2021年03月30日

連続ブログ小説「旅立の剣」(27)長崎街道の夢

こんばんは。
新しい環境への突入を控え、目まぐるしい年度末です。

いま私を支えているのは、わずか30時間の記憶。
佐賀で見た景色とともに綴ります。



――朝8:22。赤レンガの道を見ていた。

この辺りには時折、“都会的センス”を見せる建物が出現する。

…とはいえ、佐賀市中心街に往時の勢いが無いのは認める。
そのため“時折”と言わざるを得ない。

「今はまだ、元気が無い」と言っておこう。未来は変えられるのだから。


――江戸時代。大変な賑わいを見せた、長崎街道。

私はめったに、佐賀に“帰藩”することができない。
朝食抜きでも街中を見て回るのは、この空気に触れたいからだ。

この道が長崎街道であることは、要所に配置された案内板が教えてくれる。
…私のように“調べ”を急ぐ者には、心強い。



――遡って8:16。白山通りの商工ビル前。

地理に疎い私に「長崎街道案内(あない)いたす!」とばかりに看板が現る。

「これは分かりやすい…」と私は、この地図に示された道を歩み始めた。
かつて街道沿いには、裕福な商家が軒を連ねたという。

佐賀藩士領民たちはもちろん。幕府の役人も他藩の大名も通行した。
オランダ商館員が連れていたかゾウラクダなど珍獣まで…行き交ったという。



――まるで、十数分の時間旅行。

足元には、この道が長崎街道であると示す“標識”が続く。
朝の風が、時を忘れさせてくれる。

長崎から佐賀を経由し、小倉までを結ぶ“幹線道路”。九州北部を1つにつなぎ、宿場ごとの特色も魅力的。もっと語られてほしい“”がある。



――朝8:34。

「これだ…!」
私は、幕末期佐賀を感じる“空気”に出会った。

たしかに道路は舗装され、電柱はあるけども、それは些細(ささい)なことだ。インフラ整備、とくに電気関係は、明治期佐賀出身者の得意としたところ。

…私には、この道を駆け回る佐賀藩士たちの姿が見えたようだった。


(続く)

  
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2021年03月27日

連続ブログ小説「旅立の剣」(26)変化の兆し

こんにちは。
私事ですが、4月から大きく環境が変化することになりました。

このシリーズは現在の視点で、一昨年の秋を振り返ります。
その時、感じた気持ちに、いま説明が付く」が今日のテーマです。


――朝8:17。長崎街道(白山アーケード)を進む。

屋根が途切れて、別のアーケードが見える。
そこには“バルーン通り”との表示。

昨夜にも、ここ“エスプラッツ”には立ち寄った。
朝に見ると、何だか長崎街道に似合った、赤レンガ調の色味のビルだ。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(17)誇りを取り戻せ



