2020年08月15日

「“湖東焼”ミステリー(滋賀県)」

こんにちは。
例年とは違ったお盆で、色々と大変な方も多いのではないでしょうか。

現在、本編の第13話通商条約」を更新中です。調べながら書いていることもありますが、全国の大名が出てくるお話は表現難しいです。
〔参照:第13話「通商条約」①(影の“内閣”)

幕末佐賀藩の大河ドラマ」をイメージした“本編”。
今までは、佐賀長崎江戸でほとんどの内容が進んで来ました。


――話が進むにつれて、関わる地域も増えていきます。

佐賀県内のみならず、全国各地との繋がりを探って、今後に活かせないか…と思うようになりました。

ところで第13話2本目で「井伊直弼が“鍋島焼”を見て、佐賀鍋島直正について考える…」という投稿をしています。
〔参照:第13話「通商条約」②(埋木に陽が当たるとき)


――井伊家と言えば、現在の滋賀県にある彦根藩主

有名な“ゆるキャラ”である「ひこにゃん」をご存じの方も多いでしょう。

補足ですが“井伊の赤備え”と称される甲冑にあわせた、赤い兜をかぶっている白ネコのキャラクターです。

江戸初期に井伊家お殿様が、を避けられるよう、手招きをしたが居たらしく…そのネコがモデルとして採用されたようです。


――さて、先ほどのお話です。ときの彦根藩主・井伊直弼に陶磁器を見る目があったか…

井伊直弼は茶の湯に詳しい文化人であるうえに、彦根藩は“陶磁器”に凄く熱心だったのです。

彦根滋賀県東部にある、琵琶湖に面した街。

母なる湖・琵琶湖の東岸で作られていたのは…
湖東焼”と呼ばれる、磁器を中心とした幻の“焼き物”




――なぜ、幻かと言えば“湖東焼”の流れが150年ほど前に途絶えたからです。

井伊直弼の時代が、彦根磁器製造ピークだったようです。

幕末政局はやがて抗争となり、動乱は激しさを増します。全国各地で起きる壮絶な“つぶし合い”。
日本国内での戦いを避けたい、佐賀藩には厳しい状況が続くことになります。

歴史に詳しい方は予測できると思いますが、彦根藩焼き物の生産に注力できなくなります。
現在の滋賀県内では、このとき失われた“湖東焼”を惜しみ、現代に甦らせようとの動きもあるようです。


――そもそも滋賀の焼き物“湖東焼”と、佐賀とは何の関係が…!?

もともと井伊直弼を調べていたときに、たまたま見つかった“湖東焼”の記述。

ここで、ようやく佐賀が出て来ます。
伊万里”の職人が、彦根に招かれ、“湖東焼”の成立に関わったとありました。


――最近、私は“伊万里”に2つの意味があると知りました。

佐賀長崎を含む“肥前陶磁器”の代名詞。
佐賀藩機密事項、至高の献上品・鍋島焼

…ここでの“伊万里”の意味はだと考えています。「有田から来た“伊万里”の職人」と記述する情報も見られます。

もしの「鍋島焼の職人」が彦根に派遣されたとしたら、“企業機密”を教えるほど、鍋島井伊には深い関わりがあったことになります…


――ちなみに私には陶磁器を正しく語れる“審美眼”の持ち合わせがありません。

しかし、陶磁器概要経過を調べていくことはできそうです。

これを長崎での海外貿易や、幕末パリ万博の話に活用すれば、国際情勢商業活動視点も入った話になるのでは…と考えます。

投稿を続けるにつれ、私には“作家”としての資質が乏しく、正面突破は難しいと痛感します。

幕末佐賀藩の大河ドラマ」へのアプローチには、様々な方法を取りうると思います。その中で、現在の佐賀県が強くなるヒントでも見つかれば幸いです。

  


Posted by SR at 17:02 | Comments(0) | 企画案・雑記帳

2020年08月13日

第13話「通商条約」③(医者の言葉は聞いて)

こんばんは。

幕末の政局から、ひとまず話を佐賀に戻します。
今回、殿鍋島直正の“執事”や“主治医”が再登場します。

執事”と言える側近古川与一(松根)は、幼少期からずっと殿にいますので、本編でも序盤から登場しています。

そして“主治医”・大石良英の方は、今まで登場は1回だけだったかと思います。このときは若君・淳一郎(のちの鍋島直大)に“種痘”を施しました。
〔参考(中盤):第6話「鉄製大砲」⑦

