真木和泉は地元から出られなかったのか、息子・主馬を佐賀に派遣したという。
そういった“福岡”からの客人を迎えた、江藤の師匠・枝吉神陽。彼らの話に共感を示すも、何かの思慮があってか動こうとしなかった印象がある。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑨(佐賀に“三平”あり)〕
「平野さまが、行方知れずとは。」
「…わからぬのだ。京に戻られたか、否かも。」
当時、京にいた志士たちは「薩摩の島津久光が“倒幕”に立ち上がる!」と大騒ぎしたが、それは誤解だったのだ。
島津久光の狙いは幕府を倒すことではなく、改革に手を貸し、幕政での主導権を握ることにあった。
――何とか、“国父”を動かそうとする薩摩藩士たち。
「じゃっどん、国父さまには立ってもらわねばなりもはん!」
島津久光の上洛にあわせ、幕府と親しい公家を排除する計画が動いていた。薩摩の“国父”から見れば、家来に邪魔をされているも同然だったようだ。
平野の門下生の話を聞いていた江藤が、鋭い一言を発した。
「その薩摩の者たちが、“暗殺”を企てたの意か。」
「お主の真っ直ぐな目。信じるぞ。その通りだろう。」
その弟子は思い切って、先刻、会ったばかりの江藤に言葉を返す。
――江藤は、さらに問答を続ける。
「先ほど、平野さまが“京に戻る”と聞いたが、如何なることか。」
ここで、江藤は事情を知りたがる。親友・中野方蔵が捕らわれた時の想いが、過(よぎ)っていた。
「黒田の殿様に訴えをなさるため、一時、京を離れたとも聞くのだ。」
平野国臣は福岡藩(黒田家)も、薩摩藩と共に倒幕に立つよう促したという。
福岡藩は慎重だった。薩摩の島津久光に「荒れる京都は素通りしよう」と提案するつもりだったという。

――「そこからは、先生の足取りがわからぬのだ。」
各地の志士に人気のある平野国臣が“直訴”に出たことで、福岡藩は対応に苦慮して、薩摩藩との接触を控えたようだ。
薩摩の島津久光はそのまま京に入ったが、これが筑前・筑後(福岡)の志士には厳しい展開の始まりだった。
そして佐賀は…と言えば、藩内の統制が取れていた分、志士たちも勝手には動きづらい。こういった激動の政局からは一歩引いた立場だった。
――幕末の黎明期から藩を富ませて、
外国の技術を導入する“近代化”のために、走ってきた佐賀藩士たち。
藩内の勤王志士たちも概ね、前藩主・鍋島直正(閑叟)のもとで佐賀藩全体が一致して、朝廷を中心とした国づくりに貢献する姿を望んでいた。
しかし当時の京では、佐賀藩士の江藤には想像しにくかった、“同郷の者”が潰し合う凄惨な事件が起きたばかりだった。
(続く)
江藤新平は、文久二年(1862年)六月に佐賀を脱藩しています。数か月前、春の桜咲く頃は、京に集まった勤王の志士たちが期待に沸き立っていました。
その理由は薩摩藩(鹿児島)の“国父”(藩主の父)・島津久光が藩兵を率いて京都に上る動きがあったため。かつて各地の志士たちが大きい期待を寄せた、薩摩の名君・島津斉彬の異母弟です。
実際に島津久光が京に入ったのは、旧暦の四月なので、とうに桜の時節は過ぎ、初夏の陽気もあったかもしれません。その花が散った後に残ったものは…

