2020年10月18日
「主に太良町民の皆様を対象にしたつぶやき」
こんばんは。
今週末にも気分転換の投稿を作成しました。
とくに太良町ゆかりの方が、ご覧になっていれば幸いです。
現在、“本編”では、殿・鍋島直正が薩摩(鹿児島)に到着するところです。佐野常民(栄寿)が、蒸気船”観光丸”を船長として運用しています。
―― 人には、それぞれの標(しるべ)となる光がある。
いきなり何を言い出すか…という展開ですが、“本編”と太良町の幕末・明治に話をつなげるためです。
現在、江戸前ずしのネタとして有名な“コハダ”。最近、名が売れてきた高級な柑橘類・“クレメンティン”
…と、太良町には、海にも陸にも特産品があります。名所としては「海中鳥居」や「竹崎城址」にも触れたいところですが、それらは温存して別の話をします。
――まず、幕末(1804年~1829年)の文化・文政年間。
“本編”では、第1話「長崎警護」~第2話「算盤大名」で扱った年代。
1808年 フェートン号事件
1814年 鍋島直正、誕生
1825年 異国船打払令
1828年 シーボルト台風(子年の大風)
1830年 鍋島直正が佐賀藩主に就く
…佐賀藩としても、激動の時代でした。

――この時期、太良町に“村娘”たちの光となる人物がいたと伝わります。
佐賀には「岳の新太郎さん」という民謡があると知りました。
それが、この銅像の美少年を描いた歌です。
説明板を拡大すれば、その人となりが浮かび上がるはずです。多良岳の山頂近く、金泉寺の寺侍…とあります。
――なんと、彼が寺との山道を上り下りするだけで、
村娘たちの心は“ザンザ、ザンザ”と揺れ動いたと言われます。その心のざわめきは歌に残るほどだった…ということで、後世に伝わっています。
もはや単なる“イケメン”の域を超えて、「ご当地アイドル」としての存在感。
幕末史に名を残さずとも、こうやって銅像が建つこともある…
勤勉に働き、農業等の生産者として佐賀の躍進に貢献したであろう村娘たち。「新太郎さん」は彼女たちの潤いであり、光であったと言えるのかもしれません。
――さて、今度は明治に至る、船を導く光の話です。
遠浅である有明海。複雑な潮流と干満の差によって、海の難所だったそうです。そこで、船にとって大事な光のサインである、燈台を建てます。
太良町には江戸時代から燈台があり、近隣の寺が管理していたようです。当時のお寺には、そんな役割もあったのですね。
この燈台は幕末期に大風(台風)で破損し、何とか再建されたのは1869年(明治2年)でした。すでに、時代は明治へと移っていました。