――よく見ると、1階の角には…

ラジオ局“えびすFM”がある。
佐賀の地域情報を発信するコミュニティFMという情報が読める。

街の人パーソナリティを務める温もりのある番組!」をお送りしているようだ。風水害の際には避難所情報の提供など、地域密着型メディアの強みも見せる。


――いまとなっては、実に興味深い。

…しかし、当時の私は先を急いだ
長崎街道を巡ると「おっ!?」を目を引く場所に出ることがある。

佐賀の街中にはシンプルであるがゆえに、過密な大都市圏では感じられない、洗練された印象を受ける場所がある。



――壁に記された“ON THE ROOF”の文字。

「…えらく洒落(しゃれ建物だな。」
その時に、私の持った感想だ。

少し月日を経てから、この「オン・ザ・ルーフ」という名を聞く。日本テレビ系の番組『アナザースカイⅡ』(2月12日放送)で見た、講談師神田伯山の特集だ。

実は、佐賀県唐津にルーツがある方。
講談を広めるため、修業時代には佐賀市内にも、よく来られたそうだ。

この多目的施設“ON THE ROOF”でのイベントに、よく出演されたという。当時のお名前は“神田松之丞”。現在では、六代目として“神田伯山”の名を継ぐ。


――いまや“伝統芸能”の世界は…

かえって流行感度が高い人が追うもの、と言っても過言ではないだろう。

「チケットの取れない人気講談師」として知られる神田伯山呉服元町の会場を「アンテナを張っている、佐賀の人たちが来る場所」だと回想した。

同番組では“ON THE ROOF”1階喫茶店の本格的なピザ柳町の“和紅茶専門店”も紹介された。次に佐賀帰藩を果たす時には、ぜひ寄りたい場所だ。



――話を長崎街道に戻す。時刻は8:25前後。

今度は、屋根付きの広場“PLAZA 656”との表示が見える。

朝早い、この時間帯には何の行事も行われていない。
土日を中心に、ライブイベントの開催予定がある様子だ。

ちなみに“656(むつごろう)広場”が通称らしい。


――長崎街道沿いには、いまも情報発信の拠点がある。

近年、元気が無いと言われる、佐賀市内中心街

幕末佐賀藩」を追い求める私には、この場所が持つ価値が際立って見える。
きっとカギ発信する情報と、その受け手となる人たちの存在。

きっと佐賀には、私に似た“想い”を持つ人も居るに違いなく…
それが、私があきらめない理由の1つだと思っている。


(続く)

  
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2021年03月24日

連続ブログ小説「旅立の剣」(25)シュガーロードを行け

こんばんは。
一昨年の秋、早朝の佐賀市中心部で歩きまわる私。


――時刻は8:15頃。

白山名店街アーケードに入るや、また大通りに抜ける。
どう進むかの判断に迷っているのだ。

佐賀で活動できるのも、あと6時間ほど。12時過ぎからは「さが維新まつり」を観るために、佐賀城公園に居る必要がある。



――時間は、あるようで無い。

白山名店街アーケードの向かい側に渡ってみる。
時間惜しい。ここでどちらに進む方が良いのか…」

佐賀市民の方々、私の焦り失笑しないでほしい。
私から見れば貴重な時のうえで、皆様は生活している…とも言えるのだ。


――どっちだ、どちらに行けば正解なのだ。

先ほど“分岐点”で、360度を見回したせいで選択肢が増えてしまった。

…私が調べたい「幕末佐賀藩」。
その空気を感じられるものは、どの道にもあるはずだ。

お若いの、道に迷っている様子だな。」
いや、私はそんなに若くはない。ただ、その偉業ゆえに銅像に姿を現す、佐賀先人たちからすれば若輩者だろう。



――そこには日本に“西洋菓子”を広めた、2人の姿が。

「キミは、甘い物が好きと見える。」
まず左側に立つ、立派な体格の紳士。腕組みにキャラメルを携える。
伊万里の出身・森永太一郎

「もはや、は決まっているのではないかな。」
こちらは“グリコ”を示しつつ、健康的な“銭湯で牛乳を飲むポーズ”を決める。
佐賀市東部の生まれ・江崎利一


――「そのまま行けば良い。“シュガーロード”を。」

シュガーロード」(砂糖の道)と呼ばれる、長崎街道を行く。

まるで“森永製菓”と“江崎グリコ”によって、扉が開かれたかのようだ。
周辺をクルクル回っていた私は、導かれるように真っ直ぐ歩み始めた。

まだ街が動き始める前、土曜の朝。
白山名店街アーケードに入り直して、東へと進んでいった。

(続く)


※関連記事
私が、佐賀の輩出した“製菓”の巨匠たちに救われる(?)シリーズです。

森永太一郎 編
「おかげさまで1周年。」
「あゝ西洋菓子(西)」
江崎利一 編
「あゝ西洋菓子(東)」
  
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2021年03月22日

連続ブログ小説「旅立の剣」(24)ここが分岐点

こんばんは。
最近、かなり忙しく消耗気味です。休息期間を入れることも考えています。

そして長らく佐賀からも離れています。エネルギーが湧いて来ないわけですが、今日は淡々と語ります。

なお、今日のお題に、明確な答えをお持ちの方はご教示を願いたく思います。



――朝8:10。銅像巡りは、小休止。

中央大通りを南に進む私は、左斜め前を見た。

白山通りアーケードの手前まで来ている。
かつて大賑わいだったと聞く、この通りもすっかり落ち着いてしまった。

但し、まだ店舗などは空いていない時間帯の姿だ。



――続いて、右斜め前を見る。

中央大通りから分かれて、同じくに向かう通り。

このとき、私は何となく周囲を360度、見回していた。
これも非日常の一環だ。それに回りながら、ひとしきり写真も撮った。

自分の住まう街で、なかなかこの行動は取らない。



――ここからは現在の、私の思索だ。

私は、佐賀市中心部を走る大通りを“県庁通り”だと理解していた。しかし、この辺から右斜め前に伸びる道に“県庁前通り”との名が付与されているらしい。

そして佐賀メインストリートは“中央大通り”と呼称すべきようだ。


――現在でも、この分岐点までは“県庁通り”と呼んでも良いのか?

