2020年07月22日
「井伊の“赤鬼”ふたたび」
こんばんは。
“本編”に戻る前に、また補足を入れていきます。
今日も“井伊家”について語ります。もちろん昨日「おんな城主直虎」について語った影響が残っています。
私はこの大河ドラマもかなりの名作だと思っています。
脚本の森下佳子さんは、TBS系ドラマ「JIN-仁-」で幕末も描いている方です。
――さて、幕末の話で“井伊家”と言えば、あの方。大老・井伊直弼の話をせねばなりません。
現在の“本編”は1854年~1857年あたりを色んな視点で描いています。
当時の老中・阿部正弘は、何とか“黒船来航”の危機を乗り切りました。
「諸侯の力を集め、国を守らねば…」
ペリーが来たときに、諸大名に意見を募った姿勢は変わりません。超・調整型リーダーです。
どこが“超”なのかというと、物凄く人の話を聞きます。最善手を見つけるまで、色んな人に聞きます。
――老中・阿部正弘、沿海の防備強化から欧米との外交まで、次々に人材を登用します。
まず、高島秋帆、江川英龍ら、砲術などの専門知識がある人物を重視。
そして、外交では川路聖謨や岩瀬忠震ら“切れ者”の官僚を見出します。
開国後は、オランダに意見を求めて、海軍の創設に舵を切ります。長崎海軍伝習所が出来たのも、この方針に拠ります。
この流れで、勝海舟や榎本武揚などが頭角を現します。
――“ご老中”のオープンな姿勢に、大名たちも次々に政治参加。
幕府は海岸沿いに領地を持つ雄藩と連携を深めます。とくに活発に動いたのは、福井藩の松平春嶽らのグループ。
薩摩藩・島津斉彬
土佐藩・山内容堂
宇和島藩・伊達宗城
諸侯で政治を担う時代に向けて、老中・阿部正弘は、以上の通称「幕末の四賢侯」とも話合いを重ねます。
この会合でも「外交は、佐賀の鍋島に受け持ってもらってはどうか」という議論だったようです。
薩摩の島津斉彬は鍋島直正のいとこ、宇和島の伊達宗城は直正の義兄。一応、縁戚関係もあるのですが、何より実力による評価です。
――この面々が皆で「賢いから、次の将軍に!」と考えたのが、一橋慶喜です。
ところが結集の軸であった老中・阿部正弘が1857年に、この世を去ります。
存命であれば、幕府のもとで「全国の大名の力を集めた政治が出来ただろう。」とか、「すなわち“安政維新”が可能であった!」という主張まで見かけます。
阿部正弘は開国を先導しつつも、過激な攘夷思想の水戸藩・徳川斉昭とも折り合いをつけました。恐るべき調整能力だったのでしょう。
――これだけの面々が一斉に推した、一橋慶喜ですが、次の将軍にはなっていません。
そのあとに幕府の大老になった彦根藩主・井伊直弼が、“一橋派の面々”を一気に抑え込みました。紀州藩・徳川慶福(家茂)を第14代将軍に付けたのです。
大名の結集ではなく、幕府の力で国を引っ張って行こうとした“剛腕”。
かつて、徳川家康に仕えた四天王・井伊直政は“井伊の赤鬼”とまで恐れられました。しかし、ご子孫も負けていないように思われます。
――そんな“井伊の赤鬼”の末裔・井伊直弼から例外的に信頼されていた、外様大名がいます。
またしても、肥前佐賀藩主・鍋島直正です。
当時、松平姓を名乗ったり、斉正という名であったりと、何かと徳川家に近い立場です。
開国通商で、国力の増強を図ろうとした大老・井伊直弼。
海軍の整備が必須と考えており、直正に相談を持ちかけていたようです。
敵の多い大老だったので「会津と佐賀くらいしか私の心を理解してくれない…」と言っていたとか。
佐賀の話を中心に描きたいので、次話「通商条約」までの時代背景の参考です。第12話「海軍伝習」もあと3回くらいで終わらせるのが目安です。
本日の内容は、以前の投稿と少し重複してしまいました。書きたいことは、色々とあるのですが、まとめるのが難しい…です。
