2020年11月01日
「主に吉野ヶ里町民の皆様を対象としたつぶやき」
こんばんは。
第15話「遣米使節」で、ついに佐賀藩士たちが、日本を飛び出します。幕末期、多くの佐賀の人々が海外に渡り、新たな知識を得て、日本近代化を牽引します。
対外使節への同行のほか、軍事関係や商業の調査、語学や工業技術のための留学、万国博覧会への出展など…その目的はさまざま。
…殿・鍋島直正は、本当は自分の目で海外を見たかったようです。殿が家臣たちを各国に派遣するので、空間的にスケールの大きい話になっていきます。
――空間だけでなく、時間的にもスケールの大きい話を目指していこう!
…今回は吉野ヶ里町の皆様へのつぶやきなので、思い切って“古代”まで飛んでみました。文末までには、幕末・明治の話につなげるので、ご安心ください。
“吉野ケ里歴史公園”です。佐賀でも最強クラスの知名度を誇る観光スポット。ここは外せないですね。

――弥生時代の遺跡を見つめ、現在まで通じるテーマを考えます。
「豊かな暮らしを、どう実現するか」
「そのために国は、どうあるべきか」
…たぶん、この辺りはどの時代にも関係するのかな、と思います。
この「歴史公園」は凄いです。広大な敷地に、復元した巨大集落。長崎本線の車窓からでも、初見の人をアッと言わせるだけのインパクトがあります。
たぶん歴史公園の趣旨から外れますが、幕末の動乱期にも“防護柵”は各地で使用されたでしょうから…“ロケ地”としても見映えするかも…とか空想します。
――次は、戦国時代。佐賀には“治水の神様”と言われた人物がいました。
「みやき町民の皆様」への記事でも、お名前が上がった方。
〔参照(前半):「主にみやき町民の方を対象にしたつぶやき」〕
佐賀藩ご初代・鍋島勝茂公の側近・成富兵庫茂安さまです。
筑前(福岡)に向かう水を肥前(佐賀)へ流すための水路・“蛤水道”(はまぐりすいどう)を築いています。
――“戦国の曲者(くせもの)”との評価もある、成富兵庫茂安。
優れた“治水家”の茂安ですが、策略家の一面も伝わります。佐賀の発展のために、水を確保する抜け目の無さも感じます。
こうして背振山系からの豊富な水は、吉野ヶ里の大地を潤すことになります。
肥後(熊本)の加藤清正から、ぜひ「わが家臣に!」と誘いがあったようですが、
茂安は、「たとえ肥後の一国を頂いても、お受けできない」と拒絶したとか。
戦国の策士ですが、主君は裏切らない…これはカッコ良い“さがんもん”ですね。

――さて、戦国時代の話を続けますが、ここから幕末につなげます。
吉野ヶ里町にある、“西往寺”というお寺。豊臣秀吉の九州平定後、吉野ヶ里に移り、ここを“菩提寺”とした武将がいました。
元・筑後(福岡)の大木城主・大木知光。佐賀七賢人(八賢人)の1人・大木喬任のご先祖です。
大木にも「今は鍋島家に仕えているが、こちらも元は城主の家系!」という気概はあったかもしれません。
――そして、時代が幕末を経て、明治に進んだとき…
大木たちの師匠・枝吉神陽は、“尊王思想”を弟子である佐賀の賢人たちに説き、のちに実弟・副島種臣らにより、「明治新政府の方向性」として結実します。
その思想は、将軍や大名、その家臣…などの主従関係はなくなり、「天皇のもとに皆が集う」という政治の“あるべき姿”を求めます。
――そのためか、明治維新の英語表記は“the Meiji Restoration”。
直訳すると“明治復古”。欧米諸国の理解では、体制一新を意味する“維新”ではなく、“復古”となっています。
アメリカ合衆国など西洋の政治体制を取り入れながらも、「日本は本来の政権に戻った!」と欧米諸国に説明したことが伺えます。
――大木は新政府の創成期に、文部卿(大臣)・司法卿などの重職を歴任。
才気溢れる改革者である江藤新平が着手した仕事を、手堅い実務能力で形にしていった大木喬任。
大木は、国政を統括する“参議”の1人として長く務め、“筆頭参議”となります。江戸時代ならば“老中首座”。現代なら“総理大臣”に類するポジションでしょう。
――しかしながら、“地味”と語られがちな大木喬任。
大木は、東京遷都の立役者と言ってよいでしょうし、義務教育の制度まで築いています。業績のわりに、あまり知られていない…という印象です。
「ご先祖は城持ちの武将!」…というのは、様々な苦難に耐え続けた大木喬任の誇りでもあったでしょう。
“本編”では大木喬任を「無愛想だが、面倒見のよい兄貴分」という感じで描いています。「大河ドラマ」を意識すると配役に悩む人物の1人です。
「幕末佐賀藩の大河ドラマ」を目指すには、大木先生の知名度も引き上げたいので「吉野ヶ里町とは、少し縁がある人」として、皆様の記憶に留めていただければ幸いです。
第15話「遣米使節」で、ついに佐賀藩士たちが、日本を飛び出します。幕末期、多くの佐賀の人々が海外に渡り、新たな知識を得て、日本近代化を牽引します。
対外使節への同行のほか、軍事関係や商業の調査、語学や工業技術のための留学、万国博覧会への出展など…その目的はさまざま。
…殿・鍋島直正は、本当は自分の目で海外を見たかったようです。殿が家臣たちを各国に派遣するので、空間的にスケールの大きい話になっていきます。
――空間だけでなく、時間的にもスケールの大きい話を目指していこう!
