2021年03月07日
「“鎖国”してたね?(開国編)」
こんばんは。
幕末の大河ドラマ「青天を衝け」で特大の違和感を物ともせず、冒頭を仕切る、徳川家康(演:北大路欣也)。今夜の放送も、楽しみです。
先週(第3回)の冒頭は渋沢栄一(演:吉沢亮)。「家康公の登場は無しか…」と油断した私に、オープニング直後「こんばんは、徳川家康です」の声。
「今日は私のお気に入りの外国人を紹介したい。」と話を進めます。「なんて自由な“天下人”なんだ…」と思った私でした。
――なお、家康公の没年は1616年。
家康公が自ら“三浦按針”の名を与えたウィリアム・アダムスや、過去のマルコ・ポーロはともかく、未来(!)の外国人(ラナルド・マクドナルド)までお気に入り。
家康存命時の『鎖国』の進捗ですが、まだキリスト教宣教師の追放、長崎・平戸への貿易港の制限…という段階。
『鎖国』の完成は、かなり先。3代将軍・徳川家光の時代。家康公には、まだまだ海外への強い興味があったのでしょう。まさか未来まで見ておられるとは…

――『開国』への道を考える。序盤(1800年代~)。
以降、200年ばかり続いた『鎖国』と言われます。しかし、特に幕末に近づくにつれて、主に長崎で色々ありました。もちろん、当ブログでは佐賀藩の視点です。
1804年 ロシアのレザノフが長崎で通商要求
長崎警備担当の佐賀藩は、千人規模で守りを固めます。長崎は無事でしたが、レザノフは、幕府の対応に不満を持ったようで、北方で暴れます。
1808年 イギリス船の長崎港侵入事件
私は「幕末佐賀藩の大河ドラマ」の第1話に設定した“フェートン号事件”です。
〔参照:第1話「長崎警護」④〕
1825年 異国船打払令
“本編”第2話では、佐賀藩の台場(砲台)担当者の目線で表現しました。
〔参照:第2話「算盤大名」①〕
――続いて、危機意識を持つ佐賀藩。中盤(1830年代~)
蘭癖(西洋かぶれ)の武雄領主・鍋島茂義が先導し、長崎の町役人・高島秋帆から佐賀藩は西洋砲術を学びます。最新技術を得るには、長崎に近いと有利。
〔参照:第3話「西洋砲術」②〕
1840年 アヘン戦争
清国(中国)がイギリスに敗北し、日本の知識人は驚きます。「青天を衝け」でも、見かけた場面です。
1844年 オランダ国王の開国勧告
“親書”を持って「開国のススメ」を行うオランダですが幕府の反応は鈍いです。オランダが返事を待つ間に佐賀の殿・鍋島直正は蒸気船に乗せてもらいます。
――そして、アメリカもロシアも来る。終盤(1850年代~)
長崎に台場(砲台)を築き、鉄製大砲を完成した佐賀藩。外国と向き合います。
1853年 アメリカのペリーが浦賀に来航
幕府老中・阿部正弘は、佐賀藩が国内で唯一製造できる“鉄製大砲”を発注。
〔参照(後半):第8話「黒船来航」⑩〕
続いて同年 ロシアのプチャーチンが長崎に来航。
鍋島直正の決断で築いた「長崎砲台」。ロシア船に睨(にら)みを利かせます。
〔参照:第9話「和親条約」⑦〕

1854年 アメリカのペリーが再来航。
横浜に上陸しての『日米和親条約』の交渉。内容は下田・箱館の2港を開港し領事駐在。燃料・食料の補給。難破船の救助など…外国船の支援寄りです。
幕府は“通商”を「本筋と関係ない」、“2港以外の開港”を「国書に記載無し」と拒絶したようです。弱腰のイメージで語られますが、意外と「NO」も言います。
〔参照(中盤):第9話「和親条約」⑩〕
――時代は『開国』通商へ。“新しい港町”も登場。
1856年 アロー戦争
清国(中国)とイギリス・フランスとの戦闘。第2次アヘン戦争とも呼ばれ、清国が凄まじく不利な条約を結ぶに至ります。
1858年 アメリカの総領事ハリスと、『日米修好通商条約』調印。
幕府の大老・井伊直弼は朝廷の許し(勅許)を得てから条約調印を望んだとも。英仏の脅威が迫る中、時間は有限…と、井伊は条約締結を決断したようです。
…この通商も含めた『開国』により、巨大都市・江戸に近い横浜港が開かれて、大発展を遂げます。