佐賀を外から見られる有利と、佐賀から離れている不利

私には佐賀美点を探すことは容易だが、佐賀の常識を得るのは難しい。表裏一体迷い道が続いていく。


(続く)

  
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2021年03月20日

連続ブログ小説「旅立の剣」(23)“朝ドラ”も見たい

こんばんは。そろそろ年度末に近づいて来ましたね。4月から新しい環境でのスタートが決まっている人もいるでしょう。

…この季節、時間には密度の濃淡があることを強く感じるのです。

前回の続き。一昨年(2019年10月)の活動をもとに綴るシリーズ。佐賀が誇る偉人の銅像を見ながら中央大通りを南に歩き、長崎街道の近くまで寄っています。


――朝8:09。看板には、“工学・化学分野の先駆者”と表示あり。

座り姿の男性。多久が輩出した、日本の電気工学の祖・志田林三郎日本初工学博士の1人だそうだ。

幕末期。佐賀藩内でも教育熱心で知られた、多久領の学問所で学ぶ。
〔参照(中盤):「主に多久市民の皆様を対象としたつぶやき」

明治期。工部大学校や留学を経て、技術官僚として活躍。電気学会を創設し、“IT社会”の到来まで予見したという。100年以上先を見通したようだ。

逓信四天王”と呼ばれた電信石丸安世(虎五郎)、電話石井忠亮はともに佐賀藩士日本情報通信をリードした佐賀系譜が、つながっていく。



――その左隣に立つ、日本最初の女性化学者(理学博士)・黒田チカ。

日本初の女性理学博士は、別の植物学者の方。それで“化学分野女性初”と注釈が付くようだ。は少し現代に近づき、明治中期の生まれ。

「これからは女子にも学問が必要!」という進歩的に恵まれた。

佐賀から出て、当時の女性学問を続ける不利を乗り越えていく。自信有り気なタイプでは無かったようだが、地道頑張る姿は周囲のに響いていく。

には、この学問を続ける資格がある!」とか周り先生方が熱く励ました。黒田氏は日本初女子大生(帝大生)の1人となり、東北帝国大学に進む。


――「これは“大河”というより…そうだ、“もう1つの看板番組”だ!」

明治期、佐賀の“朝ドラ”を作る!」なら、有力な主役候補だろう。
紅(くれない)の博士”と呼ばれ、科学研究を志す後進の目標になった女性

黒田チカ博士は、理化学研究所でも天然色素の抽出など研究を続けた。現・お茶の水女子大学で教壇に立ち、玉ネギから“結晶”を取り出す研究を行う。

この結晶が“ケルセチン”。後に高血圧として実用化される物質だった。


…延々と「朝ドラ」(連続テレビ小説)を目指して語ってしまいそうなので、今日はこの辺りで。前回とあわせても、現場では10分程度の時間。

密度の濃い時の過ごし方でした。


(続く)

  


2021年03月18日

連続ブログ小説「旅立の剣」(22)大きな河になれ

こんばんは。

わずか数分の出来事でも、後につながる時間があるようです。
2019年の秋、佐賀市中央大通りを南に進む私。


――朝8:03。中央大通りを“唐人町”付近に至る。

小城の書家・中林梧竹の銅像がある。
大通りに面する、佐賀の偉人たちの銅像は、大体が2人一組である。

しかし、この唐人町の広場に佇む“小城の書聖”は1人だ。
「何だか、さびしいな…」

私はブログを始めてから、この認識を改めることになる。
…この状態は“集中”と呼ぶのがふさわしい!と。

それに書家としても著名な、副島種臣ともつながりがある。私が言いたいことは「中林先生は1人じゃない…」ということだ。
〔参照(前半):「主に小城市民の皆様を対象としたつぶやき 2」


