2020年08月16日
「主にみやき町民の方を対象にしたつぶやき」
こんばんは。
今年のお盆は何とも気温が高かったですね
…「災害級の暑さ」なんて言葉も聞こえてくるようになりました。
――こう暑いと少しでも涼しく…「水の話」をします。
現在の佐賀市内も、水路(クリーク)の張り巡らされた街。

戦国から江戸初期の話なのですが、佐賀に「水利の神様」とまで呼ばれる人物が現れます。
その名は、成富兵庫茂安(なりとみ ひょうご しげやす)。
龍造寺隆信の傍でも活躍し、後を引き継ぐ鍋島家でも重用された武将です。
――この方のお名前は、みやき町では「北茂安」として地名にも残ります。
成富兵庫茂安は、筑後川流域を一体として、水利システムを構築した”治水家”として知られます。各地域の農業生産を高めた「佐賀の恩人」でもあります。
代表的工事の1つとして、みやき町の「千栗土居」が挙げられます。
さて、佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂公からも寄せられる絶大な信頼。
ご初代は四男・直弘を立派に育てるため、養子として茂安に預けるほどでした。
――ご初代の四男・鍋島直弘は“白石鍋島家”を興(おこ)します。
この白石鍋島家が、現在のみやき町を治めました。
家名は、当初は杵島郡白石(現在の白石町)にあった屋敷に由来するようです。
みやき町にある“白石神社”には、ご領主・鍋島直弘公と、養父・成富兵庫茂安も祀られていると聞きます。
――そして、幕末期のご領主も“白石神社”のご祭神の1人。
本編では「義祭同盟」の式典に佐賀藩の重役が参列していると記しました。
お1人は序盤から登場している、請役で須古領主の鍋島安房(茂真)。当時、藩政のナンバー2で、尊王のカリスマ・枝吉神陽の意見もよく採用します。
もうお1方、白石鍋島家・鍋島河内(直暠)も「義祭同盟」の参加者として名を残しています。幕末には、みやき町のご領主も尊王の活動に熱心だったようです。
〔参照:第12話「海軍伝習」④(義祭同盟の青春)〕
――他にも、みやき町ゆかりの人物が、直前に登場しています。
殿・鍋島直正の“早食い”を注意し、食事の取り方の改善を意見する…
相手が殿であっても、わりと厳しく健康指導を行っている人物。
佐賀藩医・大石良英です。
もともとの所属は、現・みやき町の“白石鍋島家”。
あまりにも優秀なので“本社”に栄転した…という感じでしょうか。
〔参照(終盤):第13話「通商条約」③(医者の言葉は聞いて)〕

――幕末期のみやき町も、蘭方(西洋)医学が盛んだったようです。
大石良英は、佐賀藩の若君・淳一郎(のちの鍋島直大)への種痘の実施を任されるほど、信頼されました。
…なお、写真は一部を拡大していますが、若君の後ろでは、殿・鍋島直正が、すごく心配そうに見守っています。
〔参照:第6話「鉄製大砲」⑦〕
東の対馬藩田代領(現・基山町と鳥栖市東部)は、田代売薬で著名でした。また西の神埼は、もっと全国的に知られて良いはずの“医の巨人”・伊東玄朴の出身地です。
――当時の、みやき町の周辺では、西洋医学も盛んだった…
今回の調べでは、治水に医術…他には「鍋島の陶磁器に京都の技を取り入れた“白石焼”」もありました。
そして「幕末佐賀の海軍整備費用を賄ったハゼの″白蝋”」には以前から注目しています。
今回は、密かに佐賀の技術を育んでいた“みやき町”というまとめ方にしてみました。みやき町民の皆様の共感が得られれば幸いです。
今年のお盆は何とも気温が高かったですね
…「災害級の暑さ」なんて言葉も聞こえてくるようになりました。
――こう暑いと少しでも涼しく…「水の話」をします。
現在の佐賀市内も、水路(クリーク)の張り巡らされた街。
戦国から江戸初期の話なのですが、佐賀に「水利の神様」とまで呼ばれる人物が現れます。
その名は、成富兵庫茂安(なりとみ ひょうご しげやす)。
龍造寺隆信の傍でも活躍し、後を引き継ぐ鍋島家でも重用された武将です。
――この方のお名前は、みやき町では「北茂安」として地名にも残ります。
成富兵庫茂安は、筑後川流域を一体として、水利システムを構築した”治水家”として知られます。各地域の農業生産を高めた「佐賀の恩人」でもあります。
代表的工事の1つとして、みやき町の「千栗土居」が挙げられます。
さて、佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂公からも寄せられる絶大な信頼。
ご初代は四男・直弘を立派に育てるため、養子として茂安に預けるほどでした。
――ご初代の四男・鍋島直弘は“白石鍋島家”を興(おこ)します。
この白石鍋島家が、現在のみやき町を治めました。
家名は、当初は杵島郡白石(現在の白石町)にあった屋敷に由来するようです。
みやき町にある“白石神社”には、ご領主・鍋島直弘公と、養父・成富兵庫茂安も祀られていると聞きます。
――そして、幕末期のご領主も“白石神社”のご祭神の1人。
本編では「義祭同盟」の式典に佐賀藩の重役が参列していると記しました。
お1人は序盤から登場している、請役で須古領主の鍋島安房(茂真)。当時、藩政のナンバー2で、尊王のカリスマ・枝吉神陽の意見もよく採用します。
もうお1方、白石鍋島家・鍋島河内(直暠)も「義祭同盟」の参加者として名を残しています。幕末には、みやき町のご領主も尊王の活動に熱心だったようです。
〔参照:
――他にも、みやき町ゆかりの人物が、直前に登場しています。
殿・鍋島直正の“早食い”を注意し、食事の取り方の改善を意見する…
相手が殿であっても、わりと厳しく健康指導を行っている人物。
佐賀藩医・大石良英です。
もともとの所属は、現・みやき町の“白石鍋島家”。
あまりにも優秀なので“本社”に栄転した…という感じでしょうか。
〔参照(終盤):
――幕末期のみやき町も、蘭方(西洋)医学が盛んだったようです。
大石良英は、佐賀藩の若君・淳一郎(のちの鍋島直大)への種痘の実施を任されるほど、信頼されました。
…なお、写真は一部を拡大していますが、若君の後ろでは、殿・鍋島直正が、すごく心配そうに見守っています。
〔参照:
東の対馬藩田代領(現・基山町と鳥栖市東部)は、田代売薬で著名でした。また西の神埼は、もっと全国的に知られて良いはずの“医の巨人”・伊東玄朴の出身地です。
――当時の、みやき町の周辺では、西洋医学も盛んだった…
今回の調べでは、治水に医術…他には「鍋島の陶磁器に京都の技を取り入れた“白石焼”」もありました。
そして「幕末佐賀の海軍整備費用を賄ったハゼの″白蝋”」には以前から注目しています。
今回は、密かに佐賀の技術を育んでいた“みやき町”というまとめ方にしてみました。みやき町民の皆様の共感が得られれば幸いです。