藩医・大石は、現在のみやき町を治める“白石鍋島家”に属しましたが、蘭方(西洋医学)に長じていたので、“佐賀本藩”に登用されたようです。


――殿・直正は、佐賀の空を見上げて、ぼんやりとしていた。

「お(みつ)…息災にしておるかのう…」
直正長女貢姫は、17歳で川越藩(埼玉)に嫁いだ

お相手は、姫と同い年の貴公子・松平直侯

なぜ“貴公子”と呼んだかと言えば血統が良いのだ。
御三家水戸藩の徳川斉昭の子であり、一橋慶喜である。



――言い換えれば、“攘夷派”首領の子であり、将軍候補の弟。

川越藩主となった松平直侯の周囲には、色々と政治的な思惑がはたらく。
他家から来た“跡取り”には、強い期待もかかるだろう。
直正は、嫁入りした貢姫の心中を思う…

(みつ)が気掛かりじゃ!(ふみ)を書いて励ますとしよう。」
殿直正、ここでは単なる心配性父親である。


――幼少の頃からの側近・古川与一(松根)が柱の影から見守る。

殿貢姫さまへの文でござるな。定めしご心配でありましょう…」
毎度、誰より殿気持ちを察する、よく出来た“執事”である。

ここで10年ほど前の話に触れておく。貢姫7歳の頃に佐賀から江戸に移った。これは大名正室として、通用する力を身に付けるための“留学”である。

殿直正が“教育係”として頼ったのは、“将軍の娘”だった正室盛姫幕府への頼み事を、大奥の人脈で通すなど“ファーストレディ”としての存在感があった。


――しかし、貢姫が江戸に移ってからわずか2年、頼りになった正室・盛姫が急逝してしまう。

古川与一回想は続いた…
殿にはお辛いときだったが、貢姫さまお支えくだされた…」

この頃の直正学問に優れた側近病で失うなど心痛が重なっていた。
江戸では「貢姫に会える」事が、直正精神的な支えとなっていたのである。



――そして、成長した愛娘・貢姫が嫁いだ今、簡単には会いに行けない。父・鍋島直正は手紙を書き送って、繋がりを保つのであった。

幕末殿様には強いストレスがかかる。“心の支え”が弱まることは健康面にも影響を及ぼす。

そんなある日、直正主治医大石良英問診をしている。
殿お身体の加減はいかかでしょうか。」

「近頃、胃の腑(ふ)に軽い痛みを感じるのう…」
「ほう、先だってもお伺いしました。未だ治まりませぬか。」

異国の動きを睨みながら、佐賀技術開発、産業振興を進める、直正。最近では、佐賀の力を認める幕府雄藩に注目され、幕末の政局にも巻き込まれがちである。


――西洋の事情が良く見えている、直正。いつも、気が急いていた。

殿、あのように食事を早く召し上がられては、胃に堪える道理にございます。」
藩医・大石良英、けっこう言葉が厳しい
言うなれば、ホームドクターが、“早食い”を戒めているのだ。

「…して、いかがすれば良いか。」
何やら、主治医に叱られている感じの殿様

ゆっくり、しっかり噛むのです!
藩医・大石は全力で、普通の事を言った。

「…心得た。」
普通の事”を普通に行うのは、意外と難しいのである。


(続く)  


Posted by SR at 21:45 | Comments(0) | 第13話「通商条約」

2020年08月12日

第13話「通商条約」②(埋木に陽が当たるとき)