――朝8:07。“唐人町”を進み、道路の向かい側。

今度は“社会教育家”とジャンル付けされた2人の銅像が並ぶ。

は、鹿島の出身で“青年団”の活動を全国に広めた、田澤義鋪
その時点の私には情報の持ち合わせが無く、何も感じなかった。

田澤氏の持っていた情熱は、ある演劇で知ることになる。
〔参照(前半):佐賀城からのライブ配信の感想など④⑤



――右隣は、田澤の思想に共鳴した“小説家”。

神埼の出身。「次郎物語」を著した下村湖人
佐賀ローカルで語れば、鹿島から神埼へ響き合っている。

他地域の人にざっくり説明すると、佐賀県内西から東へのイメージだ。

時代がまだ昭和だった頃。幾度か映画化もされていた「次郎物語」。
私には、さだまさしが主題歌「男は大きな河になれ」を歌った、比較的新しい作品の記憶がある。


――この主題歌は個人的に、名曲だと思っている。

原曲はチェコの音楽家スメタナ。交響詩「わが祖国」の第2曲だったか…

この曲に長崎出身さだまさし映画の主題歌として、詩を付けたと聞く。
次郎物語」をきっかけに思い出し、聴き返してみた。

せつないことがあったなら~♪」
辛い事があった時に大きく叫んで雲を呼び、さらにその雲が覆えないほどの人物になれと説く。


――苦しい時こそ、意地を張れ。

目をそらさずに雨を見て、泣かずに雨を集めて
そして「男は大きな河になれ」と結ぶのである。

あらためて聴き返すと、私には佐賀平野風景が浮かぶ。
佐賀神埼)が舞台の物語をイメージして作られたから…なのだろうか。

青年人格を育む“教養小説”として書かれた「次郎物語」。
歳を重ねて、いま一度顧みると、大きな発見があるかもしれない。


(続く)



  


2021年03月16日

「“青天”に騒めく…」

こんばんは。

毎週、大河ドラマ「青天を衝け」の冒頭に来る徳川家康にも慣れました。日曜に放送された第5回「栄一、揺れる」。心が騒(ざわ)めく要素が多かったです。

…なお当ブログでは、常に佐賀藩の動きをイメージしますので、記事内に「青天を衝け」には出て来ない場面多数含まれます。

まだ、ご覧でない方は、ぜひ土曜の再放送か、録画視聴後にお読みいただくと、混乱しにくい…と思います。


――その1つ前、第4回の話から。

有能な幕府官僚として登場する、川路聖謨(演:平田満)が一言。
「それがしの“話術”で要求を躱(かわ)す」と長崎に向かう前に役目を語ります。

本編”ほかで繰り返し紹介している、長崎へのロシアプチャーチン来航です。この情報でアメリカペリーは「ロシアに先を越される!」と焦ります。

年越しの時期。佐賀藩が守る長崎砲台寒空の下でロシア船を見張る佐賀藩士たち。殿鍋島直正現場を訪れ、自ら、餅や酒を振る舞って労ったそうです。
〔参照(後半):第9話「和親条約」⑨



――佐賀藩の警備は充実。これで川路の“話術”も冴える。

川路聖謨は「プチャーチンとは、安心して話が出来た」と感想を持ったようです。
〔参照(中盤):第9話「和親条約」⑧

ロシアとの交渉は一旦終了し、川路たちは佐賀藩長崎砲台を見学します。
〔参照(前半):第10話「蒸気機関」⑩(佐賀の産業革命)

江戸に戻った川路たちが、佐賀藩の働きを絶賛したこともあり、幕府からの“ご褒美”も出ました。国政とは距離を置いていても、佐賀存在感は強まります。


――そして、第5回。私のイチ押しポイントは…

やはり藤田東湖(演:渡辺いっけい)でしょう。例えば、徳川斉昭(演:竹中直人)に詰め寄られる、老中・阿部正弘(演:大谷亮平)の苦労を描く場面。
〔参照:第9話「和親条約」③中盤が似たような展開