――「いまは、京に向かう途上である。」
強い陽射しが注ぐ中、福岡城下の一角に足を運んでいた江藤。“佐賀脱藩”という身分だけでなく、その行先も明かした。
筑前・筑後(福岡県)だけでなく、九州各地、また双方が政治への影響力を競い始めている、薩摩や長州の志士たちの連携までを目論む平野国臣。
京の情勢を事前に探るには、その人脈は有用なはず。この留守の者からも、何か聞き出せるかもしれない。
――ところが門下生と思しき人物は、声を詰まらせた。
「いまや平野先生の、行方も知れぬのだ…。」
江戸期の一般的な武士と違い、平野と同様に古式ゆかしく髪をまとめている。
「一体、何があったか。」
発言を促す、江藤。良くない話が続きそうな事は容易にうかがえた。
――「京に向われるならば、お教えしておこう…」
江藤は、訥々と語る平野の門下生の話をうかがう。文久二年の春。京の都で活動する、各藩の勤王志士は沸き立っていた。
あの薩摩の名君・島津斉彬の弟である、久光公が亡き兄君の志を引き継ぎ、兵を率いて上洛(京)すると聞いていたからだ。
「今こそ、天下を動かす時!」
「徳川を倒す、千載一遇の好機じゃ!」
各地から集まる勤王の志士たちが、大いに盛り上がったのは言うまでもない。
その“沸騰”の中には、もちろん薩摩藩士だけではなく、他藩の者たちもいる。
福岡・平野国臣、秋月・海賀宮門、久留米・真木和泉など、筑前・筑後(現在の福岡県)の志士たちも京に集結していた。

――先年に、佐賀を訪れた者たちの名が続く。
枝吉神陽門下との連携を求めて、佐賀へと訪れる志士も多くあった。江藤も、よく他藩からの来訪者と議論をしていた。
但し、久留米の神官・真木和泉は地元から出られなかったのか、息子・主馬を佐賀に派遣したという。
そういった“福岡”からの客人を迎えた、江藤の師匠・枝吉神陽。彼らの話に共感を示すも、何かの思慮があってか動こうとしなかった印象がある。
〔参照:
「平野さまが、行方知れずとは。」
「…わからぬのだ。京に戻られたか、否かも。」
当時、京にいた志士たちは「薩摩の島津久光が“倒幕”に立ち上がる!」と大騒ぎしたが、それは誤解だったのだ。
島津久光の狙いは幕府を倒すことではなく、改革に手を貸し、幕政での主導権を握ることにあった。
――何とか、“国父”を動かそうとする薩摩藩士たち。
「じゃっどん、国父さまには立ってもらわねばなりもはん!」
島津久光の上洛にあわせ、幕府と親しい公家を排除する計画が動いていた。薩摩の“国父”から見れば、家来に邪魔をされているも同然だったようだ。
平野の門下生の話を聞いていた江藤が、鋭い一言を発した。
「その薩摩の者たちが、“暗殺”を企てたの意か。」
「お主の真っ直ぐな目。信じるぞ。その通りだろう。」
その弟子は思い切って、先刻、会ったばかりの江藤に言葉を返す。
――江藤は、さらに問答を続ける。
「先ほど、平野さまが“京に戻る”と聞いたが、如何なることか。」
ここで、江藤は事情を知りたがる。親友・中野方蔵が捕らわれた時の想いが、過(よぎ)っていた。
「黒田の殿様に訴えをなさるため、一時、京を離れたとも聞くのだ。」
平野国臣は福岡藩(黒田家)も、薩摩藩と共に倒幕に立つよう促したという。
福岡藩は慎重だった。薩摩の島津久光に「荒れる京都は素通りしよう」と提案するつもりだったという。

――「そこからは、先生の足取りがわからぬのだ。」
各地の志士に人気のある平野国臣が“直訴”に出たことで、福岡藩は対応に苦慮して、薩摩藩との接触を控えたようだ。
薩摩の島津久光はそのまま京に入ったが、これが筑前・筑後(福岡)の志士には厳しい展開の始まりだった。
そして佐賀は…と言えば、藩内の統制が取れていた分、志士たちも勝手には動きづらい。こういった激動の政局からは一歩引いた立場だった。
――幕末の黎明期から藩を富ませて、
外国の技術を導入する“近代化”のために、走ってきた佐賀藩士たち。
藩内の勤王志士たちも概ね、前藩主・鍋島直正(閑叟)のもとで佐賀藩全体が一致して、朝廷を中心とした国づくりに貢献する姿を望んでいた。
しかし当時の京では、佐賀藩士の江藤には想像しにくかった、“同郷の者”が潰し合う凄惨な事件が起きたばかりだった。
(続く)
2022年04月06日
第18話「京都見聞」①(新平、東へ)
こんばんは。
“本編”第18話をスタートします。本日の「新平、東へ」は以前から考えていたサブタイトル。元ネタは、“本編”を開始した頃の大河ドラマからです。
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』初回のタイトルが「光秀、西へ」でした。江藤の脱藩まで書き続けられたら、使ってみようと思っていました。
なお、江藤新平の脱藩経路には諸説あるようで、未だ明確ではありません。
周辺地理に詳しい方には、疑問符も付くかもしれませんが、なるべく佐賀近くで“映える”風景を…という意図もあります。