こんばんは。
前回より幕末の政局を中心としてお話を進めています。「誰が次期(14代)将軍になるのか?」がメインテーマです。

佐賀藩士たちを描く方が楽しいのですが、「一橋派」と「南紀派」の対立は重要なポイントなので頑張って続けます。

前回投稿で「影の“内閣”」に例えて登場したのが「一橋派」。
老中・阿部正弘の方針で、政治参加を進める雄藩の代表たちです。

今回紹介するのは、「南紀派」のリーダー格・井伊直弼
この派閥は幕府政治を主導していた譜代大名たちが中心です。


――江戸の彦根藩邸。近江(滋賀)にある彦根を治める、井伊家の屋敷。

井伊と言えば、江戸幕府の創始者・徳川家康のもとで戦った“徳川四天王”の名門。当代の藩主は井伊直弼であった。

主膳よ。ようやっとはここまで来たのだな。」
「はっ。やはり天は、殿埋もれさせては置きませんでしたな。」


――井伊直弼が話している相手は、彦根藩士・長野主膳という。直弼の側近である。

剣の腕を磨き、を嗜み、を行じてきた…」
直弼は、先々代の藩主の子であるが、家督を継ぐ可能性は低い立場にいた。

こうして彦根城下で、鬱屈とした青年期を過ごした、井伊直弼
如何に修練して、己を高めても、陽の当たる存在になることは無いと思われた。

「想い出しますなぁ…、埋木舎(うもれぎのや)での歳月を…」
かく言う長野主膳も、その主君・井伊直弼40代前半。

彦根城下の片隅に埋もれた日々から、10年ほど幕府の中で頭角を現した。
感傷に浸っておる暇は無いぞ。我らが公儀(幕府)を導かねばならんのだ。」


――自身を花の咲かない“埋木”(うもれぎ)に例えていた青年が、いまや幕閣の有力者の1人。

ついに陽の当たる場所に出た、井伊直弼
「伊勢守(阿部正弘)さまは、表(大名たち)の機嫌を伺い過ぎじゃ。」
「御意!」

「今こそ、公儀は毅然と力を示さねばならん。」
「仰せの通り。この主膳、嬉しゅうございますぞ。」

長野主膳国学者である。
側近であるだけでなく、井伊直弼学問の師でもあった。



――井伊直弼が推す将軍候補は、徳川御三家の紀州(和歌山)の若君。

紀州慶福さまは、上様とも縁も近い。我らがお支えするに相応しい。」
「左様にござる。一橋(慶喜)さまでは、纏(まと)まらなくなりましょう。」

この彦根藩の主従は、諸大名の結集は、却って混乱を招くとの見解である。
異国に対抗するには、幕府が強いリーダーシップ日本を率いるべきと考えた。


――ささやかなそよ風が吹き、風鈴の音が鳴る。

文化人としての顔を持つ、井伊直弼
床の間には立派な磁器が飾られていた。

「“鍋島(焼)”だな…」
「はっ、華麗な色味にございますな。」

主膳よ。公儀(幕府)を支えるにあたり、信の置ける国何処だと思うか。」
「まずは、会津(福島)にございましょうな。」

井伊直弼は、会津藩の先代・松平容敬に何かと世話になってきた。そして、その養子松平容保面倒もよく見ていた。いわゆる“恩返し”である。


――透き通った白に色味が映える、床の間の磁器。

「そして肥前佐賀…、鍋島じゃ。」
佐賀にございますか。たしかに異国の業(わざ)に通じておりますが…」

長野主膳は、いまいち得心がいかない様子だ。
鍋島肥前は大層な“蘭癖”(西洋かぶれ)。異国に囲まれる昨今、役には立ちましょうが…」

信は置けぬと考えるか。」
肥前は、何を企んでおるか…判然とせぬとも聞きますぞ。」


――手に持った扇で磁器を指し示す、井伊直弼。上絵の赤が鮮やかである。

「儂はな…鍋島を、あのように考えておる。」
鍋島肥前が、あの“伊万里”(鍋島焼)の如しと…?」
直弼幕閣で経験を積み、長野主膳の発想を超えてきたところがある。

裏はあるが、嘘は無い…と言ったところか。」
鍋島焼”は、佐賀藩機密事項の1つである。

その製法極秘とされ、厳しい管理により藩外に流出することは無い。その裏には壮絶な歴史があった。


――佐賀藩の技術立国は、徹底した秘密の管理により成り立っていたのである。

佐賀造り出すのは、真っ直ぐな“本物”のみ…」
この頃、井伊が治める彦根藩も、陶磁器産業に力を入れていた。

「“慣れ合い”の中からは、生じぬ物があるという事じゃ。」
井伊直弼の厳しい目は、佐賀藩そして鍋島直正を“本物”と判じたのである。


(続く)  


Posted by SR at 21:58 | Comments(0) | 第13話「通商条約」

2020年08月10日

第13話「通商条約」①(影の“内閣”)

こんばんは。
本日より第13話通商条約」をスタートします。初回の投稿ですが、登場する人物多いです。

ご年配の方は、読み終わった後登場人物名を想い出すと“脳トレ”になりそうなぐらいです。以前の大河ドラマで演じた俳優さんなどをイメージしながらご覧いただけると…少しは読みやすくなるかもしれません。


――江戸。福井藩主・松平慶永(春嶽)が親しい大名と寄り合っている。

「これは越前松平)さま。お久しゅうござる。」
口を開いたのは、土佐山内豊信(容堂)

古くから土佐(高知)には酒豪が多いと聞くが、殿様からしてその様子。前日の酒が残って…いや、先だってまで飲んでいたような気配である。

「はっはっは…、これは随分と出来上がっておられるな。」
伊予(愛媛)宇和島藩主・伊達宗城
洋式船の建造に興味を持つなど開明派で知られる。土佐の殿様の呑み過ぎに苦笑いである。


――松平慶永(春嶽)が場を仕切る。「あと、お一方(ひとかた)おいでになる」と、座長のような立ち位置だ。

「所用により遅くなり、失礼をいたした。」
静かな登場だが、言葉には覇気が感じられる。
薩摩藩主・島津斉彬である。

薩摩(斉彬)さまにもお運びいただいた。早速ではござるが…」
話を先に進める、松平慶永(春嶽)

