2020年08月20日

第13話「通商条約」⑤(京の雲行き)

こんばんは。
幕末と言えば、京都…とイメージする方も多いのではないでしょうか。

副島種臣枝吉次郎)は国学者・枝吉神陽実弟
幕末期、京都に何度か“留学”をしています。

明治期に新しい国家組織体制を構築する、副島種臣。古くからの国の形京都で学び、のちに西洋近代国家の知識を得て、新時代に活躍しました。


――1855年。副島種臣(枝吉次郎)は、再び佐賀藩より京に派遣された。

ペリー来航の前年(1852年)にも、副島京に留学していた。

しかし、数年を経て情勢は異なっている。諸外国への開港や、異国船への補給を可能にする、“和親条約”が続々と締結されていた。

先年、大坂(大阪)の港には、プチャーチン提督のロシア船が出現していた。

大坂への異国船出没は、公家たちの度肝を抜いた。
「おろしや(ロシア)の船が、大坂まで乗り込んで来たんやて…」
えらいこっちゃ…」



――公家たちは言葉こそ柔らかいが、その扱いは非常に難しい…

尊王の志が高い佐賀藩士ならば、なお気を遣うのである。

枝吉副島)はん、何とかしてたもれ…」
「そうや、佐賀の者たちは“武芸第一”と言うしな…」

副島種臣が“尊王思想家”・枝吉神陽であることは知られている。
「たしかに佐賀は、いち早く異国に対する備えを尽くしました。」

長崎ロシアと堂々と交渉が進められたのは、佐賀藩が整備した砲台影響があったという。幕府の交渉役たちも「佐賀の頑張り」を絶賛したのである。


――朝廷の期待は、異国を追い払う“攘夷”である。

幕府のトップは朝廷から“征夷大将軍”に任じられ、国内の支配をしている。
異国と戦うのが、あんたら武士の仕事や!」と、一応、理屈は通っているのだ。

「ほう…、やはり佐賀鍋島は頼りになるようや…」
「その力は、お上(帝)の為にお使いになってこそや…」


――しかし、西洋列強との技術力や資源の差は歴然としている。

海路を抑えられでもすれば、“物流”は止まってしまう。
このとき“攘夷”は、既に現実的ではなかった。

幕府の実質的なリーダーである阿部正弘は、“和親条約”を締結した当事者。

その阿部が後継に推したのが、ときの老中首座・堀田正睦である。堀田は熱心な開国派で知られ、英語教育の重要性にまで考えが及んだ。

これから欧米が要求することは、本格的な“通商”である。
長崎港と関わる佐賀藩は既にオランダを通じ、実質的な貿易を進めていた。



――盆地である京都。夏の夜には、ぬるい風が漂う。

夜の風が、副島が伸ばしている顎ひげを撫でて通る。
夏の終わりを告げる“送り火”が、遠くに浮かんでいた。

副島京都滞在歴は長く、国学に熱心な公家たちからの期待もある。
「そうや、佐賀から“御親兵”を出してもらえんやろか…」

「…“御親兵”でございますか?」
副島が聞き返す。聴き取れなかったのではない、探りを入れている。

「数は、…いや五十でもええ…」
御所を守護する“御親兵”を出すとは、大変名誉なことである。

幕府の安定が揺らぐ中、朝廷の権威は上昇しつつある。佐賀が先陣を切って、“尊王”の立場を示す好機…副島には、そう感じられた。


――佐賀の皆が憧れる“楠木正成”のように…

心得ました。お話は、国元(佐賀)に持ち帰りましょう。」
「頼むで…」
この頃、上方(大坂)では“尊王攘夷”の気風が盛り上がっていた。

その多くが“尊王”の響きに昂(たかぶ)り、西洋技術力を理解せず“攘夷”を唱えていた。ギラギラと「成りあがる」機会を狙っている、不遇の武士たち。


――を守ってほしいという公家たち

京の雲行き“は極めて怪しく、街には不穏な空気が漂い始めていた。

そして、公家たち心配も的中していく。
京の街には、幕末の嵐が吹き荒れるのである。


(続く)  


Posted by SR at 22:43 | Comments(0) | 第13話「通商条約」