――筑前国(福岡県北部)の海岸を望む。
現代では、海沿いの美景が話題となっている糸島市近辺であろうか。玄界灘の波がさざめき、強い朝日が1人歩む男の頬を照らしていた。
年の頃、三十歳手前。やや浅黒い肌色。質素な身なりの旅姿である。特筆すべきはその歩速で、静かな波打ち際を横目にすいすいと進んでいく。
その男、江藤新平は親友から渡された資金の重みを感じていた。貧しい暮らしが長かったため、大金を携えたことなど記憶に無い。
――「大木さん、恩に着るぞ。」
背負っているのは、二つ年上の親友・大木喬任(民平)の期待だ。そして、もう1人の親友は、もはやこの世を辞していた。
年の初めに老中・安藤信正が襲撃された「坂下門外の変」への関与を疑われ、獄中で落命した中野方蔵である。
「…中野、既に斃(たお)る。吾人をおいて、ほかに立つべき者なし!」
尊王の志厚く、朝廷の下に人々が集う“あるべき姿”を求めた中野の想いは、期せぬ形で、江藤に受け継がれた。

――他藩の志士に豊富な人脈があった、中野はもういない。
江藤自身も「“国事”を動かすための伝手(つて)は、中野がどうにかする。」と、どこかに甘えがあったと顧みた。
勤王か佐幕か、開国か攘夷か。立ち位置は如何にせよ、新しい世を目指すうねりがある。
誰かが動かねば、西洋を知る雄藩でありながら、佐賀は時流に取り残される。前藩主・鍋島直正(閑叟)が京の調べを始めた、今がその時と江藤は判じた。
――ザァザァ…と浜辺に続く、波の音。
“義祭同盟”の仲間の協力もあって三瀬の番所を回避し、佐賀藩境を抜けた。ここから江藤は“脱藩者”である。しばらくは人目に付かない道を選んでいた。
急に眼前が開けたと思えば、広い玄界灘を望んだ。遠浅の有明の海とも、入り組んだ伊万里の湾内とも異なる。
佐賀を出た、江藤に新しい世界を予感させる景色だ。
――朝廷のある京の都へ。
現状ではその権威をどう利用してやろうかと、幕府と雄藩たちの駆け引きが繰り広げられることは見当がつく。
欧米の列強が日本の様子をうかがっている。無謀な攘夷論や、拙速な倒幕論が世を支配するのは危うい。
「閑叟さまは…佐賀は、如何に動くべきか。それを見極めねばならん。」