松平慶永は、適塾などで学んだ藩医橋本左内を重用していた。この福井藩・橋本左内が、薩摩藩・西郷吉之助(隆盛)らと進めている政治活動があった。

殿様同士集まりだが、側近藩士たちの想い反映しているのである。


――黒船来航で緊迫した外交、大地震などの自然災害…相次ぐ難局を打開する策。

「もはや一橋さまに、将軍職を継いでいただくほかない。」
松平慶永次の将軍一橋慶喜を推した。

「然り。英明で聞こえた一橋さまならば、我らの存念も届くであろう。」
宇和島藩・伊達宗城は、瀬戸内海要衝に領地を持つ。沿岸の防備にも危機感があるのだ。

御台所篤姫)さまより、上様へのお取次ぎをいただきたい。」

第13代将軍徳川家定には、薩摩より島津斉彬の養女・篤姫が嫁いでいた。
「相分かった。最善を尽くそう。」


――数年前から老中・阿部正弘が取った「大名にも広く意見を聴く」方針。

アメリカのペリーなどの各国の“黒船”が、次々と来航する危難。挙国一致を目指した、当時の老中首座・阿部正弘は各藩から意見を募った。

以前ならば、幕府から「(まつりごと)に口出しをするな」と叱責されるところである。しかし、いまや雄藩(有力大名)の国政への参加の流れは止まらない。

これには、老中・阿部正弘後押しがあった。老中首座堀田正睦に譲ったが、阿部は自身の領国・福山(広島)には一度帰ったっきりで、国政に心血を注いでいた。



――第13代将軍・家定は病弱で、とても危機的状況に対応できる将軍ではない…世間でも辛辣な批判が多くあった。

そして次の将軍に誰が就くかは、多くの大名たち関心事でもあった。

新らしき政(まつりごと)を、このように思案しておる。」
現在の“内閣”のように政治体制のイメージを作り始めていた“四賢侯”。

「まず、一橋さま将軍として奉じ、我らがお支えすると。」

「これは良い…立派な上様のもとで存分働きができそうじゃ。」
目もとがニヤリと笑う、山内豊信(容堂)。その真意は充分に測れない。


――その試案で“国内事務宰相”として予定されたのは3人。

・集まりの主宰者。福井松平慶永
・外様大名の代表。薩摩島津斉彬
一橋慶喜実父で、攘夷派の頭目。水戸徳川斉昭

将軍となった一橋慶喜の周囲を固め、挙国一致の体制を取る戦略である。


――次は“外国事務宰相”を務める大名の人選。困難な局面にある外交の担当である。

「…肥前佐賀鍋島しかあるまい。」

然り。」
異論があろうはずもない。」



外国からの圧力を予測し、長崎での砲台整備。先んじて反射炉の設置と、鉄製大砲の開発。オランダとの付き合いも深く、西洋事情に通じる。

はじめから佐賀鍋島直正をおいて、適任者が考えられない状況であった。


――いわば“影の内閣”を作る相談事が進む中、殿・鍋島直正は淡々としていた。

「…そうだな。長崎の固め(警備)で、忙しいとでも伝えておくか。」

「それが宜しいかと。公儀(幕府)が決するべき事への深入りはなりませぬ。」
保守派の側近、原田小四郎が応じた。殿発言に大きく頷(うなず)く。

国政”からは距離を置き、ひたすら先を見据える直正
そして佐賀藩は、国を富ませる産業振興と、有事に備える技術開発を進めるのに忙しい

直正とすれば、殿様として為すべきことを行っているだけである。しかし、周囲はそのコツコツとした地道さを「何の思惑があるのか?」と勝手に恐れたのである。


(続く)

  


2020年08月09日

「主に伊万里市民の方を対象にしたつぶやき」

おはようございます。
今回は伊万里市皆様に向けた投稿を準備しました。

当ブログを始めたばかりのとき、幾人か伊万里の方に閲覧の“足あと”を残していただき、大変励みになったことを想い出します。

最近、流行りのセリフで言えば、これは私なりの“恩返し”です。
…とはいえ、大したものはお返しできません。

今後の本編に備えて、私が「伊万里」について考えている内容をつぶやきます。よろしければご覧ください。


――まず、陶磁器について無知な私が困惑した“古伊万里”という名称。

この名は伊万里が、江戸時代より「港湾都市」だったため付いたようです。

最近、知ったのですが、有田焼平戸焼波佐見焼…いずれも主な積出し港は“伊万里”なのですね。


――これは商品の受け手、とくに外国人からすれば…

「これは、どこの磁器だね?」
「“オールド・イマリ”だよ!」

「その品質は確かだ。買い求めるとしよう。」

ヨーロッパなど陶磁器消費地では、こんな会話があったのではと想像します。“伊万里”の名で、日本陶磁器世界に羽ばたいていきます。


――こうして海外で“伊万里”は、陶磁器の代名詞として知られることに。

学術的には「肥前磁器」と呼ぶべきとの見解もあるようです。また、陶磁器近代産業化という観点では“有田”のイメージが強いです。

しかし、伊万里には「港湾都市」以外にも、取っておきの力があります。それは佐賀の“誇り”に直結するものです。


――伊万里の“秘技”は、佐賀のお殿様「鍋島家」の名を冠した磁器。

江戸時代を通じ、佐賀藩から将軍や幕閣に献上された品。
当時、献上品は、藩の命運左右することすら有り得た…と推測します。

肥前佐賀藩門外不出採算度外視で作り上げた“至高の磁器”。
鍋島焼」の名は“必勝の品”である事を意味しているのでしょう。


――さて「伊万里港」と「鍋島焼」のお話をしたところで、本編を振り返ります。

第12話海軍伝習」のラストで登場した佐賀藩蒸気軍艦。その全長45メートル、当時の最新式である水面下のスクリューで推進する艦船です。
〔参照:第12話「海軍伝習」⑩-2(負けんばい!・後編)



その名を“電流丸”と言います。
オランダからこの軍艦を入手したとき、殿鍋島直正は、愛娘貢姫にこんな手紙を送ります。
オランダに発注した軍艦が届いた。それはそれは飛び立つように嬉しく…」

