2020年02月20日
第4話「諸国遊学」④
こんばんは。
鍋島直正の名君ぶりも発揮されてきたところですが、今日の投稿では意外な苦手も明らかになります。第3話のラスト(第3話「西洋砲術」⑤)からもつながるお話です。
――佐賀城、本丸の敷地内を移動する、直正。
「ぎゃっ、蛇が出た!」
すっかり立派になった直正。
しかし、蛇の出現を嫌がるのは、子どもの頃からである。
「“蛇嫌い”は相変わらずですな。ええぃ!殿に無礼をはたらくものはこうじゃ!」
直正に政務の相談に来ていた、請役(佐賀藩ナンバー2)の鍋島安房。
すばやく蛇の動きを止め、尾を掴んで放り投げた。
「さすが“須古領”を治める者だな。蛇の扱いに慣れておる!」
「殿…たしかに“須古”は田舎かもしれませぬが、そこを褒められても困ります。」
鍋島安房が、少しムッとして言い返す。

ちなみに須古領とは、現在の佐賀県白石町(西部)である。
「おぉ、安房よ。済まなんだ。さっきのは“マムシ”ではないのか!やはりお主は頼りになる!」
「ありがたき幸せ…」
――ここで、なぜ“マムシ”の話をしたか。察しの良い方はお気づきかもしれない。
ここで、第3話「西洋砲術」のラストシーンの直後の話に戻る。
武雄領での導入から、佐賀藩全体の“砲術”の師匠となった高島秋帆が捕縛された。
そして、武雄領の平山醇左衛門が処刑された悲劇である。
この後、1843年の幕府の状況を説明する。
“天保の改革”の最終盤、老中・水野忠邦が「上知令」を発した。
江戸・大坂近辺の土地を幕府が取り、その土地の大名や旗本には代わりの土地を与える政策。幕府にとっては、都市圏の抑えを効かせて、政権の基盤を強化する狙いがある。
――そして、この政策は当然のように大名たちの猛反発を受ける。
“マムシの耀蔵”こと鳥居耀蔵は、老中・水野が政権を追われると判断した。
「水野様は、もう終いじゃ。儂は政(まつりごと)の中心にあらねばのう…」
そして、権力を維持したい鳥居は、さっさと別の派閥に乗り換えた。
“蘭学を学ぶ者”を嫌っていた鳥居。高島を捕縛することで、幕府の“開明派”の追い落としも画策していた。
しかし、老中・水野忠邦は高島の門下で“西洋砲術”を学び、武雄領とも交流していた江川英龍を守った。
鳥居は、水野のこの対応も不満だったのかもしれない。
水野が失脚したため「天保の改革」は終焉する。
江戸の町人たちは、何かと締め付けられた“改革”から解き放たれ、快哉を叫んだ。
――しかし、この話には続きがある。
水野の後を継いだ老中・土井が火災の始末で対応を誤り、いきなり諸大名の支持を失った。
そして急遽、水野が再登板するのである。
「鳥居よ、どうなるかは…わかっておるだろうな!」
怒りに打ち震える、水野忠邦。
「いやいや水野様、あれには行き違いがござりまして…」
もちろん言い訳は通じない。水野の逆襲により、鳥居は失脚した。
かつて“マムシの耀蔵”と恐れられた鳥居は、九州から東北など各地の藩に預けられ、転々と飛ばされていく。
そして、四国で明治時代になるまで軟禁状態に置かれることとなった。
――武雄領。鍋島茂義の屋敷。

鍋島茂義は武雄領の“ご隠居”である。
しかし、次の領主である茂昌は、まだ10歳程度の子どもであった。
茂義の気持ちとしては、領主の政務よりも優先すべき“志”がある。
佐賀藩の技術開発は、国の守りとなるべきものだった。
「ほう、あの“マムシ”(鳥居)が追い落とされたか。」
何とも言えない表情をする、茂義。知らせに一瞬、頬が緩む。
そして、武雄領の家来を呼び出して伝える。
「平山醇左衛門の墓の建立を許す。」
「ははっ!えらく唐突でございますが…承りましてござる!」
――家来の足取りも軽い。すぐに平山の家の者に伝えにいく様子だ。
今は亡き家来・平山を想い、茂義は静かな決意を口にする。
「…平山よ。もはや、罪滅ぼしにもならんことは承知している。」
「しかし、儂は悟ったぞ。今後、如何なる“マムシ”が出て来ようが、もう、こちらの動きは掴ませぬ…」
その後に建立された、平山の墓。
深く編笠をかぶった立派な身なりの武士が、時折、墓参に来ていたようである。
――佐賀藩の“蘭学研究”の形成には、武雄領の“ご隠居”茂義が関わっていた。
長崎と佐賀をつないで、さらに秘密裡にネットワーク化が進む。
有望な者は長崎のみならず、江戸や大坂にも留学させていた。
こうして佐賀藩の「諸国遊学」の時代が始まったのである。
(続く)
鍋島直正の名君ぶりも発揮されてきたところですが、今日の投稿では意外な苦手も明らかになります。第3話のラスト(第3話「西洋砲術」⑤)からもつながるお話です。
――佐賀城、本丸の敷地内を移動する、直正。
「ぎゃっ、蛇が出た!」
すっかり立派になった直正。
しかし、蛇の出現を嫌がるのは、子どもの頃からである。
「“蛇嫌い”は相変わらずですな。ええぃ!殿に無礼をはたらくものはこうじゃ!」
直正に政務の相談に来ていた、請役(佐賀藩ナンバー2)の鍋島安房。
すばやく蛇の動きを止め、尾を掴んで放り投げた。
「さすが“須古領”を治める者だな。蛇の扱いに慣れておる!」
「殿…たしかに“須古”は田舎かもしれませぬが、そこを褒められても困ります。」
鍋島安房が、少しムッとして言い返す。