“本編”に戻る前に、また補足を入れていきます。
今日も“井伊家”について語ります。もちろん昨日「おんな城主直虎」について語った影響が残っています。
私はこの大河ドラマもかなりの名作だと思っています。
脚本の森下佳子さんは、TBS系ドラマ「JIN-仁-」で幕末も描いている方です。
――さて、幕末の話で“井伊家”と言えば、あの方。大老・井伊直弼の話をせねばなりません。
現在の“本編”は1854年~1857年あたりを色んな視点で描いています。
当時の老中・阿部正弘は、何とか“黒船来航”の危機を乗り切りました。
「諸侯の力を集め、国を守らねば…」
ペリーが来たときに、諸大名に意見を募った姿勢は変わりません。超・調整型リーダーです。
どこが“超”なのかというと、物凄く人の話を聞きます。最善手を見つけるまで、色んな人に聞きます。
――老中・阿部正弘、沿海の防備強化から欧米との外交まで、次々に人材を登用します。
まず、高島秋帆、江川英龍ら、砲術などの専門知識がある人物を重視。
そして、外交では川路聖謨や岩瀬忠震ら“切れ者”の官僚を見出します。
開国後は、オランダに意見を求めて、海軍の創設に舵を切ります。長崎海軍伝習所が出来たのも、この方針に拠ります。
この流れで、勝海舟や榎本武揚などが頭角を現します。
――“ご老中”のオープンな姿勢に、大名たちも次々に政治参加。
幕府は海岸沿いに領地を持つ雄藩と連携を深めます。とくに活発に動いたのは、福井藩の松平春嶽らのグループ。
薩摩藩・島津斉彬
土佐藩・山内容堂
宇和島藩・伊達宗城
諸侯で政治を担う時代に向けて、老中・阿部正弘は、以上の通称「幕末の四賢侯」とも話合いを重ねます。
この会合でも「外交は、佐賀の鍋島に受け持ってもらってはどうか」という議論だったようです。
薩摩の島津斉彬は鍋島直正のいとこ、宇和島の伊達宗城は直正の義兄。一応、縁戚関係もあるのですが、何より実力による評価です。
――この面々が皆で「賢いから、次の将軍に!」と考えたのが、一橋慶喜です。
ところが結集の軸であった老中・阿部正弘が1857年に、この世を去ります。
存命であれば、幕府のもとで「全国の大名の力を集めた政治が出来ただろう。」とか、「すなわち“安政維新”が可能であった!」という主張まで見かけます。
阿部正弘は開国を先導しつつも、過激な攘夷思想の水戸藩・徳川斉昭とも折り合いをつけました。恐るべき調整能力だったのでしょう。
――これだけの面々が一斉に推した、一橋慶喜ですが、次の将軍にはなっていません。
そのあとに幕府の大老になった彦根藩主・井伊直弼が、“一橋派の面々”を一気に抑え込みました。紀州藩・徳川慶福(家茂)を第14代将軍に付けたのです。
大名の結集ではなく、幕府の力で国を引っ張って行こうとした“剛腕”。
かつて、徳川家康に仕えた四天王・井伊直政は“井伊の赤鬼”とまで恐れられました。しかし、ご子孫も負けていないように思われます。
――そんな“井伊の赤鬼”の末裔・井伊直弼から例外的に信頼されていた、外様大名がいます。
またしても、肥前佐賀藩主・鍋島直正です。
当時、松平姓を名乗ったり、斉正という名であったりと、何かと徳川家に近い立場です。
開国通商で、国力の増強を図ろうとした大老・井伊直弼。
海軍の整備が必須と考えており、直正に相談を持ちかけていたようです。
敵の多い大老だったので「会津と佐賀くらいしか私の心を理解してくれない…」と言っていたとか。
佐賀の話を中心に描きたいので、次話「通商条約」までの時代背景の参考です。第12話「海軍伝習」もあと3回くらいで終わらせるのが目安です。
本日の内容は、以前の投稿と少し重複してしまいました。書きたいことは、色々とあるのですが、まとめるのが難しい…です。