わりとお茶目殿。それだけ喜びが伝わるようです。


――幕末の動乱期。佐賀、そして日本のために海を駆ける“電流丸”。

ロシア対馬に上陸すれば緊急出動し、伊万里から警戒にあたります。
〔参考(後半):「主に基山町民・鳥栖市民の方を対象にしたつぶやき」

露西亜(ロシア)の動きによっては、一戦交えんばならんか…」
ちなみに第12話では、“数学の子”として登場した中牟田倉之助佐賀海軍で活躍します。“電流丸”の艦長も務めていたようです。
〔参照:第12話「海軍伝習」⑥(数学の子)

西洋列強沿海で活動する中、幕末の日本は、常に緊張状態にありました。その対外的な危うさを一番理解していたのは、おそらくは佐賀藩


――対立を深める幕府と雄藩。佐賀の殿・鍋島直正は「外国に付け入る隙を与えるから、内戦は回避しなければならない」と考えたようです。

幕末最強”の軍事技術を持ちながら、佐賀藩が積極的に戦わなかった理由もそこに求められます。

日本人同士つぶし合うべきではない。」
そんな殿気持ちを乗せて、電流丸はひた走ります。

佐賀で海軍と言えば三重津が有名ですが、有明海は内湾なので、伊万里港からの出発も多かったようです。あるときは殿直正を乗せ、大坂に入港しました。

「見なはれ!佐賀の殿様が“黒船”に乗って来ましたで!」
大坂の町衆たちが、見物のため港に詰めかけます。


――時代は明治になり、走り続けた“電流丸”は老朽艦となっていました。

その最後の地となったのが、伊万里港だったようです。

殿鍋島直正がこの世を去った、わずか数か月後。後を追うように“電流丸”も、その使命を終えることになります。

少し寂しい展開なのですが、“電流丸”は、天寿を全うしたと言っても良いのかもしれません。


――なお、私は佐賀に帰藩するときに限り、携帯の待ち受けを“電流丸”に変えています。

いまは新型コロナの感染拡大により、現地に行くことは差し控えております。

もし、私が伊万里港を眺めれば、こんな感慨を持つことでしょう。
「“電流丸”ここに眠る…」と。

陶磁器の積出の活気と、佐賀海軍の躍動の歴史がある
港湾都市・伊万里価値にも注目していきたいと思っています。


  


2020年08月07日

「主に有田町民の方を対象にしたつぶやき(後編)」

こんばんは。
有田町についてのつぶやき…後編です。

これも数年前なのですが、私はモヤモヤとしておりました。それは、NHKある番組のことです。
「なぜ“ブラタモリ”は、佐賀に来ないのか…」

ご存じない方もおられるかもしれないので、一応、説明しておきましょう。但し、私の主観が入った解説です…


――長年続いた「笑っていいとも!」の重圧から解放された(…と思われる)タモリこと、森田一義さん。

長寿番組を終えても、さすがは一流の芸能人

ご自身の興味の赴くまま動ける番組で、格の違いを見せます。全国各地地形・地質、およそ一般の旅番組とは程遠い世界が展開します。

…あれだけ眠たかった地理地学授業と、似たような中身を扱う教養番組なのに、これが楽しいのです。


――そんな“ブラタモリ”。なかなか佐賀を訪れてはくれませんでした。

そして、ネット上では「佐賀は、この番組でも“未踏の地”」と揶揄(やゆ)されていた様子。また「悔しかごたぁ!」…と大声を出しそうになるところです。

同番組を視聴している方はご存じでしょう。ここで“救世主”が登場します。

…言うまでもありません。有田町です。
しかも「有田焼」と「有田焼・世界へ」の2週連続の放映。


――繰り広げられた話は、陶石を採掘する山の成り立ちや、磁器を製造するのに適した環境など。

この辺りは、いつもの“ブラタモリ”らしい展開。

そして、有田ポーセリンパークでは、当時のアシスタントの林田アナウンサーが“特技”を使います。陶器磁器違いを体感するため、各々を叩いた音を比べる場面です。

林田アナ絶対音感の持ち主らしく、陶器磁器を叩いた音を、それぞれ見事に音階で表現しました。
この有田を特集した2週一言で語ると、「有田に行きたくなる」仕上がりでした。



――そして、タモリさんが物凄く興味を示したのが“碍子”。

碍子”は「ガイシ」と読みます。電柱などに絶縁体として配置される“白い物体”です。

日本幕末を経て、新時代・明治に入ったとき、電信の架設も進んでいきました。電気をコントロールするには“絶縁体”が重要です。

コストのかかる外国産を大量に使用することはできず、有田磁器製造技術で、碍子(ガイシ)製造します。これが今も使われている磁器碍子です。


――日本の近代化、そして有田の技術…と来れば、関わったのは佐賀藩士です。

明治の日本で活躍した“逓信四天王”の1人と称される、石丸安世(虎五郎)。本編では第12話から、登場しています。まずは“蘭学寮”で、江藤新平に一目おかれる存在として描きました。
〔参照(後半):第12話「海軍伝習」⑦(有田の“坊ちゃん”)

