2020年06月30日
「主に基山町民・鳥栖市民の方を対象にしたつぶやき」
こんばんは。
前回は「幕末佐賀と4つの“口”」というタイトルでした。
このテーマを意識しながら、「佐賀県内の各地域の皆様に向けた“つぶやき”」を試みます。
――初回は“対馬口”の特集です。朝鮮半島への交流ルートとしての長い歴史があります。
ここで、数少ない県外の読者の方に補足なのですが、佐賀県=佐賀藩ではありません。
佐賀県の東端にある基山町。そして隣接する鳥栖市の東部。
江戸時代は、対馬藩の領地でした。
長崎県の対馬が本拠地。対馬府中藩、厳原藩とも呼ばれたようです。

――写真は長崎街道(佐賀市内)です。この道を東に進めば、鳥栖・基山へと続きます。
今のところ“本編”で一番アクセスのあった記事は、殿・鍋島直正のお国入りの場面。
鳥栖市(東部)の田代(たじろ)宿までは、対馬藩領。
殿・直正は、ここまでは駕籠に乗って移動したことでしょう。
国境を越え、鳥栖市(西部)の轟木(とどろき)宿からは、颯爽と馬に跨ります。
そして、佐賀藩の領民たちから万雷の歓声で迎えられる…というお話でした。
また“団にょん”こと島義勇は、まず長崎街道を東上し、蝦夷地への探検に向かっています。
佐賀藩の東端から旅立つときには、何を想ったのでしょうか。
――そんな佐賀藩との“国境の街”だった、この地域の名称は“対馬藩・田代領”。
田代領は、離島を本拠地とする対馬藩にとって“台所”。いわば経済の中心としての役回りがあったようです。
対馬藩の田代領は、“白蝋(ろう)”などの品質管理が徹底していた佐賀藩に比べれば統制が緩やか。
“薬種”になる商品作物の売買も、融通がきいたようです。
――長崎街道の田代宿は賑わいのある宿場町。
鳥栖と言えば、交通・物流の重要ポイントであることは変わらないようです。
現在でも鳥栖近辺は製薬業が強い地域ですが、“田代の薬”は日本4大売薬の一角を占めたとか。
…ちなみに他の3大売薬は、富山、大和(奈良)、近江(滋賀)のようですね。この3強に並ぶとは、田代の売薬…かなりの実力者です。
――そして、対馬藩田代領も、幕末の動乱に巻き込まれていきます。
江戸時代も「対馬口」として、朝鮮半島との交流拠点だった対馬藩。
しかし、日本海上の要衝にある、この対馬を諸外国が放っておくわけがありません。
次々に現れる、西洋列強の影。
対馬藩も、佐賀藩に大砲を発注するなど、防備を固めていきます。
――1860年代。“本編”では第14話ぐらいで描けるかどうか…
対馬藩は、イギリスとロシアの争いに巻き込まれていきます。
ロシア船が、対馬に上陸する非常事態。
佐賀海軍も新鋭艦を出動させ、伊万里沖で待機。
幕府はロシアと敵対するイギリスを通じて圧力をかけます。
――もちろん対馬が脅かされれば、田代領の侍たちも黙っていません。
「攘夷じゃ!」
「夷狄(いてき)ば、追い払わんばならん!」
田代領の侍たちは、対馬に馳せ参じ、ロシア船との戦闘に備えます。ロシア船が退去した後は、攘夷の急先鋒、長州藩(山口)に接近していきます。
そして、対長同盟(対馬と長州の同盟)の締結に至ります!

