2020年07月12日
「“大災害”と微かな希望」
こんばんは。
“本編”を描くにあたって「映像で見たいイメージ」を「文章で表現する」のは難しい!…と日々想っています。
テレビの画面ならば、一瞬で見せられるもの…
私の文章力では、皆様に伝わらないことも多いと思います。
――その一方で、皆様がお読みいだたくときは、人生の中で培ってきた経験が加味されて、映像が浮かんでいることと思います。
私が想像するより、遥かに凄い人物、美しい景色、楽しい場面が展開されているかも知れず…
受け手の皆様が、自由にイメージを持てることも、文章で伝える面白さなのかもしれません。今後ともよろしくお願いします。
――さて、経験の有無で、見える世界が変わってしまう…“災害”はその最たるものなのかもしれません。
正直、日曜の夜に持ってくる投稿としては重い!と思いましたが、“本編”の時代背景でもある“安政の大地震”について、ナレーションを入れているとお考えください。
――なるべく、その時代に生きた人間の知恵や美しい振舞いを、拾っていきたいと思います。
一般に“安政地震”と言えば、1854年から1860年に起きた一連の地震を指すようです。
そのうち、「安政の三大地震」と呼ばれる東海・南海・江戸地震が特に甚大な被害をもたらしました。
〇安政東海地震(安政元年11月4日)
西暦で言えば1854年12月23日に発生した地震。
関東地方から、四国まで広範囲に津波が到達。駿府城(静岡)や東海道の宿場町では、建物が大被害を受けていたようです。
このとき、日露和親条約の締結交渉のため、伊豆の下田(静岡)に停泊していたロシア船がありました。
ロシアの提督プチャーチンが乗る新鋭艦。“ディアナ号”という大型帆船です。

※プチャーチンが長崎に来航したときは、老朽艦“パルラダ号”に搭乗していました。
――しかし、東海地震の津波が襲来。
押し寄せる津波に“ディアナ号”は、42回転したとも言われているようです。はたして数えることは可能だったのか…という疑問は残ります。
即時、大破しなかったのは、さすがは新鋭艦というところでしょうか。しかし、船体の損傷は著しく、荒天の影響もあり、港への曳航中に“ディアナ号”は沈んでいきます…
――この状況下で提督プチャーチンが、紳士の振舞いを見せます。
なんと、自分たちの船が破損しているにも関わらず、
「船医!地元の者を診てやれ!」と指示を出します。
地震と津波で、負傷した下田の人々の救護を手伝ったようです。
さすがは提督プチャーチン。のちにロシアで教育大臣を務めるほどの人物。
このたび「大河ドラマ」登場が決まった、幕府の勘定奉行・川路聖謨もその人格を評価しています。
…その前にプチャーチンが大坂の湾内に現れたことで攘夷は過激化してますし、ロシアそのものは、かなり油断ならない動きをしていますが…
〇安政南海地震(安政元年11月5日)
西暦で言えば1854年12月24日に発生した地震。
紀州(和歌山)や摂津(大阪)など、関西地方に甚大な被害の地震。
なにせ東海地震の翌日に発生しています。そして、津波の到達。
――たぶん“本編”には登場しませんが、ここ、和歌山にも男気を見せる人物が現れます。

和歌山と言えば、湯浅という“醤油”の名産地があります。“ヤマサ醤油”の7代目・濱口儀兵衛がモデルとなった出来事があります。
「稲むらの火」という逸話をご存じでしょうか。
昔は国語の教科書に載っていたお話のようです。
――高台に住む庄屋が、津波到達の予兆に気付く。
「いかん…もはや皆に知らせるには時が無い!」
稲むらに火を放ち、村人たちに危険を知らせる庄屋。異変に気付いて避難する村人たち。
急ぎ高台に避難した村人たちが、足元を見下ろすと、津波が村を飲み込んでいた。命を救われたことに気付いた村人たちは、庄屋の判断に感謝し、ひざまずいて感謝を示した…
…モデルの方は街中に住む商人なので「津波から逃れる避難路を“稲むら”に点火して知らせた。」というのが史実に近いようです。方法の差異はあれ、命を救っていることに違いはなく…
そういえば、TBS系の「JIN-仁-」にも登場していた方のようですね。
〇安政江戸地震(安政2年10月2日)
西暦で言えば1855年11月11日に発生した地震。
東海・南海地震の翌年に、大都市・江戸で起きた直下地震。
この地震に関わるエピソードは、第11話「蝦夷探検」でも取り上げています。
――水戸藩・藤田東湖が自らの身を呈して、母を救った出来事が伝えられています。
“本編”の記事は、前回の投稿でも触れていますが、少し別の視点で。
(参考:第11話「蝦夷探検」⑦(“拓北”の決意))
地震続きによる幕府財政の窮乏について考える、枝吉神陽を描きました。
藩校で“乱闘騒ぎ”を起こした…現在で言えば、退学になった高校生(?)・大隈八太郎が神陽先生を訪ねてくる場面です。
――東海・南海地震で、各大名に対する復興費用の貸付などで、幕府の財政はかなり疲弊していたことでしょう。
そのうえで、幕府の本拠地・江戸に大地震が来てしまっては…幕府の首脳陣たちも頭を抱えたことと思います。
今までは、私もほぼ詳細を知りませんでした。
しかし、安政の大地震が無ければ、幕府の安定感はかなり違い、歴史は変わっていたかもしれません。
“本編”を描くにあたって「映像で見たいイメージ」を「文章で表現する」のは難しい!…と日々想っています。
テレビの画面ならば、一瞬で見せられるもの…
私の文章力では、皆様に伝わらないことも多いと思います。
――その一方で、皆様がお読みいだたくときは、人生の中で培ってきた経験が加味されて、映像が浮かんでいることと思います。
私が想像するより、遥かに凄い人物、美しい景色、楽しい場面が展開されているかも知れず…
受け手の皆様が、自由にイメージを持てることも、文章で伝える面白さなのかもしれません。今後ともよろしくお願いします。
――さて、経験の有無で、見える世界が変わってしまう…“災害”はその最たるものなのかもしれません。
正直、日曜の夜に持ってくる投稿としては重い!と思いましたが、“本編”の時代背景でもある“安政の大地震”について、ナレーションを入れているとお考えください。
――なるべく、その時代に生きた人間の知恵や美しい振舞いを、拾っていきたいと思います。
一般に“安政地震”と言えば、1854年から1860年に起きた一連の地震を指すようです。
そのうち、「安政の三大地震」と呼ばれる東海・南海・江戸地震が特に甚大な被害をもたらしました。
〇安政東海地震(安政元年11月4日)
西暦で言えば1854年12月23日に発生した地震。
関東地方から、四国まで広範囲に津波が到達。駿府城(静岡)や東海道の宿場町では、建物が大被害を受けていたようです。
このとき、日露和親条約の締結交渉のため、伊豆の下田(静岡)に停泊していたロシア船がありました。
ロシアの提督プチャーチンが乗る新鋭艦。“ディアナ号”という大型帆船です。