…今回は吉野ヶ里町の皆様へのつぶやきなので、思い切って“古代”まで飛んでみました。文末までには、幕末・明治の話につなげるので、ご安心ください。
“吉野ケ里歴史公園”です。佐賀でも最強クラスの知名度を誇る観光スポット。ここは外せないですね。
――弥生時代の遺跡を見つめ、現在まで通じるテーマを考えます。
「豊かな暮らしを、どう実現するか」
「そのために国は、どうあるべきか」
…たぶん、この辺りはどの時代にも関係するのかな、と思います。
この「歴史公園」は凄いです。広大な敷地に、復元した巨大集落。長崎本線の車窓からでも、初見の人をアッと言わせるだけのインパクトがあります。
たぶん歴史公園の趣旨から外れますが、幕末の動乱期にも“防護柵”は各地で使用されたでしょうから…“ロケ地”としても見映えするかも…とか空想します。
――次は、戦国時代。佐賀には“治水の神様”と言われた人物がいました。
「みやき町民の皆様」への記事でも、お名前が上がった方。
〔参照(前半):
佐賀藩ご初代・鍋島勝茂公の側近・成富兵庫茂安さまです。
筑前(福岡)に向かう水を肥前(佐賀)へ流すための水路・“蛤水道”(はまぐりすいどう)を築いています。
――“戦国の曲者(くせもの)”との評価もある、成富兵庫茂安。
優れた“治水家”の茂安ですが、策略家の一面も伝わります。佐賀の発展のために、水を確保する抜け目の無さも感じます。
こうして背振山系からの豊富な水は、吉野ヶ里の大地を潤すことになります。
肥後(熊本)の加藤清正から、ぜひ「わが家臣に!」と誘いがあったようですが、
茂安は、「たとえ肥後の一国を頂いても、お受けできない」と拒絶したとか。
戦国の策士ですが、主君は裏切らない…これはカッコ良い“さがんもん”ですね。
――さて、戦国時代の話を続けますが、ここから幕末につなげます。
吉野ヶ里町にある、“西往寺”というお寺。豊臣秀吉の九州平定後、吉野ヶ里に移り、ここを“菩提寺”とした武将がいました。
元・筑後(福岡)の大木城主・大木知光。佐賀七賢人(八賢人)の1人・大木喬任のご先祖です。
大木にも「今は鍋島家に仕えているが、こちらも元は城主の家系!」という気概はあったかもしれません。
――そして、時代が幕末を経て、明治に進んだとき…
大木たちの師匠・枝吉神陽は、“尊王思想”を弟子である佐賀の賢人たちに説き、のちに実弟・副島種臣らにより、「明治新政府の方向性」として結実します。
その思想は、将軍や大名、その家臣…などの主従関係はなくなり、「天皇のもとに皆が集う」という政治の“あるべき姿”を求めます。
――そのためか、明治維新の英語表記は“the Meiji Restoration”。
直訳すると“明治復古”。欧米諸国の理解では、体制一新を意味する“維新”ではなく、“復古”となっています。
アメリカ合衆国など西洋の政治体制を取り入れながらも、「日本は本来の政権に戻った!」と欧米諸国に説明したことが伺えます。
――大木は新政府の創成期に、文部卿(大臣)・司法卿などの重職を歴任。
才気溢れる改革者である江藤新平が着手した仕事を、手堅い実務能力で形にしていった大木喬任。
大木は、国政を統括する“参議”の1人として長く務め、“筆頭参議”となります。江戸時代ならば“老中首座”。現代なら“総理大臣”に類するポジションでしょう。
――しかしながら、“地味”と語られがちな大木喬任。
大木は、東京遷都の立役者と言ってよいでしょうし、義務教育の制度まで築いています。業績のわりに、あまり知られていない…という印象です。
「ご先祖は城持ちの武将!」…というのは、様々な苦難に耐え続けた大木喬任の誇りでもあったでしょう。
“本編”では大木喬任を「無愛想だが、面倒見のよい兄貴分」という感じで描いています。「大河ドラマ」を意識すると配役に悩む人物の1人です。
「幕末佐賀藩の大河ドラマ」を目指すには、大木先生の知名度も引き上げたいので「吉野ヶ里町とは、少し縁がある人」として、皆様の記憶に留めていただければ幸いです。