…いかがでしょうか。基山町・鳥栖市(東部)の激動の幕末。
私も調べるまで、全然知りませんでした。九州北部には語られなかった“幕末”が数多くありそうです。
古代の山城・基肄(きい)城が、基山町の名所と聞きます。福岡の大野城とともに、大宰府の守りを固める役割があったそうです。
元寇でも最前線に立った、対馬藩の領地だったこともあり、より国を守る気概が強かったのかもしれません…
2018年の「さが幕末維新博覧会」。基山町による「基山の日」というイベントがあったようですが、どちらかと言えば、基山町そのもののPRの色合いが強かったようです。
壮絶な運命を辿った対馬藩田代領の侍たち。少しでも話題になれば良いなと思います。
前回は「幕末佐賀と4つの“口”」というタイトルでした。
このテーマを意識しながら、「佐賀県内の各地域の皆様に向けた“つぶやき”」を試みます。
――初回は“対馬口”の特集です。朝鮮半島への交流ルートとしての長い歴史があります。
ここで、数少ない県外の読者の方に補足なのですが、佐賀県=佐賀藩ではありません。
佐賀県の東端にある基山町。そして隣接する鳥栖市の東部。
江戸時代は、対馬藩の領地でした。
長崎県の対馬が本拠地。対馬府中藩、厳原藩とも呼ばれたようです。
――写真は長崎街道(佐賀市内)です。この道を東に進めば、鳥栖・基山へと続きます。
今のところ“本編”で一番アクセスのあった記事は、殿・鍋島直正のお国入りの場面。
鳥栖市(東部)の田代(たじろ)宿までは、対馬藩領。
殿・直正は、ここまでは駕籠に乗って移動したことでしょう。
国境を越え、鳥栖市(西部)の轟木(とどろき)宿からは、颯爽と馬に跨ります。
そして、佐賀藩の領民たちから万雷の歓声で迎えられる…というお話でした。
また“団にょん”こと島義勇は、まず長崎街道を東上し、蝦夷地への探検に向かっています。
佐賀藩の東端から旅立つときには、何を想ったのでしょうか。
――そんな佐賀藩との“国境の街”だった、この地域の名称は“対馬藩・田代領”。
田代領は、離島を本拠地とする対馬藩にとって“台所”。いわば経済の中心としての役回りがあったようです。
対馬藩の田代領は、“白蝋(ろう)”などの品質管理が徹底していた佐賀藩に比べれば統制が緩やか。
“薬種”になる商品作物の売買も、融通がきいたようです。
――長崎街道の田代宿は賑わいのある宿場町。
鳥栖と言えば、交通・物流の重要ポイントであることは変わらないようです。
現在でも鳥栖近辺は製薬業が強い地域ですが、“田代の薬”は日本4大売薬の一角を占めたとか。
…ちなみに他の3大売薬は、富山、大和(奈良)、近江(滋賀)のようですね。この3強に並ぶとは、田代の売薬…かなりの実力者です。
――そして、対馬藩田代領も、幕末の動乱に巻き込まれていきます。
江戸時代も「対馬口」として、朝鮮半島との交流拠点だった対馬藩。
しかし、日本海上の要衝にある、この対馬を諸外国が放っておくわけがありません。
次々に現れる、西洋列強の影。
対馬藩も、佐賀藩に大砲を発注するなど、防備を固めていきます。
――1860年代。“本編”では第14話ぐらいで描けるかどうか…
対馬藩は、イギリスとロシアの争いに巻き込まれていきます。
ロシア船が、対馬に上陸する非常事態。
佐賀海軍も新鋭艦を出動させ、伊万里沖で待機。
幕府はロシアと敵対するイギリスを通じて圧力をかけます。
――もちろん対馬が脅かされれば、田代領の侍たちも黙っていません。
「攘夷じゃ!」
「夷狄(いてき)ば、追い払わんばならん!」
田代領の侍たちは、対馬に馳せ参じ、ロシア船との戦闘に備えます。ロシア船が退去した後は、攘夷の急先鋒、長州藩(山口)に接近していきます。
そして、対長同盟(対馬と長州の同盟)の締結に至ります!
…いかがでしょうか。基山町・鳥栖市(東部)の激動の幕末。
私も調べるまで、全然知りませんでした。九州北部には語られなかった“幕末”が数多くありそうです。
古代の山城・基肄(きい)城が、基山町の名所と聞きます。福岡の大野城とともに、大宰府の守りを固める役割があったそうです。
元寇でも最前線に立った、対馬藩の領地だったこともあり、より国を守る気概が強かったのかもしれません…
2018年の「さが幕末維新博覧会」。基山町による「基山の日」というイベントがあったようですが、どちらかと言えば、基山町そのもののPRの色合いが強かったようです。
壮絶な運命を辿った対馬藩田代領の侍たち。少しでも話題になれば良いなと思います。
Posted by SR at 22:10 | Comments(0) | 各地域の皆様へのつぶやき
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