阿部正弘は、外国との駆け引きに全神経を削り、憔悴の様子。最初に“黒船”と対峙した国政の実質的責任者幕末で一番難しい立場だったかもしれません。



――この場面で、藤田東湖が有能さを発揮。

老中・阿部正弘の苦労を考慮し、主君・徳川斉昭の暴走を諫(いさ)める。

…ここで「理想どおりの藤田さまだ!」とテレビの前の私。
また佐賀藩に話を寄せると、これでこそ島義勇が学びに行く価値があります。

この藤田さまと、佐賀枝吉神陽を“東西二傑”と評した方もいるようです…とはいえ、枝吉神陽島義勇と同い年のいとこ。憧れの対象にはなりづらい。

後に“札幌”を創った男・島義勇が「あの人のようになりたい!」と敬愛するのが、藤田東湖…という表現にしました。
〔参照(前半):第11話「蝦夷探検」③(“懐刀”の想い)


――そして“青天”第5回で、最大の事件…

後半、安政年間に群発した巨大地震が題材となりました。
〔参照:「“大災害”と微かな希望」

まず、安政の東海地震が描かれます。下田沖では、ロシアプチャーチン提督が被災。少し前には大坂沖に出現し、の“攘夷派”を大騒ぎさせたのですが…

津波に遭ったロシア船「ディアナ号」は、損傷により沈んでいきます。長崎ロシアと交渉した、川路聖謨遭難救護に当たる姿が印象的でした。

実際、地元下田の人に助けてもらった、ロシア側の船医が地元の人を診たり…と人道的な風景があったと聞きます。



――続いて、安政の江戸地震の場面…

今回で、藤田東湖最期が描かれることは予想していました。
ひたすら「東湖(とうこ)東湖…」と号泣する、水戸さま・徳川斉昭

こうして“懐刀”を失った“水戸烈公”。次第に水戸藩には暗雲が立ち込めます。

私は「藤田東湖救った後、亡くなった」という説で書きました。佐賀で知らせを聞いた島義勇落涙。“蝦夷地”探検の決意につながる…という展開に。
〔参照(後半):第11話「蝦夷探検」⑦(“拓北”の決意)

青天を衝け」にあわせ、自分の記事も顧みました。期待した登場人物の描き方に納得です。今年も見応えある「大河ドラマ」。佐賀藩士の登場も待っています。





  
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2021年03月14日

連続ブログ小説「旅立の剣」(21)唐津のレジェンド

こんにちは。

省エネ”を試みるつもりでしたが、当時の記憶をたどり、後に得た知識も加えて振り返ると、意外に頭を使うようです。

今日は、佐賀市内の大通りから、唐津方面に想いを馳せます。


――時刻は、朝8:00に至った。中央大通りを南進する。

ふだん私は大都市圏の喧騒に疲れ気味だ。朝の整然とした大通りが清々しい。これが佐賀心映えであるのか、道がキレイなのだ。

佐賀銀行本店の前。金融機関らしく重厚な造りの建物と見える。

「さすが銀行丈夫そうな建物だな…」
私は単純な感想を持った。

「貴君!その通りだ。建物頑丈でなくてはな!」



――独り、歩みを進めているはずの私。

真っ直ぐ気配を感じ、車道側に目を向ける。そこには立ち姿ヒゲの御仁。明治期から活躍した、大建築家・辰野金吾きんご)の銅像だ。

日本銀行本店や、東京駅設計で著名だ。明治の人たちはこう語ったと聞く。
「なんて丈夫な構造!まるで、辰野“堅固”(けんご)だ!」と。

辰野氏へのリスペクト(敬意)を感じる“ダジャレ”。私はこれを「明治ギャグ」と呼ぶ。ちなみに辰野氏は、同じ佐賀県内でも唐津藩の出身者だ。


――隣に座るのも、エリート唐津藩士の子・曽禰(そね)達蔵。

幕末の江戸生まれ。唐津藩若殿(藩主名代)・小笠原長行にも可愛がられたとか。明治からの東京で、日本初オフィス街を築いた方…と、後で知った。

辰野さん。相変わらず…貴方は熱い男ですね。」
西洋の新工法は、いち早く実験したという曽禰達蔵。クールで知性派な印象だ。

曽禰氏が設計する“ビルヂング”は、近代的な“丸の内”の街を形作っていく。ちょっと余裕のある座り姿。言われてみれば、都会的スタイリッシュに思える。


――明治期に、佐賀藩士たちは情報通信などのインフラを整えた。

そして唐津藩士たちは近代建築の方面に突き進み、レジェンド(伝説的存在)となっていく。やはり佐賀は面白い。

…私は確信した。「朝食の時間も惜しんで、調査を始めた甲斐があった!」と。


(続く)