――しばしの回り道を経て、福岡城下に至る。
黒田家が治める福岡藩。筑前五十二万石、外様の大藩で、佐賀藩と交互に長崎の警備を担当している。
京の都の事情を探りたい江藤は、先年、佐賀に来訪した“福岡のさぶらい”・平野国臣を尋ねたのである。
〔参照(後半):第17話「佐賀脱藩」⑧(福岡から来た“さぶらい”)〕
「御免!平野さまは居られるか。」
平野の居宅、門前で江藤が問う。
「あいにくだが…先生は居られぬ。」
扉の向こうから、古めかしい格好をした人物が応じる。
――おそらくは地元・福岡の者で、平野の門下生。
平野国臣は、鎌倉期までの古式に則ることを理想とするため、弟子の志向も影響を受けているのだろう。
江戸期の侍としては、髪型や装束にも珍しいこだわりが見られる。
「枝吉神陽門下で、佐賀より来た。江藤と申す。」
「佐賀から?よく出て来られましたな…。」
門下生は少し驚いた表情を見せた。九州各地から志士たちは尋ねてくるが、“二重鎖国”と評される佐賀からの来訪者は珍しいのだ。
師匠・枝吉神陽の名も効いたようで、平野の留守を預かる様子の門下生は、江藤からの問いかけに応じるようだ。
(続く)
“本編”第18話をスタートします。本日の「新平、東へ」は以前から考えていたサブタイトル。元ネタは、“本編”を開始した頃の大河ドラマからです。
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』初回のタイトルが「光秀、西へ」でした。江藤の脱藩まで書き続けられたら、使ってみようと思っていました。
なお、江藤新平の脱藩経路には諸説あるようで、未だ明確ではありません。
周辺地理に詳しい方には、疑問符も付くかもしれませんが、なるべく佐賀近くで“映える”風景を…という意図もあります。
――筑前国(福岡県北部)の海岸を望む。
現代では、海沿いの美景が話題となっている糸島市近辺であろうか。玄界灘の波がさざめき、強い朝日が1人歩む男の頬を照らしていた。
年の頃、三十歳手前。やや浅黒い肌色。質素な身なりの旅姿である。特筆すべきはその歩速で、静かな波打ち際を横目にすいすいと進んでいく。
その男、江藤新平は親友から渡された資金の重みを感じていた。貧しい暮らしが長かったため、大金を携えたことなど記憶に無い。
――「大木さん、恩に着るぞ。」
背負っているのは、二つ年上の親友・大木喬任(民平)の期待だ。そして、もう1人の親友は、もはやこの世を辞していた。
年の初めに老中・安藤信正が襲撃された「坂下門外の変」への関与を疑われ、獄中で落命した中野方蔵である。
「…中野、既に斃(たお)る。吾人をおいて、ほかに立つべき者なし!」
尊王の志厚く、朝廷の下に人々が集う“あるべき姿”を求めた中野の想いは、期せぬ形で、江藤に受け継がれた。
――他藩の志士に豊富な人脈があった、中野はもういない。
江藤自身も「“国事”を動かすための伝手(つて)は、中野がどうにかする。」と、どこかに甘えがあったと顧みた。
勤王か佐幕か、開国か攘夷か。立ち位置は如何にせよ、新しい世を目指すうねりがある。
誰かが動かねば、西洋を知る雄藩でありながら、佐賀は時流に取り残される。前藩主・鍋島直正(閑叟)が京の調べを始めた、今がその時と江藤は判じた。
――ザァザァ…と浜辺に続く、波の音。
“義祭同盟”の仲間の協力もあって三瀬の番所を回避し、佐賀藩境を抜けた。ここから江藤は“脱藩者”である。しばらくは人目に付かない道を選んでいた。
急に眼前が開けたと思えば、広い玄界灘を望んだ。遠浅の有明の海とも、入り組んだ伊万里の湾内とも異なる。
佐賀を出た、江藤に新しい世界を予感させる景色だ。
――朝廷のある京の都へ。
現状ではその権威をどう利用してやろうかと、幕府と雄藩たちの駆け引きが繰り広げられることは見当がつく。
欧米の列強が日本の様子をうかがっている。無謀な攘夷論や、拙速な倒幕論が世を支配するのは危うい。
「閑叟さまは…佐賀は、如何に動くべきか。それを見極めねばならん。」
――しばしの回り道を経て、福岡城下に至る。
黒田家が治める福岡藩。筑前五十二万石、外様の大藩で、佐賀藩と交互に長崎の警備を担当している。
京の都の事情を探りたい江藤は、先年、佐賀に来訪した“福岡のさぶらい”・平野国臣を尋ねたのである。
〔参照(後半):
「御免!平野さまは居られるか。」
平野の居宅、門前で江藤が問う。
「あいにくだが…先生は居られぬ。」
扉の向こうから、古めかしい格好をした人物が応じる。
――おそらくは地元・福岡の者で、平野の門下生。
平野国臣は、鎌倉期までの古式に則ることを理想とするため、弟子の志向も影響を受けているのだろう。
江戸期の侍としては、髪型や装束にも珍しいこだわりが見られる。
「枝吉神陽門下で、佐賀より来た。江藤と申す。」
「佐賀から?よく出て来られましたな…。」
門下生は少し驚いた表情を見せた。九州各地から志士たちは尋ねてくるが、“二重鎖国”と評される佐賀からの来訪者は珍しいのだ。
師匠・枝吉神陽の名も効いたようで、平野の留守を預かる様子の門下生は、江藤からの問いかけに応じるようだ。
(続く)
2022年04月02日
「その道の先にあったもの」(第18話プロローグ)
こんばんは。
新年度を迎えて気ぜわしいのですが、そろそろ“本編”も進めようと思います。
第17話「佐賀脱藩」のラストで、江藤新平は当時「二重鎖国」とまで言われた佐賀の藩境を越えます。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」㉑(郷里を背に)〕
文久二年(1862年)六月。佐賀から東へと向かう道はどこにつながったか…江藤の脱藩から5~6年経過した時期の話を、少し先取りしてみます。

