2021年05月26日
「佐賀と長崎をつなぐもの」〔諫早駅〕
こんばんは。
来年秋の“西九州新幹線”の開業を見越して、その盛り上がりを先取りすべく、佐賀・長崎をつなぐ「大河ドラマ」のネタを探し回る(?)シリーズ。
…初回の「武雄温泉駅」編から始めて、4駅目となりました。
――今回は、諫早駅です。
「しまった!私の手元には、諫早の写真が無いっ!」
早くもピンチ。しかし、私とて“佐賀藩士(?)”を名乗る者。この程度で挫(くじ)けたくありません。
「私はこれまでよく頑張ってきた!私は『佐賀のドラマ』が書ける者だ。今までも。そして、これからも…」
これで「私が挫けることは絶対に無い!」と続けば、『鬼滅の刃』っぽい言い回しですが、私に同作品の主人公のような精神力は無いので、時々折れそうです。
――「何の話だ!?」と思われた方へ
直接に名所のアピールが叶わずとも、諫早の魅力を語るための前振りでした。先ほどの“小芝居”。実は、「佐賀藩士」という言葉が重要だったのです。
…当地・長崎県諫早市ですが、江戸時代には“佐賀藩”の領内です。
もう少し詳しく言えば、佐賀藩の自治領の1つ・諫早領。ふだんから、当ブログをお読みの方ならば「もしや…あの並びか!」とお気づきかもしれません。

※太良町の竹崎城址展望台(諫早家初代・龍造寺家晴さまが活用した城跡)
――では、参ります!
「武雄・須古・多久…そして、諫早!」
「4か所揃って、“龍造寺四家”!」
今度は、グッと懐かしく『秘密戦隊ゴレンジャー』風にまとめてみました。
…説明しましょう。このグループは鍋島家のもと主家筋、龍造寺氏の流れをくむ家柄。佐賀藩の上級家臣団(親類同格)で、各地域の自治領主たちです。
――こうして戦国期の龍造寺家から連なる「諫早家」。
かなり領民から慕われた、ご領主だったとか。江戸中期(1750年)。うっかり、佐賀藩の後継争いに介入してしまった、諫早家。
自治領主も、家臣団ですから「出過ぎた真似(まね)を!」とばかりに、佐賀本藩から怒られます。下った処分は「領地“四千石”の没収」。
ここで、なぜか領民が「抗議をせんば!」「一揆ば起こさんね!」とヒートアップ。
――慌てたのは、諫早家。家老を領民たちの元へと走らせます。
家老は必死の説得で一揆を止め、そして、彼らと運命をともにした…
地元の“領主”のため領民が決起した、珍しい“百姓一揆”。騒動の経過には、諸説あるようですが、諫早家と領民に一体感があったのは間違いなさそうです。
当時の佐賀本藩も、領民たちの“諫早への愛”に思うところがあったのかもしれません。20年と経たないうちに、この四千石を諫早家に戻します。
この騒動の舞台は、長崎県諫早市から佐賀県太良町を結ぶルート上。ちなみに海側と山側で二手の道があり、太良町で合流、嬉野市の塩田に至るそうです。

――そして、先ほどの道を総称して「多良海道」。
“神秘”に満ちている…という表現もされる多良山系の大自然。『多良海道』は諫早市(長崎)と太良町(佐賀)が協力して“ブランド化”を進めている様子。
この県境の2市町は、江戸時代は諫早領としてつながります。山側(多良海道)と海側(竹崎街道)。「歴史の道」百選にも入って、今後に期待のエリアです。
ネットで検索すると『多良海道』のパンフレットも見られます。大自然の“神秘”の風景が続き、道に沿って人々の歴史が折り重なる…素敵な出来映えでした。
このつながりは、すでに諫早の強みの1つでしょう。