※プチャーチンが長崎に来航したときは、老朽艦“パルラダ号”に搭乗していました。
――しかし、東海地震の津波が襲来。
押し寄せる津波に“ディアナ号”は、42回転したとも言われているようです。はたして数えることは可能だったのか…という疑問は残ります。
即時、大破しなかったのは、さすがは新鋭艦というところでしょうか。しかし、船体の損傷は著しく、荒天の影響もあり、港への曳航中に“ディアナ号”は沈んでいきます…
――この状況下で提督プチャーチンが、紳士の振舞いを見せます。
なんと、自分たちの船が破損しているにも関わらず、
「船医!地元の者を診てやれ!」と指示を出します。
地震と津波で、負傷した下田の人々の救護を手伝ったようです。
さすがは提督プチャーチン。のちにロシアで教育大臣を務めるほどの人物。
このたび「大河ドラマ」登場が決まった、幕府の勘定奉行・川路聖謨もその人格を評価しています。
…その前にプチャーチンが大坂の湾内に現れたことで攘夷は過激化してますし、ロシアそのものは、かなり油断ならない動きをしていますが…
〇安政南海地震(安政元年11月5日)
西暦で言えば1854年12月24日に発生した地震。
紀州(和歌山)や摂津(大阪)など、関西地方に甚大な被害の地震。
なにせ東海地震の翌日に発生しています。そして、津波の到達。
――たぶん“本編”には登場しませんが、ここ、和歌山にも男気を見せる人物が現れます。
和歌山と言えば、湯浅という“醤油”の名産地があります。“ヤマサ醤油”の7代目・濱口儀兵衛がモデルとなった出来事があります。
「稲むらの火」という逸話をご存じでしょうか。
昔は国語の教科書に載っていたお話のようです。
――高台に住む庄屋が、津波到達の予兆に気付く。
「いかん…もはや皆に知らせるには時が無い!」
稲むらに火を放ち、村人たちに危険を知らせる庄屋。異変に気付いて避難する村人たち。
急ぎ高台に避難した村人たちが、足元を見下ろすと、津波が村を飲み込んでいた。命を救われたことに気付いた村人たちは、庄屋の判断に感謝し、ひざまずいて感謝を示した…
…モデルの方は街中に住む商人なので「津波から逃れる避難路を“稲むら”に点火して知らせた。」というのが史実に近いようです。方法の差異はあれ、命を救っていることに違いはなく…
そういえば、TBS系の「JIN-仁-」にも登場していた方のようですね。
〇安政江戸地震(安政2年10月2日)
西暦で言えば1855年11月11日に発生した地震。
東海・南海地震の翌年に、大都市・江戸で起きた直下地震。
この地震に関わるエピソードは、第11話「蝦夷探検」でも取り上げています。
――水戸藩・藤田東湖が自らの身を呈して、母を救った出来事が伝えられています。
“本編”の記事は、前回の投稿でも触れていますが、少し別の視点で。
(参考:
地震続きによる幕府財政の窮乏について考える、枝吉神陽を描きました。
藩校で“乱闘騒ぎ”を起こした…現在で言えば、退学になった高校生(?)・大隈八太郎が神陽先生を訪ねてくる場面です。
――東海・南海地震で、各大名に対する復興費用の貸付などで、幕府の財政はかなり疲弊していたことでしょう。
そのうえで、幕府の本拠地・江戸に大地震が来てしまっては…幕府の首脳陣たちも頭を抱えたことと思います。
今までは、私もほぼ詳細を知りませんでした。
しかし、安政の大地震が無ければ、幕府の安定感はかなり違い、歴史は変わっていたかもしれません。