2020年08月18日
第13話「通商条約」④(お大事になされませ!)
こんばんは。
本編では行ったり来たりを繰り返しながらも、少しずつ時代が進んでいます。
今回は、白石町ゆかりの人物が2人登場します。
本編序盤から殿を支える、須古(白石町)の領主・鍋島安房。
終盤にはもう1人。写真家として知られ、のちにジャーナリストの先駆けになる人物。佐賀藩医・川崎道民も初登場します。
――1856年。佐賀城下、龍造寺八幡宮にて。
「ようやく、この地に“楠公さま”をお連れすることが叶いました…」
佐賀藩の請役、鍋島安房。
長年に渡り、殿・鍋島直正の“右腕”として働いている。
「安房様のお力添え、誠に忝(かたじけな)く存じます。」
傍らにいるのは、佐賀の尊王活動のリーダー・枝吉神陽である。
「いや、礼には及ばぬ。これは私自身の心の表れだ。」
鍋島安房、実に晴れやかな表情をする。
神陽に言葉を返すと、安房は深々と木像に一礼をした。
――木像は、楠木正成の「桜井の別れ」を描いた父子像である。
南北朝時代に後醍醐天皇に忠義を尽くした、楠木正成。
木像が描き出すのは、決死の戦いの前に子・正行と別れる場面。
〔参照:第4話「諸国遊学」⑧、第7話「尊王義祭」④〕
まるで“尊王の志”の象徴のような像。佐賀城下の中心に近い龍造寺八幡宮の境内に、新たに社を造営し、祀ることとなったのである。。
「安房様、お涙が…。」
「私も歳をとったか…、少し涙もろくなったようだ。」
「その御心、誠に尊い。この神陽、感じ入りました!」
「…神陽。かくいう、お主も涙しておるではないか。」

――お二方の“楠木正成”公への熱い想いは伝わったかと思う。
佐賀の“楠木正成”への敬愛と、“尊王の志”は意外と根が深い。
この楠公の父子が向き合う木像も、江戸初期に佐賀藩士が製作している。
「安房様、この地には、さらに高き志が集いましょうぞ!」
「神陽よ。殿もお主らを見込んでおられる。励めよ。」
枝吉神陽は、佐賀城での政務に戻る、鍋島安房を見送った。
――佐賀城・本丸の廊下にて。
「安房様!こちらに居られましたか。」
保守派の筆頭格・原田小四郎である。
高い実務能力を持ち、最近では藩政の主力に成長しつつある。
「あまり“義祭同盟”に、ご執心なさるのも、いかがなものかと。」
やはり鍋島安房の“活動”を快く思っていない様子だ。
「原田よ。これは私の道楽だ。あまり目くじらを立てるな。」
「私の“道楽”…とは、まるで殿のようなことを仰せですな。」
以前にも殿・鍋島直正からも同じような事を言われている、原田。そのときは“精錬方”(研究所)に対して「予算の使い過ぎ」だと苦言を述べていた。

――保守派・原田小四郎は、“心配事”を口にする。
「諸国で“尊王”を掲げる者たちに、穏やかならざる動きがある様子。」
当時の状況を考えれば、原田の指摘も正しい。
尊王思想の台頭により、各地で派閥抗争が生じるのも、また事実である。
黒船来航や大災害を経て、絶対的だった幕府の力は弱まってきている。
各藩で下級武士たちが“尊王”を旗印に、旧来の秩序をひっくり返そうと動き始めていた。
「佐賀に限っては、そのような事はあるまい。」
「安房様は、お人が良過ぎまする!」
藩校の学生と一緒に学び、下級武士の意見にも向き合ってきた、鍋島安房。常に若い藩士たちに温かい眼差しを向けてきた。
――原田の忠告を受けた後、政務をこなす鍋島安房。佐賀藩の財政はすっかり安定していた。
以前ならば、仕事を片付けた傍から、教育の責任者として藩校「弘道館」に走るところ。しかし、40代半ばの鍋島安房には、長年の無理が積み重なっていた。
身体に残る澱(よど)みのような疲れ、軽快ではない足取りで、佐賀城の堀端に差し掛かる。そこで丸顔の若い医師とすれ違う。
「川崎ではないか!息災であったか。」
鍋島安房から声を掛ける。見知った顔である様子だ。
「はっ!久しくお伺いせず、無礼の段、平にご容赦のほどを。」
才気が前面に出ており、いかにも利発そうな若者である。
丸坊主であり、医術修業中であることが伺える。