〔参照(太良町側の写真あり):「醒覚の剣」(満干)〕
――幕末期。長崎警備の担当・佐賀藩としては…
多良岳の裾野を縫うように“海道”を往けば、佐賀藩領から出ることなく長崎に向かうことが可能です。
時には佐賀藩主も通ったと聞きます。幕末の名君・鍋島直正も「此度はオランダの蒸気船に乗れるかのう!」と意気揚々と多良海道を進んだことでしょう。
近隣に海の難所も多く、諫早家の家老は燈台を設置。明治期に、子孫の早田市右衛門が、台風で失われた燈台を西洋式で再建する、世代を超えた快挙も。
〔参照(後半):「主に太良町民の皆様を対象にしたつぶやき」〕

――当時の長崎を描いた、ある絵図を見ました…
異国船に対する警備に、諫早家の活躍が確認できるようです。私が目にしたのは、1846(弘化三)年の絵図。三艘のフランス船が長崎に現れています。
…ペリー来航の7年ほど前。佐賀藩は海上に船を並べ、身を挺してフランス船が長崎市中に進入するのを阻止していたようです。
国際都市・長崎での外国とのトラブルは国の危機にもつながる恐れがありました。諫早の佐賀藩士たちも、神経を遣って警備にあたったと思うのです。
――長崎警護で重要な役割を果たした“諫早領”。
異国船の脅威が迫れば、長崎に近い立地で初動に対応し、佐賀本藩に急を知らせる役回り。まるで日本の海を守る“安全装置”のようです。
…地元・諫早の高校生が調べた資料にも、異国船に備えた“諫早の先人”の姿を見かけました。
先ほどの絵図の説明文には、諫早領をはじめ、武雄領、深堀(長崎)領といった佐賀藩の各地域から海上警備に集結しています。
――来年の開業を控えた“西九州新幹線”。
その沿線である、諫早・長崎の佐賀藩士たちが、最前線で「日本の表玄関」を守っていたこと。“本編”の第1部では、強調するチャンスを逃しています。
佐賀藩士(?)の後輩として、諫早領の“先輩方”の頑張りを表現しそこなうのは不本意なので、また、何か考えたいところです。
…諫早駅。佐賀へと続く「多良海道」。北を見れば大村。西へ進めば長崎。東に入れば島原。“西洋の風”を感じる分岐点。あふれる浪漫が感じられそうです。
来年秋の“西九州新幹線”の開業を見越して、その盛り上がりを先取りすべく、佐賀・長崎をつなぐ「大河ドラマ」のネタを探し回る(?)シリーズ。
…初回の「武雄温泉駅」編から始めて、4駅目となりました。
――今回は、諫早駅です。
「しまった!私の手元には、諫早の写真が無いっ!」
早くもピンチ。しかし、私とて“佐賀藩士(?)”を名乗る者。この程度で挫(くじ)けたくありません。
「私はこれまでよく頑張ってきた!私は『佐賀のドラマ』が書ける者だ。今までも。そして、これからも…」
これで「私が挫けることは絶対に無い!」と続けば、『鬼滅の刃』っぽい言い回しですが、私に同作品の主人公のような精神力は無いので、時々折れそうです。
――「何の話だ!?」と思われた方へ
直接に名所のアピールが叶わずとも、諫早の魅力を語るための前振りでした。先ほどの“小芝居”。実は、「佐賀藩士」という言葉が重要だったのです。
…当地・長崎県諫早市ですが、江戸時代には“佐賀藩”の領内です。
もう少し詳しく言えば、佐賀藩の自治領の1つ・諫早領。ふだんから、当ブログをお読みの方ならば「もしや…あの並びか!」とお気づきかもしれません。
※太良町の竹崎城址展望台(諫早家初代・龍造寺家晴さまが活用した城跡)
――では、参ります!