――慶応四年(1868年)の一月。
激動の幕末も大詰めの時期。前年には京都で副島種臣・大隈八太郎(重信)が“大政奉還”の実現に動きますが、佐賀藩の援護はなく失敗に終わります。
〔参照(後半):「私の失策とイルミネーションのご夫婦(前編)」〕
結局、土佐藩の進言で大政奉還は成りました。大隈の悔しがる表情が目に浮かぶようです。その後も旧幕府側と、薩摩・長州側で主導権争いは続きます。
混沌とする情勢の中で、本来の持ち場である日本の表玄関・長崎の状況を気にしつつ、朝廷のある京都も警備しようと、出陣の準備を進めていた佐賀藩。
“ご隠居”なれど、藩の実権を持つ鍋島直正は、対外的に隙が生じる、内戦の勃発を避ける方針であり、その動きは慎重でした。
――ここでは、完全に出遅れています。
その頃、周到な薩摩からの挑発に乗ってしまった旧幕府方。戊辰戦争の始まりだった「鳥羽伏見の戦い」が起きてしまいます。
兵力差もあって総合的には旧幕府側の有利だったはずが、明らかな失策が重なります。“錦の御旗”が翻って薩長を中心とする“官軍”が勝利しました。
尊王攘夷思想の本家だった、水戸藩の出身である第15代将軍・徳川慶喜。一時でも、朝廷と対峙することはできなかったようです。
大坂城にいたはずの旧幕府軍のトップは、なんと江戸に向けて蒸気船で脱出してしまいました。

――「佐賀藩、まったく見せ場なし。」
現地・京都にすら出発できていません。なぜか、これを人気アニメ『鬼滅の刃』の“炎柱・煉獄杏寿郎”っぽく語ると…
「少し出遅れているうちに、このような事態になっていようとは。よもや よもやだ!これは 佐賀藩士として不甲斐なし!」…という表現になるのでしょうか。
「無理にアニメの話に持っていかんでよかけん…」と、呆れる方もいるでしょう。その反応が正しいかもしれず、「穴があったら入りたい!!」とお答えします。
――それでも“薩長土肥”の一角に入った肥前(佐賀藩)。
「鳥羽伏見の戦い」が、決着したとの報が届いた頃。
江藤新平は先発隊の一員として、佐賀藩が購入していたイギリス製の鉄製蒸気船・甲子丸に乗船し、伊万里港から出航。
遅れて京都に入った、佐賀藩に対して薩長を中心とする“新政府”からの風当たりは強いものでした。
第18話『京都見聞』で描こうとする、江藤新平の動きが真価を発揮したのは、この時。滞在は短くとも、幕末の京都で築いた人脈が活きてくるのです。
江藤の滞京は、わずか数か月でしたが、その才能が強い印象を与えたのか、旧知の長州藩・桂小五郎からの推挙で、混乱していた“新政府”に入ります。

――江戸期。佐賀では“脱藩”は、特に重罪でした。
かつて藩の掟を破った江藤は一転、朝廷の臣・平胤雄として歴史の表舞台に出ることになりました。
〔参照(終盤):「紅白から“源平”を考える。」〕
朝臣の立場で、江戸時代の仕組みを理解して、西洋に準じた新政府の制度を整える。和漢洋すべての学問に通じ、課題の解決において右に出る者なし。
西郷隆盛らと入った江戸開城の時点から、江藤は猛然と幕府の文書を収集・分析。その才能が作用して、明治という時代は前に進んでいきます。
…以上の展開から見ると、“第0話(エピソード・ゼロ)”とも言える始まりの話。
各種の想像や演出も入る予定ですが、縦横に京の街を駆ける江藤の姿を書いてみたい。どこまで表現できるかわかりませんが、挑んでみたいと思います。
新年度を迎えて気ぜわしいのですが、そろそろ“本編”も進めようと思います。
第17話「佐賀脱藩」のラストで、江藤新平は当時「二重鎖国」とまで言われた佐賀の藩境を越えます。
〔参照:
文久二年(1862年)六月。佐賀から東へと向かう道はどこにつながったか…江藤の脱藩から5~6年経過した時期の話を、少し先取りしてみます。

