2020年07月01日

「主に唐津市民の方を対象にしたつぶやき」

こんばんは。
幕末佐賀4つの“口”」というテーマのもとで、「佐賀県内各地域の方を対象にして“つぶやく”」シリーズです。
今回は“長崎口”と関わりの深かった唐津藩について考えてみます。


――本日の写真を先にご覧になった方。佐賀県内ですが、唐津ではありません。

特に武雄市民の方、
「なんだ!武雄温泉ではないか!」という反応でしょう。
「ははーん!姑息(こそく)な手を遣いおって…」と気付いた方もいるかもしれません。

この武雄温泉楼門建築年代は、現在の“本編”よりかなり後大正になってから出来たものです。


――楼門の設計者は、唐津の出身者。“本編”への登場が“内定”している人物です。

日本建築界レジェンド(伝説的存在)である辰野金吾です。

但し、幕末に、辰野氏の登場予定はありません。
第3部明治飛翔編”のキャストに名を連ねることになるかと…

前回の投稿では、基山町鳥栖市東部対馬藩領であったことを紹介しました。そして、現在の唐津市近辺もまた、佐賀藩の領地ではなく、唐津藩領です。


――江戸時代。肥前唐津藩は、幕府の信頼が厚い“譜代大名”のエリートの領地でした。

今までにも唐津藩の関係者が“本編”に登場しています。
その名は…水野忠邦。当時の出世の頂点である幕府の老中首座

絶大な権力を手にして「天保の改革」を推し進めました。改革そのものに芳しい成果は出ていませんが、日本史では必修の人物。

中間・期末テストで頻出の“江戸三大改革”の1つ。何だか覚えにくい“天保の改革”。「上知令…、人返しの法…」試験涙した人もいるかもしれません。


――そして、ご老中・水野忠邦は、元・唐津藩のお殿様です。

ちょっとトゲのある言い方をすると、出世のために唐津を離れた水野様。まず、唐津周辺の土地を、幕府献納したりします。いわゆる“点数稼ぎ”でしょうか。

唐津炭田では大量の石炭も産出しますし、これで出世力アップ。そして、水野様はさらなる出世を目指し、唐津藩から他の領地への“国替え”を画策します。


――そもそも水野様は、唐津藩の役回りが“出世の妨げになる”と判断していたようです。

本編でもよく登場する“長崎御番”。“外様大名”の大藩である、佐賀藩福岡藩が1年交代で務める“長崎口”の警備役です。
※現在の長崎・出島

そして、佐賀福岡の2藩を“見張る役目”が唐津藩だったそうです。

将軍の側近“奏者番”を務めることも多く、幕府信頼厚い大名が配置される…しかも長崎に近い!

まさに唐津藩に向いたお仕事。それが、「長崎見廻り役」です。ただ、長崎の“警備役”と同様、“見張り役”も大きい負担を伴うため、出世競争には不利


――水野様は手を尽くして、遠江(静岡)の浜松藩への“お国替え”を成功させ、出世街道を突き進みます。

「本気で出世を志すならば、ここまでするべきだ!」という好例なのかもしれません。その“水野家”が浜松に移った後、代わりに唐津に入ったのが“小笠原家”。

時は流れて幕末の動乱期…この小笠原家に明晰な頭脳を持ちながら、時代に翻弄される“お殿様”が登場します。

その名は…小笠原長行(ながみち)。
蝦夷地での最後の戦いまで、幕府方とともにあった人物

現在の“本編”から数年後に、時代は大きく動きます。
主に第2部維新回天編”で描くチャンスを伺っている方です。


――その小笠原長行様は、唐津藩主名代(代理)として位置づけられています。

明治新政府に“たてついた”ため、藩主を継いでいない扱いにされている…という説まであるようです。

江戸幕府の終わりに、小笠原長行は老中まで務め、揺らぐ幕府を必死で支えました。損な役回りを厭わず生きた、“忠義の人”と言えるかもしれません。

箱館時代の“新選組”には、唐津藩士も加入していたとか。幕末の唐津藩も、かなりドラマチックですね。