その後、長崎海軍伝習に参加。洋式帆船建造するときも、嬉々として鋼線(ワイヤー)を張っていた若手伝習生…という感じの表現にしています。
〔参照:第12話「海軍伝習」⑨-1(悔しかごたぁ・前編)、第12話「海軍伝習」⑩-2(負けんばい!・後編)


――のちに石丸安世はイギリスに密航し、佐賀藩随一英語の達人になります。

海軍伝習で引っ張ってくれたリーダー佐野常民(栄寿)が、パリ万博で困難に見舞われているとき、ハイレベルな英語力を身に着けた石丸安世が、イギリスより颯爽(さっそう)と現れます。

当時は、西洋の事情に通じていても、オランダ語しか話せないことが多く、佐野にとって石丸合流は心強かったことでしょう。
…これが本来の「施されたら施し返す、恩返しです」の精神でしょうか。


――電信架設に必須だった絶縁体・碍子。明治に工部省の電信頭となった、石丸安世が用いたのは有田の力。

当時、東京-長崎間電信線架設は、「破天荒の大事業」とまで言われたそうです。

そして、日本各地への情報通信網の整備に、有田磁器は欠かせない要素となったのです。


――後編の石丸安世は、かなり直接的に明治期の有田、そして陶磁器産業に関わっているのですね。

なお、前編久米邦武も、“香蘭社”設立に関わるなど産業の仕組みづくりで、有田とは深い関わりを続けました。

私が語らずとも、既に有田町ではよく知られた話なのかもしれません。
あらためて有田町の皆様には、親しみを持ってほしい佐賀藩士の2人です。

  


2020年08月05日

「主に有田町民の方を対象にしたつぶやき(前編)」

こんばんは。
第12話の振り返りを兼ねて、今回は有田町について考えてみたいと思います。あわせて語りたい人物2人いますので、前・後編でお送りします。


――数年前。私が佐賀出身者と知ったときの周囲の反応です。

当時の職場の同僚たちとの会話を想い起こしてみます。

「SRさん。故郷佐賀なんですね。」
…と、ある同僚の女性。

「…佐賀…、何がありますかね。」
そして、会話に加わったもう1人

佐賀に対して、何も“イメージ”が浮かばない様子でした。


――ここで、先ほどの同僚女性の表情が、パッと変わります。

佐賀と言ったら、有田の陶器市がありますよね!」
これは一般的な佐賀への反応としては、かなり好意的なものです。

さすがは“有田”ブランド。
しかし、残念なのは私の反応でした。
「たしかに有田佐賀ですが、陶磁器には詳しくないんですよね。」


――以前「伊万里市民・有田町民」の皆様へのつぶやきでも触れていますが…

私は陶磁器について、まったく知識無かったのです。
…こうして私は“佐賀の価値”について、他県の方に語る機会を逸しました。

かつて、佐賀の殿様はこう語ったといいます。
私の家来は、とにかく学ばねばならんのだ。」と。


――これでは殿に「ボーッと生きていてはならぬ!」と、お叱りを受けます。

次に有田の話題が来たら、今度は不覚を取るつもりはありません。佐賀の魅力として伝えきる所存です。

…というわけで、有田陶山神社の写真を入手しました。




陶山神社”は、江戸時代に有田にあった佐賀藩の“有田皿山”の代官所が建立したそうです。

この“代官所”に縁のある人物が、第12話で初登場した、久米丈一郎(邦武)

義祭同盟”について語り合える同年代の友達を探していた、大隈八太郎(重信)。その眼前に現れた、賢そうな子が久米丈一郎(邦武)…という場面設定にしました。〔参照:第12話「海軍伝習」⑦(有田の“坊ちゃん”)


――この久米丈一郎(邦武)は、日本の近代歴史学の扉を開く人物。

久米の父・邦郷は、有田皿山の代官を務める、有能な実務家
そのご子息なので、本編では“有田の坊ちゃん”というサブタイトルを付けました。

伝統的な“儒学”などを「面白くない」として嫌う大隈八太郎(重信)。しかし、新しくできた友達久米丈一郎(邦武)古典に学ぶことが大好きです。

この2人、高校生くらいで出会ったといい、老人になっても友達だったのですが、何やら最初の方向性はズレています…そのくらいが長く友達でいるためには良いのかもしれません。


――久米の父・邦郷は、佐賀藩の近代産業に貢献したエリートだったようです。やはり経済感覚に優れます。

儒学などの古い本はつまらん」という考え方父・邦郷
これに反発した久米丈一郎(邦武)は、藩校「弘道館」で書物を読みまくります。

のちの明治の世。学識のある久米は、西洋に渡る“使節団”には書記官として同行しました。久米が作成した報告書「米欧回覧実記」は、まるで西洋近代文明百科事典と言われます。


――久米邦武は「私が注意深く資料を扱うのは、実務家の父親譲りだった…」という回想をしたそうです。

父親として“しっかり生きてきたか”。その真価が問われるのは、子どもが歳を経てから…なのかもしれません。

  


