2020年01月03日
「県内の各地域を表現する②」(須古編)
こんにちは。
私事ですが、昨日、友人たちと会って来ました。
――そして友人Aから指摘を受けました。
「幕末の佐賀では、登場人物の情報を検索しなければわからない。その時点でドラマ化は難しいのではないか」
…これが“教科書本文”に掲載の賢人で物語をつなぎたい理由の1つです。
参照記事:(「STEP2:幕末の俊英たち」、「佐賀の物語を描け!(独自色③)」)
――さらに友人Aは続けます。
「佐賀を舞台にするなら“超古代ファンタジー”がいいと思うけどね。」
…たしかに佐賀には “吉野ヶ里遺跡”や“徐福伝説”もあります。
佐賀の“古代史における潜在能力”が付加価値を生み出す可能性も否めません。
――さて、“超古代ファンタジー”に限らず、佐賀には“戦国”にも語るべき歴史があります。

※須古領(現:佐賀県白石町西部)の風景
佐賀の原風景である田園地帯が見えます。
しかし、ご注目いただきたいのは写真の撮影を行っている高台です。
この高台は、今を遡ること約450年ほど昔、城攻めの死闘が行われた場所。
“肥前の熊”と呼ばれた猛将“龍造寺隆信”様が獲得した「須古城」です。
――なんだ?幕末の話ではないのか?と思われた方。少々お待ちください。ここからです。
豪放磊落な猛将龍造寺隆信様には、相棒と呼ぶべき存在がいました。
それが、冷静沈着な智将鍋島直茂様。
双璧である二将の存在により「須古城」を拠点とした龍造寺氏は北部九州の覇権を握りました。
しかし、後に戦国の勝者・徳川家康公が語ったように、
「勝つことのみ知りて負けること知らざれば害その身に至る…」との警句もあります。
――これが戦国時代…
ある戦いで龍造寺隆信様は、鍋島直茂様の忠告を聞かずに敵陣(島津軍)に深入りし過ぎ、罠に嵌ります。そして、帰らぬ人となりました。
“猛将”の代わりとなる人物のいない龍造寺氏は、実質的に鍋島直茂様が率いていくこととなりました。後に「化け猫騒動」と呼ばれる伝説が生じたように、複雑な事情も色々とあったことでしょう。
紆余曲折を経たものの、こうして佐賀藩が成立します。
龍造寺氏の家臣団をそのまま引き継いだため、佐賀藩は龍造寺一門に“自治領”を配分しました。
これが前回の“武雄領”、今回の“須古領”の起こりです。
〇須古領~“努力一徹の補佐役”鍋島安房~
――そして、幕末。
“須古領主”の家に後継ぎの男子がいなかったため、佐賀本藩より養子が迎えられます。この方が後に“殿”鍋島直正様を補佐する佐賀藩のナンバー2になります。
「鍋島安房」と呼ばれることが多い“鍋島茂真”様。実は“殿”の異母兄で、1歳年上です。

※須古領主の屋敷は「須古城」の登り口の近くにありました。
財政再建と教育改革の両方の責任者を務める、いわば“殿”の右腕。
佐賀藩を支えた“努力一徹の補佐役”です。
仕事の成果は目覚ましく、
・藩の借財整理の実行役
・ハゼ蝋や陶器など特産開発
・組織改革で経費を節減
…長崎警備の負担等で大赤字だった、佐賀藩の財政を見事に立て直します。
――また、教育改革の責任者でもあります。
仕事が終われば若い藩士に混じって藩校・弘道館で猛勉強します。
責任者が模範を示して、真剣に努力するものだから、若い藩士も頑張るしかありません。
“幕末最高の実務能力”を育てた「猛勉強する佐賀藩」の雰囲気はこの方が作ったと言っても良いでしょう。
いずれ詳しくお話しする“義祭同盟”のきっかけになる“尊王の象徴”「楠木正成」公の像を設置したのも、鍋島安房様です。
佐賀の県庁通りには、佐賀の偉人たちの銅像が並んでいます。
残念ながら、現時点では鍋島安房様の銅像はありません。
しかし、地元・白石町を始め、佐賀県内の皆様に広く業績を知っていただきたい方です。
私事ですが、昨日、友人たちと会って来ました。
――そして友人Aから指摘を受けました。
「幕末の佐賀では、登場人物の情報を検索しなければわからない。その時点でドラマ化は難しいのではないか」
…これが“教科書本文”に掲載の賢人で物語をつなぎたい理由の1つです。
参照記事:(「STEP2:幕末の俊英たち」、「佐賀の物語を描け!(独自色③)」)
――さらに友人Aは続けます。
「佐賀を舞台にするなら“超古代ファンタジー”がいいと思うけどね。」
…たしかに佐賀には “吉野ヶ里遺跡”や“徐福伝説”もあります。
佐賀の“古代史における潜在能力”が付加価値を生み出す可能性も否めません。
――さて、“超古代ファンタジー”に限らず、佐賀には“戦国”にも語るべき歴史があります。

