2020年07月23日
第12話「海軍伝習」⑧(いざ、長崎へ)
こんばんは。
本編に戻ります。ここで第11話「蝦夷探検」のオープニングを振り返るところから。
殿・鍋島直正は、いきなり蒸気船“スンビン号”を買おうとしました。
〔参照:第11話「蝦夷探検」①(殿、蒸気船に乗る)〕
これは幕府が長崎海軍伝習所を開設するための“予備伝習”。いわばプレオープンとして行った蒸気船の航海でした。
――1854年、長崎。殿・鍋島直正が蒸気船“スンビン号”から下船する。
「本島よ!“スンビン号”は惜しかったのう…!」
殿・直正は“釣り逃がした魚”が、まだ惜しいようだ。
「はっ。しかし艦長どのが、良き船が得られるよう助力すると。」
「そうじゃな。押すのじゃ!確かに“黒船”が得られるまで押すのじゃ!」
その時点での“スンビン号”艦長はファビウスというオランダ軍人。
日本に西洋式海軍の創設を勧めた。そして翌年、この蒸気船は幕府に献上され、“観光丸”と名付けられる。
――当時、日米和親条約が結ばれ、諸外国との交渉も進んでいた。
諸大名が“大船”の所持を禁じられた時代は終わったのである。
「そうじゃ。わが家来が“黒船”を操れねば、意味を成さぬな…」
直正は、海軍人材の育成にいち早く着目していた。
「さすが、殿…」
本島藤太夫、側近としての“お世辞”ではなく、感嘆する。
当時の大名にも、賢公や開明的と呼ばれる人物は幾人かいるが…
実際に蒸気船に乗り込んで“この船、買う!”と言い出したり、自ら海軍の伝習生集めを画策するのは、直正ぐらいのものである。
――結局、側近の本島藤太夫(40代)まで海軍伝習に参加すると決まっている。
「わが家来はとにかく学ばねばならぬ…でございますね。」
本島は、殿の言葉をなぞって、自分を鼓舞する。
かなりハードな“四十の手習い”になるだろう。
本島は、覚悟を決めた様子だ。
「昔日ほど物覚えが良くありませぬ。されど…また一から学ぶ所存にござる!」
「そうじゃ、さすがは本島であるな!よくぞ申した!」
殿・鍋島直正、やる気を見せる家来に意気が上がる。すでに“黒船”が買えなかったショックから立ち直った様子だ。
――1855年、佐賀。多布施にある理化学研究所“精錬方”。
「そいぎ、行って来るけん。」
佐野栄寿(常民)も、海軍伝習を受けるため、長崎に旅立つ。
「待たんね!」
技術者・田中久重が、背を向けようとする佐野を呼び留めた。
「“ええもん”があるから、旅立つ前に見ていけや!」
蘭学者・石黒寛次。今日は、翻訳小屋から出てきている。

――ポッ…!軽い“汽笛”の音がした。
シュッシュッシュ…耳慣れない音が聞こえる。
しかし、佐野栄寿には、その音の“正体”がわかった。
「陸蒸気(おかじょうき)…?」
しばらく、伝習への準備で忙しかった佐野。
試作品(ひな型)の完成は確認していたが、ここまでのものが仕上がっていた。
――ついに佐賀藩の“精錬方”は自前で“蒸気機関”を作ることに成功したのである。
「どうどす~、佐野はんっ!泣けるやろっ!」
科学者・中村奇輔が“陸蒸気”(機関車)の向こう側から声を張る。
たぶん佐野は感動で泣くだろう…という、旅立ちの餞(はなむけ)である。
「中村さんっ!もう涙で前が見えません…長崎に行きづらいじゃなかですか~っ!」
――同じく1855年、ふたたび長崎。幕府が開設した。長崎の海軍伝習所は“海軍士官”の学校である。
“海軍士官”は、部下である水兵や水夫たちを、まさに手足のように使わねばならない。
教官となったオランダ人士官・ライケンの激が飛ぶ。
「キビキビト、動ケ!」
「はい!教官!」
「士官ガ、ボンヤリ突ッ立ッテイテハ、部下モ動ケナイゾ!」

