2021年05月14日
「私の失策とイルミネーションのご夫婦(後編)」
こんばんは。
手元の辞書をひくと、“失策”とは「~しそこなうこと」だそうです。佐賀バルーンミュージアムの前にある、“ご夫婦”の像を撮影しそこなったと気付く私。
――第2部の調べ物を開始して…
佐賀藩と同じ肥前国には、他の藩もあります。ある日、大村藩(長崎県大村市)について書かれたページを見ました。そこで、記憶にあるお名前を見かけます。
「“石井筆子”…、長崎の人だったのか。」
そのお名前には、見覚えがあった。たしか佐賀市内に銅像があった方だ。
――「日本の知的障がい児教育・福祉の先駆者」
そんな説明板のタイトルとともに、石井亮一・筆子の夫妻の像があったはず。
「たしか“旅立の剣”の時に、写真を撮ったかな…」
私がデータを確認した、次の瞬間。
「写真の…無かごたぁ!」
――私の微妙な“佐賀ことば”はさておき、
かろうじて2人の後ろ姿が見られる写真があり、それが前編で紹介した画像。
「しまった…、これでは説明書きも読めん。」
2019年の晩秋「サガ・ライトファンタジー」で大通りが煌めく頃に撮影した写真より。これも偶然の写り込み。拡大はしたものの、やっぱり写りは小さいです。

――だが、光の中に佇む2人。優しい風景。
ご夫婦が優しい目で見つめるのは、知的障がいをもった子供たちだそうです。石井亮一は、“大政奉還”のあった1867(慶応三)年に佐賀に生まれました。
しかし、亮一の幼少期には明治の新時代が始まっていました。佐賀藩の重臣の家系から出て、優秀だった亮一は鍋島家の奨学生として学問を進めたようです。
――まさに“新時代”らしく…
江戸時代には禁じられていたキリスト教の信仰に目覚めた、石井亮一。人間愛を実践するような生き方をします。
明治の濃尾大地震。亮一は、人身売買の手に掛からぬよう震災孤児(女児)を保護。その中に知的障がいを持つ子どもがいたことが、亮一の転機となります。
――当時の日本では知識が得られないので
亮一は渡米し、知的障がいについて研究。ヘレンケラーとも会談したそうです。日本に戻り、活動する石井亮一の前に現れたのが、のちに妻となる筆子でした。
筆子の父は、肥前大村藩士。あの西郷隆盛に信頼され、勝海舟との会談にも同席した、新政府軍の参謀・渡邉(わたなべ)清という人物。
父が明治新政府でも高官になっていたため、娘の筆子も当時には珍しい高等教育を受けた女性です。

――しかし筆子は、最初の夫とは死別…
前夫との間には知的障がいを持つ娘がいました。かつて“鹿鳴館の華”と呼ばれた女性の1人に、大きな試練が与えられていたことは想像に難くありません。
…しかし、のちの夫・石井亮一と知り合ったのは、その娘がつないだ縁でした。
当時の日本で知的障がいへの理解は皆無と言ってよく、亮一の“志”に触れた筆子は救われた想いだったことでしょう。
――やがて夫婦となった2人。
日本初の知的障がい者施設を運営していきます。
それが現在も続く“滝乃川学園”(現・東京都国立市)。明治期、人脈には恵まれていた夫婦ではありますが、経営は非常に苦しいものだったそうです。
――ある時、施設の園児により失火が発生。
その園児は、火の危険性を認識できなかったようです。そして、犠牲者を出した火災事故に、痛切な責任を感じる2人。学園を閉鎖することを考えます。
ここで「石井さんのためなら、私が動こう…」という老人が現れます。それが日本近代資本主義の父と呼ばれる、渋沢栄一。
――すでに80代の渋沢ですが「経営は任せろ!」とばかりに
ここは老いてなお、渋沢。理事長を引受け、学園を近代的な法人経営とします。石井亮一の負担を減らし、学園長として教育に専念できるよう動いたようです。
この行動はカッコいい。吉沢亮さんが演じれば、“映える”場面だと思います。
――これは、大河ドラマ『青天を衝け』でも…
渋沢栄一の晩年には、石井夫妻も登場するのでは?と思わせる展開。ちなみに渋沢は91歳で他界するまで、理事長を務めていたようです。
こうして、私が知った「大河ドラマ」の主人公も動かす“大きな愛”の話。銅像の写真を撮りそこなった“失策”は、次につながる一歩になったのかもしれません。