※須古領(現:佐賀県白石町西部)の風景
佐賀の原風景である田園地帯が見えます。
しかし、ご注目いただきたいのは写真の撮影を行っている高台です。
この高台は、今を遡ること約450年ほど昔、城攻めの死闘が行われた場所。
“肥前の熊”と呼ばれた猛将“龍造寺隆信”様が獲得した「須古城」です。
――なんだ?幕末の話ではないのか?と思われた方。少々お待ちください。ここからです。
豪放磊落な猛将龍造寺隆信様には、相棒と呼ぶべき存在がいました。
それが、冷静沈着な智将鍋島直茂様。
双璧である二将の存在により「須古城」を拠点とした龍造寺氏は北部九州の覇権を握りました。
しかし、後に戦国の勝者・徳川家康公が語ったように、
「勝つことのみ知りて負けること知らざれば害その身に至る…」との警句もあります。
――これが戦国時代…
ある戦いで龍造寺隆信様は、鍋島直茂様の忠告を聞かずに敵陣(島津軍)に深入りし過ぎ、罠に嵌ります。そして、帰らぬ人となりました。
“猛将”の代わりとなる人物のいない龍造寺氏は、実質的に鍋島直茂様が率いていくこととなりました。後に「化け猫騒動」と呼ばれる伝説が生じたように、複雑な事情も色々とあったことでしょう。
紆余曲折を経たものの、こうして佐賀藩が成立します。
龍造寺氏の家臣団をそのまま引き継いだため、佐賀藩は龍造寺一門に“自治領”を配分しました。
これが前回の“武雄領”、今回の“須古領”の起こりです。
〇須古領~“努力一徹の補佐役”鍋島安房~
――そして、幕末。
“須古領主”の家に後継ぎの男子がいなかったため、佐賀本藩より養子が迎えられます。この方が後に“殿”鍋島直正様を補佐する佐賀藩のナンバー2になります。
「鍋島安房」と呼ばれることが多い“鍋島茂真”様。実は“殿”の異母兄で、1歳年上です。

※須古領主の屋敷は「須古城」の登り口の近くにありました。
財政再建と教育改革の両方の責任者を務める、いわば“殿”の右腕。
佐賀藩を支えた“努力一徹の補佐役”です。
仕事の成果は目覚ましく、
・藩の借財整理の実行役
・ハゼ蝋や陶器など特産開発
・組織改革で経費を節減
…長崎警備の負担等で大赤字だった、佐賀藩の財政を見事に立て直します。
――また、教育改革の責任者でもあります。
仕事が終われば若い藩士に混じって藩校・弘道館で猛勉強します。
責任者が模範を示して、真剣に努力するものだから、若い藩士も頑張るしかありません。
“幕末最高の実務能力”を育てた「猛勉強する佐賀藩」の雰囲気はこの方が作ったと言っても良いでしょう。
いずれ詳しくお話しする“義祭同盟”のきっかけになる“尊王の象徴”「楠木正成」公の像を設置したのも、鍋島安房様です。
佐賀の県庁通りには、佐賀の偉人たちの銅像が並んでいます。
残念ながら、現時点では鍋島安房様の銅像はありません。
しかし、地元・白石町を始め、佐賀県内の皆様に広く業績を知っていただきたい方です。