  
タグ :佐賀唐津


2021年03月12日

連続ブログ小説「旅立の剣」(20)その時、これから

こんばんは。
一昨年、2019年10月。私は、“新型コロナ”という言葉も知りませんでした。

気兼ねなく“お祭り”を楽しめた日々。このシリーズでは“タイムカプセル”のように表現できたらと思います。まずは「帰らんばあの世界へ」と願いを込めて。



――当時、佐賀駅南口で工事中の現場を見かけた。

2021年現在では、すっかり馴染みお店という方もいるだろう。複合商業施設「コムボックス」の建設中の姿だ。

私は“この場所”にあった大型スーパー「西友」がお気に入りだった。佐賀駅前に、夜も遅くまで空いていた。

入院した親族の見舞いなど、佐賀市内に用事がある時の心のオアシス。郷里から遠く離れた地で「西友閉店」のを聞き、私はひどく落胆した。


――佐賀駅前に、“新たな力”が還ってくる…

「ここが、過ぎ去りし日々を…取り返してくれるかな。」
期待の目線で、建設工事中鉄骨を見つめた。

ちょうど前夜観光協会の入るビル「エスプラッツ」に立ち寄った私。そのとき、同じフロアで展示されていた“昭和の風景”の写真パネルも見ていた。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(17)誇りを取り戻せ

かつて佐賀市の中心街が、極めて華やかだった頃の姿は、私の心を捉えた。“いま一度”見てみたい世界が増えていく。



――話は、大通りを南に歩む、朝7:55に戻る。

「すべては、第一歩からだ…」

朝の風が涼しいだった。並木道を進み、“駅前まちかど広場”に至った。
幕末期、佐賀藩で活躍した賢人たちの銅像が集う。気分が高揚する場所だ。

ブログでの情報発信を始めていなかった時期。私は「どこかでプレゼンでも試みるか…」と資料づくりを進めた。“調査”の一環で、写真も撮り溜めた。

…後にブログを始めるうえで、この行動が活きるのはご覧の通りである。


(続く)

  


2021年03月10日

連続ブログ小説「旅立の剣」(19)2日目の朝

こんばんは。

しばらく気力および時間の不足を補うために、“連続ブログ小説”を再開します。平たく言えば、私の旅日記なので、あまり中身はありません。

普段より格段に調べ物が少ないので、私には“省エネ”の効果が期待できます。時おり、他の投稿も織り交ぜながら、進めていく予定です。

昨年の晩秋に掲載していた「連続ブログ小説」ですが、その第3シリーズ
題材は2019年10月に、私が佐賀での現地調査を行ったときの話です。


――1泊2日。わずか30時間程度の滞在。

昨夜、佐賀玉屋で購入したシシリアンライスは美味だった。
〔参照:連続ブログ小説「旅立の剣」(18)憩いのシシリアン

この旅のうちに…もう一度、“シシリアン”が食べたい!」

早朝に目が覚めた。昨日は、佐野常民大隈重信記念館など、佐賀市営バスで一日駆け回った。

簡単に故郷に帰れない私に、県内で調べ物ができる機会は少ない。今まで佐賀歴史スポットを見聞するのは、帰省ついでの余った時間に限られていた。



――今回は調査のために、無理に作った時間だ。

幕末佐賀藩大河ドラマ」を志す者にとって、佐賀は“聖地”である。それゆえ私には、その“聖地”にいる間に為すべきことがある。

のんびり寝ている暇など無い。朝食の時間を削ってでも、外に出ねば。早々と、出立の準備を整える。名残り惜しい事だが、すでに帰り支度を兼ねている。

書物映像の情報では、感じ取れないものがある。少しでも、佐賀空気触れる時間を多く持つべきだ。


――佐賀駅前の南口。時刻は朝7:50。

その日は、佐賀城公園秋イベント。私の目的は「第2回さが維新まつり」だ。周辺では「さがさいこうフェス」と「タイフェス」も同時開催のようで賑わうだろう。

…とはいえ土曜午前で、はまだ動き出してはいない時間。人通りも少ない。朝の涼しい風に触れた。

タクシーのりばと駅のコンビニ。ありふれた風景は“非日常”への入口だった。


(続く)