――洋式帆船のマストに登り、帆を張る訓練。
「体デ覚エルンダ!」
既に40歳を超えている、本島藤太夫。
「これはこたえるな…」
吹き出す汗。体の予期せぬところの筋肉を使うことによる疲労感。
――少し後ろを見る。佐野栄寿もヨロヨロと登っている。
「佐野!どうしたのだ?私より遅いとは…」
本島が、後ろを見遣って声をかける。
しかし、佐野も30代であるから伝習生としては若い方ではない。
「いや、面目次第もございません。」
佐野、目がウルウルしている。何やら気分が悪そうだ。
「佐野…さては。昨夜、飲み過ぎたな!」
「本島さま!以後、気を付けまする!」
――実は“鯨飲”と言われるほど酒が好きな佐野。秀才でも油断することはあるようだ。
教官ライケンの叱責が飛ぶ。
「コラ!ソコ!私語ハ慎メ!」
そして、よく響く大声で伝習生たちに訓示をする
「“士官”デサエ有レバ、部下ハ従ウカ!?…ソンナ事ハ、無イゾ!」
「皆、励メ!競ウノダ。君タチハ、優レタ“士官”ニナレ!」
「はい!教官!」
今にも吐きそうな佐野も、大声を張った。
(続く)
本編に戻ります。ここで第11話「蝦夷探検」のオープニングを振り返るところから。
殿・鍋島直正は、いきなり蒸気船“スンビン号”を買おうとしました。
〔参照:
これは幕府が長崎海軍伝習所を開設するための“予備伝習”。いわばプレオープンとして行った蒸気船の航海でした。
――1854年、長崎。殿・鍋島直正が蒸気船“スンビン号”から下船する。
「本島よ!“スンビン号”は惜しかったのう…!」
殿・直正は“釣り逃がした魚”が、まだ惜しいようだ。
「はっ。しかし艦長どのが、良き船が得られるよう助力すると。」
「そうじゃな。押すのじゃ!確かに“黒船”が得られるまで押すのじゃ!」
その時点での“スンビン号”艦長はファビウスというオランダ軍人。
日本に西洋式海軍の創設を勧めた。そして翌年、この蒸気船は幕府に献上され、“観光丸”と名付けられる。
――当時、日米和親条約が結ばれ、諸外国との交渉も進んでいた。
諸大名が“大船”の所持を禁じられた時代は終わったのである。
「そうじゃ。わが家来が“黒船”を操れねば、意味を成さぬな…」
直正は、海軍人材の育成にいち早く着目していた。
「さすが、殿…」
本島藤太夫、側近としての“お世辞”ではなく、感嘆する。
当時の大名にも、賢公や開明的と呼ばれる人物は幾人かいるが…
実際に蒸気船に乗り込んで“この船、買う!”と言い出したり、自ら海軍の伝習生集めを画策するのは、直正ぐらいのものである。
――結局、側近の本島藤太夫(40代)まで海軍伝習に参加すると決まっている。
「わが家来はとにかく学ばねばならぬ…でございますね。」
本島は、殿の言葉をなぞって、自分を鼓舞する。
かなりハードな“四十の手習い”になるだろう。
本島は、覚悟を決めた様子だ。
「昔日ほど物覚えが良くありませぬ。されど…また一から学ぶ所存にござる!」
「そうじゃ、さすがは本島であるな!よくぞ申した!」
殿・鍋島直正、やる気を見せる家来に意気が上がる。すでに“黒船”が買えなかったショックから立ち直った様子だ。
――1855年、佐賀。多布施にある理化学研究所“精錬方”。
「そいぎ、行って来るけん。」
佐野栄寿(常民)も、海軍伝習を受けるため、長崎に旅立つ。
「待たんね!」
技術者・田中久重が、背を向けようとする佐野を呼び留めた。
「“ええもん”があるから、旅立つ前に見ていけや!」
蘭学者・石黒寛次。今日は、翻訳小屋から出てきている。

――ポッ…!軽い“汽笛”の音がした。
シュッシュッシュ…耳慣れない音が聞こえる。
しかし、佐野栄寿には、その音の“正体”がわかった。
「陸蒸気(おかじょうき)…?」
しばらく、伝習への準備で忙しかった佐野。
試作品(ひな型)の完成は確認していたが、ここまでのものが仕上がっていた。
――ついに佐賀藩の“精錬方”は自前で“蒸気機関”を作ることに成功したのである。
「どうどす~、佐野はんっ!泣けるやろっ!」
科学者・中村奇輔が“陸蒸気”(機関車)の向こう側から声を張る。
たぶん佐野は感動で泣くだろう…という、旅立ちの餞(はなむけ)である。
「中村さんっ!もう涙で前が見えません…長崎に行きづらいじゃなかですか~っ!」
――同じく1855年、ふたたび長崎。幕府が開設した。長崎の海軍伝習所は“海軍士官”の学校である。
“海軍士官”は、部下である水兵や水夫たちを、まさに手足のように使わねばならない。
教官となったオランダ人士官・ライケンの激が飛ぶ。
「キビキビト、動ケ!」
「はい!教官!」
「士官ガ、ボンヤリ突ッ立ッテイテハ、部下モ動ケナイゾ!」
――洋式帆船のマストに登り、帆を張る訓練。
「体デ覚エルンダ!」
既に40歳を超えている、本島藤太夫。
「これはこたえるな…」
吹き出す汗。体の予期せぬところの筋肉を使うことによる疲労感。
――少し後ろを見る。佐野栄寿もヨロヨロと登っている。
「佐野!どうしたのだ?私より遅いとは…」
本島が、後ろを見遣って声をかける。
しかし、佐野も30代であるから伝習生としては若い方ではない。
「いや、面目次第もございません。」
佐野、目がウルウルしている。何やら気分が悪そうだ。
「佐野…さては。昨夜、飲み過ぎたな!」
「本島さま!以後、気を付けまする!」
――実は“鯨飲”と言われるほど酒が好きな佐野。秀才でも油断することはあるようだ。
教官ライケンの叱責が飛ぶ。
「コラ!ソコ!私語ハ慎メ!」
そして、よく響く大声で伝習生たちに訓示をする
「“士官”デサエ有レバ、部下ハ従ウカ!?…ソンナ事ハ、無イゾ!」
「皆、励メ!競ウノダ。君タチハ、優レタ“士官”ニナレ!」
「はい!教官!」
今にも吐きそうな佐野も、大声を張った。
(続く)