――慶応四年(1868年)の一月。
激動の幕末も大詰めの時期。前年には京都で副島種臣・大隈八太郎(重信)が“大政奉還”の実現に動きますが、佐賀藩の援護はなく失敗に終わります。
〔参照(後半):
結局、土佐藩の進言で大政奉還は成りました。大隈の悔しがる表情が目に浮かぶようです。その後も旧幕府側と、薩摩・長州側で主導権争いは続きます。
混沌とする情勢の中で、本来の持ち場である日本の表玄関・長崎の状況を気にしつつ、朝廷のある京都も警備しようと、出陣の準備を進めていた佐賀藩。
“ご隠居”なれど、藩の実権を持つ鍋島直正は、対外的に隙が生じる、内戦の勃発を避ける方針であり、その動きは慎重でした。
――ここでは、完全に出遅れています。
その頃、周到な薩摩からの挑発に乗ってしまった旧幕府方。戊辰戦争の始まりだった「鳥羽伏見の戦い」が起きてしまいます。
兵力差もあって総合的には旧幕府側の有利だったはずが、明らかな失策が重なります。“錦の御旗”が翻って薩長を中心とする“官軍”が勝利しました。
尊王攘夷思想の本家だった、水戸藩の出身である第15代将軍・徳川慶喜。一時でも、朝廷と対峙することはできなかったようです。
大坂城にいたはずの旧幕府軍のトップは、なんと江戸に向けて蒸気船で脱出してしまいました。

――「佐賀藩、まったく見せ場なし。」
現地・京都にすら出発できていません。なぜか、これを人気アニメ『鬼滅の刃』の“炎柱・煉獄杏寿郎”っぽく語ると…
「少し出遅れているうちに、このような事態になっていようとは。よもや よもやだ!これは 佐賀藩士として不甲斐なし!」…という表現になるのでしょうか。
「無理にアニメの話に持っていかんでよかけん…」と、呆れる方もいるでしょう。その反応が正しいかもしれず、「穴があったら入りたい!!」とお答えします。
――それでも“薩長土肥”の一角に入った肥前(佐賀藩)。
「鳥羽伏見の戦い」が、決着したとの報が届いた頃。
江藤新平は先発隊の一員として、佐賀藩が購入していたイギリス製の鉄製蒸気船・甲子丸に乗船し、伊万里港から出航。
遅れて京都に入った、佐賀藩に対して薩長を中心とする“新政府”からの風当たりは強いものでした。
第18話『京都見聞』で描こうとする、江藤新平の動きが真価を発揮したのは、この時。滞在は短くとも、幕末の京都で築いた人脈が活きてくるのです。
江藤の滞京は、わずか数か月でしたが、その才能が強い印象を与えたのか、旧知の長州藩・桂小五郎からの推挙で、混乱していた“新政府”に入ります。
――江戸期。佐賀では“脱藩”は、特に重罪でした。
かつて藩の掟を破った江藤は一転、朝廷の臣・平胤雄として歴史の表舞台に出ることになりました。
〔参照(終盤):
朝臣の立場で、江戸時代の仕組みを理解して、西洋に準じた新政府の制度を整える。和漢洋すべての学問に通じ、課題の解決において右に出る者なし。
西郷隆盛らと入った江戸開城の時点から、江藤は猛然と幕府の文書を収集・分析。その才能が作用して、明治という時代は前に進んでいきます。
…以上の展開から見ると、“第0話(エピソード・ゼロ)”とも言える始まりの話。
各種の想像や演出も入る予定ですが、縦横に京の街を駆ける江藤の姿を書いてみたい。どこまで表現できるかわかりませんが、挑んでみたいと思います。