2020年06月07日
第11話「蝦夷探検」①(殿、蒸気船に乗る)
こんばんは。今回より第11話です。
1854年3月。江戸にほど近い“横浜村”の地にて、日米和親条約が締結されます。
“鎖国”の体制が完成したのは、三代将軍・家光の治世である1641年頃。200年以上続いた、日本の対外政策は大きな転換点を迎えます…
――季節は流れ、夏も去ろうしていた。長崎の沿海。
オランダの蒸気船「スンビン号」の艦上。
「肥前サマ。ゴ足労イタダキ、光栄デス。」
オランダ人の通訳が、艦長の言葉を伝える。
「構わぬ。儂が来たいと申したのだ。」
艦長の挨拶に応じる、殿・鍋島直正。
もちろん通訳の言葉は聞くが、西洋人にも直接、話しかける傾向がある。語学は技術だけではない。勢いで通じる気持ちもあるのだ。
「古クカラ、日本と“我が国”オランダは、誼(よしみ)を通ジテ参リマシタ。」
「然(しか)り。阿蘭陀(オランダ)の者には、まことに世話になっておる。」

――10年前(1844年)オランダ国王が開国勧告を始めた頃から、鍋島直正は、よくオランダ船に乗っている。
「今ヤ、諸国の船が、日本に現レマス…」
「其の方(そのほう)の言いたきことはわかるぞ。“油断ならぬ者”もおるとの忠告だな。」
「ハッ、肥前サマ。サスガ、ご賢察にゴザイマス。」
オランダの士官や商人たちは、幕府や長崎に強い関わりを持つ、佐賀藩の存在を重視した。
――当時の佐賀藩は、品川の“お台場”や沿岸諸藩に大砲を供給し、ロシア船の来航時には長崎台場での警備をこなした…
先を見通していた、鍋島直正。もはや日本の中の“西洋”と言ってもよい、佐賀藩の存在感は増すばかりであった。
差しあたって幕府からの“ご褒美”は、五万両の借金返済の免除と、徳川家伝来の“備前長船長光”の名刀の親授である。
幕府は、佐賀藩との繋がりを強化していく。直正は徳川一門扱いの“松平”姓で呼ばれることが多い。この頃の名も“斉正”であり、これも第11代将軍・徳川家斉に由来する。
――さて「スンビン号」に戻る。オランダにとって、日本は単なる取引相手以上の大事な存在であった。
「今後モ、佐賀とオランダのヨリ良キ関係を…」
「わかっておる!阿蘭陀(オランダ)とは長い付き合い。信を置いておるぞ。」
「アリガタキ幸セ!」
――かつて“フェートン号事件”(1808年)の頃のオランダは、かのナポレオンに攻められフランスの従属下にあった。
フランスによる支配のもとで、期せず対戦国となったイギリスにオランダは追い回された。その過程で起きたのが、イギリス船の長崎港侵入なのである。

一時、祖国が消えていたオランダ。世界で唯一、国旗を掲揚できた場所が、長崎のオランダ商館だったという。
日本でオランダ商館を守った、当時の商館長は、復活した祖国・オランダで“英雄”扱いされたという。
一説にアメリカのペリーはオランダの妨害を警戒し、長崎への来航を避けたと言われる。そのぐらい日本との貿易を守ることに熱心なオランダである。
――殿・鍋島直正、オランダ人たちの想いを受け止めたのか「うむ!」と大きく頷く。
「よし、佐賀は、オランダとの交易を増々盛んにするぞ!」
「ハイ!仰セの通リデス!」
「では、この“スンビン号”を所望したい!幾らなれば買えるか。」
突如、いま乗っている蒸気船の購入交渉を始める直正。
「…!」
これは想定外だったのか、オランダの関係者一同が絶句する。
――オランダは“スンビン号”を、他の欧米各国を出し抜くための“切り札”として用意していた。
この“切り札”を、外様大名である佐賀に売り払うと…さすがに幕府の反応が怖い。
オランダの艦長が、釈明をする。
「実ハ…“スンビン号”は公儀(幕府)への献上を…」
「そうか、御公儀(幕府)のための船であったか!残念であるな。」
鍋島直正、突拍子の無いことは言うが、相手の立場を慮(おもんばか)る分別がある。
――「蒸気仕掛けも、大砲も良いのだが…」“スンビン号”を惜しむ、直正。下船後に、オランダ商館長から耳寄りな情報がもたらされる。
「“スンビン号”は無理デスガ…肥前サマには、モット良イ船を用意シマス!!」
「ほう、左様か!期待して良いのだな!」
直正の表情が明るくなった。後にオランダは、この約束を果たすことになる。
ひとまず蒸気船“スンビン号”をあきらめた直正。
しかし、この船は後に“観光丸”と名を変え、直正や佐賀藩士たちと深く関わっていくことになる。
(続く)
1854年3月。江戸にほど近い“横浜村”の地にて、日米和親条約が締結されます。
“鎖国”の体制が完成したのは、三代将軍・家光の治世である1641年頃。200年以上続いた、日本の対外政策は大きな転換点を迎えます…
――季節は流れ、夏も去ろうしていた。長崎の沿海。
オランダの蒸気船「スンビン号」の艦上。
「肥前サマ。ゴ足労イタダキ、光栄デス。」
オランダ人の通訳が、艦長の言葉を伝える。
「構わぬ。儂が来たいと申したのだ。」
艦長の挨拶に応じる、殿・鍋島直正。
もちろん通訳の言葉は聞くが、西洋人にも直接、話しかける傾向がある。語学は技術だけではない。勢いで通じる気持ちもあるのだ。
「古クカラ、日本と“我が国”オランダは、誼(よしみ)を通ジテ参リマシタ。」
「然(しか)り。阿蘭陀(オランダ)の者には、まことに世話になっておる。」