――名を川崎道民という。須古領(現・白石町)の侍医の養子である。
殿・鍋島直正のもとに遣わされ、佐賀藩医となった川崎道民。
須古領主である鍋島安房とは、もともとは主従の間柄ということになる。
「はっはっは…気遣いは無用じゃ。よく励んでおると聞くぞ。」
利発な丸顔…川崎道民は、何かに気付いた。
「差し出がましいことを申します。安房様、お顔の色が優れぬご様子…」
軽く笑みを浮かべる、鍋島安房。
「もはや私も昔日のようには、働けぬようだな…」
――「度々、差し出がましくも、私が診て…」言葉を続けようとする川崎を、安房が静かに抑える。
「川崎よ、殿のために尽くせ。お主は、もっと学ぶのだ。」
安房は“ご領主”様としての指示を、川崎に与えた。
西洋の学問を学ばせるため、須古領の侍医に留めずに、佐賀藩医にした期待もあるのだ。
「お大事になされませ!」
川崎は、鍋島安房の背中を見送った。医者としての言葉を添えて。
(続く)
本編では行ったり来たりを繰り返しながらも、少しずつ時代が進んでいます。
今回は、白石町ゆかりの人物が2人登場します。
本編序盤から殿を支える、須古(白石町)の領主・鍋島安房。
終盤にはもう1人。写真家として知られ、のちにジャーナリストの先駆けになる人物。佐賀藩医・川崎道民も初登場します。
――1856年。佐賀城下、龍造寺八幡宮にて。
「ようやく、この地に“楠公さま”をお連れすることが叶いました…」
佐賀藩の請役、鍋島安房。
長年に渡り、殿・鍋島直正の“右腕”として働いている。
「安房様のお力添え、誠に忝(かたじけな)く存じます。」
傍らにいるのは、佐賀の尊王活動のリーダー・枝吉神陽である。
「いや、礼には及ばぬ。これは私自身の心の表れだ。」
鍋島安房、実に晴れやかな表情をする。
神陽に言葉を返すと、安房は深々と木像に一礼をした。
――木像は、楠木正成の「桜井の別れ」を描いた父子像である。
南北朝時代に後醍醐天皇に忠義を尽くした、楠木正成。
木像が描き出すのは、決死の戦いの前に子・正行と別れる場面。
〔参照:
まるで“尊王の志”の象徴のような像。佐賀城下の中心に近い龍造寺八幡宮の境内に、新たに社を造営し、祀ることとなったのである。。
「安房様、お涙が…。」
「私も歳をとったか…、少し涙もろくなったようだ。」
「その御心、誠に尊い。この神陽、感じ入りました!」
「…神陽。かくいう、お主も涙しておるではないか。」
――お二方の“楠木正成”公への熱い想いは伝わったかと思う。
佐賀の“楠木正成”への敬愛と、“尊王の志”は意外と根が深い。
この楠公の父子が向き合う木像も、江戸初期に佐賀藩士が製作している。
「安房様、この地には、さらに高き志が集いましょうぞ!」
「神陽よ。殿もお主らを見込んでおられる。励めよ。」
枝吉神陽は、佐賀城での政務に戻る、鍋島安房を見送った。
――佐賀城・本丸の廊下にて。
「安房様!こちらに居られましたか。」
保守派の筆頭格・原田小四郎である。
高い実務能力を持ち、最近では藩政の主力に成長しつつある。
「あまり“義祭同盟”に、ご執心なさるのも、いかがなものかと。」
やはり鍋島安房の“活動”を快く思っていない様子だ。
「原田よ。これは私の道楽だ。あまり目くじらを立てるな。」
「私の“道楽”…とは、まるで殿のようなことを仰せですな。」
以前にも殿・鍋島直正からも同じような事を言われている、原田。そのときは“精錬方”(研究所)に対して「予算の使い過ぎ」だと苦言を述べていた。

――保守派・原田小四郎は、“心配事”を口にする。
「諸国で“尊王”を掲げる者たちに、穏やかならざる動きがある様子。」
当時の状況を考えれば、原田の指摘も正しい。
尊王思想の台頭により、各地で派閥抗争が生じるのも、また事実である。
黒船来航や大災害を経て、絶対的だった幕府の力は弱まってきている。
各藩で下級武士たちが“尊王”を旗印に、旧来の秩序をひっくり返そうと動き始めていた。
「佐賀に限っては、そのような事はあるまい。」
「安房様は、お人が良過ぎまする!」
藩校の学生と一緒に学び、下級武士の意見にも向き合ってきた、鍋島安房。常に若い藩士たちに温かい眼差しを向けてきた。
――原田の忠告を受けた後、政務をこなす鍋島安房。佐賀藩の財政はすっかり安定していた。
以前ならば、仕事を片付けた傍から、教育の責任者として藩校「弘道館」に走るところ。しかし、40代半ばの鍋島安房には、長年の無理が積み重なっていた。
身体に残る澱(よど)みのような疲れ、軽快ではない足取りで、佐賀城の堀端に差し掛かる。そこで丸顔の若い医師とすれ違う。
「川崎ではないか!息災であったか。」
鍋島安房から声を掛ける。見知った顔である様子だ。
「はっ!久しくお伺いせず、無礼の段、平にご容赦のほどを。」
才気が前面に出ており、いかにも利発そうな若者である。
丸坊主であり、医術修業中であることが伺える。

――名を川崎道民という。須古領(現・白石町)の侍医の養子である。
殿・鍋島直正のもとに遣わされ、佐賀藩医となった川崎道民。
須古領主である鍋島安房とは、もともとは主従の間柄ということになる。
「はっはっは…気遣いは無用じゃ。よく励んでおると聞くぞ。」
利発な丸顔…川崎道民は、何かに気付いた。
「差し出がましいことを申します。安房様、お顔の色が優れぬご様子…」
軽く笑みを浮かべる、鍋島安房。
「もはや私も昔日のようには、働けぬようだな…」
――「度々、差し出がましくも、私が診て…」言葉を続けようとする川崎を、安房が静かに抑える。
「川崎よ、殿のために尽くせ。お主は、もっと学ぶのだ。」
安房は“ご領主”様としての指示を、川崎に与えた。
西洋の学問を学ばせるため、須古領の侍医に留めずに、佐賀藩医にした期待もあるのだ。
「お大事になされませ!」
川崎は、鍋島安房の背中を見送った。医者としての言葉を添えて。
(続く)