2020年08月09日
「主に伊万里市民の方を対象にしたつぶやき」
おはようございます。
今回は伊万里市の皆様に向けた投稿を準備しました。
当ブログを始めたばかりのとき、幾人か伊万里の方に閲覧の“足あと”を残していただき、大変励みになったことを想い出します。
最近、流行りのセリフで言えば、これは私なりの“恩返し”です。
…とはいえ、大したものはお返しできません。
今後の本編に備えて、私が「伊万里」について考えている内容をつぶやきます。よろしければご覧ください。
――まず、陶磁器について無知な私が困惑した“古伊万里”という名称。
この名は伊万里が、江戸時代より「港湾都市」だったため付いたようです。
最近、知ったのですが、有田焼・平戸焼・波佐見焼…いずれも主な積出し港は“伊万里”なのですね。
――これは商品の受け手、とくに外国人からすれば…
「これは、どこの磁器だね?」
「“オールド・イマリ”だよ!」
「その品質は確かだ。買い求めるとしよう。」
…ヨーロッパなど陶磁器の消費地では、こんな会話があったのではと想像します。“伊万里”の名で、日本の陶磁器は世界に羽ばたいていきます。
――こうして海外で“伊万里”は、陶磁器の代名詞として知られることに。
学術的には「肥前磁器」と呼ぶべきとの見解もあるようです。また、陶磁器の近代産業化という観点では“有田”のイメージが強いです。
しかし、伊万里には「港湾都市」以外にも、取っておきの力があります。それは佐賀の“誇り”に直結するものです。
――伊万里の“秘技”は、佐賀のお殿様「鍋島家」の名を冠した磁器。
江戸時代を通じ、佐賀藩から将軍や幕閣に献上された品。
当時、献上品は、藩の命運を左右することすら有り得た…と推測します。
肥前佐賀藩が門外不出、採算度外視で作り上げた“至高の磁器”。
「鍋島焼」の名は“必勝の品”である事を意味しているのでしょう。
――さて「伊万里港」と「鍋島焼」のお話をしたところで、本編を振り返ります。
第12話「海軍伝習」のラストで登場した佐賀藩の蒸気軍艦。その全長は45メートル、当時の最新式である水面下のスクリューで推進する艦船です。
〔参照:第12話「海軍伝習」⑩-2(負けんばい!・後編)〕

その名を“電流丸”と言います。
オランダからこの軍艦を入手したとき、殿・鍋島直正は、愛娘・貢姫にこんな手紙を送ります。
「オランダに発注した軍艦が届いた。それはそれは飛び立つように嬉しく…」
わりとお茶目な殿。それだけ喜びが伝わるようです。
――幕末の動乱期。佐賀、そして日本のために海を駆ける“電流丸”。
ロシアが対馬に上陸すれば緊急出動し、伊万里から警戒にあたります。
〔参考(後半):「主に基山町民・鳥栖市民の方を対象にしたつぶやき」〕
「露西亜(ロシア)の動きによっては、一戦交えんばならんか…」
ちなみに第12話では、“数学の子”として登場した中牟田倉之助。佐賀海軍で活躍します。“電流丸”の艦長も務めていたようです。
〔参照:第12話「海軍伝習」⑥(数学の子)〕
西洋列強が沿海で活動する中、幕末の日本は、常に緊張状態にありました。その対外的な危うさを一番理解していたのは、おそらくは佐賀藩。
――対立を深める幕府と雄藩。佐賀の殿・鍋島直正は「外国に付け入る隙を与えるから、内戦は回避しなければならない」と考えたようです。
“幕末最強”の軍事技術を持ちながら、佐賀藩が積極的に戦わなかった理由もそこに求められます。
「日本人同士でつぶし合うべきではない。」
そんな殿の気持ちを乗せて、電流丸はひた走ります。
佐賀で海軍と言えば三重津が有名ですが、有明海は内湾なので、伊万里港からの出発も多かったようです。あるときは殿・直正を乗せ、大坂に入港しました。
「見なはれ!佐賀の殿様が“黒船”に乗って来ましたで!」
大坂の町衆たちが、見物のため港に詰めかけます。
――時代は明治になり、走り続けた“電流丸”は老朽艦となっていました。
その最後の地となったのが、伊万里港だったようです。
殿・鍋島直正がこの世を去った、わずか数か月後。後を追うように“電流丸”も、その使命を終えることになります。
少し寂しい展開なのですが、“電流丸”は、天寿を全うしたと言っても良いのかもしれません。
――なお、私は佐賀に帰藩するときに限り、携帯の待ち受けを“電流丸”に変えています。
いまは新型コロナの感染拡大により、現地に行くことは差し控えております。
もし、私が伊万里港を眺めれば、こんな感慨を持つことでしょう。
「“電流丸”ここに眠る…」と。
陶磁器の積出の活気と、佐賀海軍の躍動の歴史がある港。
港湾都市・伊万里の価値にも注目していきたいと思っています。