――なんと、日本初 “十一面ガラス鏡式 洋風燈台”で設置されました。
太良町の“夜灯鼻燈台”の跡には、その石碑が建っています。
これも説明板によりますが、燈台を再建したのは、佐賀藩の自治領の1つ“諫早領”の家老の子孫・早田市右衛門という人物。
江戸時代に燈台を再建した早田番佐衛門の“五世”の孫と記されています。
「ご先祖の名に懸けて燈台を再建する!」という決意があったのでしょうか。
…個人的に、こういう展開のお話は好きです。
――この燈台再建の2年後。
明治政府で洋式燈台の普及のため、工部省の責任者(燈台頭)となった人物が…佐野常民(栄寿)。ここからは“本編”のPRになります。
第14話の設定年代は、まだ1855年~1860年頃です。同じ時代を様々な角度で見る構成なので、各話で年代の重なりは多いです。
幕末期、日本には“名君”という光もありました。
〔参照:第13話「通商条約」⑪(名君たちの“未来”)〕
…次回投稿の“伏線”となる話です。大きな存在だった“名君たち”の光と影。現代の感覚では描きにくいところですが、なるべく頑張って表現したいところです。
今週末にも気分転換の投稿を作成しました。
とくに太良町ゆかりの方が、ご覧になっていれば幸いです。
現在、“本編”では、殿・鍋島直正が薩摩(鹿児島)に到着するところです。佐野常民(栄寿)が、蒸気船”観光丸”を船長として運用しています。
―― 人には、それぞれの標(しるべ)となる光がある。
いきなり何を言い出すか…という展開ですが、“本編”と太良町の幕末・明治に話をつなげるためです。
現在、江戸前ずしのネタとして有名な“コハダ”。最近、名が売れてきた高級な柑橘類・“クレメンティン”
…と、太良町には、海にも陸にも特産品があります。名所としては「海中鳥居」や「竹崎城址」にも触れたいところですが、それらは温存して別の話をします。
――まず、幕末(1804年~1829年)の文化・文政年間。
“本編”では、第1話「長崎警護」~第2話「算盤大名」で扱った年代。
1808年 フェートン号事件
1814年 鍋島直正、誕生
1825年 異国船打払令
1828年 シーボルト台風(子年の大風)
1830年 鍋島直正が佐賀藩主に就く
…佐賀藩としても、激動の時代でした。
――この時期、太良町に“村娘”たちの光となる人物がいたと伝わります。
佐賀には「岳の新太郎さん」という民謡があると知りました。
それが、この銅像の美少年を描いた歌です。
説明板を拡大すれば、その人となりが浮かび上がるはずです。多良岳の山頂近く、金泉寺の寺侍…とあります。
――なんと、彼が寺との山道を上り下りするだけで、
村娘たちの心は“ザンザ、ザンザ”と揺れ動いたと言われます。その心のざわめきは歌に残るほどだった…ということで、後世に伝わっています。
もはや単なる“イケメン”の域を超えて、「ご当地アイドル」としての存在感。
幕末史に名を残さずとも、こうやって銅像が建つこともある…
勤勉に働き、農業等の生産者として佐賀の躍進に貢献したであろう村娘たち。「新太郎さん」は彼女たちの潤いであり、光であったと言えるのかもしれません。
――さて、今度は明治に至る、船を導く光の話です。
遠浅である有明海。複雑な潮流と干満の差によって、海の難所だったそうです。そこで、船にとって大事な光のサインである、燈台を建てます。
太良町には江戸時代から燈台があり、近隣の寺が管理していたようです。当時のお寺には、そんな役割もあったのですね。
この燈台は幕末期に大風(台風)で破損し、何とか再建されたのは1869年(明治2年)でした。すでに、時代は明治へと移っていました。
――なんと、日本初 “十一面ガラス鏡式 洋風燈台”で設置されました。
太良町の“夜灯鼻燈台”の跡には、その石碑が建っています。
これも説明板によりますが、燈台を再建したのは、佐賀藩の自治領の1つ“諫早領”の家老の子孫・早田市右衛門という人物。
江戸時代に燈台を再建した早田番佐衛門の“五世”の孫と記されています。
「ご先祖の名に懸けて燈台を再建する!」という決意があったのでしょうか。
…個人的に、こういう展開のお話は好きです。
――この燈台再建の2年後。
明治政府で洋式燈台の普及のため、工部省の責任者(燈台頭)となった人物が…佐野常民(栄寿)。ここからは“本編”のPRになります。
第14話の設定年代は、まだ1855年~1860年頃です。同じ時代を様々な角度で見る構成なので、各話で年代の重なりは多いです。
幕末期、日本には“名君”という光もありました。
〔参照:
…次回投稿の“伏線”となる話です。大きな存在だった“名君たち”の光と影。現代の感覚では描きにくいところですが、なるべく頑張って表現したいところです。
Posted by SR at 19:09 | Comments(2) | 各地域の皆様へのつぶやき
この記事へのコメント
SRさま。
こんばんは。
いつも楽しみにしております。
太良町多良出身のイノシシです。岳の新太郎さん。地元を離れて40年近くなるので、最近は、あんまり聞かないですが、運動会や盆踊りでは、必ず踊っておりました。懐かしいです。
灯台の事は、お恥ずかしながらはじめて知りました。管理するお寺さんだと竹崎の「観世音寺」さんでしょうかね。鬼祭が有名ですが、最近は、後継者と人手不足でお祭りの存続もたいへんみたいに聞いています。
太良町を取り上げていただき、ありがとうございました。
こんばんは。
いつも楽しみにしております。
太良町多良出身のイノシシです。岳の新太郎さん。地元を離れて40年近くなるので、最近は、あんまり聞かないですが、運動会や盆踊りでは、必ず踊っておりました。懐かしいです。
灯台の事は、お恥ずかしながらはじめて知りました。管理するお寺さんだと竹崎の「観世音寺」さんでしょうかね。鬼祭が有名ですが、最近は、後継者と人手不足でお祭りの存続もたいへんみたいに聞いています。
太良町を取り上げていただき、ありがとうございました。
Posted by 多良岳に寝ころぶイノシシ
at 2020年10月18日 22:39

多良岳に寝ころぶイノシシ様
こんばんは。
せっかく新着コメントをいただいていたにもかかわらず、見落としておりました。失礼の段、ご容赦ください。
「各地域の皆様へのつぶやき」で対象地域ゆかりの方に反応していただけて、大変うれしく思います。掲載した写真は、遠景にしたので伝わりにくいのですが「岳の新太郎さん」は、涼し気な顔立ちの美少年の印象です。
イケメン…つながりで、佐賀七賢人の副島種臣の像の顔立ちと見比べてみたのですが、やはり諸外国とも折衝する、外務卿・副島先生はお顔が鋭いです。
「岳の新太郎さん」は、たぶん“癒し系”ですね。現代にも必要な存在かもしれません。
灯台の件は、ご推察のとおりのようです。説明には、かつて「竹崎観世音寺」の管理だった事が記されていました。
こんばんは。
せっかく新着コメントをいただいていたにもかかわらず、見落としておりました。失礼の段、ご容赦ください。
「各地域の皆様へのつぶやき」で対象地域ゆかりの方に反応していただけて、大変うれしく思います。掲載した写真は、遠景にしたので伝わりにくいのですが「岳の新太郎さん」は、涼し気な顔立ちの美少年の印象です。
イケメン…つながりで、佐賀七賢人の副島種臣の像の顔立ちと見比べてみたのですが、やはり諸外国とも折衝する、外務卿・副島先生はお顔が鋭いです。
「岳の新太郎さん」は、たぶん“癒し系”ですね。現代にも必要な存在かもしれません。
灯台の件は、ご推察のとおりのようです。説明には、かつて「竹崎観世音寺」の管理だった事が記されていました。
Posted by SR
at 2020年10月24日 22:14

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