2020年08月03日

「暑中お見舞い申し上げます。」

こんばんは。
今年は、各地のお祭りなど、を感じさせる行事が大幅に減っていますね。少し前まで梅雨でしたし、急に八月になったかのような戸惑いを感じます。

暑中のお見舞いは、立秋までに…」と言いますので、今日この場をお借りして。

いつも文章が長くなりがちなので、少し簡潔に書く練習も兼ねたいと思います。


――さて、最近では“本編”の各話を書き終えるのに、概ね1か月かかってます…

だいたい1話あたり10本ほど投稿しています。

序盤はまだシンプルな話だったのですが、最近は誰をどの場面で登場させるか…なかなか悩ましいところです。

たぶん主人公をハッキリ固定させれば、書きやすくなるのだと思います。

しかし、私は1人の主人公が際立った作品より、複数のキャラクターが活躍する物語が好きなのです。
幕末佐賀藩を書きたくなる理由は、多分ここにもあります。


――各投稿ごとに何となく映像をイメージしてから、文章に書き起こしています。

すごく疲れるのですが、書いているときには“仕事”のことは忘れています。ある意味では、贅沢な時間なのかもしれません。

そして、頭を使うときに、私が強く欲しているもの…


――それは“糖分”です。甘い物が好きなのです。

プロフィールにも“丸ぼうろ”と“ブラックモンブラン”を例示しているので、お察しいただいている方もいるかもしれません。


昨年の初夏には、県庁通りの“村岡総本舗”さんで、こんなものを食べていました。

バナナ羊羹アイスキャンデー!!」

これが“シュガーロード”と呼ばれる長崎街道がつないでいくもの。
そして佐賀のソウルフード“小城羊羹”の底力であろうと思います。


――“暑中見舞い”を語るならば、少しでも涼しい投稿を…と考えた結果がこうなりました。

急激な猛暑の到来、今夏はマスクの着用で、さらに暑い場面も多いでしょう。皆様、くれぐれもご自愛ください。  


Posted by SR at 22:12 | Comments(0) | 企画案・雑記帳

2020年08月02日

「慈雨の剣」

こんばんは。
前回の投稿で、うっかり「写真素材が無い!」とつぶやいてしまったので、色々とお気遣いの言葉をいただきました。

望郷の剣」というタイトルでの投稿もシリーズ化しています。今では少し距離が遠くても、新型コロナの影響で隔てられても、佐賀がとても近くに感じられます。これは皆様のおかげであると思います。

…というわけで、今日もある佐賀藩士(?)の想いを描く同シリーズの投稿です。

ちなみに“本編”の第13話は「通商条約」の予定ですが、話の構成を迷うところです。準備期間として、色々と投稿しながら考えていきたいと思います。


――さて、豪雨は困りますが、猛暑に見舞われ出すと、穏やかな雨を懐かしく想います。

思えば元号が“令和”になってから、まだ1年ちょっとしか経っていません。
今日は、いきなり“平成ラスト一日に話が戻るのですが…この日、皆様は何か特別な過ごし方をなさっていたでしょうか。

以前「発心の剣」というタイトルで、私が“佐賀出身”であると、一瞬で見抜かれた話を投稿しました。今回は、私が佐賀藩士(?)として、活動し始める契機になった日のお話です。


――“平成”最後の日、早朝。佐賀市内には霧のような優しい雨が降っていた。

私が佐賀に帰ってきたのは、祖父の墓参りをするためだった。

ごく幼少の頃に祖父とは死別した。
それゆえ私は、はっきりと祖父の姿を覚えているわけではない。

しかし、受け継いだ…あるいは受け継いでしまったものは確かにあるらしい。


――しかし、先んじて墓参りの際は、滝のような雨に見舞われた。

「わざわざ孫が墓参りにきたので、感激の涙雨ではないか…」
…などと他愛のない会話をしながら、慌ただしい墓参となったのである。

こうして主たる用事が終わり、佐賀での滞在の最終日
早朝目が覚めてしまった。特に為すべきこともないので、まだ人通りもほとんどない県庁通りを歩いた。



――そのまま南下し、佐賀城公園に向かったのである。

ポツポツと降り続いていた。
ただ、お堀端を歩く。どの場所も丁寧に掃除が行き届いている様子だ。

このお城が、いかに周りの市民から愛されているかが伝わってくる。本丸歴史館が開くまでには、まだ随分と時間があった。


――涼しい雨を傘で受けながら、おそらくは贅沢な時間を過ごした。

「やはり、ここは私にとっては“特別な場所”なのだ…」
そう感じずにはいられなかった。

時計の針が進むのも忘れたかのような時間を過ごした。
あと15時間ほどが経てば“元号”も変わるのだ…それが、より一層特別感を醸し出していた。


――ほどなく本丸歴史館が開く。

佐賀藩についての知識が得たくて、設置されているモニターの前に座る。

幕末期、日本の近代化の先駆けとなった肥前佐賀藩…」
概ね、このような解説だっただろうか。

その前年大河ドラマが「西郷どん」だったので、少なくとも“佐賀七賢人”のうち3人は登場した。その辺りの情報は、少し調べていた。


――しかし、モニターの音声は、予想外の人物の解説を始めた。

財政教育を担当した藩の請役(ナンバー2)で、須古領主の鍋島安房…」
は完全にを突かれた。まったくノーマークだった人物の名が出てくる。



しかも財政再建教育改革を成し遂げた、殿鍋島直正の“右腕”のような補佐役とは…幕末佐賀藩において、極めて重要なところである。

その衝撃はハッキリと覚えているが、その後、資料館内で何を調べたかの記憶は曖昧である。ただ「幕末佐賀藩の活躍は、もっと広く知られるべきだ!」という気持ちは確信に変わった。