手元の辞書をひくと、“失策”とは「~しそこなうこと」だそうです。佐賀バルーンミュージアムの前にある、“ご夫婦”の像を撮影しそこなったと気付く私。
――第2部の調べ物を開始して…
佐賀藩と同じ肥前国には、他の藩もあります。ある日、大村藩(長崎県大村市)について書かれたページを見ました。そこで、記憶にあるお名前を見かけます。
「“石井筆子”…、長崎の人だったのか。」
そのお名前には、見覚えがあった。たしか佐賀市内に銅像があった方だ。
――「日本の知的障がい児教育・福祉の先駆者」
そんな説明板のタイトルとともに、石井亮一・筆子の夫妻の像があったはず。
「たしか“旅立の剣”の時に、写真を撮ったかな…」
私がデータを確認した、次の瞬間。
「写真の…無かごたぁ!」
――私の微妙な“佐賀ことば”はさておき、
かろうじて2人の後ろ姿が見られる写真があり、それが前編で紹介した画像。
「しまった…、これでは説明書きも読めん。」
2019年の晩秋「サガ・ライトファンタジー」で大通りが煌めく頃に撮影した写真より。これも偶然の写り込み。拡大はしたものの、やっぱり写りは小さいです。
――だが、光の中に佇む2人。優しい風景。
ご夫婦が優しい目で見つめるのは、知的障がいをもった子供たちだそうです。石井亮一は、“大政奉還”のあった1867(慶応三)年に佐賀に生まれました。
しかし、亮一の幼少期には明治の新時代が始まっていました。佐賀藩の重臣の家系から出て、優秀だった亮一は鍋島家の奨学生として学問を進めたようです。
――まさに“新時代”らしく…
江戸時代には禁じられていたキリスト教の信仰に目覚めた、石井亮一。人間愛を実践するような生き方をします。
明治の濃尾大地震。亮一は、人身売買の手に掛からぬよう震災孤児(女児)を保護。その中に知的障がいを持つ子どもがいたことが、亮一の転機となります。
――当時の日本では知識が得られないので
亮一は渡米し、知的障がいについて研究。ヘレンケラーとも会談したそうです。日本に戻り、活動する石井亮一の前に現れたのが、のちに妻となる筆子でした。
筆子の父は、肥前大村藩士。あの西郷隆盛に信頼され、勝海舟との会談にも同席した、新政府軍の参謀・渡邉(わたなべ)清という人物。
父が明治新政府でも高官になっていたため、娘の筆子も当時には珍しい高等教育を受けた女性です。
――しかし筆子は、最初の夫とは死別…
前夫との間には知的障がいを持つ娘がいました。かつて“鹿鳴館の華”と呼ばれた女性の1人に、大きな試練が与えられていたことは想像に難くありません。
…しかし、のちの夫・石井亮一と知り合ったのは、その娘がつないだ縁でした。
当時の日本で知的障がいへの理解は皆無と言ってよく、亮一の“志”に触れた筆子は救われた想いだったことでしょう。
――やがて夫婦となった2人。
日本初の知的障がい者施設を運営していきます。
それが現在も続く“滝乃川学園”(現・東京都国立市)。明治期、人脈には恵まれていた夫婦ではありますが、経営は非常に苦しいものだったそうです。
――ある時、施設の園児により失火が発生。
その園児は、火の危険性を認識できなかったようです。そして、犠牲者を出した火災事故に、痛切な責任を感じる2人。学園を閉鎖することを考えます。
ここで「石井さんのためなら、私が動こう…」という老人が現れます。それが日本近代資本主義の父と呼ばれる、渋沢栄一。
――すでに80代の渋沢ですが「経営は任せろ!」とばかりに
ここは老いてなお、渋沢。理事長を引受け、学園を近代的な法人経営とします。石井亮一の負担を減らし、学園長として教育に専念できるよう動いたようです。
この行動はカッコいい。吉沢亮さんが演じれば、“映える”場面だと思います。
――これは、大河ドラマ『青天を衝け』でも…
渋沢栄一の晩年には、石井夫妻も登場するのでは?と思わせる展開。ちなみに渋沢は91歳で他界するまで、理事長を務めていたようです。
こうして、私が知った「大河ドラマ」の主人公も動かす“大きな愛”の話。銅像の写真を撮りそこなった“失策”は、次につながる一歩になったのかもしれません。