「武雄・須古・多久…そして、諫早!」
「4か所揃って、“龍造寺四家”!」
今度は、グッと懐かしく『秘密戦隊ゴレンジャー』風にまとめてみました。
…説明しましょう。このグループは鍋島家のもと主家筋、龍造寺氏の流れをくむ家柄。佐賀藩の上級家臣団(親類同格)で、各地域の自治領主たちです。
――こうして戦国期の龍造寺家から連なる「諫早家」。
かなり領民から慕われた、ご領主だったとか。江戸中期(1750年)。うっかり、佐賀藩の後継争いに介入してしまった、諫早家。
自治領主も、家臣団ですから「出過ぎた真似(まね)を!」とばかりに、佐賀本藩から怒られます。下った処分は「領地“四千石”の没収」。
ここで、なぜか領民が「抗議をせんば!」「一揆ば起こさんね!」とヒートアップ。
――慌てたのは、諫早家。家老を領民たちの元へと走らせます。
家老は必死の説得で一揆を止め、そして、彼らと運命をともにした…
地元の“領主”のため領民が決起した、珍しい“百姓一揆”。騒動の経過には、諸説あるようですが、諫早家と領民に一体感があったのは間違いなさそうです。
当時の佐賀本藩も、領民たちの“諫早への愛”に思うところがあったのかもしれません。20年と経たないうちに、この四千石を諫早家に戻します。
この騒動の舞台は、長崎県諫早市から佐賀県太良町を結ぶルート上。ちなみに海側と山側で二手の道があり、太良町で合流、嬉野市の塩田に至るそうです。
――そして、先ほどの道を総称して「多良海道」。
“神秘”に満ちている…という表現もされる多良山系の大自然。『多良海道』は諫早市(長崎)と太良町(佐賀)が協力して“ブランド化”を進めている様子。
この県境の2市町は、江戸時代は諫早領としてつながります。山側(多良海道)と海側(竹崎街道)。「歴史の道」百選にも入って、今後に期待のエリアです。
ネットで検索すると『多良海道』のパンフレットも見られます。大自然の“神秘”の風景が続き、道に沿って人々の歴史が折り重なる…素敵な出来映えでした。
このつながりは、すでに諫早の強みの1つでしょう。
〔参照(太良町側の写真あり):
――幕末期。長崎警備の担当・佐賀藩としては…
多良岳の裾野を縫うように“海道”を往けば、佐賀藩領から出ることなく長崎に向かうことが可能です。
時には佐賀藩主も通ったと聞きます。幕末の名君・鍋島直正も「此度はオランダの蒸気船に乗れるかのう!」と意気揚々と多良海道を進んだことでしょう。
近隣に海の難所も多く、諫早家の家老は燈台を設置。明治期に、子孫の早田市右衛門が、台風で失われた燈台を西洋式で再建する、世代を超えた快挙も。
〔参照(後半):
――当時の長崎を描いた、ある絵図を見ました…
異国船に対する警備に、諫早家の活躍が確認できるようです。私が目にしたのは、1846(弘化三)年の絵図。三艘のフランス船が長崎に現れています。
…ペリー来航の7年ほど前。佐賀藩は海上に船を並べ、身を挺してフランス船が長崎市中に進入するのを阻止していたようです。
国際都市・長崎での外国とのトラブルは国の危機にもつながる恐れがありました。諫早の佐賀藩士たちも、神経を遣って警備にあたったと思うのです。
――長崎警護で重要な役割を果たした“諫早領”。
異国船の脅威が迫れば、長崎に近い立地で初動に対応し、佐賀本藩に急を知らせる役回り。まるで日本の海を守る“安全装置”のようです。
…地元・諫早の高校生が調べた資料にも、異国船に備えた“諫早の先人”の姿を見かけました。
先ほどの絵図の説明文には、諫早領をはじめ、武雄領、深堀(長崎)領といった佐賀藩の各地域から海上警備に集結しています。
――来年の開業を控えた“西九州新幹線”。
その沿線である、諫早・長崎の佐賀藩士たちが、最前線で「日本の表玄関」を守っていたこと。“本編”の第1部では、強調するチャンスを逃しています。
佐賀藩士(?)の後輩として、諫早領の“先輩方”の頑張りを表現しそこなうのは不本意なので、また、何か考えたいところです。
…諫早駅。佐賀へと続く「多良海道」。北を見れば大村。西へ進めば長崎。東に入れば島原。“西洋の風”を感じる分岐点。あふれる浪漫が感じられそうです。