2020年12月12日
「あゝ西洋菓子(西)」
こんばんは。
佐賀の三大産業と言えば、農業・窯業・製薬業という見方があります。その産業の“柱”の1つ、製薬業は、とくに佐賀県東部で有力です。
幕末の佐賀藩では、蝋燭(ろうそく)の原料・ハゼノキに限らず、“薬種”になる商品作物の栽培も奨励したようです。
佐賀藩との国境を越えた東隣り。対馬藩・田代領も、現在は佐賀県内(鳥栖市・基山町)。“田代売薬”で知られ、現在も製薬会社が強い地域です。
――東があれば、西もある…
前回の江崎利一は、薬種業(生薬を商う)の知識で、牡蠣(カキ)の栄養分から“グリコ”を製作。佐賀東部の製薬業の伝統と、有明海の恵みを活かします。
では、佐賀西部の力とは。やはり窯業(陶磁器)でしょう。前々回でも登場いただいた、伊万里の偉人・森永太一郎を通じて語ります。
〔参照記事:「おかげさまで1周年。」〕

――全国でも著名な、佐賀の陶磁器産業。
「佐賀の窯業は、産業の“柱”である強者。言うなれば“陶柱”か…。」
今年、流行ったアニメ(鬼滅の刃)っぽい表現。とくに本筋には関係しません。
幕末期、世界へと近づいていく日本。
肥前(佐賀・長崎)の陶磁器は、輸出品として注目を集めます。
そして佐賀藩が陶磁器の“秘密工場”(御用窯)を置き、製品積出港とした街…
――1865年(慶応元年)。伊万里。
この街で、陶器問屋を営む商家に男子が誕生します。のちに日本で西洋菓子の先駆者となる、森永製菓の創業者・森永太一郎です。
しかし、幼年のうちに父を亡くした太一郎。そのまま家業は衰退。母方の実家に身を寄せたと言います。
――生計を立てるため、叔父から商売を学ぶ、太一郎。
「商売で大事なのは、誠実であること。」
…という叔父の教えを受け、力強く成長。アメリカに渡ることを決意します。
そして、太一郎24歳のとき、陶器商としてサンフランシスコに渡ります。ちなみに、“本編”で佐賀藩士たちが渡米した時期から、30年近く経過しています。
〔参考記事(本編):第14話「遣米使節」⑬(アメリカに行きたいか!)〕

――“陶器商”としての渡米は、散々なものでした。
あの佐野常民も、幕末にパリ万博への出展時、熟練の陶器商たちとチームを組みますが、ヨーロッパでの売れ筋を見誤り、散々に在庫を抱え込んでいます。
佐野常民たちは、明治のウィーン万博では、周到に戦略を練り、ようやく出展としては成功を収めますが、それだけ海外展開は難しいのです。
たとえ、商品が優れていても、アメリカ市場に飛び込んだ若者・森永太一郎の勝算は薄かったのでしょう。しかし、この若者には“秘めたる力”がありました。
――異国で感じる絶望の中。太一郎は…
現地のご婦人から頂いた一粒の菓子を口にしたそうです。これが、森永太一郎を覚醒させます。まさに希望の味。
「やさしい甘さだ…。日本でも、こんな西洋菓子を作りたい。」
…この瞬間が、現代の森永製菓につながったようです。もちろん様々な困難が続きますが、そのたび何度でも立ち上がる太一郎。
品質に妥協しない、頑固さと誠実さ。それは、もはや商才と言うよりも、“本物”を作り続ける陶磁器の職人に通ずるものだったのかもしれません。
佐賀の三大産業と言えば、農業・窯業・製薬業という見方があります。その産業の“柱”の1つ、製薬業は、とくに佐賀県東部で有力です。
幕末の佐賀藩では、蝋燭(ろうそく)の原料・ハゼノキに限らず、“薬種”になる商品作物の栽培も奨励したようです。
佐賀藩との国境を越えた東隣り。対馬藩・田代領も、現在は佐賀県内(鳥栖市・基山町)。“田代売薬”で知られ、現在も製薬会社が強い地域です。
――東があれば、西もある…
前回の江崎利一は、薬種業(生薬を商う)の知識で、牡蠣(カキ)の栄養分から“グリコ”を製作。佐賀東部の製薬業の伝統と、有明海の恵みを活かします。
では、佐賀西部の力とは。やはり窯業(陶磁器)でしょう。前々回でも登場いただいた、伊万里の偉人・森永太一郎を通じて語ります。
〔参照記事:「おかげさまで1周年。」〕

――全国でも著名な、佐賀の陶磁器産業。
「佐賀の窯業は、産業の“柱”である強者。言うなれば“陶柱”か…。」
今年、流行ったアニメ(鬼滅の刃)っぽい表現。とくに本筋には関係しません。
幕末期、世界へと近づいていく日本。
肥前(佐賀・長崎)の陶磁器は、輸出品として注目を集めます。
そして佐賀藩が陶磁器の“秘密工場”(御用窯)を置き、製品積出港とした街…
――1865年(慶応元年)。伊万里。
この街で、陶器問屋を営む商家に男子が誕生します。のちに日本で西洋菓子の先駆者となる、森永製菓の創業者・森永太一郎です。
しかし、幼年のうちに父を亡くした太一郎。そのまま家業は衰退。母方の実家に身を寄せたと言います。
――生計を立てるため、叔父から商売を学ぶ、太一郎。
「商売で大事なのは、誠実であること。」
…という叔父の教えを受け、力強く成長。アメリカに渡ることを決意します。
そして、太一郎24歳のとき、陶器商としてサンフランシスコに渡ります。ちなみに、“本編”で佐賀藩士たちが渡米した時期から、30年近く経過しています。
〔参考記事(本編):
――“陶器商”としての渡米は、散々なものでした。
あの佐野常民も、幕末にパリ万博への出展時、熟練の陶器商たちとチームを組みますが、ヨーロッパでの売れ筋を見誤り、散々に在庫を抱え込んでいます。
佐野常民たちは、明治のウィーン万博では、周到に戦略を練り、ようやく出展としては成功を収めますが、それだけ海外展開は難しいのです。
たとえ、商品が優れていても、アメリカ市場に飛び込んだ若者・森永太一郎の勝算は薄かったのでしょう。しかし、この若者には“秘めたる力”がありました。
――異国で感じる絶望の中。太一郎は…
現地のご婦人から頂いた一粒の菓子を口にしたそうです。これが、森永太一郎を覚醒させます。まさに希望の味。
「やさしい甘さだ…。日本でも、こんな西洋菓子を作りたい。」
…この瞬間が、現代の森永製菓につながったようです。もちろん様々な困難が続きますが、そのたび何度でも立ち上がる太一郎。
品質に妥協しない、頑固さと誠実さ。それは、もはや商才と言うよりも、“本物”を作り続ける陶磁器の職人に通ずるものだったのかもしれません。
Posted by SR at 19:03 | Comments(0) | 企画案・雑記帳
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