今回は伊万里市の皆様に向けた投稿を準備しました。
当ブログを始めたばかりのとき、幾人か伊万里の方に閲覧の“足あと”を残していただき、大変励みになったことを想い出します。
最近、流行りのセリフで言えば、これは私なりの“恩返し”です。
…とはいえ、大したものはお返しできません。
今後の本編に備えて、私が「伊万里」について考えている内容をつぶやきます。よろしければご覧ください。
――まず、陶磁器について無知な私が困惑した“古伊万里”という名称。
この名は伊万里が、江戸時代より「港湾都市」だったため付いたようです。
最近、知ったのですが、有田焼・平戸焼・波佐見焼…いずれも主な積出し港は“伊万里”なのですね。
――これは商品の受け手、とくに外国人からすれば…
「これは、どこの磁器だね?」
「“オールド・イマリ”だよ!」
「その品質は確かだ。買い求めるとしよう。」
…ヨーロッパなど陶磁器の消費地では、こんな会話があったのではと想像します。“伊万里”の名で、日本の陶磁器は世界に羽ばたいていきます。
――こうして海外で“伊万里”は、陶磁器の代名詞として知られることに。
学術的には「肥前磁器」と呼ぶべきとの見解もあるようです。また、陶磁器の近代産業化という観点では“有田”のイメージが強いです。
しかし、伊万里には「港湾都市」以外にも、取っておきの力があります。それは佐賀の“誇り”に直結するものです。
――伊万里の“秘技”は、佐賀のお殿様「鍋島家」の名を冠した磁器。
江戸時代を通じ、佐賀藩から将軍や幕閣に献上された品。
当時、献上品は、藩の命運を左右することすら有り得た…と推測します。
肥前佐賀藩が門外不出、採算度外視で作り上げた“至高の磁器”。
「鍋島焼」の名は“必勝の品”である事を意味しているのでしょう。
――さて「伊万里港」と「鍋島焼」のお話をしたところで、本編を振り返ります。
第12話「海軍伝習」のラストで登場した佐賀藩の蒸気軍艦。その全長は45メートル、当時の最新式である水面下のスクリューで推進する艦船です。
〔参照:
その名を“電流丸”と言います。
オランダからこの軍艦を入手したとき、殿・鍋島直正は、愛娘・貢姫にこんな手紙を送ります。
「オランダに発注した軍艦が届いた。それはそれは飛び立つように嬉しく…」
わりとお茶目な殿。それだけ喜びが伝わるようです。
――幕末の動乱期。佐賀、そして日本のために海を駆ける“電流丸”。
ロシアが対馬に上陸すれば緊急出動し、伊万里から警戒にあたります。
〔参考(後半):
「露西亜(ロシア)の動きによっては、一戦交えんばならんか…」
ちなみに第12話では、“数学の子”として登場した中牟田倉之助。佐賀海軍で活躍します。“電流丸”の艦長も務めていたようです。
〔参照:
西洋列強が沿海で活動する中、幕末の日本は、常に緊張状態にありました。その対外的な危うさを一番理解していたのは、おそらくは佐賀藩。
――対立を深める幕府と雄藩。佐賀の殿・鍋島直正は「外国に付け入る隙を与えるから、内戦は回避しなければならない」と考えたようです。
“幕末最強”の軍事技術を持ちながら、佐賀藩が積極的に戦わなかった理由もそこに求められます。
「日本人同士でつぶし合うべきではない。」
そんな殿の気持ちを乗せて、電流丸はひた走ります。
佐賀で海軍と言えば三重津が有名ですが、有明海は内湾なので、伊万里港からの出発も多かったようです。あるときは殿・直正を乗せ、大坂に入港しました。
「見なはれ!佐賀の殿様が“黒船”に乗って来ましたで!」
大坂の町衆たちが、見物のため港に詰めかけます。
――時代は明治になり、走り続けた“電流丸”は老朽艦となっていました。
その最後の地となったのが、伊万里港だったようです。
殿・鍋島直正がこの世を去った、わずか数か月後。後を追うように“電流丸”も、その使命を終えることになります。
少し寂しい展開なのですが、“電流丸”は、天寿を全うしたと言っても良いのかもしれません。
――なお、私は佐賀に帰藩するときに限り、携帯の待ち受けを“電流丸”に変えています。
いまは新型コロナの感染拡大により、現地に行くことは差し控えております。
もし、私が伊万里港を眺めれば、こんな感慨を持つことでしょう。
「“電流丸”ここに眠る…」と。
陶磁器の積出の活気と、佐賀海軍の躍動の歴史がある港。
港湾都市・伊万里の価値にも注目していきたいと思っています。
Posted by SR at 10:20 | Comments(0) | 各地域の皆様へのつぶやき
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