一方で、日本の“絶対的”表玄関だった長崎港。独占的立場は失われますが、この後も幕末の舞台として存在感を示していきます。
幕末の大河ドラマ「青天を衝け」で特大の違和感を物ともせず、冒頭を仕切る、徳川家康(演:北大路欣也)。今夜の放送も、楽しみです。
先週(第3回)の冒頭は渋沢栄一(演:吉沢亮)。「家康公の登場は無しか…」と油断した私に、オープニング直後「こんばんは、徳川家康です」の声。
「今日は私のお気に入りの外国人を紹介したい。」と話を進めます。「なんて自由な“天下人”なんだ…」と思った私でした。
――なお、家康公の没年は1616年。
家康公が自ら“三浦按針”の名を与えたウィリアム・アダムスや、過去のマルコ・ポーロはともかく、未来(!)の外国人(ラナルド・マクドナルド)までお気に入り。
家康存命時の『鎖国』の進捗ですが、まだキリスト教宣教師の追放、長崎・平戸への貿易港の制限…という段階。
『鎖国』の完成は、かなり先。3代将軍・徳川家光の時代。家康公には、まだまだ海外への強い興味があったのでしょう。まさか未来まで見ておられるとは…
――『開国』への道を考える。序盤(1800年代~)。
以降、200年ばかり続いた『鎖国』と言われます。しかし、特に幕末に近づくにつれて、主に長崎で色々ありました。もちろん、当ブログでは佐賀藩の視点です。
1804年 ロシアのレザノフが長崎で通商要求
長崎警備担当の佐賀藩は、千人規模で守りを固めます。長崎は無事でしたが、レザノフは、幕府の対応に不満を持ったようで、北方で暴れます。
1808年 イギリス船の長崎港侵入事件
私は「幕末佐賀藩の大河ドラマ」の第1話に設定した“フェートン号事件”です。
〔参照:
1825年 異国船打払令
“本編”第2話では、佐賀藩の台場(砲台)担当者の目線で表現しました。
〔参照:
――続いて、危機意識を持つ佐賀藩。中盤(1830年代~)
蘭癖(西洋かぶれ)の武雄領主・鍋島茂義が先導し、長崎の町役人・高島秋帆から佐賀藩は西洋砲術を学びます。最新技術を得るには、長崎に近いと有利。
〔参照:
1840年 アヘン戦争
清国(中国)がイギリスに敗北し、日本の知識人は驚きます。「青天を衝け」でも、見かけた場面です。
1844年 オランダ国王の開国勧告
“親書”を持って「開国のススメ」を行うオランダですが幕府の反応は鈍いです。オランダが返事を待つ間に佐賀の殿・鍋島直正は蒸気船に乗せてもらいます。
――そして、アメリカもロシアも来る。終盤(1850年代~)
長崎に台場(砲台)を築き、鉄製大砲を完成した佐賀藩。外国と向き合います。
1853年 アメリカのペリーが浦賀に来航
幕府老中・阿部正弘は、佐賀藩が国内で唯一製造できる“鉄製大砲”を発注。
〔参照(後半):
続いて同年 ロシアのプチャーチンが長崎に来航。
鍋島直正の決断で築いた「長崎砲台」。ロシア船に睨(にら)みを利かせます。
〔参照:
1854年 アメリカのペリーが再来航。
横浜に上陸しての『日米和親条約』の交渉。内容は下田・箱館の2港を開港し領事駐在。燃料・食料の補給。難破船の救助など…外国船の支援寄りです。
幕府は“通商”を「本筋と関係ない」、“2港以外の開港”を「国書に記載無し」と拒絶したようです。弱腰のイメージで語られますが、意外と「NO」も言います。
〔参照(中盤):
――時代は『開国』通商へ。“新しい港町”も登場。
1856年 アロー戦争
清国(中国)とイギリス・フランスとの戦闘。第2次アヘン戦争とも呼ばれ、清国が凄まじく不利な条約を結ぶに至ります。
1858年 アメリカの総領事ハリスと、『日米修好通商条約』調印。
幕府の大老・井伊直弼は朝廷の許し(勅許)を得てから条約調印を望んだとも。英仏の脅威が迫る中、時間は有限…と、井伊は条約締結を決断したようです。
…この通商も含めた『開国』により、巨大都市・江戸に近い横浜港が開かれて、大発展を遂げます。
一方で、日本の“絶対的”表玄関だった長崎港。独占的立場は失われますが、この後も幕末の舞台として存在感を示していきます。