ちなみに須古領とは、現在の佐賀県白石町(西部)である。
「おぉ、安房よ。済まなんだ。さっきのは“マムシ”ではないのか!やはりお主は頼りになる!」
「ありがたき幸せ…」
――ここで、なぜ“マムシ”の話をしたか。察しの良い方はお気づきかもしれない。
ここで、第3話「西洋砲術」のラストシーンの直後の話に戻る。
武雄領での導入から、佐賀藩全体の“砲術”の師匠となった高島秋帆が捕縛された。
そして、武雄領の平山醇左衛門が処刑された悲劇である。
この後、1843年の幕府の状況を説明する。
“天保の改革”の最終盤、老中・水野忠邦が「上知令」を発した。
江戸・大坂近辺の土地を幕府が取り、その土地の大名や旗本には代わりの土地を与える政策。幕府にとっては、都市圏の抑えを効かせて、政権の基盤を強化する狙いがある。
――そして、この政策は当然のように大名たちの猛反発を受ける。
“マムシの耀蔵”こと鳥居耀蔵は、老中・水野が政権を追われると判断した。
「水野様は、もう終いじゃ。儂は政(まつりごと)の中心にあらねばのう…」
そして、権力を維持したい鳥居は、さっさと別の派閥に乗り換えた。
“蘭学を学ぶ者”を嫌っていた鳥居。高島を捕縛することで、幕府の“開明派”の追い落としも画策していた。
しかし、老中・水野忠邦は高島の門下で“西洋砲術”を学び、武雄領とも交流していた江川英龍を守った。
鳥居は、水野のこの対応も不満だったのかもしれない。
水野が失脚したため「天保の改革」は終焉する。
江戸の町人たちは、何かと締め付けられた“改革”から解き放たれ、快哉を叫んだ。
――しかし、この話には続きがある。
水野の後を継いだ老中・土井が火災の始末で対応を誤り、いきなり諸大名の支持を失った。
そして急遽、水野が再登板するのである。
「鳥居よ、どうなるかは…わかっておるだろうな!」
怒りに打ち震える、水野忠邦。
「いやいや水野様、あれには行き違いがござりまして…」
もちろん言い訳は通じない。水野の逆襲により、鳥居は失脚した。
かつて“マムシの耀蔵”と恐れられた鳥居は、九州から東北など各地の藩に預けられ、転々と飛ばされていく。
そして、四国で明治時代になるまで軟禁状態に置かれることとなった。
――武雄領。鍋島茂義の屋敷。

鍋島茂義は武雄領の“ご隠居”である。
しかし、次の領主である茂昌は、まだ10歳程度の子どもであった。
茂義の気持ちとしては、領主の政務よりも優先すべき“志”がある。
佐賀藩の技術開発は、国の守りとなるべきものだった。
「ほう、あの“マムシ”(鳥居)が追い落とされたか。」
何とも言えない表情をする、茂義。知らせに一瞬、頬が緩む。
そして、武雄領の家来を呼び出して伝える。
「平山醇左衛門の墓の建立を許す。」
「ははっ!えらく唐突でございますが…承りましてござる!」
――家来の足取りも軽い。すぐに平山の家の者に伝えにいく様子だ。
今は亡き家来・平山を想い、茂義は静かな決意を口にする。
「…平山よ。もはや、罪滅ぼしにもならんことは承知している。」
「しかし、儂は悟ったぞ。今後、如何なる“マムシ”が出て来ようが、もう、こちらの動きは掴ませぬ…」
その後に建立された、平山の墓。
深く編笠をかぶった立派な身なりの武士が、時折、墓参に来ていたようである。
――佐賀藩の“蘭学研究”の形成には、武雄領の“ご隠居”茂義が関わっていた。
長崎と佐賀をつないで、さらに秘密裡にネットワーク化が進む。
有望な者は長崎のみならず、江戸や大坂にも留学させていた。
こうして佐賀藩の「諸国遊学」の時代が始まったのである。
(続く)