――全国が“新しい時代へのカウントダウン”で浮き立っていた、その日。私は佐賀を発った。

こうして今度は佐賀出身者であるだけでなく、佐賀藩士(?)としての気付きを得てしまった。大都市圏に戻っての活動が始まった。

まず“令和”に元号が変わった次の日から、本棚の奥にあった古い日本史の教科書を引っ張り出した。そして、おもむろに佐賀藩の年表と見比べたのである。


クールダウンを意識してみましたが、やはり佐賀藩の話に言及すると多少は熱くなるようです…しばらくの間、忙しくなりそうなのですが、休み休みになっても、何とか続けていきたいと思います。


  


Posted by SR at 20:27 | Comments(0) | 「望郷の剣」シリーズ

2020年08月01日

「望郷の剣3」

こんにちは。
お読みいただいた方、第12話海軍伝習」いかがだったでしょうか。今年も8月になってしまいました。

本日は、ある佐賀藩士(?)の想いを描く「望郷の剣」シリーズです。


――私の個人的な事情だが、周辺環境の変化により、4月以降の活動は苦戦を強いられている。

「この展開予期できなかった…」
ブログ開始時の想定に比べて、現在の私を取り巻く状況は厳しい。いまや2日に1度投稿ペースを守るのに手一杯である。

「いかん…写真の素材も無い!」
また新型コロナの蔓延により、佐賀に帰藩して行うはずの事柄が実施できない。いまや情報の収集にも高いハードルが生じている。


――しかし、そのことは私の“望郷の念”をより強いものとしている。

いろいろ疑問符(?)が付くとはいえ、仮にも“佐賀藩士”を名乗るならば、この程度の困難に屈してはならない。

これまでの「望郷の剣」の続きになるが、帰藩が叶わずとも、動く手立てはある。まずは“消費行動”で、佐賀の価値を示すのである。


――こうして我が家の食卓には、嬉野茶伊万里梨白石産“玉ねぎ”が並ぶこととなった。

佐賀県農産物は生産高でトップは取れなくても、ランキング高順位の品目が多い。良い位置に付けているのだ。もちろん品質は申し分ない。

これに小城の工場で製造される“ブラックモンブラン”、佐賀市内の製菓店の“丸ぼうろ”を加えれば、さらに彩りが増すことであろう。


――今年6月。新商業施設“コムボックス”がオープンし、佐賀駅前が少し賑わっていると聞く。

私が“帰藩”できた時期は、まだ工事中だったのが、ついに動き始めたのだ。


今まで「インバウンド」という言葉は、主に“観光用語”として使われてきた。外国人観光客による消費を指して使われている経過がある。

しかし「インバウンド」にはもう1つの意味があるらしい。“ビジネス用語”では、国内外を問わず「顧客から企業にアプローチしてくる動き」全般を指すという。


――例えば、有田焼で特定の窯元のファンが直接訪ねて来る…という動きは、もう1つの「インバウンド」であるようだ。

駅前新商業施設には、観光・県産品案内の拠点“SAGA MADO”があり、特産品展示ブースがあると聞く。いわば常設の見本市ができた。

これにより県内外の方と、佐賀の特産品との“出会い”の創り出されるはず…そんな展開に期待している。

佐賀県内の「この地域、この商品」のファンが増えれば、まず県内生産者が潤う。苦境にある地元の飲食業や温泉などの観光業にも、安定した資金が回る好循環を作り出せないか…


――「私が見たい幕末佐賀藩大河ドラマ」を追う中で、佐賀を主役にした“新しい消費行動”の実現を想うようになった。

もちろん、幕末期佐賀藩が行った政策のイメージに感化されている。

まずは全国各地に散らばっている佐賀藩士(?)呼び掛けを試みたい。
佐賀産品物を選択すべし!」と。

小さなところから、各々の“決起”を促すことも大事だと思うのである。


――以上です。最後にブログをお読みの皆様で、主に大都市圏に親族がいらっしゃる方へのつぶやきです。

たとえお盆の帰省自粛しても、このような佐賀との繋がり方もあります。

新型コロナへの心配で、帰省を迷っている親族をお持ちの皆様には、ひとまず特産品を通じて“望郷の想い”を満たす方法もあるのではないかと思います。

…わずかでも佐賀の経済プラスにはたらきますし、大都市圏に“佐賀への想い”を持つ同志(?)が増えれば、私も心強いです。

今は好機の到来を待つことにします。

  


Posted by SR at 19:28 | Comments(2) | 「望郷の剣」シリーズ