――10年前(1844年)オランダ国王が開国勧告を始めた頃から、鍋島直正は、よくオランダ船に乗っている。
「今ヤ、諸国の船が、日本に現レマス…」
「其の方(そのほう)の言いたきことはわかるぞ。“油断ならぬ者”もおるとの忠告だな。」
「ハッ、肥前サマ。サスガ、ご賢察にゴザイマス。」
オランダの士官や商人たちは、幕府や長崎に強い関わりを持つ、佐賀藩の存在を重視した。
――当時の佐賀藩は、品川の“お台場”や沿岸諸藩に大砲を供給し、ロシア船の来航時には長崎台場での警備をこなした…
先を見通していた、鍋島直正。もはや日本の中の“西洋”と言ってもよい、佐賀藩の存在感は増すばかりであった。
差しあたって幕府からの“ご褒美”は、五万両の借金返済の免除と、徳川家伝来の“備前長船長光”の名刀の親授である。
幕府は、佐賀藩との繋がりを強化していく。直正は徳川一門扱いの“松平”姓で呼ばれることが多い。この頃の名も“斉正”であり、これも第11代将軍・徳川家斉に由来する。
――さて「スンビン号」に戻る。オランダにとって、日本は単なる取引相手以上の大事な存在であった。
「今後モ、佐賀とオランダのヨリ良キ関係を…」
「わかっておる!阿蘭陀(オランダ)とは長い付き合い。信を置いておるぞ。」
「アリガタキ幸セ!」
――かつて“フェートン号事件”(1808年)の頃のオランダは、かのナポレオンに攻められフランスの従属下にあった。
フランスによる支配のもとで、期せず対戦国となったイギリスにオランダは追い回された。その過程で起きたのが、イギリス船の長崎港侵入なのである。

一時、祖国が消えていたオランダ。世界で唯一、国旗を掲揚できた場所が、長崎のオランダ商館だったという。
日本でオランダ商館を守った、当時の商館長は、復活した祖国・オランダで“英雄”扱いされたという。
一説にアメリカのペリーはオランダの妨害を警戒し、長崎への来航を避けたと言われる。そのぐらい日本との貿易を守ることに熱心なオランダである。
――殿・鍋島直正、オランダ人たちの想いを受け止めたのか「うむ!」と大きく頷く。
「よし、佐賀は、オランダとの交易を増々盛んにするぞ!」
「ハイ!仰セの通リデス!」
「では、この“スンビン号”を所望したい!幾らなれば買えるか。」
突如、いま乗っている蒸気船の購入交渉を始める直正。
「…!」
これは想定外だったのか、オランダの関係者一同が絶句する。
――オランダは“スンビン号”を、他の欧米各国を出し抜くための“切り札”として用意していた。
この“切り札”を、外様大名である佐賀に売り払うと…さすがに幕府の反応が怖い。
オランダの艦長が、釈明をする。
「実ハ…“スンビン号”は公儀(幕府)への献上を…」
「そうか、御公儀(幕府)のための船であったか!残念であるな。」
鍋島直正、突拍子の無いことは言うが、相手の立場を慮(おもんばか)る分別がある。
――「蒸気仕掛けも、大砲も良いのだが…」“スンビン号”を惜しむ、直正。下船後に、オランダ商館長から耳寄りな情報がもたらされる。
「“スンビン号”は無理デスガ…肥前サマには、モット良イ船を用意シマス!!」
「ほう、左様か!期待して良いのだな!」
直正の表情が明るくなった。後にオランダは、この約束を果たすことになる。
ひとまず蒸気船“スンビン号”をあきらめた直正。
しかし、この船は後に“観光丸”と名を変え、直正や佐賀藩士たちと深く関わっていくことになる。
(続く)
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